親鸞聖人の高僧和讃を読んでいます。そこにこうあります。
「煩悩の眼障(さえ)られて、摂取の光明見ざれども、大悲ものうきことなくて、常に我が身を照らすなり」
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わたしは煩悩の眼をしています。だからどんよりして澱んでいるのです。ですから阿弥陀如来の光明が見て取れません。この光明はわたしを摂取するための光明です。ですからたしかにここにあるのです。でも見えていません。見えていないけれど心配することはないのです。仏の大悲はちっとも変わりはないのです。いつもと同じにわたしを救おうとして我が身を照らしているばかりです。だから心配は要らないのです。心配していなければ摂取されないということはありません。摂取というのは救い取って捨てないということです。これは阿弥陀如来とわたしとの約束事です。約束が破られることはありません。
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こんなところを読んでいますと目頭が熱くなってきます。どうして阿弥陀さまがわたし等とわざわざお約束をされたのでしょうか。それもわたしがこの世に生まれてくる以前に取り交わされているものです。それが交わされていることを知っての上で、安心を勝ち取って、生まれて来たのです。
わたしは、しかし、この和讃の心を汲んでみてもやはり同じく煩悩の眼をしています。汚辱の煩悩がわずかでもぬぐい去られることはありません。その煩悩の眼を頼りにして仏の大悲を疑って掛かっています。「なにそんなことがあるものか、おれはおれの力で生きているんだぞ」と鼻息を荒げているばかりです。