惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 親鸞聖人の著された「正信念仏偈」より
*
わくぜんぼんぷしんじんぽつ しょうちしょうじそくねはん
惑染の凡夫 信心を発(ひら)けば、生死は即涅槃と証知せしめん。
煩悩に染まり惑う凡夫であっても、ひとたび信心を発(ひら)かせてもらうと、生死という迷いの中の暮らしながら、暮らしを通しているうちに、「人間はみな仏の智慧である涅槃を我が身に受けた者」ということを実証するだろう。それをそうせしめる阿弥陀仏がおられるからである。そういう本願を建てておられたからである。 (さぶろうの己に言い聞かせる解釈。客観ではない。信憑性はない)
*
「生死即涅槃」とある。生死がそのまま涅槃である、と。そんなはずがないではないかと思う。生死流転は我が迷いの暮らしである。死後の一大事も解決をしないで、うろうろしている。青ざめている。そういう自分には涅槃はない。生きたままでの涅槃はあり得ないではないか。では、生きている内に、信心を開くことによって、「未来のわたしの仏性」を悟るということなのだろうか。親鸞聖人の指し示しておられるのは、しかし、そんな未来の話ではないのかも知れない。同時性がそこに成立しているのかも知れない。真意は分からない。
*
生死が涅槃であった、涅槃界の暮らしは実は生きているうちのことだった、ということが阿弥陀仏に遭ったときに領下させられるのかもしれない。なあんだということになるのかもしれない。そうであるのなら、心配顔をして青ざめて暮らしていることもなかったということを知るのかも知れない。
*
信は、しかし、遠い未来のわたしのことではないはず。今現在のわたしの信であるはず。それを親鸞聖人は念仏偈で何度も何度も繰り返して説かれているのかも知れない。わたしと阿弥陀仏が等しく此処で仏の涅槃(=仏の悟り)を享受しているはずではないか。反り会ってなんかいないはず。わたしは阿弥陀仏と一つの暮らしをしているはず。そんなことも考えた。わたしの迷妄の霧は霽れていない。