一切法は自性清浄なるが故に般若波羅蜜多も清浄なり。・・・即ち現生に於いて一切の法平等の三摩地を証し、一切法に於いて皆自在なるを得て無量の適悦歓喜を受けむ。 真言宗経典「般若理趣経」より
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(わたしに言い聞かせるためにこの句を味わってみる。わたしの放つ矢は的を外れているだろうが、放つことが練習に成って、やがて的を射ることが出来る日も、もしかしたら来るかも知れない。それを期待しつつ)
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この世に存在しているものはすべてその本質に於いて本来清浄である。だからこれを見据えることで得られた般若波羅蜜多(はんにゃはらみた=智慧の完成。修行によって完成された悟り=仏の智慧に等しい世界観)もまた自ずからにして清浄である。・・・自性清浄という智慧によって到達した修行完成者は、生きている間に、「すべてのこの世の存在はそのままが清浄である」という確固とした境地(金剛三摩地)を得、そこに自由自在な融通三昧を体現する。こうして計り知れない楽しみと喜び(適悦歓喜)を享受することになるのだ。(さぶろう老爺の自己解釈)
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不垢(ふく)でもなく不浄でもない。汚れても汚されてもいないので、従って、汚れを拭き取ることもない、そういう「絶対清浄」なのかもしれない。欲望は悪とされるが、活用の仕方によって欲望は清浄となる。現象現相として外に現れてきたものの善悪でもなく、是非でもなく、禍福でもない。根源的に人を生かそうとするエネルギーがある。それがこの世に満ちている。此に適合する道が与えられている。それを金剛三摩地(こんごうさんまじ)と呼称するのかもしれない。
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われわれの為す煩悩悪業の所行はこの世では不正義・不純・不適格の烙印を押されている。それをもう一度裏返しにしたのかもしれない。マイナス懸けマイナスはプラスになる。プラスにはパワーが潜んでいる。生き生き生きる力が籠もっている。そこに「一切法自性清浄」の智慧波羅蜜がで醸成されたのかもしれない。
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闇の扉の外側は明るいところである。扉一枚でそこを闇にしている。闇にいるものは閉じ籠もる。そして否定を繰り返す。自己蔑視を掘り下げる。しかしそこが宇宙の全てではない。扉一枚の外側には光が溢れているのである。光に遇うことを「一切法自在」というのかもしれない。
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