<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしを生かしている大いなる命。その8

2020年04月12日 20時19分49秒 | Weblog

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山田無文老師にはお会いしたことがある。九州地方のお寺に来られて説法をされた折りに。

あろうことか、説法終了後に、面会を申し出て、それが許された。

悩み多い若い頃に、説法集をよく読ませて頂いた。

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大いなるものに抱かれあることを今朝吹く風の涼しさに知る

わたしを超えた大いなる命が、「わたしという一点に集約されている」という発見は、彼をどれほど歓喜させたことだろうか。

 

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わたしを生かしている大いなる命。その7

2020年04月12日 20時18分31秒 | Weblog

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大いなる命がわたしを生かしているから、何があっても大丈夫だと思えるようになる。

大いなる命は、吹いて来る朝風をも大いなる命にして、抱きとってくれるのである。

 

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わたしを生かしている大いなる命。その6

2020年04月12日 20時15分50秒 | Weblog

確信を持つとそうなって行く。

それがまた大いなる確信となって行く。

次々と確信が大きくなって行く。

 

その最初を、その人に与えてもらっていたのだ。

 

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わたしを生かしている大いなる命。その4

2020年04月12日 20時13分40秒 | Weblog

山田無文老師は妙心寺の管長をなさった方、花園大学の学長にもなられた方。

この歌は、老師が若い頃に結核に罹って、隔離されていたころの作。

朝、風が吹いていたのである。その風が口を作って、病んでいる老師に一言「大丈夫だよ」と言ってくれたのである。

誰が見捨てても、「わたしが見守っている」と告げて来たのである。

老師はそれを信じた。まるまる信じた。そうしたらそのようになったのである。

結核は治癒されたのである。

 

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わたしを生かしている大いなる命。その3

2020年04月12日 20時11分05秒 | Weblog

そうすると腹の底に大きな勇気が生まれて来るのである。

大きな勇気が産まれてきた人間は、輝き出す。

光を放ち出す。外へ外へ光を放つようになる。

 

 

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わたしを生かしている大いなる命。その2

2020年04月12日 20時01分52秒 | Weblog

それがわたしをも生かしているのである。

わたしを両手で抱いていてくれているように感じるのである。

抱かれていると感じれば、大いなる命と直接繋がってしまうのだ。

 

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わたしを生かしている大いなる命。その1

2020年04月12日 19時33分46秒 | Weblog

大いなるものに抱かれあることを今朝吹く風の涼しさに知る   山田無文老師

大いなるものとは?

それを感じると、風すらも涼しいのである。

大いなるものとは、大いなる命か。

この世にあるものすべてを生かそうとするエネルギーのことか。

 

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帰って行くところがあるか、さぶろう? ラスト

2020年04月12日 19時27分17秒 | Weblog

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帰って行くところがあるか、さぶろう?

答が出せないさぶろうに、阿弥陀仏が口を酸っぱくして語りかけて来る。

「連れて帰るぞ、仏として連れて帰るぞ」と、仏の言葉で、答えて来る。

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帰って行くところがあるか、さぶろう? その9

2020年04月12日 19時25分50秒 | Weblog

「まかせよ、必ず救う」の呼び声が念仏である。

そうであるのに、いつまでたっても、疑いが消えない。

阿弥陀仏なんかあるものかと思ってしまう。

阿弥陀仏は仏であって、たしかに目に見える姿をしていない。物体物質としては認識が出来ないのである。

 

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帰って行くところがあるか、さぶろう? その8

2020年04月12日 19時24分13秒 | Weblog

南無というのは帰命ということである。

こちらの疑いを棄てるということである。自力を棄てるということである。

自分の力であれこれしなくてもすんでいるということである。

 

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