<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

四郎五郎峠の母さん狐が死にそうです

2017年08月20日 16時02分00秒 | Weblog

ほのぼのとしています/見上げる山と空がほのぼのの競争をしています/と思ったらこちらでは谷川の岩が流れる水とほのぼのの競争をしています/と思ったらこんどは蝉トンボと揚羽蝶がならんでやっぱりほのぼのの競争をしています/今日はおかしな日です/競争なんかする必要はないはずなのに/なあんだ/そうだったのか/分かりましたよ/木菟(みみずく)が一言高らかに宣言したからでした、これは/なんと宣言したんですか/こう宣言したんです/「四郎五郎峠の母さん狐が死にそうです」/「これを治す薬はたった一つ」/「たくさんの意思たちの精一杯のほのぼのを見せて上げることです」/そこでそれを聞いた山がまず反応をしたわけです/するとそれを見た空が続いて反応したというわけです/そうやってほのぼのの波紋が広がっていきました/谷川の岩戸そこを流れる水も黙っていられなかったのです/蝉トンボも揚羽蝶も仲間に加わりました/四郎五郎峠の母さん狐は/木菟の言う通りになりました/ほのぼのという薬を腹一杯飲むことになったのです/で、どうなったのですか/母さん狐は死なないですんだのですか/いいえ/母さん狐は死にました/たしかに死にましたが/みんなの造り上げたほのぼの世界で生き返ったのです/死ぬということは同時にまた生きることだ/ということが母さん狐に納得されたので/山も空も谷川の岩も水も/蝉トンボも揚羽蝶も/ほのぼのとすることがどんなに偉大であるかが分かったのです/

これは谺から聞いたお話ですが/それを宣言した木菟の功績が大きい/とわたしなんかは思います/

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わたしもいつもきょとんとしているから

2017年08月20日 12時30分28秒 | Weblog

「この素麺を食べたらどうなるの」「ぼくの中でどうなるの」知りたがり屋の4歳の孫が聞く。お母さんが「お素麺は胃の中でこなれて、それからやがてあなたになるのよ」と答えている。4歳はそれが分からない。そのカラクリが分からない。素麺がぼくになったらぼくは素麺みたいになるの? 小さくなっちゃうの?」と返している。お母さんが「お素麺はあなたの力になるのよ」「その力があるとあなたが砂場で遊べるようになるのよ」と丁寧に言い直している。でも孫はきょとんとしている。

神さまがお母さんで、わたしが4歳のこどもに見えて来る。説明されても説明されても、わたしもいつもきょとんとしているから。

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ドッドド ドドッド エンヤーヨイショ

2017年08月20日 12時06分38秒 | Weblog

白状します。わたしは発狂しています。狂っています。狂人です。中心軸を外して、逸れて、勝手気ままに動いている者、わたしは狂人です。またわたしは異端の説=我見をよしとして信奉する異端者です。神の選民であることを自己放棄した異邦人です。

このわたしを中心軸に連れ戻そうとしているエネルギーがあります。それを肌で感じます。随分随分逸れてしまっているので、正常の位置に据えるのは大変な苦労です。それを毎日エンヤーエンヤー・ドッドドドッドド・ヨイショーヨイショーと掛け声を掛けながら押して引いています。

わたしは、でも、その掛け声を今日聞いています。中心軸の内奥にいたら聞き逃していたはずの掛け声を聞いています。エンヤーエンヤー・ドッドドドッドド・ヨイショーヨイショー。わたしの発狂の耳に届いてきます。これは「摂取不舎」の声です。「お前を捨てないぞ」「何処へ行こうと連れ戻して来て救い取るぞ」の声です。

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わたしたちは我見(オノレノミルメ)で生きています

2017年08月20日 11時43分16秒 | Weblog

我見なる「我はひとり」をたださむとまなうらに棲む非我の億兆     薬王華蔵

すんませんなあ。話題・含有知識に乏しくてついつい。空の図書館・虚空蔵メモリーより嘗ての作品を取り出してきて、これを俎上に。ブログを書こうとしても何を書いていいやら分からないときが多いもので、それでついつい。

わたしたちは我見で生きています。みんなそれぞれ様々な色鉛筆しか持っていません。これで世界を塗りつぶしています。そしてこれが世界だ、世界の絵だなどといって得意がって見せたり、失意憔悴して見せたりしています。

「オレはこの世の中に一人だ」という寂寞孤独もそうです。我見です。我(が)が見ているものはみな我見です。「オレ一人がこの世で一番偉いぞ。何でも出来るぞ」とほめく何処かの統率者も我見に捕まっている者です。それは傲慢妄想です。

そういう我見を糺(ただ)そうとしているのが「非我」です。「not me」「above me」です。これはわたしたち一人一人の目の奥・目の裏(まなうら)に住居を定めています。彼は優しいのです。慈愛に富んでいるので、曲がりくねった我見の軌道を修正してくれるのです。でもわたしたちはこれに気がつきません。しかし確実に言えること、これはわたしたちは一人で生きているのではないということです。少なくともわたしの目の裏にもう一人がいます。彼はわたしの援助者保護者導き手です。

