<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今日からベッド生活に 折り畳み式を買ってきた

2018年01月16日 22時24分51秒 | Weblog

お医者さんからもらった薬が効いたのだろう、急速に症状が改善した。呼吸も楽になった。喉の痛み、胸の痛みがとれている。しめしめ。現金なもので、夕食どきには缶ビールも飲んじゃった。おいしかった。数日間飲んでなかったので、すばやい酔いを覚えた。

気分がよくなった夕方にはぶらりと外出した。ドライブしてきた。ホームセンターに行って、衝動買いをしてしまった。展示してあった簡易折り畳み式ベッドに寝転んでみたら、なかなか寝心地がいい。在庫がありますと店員さんが言って勧めるので、とうとうその気になってしまった。帰宅後組み立てた。今夜はそれに寝ている。腰をかけるのも楽だ。年寄りにはこれが向いているかもしれない。高齢者福祉施設に入ったようにも感じる。

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なあんだということになるのかもしれない

2018年01月16日 11時56分02秒 | Weblog

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃       親鸞聖人の著された「正信念仏偈」より

わくぜんぼんぷしんじんぽつ しょうちしょうじそくねはん

惑染の凡夫 信心を発(ひら)けば、生死は即涅槃と証知せしめん。

煩悩に染まり惑う凡夫であっても、ひとたび信心を発(ひら)かせてもらうと、生死という迷いの中の暮らしながら、暮らしを通しているうちに、「人間はみな仏の智慧である涅槃を我が身に受けた者」ということを実証するだろう。それをそうせしめる阿弥陀仏がおられるからである。そういう本願を建てておられたからである。  (さぶろうの己に言い聞かせる解釈。客観ではない。信憑性はない)

「生死即涅槃」とある。生死がそのまま涅槃である、と。そんなはずがないではないかと思う。生死流転は我が迷いの暮らしである。死後の一大事も解決をしないで、うろうろしている。青ざめている。そういう自分には涅槃はない。生きたままでの涅槃はあり得ないではないか。では、生きている内に、信心を開くことによって、「未来のわたしの仏性」を悟るということなのだろうか。親鸞聖人の指し示しておられるのは、しかし、そんな未来の話ではないのかも知れない。同時性がそこに成立しているのかも知れない。真意は分からない。

生死が涅槃であった、涅槃界の暮らしは実は生きているうちのことだった、ということが阿弥陀仏に遭ったときに領下させられるのかもしれない。なあんだということになるのかもしれない。そうであるのなら、心配顔をして青ざめて暮らしていることもなかったということを知るのかも知れない。

信は、しかし、遠い未来のわたしのことではないはず。今現在のわたしの信であるはず。それを親鸞聖人は念仏偈で何度も何度も繰り返して説かれているのかも知れない。わたしと阿弥陀仏が等しく此処で仏の涅槃(=仏の悟り)を享受しているはずではないか。反り会ってなんかいないはず。わたしは阿弥陀仏と一つの暮らしをしているはず。そんなことも考えた。わたしの迷妄の霧は霽れていない。

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このまま一人でいるのがずっと楽だろう

2018年01月16日 11時38分31秒 | Weblog

僕は人間が堅い。財布の紐が固いというのではなく、石頭ということである。面白みがてんでない。柔らかみがない。ふっくらとしていない。ゴツゴツしている。表情も冷たい。だから、僕と話したってきっとつまらないだけだろうと思う。がっかりさせるだけだろう。その人は、時間を潰して損した気分になって帰ることになるだろう。だから、なるべく人とは話さない。楽しい話題を提供できないから。人を浮き浮きさせて上げられないから。

で、大概一人でいる。今日も一人だ。会ったら人を面白がらせてあげねばならない、愉快にさせてあげねば悪い、そういうふうに思ってしまう。それがこっちの負担になってしまうのだ。いやはや、見るからにぶっきらぼうな男だ。これでいいか。よくはない。なんとかしなくちゃならないとは思っている。改善しなければならない。人間改良に努めねばならない。でもそういう努力をするのが面倒だ。それにこの高齢だ。このまま一人がずっと楽だろう。

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明るい日が差し込んでいる 予定通りかな

2018年01月16日 11時26分13秒 | Weblog

明るい日が差し込んできている。予報通りになるのかな。今日は3月の季候になるらしいが。ベランダの濡れ縁にいる猫がさっきから何度も何度もにゃあにゃあ鳴いている。何を言いたいのかは分からない。猫語を知らないから。僕は猫を可愛がらない。でも僕の部屋の前にいつも来ている。ちょいちょい外に出た折になんか、じっとしている猫の頭を撫でたりはしている。でも餌をやることはないから、餌をねだっていることはないだろう。「ちょっと温かくなってきたから、ねえ、あなたもじっとしていないで、ここへお出でなさいよ、気晴らしにはなるよ」などと誘いかけをしているのかも知れない。炬燵の番ばかりしている僕を見かねて。また鳴きだした、今度はもっと高い声を張り上げている。どうしたんだろう。日頃おとなしい猫なのになあ。もしかしたら何か嬉しいことでもあったのかなあ。それともこれからそういうことが待ち受けていてそれを敏感に察知してのことかなあ。僕は買って来た蜜柑クレメンチンの皮を剥いて食べている。

 

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