今夜の夕食に食べたお好み焼きがおいしかった。キャベツ、フカネギ、お餅、ツクネ芋、豚肉、お好み焼き粉、卵が材料だった。マヨネーズ、海苔、鰹節、専用ソースを混ぜ合わせて表面に塗り、フォークとナイフを使って1枚ぺろりと食べた。まんまるくふっくらと上手に出来上がっていた。いやいや、満腹した。ごちそうさま。
明日は日曜日。お天気がよければ、(あ、健康状態もよければ)、鹿島市にある祐徳稲荷神社に初詣に行って来ようかなあ。ここは鳥居も社殿も朱塗り。なにしろ赤い鳥居、赤い社殿が好きだもんなあ。もうそろそろ初詣の参拝者も少なくなっただろう。混雑が解けているだろう。ここまで車で約2時間ほどかかる。
ここは皐を背にしている。山と言うより皐かなあ。ここへ溢れるばかりの雲が懸かる。たなびく。光が束になる。雲間より放射して来る。神々しい光が圧倒するばかりに地上に降り注ぐ。これを仰いでいると、荘厳された神の威光を感じる。何時でもという具合には行かないだろうが、こうしてわたしを招いてくれたことがあった。直情型のわたしは、わたしをこころあたたかく招いて迎え入れてくれたと思った。
雲わきいずるところ、島根県出雲大社に行ったときにもこういうお迎えをしてくれたことがあった。それを敏感に感じた。感じ過ぎなのかもしれないが。
ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます・・・・・ なんだかお礼を言いたくなった。誰に対してだか分からない、何のお礼なのかもはっきりしない、どうやってお礼をするのかも曖昧、どうしていま急にお礼を言いたくなったのか不思議の不思議。だけど猛烈にお礼を言いたくなっている。いまのわたしが有り難い。そういう受け取りが込み上げている。まったくのところわたしの感情の部分がそういう主張をしているのであって、わたしの理性は醒めている。ああ、おれはいまこの地上に来て生きているんだなあ、呼吸をしているんだなあ、死ぬべきところを死なないでいるんだなあ、それはどうしてなのかなあ、どうしてということにはっきりした答えも出来ないなあ、などと思っている。漠然たるものなのであるが、腹一杯のお礼をいまここで言っておきたいなあという気持ちがわたしのこころの湖に満水している。
今夜の我が家の夕食は? どうやら鰹節いっぱいの広島風お好み焼きのようです。準備に時間が掛かっているようです。いつもは6時なのにまだ声が掛かりません。キャベツは我が家の畑のキャベツのようです。これにツクネ芋と豚肉が加えられるようです。腹が減ってきました。もうそろそろかなあ。お好み焼きは好きです。この老爺は、食い気においては幼児並です。やっと声が掛かりました。
ふふふふ、ふ。ユニクロへ出向いていって、靴下を買って来ちゃった。この寒空を厭わず。3足990円のを。華やいだ青赤黄色の3種類。ちょっと若返ろう。ぎゃはっ。若返ったらどうしよう? ジョギングでも始めるか。麻痺の足では走れまいて。デートをしてくれる人が現れて来るだろうか。足元のカラフル靴下くらいで、そりゃ、無理だろう。
暇男だなあ。することに欠いて色靴下を買って来る。何処へ行こうか。行くところもなし。畑の草取りにその華やか靴下を履いてひとり悦には入ることにするか。それではおそまつ。
信は、しばしば船に喩えられる。舟に乗ってしまえば船が目的地に連れて行ってくれるというのだ。だったら、わたしの身をそっくり預けてしまえばいい。船に乗る動作は唯の一度だけでいいのだ。これを「願いの船」「願船」と名付けてある。船の建造者は阿弥陀仏である。水夫も阿弥陀仏である。引導するのも迎え入れるのも阿弥陀仏である。ついでに言えば、船が浮かんでいる大海も阿弥陀仏の真如界である。
わたしの入り込む隙はない。わたしの力が発動するところはない。船の乗るそこだけしかない。
念仏を称えているのも、わたしの力ではない。わたしに知恵があったからではない。ただ阿弥陀仏によって称えさせられているだけである。経典はそう諭してある。そうでなければ疑い深いわたしは除外されてしまうことになる。
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一人も洩らさないで浄土往生をする。救われた身になる。そう言及してある。
ほんとうなのだろうか?
さてその信が難しい。正真念仏偈のここらあたりの数行だけを、だから、行ったり来たりしていることになる。経典の前まで歩いて来ても、無明のわたしはそこで右往左往しているだけなのだ。
それでもいい、ということでなければ、わたしは救われていかないことになる。
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩 親鸞聖人「正真念仏偈」より
ゆのうじょうしょうにょらいごう おうほうだいひぐぜいおん
唯(ただ)能(よ)く如来の号を称して、応(まさ)に大悲弘誓の恩に報いるべし。
だから、わたしはただただ阿弥陀仏の御名を称えていればいいことになる。そうすることが引いては阿弥陀仏の大悲に報い、阿弥陀仏の本願弘誓に与ったことになる。そうなっていくわたしがある。そういうコースを辿る死後のわたしがある。そこではわたしはただ阿弥陀仏への感恩に噎ぶだけになるだろう。
わたしがわたしの主宰者でなくなる、ここが恐いのだろうなあ。いつまでも主宰者でいたいはず。主宰者でなければ元も子もなくなってしまうと恐れる。だからわたしに執着する。しがみつく。
死にたくない死にたくないと藻掻き苦しむことになる。
わたしは死んだらどうなるか。その答がここに書かれている。心配は要らないと説いてある。阿弥陀仏の救済を信じたその時にもうオートマテイカリーに仏の手が現れてわたしを救い取って阿弥陀仏の浄土に連行してくれるというのだ。そこでわたしは仏と平等の身に成って退転しなくなる。
つまりそこで仏としての堂々の活動に入るというのだ。利己から利他へ動き出して行くというのだ。
わたしはわたしを離れて行く。離れて行くことができるのだ。わたしの主宰者でなくともよくなってしまうのだ。