そういう着想を短歌に編んでみました。この着想ももちろん我見です。

 

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よきひとの来るを信ずる蚊なるべし

2017年08月20日 11時07分58秒 | Weblog

よきひとの来るを信ずる蚊なるべしルカの福音書なる行間                薬王華蔵

若い頃、聖書に馴染んだ。特に新約聖書の福音書に。いまもぼろぼろになったのが書棚に立っている。時折手に取ってみる。ノイローゼに落ちて苦しんでいたときだったので、福音書の行間に何度も立ち止まった。そして自己救済を試みた。もちろん神の存在とその福音、喜びの訪れを希求しながら。

ここに蚊がいる。わたしが広げたルカによる福音書の間を行きつ戻りつしている。もうすっかり黄ばんでいる。そしてそこに止まった。今は蚊としてこの世に命を得ているが、転生を繰り返すことがあるのなら、やはり絶対者の神にすがるだろう。それを救済を信じたくなるだろう。そう思った。

幾度も幾度も、幾度も幾度もそうやってわたしもまた願い続けて、やっと人間になったのだから。そして人間になった時点でたまたま新約聖書に遭遇した若い日。わたしは苦悩をひっさげてたびたび教会の夜の祈祷会にも通った。この一匹の子羊・ストレイシープは夜の海岸へ出て一人で祈ることもあった。

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死は、双六遊びの上がりに似ていないか

2017年08月20日 09時23分31秒 | Weblog

双六遊びには「上がり」がある。早々と上がりを決める人、なかなか決められない人がいる。上がったら勝ち。勝ってゲームを離れる。離れた順に一着二着三着となる。遅い人は、周りの勝ち組に見守られつつ、サイコロを振り回してやきもきする。最後の人が上がると試合は振り出しに戻る。こういう遊びだ。小さい頃の正月の行事だった。

☆☆

人の一生に似ているのかもしれない、案外。人の一生は遊びではない、ゲームではない。バクチなんかじゃない、そういう判断もあるだろう。でも、さっさと勝負にケリを付けて上がってしまう、そういうように見えてしまう人もいる。しぶとくしぶとく生き長らえて延々とサイコロを振り続ける人もいる。死はもしかしたら、双六でいう上がりなのかもしれない。真剣勝負に見えていて案外ゲームなのかもしれない。

ここ地球はアミューズメント施設がいっぱい並んでいるところなのかもしれない。娯楽性が満ちているところなのかもしれない。そういうセッティングをしてみた。

☆☆

死者は第二ラウンドへ向かう。そこでまた双六に興じる。抜きつ抜かれつする。前回はあっけなく勝負がついたのに、今度はどん尻に回る。上がりが遅れていらいらする。長くその場に居直った人が負けなので、長生きはここでは苦痛になる。

☆☆

死は上がりなのかもしれない。早い遅い葉があるけれども、勝ちを決めた人の、一場の幕引きなのかもしれない。

☆☆☆

ゲームセンター地球が、実は銀河宇宙中に沢山あって、あちらこちらの娯楽性豊富なABCDEFG地球で楽しんでいるのかもしれない。われわれは全員、既に悟りを済ませた禅僧達磨なのかもしれない。達磨と達磨が双六遊びに興じている図。そういう図を描いてみるのも楽しい時間だ。

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心が体をリードすることもできる

2017年08月20日 00時02分08秒 | Weblog

こんばんは。お昼寝をしたので、夜中0時を過ぎても眠くなりません。本を読んでいます。

☆☆

「心身一如」の句は禅語だそうです。しんしんいちにょ。心身を別扱いしてそれぞれを路頭に迷わせるな、迷うな、ということでしょうか。心のあるところに身体があり、身体のあるところに心があるので、切り離して別々にはできないはずである。

「夫唱婦随」は夫が主導して妻がこれに従うという和合の形態だが、現代ではその逆も有り得ている。この和合の形態を借りれば、「心唱身従」とも言えよう。心が体をリードするのである。心が元気を満たせば体が元気になる、そういうことはままある。逆もある。体が元気を貯えれば心がそれにつれて元気を呼び覚ます。両用がある。必ずしも病気の体にリードされることはないのである。

体が病気になれば心も病気になる、そういう事態も起こる。心が苦悩すれば体も苦悩する。心が迷えば体もどうしていいか分からなくなる。そうはありたくない。だったら、心に気合いを込めておくことである。心を穏やかに保っておくことである。それで身体も窮地を乗り越えていける。

体が死ねば心も死ぬ。一心同体だから。体に従っていた心も死んでしまう、この世界では心身一如だから。それで一段落する。

しかし、それは居場所を変えただけである。心は次は仏の身体である宇宙理法の中に住むようになる。そして新しい身体の霊体幽体を迎え取る。そこでまた新婚生活に入る。そうも考えられるかもしれない。

☆☆

さ、そろそろやすもうかな。まもなく1時だ。心身相互執着の関係でなくともいいのかもしれない。

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