2018年8月22日祈り会メッセージ
『苦難を経てこその平安』
【詩篇23篇】
<ダビデの賛歌。>
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
はじめに
きょうは詩篇23篇をご一緒に開くことにしました。この詩篇は多くの人々に愛されている詩篇です。150ある詩篇の中でどの詩篇が一番好きかと問われれば、23篇と答える人も少なくないだろうと思います。そういうわけで皆さんもこの詩篇23篇をこれまで深く味わって来たであろうと思います。私自身もこれまで、何度かこの詩篇23篇の情景とダビデの心情について思いを巡らしたことがあります。
それなのに今日、改めて23篇を味わうことにしたのは、ここ1ヶ月ほどの礼拝メッセージで詩篇22篇や42篇、また122篇を開いたからです。これらを踏まえて23篇を読むと、さらに深い味わいを感じましたから、きょうはそのことを皆さんと分かち合いたいと思います。
苦難を経てこその平安
さて、これまで私は詩篇23篇を、この詩篇だけ単独で味わうことをしていました。しかし、少し前の礼拝で詩篇22篇や42篇に思いを巡らしたことで、ダビデの平安をもっと深く味わうことができたような気がしました。それは、こういうことです。まず1節、
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主が共におられることを感じているダビデの深い平安は、かつてダビデが何度も大変な苦難の中を通って来たからこそ、なのであろうということを今回、強く感じました。若い時のダビデはイスラエルの初代王のサウルに追い回されていました。サウル王はダビデを殺すつもりで追い回していましたから、ダビデは殺されてもおかしくありませんでした。しかし、神様がダビデと共におられることで、ダビデは守られていました。またダビデは息子のアブシャロム、2017年版ではアブサロムになっていますが、そのアブサロムの謀反によって王宮から逃げ出ることになってしまいました。その他にもダビデの波乱の人生の中では数々の苦難があったことでしょう。そして、その苦難の中では神を見失うようなこともあったことでしょう。詩篇22篇のような状況ですね。
22:1 わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
このようにダビデが神を見失っているような時でも、実は神様はダビデと共にいて下さいました。ダビデも我に返って神様がいつも共にいて下さる方であることを思い出し、深い平安を感じたことも何度もあったかもしれません。そういう経験を経た上での詩篇23篇なのだろうな、ということを今回、改めて深く感じています。
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
「私は乏しいことがありません」という言葉にダビデの深い平安を感じ取ることができます。
神の霊によって生き返る魂
次に2節、
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
この2節の「みぎわ」は、皆さんご承知の通り、新改訳聖書の第3版では「水のほとり」になっていましたね。それが2017年版になって「みぎわ」に変わりました。私は個人的には、「水のほとり」のままにしておいて欲しかったなと思います。「みぎわ」に変えるとしても、せめて「水際」という漢字にして「水」という漢字を残しておいて欲しかったなと思います。というのは、3節にある「私のたましいを生き返らせ」てくれるのは神の霊だからです。この神の霊がしばしば「水」に例えられるのは、皆さんがご承知の通りです。
詩篇42節の詩人は神の霊に飢え渇いていました。42篇1節と2節、
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは 神を 生ける神を求めて渇いています。
神を見失っている時のダビデの魂も、詩篇42篇の詩人のように渇いていたのではないかと想像します。神はすべての人々と共にいて下さいますが、その神の存在を感じていない者の魂は渇いています。問題はその渇きを自覚するかしないかです。渇きを感じる者は神を求め、神の臨在を感じたならその者の魂は潤います。詩篇23篇のダビデの魂も神の霊によって潤されて3節にあるように生き返りました。
決して見捨てない神
そして4節、
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
この4節も、ダビデのこれまでの経験がこう言わせたことを感じます。これまでダビデは命の危険を感じる危機の中を何度となく通って来ましたが、いつも神様に守られていました。これからもきっとそうであるというダビデの確信が伺えるように思います。或いは、たとえ命を落とすことがあったとしても神様は決して自分を見捨てているわけではないという確信がダビデにはあるのかもしれません。
続いて5節、
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
ダビデの前には敵がいましたが、その中にあって神様はダビデのために食事を整えて下さいます。ダビデの時代を戦国時代に例えてみると敵に囲まれて様子が想像できるかもしれません。日本の戦国時代では、豊臣秀吉が天下を統一するまで、諸国は絶えず戦(いくさ)を繰り返していました。戦がない時でも武将たちは常に命を狙われていました。敵は身内の中にもいますから油断ができません。食事に毒を盛られることもしばしばであったでしょう。そのような危険もある中、神様が食事を整えて下さるなら安心です。そして神様は聖霊を注いで下さり、力を与えて下さいます。戦がなくても一時も安心していられない戦国時代のような状況の中にあってもダビデには深い平安が与えられていました。
どの方向に進んでも恵みを与えて下さる神
そして6節、
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
この6節の「いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」という表現は、とても興味深いですね。ダビデがどの方向に進もうとも、神のいつくしみと恵みはダビデを追いかけて来るとダビデは確信していました。私たちの場合は、まずは主がどの方向に導いておられるだろうかと探ることをします。主が導いておられない方向を誤って選んでしまうなら、恵みに与ることはできないと考えます。しかし、ダビデは自分がどの方向に進もうともその方向に神様のいつくしみと恵みが追って来ると確信しているようです。これもまた波乱万丈の人生を過ごしたダビデらしい確信だなと思います。
ダビデは油注がれた主が選んだ器ですから、どの方向に進んでも神様の恵みが追って来ました。しかし私たちは、まずは主がどちらに導いているかを、祈って静まりつつ、知る努力をすべきだろうと思います。その上で、どの方向に進んでも神様が守って下さっているという確信を持つべきであろうと思います。最初からどの方向に進んでも神様が守って下さると考えていると、祈りつつ神様の声に耳を傾けることが疎かになってしまう恐れがあります。そういう意味では、ダビデもまたそうであったのでしょうね。ダビデもまずは祈って神様の御声に耳を傾けながら歩んでいたのだろうなと思うことです。
おわりに
きょうは詩篇の22篇と42篇とを踏まえて、詩篇23篇を味わってみました。私たちもまた、時に、「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望感に襲われることがあります。そうして神の臨在を感じることができないで「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは 神を 生ける神を求めて渇いています」とあえぐこともあります。ダビデはこのような経験を経て詩篇23篇の境地に至ったことに、ご一緒に思い巡らしました。私たちもまたダビデほどではないかもしれませんが、困難の中をいくつも通っていますから、ダビデのような深い平安を得る条件は既に整っていると言えるでしょう。
この深い平安を神様からいただきながら日々を歩んで行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『苦難を経てこその平安』
【詩篇23篇】
<ダビデの賛歌。>
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
はじめに
きょうは詩篇23篇をご一緒に開くことにしました。この詩篇は多くの人々に愛されている詩篇です。150ある詩篇の中でどの詩篇が一番好きかと問われれば、23篇と答える人も少なくないだろうと思います。そういうわけで皆さんもこの詩篇23篇をこれまで深く味わって来たであろうと思います。私自身もこれまで、何度かこの詩篇23篇の情景とダビデの心情について思いを巡らしたことがあります。
それなのに今日、改めて23篇を味わうことにしたのは、ここ1ヶ月ほどの礼拝メッセージで詩篇22篇や42篇、また122篇を開いたからです。これらを踏まえて23篇を読むと、さらに深い味わいを感じましたから、きょうはそのことを皆さんと分かち合いたいと思います。
苦難を経てこその平安
さて、これまで私は詩篇23篇を、この詩篇だけ単独で味わうことをしていました。しかし、少し前の礼拝で詩篇22篇や42篇に思いを巡らしたことで、ダビデの平安をもっと深く味わうことができたような気がしました。それは、こういうことです。まず1節、
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主が共におられることを感じているダビデの深い平安は、かつてダビデが何度も大変な苦難の中を通って来たからこそ、なのであろうということを今回、強く感じました。若い時のダビデはイスラエルの初代王のサウルに追い回されていました。サウル王はダビデを殺すつもりで追い回していましたから、ダビデは殺されてもおかしくありませんでした。しかし、神様がダビデと共におられることで、ダビデは守られていました。またダビデは息子のアブシャロム、2017年版ではアブサロムになっていますが、そのアブサロムの謀反によって王宮から逃げ出ることになってしまいました。その他にもダビデの波乱の人生の中では数々の苦難があったことでしょう。そして、その苦難の中では神を見失うようなこともあったことでしょう。詩篇22篇のような状況ですね。
22:1 わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
このようにダビデが神を見失っているような時でも、実は神様はダビデと共にいて下さいました。ダビデも我に返って神様がいつも共にいて下さる方であることを思い出し、深い平安を感じたことも何度もあったかもしれません。そういう経験を経た上での詩篇23篇なのだろうな、ということを今回、改めて深く感じています。
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
