<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

苦と楽のどちらか一つだけ

2017年08月09日 18時01分16秒 | Weblog

「なあんだ」        山鳩暮風

上り坂を上り切ると
次は下り坂になっていた
なあんだ
そういうことだったのか

下り坂を下りて
しばらくすると上り坂になる
サイクリングの
ペダルが重くなる
ふうふう息があがる
汗が一挙に噴き出して来る

ここを越すとまた
下りになって
風を切る
さっきまでの汗が
今度は涼しさを演出する

するとそこではじめて
八月の鬼ユリが楽しめる

なあんだ
そういうことだったのか
苦と楽のどちらか一つだけ
ということはなかったんだ

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行かなければ出遭えなかった風景

2017年08月09日 16時50分20秒 | Weblog

この道を行く。この道を行くとそこで初めて風景に出遭う。行かなければ遭えなかった風景に出遭う。そしてそこに愛着を感じてほのぼのとなる。ほのぼのの感情がまた元気に生まれ変わる。それが次へ進む元気になる。この道を行くことがすなわちわたしの生きる愉快そのものかもしれない。この道。この道にいるわたし。

 

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あれは若い頃の美しい母さんの匂い

2017年08月09日 16時39分26秒 | Weblog

雨の中で夕顔が咲いている。それを発見した。「きれいだなあ」がぼそりと口を突いて出る。金木犀の灌木をよじ登っていて草丈が3m~4mはある。その所々に白い花を着けている。薄闇が広がってきた。雨はさほど酷い雨ではない。花の近くまで行けば馥郁たる香りに噎せるだろう。あれは若い頃の美しい母さんの匂いだ。お化粧をして町へ出て行く母さんの匂いだ。大正3年生まれの母さんが今に生きていればとうに100歳を越えているけれど。

 

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閉じ籠もる闇の 扉一枚外は明るい

2017年08月09日 13時56分23秒 | Weblog

一切法は自性清浄なるが故に般若波羅蜜多も清浄なり。・・・即ち現生に於いて一切の法平等の三摩地を証し、一切法に於いて皆自在なるを得て無量の適悦歓喜を受けむ。     真言宗経典「般若理趣経」より

(わたしに言い聞かせるためにこの句を味わってみる。わたしの放つ矢は的を外れているだろうが、放つことが練習に成って、やがて的を射ることが出来る日も、もしかしたら来るかも知れない。それを期待しつつ)

この世に存在しているものはすべてその本質に於いて本来清浄である。だからこれを見据えることで得られた般若波羅蜜多(はんにゃはらみた=智慧の完成。修行によって完成された悟り=仏の智慧に等しい世界観)もまた自ずからにして清浄である。・・・自性清浄という智慧によって到達した修行完成者は、生きている間に、「すべてのこの世の存在はそのままが清浄である」という確固とした境地(金剛三摩地)を得、そこに自由自在な融通三昧を体現する。こうして計り知れない楽しみと喜び(適悦歓喜)を享受することになるのだ。(さぶろう老爺の自己解釈)

不垢(ふく)でもなく不浄でもない。汚れても汚されてもいないので、従って、汚れを拭き取ることもない、そういう「絶対清浄」なのかもしれない。欲望は悪とされるが、活用の仕方によって欲望は清浄となる。現象現相として外に現れてきたものの善悪でもなく、是非でもなく、禍福でもない。根源的に人を生かそうとするエネルギーがある。それがこの世に満ちている。此に適合する道が与えられている。それを金剛三摩地(こんごうさんまじ)と呼称するのかもしれない。

われわれの為す煩悩悪業の所行はこの世では不正義・不純・不適格の烙印を押されている。それをもう一度裏返しにしたのかもしれない。マイナス懸けマイナスはプラスになる。プラスにはパワーが潜んでいる。生き生き生きる力が籠もっている。そこに「一切法自性清浄」の智慧波羅蜜がで醸成されたのかもしれない。

闇の扉の外側は明るいところである。扉一枚でそこを闇にしている。闇にいるものは閉じ籠もる。そして否定を繰り返す。自己蔑視を掘り下げる。しかしそこが宇宙の全てではない。扉一枚の外側には光が溢れているのである。光に遇うことを「一切法自在」というのかもしれない。

