<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

初物のタケノコを味噌汁にして食べました。

2020年04月10日 17時48分06秒 | Weblog

タケノコを頂いて来ました、でかいのを。

5株も。どさりと。

 

山へ行って、鍬で掘り上げて来たばかるのものを。

 

早速、包丁を使って、ざっくり皮剥きをしました。

 

これを、家内が、大鍋で茹でました。米糠を加えて。

 

一晩、そのままにして、冷えるのを待って、今朝、味噌汁の具になりました。

 

えぐみも取れていました。おいしく食べました。初物です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森の花、シャガの花が咲いたよ、庭に。

2020年04月10日 17時08分59秒 | Weblog

我が家の庭の片隅を占領している花、シャガの花。

 

静かで、清楚な、森の花。

 

白と青が混じっている。

ところで、花は、どうして静かにばかりしているのだろう?

 

自己宣伝しなくてすむのは、どうしてだろう?

 

花が咲いたということで、完了なのかなあ?

 

それ以上がない。それ以上を欲しがっていない。そんなふうに見える。

 

雑念を起こさず、はじめから終わりまでずっと落ち着いていられるようだが、どうしてなんだろうねえ?

背景にあるのは、南天の赤い葉っぱです。

 

もう1つの青あ葉っぱは、鹿の子ユリの葉っぱです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森の花、シャガの花が咲いたよ、庭に。

2020年04月10日 17時08分59秒 | Weblog

我が家の庭の片隅を占領している花、シャガの花。

 

静かで、清楚な、森の花。

 

白と青が混じっている。

ところで、花は、どうして静かにばかりしているのだろう?

 

自己宣伝しなくてすむのは、どうしてだろう?

 

花が咲いたということで、完了なのかなあ?

 

それ以上がない。それ以上を欲しがっていない。そんなふうに見える。

 

雑念を起こさず、はじめから終わりまでずっと落ち着いていられるようだが、どうしてなんだろうねえ?

 

背景にあるのは、南天の赤い葉っぱです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おお、下手の長談義。オヒラキにしよう。

2020年04月10日 12時03分30秒 | Weblog

10

「わたし」を「究め尽くされた仏さま」になさるのは、仏さまのお仕事だったのだ。

わたしはそれに乗っかかって、下駄を預けて、大悟して、成り切ってしまうのだ。

(この大悟は、仏さまのそれを借用しているだけだが)

おお、下手の長談義!

ここらでオヒラキとしよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結論その2も用意してみた。

2020年04月10日 11時59分33秒 | Weblog

結論その2もある。それはこうだ。

 

「仏さまと仏さま」を「仏さまとわたし」の図式にするのは、仏さまのお仕事である。そう思ってお任せしてしまおう。

 

そうなのだ、仏さまに成り切ってしまうのだ。

「究め尽くされた仏さま」に成り切ってしまうのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

此処での結論その1を出してしまおう。

2020年04月10日 11時53分22秒 | Weblog

此処での結論その1を出してしまおう。

「わたし」が此処に介入しなくても宇宙は回っているのだ。

「仏さまと仏さま」がいてくださっていれば、わたしはこの地球に生きられたのである。生まれて死んで行けるのである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理屈をつけてから、春の日の光を受けているのか?

2020年04月10日 11時51分52秒 | Weblog

では聞く。

お前は、春の日の光を受けているが、では、理屈をつけてから光を受けているか?

光という大悲を受けているのか?

理屈をつけたことはない。何故光を受けているのかの義を立てて、光を受けてはいない。

そのずっとずっと前に、光がわたしに届いて来ていたのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理屈をつけてから、春の日の光を受けているのか?

2020年04月10日 11時51分52秒 | Weblog

では聞く。

お前は、春の日の光を受けているが、では、理屈をつけてから光を受けているか?

光という大悲を受けているのか?

理屈をつけたことはない。何故光を受けているのかの義を立てて、光を受けてはいない。

そのずっとずっと前に、光がわたしに届いて来ていたのだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「仏さまとわたし」ではないのはどうしてか? その5

2020年04月10日 11時40分32秒 | Weblog

信は、我が義を棄てるところから始まって行く。

というのに、わたし判断第一主義の、この我が義が棄てられない。

「わたし」を「仏さま以上の智者」として譲らないのだ。

これでは仏の悟りと仏の慈悲が受けられない。仏の救済にはあずかれない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「仏さまとわたし」ではないのは、どうしてか? その4

2020年04月10日 11時24分01秒 | Weblog

仏を分かったつもりになってからでないと、念仏が出来ない。そういうわたしがいる。

これでは「仏さまとわたし」にはなれない。

「乃ち能く究め尽くす」ことにはなれない。

「究め尽くして、安らかな立ち位置に立つ」ことができない。

 

この世を安心しきって生きて、安心しきって死ぬことができない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする