<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

🍅トマトの皮剥きに小半時🍅

2017年08月16日 22時47分46秒 | Weblog

台所に熟したトマトが大中小30個ほど並んでいます。熟すのに今しばらくかかりそうなのも同数くらいあります。両方とも夕方収穫してきたトマトです。四つ割りして皮を剥いたのが、朝昼晩とテーブルに置かれています。ムシャムシャ食べますが、とても食べきれたものではありません。家内はケチャップを作って消費していますが、それでも消費しきれません。生産がどんどん追いついてきます。でも一級品はもうそろそろ終わりになるようです。形が歪になってきています。雨が降ると水分過剰で割れてしまいます。そこから雨が入り込み、虫も侵入してきて腐い臭いがし始めます。赤黄色のミニトマトも過剰生産されています。籠に山盛りになっています。一夏ずっとこのありさまです。よく食べました。嫌いではありません。トマトさんに感謝です。今し方半時ほど掛けて、明日食べる分を四つ割りにして皮剥きをしました。大きなタッパー2個にいれて冷蔵庫に冷やしておきました。皮剥きは疲れます。夜も更けました。さあもうやすみます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の小さな花火大会

2017年08月16日 20時06分09秒 | Weblog

花火大会。我が家の小さな。440円の花火セットを買ってきた。4才の孫喜び喜ぶ。近くの水槽の辺りで、いざ。懐中電灯2個で照らして。毒蛇がいたらいけないから。オトナも混じって総勢7人の声が賑やかだ。ちりちりちりちり、しゅしゅるしゅー。夏の夜の花火は美しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しいことが書け内科は流行らないぞ

2017年08月16日 15時10分52秒 | Weblog

おい、さぶろう。もっと楽しいことは書けないのか。仏教の線香臭い話のオンパレードじゃ内科は、流行らないぞ。

へへえ、その通りでごぜえます。お見通しの通りで。楽しいことが書けません。楽しい男でもありません。渋い面(つら)です。

で、しばらく、昼寝をします。

わああ、入道雲がもくもくもくだなあ。空の一隅は石鹸の白い泡だらけだ。お掃除タイムなのかなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お願いですから助かって下さい」を叫ぶ呪文 ラスト

2017年08月16日 15時00分31秒 | Weblog

「おんまかきゃろにきゃそわか」 この陀羅尼にそんなパワーが潜んでいるのでしょうか。みなさんはきっともっと別の現実的な解決策をお持ちのはずですから、この叫びは無用かも知れません。寝物語のお伽噺にしてくださって結構です。

病苦を除き、怖畏を離れ、生死の海を越えていくとそこにこころが平和になる涅槃界がある。「ある」という設定にさぶろうのこころは安んじられます。でも、これはわたしの力で出来ることではない、としているのがさぶろうです。ですからさぶろうには、仏の放たれた功徳によって「さぶろうの病苦は除かれぬ、さぶろうの怖畏は離れさせられぬ、さぶろうは生死の海を越えさせられぬ、さぶろうは涅槃界に至らしめられぬ」という受け取りです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お願いですから助かって下さい」を叫ぶ呪文 その4

2017年08月16日 14時47分03秒 | Weblog

経典は皆そういう位置づけのようです。仏陀、或いはその分身としての菩薩たちがわたしたちに口を酸っぱくして頼み込んでいます。「お願いですから、どうかほんとうの幸せを見出して下さい」と。変化に流されないで済む幸せ、現象面に左右されない絶対幸福に安んじて下さい、それがあなたのこころの中に在ります、と。

ここまでさぶろう流の解釈を施してきました。すべて当てずっぽうです。仏陀の真意とはかけ離れています。読者諸氏は、自分の頭で考えて下さい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お願いですから助かって下さい」を叫ぶ呪文 その3

2017年08月16日 14時43分59秒 | Weblog

不完全なわたしたちは罪を犯さないでは生きられません。それが悉く罪障として残っています。堅くなって岩をなしています。十悪もしてきました。五逆も犯してきました。もうわたしたちの手には負えないのです。そこに登場するのがスーパーマンです。陀羅尼(神呪)を一遍唱えただけで、悪業がたちまち消滅してしまいます。

その陀羅尼が「おんまかきゃろにきゃそわか」です。「十一面観世音菩薩よ、我に来たれ」の呼び声です。我が力でもってしては解決できないと絶望をした人間、その我に来たれ、です。絶望をした者は信じることが出来ます。それが解決の道へ進む最後の切り札ですから。

「たった一度でもいいからこの陀羅尼を唱えてみて下さい、そうすれば次の地点に進んでいけます」と観世音菩薩がわたしたちに、それこそ泣いて頼んでいる、そのようにも聞こえて来ます。頭を下げるべきは十悪五逆を犯し続けてきたわたしたちなのですが、まるで逆です。観世音菩薩がわたしたちに頭を下げている図です、これは。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お願いですから助かって下さい」を叫ぶ呪文 その2

