<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

またまたぶらり

2017年08月02日 16時21分31秒 | Weblog

熊本県山都町に来ている。通潤橋が近くにある。清和文楽天文台もあるらしい。滝が涼しそうだ。散歩で行ける距離らしいが、暑くて行動に移せない。たらたら汗を掻きたくない。宿の部屋は10畳。これに板の間が5畳分の広さ。一人には広すぎるくらい。しばらくあちこち放浪したくなった。今朝家を出て、ようやくさっき4時前に到着した。夏休みに入っているので宿は取れないと思っていた。温泉宿を3軒電話して断られた。4軒目のここが空いていた。明日はまた別を当たってみよう。そうか、夏休みといっても、若いお父さんお母さんには夏休みはあるまい。やはり、ウイークデーにここへ来られるのは我が輩のような退職者老人くらいなものかもしれない。老人が孫を連れてくれば実現可能だ。廊下を小学生が走り回っている。

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わたしが死ぬということはどういうことなのか その6

2017年08月02日 08時49分40秒 | Weblog

ドイツの国境を出たらそこはフランスである。生死の国境を出たらそこは何処なのだろう? そこが何処であったとしても、わたしという命の旅は続いているのではないか。そういう疑問が湧いてくる。国境を出た元のドイツは地球上の一国に過ぎないのだ。ドイツを出国したという事実は紛れもない事実なのだが、わたしが次なる新天地を目指しているのなら、初々しさに溢れているわたしであることも事実だろう。棲息場所が見えない場所に移動したということを「死」と定義するのだろうか。

ま、まままま。今はわたしは生きている。わたしが生きているのか、それとも権限を持つ肉体が生きているのか。両者がタイアップして生きているのか。

わたしがわたしの自力で死ぬのではない。死なされるのである。そうすべきときが到来しているのでそうされるのである。良い方へ良い方へと変化を辿って行くのである。わたしが死ぬということはどういうことなのか、類推を重ねて来た。あくまで推理に他ならない。

ワシワシ蝉が盛んに鳴き出してきた。これを、わたしとわたしを所有する肉体は、いまは静かに穏やかに聞いているところだ。

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わたしが死ぬということはどういうことなのか その5

2017年08月02日 08時43分23秒 | Weblog

わたしが死ぬと言うことは、もしかしたら、死んで何かに変化をするということだろうか。変化の段階を辿ったと云うことだろうか。わたしが死ねばわたしは、仏教が示唆するように、「仏に成る」のだろうか。わたしがわたしへの執着を離れさえすれば、わたしはたちまち「成仏」するのかもしれない。仏教はそういうことも説いている。そうするとわたしは一段の飛躍、発展と向上と進化のレベルアップを謀ったと云うことになる。それは暗転ではない。それでもそれは忌みすべき死なのだろうか。物体は次なるステップへ変化をするだけで、決して消滅をするわけではない。

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わたしが死ぬということはどういうことなのか その4

2017年08月02日 08時34分38秒 | Weblog

わたしを構成している構成要素の一つである「タマシイ氏」もやはり時を同じくして殉死をするのだろうか? わたしを構成していた要素はその他にも五万と居たはずだ。それもぴったり寄り添って殉死の枕を同じくしたのだろうか? 「ココロ氏」はどうしただろうか。「フィーリング氏」はどうしただろうか。「意識氏」はどうしただろうか。高めてきたはずの「創造意欲氏」は無に帰するのだろうか。わたしが日頃肉体の中で育てていた仏陀への「信」は、それですっかりお終いになったのだろうか。

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わたしが死ぬということはどういうことなのか その3

2017年08月02日 07時29分11秒 | Weblog

わたしは肉体に隷属していたのか? 肉体がわたしの死活を握っていたとなればそういうことになるのかもしれない。肉体がわたしの王ということになる。たしかに肉体が病めばわたしが病むことになる。肉体が老いるとわたしが老いると云うことになる。肉体が性欲を剥き出しにすればわたしはそれに奉仕をすることになる。肉体がわたしを意のままにしているという実態はある。わたしは嫌が応にも肉体への絶対服従と尊敬を強いられる。主権は肉体の方にあるのか、だったらやはり。

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わたしが死ぬということはどういうことなのか その2

2017年08月02日 07時19分11秒 | Weblog

ここを去っただけではないのか。たとえば、地球を去ってカシオペア座に移転移動したのではないか。此処を去ると云うことはこれまでにもあったことだ。旅をしていたときには、日頃棲んでいる地点をしばらく後にするものだ。故郷を離れても旅先の別天地では普通通りに暮らしている、ということは有り得る。此処に居ないと云うことが死んだということなのか。「此処を死んだ」とう現象を死と呼んでいたのか。死なずに居るわたしが何処かにいるのではないか。

「根源のわたし」の活動は、案外、そういう肉体環境事情の変化を超越して、「始原大元の死なないわたし」を続けているのではないか。

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わたしが死ぬということはどういうことなんだろう その1

2017年08月02日 06時22分27秒 | Weblog

死んだら生きていない。それは分かった。で、何が死んだのだ? 何が生きていないことになるのか? わたしが死んだら、わたしが生きていない。それは正確な表現なのか? わたしの肉体が肉体の機能を維持できなくなったということではないのか? わたしはわたしの肉体ですべてだったのか? わたしは肉体だったのか? 肉体は、この世にいる間のわたしの、活動維持組織体ではなかったのか? 生きていないということは、では、わたしの肉体が生きていないということだけなのか? 「わたし=わたしの肉体」としても、その「わたし」は残っているのではないか。手にぶら下げたバケツを庭先に下ろしただけの状態なのではないのか。

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ベランダの自転車の後輪に朝顔

2017年08月02日 05時54分48秒 | Weblog

ふふ。ふ。ベランダに立っている自転車の後輪に巻き付いた朝顔が、今朝は濃紺の大輪を咲かせているぞ。一輪すっと威を正して。すぐその隣は庭。庭に朝顔鉢を置いている。濡れ縁には鉢が3鉢。ここにも咲いている。ここのは薄い桜色と薄いブルーとホワイト。網戸を通して冷気が入って来る。早朝6時だ。隣家の屋根にうっすらと日脚が延びている。ニイニイ蝉楽団の演奏会がすでに始まっている。

おいらは生きている。生きたかった弟は死んでいったのに、おいらはしぶとく。生きているおいらの8月2日は、では、どんな日になるのだろう。深い呼吸をしてみる。お腹が膨らんだ。死なないでここにいるということはどういうことか。ベランダに立っている自転車の、後輪に巻き付いた濃紺の朝顔を見ている、と云うことだ。

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