<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

短編童話「風と空と山」

2018年01月17日 15時03分34秒 | Weblog

短編童話「風と空と山」

ゴウゴウゴウゴウと風が空で唸っていました。ほかにどんな言葉も持ち合わせがないということなのでしょうか。ただただ同じようにいつまでもいつまでもゴウゴウゴウゴウと空の声と風の声が響いていました。風だけではそんな声は出せないのです、そこに空がないとそんな声は出て来ないのです。だから、これは二人の声なのでありました。風の気持ちを汲み取ってあげるために、空も労を厭わずに、音が出るように声が出るように、気持ちが表現できるように、してあげているのでした。1月の寒そうな山々がそこへ立って聞いていました。折角空と風が自分を表現しているのならそれを聞いてあげる者もいなければなりません。山がその役目を引き受けたのでした。この世にはそういう風にちゃんと役目役目が生まれて来るようになっていました。そうやって互いに相手も立てながら立てながら暮らしているのでありました。

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一生悪を造っておきながら、成仏を果たすとは

2018年01月17日 14時28分42秒 | Weblog

こんなことがあってもいいのだろうか。あり得てはいけないことがあり得るというのか。

一生造悪値弘誓 至安養界証妙果       「正信念仏偈」より

いっしょうぞうあくちぐぜい しあんにょうかいしょうみょうか

一生、悪を造れども、弘誓(ぐぜい)に値(もうあい)すれば、安養界(あんにょうかい)に至らしめられて、妙果を証(あか)せり。

一生の間ひたすら悪を造って生きた来たわたしである。それが阿弥陀仏の本願弘誓(ほんがんぐぜい)に、まるでそうすることが必然であるかのように、遭うべくして遭へるのである。わたしのために建てられていたからである。そしてわたしは阿弥陀仏の浄土、安らかな国に導かれて来て、そこで妙なる結果(仏としての智慧=成仏の位)を受けしめられたことを知るのである。こんなことがあってもいいものか。悪人が善果を受けていいものか。

仏の世界では逆さまのようだ。悪が悪果を得るのはこの世でのこと。仏界では、あろうことか、善も悪も等しく善果を受けるのである。そうでなければわたしの救われる道はなかった。そしてその逆さまの倒立の理屈が、倒立せずに実現して戸惑うのである。歓喜に涙することになるのである。

 

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こんな生き方でいいのかどうか よかあないだろうが

2018年01月17日 13時59分19秒 | Weblog

治りかけの一過程なんだろうが、ごぼごぼ、喉に痰がからまって苦しい。咳がときおり噴き上がってくる。左胸が痛くなる。

もうすぐ午後2時になる。雲が流れている。青空も現れる。雲の隙間あたりから、ちらりちらり光も射す。やはり遠くの空で風の唸る音がしている。これは飛行機ではなさそうだ。

朝、薩摩芋を焼いてもらった。我が家の畑で収穫した芋だ。それほど大きくはない。むしろ細型だ。薄い皮の表面に蜜が溢れ出ている。一人でいるのが徒然ないから、ぼちぼち皮を剥いて食べる。甘い。

風が吹いて来て、畑のブロッコリーの大きな葉っぱを思いっきり靡かせている。庭の椿の藪も揺れている。桃の木に絡まっていた苦瓜の蔓が枯れてしまって細長い紐状になって宙に舞っている。

僕はそれらを見ている、ぼんやりと視線の定まらない目をして。こんなんでいいのかどうか。こんな生き方でいいのかどうか。もっと中身が充実していなければならないのかもしれないが、そうではない。空っぽだ。

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必ず無量光明土に至り着けるように仕向けられている我が身

2018年01月17日 13時24分24秒 | Weblog

ごめんなさいね。こうやって堅い物を噛むようにして味わうようにすると、しだいしだいにこころが安らぐのです。

おんなじようなことを何度も何度も口が酸っぱくなるほどに繰り返し繰り返し説かれています。

必至無量光明土 諸有衆生皆普化      「正信念仏偈」より

ひっしむりょうこうみょうど しょうしゅじょうかいふけ

必ず無量光明土に至らしめたまへば、諸有の衆生は皆 普化せり。

死んだ後に到着するところは仏さまの国=無量光明土です。そこへ到着すればわれわれ迷いの凡夫がたちまちに教化されて仏さまの分身=化身となるのです。(さぶろうの解釈)

無量光明土は量ることの出来ないほどの光明があまねく行き渡っている国です。仏さまの国、仏国土、お浄土です。そこへ必ず至るのです、われわれは一人も洩らされることなく。「諸有」は「迷いの境界にある者」の謂と解釈しました。実体があるとしてそれに執着をすることを有見(うけん)といいます。有見をする者は迷いが断ち切れません。しかしその衆生を皆悉く普く仏の化身としてくださるというのです。「化」は「変化」であり、「変化した者」です。「教化を頂いた者」です。

「必ず無量光明土に至る=必至無量光明土」というこの一行をもぐもぐもぐもぐ唱えながら、わたしは死後の旅をすることができそうです。でもそれもあっという間で、たちまちそこは仏国土です。阿弥陀如来様にお会いすることになります。あまりの明るさ、あまりの輝きに目が潰れてしまうかもしれません。でもこれでわたしはとうとう救われるのです。わたしの救済(自利)が完了するのです。そこから次のステップに移っていきます。

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軒の庇のスレートに雨垂れが落ちる音 静かな小さい音

2018年01月17日 13時03分53秒 | Weblog

雨になった。雨音がしている。軒の庇のスレートに雨垂れが落ちている。トン、また、トン、また、トンという具合にやや間がある。だからそんなに大降りの雨ではない。でも、遠くで風の唸り声がしている。風ではなくて飛行機なのかも知れない・

お昼は一人で残りのカレーをあたためて、ご飯にのせて、台所からテレビの部屋に移動して、淋しいから、滅多に見ないテレビを見ながら、ぽつんぽつん食べた。すぐに歯磨きをした。口中が清潔になると気持ちがいい。もちろん風邪薬2種類も服用した。

午前中は浜田廣介の童話集を読んで過ごした。我が子が小さい頃に読んでいた古い本を本棚から取り出してきて。1935年7月に初出版されている。何度読んでも心が洗われるようだ。童話というのはいい。老爺が読んでも感動を貰える。こういう童話が書けるようになればいいなあ。

 

 

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昨日訪れた園芸店にはアネモネの花が咲いていた

2018年01月17日 11時30分54秒 | Weblog

一人でぽつんとしている。天気もイマイチぱっとしない。日は照っているのかいないのか分からないくらい。寒さは少しはやわらいでいるのかもしれない。もう屋根の北側の根雪も解けている。風邪の具合はまあまあというところ。風邪薬は毎食後にずっと飲んでいる。での喉はまだじがじがする。よしやるぞと言う張り切った気分にはならない。

昨日行った園芸店にはもうアネモネが咲いていた。赤いアネモネ、青いアネモネ、白いアネモネが。みな大輪だった。ハウス栽培なんだろう。目を奪われた。春が来ているという感じがした。1鉢400円近くの値札がついていて、買うのは思い止まった。でもほしい。赤青白の3色を書斎の窓辺に飾っておきたい。ふふ、元気が出そうな気がする。

遊んでくれる人がいないかなあと思うことがある。一人はつまらない。自由気儘でいいのだが、何処かつまらない。でも、友人たちに声を掛けない。小さい頃のように、出掛けて行って玄関先で大声を出して「おおい、遊ぼう」という具合にはいかない。みな老いている。酒を飲もうだなんて言えない。大概なにかかにか体調を壊していて、飲めない体になっているのだから。

 

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