<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

欲界 色界 無色界 われわれが経巡る世界=三界 その3 

2018年01月19日 19時23分49秒 | Weblog

われわれは生きているがやがて死ぬ。死ぬとわれわれは終わる、とそういうふうに思っている。それを恐れたりもするし、それでいいと思って安堵したりもする。死んでも終わりではないという説もある。永遠のいのちを説く考え方もある。永遠の命に、では、方向性があるか。もしなければ、ずっと彷徨っていくことになる。流転輪廻して経巡っていくことになる。前世の悪業善業に従って、生まれ変わり生まれ変わりしていくことになる。終点はあるのか。われわれは流転を解き放たれて、解脱の自由を得て、最後に仏陀に成るのか。なれるのか。永遠に行きつ戻りつして苦しんでいるのか。そうはありたくない。絶対安養の浄土に辿り着きたい。

しかし、いまのわたしは明らかに欲界の住人である。欲望でしか動いていない。

「欲界」 辞書にはこうある。

仏教の言葉で、三界の一。色欲・食欲の二欲の強い有情の住する世界。

上は六欲天から下は八大地獄まである。その中間に、人間の住まう世界・人間界がある。

「色界」

仏教語で、三界の一。欲界の上に位置している。欲望を離れているが、なお物質的な存在(=色)であって、色からは解放されていない。

四禅天に分かれ、さらに十七天に分かれる。色界天。色天。

「無色界」

仏教語で、三界の一。一切の色法(肉体・物質)の束縛を離脱している。受・想・行・識の四蘊だけで構成する世界。無色天。

これだけでは理解できない。もっと知りたい。

わたしはこれから先何処へ進んで行くのか。知りたい。肉体を持つわたし、物質界にいるわたしは、そこで終わりなのか。それとも何処かへ進もうとしているのか。では何処へ進もうとしているのか。

無色界へ進めば、無形だという。肉体の姿を持たないという。物質の束縛を受けないでいるという。そういう生き方もあるのか。そういう生き方をしていれば、そこでは苦悩というものから解放されているのか。三界は、しかし、流転の世界だという。彷徨い・流転の世界だという。流転の世界、そこは仏界ではない。仏界に向かうにはどうすればいいのか。

阿弥陀仏はわたしの流転の苦悩を救済して仏界に即時に一直線に往生させると説いている。欲界から二段階も飛び越えて仏界へ到達できるのか、果たして? わたしにはそこのところも分かっていない。

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欲界 色界 無色界 われわれが経巡る世界=三界 その2 

2018年01月19日 19時01分06秒 | Weblog

われわれ衆生は、仏教では、三界を流転していくと説いている。三界とは、1,欲界、2,色界、3,無色界を指す。

欲界と色界にいるときにはわれわれは有形(うぎょう)である。形があって目に見えている。しかし、無色界では無形(むぎょう)となる。すなわち姿を持たぬのである。

そうか、われわれは無形で生きているときもあるのか。そうであっていいはずだ。

ここらあたりをもう少し知りたい。三界のことをもう少し辞書を引いて見ていく。



「三界諸天」

仏教語で、三界にある諸種の天。欲界には六欲天。色界には十八天、無色界には四天があるとしている。合計二十八天。

(それぞれに高い位置と低い位置とがあるらしい。高いところが天だ)

「三界に家なし」

どこにも安住するべき家がないこと。女は三界に家なし。

「三界坊」

方々を彷徨い歩く者。乞食坊主。流浪人。

(彷徨うのだ、方々を当て所なく。当て所というのは目指すべき目的地と言うことだろう。今のわたしにはそれがあるか?)

「三界唯心」

仏教語で、三界の一切の存在は自分の心に映る映像で、自分の心の外に三界はない、という説。華厳経に基づく。「三界一心」ともいう。

(華厳はすべてが唯心の世界。心の外に見えているのは幻=イリュージョンに過ぎない)

「三界流転」

三世にわたって因果が連続して迷い続けること。

(原因があって結果がある。その結果がまた原因となって動いて行く。果てしがない。何処かでこれを切断しなければ、われわれは業(カルマ)の言いなりになるだけだ。迷い続けて行くだけだ)

