<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしの耳は雨垂れの鍵盤

2017年08月18日 20時31分26秒 | Weblog

しととんの音のほがらや 寝し耳を鍵盤にする雨垂れの指      薬王華蔵

しとしとしと、とんとんとん。雨垂れの音。聞いているといつのまにか朗らかにさせられる。寝に掛かる耳が鍵盤になっているからだ。ピアニストの雨垂れの、指が10本で軽やかに弾いている。

もしかしたら自然の音楽は人間を朗らかにするために、根気強く鳴り続けているのではないか。そうだとしたら? そんなことはあるまい? 思わずセルフ・デイベイトになる。 

そうだとしたらわれわれは戦争をしてはならない。人を殺してはならない。憎んではならない。威嚇してはならない。恨んではならない。そうなのではないか。しかしもしもそういう危険思想に巻き付かれるようなことになったら? その時にこそ雨垂れの音を聞くべきではないか。

31文字の短歌の周囲をぐるぐるぐるぐる回って、そんなことをさぶろうは思った。雨垂れは善意のピアニストである。少なくともさぶろうにとっては。これを結論にしてこのブログを閉じよう。

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夜は、昼間の相思を反芻して深める時間帯

2017年08月18日 16時37分11秒 | Weblog

月見草月を見てをり月も目を離さなず 夜は相思のあわひ      薬王華蔵

AがBを思う。BがAを思う。愛情を抱いて。これで相思の間柄となる。これがワンセットである。月見草と月もこの間柄である。互いに目を見ている。相手から目をそらしていない。相思は夜中続く。人になぜ夜があるか。夜は昼間の相思を反芻して深める時間(あわい)だからである。

地球にいのちをもらって生まれて来たのだから、人を憎んではならない。人を憎む度にこころに冷却装置が働き出す。体温ならぬ心温が下がってしまう。凍り付く。固まった固体になってしまう。生きている間は人を思うべきである。死ぬ間際まで人を思うべきである。会いたい人を持つべきである。守りたい人を持つべきである。人を思うと心温は逆に上がる。あたたまる。あたたまって液体になる、そしてとうとう気体になる。

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死者の霊がおんなの人の美しい目を盗む

2017年08月18日 15時38分07秒 | Weblog

目を盗むこのあたたかさうつくしさ しかし断じて気づかれぬやう      薬王華蔵

おんなの人の目を覗き込む、ちらりと。瞬間的に。それを「目を盗む」と表現したが、無理があったろうか。人の目を盗んで悪事を働くのをイメージしてしまうかもしれない。

うつくしいと思って見る。そしてあたたまる。わたしにはそれしかできぬ。口説いたりはとても出来ない。そんな力はない。強引はない。その魅力もない。おんなの人はうつくしいと思って眺めている。そしてその中心核の目を射貫く。気づかれないように。断じて気づかれないように。醜い男のわたしだ。恐がらせてはいけない。そして立つ鳥のように何物も残さず、執着すら残さず、去って行く。

はたしてこの世のおんなの人は美しかった、その温かくうつくしい思いに満たされて、死者の霊は花園から雲の上に昇って行く。

「死者の霊」などと言うとそれはスリラーものの映画もどきだ。でもそれっは極めて一方的な偏見と独断だ。そんなことはない。そんなことはない。死者の霊だって冷蔵庫の中の氷のように冷たくはないのである。血が通っているわけではないが、それと同じほどに温かいのである。靨(えくぼ)も微笑む頬もある。修正をお願いしたい。

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キクラゲ大盛チャンポン麺にしました

2017年08月18日 13時18分29秒 | Weblog

孫に請われてチャンポン屋さんに来ています。一軒目の店はお盆休み。で、もう一軒目の店へ。孫も爺もキクラゲ大盛チャンポンを頼みました。キクラゲは「木の耳」と書きます。たしかに耳の形をしています。コリンコリンしています。それとギョウザを一皿。13時を少し過ぎているのに、お店は混雑しています。孫たちは明日帰ります。

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我々は無限の進歩へと向かっている その5

2017年08月18日 11時30分56秒 | Weblog

たとい仏陀に成っても同じだ。仏陀にすら終わりはない。仏陀は第二次航路へと旅立つ。輝きが増し続ける。このサイクルが停止をすることはない。終わりはないのである。

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無限の進歩へ無限の向上へと進んで行くのである。耀いて輝いていくのである。照らし合って照らし合って何処までも何処までも進んで行くのである。

そんなことを書いてみました。法華経を読むとここへ来てしまいます。ただしわたしは学者ではありません。僧侶でもありません。在俗の者です。知識も知恵もない無明の徒で、悉くあやふやです。怠け者なのでちっとも学習が進んでいません。読者氏はそれぞれご自分でご判断下さい。

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我々は無限の進歩へ向かっている その4

2017年08月18日 11時28分00秒 | Weblog

第一完了地点は第二完了の旅に向かうスタート地点である。第二完了地点は第三完了地点へのスタート地点である。これを繰り返す。永遠に繰り返す。

だから、学習者であるわたしの途中棄権はないのである。それを見守る大きな配慮の途中放棄もないのである。

 

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我我は無限の進歩へと向かって行く その3

2017年08月18日 11時23分29秒 | Weblog

それを途中放棄するくらいでは「大きな配慮」とは言えないし、放棄することはない。それが法・ダンマのハタラキだからである。我々は今まさに、無限の進歩へ向かっているところだ。コンスタントに。

われわれは宇宙・宇宙の法とともに永遠の旅をしているのである。次なる向上へ、さらに高い向上へと活動を続けているのである。

 

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我々は無限の進歩へと向かって行く その2

2017年08月18日 11時20分34秒 | Weblog

わたしはそれをことごとに学ぶ。死をも学ぶ。学び終われば、わたしはにっこりする。確信と安心が深まる。だからにっこりにっこりしてまた立ち上がって進むのである。

大きな配慮は、わたしの始めから終わりまで、否、終わりのない無限まで見守っているはずである。導き通すはずである。手筈通り。宇宙法の契約通り。

 

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我々は無限の進歩へと向かって行く その1

2017年08月18日 10時54分21秒 | Weblog

途中で見放すはずはないのである。大きな配慮がわたしの全身全霊を抱き上げているのである。

それをたかだか「苦しみのとき」「悲しみのとき」「死のとき」に差し掛かったというくらいで見放してしまうはずはないのである。

 

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我が行く手を今日新しくするために

2017年08月18日 09時57分00秒 | Weblog

我が行く手をけふ新しくするために夏空に先ず白雲浮かぶ     薬王華蔵

一日生き延びればその一日分新しくなっているのであるが、その証拠実景を見たいと思う。そう思って歩を進めて行く。と、すなわち我が行く手の今日を新しくするために、空の真上にむくむくと白雲が浮かんで来た、そこを捕まえた歌である。「我が行く手」とは、空間の行く手、すなわち皐の上でもあり、時間の行く手、すなわち昼、夕、明朝でもある。

我が行く手は大きな大きな配慮によって、こうして日々新しくなって行く。生き生き、まざまざとなって行く。真実に向かって深められて行く。誠実に向かって高められて行く。嬉しくなる。薬王華蔵の歌はどうもこうした「嬉しくなる歌」が多いようだ。「自己に集約される大きな大きな配慮」を感じるときには、きまってそうなる傾向がある。

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