平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

苦難を経てこその平安(2018.8.22 祈り会)

2018-08-23 08:45:06 | 祈り会メッセージ
2018年8月22日祈り会メッセージ
『苦難を経てこその平安』

【詩篇23篇】
 <ダビデの賛歌。>
23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでもの家に住まいます。

はじめに
 きょうは詩篇23篇をご一緒に開くことにしました。この詩篇は多くの人々に愛されている詩篇です。150ある詩篇の中でどの詩篇が一番好きかと問われれば、23篇と答える人も少なくないだろうと思います。そういうわけで皆さんもこの詩篇23篇をこれまで深く味わって来たであろうと思います。私自身もこれまで、何度かこの詩篇23篇の情景とダビデの心情について思いを巡らしたことがあります。
 それなのに今日、改めて23篇を味わうことにしたのは、ここ1ヶ月ほどの礼拝メッセージで詩篇22篇や42篇、また122篇を開いたからです。これらを踏まえて23篇を読むと、さらに深い味わいを感じましたから、きょうはそのことを皆さんと分かち合いたいと思います。

苦難を経てこその平安
 さて、これまで私は詩篇23篇を、この詩篇だけ単独で味わうことをしていました。しかし、少し前の礼拝で詩篇22篇や42篇に思いを巡らしたことで、ダビデの平安をもっと深く味わうことができたような気がしました。それは、こういうことです。まず1節、

23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

 主が共におられることを感じているダビデの深い平安は、かつてダビデが何度も大変な苦難の中を通って来たからこそ、なのであろうということを今回、強く感じました。若い時のダビデはイスラエルの初代王のサウルに追い回されていました。サウル王はダビデを殺すつもりで追い回していましたから、ダビデは殺されてもおかしくありませんでした。しかし、神様がダビデと共におられることで、ダビデは守られていました。またダビデは息子のアブシャロム、2017年版ではアブサロムになっていますが、そのアブサロムの謀反によって王宮から逃げ出ることになってしまいました。その他にもダビデの波乱の人生の中では数々の苦難があったことでしょう。そして、その苦難の中では神を見失うようなこともあったことでしょう。詩篇22篇のような状況ですね。

22:1 わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。

 このようにダビデが神を見失っているような時でも、実は神様はダビデと共にいて下さいました。ダビデも我に返って神様がいつも共にいて下さる方であることを思い出し、深い平安を感じたことも何度もあったかもしれません。そういう経験を経た上での詩篇23篇なのだろうな、ということを今回、改めて深く感じています。

23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

「私は乏しいことがありません」という言葉にダビデの深い平安を感じ取ることができます。

神の霊によって生き返る魂
 次に2節、

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。

 この2節の「みぎわ」は、皆さんご承知の通り、新改訳聖書の第3版では「水のほとり」になっていましたね。それが2017年版になって「みぎわ」に変わりました。私は個人的には、「水のほとり」のままにしておいて欲しかったなと思います。「みぎわ」に変えるとしても、せめて「水際」という漢字にして「水」という漢字を残しておいて欲しかったなと思います。というのは、3節にある「私のたましいを生き返らせ」てくれるのは神の霊だからです。この神の霊がしばしば「水」に例えられるのは、皆さんがご承知の通りです。
 詩篇42節の詩人は神の霊に飢え渇いていました。42篇1節と2節、

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは 神を 生ける神を求めて渇いています。

 神を見失っている時のダビデの魂も、詩篇42篇の詩人のように渇いていたのではないかと想像します。神はすべての人々と共にいて下さいますが、その神の存在を感じていない者の魂は渇いています。問題はその渇きを自覚するかしないかです。渇きを感じる者は神を求め、神の臨在を感じたならその者の魂は潤います。詩篇23篇のダビデの魂も神の霊によって潤されて3節にあるように生き返りました。

決して見捨てない神
 そして4節、

23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

 この4節も、ダビデのこれまでの経験がこう言わせたことを感じます。これまでダビデは命の危険を感じる危機の中を何度となく通って来ましたが、いつも神様に守られていました。これからもきっとそうであるというダビデの確信が伺えるように思います。或いは、たとえ命を落とすことがあったとしても神様は決して自分を見捨てているわけではないという確信がダビデにはあるのかもしれません。
 続いて5節、

23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。

 ダビデの前には敵がいましたが、その中にあって神様はダビデのために食事を整えて下さいます。ダビデの時代を戦国時代に例えてみると敵に囲まれて様子が想像できるかもしれません。日本の戦国時代では、豊臣秀吉が天下を統一するまで、諸国は絶えず戦(いくさ)を繰り返していました。戦がない時でも武将たちは常に命を狙われていました。敵は身内の中にもいますから油断ができません。食事に毒を盛られることもしばしばであったでしょう。そのような危険もある中、神様が食事を整えて下さるなら安心です。そして神様は聖霊を注いで下さり、力を与えて下さいます。戦がなくても一時も安心していられない戦国時代のような状況の中にあってもダビデには深い平安が与えられていました。

どの方向に進んでも恵みを与えて下さる神
 そして6節、

23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでもの家に住まいます。

 この6節の「いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」という表現は、とても興味深いですね。ダビデがどの方向に進もうとも、神のいつくしみと恵みはダビデを追いかけて来るとダビデは確信していました。私たちの場合は、まずは主がどの方向に導いておられるだろうかと探ることをします。主が導いておられない方向を誤って選んでしまうなら、恵みに与ることはできないと考えます。しかし、ダビデは自分がどの方向に進もうともその方向に神様のいつくしみと恵みが追って来ると確信しているようです。これもまた波乱万丈の人生を過ごしたダビデらしい確信だなと思います。
 ダビデは油注がれた主が選んだ器ですから、どの方向に進んでも神様の恵みが追って来ました。しかし私たちは、まずは主がどちらに導いているかを、祈って静まりつつ、知る努力をすべきだろうと思います。その上で、どの方向に進んでも神様が守って下さっているという確信を持つべきであろうと思います。最初からどの方向に進んでも神様が守って下さると考えていると、祈りつつ神様の声に耳を傾けることが疎かになってしまう恐れがあります。そういう意味では、ダビデもまたそうであったのでしょうね。ダビデもまずは祈って神様の御声に耳を傾けながら歩んでいたのだろうなと思うことです。

おわりに
 きょうは詩篇の22篇と42篇とを踏まえて、詩篇23篇を味わってみました。私たちもまた、時に、「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望感に襲われることがあります。そうして神の臨在を感じることができないで「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは 神を  生ける神を求めて渇いています」とあえぐこともあります。ダビデはこのような経験を経て詩篇23篇の境地に至ったことに、ご一緒に思い巡らしました。私たちもまたダビデほどではないかもしれませんが、困難の中をいくつも通っていますから、ダビデのような深い平安を得る条件は既に整っていると言えるでしょう。
 この深い平安を神様からいただきながら日々を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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平和の引力(2018.8.19 礼拝)

2018-08-20 15:25:14 | 礼拝メッセージ
2018年8月19日礼拝メッセージ
『平和の引力』

【詩篇122篇】
1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。
2 エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。
3 エルサレム それは一つによくまとまった都として建てられている。
4 そこには多くの部族 の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。
5 そこにはさばきの座ダビデの家の王座があるからだ。
6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。
7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」
8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」
9 私たちの神 の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

はじめに
 先週の水曜日は祈り会を1回休みにして夏休みをいただきましたから、8月の14、15、16日の三日間、私は広島へ行って来ました。
 三週間前の礼拝メッセージで開いた詩篇42篇では、詩人はエルサレムへ行くことを渇望していました。そして私は広島へ行くことを渇望していたのですね。42篇の1節には、こうあります。

1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように
 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

 詩篇42篇の詩人はエルサレムの神殿に行って神を礼拝することを渇望していました。そして私は広島の平和公園に行って平和のために祈ることを渇望していました。
 しかし、神を礼拝することはエルサレムの神殿に行かなくてもできるでしょう。正式な礼拝ではないにせよ、エルサレム以外のどこにいても心を神に向けることはできます。でも、それでは満ち足りないものを詩篇42篇の詩人は感じていたのですね。同様に、平和のために祈ることは広島に行かなくてもできることです。沼津にいても平和のために祈ることはできますし、実際私はそうしています。

エルサレムへ、広島へ、続々と集まる人々
 そういうわけで私は今年の広島行きは秋の涼しくなってからにしようと思っていました。夏の広島は沼津に比べてずっと暑いです。ですから今年の夏はどこか別の所に行こうと思っていました。ところが8/6にテレビで広島の様子を見ていて、無性に広島に行きたくなりました。それで、暑くても良いから行こうと思い、宿泊の予約を入れました。そうして宿の予約を済ませた時、私は喜びを感じました。詩篇122篇の詩人のようです。122篇の1節、

1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。

 祭りの時には、イスラエルの多くの人々が各地からエルサレムの都に上って来ます。4節、

4 そこには多くの部族 の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。

 そうして詩人は祈りへと誘います。6節、

6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。」

 広島にもまた、多くの人々が世界中から続々と集まって来ます。そうして原爆ドームを見上げて原爆が投下された当時に思いを馳せ、慰霊碑の前で平和のために祈ります。さらに、平和記念資料館に入って原子爆弾がいかに邪悪な兵器であるかを知り、そして核兵器削減と廃絶のために、どのような取り組みが為されて来ているのかを学びます。この学びは自分で平和公園内の施設を見て歩いたり、資料館の展示物を見て回ったりすることでもできますが、ガイドの方に説明してもらうと、もっと深く学ぶことができます。平和公園では被爆体験を持つ語り部、語り部の被爆体験の証しを継承する伝承者、施設や展示物の説明をするピースボランティアの方々など、多くの地元の方々が平和のために働いています。これらの地元の方々もまた平和公園に引き寄せられた人々だと言えるでしょう。

平和の引力
 今回、広島に行くに当たり、私の心の中では旧約の時代の人々が続々とエルサレムに上って行く姿と、現代の世界中の人々が広島に続々と集まって来る姿がオーバーラップしていました。このオーバーラップから何か大切なことが学べるような気がして、それに期待して広島に向かいました。私自身もそうなのですが、広島へは日本中・世界中から人々が引き寄せられて来ます。そして地元の方々も平和の働きのために引き寄せられます。人はどうして広島の平和公園に引き寄せられるのか、このことを思い巡らしたくて、今回、私は平和公園のベンチに座って、ここに集って来る人々を見ていました。
 そうして思ったことが、きょうのメッセージのタイトルにした「平和の引力」のことです。どうやら平和には引力があるようです。この広島の平和公園には確かに平和があります。73年前には凄まじい被害があった場所ですが、今は公園内はきれいに整備されています。そうして世界から、日本各地から、そして地元からも人々が続々と集まって来ます。このように平和を願う人々が多く集うことで、引力が強まっているように感じます。この強まった引力がますます平和を求める人々を引き寄せ、平和公園の「平和の引力」はどんどん強まって行きます。惑星ができる時、物質が集まれば集まるほど重力も増して、それがまた多くの物質を引き寄せるのに似ています。
 平和公園に集まって来る人々を見ていると、人には本来的に平和を求める心が備えられていて、平和がある所に引き寄せられて行くように見えます。それは心の深い所にありますから、魂の中に平和を求める思いが備えられていると言っても良いかもしれません。そして詩篇にあるように、旧約の時代のイスラエルの人々がエルサレムに引き寄せられて行ったこととも、それは重なります。きょうは、このことを、もう少し掘り下げてみたいと思います。そうして教会のことについても考えてみることができたらと願っています。73年前の終戦の時からしばらくの間、人々は続々と教会に押し寄せたということです。それは人々が魂の平安を求めて、続々と教会に集まったということではないかと思います。戦時の過酷な体験を経て、真の平安を多くの人々が求めていたのではないかと思います。この教会のことについても、思いを巡らすことができたらと思います。

重力に似ている「平和の引力」
 さて今回、「平和の引力」というように「引力」という言葉を使ったのは、先ほども少し触れましたが平和が人を引き寄せる力が、太陽や惑星などの天体の間に働く重力にとても良く似ていると思ったからです。と言っても、ここであまり天体や物理の重力の話を多くすると皆さんも戸惑うと思いますから気を付けたいと思います。しかし天体の話が少し出て来ることは、ご容赦願いたいと思います。
 きょうはこれから、日本から遠く離れた国からも世界の平和を願う人々を引き付ける力を持っている広島のことを太陽と御父に例えたいと思います。そして、魂の平安を願う地域の人々を引き付ける力を持っている教会のことを地球と御子イエス・キリストに例えたいと思います。
 太陽は巨大ですから、太陽から遠く離れた地球や木星、土星などにも重力が及びます。ですからこれらの星は太陽に引き寄せられています。引き寄せられているのに地球が太陽に吸い込まれないのは、地球が太陽の周りを回っているからです。もし太陽の周りを回っていなかったら地球も木星も土星も皆、太陽に吸い込まれてしまいます。遠く離れた木星や土星、さらには天王星や海王星にも太陽の重力は及ぶのですから、すごいことだと思います。そして私たちは地球の重力圏の中でも生活しています。私たちは太陽の周りを回りながら、地球上で生活しています。つまり太陽と地球の重力圏の両方の中で生活しています。同じように広島やエルサレムは遠く離れた場所にいる人たちを引き付けています。そして教会は近隣の人々を引き付けています。つまり私たちは広島やエルサレムの「平和の引力」と、教会の「平和の引力」の両方の中で生活しています。

集う人が少ない教会
 さて太陽に例えた広島には現代においても人々が続々と集まって来ています。これは私が広島で毎年実際に見ていることですから、確かなことです。一方、地球に例えた地域の教会にはそんなに人が集ってはいないようです。たくさんの人々が集っている教会もありますが、多くの教会、特に地方の教会は人が減っている悩みを抱えていると思います。広島に集う人は大勢いる一方で、教会に集う人は少ないと感じます。どうもバランスが悪いように思います。同じように「平和の引力」が働いている筈なのに、教会の「平和の引力」はあまり働いていないのでしょうか。
 それは何故なのでしょうか。世界の平和を願う思いも、個人や家庭の平安を願う思いも、どちらも同じではないでしょうか。世界と個人では規模はまるで違いますが、平和を願う思いの根は同じではないかと私は考えます。このことを御子イエス・キリストを地球に、天の御父を太陽に例えて、さらに考えてみたいと思います。
 先ほども言ったように私たちは地球の重力圏の中で生活していると同時に、太陽の重力圏の中でも生活しています。同様に私たちは御子イエス・キリストの愛の中で生活していますが、同時に天の御父の愛の中でも生きています。この御子と御父の愛を感じさせてくれるのが聖霊です。私たちは聖霊の働きによって御子と御父の両方の愛を感じながら生きています。祈る時も、最初に天の御父に呼び掛け、最後に御子イエス・キリストの名によって祈ります。
 さてしかし、一般の人々の教会に対するイメージは専らイエスに偏っているのではないかと思います。しかも教会に導かれる前の私の経験から言うと、日本人はイエスにそんなには親しみを感じていません。クリスマスの赤ちゃんのイエスには親しみを感じるかもしれませんが、大人のイエスには興味のない人が大半だろうと思います。すると人々が教会に向かわないのは当然ということになります。しかし実際の多くの教会ではイエスだけでなく御父(と聖霊)についても語ります。教会に対する一般のイメージは、教会ではイエスだけが語られるというものですが、実際は御父・御子・聖霊が語られます。このギャップを埋めることができていないという気がします。
 平和公園にはイスラム圏の外国人もたくさん集っています。このような方々は正に御父の「平和の引力」に引き寄せられているのだと思います。私はもっと多くの日本の方々に御父のことを知っていただきたいと思います。それには、教会ではイエスだけが語られるというイメージを払拭する必要を感じます。このことが、今回の広島訪問で得られた収穫のように感じています。