「私は乏しいことがありません」という言葉にダビデの深い平安を感じ取ることができます。
神の霊によって生き返る魂
次に2節、
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
この2節の「みぎわ」は、皆さんご承知の通り、新改訳聖書の第3版では「水のほとり」になっていましたね。それが2017年版になって「みぎわ」に変わりました。私は個人的には、「水のほとり」のままにしておいて欲しかったなと思います。「みぎわ」に変えるとしても、せめて「水際」という漢字にして「水」という漢字を残しておいて欲しかったなと思います。というのは、3節にある「私のたましいを生き返らせ」てくれるのは神の霊だからです。この神の霊がしばしば「水」に例えられるのは、皆さんがご承知の通りです。
詩篇42節の詩人は神の霊に飢え渇いていました。42篇1節と2節、
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは 神を 生ける神を求めて渇いています。
神を見失っている時のダビデの魂も、詩篇42篇の詩人のように渇いていたのではないかと想像します。神はすべての人々と共にいて下さいますが、その神の存在を感じていない者の魂は渇いています。問題はその渇きを自覚するかしないかです。渇きを感じる者は神を求め、神の臨在を感じたならその者の魂は潤います。詩篇23篇のダビデの魂も神の霊によって潤されて3節にあるように生き返りました。
決して見捨てない神
そして4節、
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
この4節も、ダビデのこれまでの経験がこう言わせたことを感じます。これまでダビデは命の危険を感じる危機の中を何度となく通って来ましたが、いつも神様に守られていました。これからもきっとそうであるというダビデの確信が伺えるように思います。或いは、たとえ命を落とすことがあったとしても神様は決して自分を見捨てているわけではないという確信がダビデにはあるのかもしれません。
続いて5節、
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
ダビデの前には敵がいましたが、その中にあって神様はダビデのために食事を整えて下さいます。ダビデの時代を戦国時代に例えてみると敵に囲まれて様子が想像できるかもしれません。日本の戦国時代では、豊臣秀吉が天下を統一するまで、諸国は絶えず戦(いくさ)を繰り返していました。戦がない時でも武将たちは常に命を狙われていました。敵は身内の中にもいますから油断ができません。食事に毒を盛られることもしばしばであったでしょう。そのような危険もある中、神様が食事を整えて下さるなら安心です。そして神様は聖霊を注いで下さり、力を与えて下さいます。戦がなくても一時も安心していられない戦国時代のような状況の中にあってもダビデには深い平安が与えられていました。
どの方向に進んでも恵みを与えて下さる神
そして6節、
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
この6節の「いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」という表現は、とても興味深いですね。ダビデがどの方向に進もうとも、神のいつくしみと恵みはダビデを追いかけて来るとダビデは確信していました。私たちの場合は、まずは主がどの方向に導いておられるだろうかと探ることをします。主が導いておられない方向を誤って選んでしまうなら、恵みに与ることはできないと考えます。しかし、ダビデは自分がどの方向に進もうともその方向に神様のいつくしみと恵みが追って来ると確信しているようです。これもまた波乱万丈の人生を過ごしたダビデらしい確信だなと思います。
ダビデは油注がれた主が選んだ器ですから、どの方向に進んでも神様の恵みが追って来ました。しかし私たちは、まずは主がどちらに導いているかを、祈って静まりつつ、知る努力をすべきだろうと思います。その上で、どの方向に進んでも神様が守って下さっているという確信を持つべきであろうと思います。最初からどの方向に進んでも神様が守って下さると考えていると、祈りつつ神様の声に耳を傾けることが疎かになってしまう恐れがあります。そういう意味では、ダビデもまたそうであったのでしょうね。ダビデもまずは祈って神様の御声に耳を傾けながら歩んでいたのだろうなと思うことです。
おわりに
きょうは詩篇の22篇と42篇とを踏まえて、詩篇23篇を味わってみました。私たちもまた、時に、「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望感に襲われることがあります。そうして神の臨在を感じることができないで「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは 神を 生ける神を求めて渇いています」とあえぐこともあります。ダビデはこのような経験を経て詩篇23篇の境地に至ったことに、ご一緒に思い巡らしました。私たちもまたダビデほどではないかもしれませんが、困難の中をいくつも通っていますから、ダビデのような深い平安を得る条件は既に整っていると言えるでしょう。
この深い平安を神様からいただきながら日々を歩んで行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。