皺皺皺。わたしは眼鏡を掛けています。するとわたしの腕が皺皺皺なのです。長く生きてきたのだから、これは勲章のようなものです。よくまあこの老齢まで生きて来られたものだなあと思います。我が事ながら感心します。苦、悲、病、怪我、災難さまざまなものが襲って来ただろうに、それを騙し、憐れみを請い、それを避けそれを逃れ、青ざめ、隠れ、身を潜め、死んだ振りをして生き延びてきたんですねえ。手の甲にも皺がある。指にも皺がある。守って守って守られて守られて守られてここまで辿り着いているいのちの不思議。皺の向こうにそれを透かして見ている。
いにしへを思へば夢か現(うつつ)かも 夜はしぐれの雨を聞きつつ 大愚良寛
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過ぎて行った年月がたしかにあるはずなのだが、過ぎたということが実感できない。それはみんな夢だったかも知れない。あるいは現実に我が身に起こったことなのかもしれない。分からない分からない。老いてみればその辺りの事情が霧になってしまう霞になってしまう。現実味のあるのは時雨の雨の音だ。夜更けてこれを聞きながら、この仮の世を仮の世として追想してみるばかりだ。これでいいか。これでいい。不思議と後悔がない。
禅師の70歳近くの歌です。
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今夜さぶろうの棲んでいるここにも小雨が降っています。老いたさぶろうも雨の音を聞いています。
人付き合いが苦手だ。どうも苦手だ。その責めは、一方的に我にある。相手に非はない。この木偶の坊はまったく調子を合わせない、そこが元凶だ。相手の意を無視して掛かっている。だから、この邪鬼は全く付き合い難い相手なのだ。離れておくに限る人物なのだ。
隣人とも一線を画している。友人仲間とも長続きしない。家族にも穏やかに接していられない、子等に親の顔をすることもできない。妻とも不協和音が鳴る。あとは排除の防衛策しか残っていない。そうしてみんなを追いやっておいて、ひとりでいる。孤高を気取るつもりもない。実状は孤低だ。孤にして低俗だ。
老いたらもう少しは丸くなると期待していたが、外れた。いよいよ以て我が儘が昂じている。人に馴染まない。多くは楽しそうに集団を形成しているというのに、その場に行ってみても、そこに安んじていられない。場に相応しくない自分を感じて逃げ出してしまう。他者を慈しむという意思がいまだに誕生してこない。愛情欠損老爺だ。
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8月21日、月曜日。外は曇っている。桃の木によじ登った胡瓜の蔓先に、幾つか黄色い小さな花が咲いている。黄色の花の部分だけがやけに明るい。この男はそれをぼんやり眺めているきりだ。これでいいか。いいはずはない。