<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あなたはわたしを蔑むことはなかったのに

2018年01月09日 19時18分47秒 | Weblog

すまなかった。わたしはあなたを誹謗した。罵(ののし)った。罵倒した。蔑んだ。あなたを無力にしてわたしを有力にした。

それでもあなたはわたしを蔑むことはなかった。すまなかった。いつものように昼は夜となった。

日が暮れた。空が日を落とした。闇となった。闇夜の中であなたを探してみる。見えない。

見えないところにいるあなたは、わたしをいつもあたためている、見守っている、支えている、抱きとめている、慰めている、力づけている。

わたしに、「すまなかった」の声が出る。声が出た鼻先からまたあなたへの誹謗が飛び出して行く。

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あなたは心配をしなくてもいいんだよ

2018年01月09日 19時04分17秒 | Weblog

仏教の教えは「心配しないでもいいよ」「あなたは心配をすることはないよ」「どっかり安心していていいよ」「何がどうあってもそれでいいんだよ。そこは安心の門、安心して潜っていいっていいんだよ」ということばかりを述べているような気がする。わたしの計り知れないことを仏が計り知っているのだから。わたしはそれでもそれでも計らう、心配する。わたしで何とかしなくちゃと焦る。でも、それは微々たるもの。それでわたしが解決することなど出来はしない。わたしの進むべき大きな道は仏陀によってすでにそこに設(しつら)えてあるのである。その道を歩み締めながらもそれでもわたしは危ぶむ、恐れる、心配顔になる、顔が曇る。煩悩に眼が障えられているので、わたしの自力の計らいではどうにもならないのである。仏陀の「お計らい」によるしかないのである。何度も何度も何度も仏陀の声がする。「心配は要らないよ。そのままでいいんだよ。偉ぶることもないんだよ。賢くなることも無用だよ。あなたの全部をわたしが引き受けているよ。あなたは手放しで、安心をしているだけでいいんだよ」という仏陀の声がする。それを聞く。今夜それを改めて聞く。しみじみと聞く。

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これで安心だったのである

2018年01月09日 15時01分47秒 | Weblog

弥陀の廻向成就して、往相還相二つなり。これらの廻向によりてこそ、心行ともに得しむなれ。      親鸞聖人「高僧和讃」より

弥陀というのは阿弥陀仏。無量寿仏・無量光仏のことである。無量とは量(はか)り知れない、計算などできない、人智を越えているということである。廻向とは廻し向けること。わたしが受けるべきエネルギーを他所へ向けることである。ここでは阿弥陀仏が受けるべきをわれわれ衆生に廻し向けて下さったということである。それが完全無欠に成就したのである。わたしが弥陀の受けるべき利益を受け取ったということである。

廻向を恵まれて、では、わたしはそこで何をしたか。往相と還相を成就したのである。二つとも。往相というのは阿弥陀仏の浄土に往くことができるようになったということ。そういう悟り、受け取りを得たということ。それだけに留まらず、つまり浄土往生というわたしの利益に留まらず、そこから翻って、他者の救済に出向こうという意思を抱いたということである。自己完結ではなかったのだ。他者の救済があっての自己完結であることを実践できたということだ。

こういう廻向のその始まりを阿弥陀如来から差し向けられたのである。これでわたしの領域としているその心の面も実践の面も完結した。

高僧和讃に親鸞聖人がそう述べられている。どこまでもどこまでも阿弥陀如来の発現である。初めに阿弥陀如来ありき。此で安心だったのである。

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仏とわたしとの約束が交わされていることを知っての上で

2018年01月09日 11時38分18秒 | Weblog

親鸞聖人の高僧和讃を読んでいます。そこにこうあります。

「煩悩の眼障(さえ)られて、摂取の光明見ざれども、大悲ものうきことなくて、常に我が身を照らすなり」

わたしは煩悩の眼をしています。だからどんよりして澱んでいるのです。ですから阿弥陀如来の光明が見て取れません。この光明はわたしを摂取するための光明です。ですからたしかにここにあるのです。でも見えていません。見えていないけれど心配することはないのです。仏の大悲はちっとも変わりはないのです。いつもと同じにわたしを救おうとして我が身を照らしているばかりです。だから心配は要らないのです。心配していなければ摂取されないということはありません。摂取というのは救い取って捨てないということです。これは阿弥陀如来とわたしとの約束事です。約束が破られることはありません。

こんなところを読んでいますと目頭が熱くなってきます。どうして阿弥陀さまがわたし等とわざわざお約束をされたのでしょうか。それもわたしがこの世に生まれてくる以前に取り交わされているものです。それが交わされていることを知っての上で、安心を勝ち取って、生まれて来たのです。

わたしは、しかし、この和讃の心を汲んでみてもやはり同じく煩悩の眼をしています。汚辱の煩悩がわずかでもぬぐい去られることはありません。その煩悩の眼を頼りにして仏の大悲を疑って掛かっています。「なにそんなことがあるものか、おれはおれの力で生きているんだぞ」と鼻息を荒げているばかりです。

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空腹感というのもいいものだ

2018年01月09日 11時30分24秒 | Weblog

もうすぐお昼になります。今日は朝食を抜きました。お正月を越して体重が増えてしまったからです。やはりおいしいものを食べすぎたのでしょう。お腹がぐうぐう鳴っています。ま、いいですね、この空腹感というのも。

外は風が音を立てて吹いています。まるでスコットランドのヒースの原野を吹く風のよう。我が家の庭のブッシュが靡いています。石蕗の花の穂が枯れて白くなっています。まだ外へは出ていません、一度も。見るからに寒そうで。

 

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己の中にも寒波襲来 否定という寒波

2018年01月09日 07時35分20秒 | Weblog

日本列島に寒波襲来らしい、今週の天気予報では。日本海側は大雪の恐れとか。寒いのは苦手だ。お手上げになる。旅を終えててよかった。しばらくじっとしていようと思う。

自虐と閉鎖と怨嗟は己の否定。高慢と蔑視と暴力は他者の否定。否定もまた寒波だ。冷たい。しかも年中渦巻く。己の中に吹き荒ぶ。両極どちらの地点でも。内に籠もりつつ、外にも暴威を揮う。

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