一度でも観世音菩薩を念じた者は救われると法華経にある。ではわたしは救われた者である。
わたしは南無観世音菩薩を唱えた。一度ならず。約束は守られるはずである。まして菩薩如来の仏門の約束である。仏陀との契約事である。
こうなれば、生老病死のいずれも救われた者の生老病死である。何がどうなろうとそれも救われた事実である。そう見えていなくともそれで約束履行である。
世間の言う通りでなくともいい。偉くならなくともそれでいい。たとい正義に則っていない悪道の流転でも、それでいい。失敗失策だらけでもいい。のろまでいい。蒙昧でいい。不評者であってもいい。誤算と出てもそれが救われた者の選択肢である。それがこの時点での、仏に救われたわたしの姿である。安心をしていていい。わたしは仏に救われた者である。これは揺るがない。
にたりにたりにたり。これでいい。生きているときにこうであるから、死後もこれに洩れることはない。こうでなくちゃ。
仏道は一貫している。貫き通されている。こうであってこその仏道。しめしめ。にたりにたり、にたりにたり、にたりにたり。とは申せ、老爺の真夜中のひとりにやにやは薄気味悪いから此処らでもう止める。