明日は雪になる予報。ここ九州にも寒波再襲来。でも、前回より強くはないらしい。引き籠もりの老爺はあまり影響を受けないが、外に出て活動する方たちは難儀をする。交通が第一乱れてしまう。道路凍結で事故を招きかねない。自転車通学の若者たちも怪我をしかねない。どうか雪が積もりませんように。積もってもすぐ解けてしまいますように。運動場で雪合戦をして楽しめる小学生児童は、降る雪を待ちわびているかも知れないが。
一日さん有り難うございました。日が落ちて夜になりました。晩ご飯も頂きました。牡蠣ご飯でした。おいしくて、一口また一口味わって食べました。一日を過ごせたことを感謝したくてなりません。それで、一日に「さん」付けをしてしまいました。
茶花の「侘び助」が庭に咲いている。いかにも慎ましげである。咲いているのかいないのかよく目を凝らさないと分かりにくい。淡いピンク色。花の口も淑やかである。いわゆるおちょぼ口。花の顔も小さい。これが茶室に掲げられると客が褒める。やっと褒められる。柱の花生けに一輪。それで引き立つ。艶容がやっと引き立つ。我が家の庭のように雑然としたところでは、粛然とした花の風情が殺されてしまいかねない。山里にいては惜しい。物の真価を解さない我の、その冬の庭に、声も挙げずに住んでいるのはいかにも可哀想な気がする。
衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じたまふ。 法然上人のことば。
*
1
わたしが仏を念(おも)う。すると仏がわたしを念(おも)われる。相思相愛の間柄となる。
2
わたしが「念仏」すれば、仏が「念私」される。そういうスイッチが入る。
3
仏と私との間にベルトが懸けられる。モーターが動き出す。ベルトが回り出す。
4
仏の力がそのままわたしへ伝わってくる。日々の暮らしの中で入力されて出力される。
5
そういう相互運動の方程式が出来ている。その方程式は、しかし、仏が案出された方程式である。それに乗っかかるだけでいいのだ。
6
では、問う。わたしが仏を念じなければ、仏もわたしを念じないのか。
7
仏はわたしを念じるのである。念じているのである。仏の願い、仏の救済は、無条件である。わたしが仏を念じようが念じまいが不変である。
8
ただ、わたしが仏を念じるとわたしにその仏が見えてくるのである。仏の働きが見えてくるのである。嬉しくなるのである。忝くなるのである。お任せをしていていいと言う安心が生まれて来るのである。
9
わたしと仏の間にはベルトが懸かっているのだ。これは変わらないのだ。それが真如界の法(ダンマ)の働きなのだ。ここに一切をゆだねているのだ。
10
わたしは何処から来て何処へ向かうのか。その問いの答が、仏の法によって明確に提示されているのだ。
11
曰く、故郷の仏国土(真如界=浄土)から来て、故郷の浄土に向かって帰って行くのである。
12
わたしたちは仏国土を行き来している者である。そう決定した者である。仏性を発露させて仏道の修行をしている者である。向上の道を辿っている者である。
*
暇にまかせて、そんなことを考えた。暇だなあ。分かりきったことを再確認してみた。ときどきそれを忘れてしまうことがある。分かりきっていることなので、ついつい、蔑(ないがし)ろに疎(おろそ)かに念うことがあるからだ。
仏がわたしを念じていてくださるのである。いつもいつもこれは不変である。この悪たれのわたしを、煩悩まみれのわたしを、何処までも悪態をつくわたしを、である。
雨の音が再び聞こえている。また降り出したようだ。そうだろう、あのどんよりした空だから、いつ降り出してきてもおかしくない。
掃除機を掛けて部屋の掃除をしてもらった。といっても、ベッドあり、炬燵あり、炬燵の周囲の廣い敷き布団あり、塵取りあり、鞄あり。物がたくさん散らかっているので、掃除機が当てられるのは僅かだが。それでも清潔になったようで嬉しい。
烏が近くに来てカアカア鳴いている。餌が欲しいよということだろうか。冬場の彼らの食糧は何だろう。我が家の畑に降りて来ることは滅多にない。外の猫餌を漁(あさ)りに来ることはままあるようだ。ブロッコリーの葉っぱを啄みに来ていたヒヨドリも、この頃は来ない。
人間はどうか。餌を漁って、朝昼晩、空を飛び回るというような行動はしなくていい。食糧がないと生きて行けないところは共通しているが。人間は貯蔵が出来る。貯蔵が出来るので、欲がついた。貯蓄を覚えた。すると、駆け引きの悪智慧が有る者とない者とで貧富の差が生じた。悪智慧とばかりは言い切れまいが。
雨の音はしていない。しばらく止んでいるようだ。窓の向こう、空の色は相変わらずどんよりしている。重たそうだ。風はない。庭の南天も騒がずにいる。部屋の中は寒い。炬燵から出している手先が痺れる。
朝ご飯は、白ご飯の上に高菜の一夜漬けを載せて頂いた。胡麻と鰹節を和えて。高菜の緑の匂いがした。漬けた高菜はそれほど生長していない中くらいの、柔らかそうなのを、畑から抜いて日陰干しにしておいた。有明海苔を加え、濃いお茶でお茶漬けにして啜った。おいしかった。味噌汁の具は白菜と削ぎ牛蒡だった。細く細く削いであったので余計に牛蒡の匂いがした。
今日は町の銀行へ行く。お金の工面が必要になった。寒いから、午後からにしよう。お金もないと暮らして行けない。贅沢は禁物だが、日帰り温泉くらいには行きたい。しかし、これも風邪が完治してからにしたい。「NPOカタリバ」はこどもたちの貧困と向き合って活動している団体だ。僅かでも支援をしたいと思う。
偶々読んでいる論語にこうある。
子曰く、君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言、小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言。
貝塚茂樹氏の解説ではこうなっている。
君子には三種類の敬虔さが要求される。天命に対して敬虔であり、大人に対して敬虔であり、聖人の言葉に対して敬虔であるということである。小人は天命を解しないのでこれに敬虔ではなく、大人になれてずうずうしくなり、聖人の言葉を軽視する。
* 「大人(だいじん?)」は賢人、人間を超えた超越的権威者。(貝塚説)。天命を知る者の謂だろうか。
* 「畏れ」;人間を超えた者に対する恐れ。敬虔の感情に近い。「憚(はばか)る」意識か。(貝塚説)
* 天命; 人間の意思を超えた秩序。中国の古代人は、天の神が人間に与えた命令と理解した。(貝塚説)
☆☆☆
「則天去私」を掲げた日本の文人がいたことを思いだした。天の命令するところに則(したが)っていけば、おのずと私情・私意から離れ去ることが出来るのだろうか。私情・私意に翻弄されてばかりのわたしは、まことに天命に則っていない証拠だだろう。それ以前に、「天の命令を聞く耳=天耳」というのを開発しておかねばなるまい。でなければ、聞くに聞けまい。では、どうすればいいか。まずもってそこから始めねばならない、わたしの場合は。
里芋の味噌汁がうまい。うまいうまい。味噌は白味噌。里芋は友人から頂いて来たもの。薄く切ってある。昨夜の夕食に味わった。朝は、焼き芋を勝手に3つ囓ってすませていた。それが夕食に回って来た。冷えていたのに、それがまたおいしく感じられた。
雨の音雨の音雨の音。ベランダはスレート葺きなので音が高く響く。地球がぐるりと回転して、わたしの家は朝になっている。もうすぐ6時半だ。でもまだ外は暗い。地球が太陽の周囲をゆっくり進んでも今日はもう1月22日、月曜日。雨なのであまり寒くはない。
僕はものを知らない。学んでいない。それで詰(なじ)られ、いびられることが多かった。「おい、きみはそんなことも知らないのか」の煮え湯を浴びた。赤恥の掻き通しだった。そのたんびに湯蛸になった。さっき、夢を見ていた。またその煮え湯を浴びてしまった。老いた湯蛸が今度は青ざめていた。誰もが周知していることを一人知らないからどうしようもないのだ。実際、間違いが多かった。隠している馬脚がすぐに露わになった。
ひとりになってよかった、もう人前で恥を掻かなくていいと思っていたら夢に追いかけられる。起きても口の中がカラカラだ。水をがぶがぶ飲んだ。
雨の音雨の音雨の音。今日は一日降るのだろうか。気温が緩んでくれるのは有り難い。嬉しい城原川の川土手があちらこちらに菜の花を咲かせてかかるかも知れない。
目が覚めてしまった。そりゃそうだろう、宵の口からお布団にお世話になっていたんだもの。4時間は経っている。ダムも満水した。怠け者はお風呂に入って暖まるとすぐに目蓋が閉じて来る。それだから、深夜に及ぶとこうして目がさえてしまう。そういう必然をもたらす。で、仕方がないから、枕元の本を取る。これにしばらくお守りをしてもらうことになる。
大抵は仏教の本だ。仏さまの声を聞く。耳を立てる。ああそうだなあ、そうだったんだなあと思い知らされる。何にも知らずにきたんだなあと恥じる。甘ったれてばかりだったんだなあと詫びる。忝くなる。嬉しくなる。元気をもらう。しみじみとなる。するうちにまた睡魔が訪ねてくる。この繰り返しだ。
ときおりあの人のことこの人のことが思い出されてくる。わたしの人生の舞台に登場をしてきた人たちだ。静かに思いを致す。頭を垂れる。恥じる。詫びる。温まる。懐かしさでいっぱいになる。よくしてもらったなあと思う。それにしてはお礼をして来なかったなあとも思う。すまなさで溢れる。己の厚顔さが情けなくなる。