11
山田無文老師にはお会いしたことがある。九州地方のお寺に来られて説法をされた折りに。
あろうことか、説法終了後に、面会を申し出て、それが許された。
悩み多い若い頃に、説法集をよく読ませて頂いた。
12
大いなるものに抱かれあることを今朝吹く風の涼しさに知る
わたしを超えた大いなる命が、「わたしという一点に集約されている」という発見は、彼をどれほど歓喜させたことだろうか。
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山田無文老師にはお会いしたことがある。九州地方のお寺に来られて説法をされた折りに。
あろうことか、説法終了後に、面会を申し出て、それが許された。
悩み多い若い頃に、説法集をよく読ませて頂いた。
12
大いなるものに抱かれあることを今朝吹く風の涼しさに知る
わたしを超えた大いなる命が、「わたしという一点に集約されている」という発見は、彼をどれほど歓喜させたことだろうか。
10
大いなる命がわたしを生かしているから、何があっても大丈夫だと思えるようになる。
大いなる命は、吹いて来る朝風をも大いなる命にして、抱きとってくれるのである。
9
確信を持つとそうなって行く。
それがまた大いなる確信となって行く。
次々と確信が大きくなって行く。
その最初を、その人に与えてもらっていたのだ。
6
山田無文老師は妙心寺の管長をなさった方、花園大学の学長にもなられた方。
この歌は、老師が若い頃に結核に罹って、隔離されていたころの作。
7
朝、風が吹いていたのである。その風が口を作って、病んでいる老師に一言「大丈夫だよ」と言ってくれたのである。
誰が見捨てても、「わたしが見守っている」と告げて来たのである。
8
老師はそれを信じた。まるまる信じた。そうしたらそのようになったのである。
結核は治癒されたのである。
5
そうすると腹の底に大きな勇気が生まれて来るのである。
大きな勇気が産まれてきた人間は、輝き出す。
光を放ち出す。外へ外へ光を放つようになる。
4
それがわたしをも生かしているのである。
わたしを両手で抱いていてくれているように感じるのである。
抱かれていると感じれば、大いなる命と直接繋がってしまうのだ。
1
大いなるものに抱かれあることを今朝吹く風の涼しさに知る 山田無文老師
2
大いなるものとは?
それを感じると、風すらも涼しいのである。
3
大いなるものとは、大いなる命か。
この世にあるものすべてを生かそうとするエネルギーのことか。
10
帰って行くところがあるか、さぶろう?
答が出せないさぶろうに、阿弥陀仏が口を酸っぱくして語りかけて来る。
「連れて帰るぞ、仏として連れて帰るぞ」と、仏の言葉で、答えて来る。
9
「まかせよ、必ず救う」の呼び声が念仏である。
そうであるのに、いつまでたっても、疑いが消えない。
阿弥陀仏なんかあるものかと思ってしまう。
阿弥陀仏は仏であって、たしかに目に見える姿をしていない。物体物質としては認識が出来ないのである。
8
南無というのは帰命ということである。
こちらの疑いを棄てるということである。自力を棄てるということである。
自分の力であれこれしなくてもすんでいるということである。