<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

偉い人の集まるところには足が向かない

2017年08月03日 16時09分14秒 | Weblog

さぶろうは偉くない。だもんで、偉い人の集まるところには足が向かない。傍まででも行きたくない。声を聞く耳すらない。小さい。度量が小さい。さぶろうはみすぼらしい。だもんで、オシャレを施した人たちの集まりには入れない。近くにも寄りたがらない。さぶろうは醜い。しかし、美しい女性を見たがる。ここは矛盾している。直接は避ける。間接にテレビ放送だとか映画などで見て、「いいなあ」「あんな美人さんにお目に掛かりたいもんだ」などと言う。奥さんに怒られる。はしたなさを咎められる。さぶろうはこころが、歪だ。折れ曲がっている。しわくちゃに皺して、縮んでいる。でも、伸び伸びした性格の人が好きだ。ほっとする。ここも矛盾している。萎縮している人はつまらないと思う。暗い目をした人では、温まれない。自分がそう思うくらいだから、他人様はさぶろうを見たら、体が冷えてしまうだろう。自戒しなくちゃならない。

ああ、温まりたいなあ。暑い夏だというのに。それには己の性格改造しかあるまいが、もうさぶろうは老いている。巌のように固まっている頑固さがここへ来ていきなり溶け出すとは思えない。おしまい。おそまつな結論だあ。

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わたしは百層千層を成して生きている

2017年08月03日 12時43分14秒 | Weblog

わたしを所有している肉体があるとすれば、肉体が死滅をすれば、わたしは解放されることになる。わたしは自由の身になれることになる。わたしが肉体を雇用しているとなればどうなのだろう? 肉体が死滅したら、わたしはまた新しい肉体を雇用すればいいことになる。肉体は形を有しているので何処にいるかの所在が見えるけれども、物質ではないわたしは透明であるから、把握は出来ない。わたしは非物質であるから、ここにいることすらも目には見えないのだ。見えているのは物質である。わたしとして見えているのは肉体としてのわたしである。しかし、わたしは物質ではない。それでは何かと都合が悪いので、わたしは見えるものの手助けを借りたのである。肉体の手助けを借りたのである。しかしいつの間にか、主客が入れ替わってしまった。わたしは肉体としてのわたしとなってしまったのである。もう一度整理しよう。「わたし=わたしの肉体」ではないのである。この二枚の板硝子は重なり合っている部分はあるかも知れないが。あくまでも二枚の板硝子的存在である。わたしからわたしの肉体を差し引くと、わたしは0になるか? わたしは、そうはならないと思っている。肉体の生き死にが、わたしの生き死にであるとは考えない。わたしは霊的なわたしであると考えている。わたしを超越している高度の意思によって守られ導かれて目的地に向かって進んでいる、と考えている。わたしは一層二層ではなく、三層五層、十層百層を成していると考えている。

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これから高千穂峡へ

2017年08月03日 10時08分51秒 | Weblog

九州地方へ台風が接近しているらしい。ちょっと心配。これから高千穂峡へ行く。ここで泊まることにする。今は通潤橋の山都町にいる。チェックアウトを済ませた。風は吹いていない。暑くなりそうだ。途中の温泉場に立ち寄って行くつもり。気楽な旅だ。

老いてゆく。日一日老いてゆく。いつまでこうしていられるやら。昨夜、しみじみ我が行く末の哀れを考えていて精神不安になった。じわりじわりと煮詰められるように乾涸らびていくことだろう。じわりじわりとではなく、一挙にどっとかもしれない。立ち動きすらもままならなくなるかもしれない。

哀れを誰が看取ってくれるのだろう。難儀を掛けるだろう。それに耐えうるだろうか、双方。

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