御父についても知ることができる教会
 ここで私の大好きなエペソ人への手紙3章の14節から21節までをご一緒に読みたいと思います(新約聖書p.387)。このスケールの大きなキリストの愛が語られる箇所で注目したいのは、パウロも御父と御子と御霊(聖霊)に言及していて、御子イエスだけに言及しているのではないということです。エペソ3章の14節から21節までを交代で読みましょう。

14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 重力の例えが皆さんに分かりやすいかどうか分かりませんが、私たちは地球の重力圏の中で生活していると同時に、太陽の重力圏の中にもいます。この例えを使えば、私たちは御子イエス・キリストの愛の中にいると同時に天の御父の愛の中にもいます。そして聖霊の働きで私たちはこの御父と御子の愛を感じることができます。そうして心の平安を求めて教会に集う私たちは御子イエスの「平和の引力」に引き寄せられています。また、世界の平和を求めて広島に集う人々は天の御父の「平和の引力」に引き寄せられています。ただし現代においては個人の心にそれなりの平安をもたらすものは、たくさん存在します。もちろん真の平安は御子によってもたらされます。それでも御子でなくても平安がそれなりに得られるのなら、人は教会には向かわない、そのようなことになっているのかもしれません。
 一方、世界の平和のような大きな問題の解決には、大きな存在が必要とされていると、現代においても多くの人々が無意識に感じているのではないかという気がします。教会では、この大きな存在である御父のことを知ることができます。それなのに教会ではイエスのことしか語られないというイメージがあるために大きな存在について知りたい人が教会を訪れることはなく、御父のことはほとんど知られていません。ノアの洪水やエジプト脱出の物語を通じて多少は知られているかもしれませんが、単なる作り話だと思われているだけでしょう。ですから私は多くの方々に教会に来ていただいて、御父のことをもっと深く知っていただきたいと思います。

おわりに
 広島の平和公園には、きょうも世界中から多くの人々が続々と集っていることでしょう。神様がお造りになった人間の心には、平和を求める思いがもともと備わっています。ですから、教会に集う人が少なくなっていることをあまり悲観する必要はないと思います。どうしたら平和を求める人の心の琴線に触れることができるかは、人によっても異なります。御子イエスについてはもちろんですが、教会は御父についても(さらには聖霊についても)深く知ることができる場であることをアピールしつつ、いろいろと考えながら、地域の方々の心に平安が与えられるよう、働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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戦災証言継承のための四福音書からの学び(2018.8.12 礼拝)

2018-08-13 09:21:16 | 礼拝メッセージ
2018年8月12日礼拝メッセージ
『戦災証言継承のための四福音書からの学び』
【マルコ1:1~3、マタイ1:1、ルカ2:28~32他】

はじめに
 戦争と平和を考える8月、今年新たに考え始めていることがあります。それは空襲や原爆などの戦災の証言をこれからも長い間に亘って継承して行くためには、四つの福音書のすべてから学ぶべきであろうということです。今までも私はヨハネの福音書からは多く学べると考えて来ました。しかし、ヨハネだけではなく新約聖書には四つの福音書があります。それぞれに特徴がある四つの福音書があることで、途中のどこかの時代で途切れてしまうということなく、約二千年後の現代まで継承されて来たのではないかと考えるようになりました。

意識されていた筈の証言の継承
 マタイ・マルコ・ルカの福音書がいつごろ執筆されたのかの執筆年代については、定説というものはありません。しかし、概ね紀元60年代から70年代に掛けて、まずマルコ、次にマタイまたはルカが書かれたと考える学者が多いようです。そしてヨハネの福音書は90年代に書かれたと多くの聖書学者は考えています。イエスの十字架が紀元30年頃ですから、マルコ・マタイ・ルカの福音書が書かれたのは十字架からだいたい30年後から50年後に掛けてということになります。当時の人々の寿命は、現代人よりもずっと短かったでしょうから、これらマルコ・マタイ・ルカの福音書が書かれたのは、イエスと直接の交わりを持った人々が、どんどんこの世を去って行っている頃だと言えるでしょう。そしてヨハネの福音書に至っては、もう最後の最後の頃であり、生き残っている人はほとんどいない頃ということになるでしょう。ですから、これらの福音書が書かれた背景には、イエスさまとの交流の体験者がいなくなった後にも、証言を継承して行かなければならないということが、当然意識されていたことと思います。
 二千年にも亘ってイエスに関する証言が継承され続けて来たのは、結果から見ると四つの異なる福音書が正典として大切にされて来たからではないかという気がします。正典の福音書が一つか二つだったら、果たして継承されて来たでしょうか。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書は、よく見ると時間の流れ方がそれぞれ違います。この異なる時間の組み合わせが長い期間に亘って継承されるために功を奏したのではないかという気がしています。きょうは、このことの概略を話しつつ、戦災体験の証言への応用についても考えることのきっかけになれば幸いだと思います。

マルコ:イエスの宣教活動の記述に集中
 さて、いま四つの福音書の時間の流れ方がそれぞれ異なると今言いましたが、まず簡単に四つの福音書の時間の違いを述べてから、その後で戦災証言との関係について話すことにします。
 最も単純なマルコの福音書から始めます。先ほど聖書朗読で司会者に読んでいただいたように、マルコの福音書は1章1節の、

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。

で始まって、専らイエスさまの宣教活動について記述しています。マタイとルカのようなイエスさまの生誕の物語をマルコは書いていません。また、1章の2節と3節にイザヤ書からの引用もありますが、マルコはマタイに比べると旧約聖書の引用は少ないです。旧約の時代に活動した「預言者」に言及することも、マルコはマタイに比べてずっと少ないという特徴があります。このようにマルコの福音書はイエスさまの地上生涯の記述に集中しています。
 このマルコの福音書のイエスさまに関する証言を広島の被爆証言に例えるなら、専ら8月6日の出来事だけを語っているということになるでしょう。8月6日の広島は、午前8時15分に原爆が投下されるまではいつもの市民の生活がそこにありました。マルコの福音書で言えば、イエスさまがエルサレムで逮捕されるまでです。そしてその後で、イエスの受難の場面になります。広島で言えば原爆が炸裂して多くの人々が亡くなり、また激しい苦しみを受けることになったことに相当します。マルコの福音書は短い期間だけにスポットを当てていますが、これはこれで大変に重要なことです。なぜなら、マタイとルカはもっと長い期間のことを書いていますが、その中でも特に重要なのはマルコと重なる期間であることをマルコの福音書は教えてくれているからです。

マタイ:過去→未来の時間順の記述
 次にマタイの福音書に移ります。マタイの福音書は系図から始まりますね。創世記のアブラハムから始まって、ダビデの時代、バビロン捕囚の時代を経てイエスさまの時代に至るまでの系図が1章の初めに記されています。そして、その次にイエスさまの生誕の物語が描かれています。また、マタイの福音書には「預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現が数多く使われています。このように、マタイの福音書では先ずはイエスさまの時代より前の旧約の時代に出発点が置かれて、そこからイエスさまの時代へと移って行く形になっています。そしてまた、将来入るべき天の御国についても多く語られています。つまりマタイの福音書は、過去から未来へという私たちが慣れ親しんでいる時間の流れの順番の通りにイエスさまの生涯が証言されています。
 広島の被爆の証言で言うなら、戦前の日本では明治以降に富国強兵の政策が取られて、日清戦争、日露戦争の勝利を経て軍部の力がどんどん強くなって行き、中国で始めた戦争が太平洋戦争にまで拡大し、次第に劣勢になって全国の都市が空襲の被害を受けるようになり、遂に広島への原爆投下に至るということになるでしょうか。1945年の8月6日以前のことについても多く証言しながら8/6を証言するという形になるでしょう。

ルカ:使徒の時代の恵みからイエスの受難を見る
 さて、次のルカの福音書も一見するとマタイの福音書と同じように過去から未来への私たちが親しんでいる時間の流れに沿って書かれているように、表面上は見えます。しかし、実はルカの福音書とマタイの福音書とでは時間の流れが逆方向であると見るべきだと私は考えます。なぜならルカは使徒の働きも書き、使徒の時代の聖霊の恵みの観点からイエスさまの時代を見ているからです。ルカは異邦人であったと考えられます。異邦人でも聖霊を受けて救いの恵みに与ることができるのは素晴らしい恵みであり、ルカもまた、この恩恵に与っていました。ルカの福音書は、この事実の上に立って書かれています。ルカの福音書2章の28節から32節までを交代で読みましょう。

2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

 幼子のイエスを抱いたシメオンは30節で神の御救いを見たと言ってほめ讃えました。それは31節にあるように万民に備えられた救いです。万民ですから異邦人をも含みます。そうしてシメオンは32節で「異邦人を照らす啓示の光」と言ってほめ讃えました。この異邦人の救いの恵みを、ルカ自身も味わったのでした。この恵みをルカはイエスさまの時代の後の、使徒の時代に受けました。ですからルカの福音書は、イエスさまの時代より後の使徒の時代から遡ってイエスさまの時代を見ていると言うことができるでしょう。
 日本の空襲や原爆被害の証言をこれからどう継承して行くべきかを考える時、ルカの福音書が使徒の時代の恵みの観点からイエスさまの時代を見ていることは、とても良い参考になると思います。ルカの福音書は一見するとマタイの福音書と同じ方向に時間が流れているように見えますが、実はそうではないと言えるでしょう。このことはマタイの系図とは逆方向のルカの系図からも言えると思います。
 ルカの福音書3章23節と24節を見て下さい。

3:23 イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、
3:24 マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、

 このように、ルカの系図はマタイとは逆に、遡って行く形になっていて、38節に至ります。38節、

3:38 エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。

 このルカの福音書は、イエス・キリストについての証言が長い期間に亘って継承されて来たことに、とても大きな役割を果たしたと私は考えます。それは、ルカが使徒の時代の聖霊の恵みの素晴らしさを知った上で、しかしそれはイエスさまの受難があったからこそであるという観点で書かれているからです。シメオンは母マリヤに言いました。ルカ2章34節と35節です。

「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 このようにシメオンはイエス・キリストの受難を予告します。しかし、この受難があったからこそ、使徒の時代の素晴らしい聖霊の恵みがありました。
 日本が1945年からの戦後73年間、戦争をして来なかったのは、戦時中の受難があったからです。日本は加害国でもありましたが、甚大な被害もまた多く受けました。しかし、この受難があったから、戦後は平和の恵みを受けることができました。ですから私のような戦後生まれの世代は戦争体験はありませんが、今の平和の恵みを噛み締めながらルカのように戦時の受難の時代についてもっと深く知り、そうして平和の貴さを訴えていかなければならないと思わされています。ルカ自身も地上生涯のイエス・キリストには会ったことがありませんでした。しかし、色々な人々に会って話を聞き、ルカの福音書を書き上げました。
 このルカの福音書があったことが、二千年にも亘ってイエス・キリストが宣べ伝えられて来たことに大きく貢献しているように私は感じています。なぜなら、クリスチャンの圧倒的多数はルカと同じ異邦人だからです。もし後世の私たちに残された福音書がマタイとマルコの福音書だけであったとしたら、今日までイエス・キリストが宣べ伝えられ続けることができたでしょうか。それは仮定の話ですから、もちろんハッキリとはわからないことですが、私はマタイとマルコだけであったら二千年もの長い間に亘ってイエス・キリストが宣べ伝えられ続けて来たかどうかは怪しいと思います。なぜならマタイもマルコも異邦人が受けた聖霊の恵みのことを、表面上はそんなには語っていないからです。私たちはルカが書いた福音書と使徒の働きによって異邦人の救いの恵みをよく知っているからこそ、マタイとマルコにも親しみを覚えることができる、そのような気がしています。

ヨハネ:愛弟子による証言
 では最後にヨハネの福音書にも触れたいと思います。ヨハネの福音書については、これまで多く語って来ましたから、きょうは詳しくは話しませんが、ヨハネの福音書では旧約の時代、イエスの時代、そして使徒の時代が並行して流れています。このヨハネの福音書の時間を深く理解するには、旧約聖書の知識と使徒の働きの知識も必要です。そうしてイエス・キリストが旧約の時代にも使徒の時代にも同時にいることがわかるなら、キリストの深い愛にどっぷりと浸ることができて読者自身がイエスの愛弟子となることができます。そうしてイエスの愛弟子として最後の晩餐に集い、イエスの十字架に立ち会うことが許されます。もちろん、これは霊的な領域のことですから、誰もが愛弟子になれるわけではありません。しかし、このことで例えイエスの地上生涯の時代には生きていなかった者も、イエスさまとの交流を霊的に経験し、そのことを証しできるようになります。
 戦災の証しも、戦災に遭った街を深く愛し、その街の歴史を深く知り、戦後の平和の時代の恵みも十分に知り、その街と深く関わるなら、例え戦争体験が無くても、その街を愛する人々との愛の交わりの中に入って一人の証し者となることも可能であろうと思います。これがヨハネ的な証し者です。

重要なルカ的な証し者
 以上、見て来た通り、四つの福音書の時間の流れ方は、一見同じようであっても、皆それぞれ違います。マルコはイエスさまの時代のみの描写、マタイは旧約の時代からイエスさまの時代、そして天の御国という過去から未来へという私たちが慣れ親しんでいる時間の流れの中でイエスさまを描いています。一方、ルカは使徒の時代の聖霊の恵みと異邦人の救いの恵みの観点からイエスさまの時代を見ています。そしてヨハネは旧約の時代、イエスの時代、使徒の時代が並行する時間の中で、これらすべての時代にいるイエスさまを描いています。この四つの異なる時間の中でイエスさまが証しされて来ましたから、これが二千年にも亘ってイエスさまが証しされ続けて来ることにつながったと私は考えます。
 戦災についての証しを今後、長い歳月に亘って継承して行くために、この四つの福音書の事例は大変に良い参考になると思います。特にルカ的な証し者そしてヨハネ的な証し者は、戦災の受難と平和の恵みの両方を知っている日本人しかなることができないと言えるでしょう。世界中で読まれている福音書のイエスさまの証しを手本にして戦災の受難の証し、そして平和の証しをするなら、平和の君であるイエス・キリストは必ずや用いて下さるのではないかと思います。そうして多くの日本人がもっと聖書に目を向けるようになるなら、素晴らしいことだと思います。
 戦争と平和を考える機会の多い8月をきっかけにして、これからもしばらく、皆さんとご一緒にこのことを考えて行くことができたらと願っています。特にルカ的な証しは大切だろうと思います。ヨハネ的な証しは霊的な領域を含みますから難しいかもしれませんが、ルカ的な証し者には日本人なら誰でもなることができる筈です。このことについても考えて行きたいと願っています。
 お祈りいたしましょう。
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探究心の善用と悪用(2018.8.8 祈り会)

2018-08-09 13:42:10 | 祈り会メッセージ
2018年8月8日祈り会メッセージ
『探究心の善用と悪用』
【伝道者1:1~11】

1:1 エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
1:4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。
1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。
1:8 すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。
1:9 昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。
1:11 前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。

はじめに
 8月5日の礼拝は、6日の広島の原爆の日の前日で、平和のために祈ることについて主の祈りの「御国が来ますように」について黙示録の21章と22章を開いて共に思いを巡らしました。きょうの8日は、9日の長崎の原爆の日の前日です。きょうもまた、戦争と平和について考えたいと願っています。きょう開くことにしたのは『伝道者の書』です。この書は、以前も祈り会で学んだことがありましたが、きょうはまた新しい切り口で学んでみたいと願っています。

新しい物事に興味を示す人間
 きょう『伝道者の書』を開くことにしたのは、人類はどうして原子爆弾という恐ろしい悪魔の兵器を作り出してしまったのか、そのヒントがこの『伝道者の書』にあるように思うからです。
 伝道者は2節で言います。「空の空。すべては空。」 
 伝道者はどうして、こんなにも空しさを感じているのでしょうか。それは、9節と10節に要約されていると思います。

「日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。」

 人は新しい物事に興味を示します。年を取ると段々と新しい物事には興味を示さなくなりますが、子供たちは好奇心が旺盛です。一見ボーっとしているようなネコたちでも、近くに動くものがあれば好奇心を示し、子ネコたちは色々な物を遊び道具にして遊びます。人や動物は新しい物事に興味を示すようにできているんですね。これは命を守るためにも必要なことでしょう。新しい事態に直面した時に関心を示さずにボーっとしていたら命を失うかもしれません。
 このように新しい物事に興味を示す性質を備えているなら、毎日が同じことの繰り返しになってしまっていれば、特に知恵がある伝道者のような人は空しさを覚えて当然のことと言えるでしょう。伝道者は言います。4節と5節、

1:4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。

 確かに、伝道者の時代はそうだったのでしょう。「日の下には新しいものは一つもない」と伝道者が感じたとしても無理はないでしょう(実際には緩やかな変化はあったのだろうと思いますが)。

コペルニクス以降は新しいものが生まれ続けている
 しかし、コペルニクスの地動説以降、世界は変わりました。「日は昇り、日は沈む」、つまり太陽が昇り、太陽が沈むのではなく、動いているのは地球だと考えたほうが、天体の運行を上手く説明できることが分かって来ました。もちろん、天動説から地動説への移行が速やかに進んだわけではありません。地動説を主張したガリレオ・ガリレイが宗教裁判に掛けられたことは有名な話です。しかし、コペルニクスの死後100年以上経ってニュートン力学が確立された頃からは、科学技術が急速に発展して行くことになります。伝道者が「日の下には新しいものは一つもない」と言った時代は過去のものとなり、次々と新しいものが発見され、また新しいものが作り出されていきました。
 そうしてニュートンの時代から150年以上が経った19世紀の後半には、様々なことが物理学によって解明され、もはや新しい発見が為されることはないだろうとまで言う研究者もいたそうです。ところが20世紀に新たに誕生した量子力学によって、目には見えない素粒子や原子のことがよく分かるようになり、ウランに中性子を当てると核分裂が起きることが発見されるに至りました。これらは、人間が新しいことを知りたいという欲求に突き動かされて為されて来た事柄です。一つの新しい発見が次々にまた新しい発見を生むことにつながり、ウランの核分裂の発見へとつながりました。このウランの核分裂が発見されたのが1938年です。20世紀のはじめの1900年頃までは、まだ原子の存在は仮説に過ぎず、原子の存在を疑う研究者も少なくなかったそうであり、まして原子の構造などは全く分かっていませんでした。それがわずか30年ほどの間に急速に研究が進んで1932年には中性子が発見されて原子核が陽子と中性子から出来ていることが分かり、また、原子核に中性子を吸わせると原子核が不安定になることが分かり、ついに核分裂の現象が発見されました。そして、核分裂が起きると質量が減って膨大なエネルギーが放出されることもわかり、それからわずか7年で原子爆弾が製造されて広島と長崎に投下されることになりました。

新しい物事への欲求を善用する
 さて、ではこのことを、どう考えたら良いのでしょうか。人間の新しいことを知りたいという欲求を止めることは不可能でしょう。では、どうしたら良いのでしょうか。伝道者の書に戻って、もう少し考えてみたいと思います。7節に、

1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。

 この7節の二つめの文の「川は流れる場所に、また帰って行く」とは、どういうことでしょうか。何を言っているのか、よくわかりませんね。要するに、伝道者はどうして川は海に流れ込むのに海が満杯になってしまわないのかが分かっていないのです。川からどんどん水が流れ込めば、海の水位はどんどん上がるはずなのに、そうはなっていません。そのしくみが伝道者には分かっていません。しかし、現代の私たちには分かっています。海から大量の水蒸気が発生して空気中に取り込まれます。そして湿った空気は風によって陸地に運ばれ、山に多くの雨を降らせます。山では上昇気流が発生しますから雲ができやすく雨もまた降りやすくなります。そうして山に降った雨水は川に流れ込んで再び海に運ばれて行きます。大雑把に言えば、このように川の水は山と海との間を循環しています。そうして、現代では気象衛星を使って宇宙から雲の様子を観測できるようにもなりました。このことで台風などの気象災害にもある程度備えることができるようになりました。このように、新しい知識と技術を善用するなら、私たちの生活を安全にし、また便利にすることができます。しかし原爆のように悪用するなら、悲劇をもたらします。

神と歩むべき研究者
 ですから、新しい物事の研究に取り組む者ほど、神様と共に歩む必要があるでしょう。そうは言っても神様と共に歩んでいる研究者もいる一方で、多くの研究者は信仰を持っていないというのもまた事実です。
 では、どうしたら良いのでしょうか。私は、人間の新しい物事を知りたいという欲求を、もっともっと聖書の探求に振り向けるべきだと考えます。聖書からはまだ新しく汲み取ることができる新しい物事がたくさん含まれています。きょうは具体的な話は控えますが、従来にはない時間観、そして永遠観、さらには三位一体論と永遠観とがどう絡んで来るかなど、興味深いテーマがいくつもあります。これらのことの探求のために新しい事を知りたいという欲求を振り向ければ良いのだと思います。そうして新しいことが分かって来るなら、今まで聖書に関心を示さなかった人々も関心を示すようになり、聖書の理解がもっともっと深まって行くことが期待できます。
 先ほども言いましたが、19世紀の終わり頃には、この世界の物理的な現象は、その頃までに確立された物理学ですべて説明でき、新しい発見など無いだろうと考えていた研究者もいたということです。しかし、その予想に反してアインシュタインが相対性理論を唱え、さらに量子力学が誕生して19世紀までの物理学は古典物理学と呼ばれるようになりました。
 聖書の世界にも新しい発見など無いと思っている人も多いかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはありません。人々が聖書に見向きもしないのは古臭い書物だと思われているからで、新しい発見の宝庫であることが分かれば、もっと多くの人々が聖書と向き合うようになるでしょう。私はそう信じますから、これからも新しい探求を続けて行きたいと思います。そうして聖書の魅力を多くの方々と分かち合って行きたいと願っています。そういうわけで、きょうは伝道者の書を新しい切り口で読んでみました。

おわりに
 最後に、きょう話したことを簡単に復習したいと思います。
 伝道者の書の伝道者は、「日の下に新しいものは一つもない」と言い、それを空しく感じて「空の空」と言っています。しかし「日は昇り、日は沈む」のではないことが分かってからは、次々と新しいことが発見され、また新しい技術が生み出されて、ついに原子爆弾という悪魔の兵器を作り出してしまいました。人が新しいことを発見したい欲求は止められませんから、それが悪用ではなくて善用されるよう、新しい物事の発見に従事する人は神様と共に歩まなければなりません。しかし聖書に新しい発見が無いなら、新しいことを追い求める人々が聖書のほうを向くことはほとんどないでしょう。
 聖書にはまだまだ分からないことが多く、新しい発見の宝庫です。この聖書の魅力をお伝えして行きたいと思います。それが世界が平和に向かって行くためには必要だと思います。
 伝道者は新しいものは一つもないと言いましたが、現代においてはまったく違います。新しい物事が次々と発見され、また生み出されています。そして聖書もまた大きな可能性を秘めていることを覚えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:9 昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
1:10 「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。
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平和のために祈る:御国が来ますように(2018.8.5 礼拝)

2018-08-08 06:26:33 | 礼拝メッセージ
2018年8月5日礼拝メッセージ
『平和のために祈る:御国が来ますように』
【マタイ6:9~10、黙示録21:1~4】

はじめに
 8月に入り、8月1日の祈り会から戦争と平和について考えることを始めています。
 皆さんは、今年の2018年のカレンダーの曜日の巡りが終戦の年の1945年と同じであることをご存知だったでしょうか。きょう8月5日が日曜日なので広島に原爆が投下された8月6日は月曜日でした。そして実は9.11が起きた2001年もまた今年と同じカレンダーです。つまり1945年と2001年は同じカレンダーです。
 1945年に初めて、戦争において原爆という核兵器が使用されたことは、戦争の歴史の中では一つの大きな節目になったと思います。そして2001年の9月11日に起きた同時多発テロもまた戦争の歴史の中では大きな節目となったと言えるでしょう。それまで戦争と言えば多くは、国対国、或いは民族対民族の対決でした。しかし、2001年以降、国際テロ組織が国家と対決するという新しい形態が鮮明になったと思います。この2001年と1945年のカレンダーの曜日の巡りが同じであることに私は不思議なつながりを感じます。
 そして私は、2001年の8月12日に私は初めて高津教会を訪れて、その年の12月23日のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。これらのことを考えると、やはり私は平和のために働くべく召し出されたことを感じないわけには行きません。
 この平和のための働きは私の個人的な使命ですが、私は世界が平和に向かうには多くの人々がもっと聖書の理解を深める必要があると考えています。聖書の理解がもっと深まるなら、誰でも今よりももっとずっと深い平安の恵みがいただけます。ですから私は皆さんとご一緒に聖書の理解を深めて、深い平安の恵みを多くの皆さんと分かち合って行きたいと願っています。

『夕凪の街 桜の国 2018』
 さて明日の8月6日は例年と同じように朝の8時から8時35分頃まで広島の平和公園で行われる式典のテレビ中継があり、8時15分からは1分間の黙祷が捧げられます。そして、夜にはNHKの広島放送局が製作したテレビドラマの放映があります。今年のドラマのタイトルは『夕凪の街 桜の国2018』です。原作の『夕凪の街 桜の国』は、昨年私が出した本の中でも紹介させていただきました。前半の『夕凪の街』の時代設定は昭和30年、つまり原爆が投下されてから10年後の1955年です。そして、後半の『桜の国』の時代設定は、この原作の漫画が書かれた頃の平成16年、すなわち2004年が中心です。今回の『夕凪の街 桜の国2018』も前半の『夕凪の街』は原作と同じ昭和30年(1955年)であるようですが、後半の『桜の国』が現代の平成30年(2018年)になっているということです。原作の味を残しながらも細部ではかなり違う脚本になっているようですから、どんなドラマになっているのか、私はとても楽しみにしています。
 前半の『夕凪の街』のヒロインは平野皆実という被爆者で、彼女は原爆投下の10年後の昭和30年に原爆症を発症して亡くなります。原爆は投下直後に多くの人々の命を奪っただけでなく、その後も何年も何十年にもわたって放射線障害や原爆症の発症の恐怖で被爆者を苦しめています。また、そのために被爆者は結婚相手としても敬遠されるという苦しみも受けました。さらに、『桜の国』の登場人物たちがそうなのですが、被爆2世たちも何らかの障害を持っているのではないかという世間の偏見のゆえに苦しむことになります。このような悪魔の兵器である核兵器は国際的に禁止して廃棄すべきです。しかし、核保有国の思惑によって核兵器の廃絶にはなかなか向かって行きません。ただし、そのような中でも不幸中の幸いは、戦争での核兵器使用は長崎が最後であることです。これは世界中で多くの祈りが積まれていることの成果であろうと思います。二度と核兵器が使用されないように、そして平和が実現するように世界中で多くの祈りが積まれています。

「平和」が3回使われている詩篇122篇
 平和のために私たちもまた祈り続けて行きたいと思います。きょうの聖書交読では詩篇の122篇をご一緒に読みました。この詩篇は150ある詩篇の中で私が最も好きな詩篇です。
 詩篇122篇6節、

122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 7節、

122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」

 8節、

122:8 私の兄弟友のためにさあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」

というように、詩篇122篇では「平和」ということばが3回使われています。以外なことに、詩篇では「平和」ということばは、あまり使われていません。その中にあって122篇では3回使われていて、これが150ある詩篇の中では最も多く使われています。そういうわけで私は詩篇122篇が最も好きな詩篇です。

究極の平和
 そして、きょうの聖書箇所はマタイ6章と黙示録21章としました。この聖書箇所は最近の私の中ではとても心に通っている箇所で、既に何度か開いていますが、きょうもまた、この箇所を開きたいと思います。この黙示録21章、そして22章にあるような御国が来ることが究極の平和です。単純に「平和になりますように」と祈るよりも、この究極の平和を目標にして祈るのが良いのではないかと私は感じています。しかも、マタイ6:10の「御国が来ますように」は主ご自身が「あなたがたはこう祈りなさい」とおっしゃった主の祈りの一部ですから、よけいに平和のための祈りとしてふさわしいと感じます。既に何度かご一緒に学んでいる箇所ですが、きょう改めて平和のための祈りという観点から、もう一度ご一緒に学んでみたいと思います。
 まず黙示録21章の1節と2節、

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 ここには、ヨハネが幻で見た新しい天と新しい地の光景が記されています。この新しい天と新しい地がもたらされる時、究極の平和が訪れます。この時、2節にあるように聖なる都、新しいエルサレムが天から降って来ます。つまり、御国が来ます。続いて3節、

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。これが御国です。御国が来る前から神様は私たちと共におられますが、天の御国が地上に降って来るのですから、もっとハッキリとした形で神様が私たちと共におられることがわかります。この時、究極の平和が訪れます。4節、

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この4節は、これこそが正に究極の平和であることをよく示しています。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。戦争によって、どれほど多くの涙が流されたことでしょうか。また、戦争によってどれほど多くの死があり、悲しみがあり、叫び声があり、苦しみがあったことでしょうか。御国が来るなら、死も悲しみも叫び声も、苦しみもすべて無くなります。
 少し飛ばして22節をお読みまします。

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。

 これは本当に素晴らしい光景です。この御国が来て、究極の平和が実現するよう、お祈りしたいと思います。この御国には異邦人の私たちも、もちろん入ることができます。しかし、子羊のいのちの書に記されていない者は、この御国に入ることはできません。少し飛ばして27節、

21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。

黙示録22章の深い平安
 そして、黙示録22章も見ることにしましょう。22章の1節から5節までを交代で読みましょう。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 黙示録21章もそうでしたが、この22章の記述からも究極の平和が感じられ、心の深い平安が得られますから感謝に思います。私たちは多くの方々と、この深い平安を分かち合うことができるように働いて行きたいと思います。

深い平安を得ることの重要性
 私はこの深い平安を得ることの重要性を、今年はいつもの年と違った形で感じています。例年ですと、私は8月になる前の6月、7月から、今年も8月が近づいていることを感じて、自然と平和の祈りへと導かれていました。しかし、今年は8月になるまで、その平和の祈りへの導きを感じることができないでいました。そして8月1日の早朝になって、ようやくこ8月だから平和のために祈らなければならないと導かれました。
 どうしてかと考えると、それはどうやら私自身の心の平安の度合いが例年よりも深くないからのようです。それは今の私たちの教会が抱える問題によるのでしょう。それでも依然として私の心の中には平安があります。しかし、どうも例年と比べると深さが十分ではないようです。深い平安の中にどっぷり・どっしりと浸っているというよりは、どこに漂着するのか分からない漂流の不安を少し感じます。そういう中にいると平和への祈りも深まらないのだなということを改めて教えられています。
 だからこそ、平和が実現するためには、私たちの一人一人が深い平安の中にどっぷりと浸る必要があるのだと今年私は教えられています。世界中の多くの人々が毎日を不安の中で過ごしているとしたら、平和に向かって行くことは絶望的に難しいことです。
 ルカの福音書のイエスさまはパリサイ人たちに対して、週報p.3に載せたように言いました。

17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 究極の平和をもたらす神の国が私たちのただ中にあるのなら、多くの人々の心が深い平安で満たされない限り、「御国が来ますように」の成就は難しいだろうと思います。

おわりに
 最後にヨハネの福音書を2箇所開いて終わることにしたいと思います。まず、ヨハネ7章37節から39節までを交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 38節の生ける水の川は、黙示録22章1節のいのちの水の川を連想させます。この生ける水の川、そしていのちの水の川が私たちの内に入る時、私たちの内には大きな平安が与えられます。

 もう一箇所、ヨハネ14章の26節と27節を交代で読みましょう。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 聖霊を受けることで私たちには平安が与えられます。しかし、教会の問題や日常の様々な問題で私たちは心を騒がせたりしてしまいます。そのようなことなく、まず私たちはイエスさまの平安の中にどっぷりと浸って、そうして「御国が来ますように」と祈る者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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ドラマ『夕凪の街 桜の国2018』を観て

2018-08-07 10:04:01 | 折々のつぶやき
 きのうNHKで放送された『夕凪の街 桜の国 2018』で感じた違和感を図にしてみました。



 原作は皆実と七波が同じ20代なので、時間の流れを感じさせません。原爆の惨禍は時間の流れとは無関係な永遠の中にあり、いつの時代の者も共有・共感が可能です。この永遠に目覚めることが平和をもたらすと私は考えます。
 一方、2018年版は七波が40代になったことで時間の流れが生じてしまっています。原爆が過去に遠ざかるなら将来的には共有・共感は困難になるでしょう。
 聖書のイエスも永遠の中にいますから、2千年が経った今でも多くの人々の間で共有・共感されて心の平安が与えられています。イエスを時間の流れの中に置いてしまうなら、世界は平和に向かいません。戦争は時間の流れの中で常に不安を感じている者たちが引き起こしているのだと思います。
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時代の3D立体像

2018-08-06 06:09:50 | 折々のつぶやき
【時代の3D立体像】
 3D映画はメガネを通して左右別々の映像を見ることで奥行きのある立体像を得ることができます。
 『夕凪の街 桜の国 2018』も左の平成30年(2018)と右の昭和30年(1955)を左右別々に見ることで、奥にある昭和20年(1945)の原爆投下の惨禍が見えるようになっています。昭和20年は実際には見えていませんが、時代が立体化することで奥にあるものが心の眼で見えるようになります。



 新約聖書の『ヨハネの福音書』も同じです。「ヨハネの証しはこうである」(ヨハネ1:19)の「ヨハネ」はイエスの時代の「バプテスマのヨハネ」と使徒の時代の「使徒ヨハネ」の二人が重なっています。この二人の「ヨハネ」を左右別々に見ることで時代が立体化して、奥にある旧約の時代が心の眼で見えるようになります。すると、ヨルダンの川向こうでイエスがヨハネに近づいた出来事(ヨハネ1:29)の奥には、創世記の時代にハラン(ヨルダンの川向こう)で神(イエス)がアブラム(ヨハネ)に近づいて「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」(創世記12:1)と言った出来事が重ねられていることが、心の眼で見えるようになります。
 同様にしてヨハネ2章の奥には出エジプトの時代、3章の奥にはモーセの律法授与と荒野の時代、4章の奥には預言者エリヤの時代が重ねられています。これらは右欄の拙著(『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』 ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~)で説明しています)。

 なお、『夕凪の街 桜の国 2018』は、今夜7時半よりNHK総合で全国放送されます。
 http://www.nhk.or.jp/hiroshima/drama/
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重なりを感じて分離する(2018.8.1 祈り会)

2018-08-02 09:07:36 | 祈り会メッセージ
2018年8月1日祈り会メッセージ
『平和のために:重なりを感じて分離する』
【ヨハネ3:16、ホセア11:8、エレミヤ18:1~8】

戦争と平和を考える8月
 8月に入りましたから、今年もまた戦争と平和について考えてみたいと思います。
 いま広島の平和記念資料館(原爆資料館)はリニューアルの工事中です。資料館は東館と本館とに分かれていますから、まず東館の内部の展示が新しくなりました。そして今は本館の内部の展示の入れ替えが進められています。それと同時に建物の耐震性を向上させる工事も行われているそうです。それに先がけて本館の周囲の発掘調査が行われて、深い場所からは江戸時代や戦前の物が出て来て、その上からは原爆が投下されて焦土となった時の様々な物が出て来たそうです。平和公園は原爆の後の火災で焼けた建物の残骸の上に土を盛って作られましたから、土を掘り返すと、下から被爆当時の物がいろいろと出て来るのですね。それらが今、先にリニューアルされた東館で展示されているそうです。

時代の重なりを感じる
 これは去年私が出した本にも書いたことですが、広島の平和公園の中にいると、これらの時代の重なりを感じることができます。今の平和公園の中の敷地は広々としていますが、原爆が投下される前には、ここには多くの民家や商家が立ち並んでいて、多くの人々が暮らしていました。一昨年公開されて大ヒットしたアニメーション映画の『この世界の片隅に』でも、原爆投下前のこの地域で人々が行き交う様子が生き生きと描かれています。広島の平和公園は、表面上は広々とした土地が見えていますが、その下には人々が生活していた時の地層と、原爆投下によって焦土となった地層があります。これらを同時に感じることで、私たちは平和の貴さをより深く感じることができると思います。平和公園の中にいると、言いようもない何かを感じますが、その言いようもない何かを分離するなら、戦前のこの場所と原爆投下時の場所と、戦後きれいに整備されたこの公園のそれそれから発せられているものの三つに分けることができるのだろうと思います。
 私たちは五感でいろいろなものを感じますが、たいていのものは単純ではなくて色々なものが重なっています。料理の味も単純に甘いとか辛いとかではなく、様々な味が重なり合って深い味を出しています。音楽もオーケストラの管弦楽曲などは管楽器、弦楽器、打楽器の重なりによって深くて重厚な音になります。面白いのは、管楽器と弦楽器とがまったく同じ旋律を演奏して重なっていても、人間の耳は聞き分けることができることです。人間の耳ってすごいなと思います。

音の重なりを分離できる人間の耳
 最近は、CDの登場によって一時は廃れていたアナログのレコード盤の人気がまた復活して来ているそうですね。このレコード盤に音を記録して再生する技術もすごいなと関心します。レコード盤の溝を針がなぞって音を再生するわけですが、溝の右と左にはステレオの右と左の違う音が記録されているのだそうですね。この溝が左右45度の角度で刻まれているので、互いに90度違う方向になっているということで、左右の音を分離できるようになっているそうです。そうして溝の左右の凹凸にはオーケストラの曲なら管楽器、弦楽器、打楽器の音が重なった凸凹が記録されています。ステレオの再生装置は、この凸凹を単純に増幅してスピーカーの紙の動きとして再生しているだけだということです。このスピーカーの紙の細かい振動が空気を振動させて音波になり、人間の耳の鼓膜は、このスピーカーの紙の細かい振動を再現します。ですから、耳の鼓膜の動きは、簡単に言えばレコード盤に彫られた溝の凹凸と同じ動きをするということです。この凹凸には先ほども言ったように管楽器の音と弦楽器の音などが重なっているのですが、人間の耳はそれらを分離することができるのですから、本当にすごいなあと思います。
 ただし、これらの楽器の音の重なりを分離することは、耳の感覚を研ぎ澄まさないと、できないでしょう。それぞれの楽器の音の特徴を知り、耳の感覚を研ぎ澄ますことで分かるものでしょう。そうして様々な音が重なり合っていることを感じるなら、より深い感動を得られることでしょう。これは勉強した上で感覚を研ぎ澄ますことで得られる感動です。勉強が必要だという意味では、「知的な感動」と言えるのかもしれません。

カレーの味の深さ
 カレーライスのカレーの味わいも、それと同様かもしれません。カレーは様々な香辛料が混ぜ合わされてカレー独特の味になります。ガラムマサラ、ターメリック、コリアンダーなどの名前を聞いたことがあると思います。そういうことを知らないで単純に「おいしい、おいしい」と言ってカレーを食べるだけでも私たちは十分に満足するかもしれません。しかし、香辛料のことを勉強して学び、これらが重なり合うと、こんなにも深い味になるのだということが分かると、もっとカレーの味に感動することができるようになるのだろうと思います。そういう意味で、深い感動というものは勉強を必要とする「知的な感動」と言えるのでしょう。そして、この感動を得るにはもちろん勉強だけでなく舌の感覚を研ぎ澄ますことが必要です。舌の感覚が研ぎ澄まされるなら、カレーを食べただけで、どの香辛料がどれぐらいの割合で使われているかが、ある程度はわかるようになり、カレーを極めることができるのだろうと思います。
 聖書から得られる感動も同じで、「知的な感動」の部分が大きいのかもしれません。聖書を創世記から黙示録までの66の書の通読をすることが推奨されるのも、聖書の記述には様々な重なり合いがあるからです。例えばマタイの福音書には「預言者を通して語られたことが成就するためであった」という表現がたくさん出て来ます。旧約聖書を知らずに新約聖書を読むだけでも、それなりの感動を得ることは可能だと思いますが、旧約聖書を知っているなら、新約聖書からより一層深い感動を得られるようになります。そのためには、旧約聖書を読むという学びが必要ですし、新約聖書の記述に旧約聖書のどこが重ねられているかを読み取る感覚を研ぎ澄ます必要があります。この感覚が研ぎ澄まされると、聖書の一つの記述には、実に多くの重なりがあること分かり、感動も深まることでしょう。

ヨハネ3:16に重なる聖句
 例として、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16を考えてみましょう。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16には聖書のエッセンスが凝縮されていることから「聖書の中の聖書」と呼ばれています。つまり、聖書の非常に多くの箇所がここには重ねられているということです。ちょっと考えただけでも多くの箇所が思い浮かびます。そして、それらとの重なりを思い巡らすなら深い感動が得られます。その感動の深さは聖書をどれだけ学んでいるかということと、重なりを分離できる感覚がどれだけ研ぎ澄まされているかによるのだと思います。カレーの知識を持たずに単純に「おいしい、おいしい」と言っているだけでなく、香辛料について学ぶなら、もっとカレーに感動することができるように、聖書も学びを進めることで、もっと深い感動を得ることができます。
 では、このヨハネ3:16からは、聖書のどの箇所の重なりを感じることができるでしょうか。まず14節からわかるように、ここでは十字架が語られていますから、創世記、出エジプト記、レビ記、詩篇、イザヤ書などから色々な箇所を思い起こすことでしょう。きょうは、それら十字架に関係した箇所でなく、「神が世を愛された」に関連した箇所から、二箇所だけ、ご一緒に読むことにしたいと思います。神の愛が感じられる箇所は旧約聖書には本当にたくさんありますから、二箇所だけでは少なすぎますが、時間の関係もありますから、二箇所だけにしておきます。

ホセア書とエレミヤ書から溢れ出す神の愛
 まず、ホセア11:8をご一緒に読みましょう(旧約聖書p.1547)。

11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 エフライムというのはイスラエルの北王国のことです。アデマとツェボイムというのはソドムとゴモラの近くにあった町で、神が創世記の時代にソドムとゴモラを硫黄の火で滅ぼした時に、一緒に滅ぼされてしまいました(申命記29:23)。神はイスラエルの民を愛していましたから、北王国をそれらの町のように滅ぼしたくはありませんでした。ですから、ホセアを通してイスラエルの民が神とともに歩むことができるように手を尽くしましたが、結局は上手く行かず、神はアッシリアを使って北王国を滅ぼすことになってしまいました。これは神にとっては大きな悲しみでした。
 もう一箇所、エレミヤ書を開きましょう。エレミヤ18章の1節から8節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1323)。

18:1 【主】からエレミヤに、このようなことばがあった。
18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」
18:3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
18:5 それから、私に次のような【主】のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──【主】のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
18:7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。

 6節の「イスラエルの家よ」というのは、今度は南王国のことです。主は既に北王国を滅ぼしていました。これはイスラエルの民を愛する主にとっては本当に悲しいことでした。ですから、南王国を北王国のように滅ぼすことは、決してしたくないことでした。それでエレミヤを通して8節のように仰せられました「もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
 しかし南王国の王と民は、エレミヤの警告に従わなかったので、結局は南王国を滅ぼすことになってしまいました。北王国の滅亡だけでも十分すぎるほどに悲しいのに、なお南王国をも滅ぼさなければならなかったことに、主はどれだけ悲しい思いをしたことでしょうか。

おわりに
 ヨハネ3:16には、これらすべてのことが重なっているのですね。主は北王国を滅ぼし、南王国をも滅ぼしました。しかし、それでもなお人々は主と共に歩むことが上手くできないでいました。南王国の滅亡を教訓にしてパリサイ人たちのようにモーセの律法をきっちりと守る人々もいましたが、主の目から見れば、パリサイ人たちも主から離れているように見えました。人々はどうしても主と共に歩むことが上手にできません。そこで主は聖霊を遣わして一人一人の内に住むようにすることにしました。しかし、神である聖霊、神の聖い霊を罪で汚れた人々の内に遣わすわけにはいきません。イエスさまの十字架は、その罪の聖めのために、どうしても必要なことでした。ひとり子を十字架に付けるような、むごいことは父なる神にとっても避けたいことだったことでしょう。しかし、人々を愛する神は、イエスさまにその役目を担わせることにして、イエスさまもそれを受け入れたのでした。
 この神の愛を深く味わうには、旧約聖書を学ぶことがどうしても必要です。神の愛の重厚さを深く味わうには、聖書の各書を丹念に読むとともに、いまヨハネ3:16からホセア書とエレミヤ書を分離したように、聖書の色々な箇所を分離して味わうことが必要です。オーケストラの曲やカレーの味を深く味わえるようになるには知識を増やし感覚を研ぎ澄ますことが必要なのと同様に、聖書に関する知識を増やし、感覚を研ぎ澄ますことで聖書はより深く味わえるようになります。
 戦争と平和を考える8月になりました。世界がなかなか平和に向かって行かないのは、聖書を深く味わうことができていないからだと私は感じています。平和のために、多くの方々と共に聖書を深く味わう恵みを分かち合うことができるよう、祈り働いていきたいと思います。
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