<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今日は怠け者が2時間働いた

2017年08月24日 22時50分47秒 | Weblog

怠け者が、今日はそこを一歩抜け出てみた。夕方からだったけど、2時間ばかり庭の小径の草取りをした。汗びっしょりになった。頭から、ペットボトルの水を浴びせかけた。着ている服が濡れてしまった。そのままでいても湯気が立った。藪になっていた庭の小径が一部通れるようになった。抜いた草を何度も何度も捨てに通った。よろよろよろけながら。でもまあ、働いたという充足感の熱であたたまれた。暗くなってもう何も見えなくなった。手足を洗って上がって来た。折檻でゴシゴシ擦って、シャワーを浴びた。夕食にねぎらいの缶ビールを飲んだ。

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死は己に何かを求めてくるのか ラスト

2017年08月24日 22時40分37秒 | Weblog

臨終の時、死に際の時に、予定死者はにっこりする。にっこり微笑む。頬が薔薇色に変わる。あれは、もしかしたら、全肯定をしたのではないか。「ああ、よかった」「すべてが予定通り、計算通りだった」「果たすべきはみな果たし終えた」「悔いはない」「こころは感謝ばかりだ」という結論に支配されて、にっこりしているのかもしれない。

死が己に求めてくることはないのかも知れない。求めて来たのは己の生のみだったかもしれない。死は最高最善の安寧と慰撫と、最上最良のねぎらい・いたわりを投げて寄こすだけかもしれない。

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これはみな十郎の邪推である。ここに書いていることは素手で雲を掴むようなことである。

死は人知の理解を超えていることなのだから。

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死はその時己に何を求めるだろう その8

2017年08月24日 22時34分39秒 | Weblog

いや、誰もがそこで何かを己に向かって語るだろう。たった一つの結論を導き出すだろう。長い長いマラソンを走り終えて、このマラソンの感想を述べることになるだろう。一言に集約して述べることになるだろう。

十郎の場合は、それは否定的な結論になるのだろうか。それとも肯定的な集約表現になるのだろうか。今現在でどちらに転ぶのか予想がつかない。

死はその時己に何を求めてくるのだろう? 何も求めてくることはないのかも知れない。安らぎを与えて与えて来るだけかもしれない。死は全面的に仏陀の利他行、慈悲の行の内側にあることなのだから。

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死は己に何を求めるか その7

2017年08月24日 22時28分17秒 | Weblog

わたしは美しい夕日を見た。海に落ちていく夕日だった。これを美しいと思えた。これでよかった。この一点で迷いの底から波の上に浮かぶことができた。この感動を抱いて死ねるのだから、わたしの充足は揺るがない。そういういわば自画自賛のような結論で幕引きが出来る人、極上の幸せで決着できる人もいるかも知れない。

 

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死は己に何を求めるか その6

2017年08月24日 22時21分47秒 | Weblog

生まれて来る前に、「この世に生まれてきたらこれをしよう、あれをしよう」などと計画をしてきたはずだ。そしてそれは何%くらいが実現したのだろう。中にはしなくていいことばかりをしてしまうことになってしまった、なんていう人もいるかも知れない、0,00001%位は。その対極にいる人もいるかもしれない。すべてやりたいことばかりをやれた。奇跡的だった、とう述懐を残せる人も。

死は己に何を求めるだろうか? 何も求めないだろうか。そうかもしれない。そうだとしたら、十郎は安らかに死ねそうではないか。

生きている間に、こころに釘が刺さって苦しんだなんてことは一度や二度ではないのだから。

 

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死は己に何を求めるか その5

2017年08月24日 22時17分25秒 | Weblog

いやいや、この世に生まれてきた人の全員に満足をして死んで行って欲しいものだ。ひそかにそう思う。誰もが満足をする死に方があるはずである。

「ああ、オレは生まれてきてよかった」「ああ、オレの一生涯は何と素晴らしかっただろう」「ああ、おれはここで死ねてよかった」「結果的にだが、オレがこの世でこれまでにしたことはすべて正しい道筋を踏んでいた。自然の理に適っていた」という具合に。全肯定をして。

死は己に何を求めるのだろうか? 

案外、何も求めることはないのかもしれない。そうだと安らかに死ねそうだ。

 

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死は己に生涯の集約を求めるか その4

2017年08月24日 22時14分28秒 | Weblog

「悔いはない」と言って死ねる人もいるかもしれない。「悔いばかりだ」と言って死ぬ人もいるかも知れない。

前者には恐怖感などというものはなかろう。後者の反省は慎み深さを、同行者たちに讃えられることになるかもしれない。

 

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死は己に生涯の集約を求めるか その3

2017年08月24日 22時07分04秒 | Weblog

オレは何もかも上手く行った。で、遇う人遇う人に、自慢を重ねて来た。でもそれで失うこともあった。上手く行かない人を蔑んでしまうことになった。これはいいことではなかった。支配者にはなれたが、心の友を得ることがなかった。

オレは何もかも上手く行かなかった。人を羨んでばかりだった。人を比べて生きることがつまらない生き方だと言うことくらいは分かっていたのに、結局一生涯比べて比べて生きることになった。侘しい寂しいやるせない暮らしに終始した。

などなどなど。

 

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死は己に生涯の集約を求めるか その2

2017年08月24日 22時00分41秒 | Weblog

生きている間にあれこれあれこれがあって、泣いて笑って悲しんで喜んで、でも最後に終わりになって、死ぬ時が来て、ふっと、「オレは死んで行くことになったけれど、では、結局のところ此処で一体何をしたのだろう?」って一瞬、頭を捻ってしまわないだろうか。一生涯の収支決算みたいなものを迫られてしまうことはないだろうか。

「で、オレは此処へ何をしに来たんだったっけ?」「何が残ったんだっけ?」「いやはや、あれだけ期待して生まれて来たのだけど、人間が生きるというのは結局のところ、こんなことだったのか」(女性の場合は「わたしは・・・・?」と柔らかくなる)

(偉くなれた人、偉い人はそういう切迫感(?)を抱かなくても済むかも知れない。「ふっふっふ、努力はすべて実った」と)

 

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死は己の生涯の集約を求めるか その1

2017年08月24日 20時44分28秒 | Weblog

人は死ぬ。人は死ぬ時に何を思うのだろう? もう何にも思わないのだろうか? 最終の最終ではそうなるだろう。でもそこに到るまでの時間が用意されている。僅かな時間かも知れないが・・・

 

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