<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

不動明王の経典を読む。その2

2020年04月06日 19時51分29秒 | Weblog

お釈迦様が説法をされるときに、その場に、不動明王がお立ちになられた。

この不動明王は五大明王の中心になる明王で、偉大な威力を発揮する明王である。

衆生を憐れむが故に、青と黒の忿怒の形をして、衆生の悪業煩悩を降伏(ごうぶく)するのである。

揺るがぬ禅定精進を示して、金剛不動の石に坐しているのである。

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不動明王の経典を読んでみたくなりました。

2020年04月06日 18時07分01秒 | Weblog

今日は不動明王を讃える経典を読んでみたくなりました。「仏説聖不動経」を開きます。これは日本で編まれた経典です。不動明王信仰の中心地は日本です。

爾時大会 にじだいえ

有一明王 ういつみょうおう

是大明王 ぜだいみょうおう

有大威力 うだいいりき

大悲徳故 だいひとくこ

現青黒形 げんしょうこくぎょう

大定徳故 だいじょうとくこ

坐金剛石 ざこうごうせき

爾(そ)の時に大会(だいえ)に、一明王有り。

是(これ) 大明王なり、大威力(だいいりき)有り。

大悲の徳の故に、青黒(しょうこく)の形を現ず。

大定の徳の故に、金剛石に坐せり。

ここからこの経が始まります。

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砂山の砂に遊ぶ雀たち 白秋の童謡を歌う。

2020年04月06日 17時24分41秒 | Weblog

童謡「砂山」  北原白秋 作詞

海は荒海 向こうは佐渡よ

雀啼け啼け もう日は暮れた

みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

 

暮れりゃ砂山 汐鳴りばかり

雀散り散り また風荒れる

みんな散り散り もう誰も見えぬ

 

帰ろ帰ろよ 茱萸原わけて

雀さよなら さよならあした

海をさよなら さよならあした

 

ああいいなあ。いいなあいいなあ。いい詩だなあ。白秋という詩人は悲しい歌を書くんだなあ。魂に染み込んでくるなあ。汐鳴りの音が静かに幾度も幾度も、わたしのこころの大きな白い布に染み込んでくるなあ。

こんな詩が書けたらいいなあ。どんなにいいだろうなあ。

荒海の向こうは佐渡。打ち続く白い砂山。砂山には雀がいたんだ。砂山には茱萸が実をつけていたんだ。遊んでいたこどもたちが、お星さまを仰ぎながら帰って行ったんだ。うしろからど~ど~んと汐鳴りが追い掛けて来たんだ。ああ、イメージが広がるなあ。

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玄関の牡丹花開花す。

2020年04月06日 16時49分32秒 | Weblog

玄関まで歩いて行けない。玄関には牡丹の鉢か置いてある。

牡丹は蕾を着けていたので、そろそろ開花を迎えているはずである。

で、家族の者に頼んで、写真を撮って来てもらった。

案の定だった。

ピンクと白が混じり合った珍しい牡丹花だった。

ああ、嬉しい。

主なしとて春な忘れそ。

美しく咲いてくれていたのだ。

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何を笑ってた? 一人笑いしたかったから笑ってた。

2020年04月06日 16時48分39秒 | Weblog

わはは、わはは。

けひけひけひ、ひ。くふふふ、くふふ、ふ。

笑いはいいね。

暇だから、一人で笑ってた。

何を笑ってた?

対象はなし。

笑いたかったから笑った。

剛胆の呵々大笑、「わはは」「わっはっは」もいいが、もうちょっとトーンを下げた「けひけひ」もいい。「くふふ」もいい。

決め手は対象なし。無心。無想。こころを澄んだ青空にして我が笑いを響かせる。

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解脱は、この三界からの脱出である。

2020年04月06日 16時40分58秒 | Weblog

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「解脱」は、輪廻からのさようならである。

われわれは三界(欲界・色界・無色界)を、回る車輪のように輪廻して、がったんごっとん経巡って行く。

太陽系軌道からの脱出のようなものだ。そうでないとこの三界の軌道内をぐるぐるぐると経巡って行く。

終わりのない円周回遊旅行はしたくない、というなら、解脱(輪廻からの脱出)をするしかない。

解脱を為し終えたあとの段階に進めたら、仏界である。そこで仏智の仏陀となる。大悲の如来となる。

今日はこんなことを考えた。当て推量だから間違いだらけである。みなさんはみなさんでここんところを思量してみてくださいね。

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無色界の住人は、永遠のいのちに価値を見い出し得ない。

2020年04月06日 16時28分34秒 | Weblog

で、形のある色界へ下りて来たくなる。障害物だらけの欲界を憧れる。

(・・・・とかなんとか、見て来たような嘘を吐いているが、もちろんこれは邪推である。形がない、肉体がないとこうなるだろうという想像である)

無色界の住人は、永遠のいのちを持っているが、そこに価値が見出せないのだ。見出しているのは、死がある肉体の、この欲界だけである。

 

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無色界には、悲喜がない。悲喜があるのは欲界。

2020年04月06日 16時25分56秒 | Weblog

無色界には悲喜がないのだ。悲しみもないが、喜びもない。苦しみもないから、苦を飛び台としている楽しみもない。

のんべんだらりとしているから、修行には向かない。心地よいばっかりなのだ。

それ故、何年経過してもちっとも成長がない。もとのまんまだ。抵抗する向かい風が吹いてこないと、飛行機は前進していけない。これといっしょだ。

 

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無色界、精神のみの世界には、死がない。

2020年04月06日 16時15分53秒 | Weblog

もちろん寿命というのもない。生老病死するのは、物質だけの現象である。永遠にここにいてもいい。無色界は透明なのだ。

そのくせ見えている。想像を働かせることが出来るからだ。食べたい料理も出現させられる。でも、それで腹が満ちるわけではない。肉体じゃないんだから。

だから当然、死が来ない。死なない。希望しない限りは死なないでいい。そういうことになる。物質の肉体じゃないんだから。その代わり退屈だ。

 

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無色界には、空間がない。場がない。

2020年04月06日 16時09分57秒 | Weblog

無色界には空間がない。いらないからだ。ここに住む者は、物質ではないから、物質に必要な場所が不要となっている。

われわれ欲界に住む人間は、形を持つ。物質だから。宿るべき肉体が欠かせない。でも、精神だけになったら、宿も要らない。

だから人口密度はどれだけ濃かったとしても困らない、無色界では。うようよしていても、誰も居ないのと同じである。

 

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