わたしの俳句理解は間違った俳句理解のようです。どうもそんな気がします。
それでも俳句をひもといています。わたしなりの解釈を施して、それで俳句理解をした気分になっています。これは気分理解という間違った理解法です。
いんですよね、それでわたしが俳句をよしとしてうけいれているのならば。案外、人それぞれに自由裁量が広くゆるされているのも俳句の魅力なのかもしれません。
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妻に会うためのまなぶた日向ぼこ
伊藤伊那男
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「まなぶた」は「目蓋」「目の蓋をする部分」「瞼」だろう。目が開いているときには目蓋は隠れて見えていない。ということは? 作者はいま目を閉じているところだ。ものを思っているところだ。行動に出る前の段階だ。作者はこれから妻に会う。妻だからすぐにも会えそうだが、心構えをしておかないと会えない妻になっているらしい。妻は重い病に伏しているのだ、きっと。病室に入っていく前に、彼は日射しの足る日溜まりに来て、閉じている目蓋を温める必要があったのだ。日溜まりの綿の匂いを薫らせつつ、彼は妻の前に進み出た。妻の目蓋も閉じていた。
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伊藤伊那男は東京神保町に「銀漢亭」という飲み屋を営んでいた。妻に先立たれた句がある。
かの日より香水減らず妻の部屋