<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

何処へ行こうがそこが最高最上の居場所

2017年08月25日 13時35分02秒 | Weblog

自性(じしょう)霊妙、主人公惺惺(せいせい)として覚めたれば、随所に主となって、立処皆真なり。自ら自性を晦(くら)まして、他をして迷惑せしめんや。     臨済宗妙心寺派経典「宗門安心章」より

わたしは、生まれて来るときにその耳に次のように囁かれた。それを思い出す。

1,汝は尊い仏界に生まれたので尊い仏の子である。

2、だから汝の本性は仏性そのものであり、もっとも霊妙である。

3,汝のために仏界が用意されたので汝こそがこの世界の主人公である。

4,そこを自覚していれば汝は何処に行ってもまっすぐに自らの足で立っていることが出来る。

5,立っているところが真実界だから、汝の足元に太陽の光が届き汝の頭上に銀河が煌めくであろう。

6,自性の仏心を晦まして、卑屈になるな。怯えるな。迷妄に落ちるな。胸を張れ。その不動の姿が他者の手本となる。

耳はその時の言葉を復唱している。

「汝が生まれ出るこの世界は、汝がいかようにも生きて活動できるようにしてある」「ここに生きているということは即ち汝がこの世界の主人公の資格を有しているということである」「頂いた霊妙の自性を曲げず折り畳まず外に現して素直に発揮せよ」「迷妄の酒を喰らうな」「迷妄に振り回されることがなければ、何処へ行こうがそこが汝に最も相応しい最上の居場所である」「霊妙の自性に蓋をしておくな」

「随所に主と為る」とはどういうことか。ふっと思ったことだが、それは「仏陀と会って話が出来るのは汝自らである」ということかもしれない。

宗門安心章を読んで、十郎は以上のような安心を得た。この章は「飲酒することなかれ。愚痴の酒を飲むことなかれ」から始まっている。

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気まぐれなお天気だ

2017年08月25日 11時39分25秒 | Weblog

夜明けに雨が降った。雨の音がした。それが止んだ。日射しが注いだ。10時前後に亦雨になった。そして止んだ。正午、からりと晴れている。照りつけている。気まぐれなお天気だ。風もやや強く吹いていて、夕顔の大きな葉っぱが煽られて時折白い裏葉を見せている。十郎は金曜ごとに新聞投稿する短歌の作品をどうにかこうにか書き上げた。四苦八苦して。あ、そうそう、今日の新聞発表では落選だった。やっぱりがっかりした。いい作品が書けていなかったということを認めて、すぐに気持ちを入れ替えた。文学賞に応募する予定の随筆がまだ書けていない。8月末で締め切りだから、残り幾日もない。原稿用紙5枚。荷が重い。結局、書けないかも知れない。お昼からクリニックへ行く。検査結果を聞きに。それから修理してもらっているマイカーを受け取りに行く予定。夕方、少し涼しくなったなら、昨日に続いて野良仕事をしてもいい。風も吹いていないで、蒸し蒸し暑かったなら、しない。無理はしない。今日の気紛れお天気とあまり変わらないようだ。

 

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画竜点睛したら、龍は絵の中から飛び出してしまう

2017年08月25日 05時51分34秒 | Weblog

でも、生きているって、どういうことなんだろう? ふっと考えてしまう。おれはほんとうに生きているのかなと思うときがある。頬を抓って確かめたくなるときがある。こんなうすっぺらの生き方をだらだら続けていてもいいのかなと懐疑するときもある。でもそれでいいから、明日が今日になったはずとも思う。

でも、期間が限定されているのは、どうしてなんだろう? それがいいからだよね、きっと。そこにぐっと圧縮されている。点火爆発が起きやすくしてある。忍耐力が乏しいものにも忍耐可能になっている。おいしく甘く濃厚になっている。それを口にすれば栄養豊富で、すぐにも元気になれる仕組みになっている。なるほどなるほど。

それを、十郎はうすっぺらに生きている。ぼんやりぼんやり生きている。こんなふうだから、長々と生きていてもなかなか積み上がらない。一丁「上がり」にならない。仕立て上がらない。画竜点睛したら、龍は、この世という絵の中から飛び出してしまうけど、いつかそうなるはず。

死者たちは、(何かの拍子に)画竜点睛をしたために絵の中から、仮の世から、飛び出せたのだろう。ロケットエンジンが火を噴いて真実界に飛び込んでいったのだろう。

今此処にいて、生きているって、どういうことなんだろう? 一つの完成に向かっている、というふうにも思える。この世の暫定到達点、死に辿り着こうとしている、というふうにも思える。

だったら、死ぬってことが生きたということの証明なのかなあ。

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朝早くに錯覚に陥る

2017年08月25日 05時39分12秒 | Weblog

もうすぐ6時。夜が明ける。目の前が明るくなる。ああ、よかった。それまで目を閉じていたけど、もう目を開けてもいい。ものがものとして見える。ああ、よかった。ものたちが、わたしを見てよ見てよと言い募る。見る。それぞれの元気な姿を見て、元気をもらう。ああ、よかったと思う。この世をよかったよかったと思って見渡すと、十郎は小さなアイヌの神さまになったような錯覚に陥る。

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