<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

雨が雪に変わった 大粒が舞っている

2018年01月10日 14時03分27秒 | Weblog

障子戸は半分しか開けていない。そこから外を見ている。雨が雪に変わった。大粒が舞っている。堅そうな。雹に近いかもしれぬ。どちらにしろ寒そうだ。老爺は炬燵の中から離れられない。じっとしている。YouTubeのクラシックが無聊を慰めてくれている。ハクションが立て続けに出る。風邪気味は風邪気味のよう。炬燵から出している両手の指が悴む。

ずるずる怠けて、一日炬燵の番をして過ごした。いくらなんでもこのまま夜に突入するわけにはいかない。体も縮こまったままだ。気分転換に外に出てみようかな。でも外はいかにも寒そうだ。いくらなんでもこの悪天候のもとで畑仕事はできぬ。昨日見た梅の木の枝先には小さい小さい蕾がついていた。ほんのり赤くなっていた。この雪では蕾はもう一度堅く蕾むしかないだろう。

 

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自惚れている間は神仏のこころが聞こえて来ない

2018年01月10日 13時10分16秒 | Weblog

これは19世紀のインドのヒンズー教の聖者ラーマ・クリシュナの言葉。

神のこころを想像できないと、人はうぬぼれを持つ。「わたしが人を教えているのだ」と思う。この自惚れは、無知から生じるもので、無知な人だけが、「自分が行為者だ」と感じるのだ。人は若し、「神が行為者である、神のみが一切の事を行っておられる、わたしは何もしていない」と感じるようになれば、まさに今生で解脱する。人の苦しみと悩みは、「自分が行為者である」という抜き難い懐いからのみ生まれる。

「それは偉大なるわたしがした業績である」とわたしは自惚れる。神々に向かってさえもそう自惚れる。自惚れているから、わたしは神のこころなどは、よも、思い測れない。「わたしは正しいことを言っている」「あなたの間違いを正しているのはわたしの正しさである」などと吹聴する。智者の振る舞いをする。これにますます長ける。無知者であるのに。良いことも悪いこともそれはわたしの正しさが為したことだと受け止める。自己主張をするのをよしとする。欲張る。ふてぶてしくなる。なさしめられていることに気付かない。わたしがこの世の中心であるという思いに縛られる。謙虚になれない。吸う空気一つわたしの手になったものではないのに、何事も自分の裁量や自分の旺盛な力で成し遂げられたと思う。驕る。高ぶる。そうしない者を蔑む。軽んじる。

自惚れる。自惚れないと元気を保てないと思う。わたしをこの世の主宰者に据える。それのみが潔い生き方だと言い張って引き下がらない。「わたしは何もしていない」のである。そう思えたところから解脱の扉が開かれて来る。

以上のことはわたしの場合である。人様はそうではない。此はわたしの受け取りである。この頃とみにわたしの我が儘が目立っている。そしていざこざを起こしている。

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なかなかできない 簡単なようで出来ない

2018年01月10日 12時15分54秒 | Weblog

なかなかできない。簡単のようでできない。すぐにそこから離れてしまっている。

法華経に常不軽(じょうふぎょう)菩薩さまのことを書いたチャプターがある。この菩薩様は礼拝行を実践された。それを唯一の仏行とされた。両手を合わせて来る人来る人を礼拝された。「あなたはやがて仏になって行かれる方です。わたしは仏に成って行かれるあなたの現在を大切に思います」そういうふうに言って手を合わせられた。どんなことがっても変わらず常に相手を尊敬するように努められた。「いつどこでも相手を軽んじない」ことに透徹されたので常不軽菩薩の名がついた。みずからは、しかし、常に軽んじられることになった。

自らが軽んじられている位置でないと相手を敬うことは出来ないのである。自分が高い位置についていては相手を軽んじてしまうのである。

この菩薩様は他の行をなさらなかった。読経もなさらなかった。念仏も座禅もなさらなかった。説法もなさらなかった。ただただ目の前にいる人を礼拝するという一行に徹せられた。

奢りに心が蔓延してしまってとても人のことを敬うなどと言うことなどできない。疎かにしてしまう。軽んじてしまう。蔑んでしまう。相手が悪いと言って腹を立てる。自分への奉仕が足りないと言って周りに毒舌を吐く。これがわたしの日常だ。

仏教は「人はみなやがて仏に成る」という教えを貫いている。だから今現在は成仏の途中と言うことになる。仏に成る途中の人を「菩薩」と呼ぶのである。

なかなかできない。お経を聞いてもわたしの日常は教えの実践からは遠い。遙かに遠い。わたしの生活の中に取り入れておくことができない。人を敬えない。他者に向かって「わたしが正しいから、あなたがわたしを敬え」と言うばかりで、奢り高ぶっている。醜い。

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喉の奥が痛んだので風邪薬を服用した

2018年01月10日 11時52分29秒 | Weblog

雨が降っている。大雨というほどでもない。蕭雨である。庭の姫林檎の木の枝に丸い雨滴がぶら下がっている。落ちてはまた玉の粒を作る。それを飽かずに眺めている。お昼は焼いた薩摩芋を数個食べた。他所さまには差し上げられないほどの小さくて細いのを。

夜中から喉の奥が痛い。布団の上に座って長く書き物をしていたときに腰に冷えを感じた。それが祟ったのかもしれない。朝、起きてからうがいをした。水を大量に飲んだ。風邪薬も3錠飲んでみた。それから後は大丈夫のようだ。喉の痛みも感じなくなった。老人はすぐに肺炎に罹ってしまうから、おざなりには出来ない。

 

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真夜中の今は1時 目が覚めてしまった どうしよう

2018年01月10日 00時58分33秒 | Weblog

目が覚めてしまった。真夜中の今は1時。山里は無気味なほど静かだ。家の傍には小川が流れているのだが、蓋で覆われているので水音も聞こえてこない。

夜明けまではまだまだ随分とあるぞ。どうしよう。枕元には本が何冊か置いてある。寝付けないときにはこれに手を延ばす。YouTubeでさまざま音楽を聴くという手もある。テレビを付けるとよく「日本百名山」などという番組が流れてもいる。呼吸を整えて瞑想に入るのもいいものだ。瞑目して天上界のアセンディットマスターズたちとの会話を想定することもできる。彼等から天上界の叡智を授けてもらうことも素晴らしい。寝ながら両手を使って宇宙の気プラーナを取り込む体操をするのも気持ちがいい。覚えている経典の幾つかを小さな声に出して音読すると仏菩薩と一体化が図られる。こういう愉快も味わえる。新聞投稿する短歌や詩を案出する時間にも当てられる。このブログ「おでいげにおいでおいで」を書き足すのも一案である。ま、その内に眠りに誘われて行くだろう。

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