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欲界 色界 無色界 われわれが経巡る世界=三界 その1 

2018年01月19日 17時42分32秒 | Weblog

わたしはよく知らない。「三界」という語をよく知らない。しかし、興味がある。知りたい。辞書に頼る。こうある。

「三界」

仏教語で、一切衆生が生死輪廻する3種類の世界。すなわち欲界、色界、無色界。

衆生(生きとし生けるもののすべて)が活動する全世界を指す。

「三界火宅」

仏教語で、苦悩の絶えない凡夫の世界を火焔の燃える居宅に喩えて言う語。法華経に「三界無安 猶如火宅 =三界は安きことなし、けだし火宅の如し」とあるに由る。

☆☆☆  続く

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一日に一度は外の風景を眺めてみたい

2018年01月19日 17時21分42秒 | Weblog

新鮮な発見? それはなかった、残念ながら。ふらりと外に出た。一日の内に一度は外に出たい。片足麻痺では散歩は出来ないから、右足を動かすだけでいいドライブに。行くべきところは? ない。ないけど、ともかく車に乗る。遠景近景の冬の風景を見たい。

家の北側には九州山脈がずずずずずと東西に走っている。今日はここに添うようにシテ西へ走った。ふうらり。標高1045mの天山が見えるところまで30分走って、それをよく眺めて、それからUターンして戻って来た。行く道帰る道を違えたが、それぞれ途中に蝋梅を見かけた。こんもりと暖色の黄色い藪になっていて、ほのぼのとした。白梅紅梅はまだ見かけなかった。

田舎の細い道では愛犬を連れて散歩をしている人を多く見かけた。犬を連れない高齢者カップルも多かった。散歩を終えて腹を空かせてから夕食なんだろう、きっと。それが健康的だ。僕は、その点、非健康的。運動という運動をしていない、全く。我が家の板張りの長い廊下を歩くだけだ、トイレの行き帰りに何度か。

初春の外へ出たのだから、新鮮な発見をしてもいいはずなのに、それがなかった。見る眼というのが衰えているからに違いない。帰宅してから我が家の野菜畑まで行った。人参を掘り上げてみた。人参色ではなく、珍しい白い人参だった。かなり太っていた。白い人参の栄養価はどうなんだろう。匂いは一緒だった。

 

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日の当たる縁側の寝椅子でお昼寝

2018年01月19日 15時11分18秒 | Weblog

日がぽかぽかと差し込むあたたかいお縁側に寝椅子を出して、楽な姿勢になって読書をしているうちに、うとうとしてきて、いっときお昼寝をしていました。ここは庇が高くしてあるので日が入りやすいのです。目覚めたときには日が傾いて、足の股、膝辺りがひんやり。ジャンパーを脱いでそこへ掛けておいたのですが。炬燵の処へ戻って来ました。あんなに日が照っていたのが嘘のように、いまは雨天のような薄暗さです。まだ3時半そこそこなのに。

妙法蓮華経随喜功徳品第十九を読み終わりました。書き下し文とその解釈を声に出して。随喜というのは随法華経法縁得慶喜、法華経の法縁に随って慶喜を得ることだと解釈しました。法華経にわたしが今生で出遭えたということが嬉しいのです。法華経に出遭った人=菩薩、あるいは法師(ほっし)が、喜び勇んで法を伝えて行く過程で仏さまから頂くさまざまな功徳が書かれています。

「世世所生見仏=世世に生まれ、仏を見る」という功徳が目を引きました。生まれても生まれてもその世で仏に出遭って行くというのです。是非遭いたいです。何度も何度も遭っていたいです。でもね、「今生で、この凡愚のわたしが遭うことが難い法華経に遭った、遭う機縁を得た、それを喜べる」というだけでもう望外です。そこへ帰ってくると、にこにこしていられます。

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畑の片隅に早咲きの菜の花が一叢(ひとむら)

2018年01月19日 10時14分08秒 | Weblog

薄ら寒い日。光が射してこない。風もない。畑の片隅に早咲きの菜の花がひとむれ咲いて、ひとり輝きを見せている。痰が詰まって苦しい。医者からもらってきたトローチを嘗める。1月19日の山里に鶯はまだ飛んでこない。浮かれることはない。見つからない。法華経の経典から随喜功徳品を読む。読んで心弾ませたい。しかし、解説の行き届いた本がなければ凡愚の老爺は、なかなか読みこなせない。

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こんなことをしていてはいけないなあ

2018年01月19日 05時14分57秒 | Weblog

こんなことをしちゃいられないなあ。無駄に過ごしていちゃいけないなあ。そういう反省をわたしに強いるような夢だった。目覚めてからも、なるほどその通りだと思った。何はさておいても、此処に生きている間に、少しでも僅かでも、我が人格をこそ磨くべきであると思った。ところがわたしはそうではない。生来、怠け者である。加えてかたくなである。不勉強の上に横着である。実を着けていない白穂なのに、ツンとしている。お高くとまっているのが得手である。どうしようもない。修理がきかない。でもこれではいけない。そこだけは合点できる。無駄に過ごしているのである。船の舵を大きく切り換えさねばならないなあと思った。

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