 

 

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めでたしめでたしじゃないか

2017年08月09日 11時18分48秒 | Weblog

こちらは朝から雨になっている。雨音が甲高く響いた。昨日まで大地はカラカラに乾いていた。さぞかし、喜んだろう、だから。草も木も野菜類も。虫も鳥も獣も。庭も畑も岡辺も山も。谷水が勢いを増して流れ下る音が聞こえてくる。めでたしめでたしじゃないか。

 

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百年生きたお婆

2017年08月09日 11時06分40秒 | Weblog

「百年生きたお婆」    山鳩暮風

お婆はいつも言う
ゆっくりでいいよ
あわてないでいいよ

それで坊はどんなときも
ゆっくりとしている
あわてずにいる
形(なり)は小さいけれど
象のように 雲のように
大きく構えている
大きく構えて
おっかあの言うことを
きかない
おっとうの言うことも

お婆はそれでいいと言う
それでいいと褒める
傍目には空恐ろしい子に
育っているが
お婆はそれでいいと言う
百年生きたお婆の
智慧だそうな これが

こうしていれば
生き急ぎも死に急ぎも
しないのだそうな

百年が来たのだそうな
ゆっくりしていても
あわてないでいても

慌てないでいい。ゆっくりでいい。でも悪い方へ悪い方へ考えてしまって不安がる。心配する。そうやってみんな過ごして来たんだよなあ。百年生きたお婆もきっと。いやいやそうやっているうちに百年を生きて、最後にお婆の智慧が生まれたんだろう。 

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詩「ぼくはにんげんになったんだ」

2017年08月09日 10時44分23秒 | Weblog

「ぼくはにんげんになったんだ」    山鳩暮風

ぼくはにんげんになったんだ/にんげんになったんだ/春風が笑っている/大空も笑っている
ぼくがにんげんになったのを/にんげんになったのを/春風が祝っている/大空も祝っている
ぼくがにんげんになったから/にんげんになったから/春風が誘っている/大空も誘っている
ぼくをにんげんにしてくれた/にんげんにしてくれた/春風が歌っている/大空も歌っている

春風は白い色/大空の光る色/ぼくを包んで抱き上げて/どこまでもどこまでもふんわりふんわりあたたかい

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わたしは野原のヒメジオン

2017年08月09日 10時36分49秒 | Weblog

「わたしはヒメジオン」       山鳩暮風

おはようございます
朝になっています
わたしは
ここにじっとしていたのに
暗い夜が退いて
いつの間にか地上の全体が
明るい朝になっています

地上を明るい朝にしたのは
わたしではありません
それはわたしに
できないことですから
ここにいる誰もしないですんでいます
野原も野原を流れる小川も
夏空も朝雲も

わたしはヒメジオンです
わたしをヒメジオンにして
明るい朝の野原に置いたのも
わたしではありません

しかし
わたしにも
できることがあります
7月の爽やかな朝の意思を
爽やかに迎え入れることです

おはようございますの挨拶を
野原のみなさんと交わします

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荒野に落ちた星

2017年08月09日 10時26分19秒 | Weblog

「荒野に落ちた星」     山鳩暮風

男性という性を生きる者は
幾つになっても彦星です
そういうところがあります
織姫なしでは寂しいのです
単独駱駝の
長い乾燥砂漠は辛いのです

ミルキーウエイに暮らす
彦星もそうでしょうが
孤独の先に希望があります

夏は猛暑の日々ですが
合歓の木は美しく咲きます
野原の合歓の木の全体が
爽快清涼でいられるのは
魂を近づける静かな時刻が
準備されているからです

男性は強そうに見えますが
青い胸の海底では彦星です
愛情信頼の織姫なしでは
安定潜水が危ういのです

明日は笹の葉の七夕です
空白の荒野に落ちた星は
早朝に起き里芋の露を集め
墨を擦って心をしずめます

詩を書いてみました。合歓の木が花を着けています。彼らはいつも葉を重ね合う儀式をしています。それで安らかな気持ちを取り戻して夜を眠るのです。

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