2017年08月16日 14時40分36秒 | Weblog

「随願」は「仏(お釈迦様)に願われているままに」ということでしょうか。「即得」は「するとたちまち手に入った」ということでしょうか。何を手に入れたか。陀羅尼をです。陀羅尼は「呪」と同じです。すぐれたものだから「神呪」とも呼ばれています。もちろん衆生を苦悩より救済し幸福にするための陀羅尼(ダーラニー)です。真言マントラとも呼ばれます。仏の救済の力がここに充填されていますから、強力です。

観世音菩薩はいわばスーパーマンです。ありとあらゆる方策を駆使して、すべての人を涅槃の岸に至らせようとしています。「涅槃」とは「ニルバーナ」の訳語です。悪業煩悩の火が消えた状態を指します。ですから寂静です。平和で静かです。そこは仏陀の国土です。わたしたち人間の生死の海を越えたところにあります。この生死の海には病苦、愛憎、戦争など様々な怖畏が渦巻いています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お願いですから助かって下さい」と叫ぶ呪文 その1

2017年08月16日 12時54分13秒 | Weblog

時に観世音菩薩即ち呪(しゅ)を説いて曰く、「おんまかきゃろにきゃそわか」 この呪を説き終わって仏に申してもうさく。若し男女(なんにょ)有りて、此の呪一遍を誦(じゅ)せば、十悪五逆一切の罪障みな悉く消滅す。もろもろの病苦を除きもろもろの怖畏を離れ、生死の海を越えて涅槃の岸に至る。    「仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」より

お釈迦様に促されて観世音菩薩が神呪(じんしゅ=幸福の呪文)を説きおこしたところです。

わたし(さぶろう)はこの経典をこうして書き写しているだけで安堵します。理解しているわけではありません。だからすべては推量です。当てずっぽうです。わたしは仏陀にも菩薩にも「願われている者」の一人です。ですから、わたし流に受け取ってもいいのです。わたしはわたしの受け取り方をして安堵をします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おいしいと思って食べればおいしい

2017年08月16日 12時25分01秒 | Weblog

それをおいしいと思って食べればおいしいのである。贅沢をしないでもいいのである。袋から乾ラーメンを出して、丼の中へお湯を掛けるだけ。早く食べないと蕩けてしまう。だらしなくなってしまう。つるつる啜る。それぽっきり。おお、暑い。毛穴から汗が滲みだしてくるのが分かる。ふうう。これでお昼ご飯は終わりだ。働いてもいない。なんの運動もしていない。だからこのくらいで栄養価で十分である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢かとぞ思う きみに会えることも嬉しさも

2017年08月16日 11時58分37秒 | Weblog

貞心尼。俗名奥村マス。長岡藩奥村五平の娘。彼女が島崎の庵に良寛禅師を訪ねてきたのが30歳。これより70歳の禅師に歌と書と仏道を仰ぐことになります。二人は忽ち恋仲になってしまいます。よほど気心が合致したのでしょう。年齢差40歳。年齢の差を飛び越えて、二人は同時に雲の上に昇るここちを味わいます。

なにしろ歌が相通じ合うのです。

君にかくあひ見ることもうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ

貞心尼はこう詠います。嬉しい、と。まだ覚めない夢の中にいるような心境だと。禅師に会えたのも夢。言外に、これからの佳き日々の到来を思うと夢の中を出られない、とも。

すると禅師がすぐさまこう返歌をなさいます。

夢の中にかつまどろみてゆめをまた語るもゆめもそれがまにまに

31文字の中に「夢」「ゆめ」「ゆめ」と三度も連ねておられます。わたしもまた夢のようだと。あなたと語り合うのも夢、夢の世にこのようにまどろんでいられるのも夢、夢を題材にして歌を重ね合えるのもまた夢、だと。このままこの夢の中にいたいものだ、と。良寛禅師はもう雲の上に浮き上がっておられます。

さぶろうももはやその良寛禅師の年齢を超えました。貞心尼との師弟淡交を偲んでいます。もちろんさぶろうにはこうしたロマンスはついぞありません。さみしいことです。道を求めもせず、ひたすらぐうたらを重ねているばかりです。

禅師は74歳で示寂されます。そのあと貞心尼は禅師との交遊録を「はちすの露」と題して世に出されます。仏道を求め合いつつ、二人はその短い時間、楽しい楽しい語らいを重ねたことでしょう。彼女は正式に得度。明治5年柏崎の「釈迦堂・不求庵」で亡くなっています。75歳でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする