平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

異邦人への聖霊の贈り物(2017.2.26 礼拝)

2017-02-27 09:02:19 | 礼拝メッセージ
2017年2月26日礼拝メッセージ
『異邦人への聖霊の贈り物』
【使徒10:42~45】

はじめに
 先週は旧約聖書のエレミヤ書を開きましたが、今週はまた使徒の働き10章の学びに戻ります。使徒10章に入ってから今日で3回目の学びになります。きょうは、いよいよ異邦人たちが聖霊を受けた場面を中心に見ることにします。

異なるユダヤ人の救いと異邦人の救い
 異邦人というのはユダヤ人ではない者たちのことで、私たち日本人も異邦人です。人間としてのイエス・キリストはガリラヤ出身のユダヤ人でしたから、最初に救われたガリラヤ人とユダヤ人はイエス・キリストと同じ民族です。一方、異邦人は同じ民族ではありません。そのため、ユダヤ人たちが最初に聖霊を受けた時の状況と異邦人が最初に聖霊を受けた時の状況を比べて見ると、一見似てはいますが、よくよく見ると大変に違います。
 ユダヤ人が救われた時と異邦人が救われた時とで似ている点は、どちらもペテロの説教がきっかけになっていることです。まず、ユダヤ人が救われた時のことを振り返っておきたいと思います。使徒の働き2章を開いて下さい。使徒2章には五旬節の日のことが書かれていて、まずはガリラヤ人たちが聖霊を受けた時のことが書かれています。ペンテコステ礼拝の時によく開く箇所ですが、1節から4節までを交代で読みましょう。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 こうして、ペテロやヨハネなどのガリラヤ人の弟子たちが、まず聖霊を受けました。続いて5節と6節を私のほうでお読みします。

2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

 こうして、様子を見に来たユダヤ人たちは驚きあきれて、口々にいろいろなことを言い始めました。そこで、このユダヤ人たちに向かってペテロは話し始めました。14節です。

2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

 こうして、ペテロは集まった人々に話を始めました。きょうの学びは10章が中心ですから、この説教の内容の大半は飛ばします。次に2章36節と37節を見て下さい。お読みします。

2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

 この五旬節の日の7週間と少し前にユダヤ人たちはイエスを十字架に付けて殺しました。この、自分たちが十字架に付けたイエスが救い主であることを知ったユダヤ人たちは心を刺されてペテロたちに「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言いました。そこでペテロは彼らに答えました。38節です。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 続いて少し飛ばして41節、

2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 38節でペテロは「悔い改めなさい」と言いました。そして「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と言いましたから、41節でユダヤ人たちはバプテスマを受けて聖霊を受けました。

 このユダヤ人たちが聖霊を受けた時のポイントは、心を刺されて悔い改めたということだと思います。ユダヤ人たちは自分たちが実は救い主であったイエスを十字架に付けて殺してしまったことに心を刺されて、このことを悔い改め、そうして聖霊を受けました。
 一方、コルネリオたち異邦人たちの場合は状況が異なりました。イエスが十字架に付けられた時、彼らはエルサレムにはいませんでした。彼らはカイザリヤに住む人々でしたから、イエスが十字架に付けられた時、そのこととは無関係に過ごしていました。

異邦人の救い
 では、きょうの10章の学びに入って行きましょう。まず簡単に10章の出来事を振り返っておきます。

10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた

 この異邦人のコルネリオが、ペテロをカイザリヤに招くようにと神の御使いに幻の中で言われました。そこでコルネリオは部下を遣わしてヨッパに滞在していたペテロを呼びに行きました。
 一方、ペテロはコルネリオの部下がヨッパに着く少し前に、不思議な夢を見ていました。そして御霊からの語り掛けを受けていました。それゆえペテロはコルネリオの招きを受け入れて、カイザリヤまでやって来ました。
 今度は10章の27節から見て行きます。27節でペテロはコルネリオの家に入りました。そして、こう言いました。28節と29節のペテロのことばをお読みします。

「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
10:29 それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」

 ユダヤ人にとって異邦人は汚れた存在でした。その汚れた者たちと交わりを持つことは律法を破ることになります。しかし、神はペテロに彼らと交わることをためらってはならないと予め教えていたのでした。そこでペテロはコルネリオの家に入り、どうして自分を招いたのかを尋ねました。そしてコルネリオの返答を聞いてペテロは言いました。34節と35節をお読みします。

10:34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
10:35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。

 35節にあるように、神はどの国の人であっても、ユダヤ人であっても異邦人であっても受け入れます。そうしてペテロはイエス・キリストについて語り始めました。36節、

10:36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

 少し飛ばして39節、

10:39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
10:40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。

 この39節でペテロは、自分たちがイエスの「証人」であると述べています。

証人の証言を信じると受ける聖霊
 この「証人」という言葉は、非常に重要です。私たちはイエスに会ったことがなくてもペテロなどイエスに実際に会ったことがある証人の証言を聞き、その証言を信じてイエスが神の子キリストであると信じるなら、聖霊を受けます。イエスに実際に会った証人とは、人間のイエスに会った証人であっても霊的なイエスに会った証人でも、どちらでも構いません。ペテロは人間のイエスに会った証人であり、パウロは霊的なイエスに会った証人でした。その証言を信じてイエスが神の子キリストと信じた者が聖霊を受けると、聖霊の働きによって今度はその人が霊的なイエスと会うことができます。そうして、新たな証人になることができます。
 40節でペテロは、神はイエスをよみがえらせて自分たちの前に現れさせて下さいましたと言いました。そして41節で、もう一度「証人」という言葉を使っています。41節、

10:41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。

 人間のイエスの直接の弟子であったペテロたちは神によって選ばれた証人でした。そして42節、

10:42 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

 そうしてイエスは証人の弟子たちに証しをするように言ったとペテロは言いました。そうしてペテロはなお、コルネリオたちに語り続けました。
 この後でペテロが何をなお語り続けたのかは書いてありませんが、私はペテロは自分の失敗談も話したのではないかなあという気がしています。福音書を読むと、ペテロたちが情けない弟子であった様子がわかります。この福音書が書かれたのは、コルネリオたちが救われた時よりも、何十年も後のことです。今回、私はこの使徒10章からのメッセージの準備をしていて、福音書にペテロたちの失敗談が多く書かれているのは、コルネリオたちの救いや様々な伝道を通じて、弟子たちの失敗談を語ることが、罪の赦しの恵みを受けるために非常に有効であることがわかったからそうしたのではないかと、思うようになりました。それは、使徒10章にはコルネリオが正しい人であったことが書いてあるからです。私たちは、自分が正しいと思っている間は、決して救われないことをよく知っています。ですから、ペテロは自分の失敗談もコルネリオたちの前で話したのではないかという気がしています。
 続いて44節、

10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

 コルネリオの家に来ていた親族や知人たちのすべての人々がペテロの証言に耳を傾け、聞き入り、引き込まれていました。そうして聖霊を受けました。47節を見るとわかりますが、コルネリオたちは聖霊を受けた後で水のバプテスマを受けました。一方、2章で見たユダヤ人たちは心を刺されて、バプテスマを受けたら聖霊を受けました。

聖霊は天からの贈り物

 この10章の異邦人たちの場合は、イエスを「十字架に付けろ」と叫んだわけではありませんから、心を刺されたというよりは、もっとじんわりと、ペテロの言葉が心に浸み込んでいったように思います。そして45節、

10:45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。

 聖霊は天から賜るものですから、天からの「贈り物」です。英語では、「賜物」はgiftと訳されています。私たちはペテロやパウロなど、先にイエスさまと出会った証人たちの証言を聞いてイエスが神の子キリストであると信じると聖霊を受けます。私たちは、この天からの素晴らしい「贈り物」を授かる恵みを地域の方々と共に、分かち合いたいと思います。
 そのことのために、この使徒の働き10章は、非常に参考になると思います。
 機会があれば、いつかまた(近い将来?)、10章の学びをさらに深めたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。

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伝道の入口としての「永遠」への覚醒(2017.2.22 祈り会)

2017-02-23 09:10:18 | 祈り会メッセージ
2017年2月22日祈り会メッセージ
『伝道の入口としての「永遠」への覚醒』
【ヨハネ20:30~31】

はじめに
 先日の19日の礼拝で、私は「今は内圧を高める時」だと言いました。私たちが新会堂を建設するのは会堂建設が目的ではなく、イエス・キリストの福音を地域の方々に宣べ伝え続けて行くためです。新しい会堂を県道に面した土地に建てれば、今のこの引っ込んだ位置にある小さな会堂で宣べ伝えるよりも、もっと効果的にお伝えすることができる筈です。この伝道の意欲が十分に高まっていないと、たとえ新しい会堂を建設しても十分な働きはできない恐れがあります。そこで、いま会堂建設が足踏み状態にある期間は、伝道への意欲の内圧を高める期間にすべきだと思います。
 さて、このような礼拝メッセージの後の今日の祈り会のメッセージでは、何を語るべきか昨晩から今朝に掛けて思いを巡らしていたところ、最近観たテレビ番組のことが思い出されましたので、先ずはその番組内容の紹介から始めます。あいにくこの番組を録画していませんので、忘れないうちに記しておきたいという意味も込めて、まず紹介します。

死後にしか楽しみがない?
 それはNHKのBSプレミアムで毎週木曜日に放送している『英雄たちの選択』という番組です。英雄たちというのは歴史上に実在した英雄たちで、その英雄たちが選択の岐路に立たされた時にどのような葛藤があっただろうかということについて様々な分野の専門家が、お互いの意見を述べ合うスタイルの番組です。たとえば有名な史実として、徳川家康が一時は豊臣秀吉に服従していた時期がありました。この秀吉に服従するに当たっては家康には葛藤があったはずで、秀吉に服従しない選択肢もあったことでしょう。その時に、どのような葛藤が家康の中であっただろうかということについて論じ合うというような番組です。
 さて、きょう紹介したいのは、その『英雄たちの選択』で最近放送された「天正遣欧使節」の回での司会者のコメントです。天正遣欧使節というのは、戦国時代にローマに4人の日本人切支丹の少年たちが派遣された使節のことです。少年たちは1582年に日本を発ち、1590年に日本に戻って来ました。この日本を出国した1582年という年は本能寺の変があった年で、ご承知の通り、織田信長が殺されて、それから後の日本は豊臣秀吉の世になって行きます。少年たちが出国したのは、この本能寺の変の前で、切支丹の人数が大きく伸びていた時期でした。しかし少年たちが戻った1590年は、秀吉が1587年にバテレン追放令を出した後であったために、迫害が始まっていて様相は大きく変わっていました。その日本に帰国した少年たちの葛藤について番組は取り上げていました。
 きょうはこの番組の内容には深く立ち入るわけではなくて、司会者の磯田さんという歴史学者のコメントに注目したいと思います。少年たちが日本を出国した当時、日本の切支丹人口が増えていたことについて礒田さんは、次のようなことを言っていました(録画しておらず記憶が頼りですので正確な言い回しではありません)。
「この時代の人たちは死んだ後にしか楽しみがない可哀想な人たちだったんですよ」
 このコメントを聞いて私は、キリスト教や宗教はそんなイメージを持たれているんだなと思いました。しかし、このコメントは、これから私たちが伝道を展開して行く上で、とても参考になると思いました。それで、きょうは、このコメントから始めて、私たちは何を宣べ伝えて行くべきかを考察したいと思っています。
 もう一度礒田さんのコメントを振り返ってみると、礒田さんは、戦国時代に切支丹の人口が増えていたことを指して、
「この時代の人たちは死んだ後にしか楽しみがない可哀想な人たちだったんですよ」
というようなことを言っていました。
 それはつまり、この当時の切支丹は死んだ後に天国に行くこと、それだけを楽しみに生きていたということだと思います。このコメントがどれくらい正しいか正しくないかはともかく、死んだ後に天国に行くことを楽しみに信仰生活を送っているクリスチャンは、現代においても案外多いのではないかなという気がします。
 私が、これからの伝道で大切だと思うことは、まずはこの認識を改めてもらうことではないかと思っています。あとでもう一度触れますが、イエスが神の子キリストと信じて聖霊が与えられると魂の深い平安が得られます。この魂の平安は何事にも代えがたい本当に素晴らしいものです。つまり、私たちは死んだ後でなくても、この世に生きている間に、この素晴らしい恵みを味わうことができます。このことを広く知ってもらう必要があると思います。死んだ後にしか楽しみがないと思われている間は、教会に来る人はなかなか増えないだろうと私は思います。それは、現代の生活においては、昔と違ってそれなりに楽しいことが色々とあるからです。この現代の世的な楽しみは魂の深い平安に比べるとぜんぜん浅いレベルの楽しみだということを私たちは知っていますが、これは味わった人でないとわかりませんから、伝えるのは難しいことです。それでも何とかして私たちはこの魂の平安を得ることの素晴らしさを伝える必要があると思います。

スマホで手軽に得られる癒し
 次に、現代の世の楽しみ方について話そうと思います。先日、NHKのニュース番組を見ていたら、こんなことが話されていました。
 いまファミリーレストランの業界では24時間営業から次々と撤退しているそうです。それは何故なのか、私は従業員の確保が難しいからだろうと思っていましたが、それだけではないということでした。最近は深夜営業の時間帯にはお客さんの数も昔と比べると随分と減ったのだということです。その理由として、そのニュース番組ではスマホの普及を挙げていました。昔は若い人たちが深夜の時間帯にファミリーレストランに集まってだべっていましたが、今はスマホを使えばいちいち集まらなくてもグループで話すことができますから、集まる必要がないということでした。
 私からすれば、スマホを使ってネット上で文字を通した会話をするよりも顔を合わせたほうが楽しいだろうにと思いますが、スマホで育った世代はそうは考えないようです。そのようにファミリーレストランでさえ若い人たちが集まらなくなっているとしたら、教会に若い人たちに集ってもらうことが難しいのは当然とも言えるでしょう。
 グループ間の会話だけでなく、スマホは一人でゲームや動画も楽しめますから、手軽に癒しも得られます。動画は長いものではなくても、ほんの数秒でも癒しを与えてくれます。私もツイッター上に投稿されるイヌやネコのユーモラスな動きを録画したほんの数秒の動画に癒されるのを感じます。それらを見ると思わず笑ってしまいますから、心がほぐれるのを感じます。もちろん、これらによる癒しは魂の深い平安に比べれば遥かに浅い、お手軽なレベルの癒しですが、ちょっとホッとしたい時などには有用だと思います。
 それゆえに、こういう癒しを手軽に得られる現代において魂のレベルの深い平安について知ってもらうことは、本当に難しいことだと思います。20世紀に日本でキリスト教ブームが起きた時代には、もちろんスマホはありませんでした。ですから21世紀の現代においては、従来の伝道方法を地道に続けていれば、いつか神様の御業によってリバイバルが起きるだろうという期待はあまり抱かないほうが良いのではないかなと感じています。

伝道の入口としての「永遠」への覚醒
 では、どうしたら良いのでしょうか。私自身は「永遠」への覚醒を訴えて行くことが重要ではないかと考えています。イエスを信じて聖霊を受ければ「永遠」に覚醒しますから、「イエスが神の子キリストと信じること」を前面に出して「イエスを信じよう」と訴えてももちろん良いわけですが、私は「永遠」に覚醒することのメリットを前面に出したほうが良いような気がしています。或いはまた、イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったことを前面に出して、まず私たちの罪深さを自覚することから始めて、その罪の赦しを得るためにイエスが救い主のキリストであることを信じることを訴えても、もちろん良いわけです。これは従来から広く行われて来たことです。しかし、いちいち顔を合わせなくてもスマホでグループの会話ができ、またお手軽に心の癒しも得られる現代において、自分の罪深さに一人で向き合う人がおこされることが、どれだけ期待できるでしょうか。
 それよりも私は「永遠」に覚醒することのメリットを訴えるほうが、現代人には合っているような気がするのですが、いかがでしょうか。
 「永遠」に覚醒するためにはイエスを信じて聖霊を受ける必要がありますから、結局はイエスを信じなければならないのですが、入口としては「永遠」に覚醒することのメリットを前面に出したほうが良いように私は感じています。
 「永遠」に覚醒することのメリットは何と言っても魂の深い平安が得られることだと思います。永遠の中では時の流れがありませんから、時間の流れの中でどこに向かって行くのかわからない不安からは解放されます。この不安から解放されることで魂は平安を得て、それが平和の実現につながって行くことになります。このことを、もっと上手く伝えることができるようにならなければならないと私は感じています。
 また、永遠に覚醒すると、二千年前のイエスさまのことを、それまでよりもずっと身近に感じることができるようになります。永遠の中では時の流れがないために、二千年のイエスさまも三千年前のダビデも同じくらいの近さで感じることができます。
 最近私は、マタイ・マルコ・ルカの福音書が執筆された目的は、イエスさまの言動の記録を残すこともあったかもしれませんが、それよりも永遠に覚醒したクリスチャンが永遠の中でイエスさまと魂の深い交わりを経験するために書かれたのかもしれないとも思うようになりました。そして、それをもっと押し進めたのがヨハネの福音書です。ヨハネの福音書は明らかにイエスさまと魂の領域で霊的な深い交わりを持つために書かれたものです。ヨハネの福音書には聖霊についての教えが多く含まれます。その聖霊を受けることで、私たちはイエスさまと魂の領域で交わることができるようになります。

「永遠」への覚醒で得られるイエスとの深い交わり
 きょうの聖書箇所を、もう一度ご一緒に読みましょう。ヨハネの福音書20章30節と31節を交代で読みましょう。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 31節の「いのちを得る」ことは聖霊を受けなければ得られないことですから、つまりイエスが神の子キリストであることを信じると聖霊を受けることが書かれていると言っても良いと思います。そして「いのちを得る」とは「永遠のいのちを得る」ことですから、つまり「永遠」に覚醒することです。
 このヨハネの福音書の執筆目的をしっかりと念頭に置いてヨハネの福音書を読み返すと、「永遠」に覚醒して、永遠の中を生きるイエスさまと霊的な交わりを持つことの素晴らしい恵みをいただくことができます。永遠の中を生きるイエスさまとは紀元30年頃のイエスさまだけでなく、「旧約の時代」にいる霊的なイエスさま、「使徒の時代」にいる霊的なイエスさまをも含みます。
 この永遠の中を生きるイエスさまと交わる素晴らしい恵みについて、まだ教会を訪れたことが一度もない方々に伝えることは不可能ですが、まずは「永遠」に覚醒することのメリットを伝えることができないだろうかと思います。これは私の個人的な考えであり、まだまだ他にも、伝道のやり方はあるだろうと思います。

おわりに
 いずれにしましても、キリスト教の恵みは死んだ後でないと得られないと人々に思われている間は教会に多くの方々に集まっていただくことは、なかなかできないだろうと思いますから、私たちは様々に工夫して伝道に励んで行く必要があるだろうと思います。
 お祈りいたしましょう。

20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
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今は内圧を高める時(2017.2.19 礼拝)

2017-02-20 10:13:14 | 礼拝メッセージ
2017年2月19日礼拝メッセージ
『今は内圧を高める時』
【エレミヤ20:7~9】

はじめに
 きょうは新約聖書の使徒の働きの学びはお休みにして、旧約聖書のエレミヤ書を開くことにしました。それは、私たちの教会の会堂問題が足踏み状態にあって前に進めなくなっている今、この期間をどのように過ごすべきかについて、ご一緒に考える必要があると思ったからです。
(中略) 
 きょうのメッセージのタイトルは、『今は内圧を高める時』です。この「内圧を高める」ということについて、三つの事例から考えてみたいと思います。最初の二つは私自身に関する事例です。二つのうちの一つは非常に単純な事例で、もう一つの事例は少し複雑です。そして三つめの事例は私たちの教会の会堂問題であり、これはかなり複雑な問題です。しかし、この前に進めずに足踏みしている期間に「内圧を高める」ことは非常に重要だと私は考えます。この期間にガスを抜いたりすると、大事なことを成し遂げることは決してできないだろうと思います。この三つめの事例に関してはきょうの聖書箇所のエレミヤ20章も絡めながら、お話したいと思います。

いつかは必ず観られる国際宇宙ステーション

 まず一つめの事例は、非常に単純な事例です。それは、私が国際宇宙ステーションを観たくて仕方がない時期があったという事例です。私はこの沼津教会に4年前の2013年に着任しましたが、着任して間もなく、ここからわずか徒歩2,3分ほどで行ける今沢の海岸の防潮堤が、星を観るのに非常に適していることに気付きました。まず第一に周辺がかなり暗いことです。防潮堤に通じる松林の中の道は、月が出ていない時には懐中電灯が無いと道の凹凸が見えなくて危険なくらいに暗くなります。そして第二に非常に開けた場所である点です。防潮堤に上がると松林は星を観ることに関しては全く邪魔になりません。そして、この辺りには高い建物はありませんから、360度、非常に見通しが良く利きます。それゆえ、この今沢の海岸の防潮堤の上は一般住宅街のすぐ近くにしては、星空を眺めるのには抜群の環境だと言えると思います。
 さて私は、この抜群の開けた環境で国際宇宙ステーションが上空を通過する様子をたっぷりと観て楽しみたいと思うようになりました。しかし、それはなかなか適いませんでした。国際宇宙ステーションは90分に1回の周期で地球の周りを回っていますから、日本の上空もかなりの頻度で通過しています。しかし、肉眼で見える時間帯は限られていて、日の出前か日没後のわずかな時間帯です。例えば昼間は星が見えないのと同様に国際宇宙ステーションも見えません。夜は自発的に光る星は見えますが、国際宇宙ステーションのように自ら光らない物体は太陽の光を受けなければ見えません。ただし国際宇宙ステーションが飛んでいる高度はそんなに高くありませんから、すぐに地球の陰に隠れてしまって太陽の光を受けられなくなりますから、本当に日の出前か日没後のわずかな時間帯に日本の上空を通っている時にだけ観ることができます。また、たまたまその条件の良い時間帯に日本の上空を通ったとしても天気が良くなければ見えません。それで、私は今沢の海岸の防潮堤から国際宇宙ステーションを眺めることがなかなかできないでいました。しかし、それでも私は、いつかは必ず観られるだろうと確信していました。それは、国際宇宙ステーションが運用されている限りは、条件が良い時と私の都合が合致する時が必ずあるはずだと思っていたからです。そうして、何ヶ月か掛かりましたが、私は国際宇宙ステーションが日本の上空を通過して行く様子を何分かの間、じっくりと今沢の防潮堤から眺めることができました。
 この時に私が思ったことは、自分が願っていることは、その願いを持ち続けているなら、時間が掛かってもいつか必ず適うのだということでした。そして私は、このことを、私自身がヨハネの福音書に関する本を出版することについて当てはめて、本の出版もいつか必ず出来るだろうと思うようになりました。

いつかは出版できる本

 この私の本の出版に関することが、第二の事例です。ただし、本の出版は国際宇宙ステーションを観ることに比べれば、事情はもっと複雑です。国際宇宙ステーションの場合は、軌道がかなり前から定められていて、特別な事情がなければ軌道を修正することなく、ほぼ決められた通りの軌道で地球を周回します。そうして国際宇宙ステーションが観られる条件と天候と私の都合とが合致すれば、いつかは必ず観られます。しかし、本の出版の場合は出版社の事情が絡みますから、もっと複雑です。自費出版ならお金さえあれば、概ねこちらの都合で出版できると思いますが、多くの人々に知ってもらうためには、出版社の編集者の目に適ったしっかりとした企画の本を出す必要があるでしょう。
 この編集者の目にとまることが、なかなかに難しいことを今回、私はヨハネの福音書に関する本の出版を5年以上に亘って模索する中で実感しました。出版社の側も新人の発掘のことはいつも気に掛けているとは聞きますが、現実的には著名な人が書く本の出版に時間を割くことが大半で、新人が持ち込む企画や原稿にじっくりと目を通す時間はほとんど取れないことが多いでしょう。そうして持ち込まれた企画を見ても、商業的に採算が取れそうな企画はほとんどないでしょうから、やはりどうしても、ある程度名の知れた人に本を書いてもらう企画を出版社の側で考えたり、著名な人が出版社に持ち込む企画を優先的に採用するという流れになるのは仕方がないことだと思います。
 しかし新人であっても色々と頑張って一冊でも本が出せれば、それが名刺代わりになって、次の企画を見てもらいやすくなると思います。それだけに最初の一冊は非常に重要です。最初の一冊があまり大したことがなければ、次の出版へとつながりませんから、私も最初の本はそれなりのものにしなければならないと思っています。
 私が5年以上にも亘ってヨハネの福音書の本を出したいと願い続けているのは、ヨハネの福音書の深層部に何が書かれているかを多くの人々が理解するなら、世界は変わると確信しているからです。そして、このことのために私は牧師に召し出されたと確信しているからです。ですからヨハネの福音書の深層部のことが今は知られていなくても、神様がなさることですから、いつかは必ず世に広まると私は確信しています。それが1年後なのか10年後なのか、私が死んだ後になるのかはわかりませんが、いつかは必ず世に広まります。そのためには、とにかく私は本を出す必要があります。世に広まるのが私が死んだ後になったとしても、本が出ていれば用いられるでしょう。しかし本が出ていなければ、何も起きずに終わってしまいます。ですから、私がヨハネの福音書に関する本をどうしても出版しなければならないという思いは非常に強いものです。
 皆さんも心を痛めていると思いますが、今の世界は本当におかしなことになっています。アメリカの指導者も北朝鮮の指導者もやりたい放題です。このような、やりたい放題がいつまでも続くとは思えませんから、世界は必ず変わって行くだろうと思います。ただし、ますます悪くなる方向に変わることも有り得ます。そうならないように、良い方向に変わって行くために、ヨハネの福音書が平和のために用いられることを私は期待しています。しかし、これは国際宇宙ステーションとは違って人の不信仰が絡むことですから、どういう方向に進むかはわからない面があります。旧約聖書のエレミヤの時代にも、エレミヤが神の警告のことばを人々に向かって叫び続けましたが、人々は聞き入れずにいて、結局エルサレムは滅亡してしまいました。現代の私たちが住む世界がエルサレムのようにならないことを願いますが、不信仰な人々で満ち溢れる現代にあって、これから先どうなって行くのかは予断を許さないと思います。世界が平和な方向に向かって行くよう、私たちの教会の働きもまた重要です。この私たちの教会の働きの更なる前進のためには、新しい会堂の建設がどうしても必要です。

今は内圧を高める時
 そして、きょうの三つめの事例が、この私たちの教会の会堂問題です。これは教団の事情が絡んでいますから、私の本の出版事情よりもさらに複雑です。しかし、一つ言えることは、今や私たちは今年中には会堂の建設に着工して完成できるという段階まで来ているということであり、これは教会の皆さんが前任の先生の時代から何年以上にも亘って新会堂を建設したいという強い願いを持って来たからこそのことです。この強い願いによって、ここまで漕ぎ着けることができました。
 さてしかし、ここに来て足踏み状態に入ってしまいました。このことを、どう考えたら良いでしょうか。私はこのことを、単に新会堂を建設したいという願望だけではなくて、主のみことばを地域の人々に宣べ伝える伝道の気持ちの内圧をも、もっと高めるべき時期なのだと解釈したいと思います。
 ここできょうの聖書箇所のエレミヤ20章をご一緒に見たいと思います。エレミヤの場合は私たちの場合とはだいぶ事情が違いますが、ここからはとても大切なことが学べると思います。
 まず、20章の手前の19章14節と15節をお読みします。

19:14 そこでエレミヤは、【主】が預言のために遣わしたトフェテから帰って来て、【主】の宮の庭に立ち、すべての民に言った。
19:15 「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」

 エレミヤはエルサレムの神殿の庭に立ち、すべての民に向かって、主がエルサレムに災いをもたらすことを預言しました。すなわちエルサレムを滅ぼすということです。それは人々が主のみことばに聞き従おうとしなかったからです。
 さてしかし、エレミヤはこの預言をしたことで打たれて捕らえられてしまいました。20章2節です。

20:2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を【主】の宮にある上(かみ)のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。

 この時、エレミヤは翌日には足かせから解かれたことが3節に書かれていますが、エレミヤの心はここで折れてしまいました。それは、この20章に至るまでも、エレミヤは再三にわたって主の警告のことばを宣べ伝え続けて来ましたが、人々が一向に聞き入れようとしなかったからです。このエレミヤの嘆きのことばがきょうの聖書箇所の7節からのことばです。まず7節、

20:7 【主】よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

 エレミヤが主に向かって、「あなたが私を惑わした」と言っているところに、エレミヤの心が折れて相当に弱気になっていたことがわかります。主のことばに信頼を置くことができなくなっているほどに、エレミヤの心は弱っていました。続いて8節、

20:8 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。私への【主】のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。

 エレミヤはあざけりのことばを受けるだけでなく、捕らえられて暴行まで受けました。そのことにエレミヤはもはや耐えられなくなっていました。しかし9節、

20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

 主はなおエレミヤに語り掛けを続けて、人々にことばを宣べ伝えるようにエレミヤを促していました。それゆえエレミヤは、この主のことばを内にしまっておくのに疲れて耐えられないほどになっていました。
 私たちはどうでしょうか。私たちは、会堂を建設したいという気持ちにおいては非常に強いですから、その気持ちをしまっておくのに疲れて耐えられないほどになっています。しかし、主のみことばを宣べ伝えることにおいてはどうでしょうか。
 会堂を建設したいという気持ちは、会堂を建設してしまえば、消えてなくなります。かつて私は国際宇宙ステーションを観たいという強い気持ちを持っていましたが、その強い気持ちは国際宇宙ステーションを実際に観た時から失われてしまいました。私の強い気持ちは、その程度のものでした。では私のヨハネの福音書の本を出版したいという気持ちはどうでしょうか。この気持ちは、一冊本を出版しても失われることはないでしょう。それは、私の目的が本の出版にあるのではなくて、ヨハネの福音書を通じて世界の平和のために働きたいという強い気持ちがあるからです。そして、このことについての主の励ましも受けているからです。ですから私は本を一冊出しても次の二冊目、三冊目の企画を考えます。そうして本を出し続けたいと願っています。そうして少しでも世界が平和に向かうように働きたいと思います。

おわりに
 私たちの会堂建設も、会堂を建設すること自体が目的ではなくて、主のみことばを地域の方々に宣べ伝えることが目的です。このことへの気持ちが私たちの中で十分に高まっているでしょうか。私はまだまだ足りないかなと感じています。ですから、いま会堂建設が足踏み状態になっていることは、この主のみことばを宣べ伝えたるのだという強い気持ちをもっともっと高めるために与えられているのだと解釈したいと思います。
 私たちは、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」
というほどまでに伝道の気持ちを高めたいと思います。
 来年の教会の聖句について口にするのは早すぎると思いますが、私はこのエレミヤ20章9節の、
「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」
を来年の教会の聖句にしても良いほどだと思っています。今年中に会堂を完成させて、来年はこれぐらいの強い気持ちを持って地域の方々に主のみことばを宣べ伝えたいと思います。
 私たちが、このように強い気持ちを持つなら、私は主は必ず私たちに新しい会堂を与ええ下さるだろうと信じています。今は足踏み状態にありますが、この足踏み状態はそんなに長く続くことはないと思います。ですから、今のこの機会にしっかりと内圧を高めるようにしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」
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異邦人の救いへの絶妙の導き(2017.2.12 礼拝)

2017-02-13 07:02:48 | 礼拝メッセージ
2017年2月12日礼拝メッセージ
『異邦人の救いへの絶妙の導き』
【使徒10:17~24】

はじめに
 使徒の働き10章の学びを続けます。きょうのメッセージのタイトルは、『異邦人の救いへの絶妙の導き』です。
 神を感じることと「導き」を感じることとは、非常に密接な関係にあります。神は永遠の中にいますから、未来のことまでを含めて、人を導きます。

「導き」の例
 たとえば旧約聖書の創世記では、ヤコブの息子たちが弟のヨセフを荒野の穴の中に投げ込みました。兄たちはヨセフを殺そうと思っていましたから、ヨセフはこの穴の中で死んでしまってもおかしくはありませんでした。しかし、たまたまエジプトに向かっていた商人がその穴のそばを通ったので、兄たちはヨセフを穴から引き上げて商人に売りました。こうして、ヨセフがエジプトに行ったことで、後にヤコブの家族がエジプトに移住して、そこでイスラエルの民が増えることにつながりました。そうしてイスラエルの民はバラバラになることなく一つになってモーセの時代にエジプトから脱出して、全イスラエルがシナイ山のふもとで律法を授けられることになりました。大勢のイスラエルの民に同時に律法を伝えることができたのでした。
 兄たちがヨセフを荒野の穴に投げ込んだ時に、ちょうど商人が通り掛ったことは、この場面だけを見るなら偶然のように見えると思いますが、後のモーセの時代のことまでを考えるなら、これは神の導きであったと見るべきでしょう。
 私自身の話を少しだけすると、私は高津教会に導かれて洗礼を受けました。東京に就職が決まって高津駅の近くにアパートを借りて高津駅が通勤駅になり、その駅のホームからいつも教会の十字架が見えていましたから、そこに教会があることを知り、高津に住み始めてから6年後に高津教会に導かれました。高津教会の一般信徒であった時の私は、どうして導かれたのが高津教会だったのか不思議に思っていました。単に私がキリスト教の信仰を持つために教会に導かれるなら、どこの教会でも良かったはずです。それがなぜ高津教会でなければならなかったのか、それは後に私が牧師として召し出されて、どういう働きをするかということまでを含めての導きであったのだということを、私は牧師になって納得しました。さらに、私は、この春ようやくヨハネの福音書に関する本を出版できるところまで漕ぎ着けましたから、この本の出版のためには高津教会でなければならなかったのだということを改めて思っています。このことは、礼拝後の会堂祈祷会の時にもう少し詳しく話をすることにしたいと思います。
 この教会の会堂が今のこの土地に導かれたのも、未来のことを含めての導きだったのだろうと私は感じています。すなわち、沼津教会がこの土地に導かれたのは1983年のことでしたが、永遠の中におられる神様は、既にその時から33年後の2016年に隣の土地を与え、さらに2017年に会堂を与えることまでを計画に入れて、この土地へ導いたのであろうと私は感じています。
 信仰は、このような神様の導きについて思いを巡らすことで深まっていくと私は経験的に感じていますから、聖書を読む時も、神様が背後でどのように人々を導いていたのかをなるべく感じながら読むようにしたいと思います。
 使徒の働きで言えば、ステパノが石打ちに遭って殺されたことは不幸なことでしたが、この迫害によって教会の人々がエルサレムから散らされて出て行かなければ、キリストの教えが全世界に広がることはなかったかもしれませんから、これもまた導きであったのだろうなと思うことです。

カイザリヤに導かれたペテロ
 そして、このような「導き」という観点で使徒の働き10章を読むと、この10章の記事もまた大変に興味深いと私は感じています。どのように興味深いかと言うと、この10章でコルネリオという異邦人が救われたわけですが、コルネリオ一人が救われたのではなくて、コルネリオの親族たちや知人たちもまた救われたことに、神様の絶妙の導きを感じるからです。
 きょうの聖書箇所の最後の節の10章24節を見ていただくと、次のようにあります。

10:24 その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。

 カイザリヤに着いた彼らとは、ペテロと、ペテロをヨッパまで迎えに行ったコルネリオのしもべたちでした。ここに私が導きを感じるのは、コルネリオがヨッパのペテロの所に行ったのではなくて、ペテロの方がカイザリヤのコルネリオの所に来たということです。このことによってコルネリオの親族や知人たちまで救いの恵みに与ることができました。もしコルネリオがヨッパに行ったのであれば、救われたのはコルネリオ一人と一部の側近だけだったでしょう。
 カイザリヤとヨッパの位置関係を、後ろの地図の「使徒たちの旅」で見ておきたいと思います。このカイザリヤという町がどのような町であったか、『エッセンシャル聖書辞典』には次のようにあります。

「パレスチナの地中海沿岸にある港町で、カルメル山の南37キロほどの所にあった。古代にはその地方第一の都市で、フェニキヤに属する要塞都市。ストラトンの塔と呼ばれた町の跡に、ヘロデ大王が前25年から12年をかけて大々的な改修工事を施し、劇場、円形演技場、競技場、導水橋、皇帝礼拝の大神殿を備えた一大都市とした。町の名は、アウグストゥス・カイザルにちなんでつけられた。政治的にも軍事的にも重要な都市となり、パレスチナのローマ総督府となった。」

 このようにカイザリヤはローマの総督府となり、ユダヤ人から見れば大勢の異邦人が住んでいる異教の大都市でした。この異教の大都市のカイザリヤにコルネリオは百人隊長として家族と共に住んでいました。10章の1節と2節を見ていただくと、

10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、

とあります。
 ここへペテロが来たから、一度で大勢の異邦人が救いに与ることができたのですね。

ヨッパ中に知れ渡った奇跡
 さてしかし、このカイザリヤは異邦人の町で、当時のペテロは異邦人が救われるとは思っていませんでしたから、ペテロが宣教でここを訪れることは考えられないことでした。ですから、この10章の最初の部分にあるように、ペテロをカイザリヤに招き入れる必要がありました。3節から8節までを、少し長いですから交代で読みましょう。

10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。

 こうして、コルネリオはヨッパにいたペテロにしもべたちを遣わしました。さてしかし、しもべたちがペテロをそんなに簡単に探せるものでしょうか。6節に、「この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります」とありますが、たったこれだけの情報で、ペテロを探し出すことができるのでしょうか。それができるんですね。今度は9章の40節から43節までを、交代で読みましょう。これは死んでしまったヨッパのタビタという女の弟子が生き返った場面です。

9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
9:41 そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
9:42 このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。
9:43 そして、ペテロはしばらくの間、ヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていた。

 42節に、「このことがヨッパ中に知れ渡り」とありますから、ヨッパの人は誰でもこのことを知っていました。ですからコルネリオのしもべたちがヨッパでペテロのことを尋ねたら、すぐに居場所がわかったのですね。ここに、神様の絶妙の導きを感じます。しかも、しもべたちがペテロを訪ねたのは、ちょうどペテロが幻を見た直後でした。

絶妙のタイミング
 先週の復習を兼ねて、10章の11節から見て行きます。ここで、ヨッパにいたペテロは幻を見ました。その幻とは、11節と12節にあるように、敷布のような入れ物にあらゆる種類の動物たちが入っていました。そして、13節にあるように「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声がしました。しかし、ペテロは答えました。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」
 先週話したように律法の教えでは、ひづめが完全に割れていない動物や反芻しない動物は汚れているので食べてはならないことになっていました。すると、天の声がありました。
 15節から18節までを交代で読みましょう。

10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
10:18 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。

 このように、ペテロが「いま見た幻はいったいどういうことだろう」と思い惑っていたところに、コルネリオのしもべたちが来ました。そして、御霊がペテロに語り掛けました。19節と20節を交代で読みます。

10:19 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
10:20 さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

 ペテロは幻について思いを巡らしている時に御霊から「彼らといっしょに行きなさい」と言われました。もし幻を見せられていなかったら、彼らと一緒にカイザリヤに行っても、自分が異邦人のコルネリオに対して何をすべきなのかがわからなかったことでしょう。

おわりに
 このように神様は、私たちにまわり道をさせながら、最終的に正しい方向へと導いて行くお方だと言えるでしょう。このまわり道は必要なまわり道であり、そのステップを踏まなければ正しい方向へは行けません。ですからまわり道ではあっても決して無駄なものではなく必要なものです。創世記のヨセフは、まずエジプトに行く必要がありました。私は、東京で働く前は名古屋で働いていました。私は、その名古屋では救われずに東京に行きました。そして東京で働くために住み始めた高津で救われて、さらに牧師に召し出されました。仮に他の教会で救われていたら、牧師になることは決してなかっただろうと思います。
 この教会も、県道沿いの目立つ場所に新しい会堂が建つ前に、まずはこの少し奥に入った場所から始める必要があったのでしょう。そのように神様は導いて下さったのではないかと思います。
 会堂建設もなかなかすんなりとは進みませんが、それも必要なまわり道なのかもしれません。神様は私たちが向かうべき方向へ私たちを導いて下さいますから、神様の導きに従って、私たちは進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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常識をくつがえす神(2017.2.5 礼拝)

2017-02-06 19:09:16 | 礼拝メッセージ
2017年2月5日礼拝メッセージ
『常識をくつがえす神』
【使徒10:9~16】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。先週は、パウロが危機一髪の所でダマスコを脱出した9章の箇所をご一緒に見ました。そして私たちの教会もまた危機の中を通ったことを話しました。
 きょうから使徒の働きの10章に入ることにします。まだ見ていない9章の後半には、パウロがダマスコを脱出して以降のことも書かれていますが、それは、次に11章でパウロが再び登場した時に簡単に見ることにしたいと思います。

聖霊を受けると奇跡が信じられるようになる
 また、9章の終りのほうではペテロが中風の病人を癒したこと、そして死んだタビタという女の弟子を生き返らせたことが書かれています。ここは、簡単に見ておきましょう。9章の33節と34節をお読みします。

9:32 さて、ペテロはあらゆる所を巡回したが、ルダに住む聖徒たちのところへも下って行った。
9:33 彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。
9:34 ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。

 こうして中風で8年間床に着いていたアイネヤをペテロは癒しました。次に、36節と37節を見ていただくと、ヨッパという町にいたタビタという女の弟子が死んだことが書かれています。このタビタをペテロは生き返らせました。40節です。

9:40 ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。

 この記事のような死んだ人が生き返る奇跡が、実際に本当に起きたのかどうかを信じるかどうかは、人によるでしょう。例えば、ふだん聖書を読まない人がいきなりこの箇所を読んでも信じる人はほとんどいないでしょう。単なる作り話だと思うでしょう。死んだ人が生き返ることは普通は有り得ないからです。
 クリスチャンであっても、聖霊を受けていない形式的なクリスチャンは信じないでしょう。しかし、聖霊を受けると信じることができます。今の9章40節を私は特に疑うことなく信じることができます。それは聖霊を受けているからだと思います。聖霊の働きとは、本当に不思議だと思います。
 聖霊は、イエスさまを神の子キリストと信じる者に注がれます。そうして聖霊が注がれると聖霊が私の魂に働きかけて、聖書の奇跡の記事でも素直に信じられるようにして下さいます。
 聖霊を受けていない人にすれば、どうしてそんな非科学的なことが信じられるのが不思議に思うのでしょうが、聖霊を受けた者は「奇跡」をごく自然に受け入れます。聖霊は私たちの理性ではなく霊性を整えて下さいます。信仰にとって、聖霊を受けるとは本当に大切なことです。

ペテロが見た幻
 そして、使徒の働き10章では、いよいよ異邦人が聖霊を受けることになります。
これまではユダヤ人とサマリヤ人しか聖霊を受けていませんでした。サマリヤ人も血の半分はユダヤ人です。一方、異邦人にはユダヤ人の血は混じっていません。その異邦人に聖霊が注がれて救われることになったことは画期的なことでした。というのは、ユダヤ人から見れば異邦人は汚れた存在であり、神の救いの対象では無かったからです。
 そのためなのでしょう、使徒の働きは10章全体をまるまる使って異邦人のコルネリオたちに聖霊が注がれた経緯を描いています。
 そこで私たちの今日の学びも、あまり先を急がずに、10章の16節までを見ることにしたいと思います。きょうの箇所は異邦人への聖霊の注ぎの準備段階としての、ペテロが幻を見た場面です。10章の9節から見て行きます。

10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。

 ここで旅を続けていた人たちというのは、異邦人のコルネリオのしもべたちです。
この時コルネリオはカイザリヤにいて、ペテロはヨッパという町にいました。そのヨッパのペテロにしもべを遣わして、ペテロにカイザリヤまで来てもらえるよう頼むためでした。ヨッパにいたペテロは祈りをするため屋上にのぼりました。昼の12頃でした。
続いて10節、

10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。

 ここから先はペテロが見た幻です。11節から14節までをお読みします。

10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

 あらゆる動物が入っていた敷布とはどれくらいの大きさだったのでしょうか。ただし、ここで大事なのは大きさではなく、中にあらゆる動物が入っていて、天から「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえてきたということです。
 あらゆる動物が入っていたということですから、中にはモーセの律法が食べてはならないと教える動物も入っていました。旧約聖書のレビ記11章には、ひづめが分かれていない動物や反芻しない動物、例えば野うさぎや豚は汚れているので食べてはならないと書いてあります。
 ペテロは律法を守っていて、これらのきよくない動物を食べていませんでした。すると15節と16節、

10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。

 天の声は、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と仰せられました。こうして、異邦人への聖霊の注ぎに向けての準備が始められました。神様はいきなり異邦人に聖霊を注がずに、まずペテロに食べ物に関して、従来の常識をくつがえすというステップを踏ませることにしました。異邦人の救いは、従来の常識をくつがえすことなので、ステップを踏む必要があるということでしょう。

準備の段階を設けた後に常識をくつがえす神
 それにしても思うことは、ではどうして神はモーセの時代には豚や野うさぎなどは汚れているから食べてはならないと仰せられたのでしょうか。なぜモーセの時代には禁じていたことを、ペテロたちの時代になって解禁したのでしょうか。
 それもまた準備が必要であったということなのだろうなと私は考えています。準備が整わないうちは別の常識を与えておく必要があったのだろうなと思います。
 例えば、信仰とは少々異なりますが、天体の運行に関して現代の私たちは天動説ではなくて地動説の方が正しいと知っています。天動説というのは、見たままの通りに太陽や星が私たちの周りを回っているとする説です。神様はご自身が宇宙を造りましたから、私たちの側が太陽の周りを回っていることを遥か昔からご存知です。ですから昔から人間にそのように教えてくれていれば良かったのではないかという気もします。
 しかし、神様はそうはなさいませんでした。それは、何しろ見た目では太陽の方が動いているのですから、いくら神様が動いているのは私たちの方だと言っても信じない人が大勢いて、混乱を招くことになるからなのだろうなと思います。
 実際、地動説を主張したガリレオは宗教裁判に掛けられるなど、一時は非常に混乱しました。しかし、ケプラーが惑星の運行に関するケプラーの法則を見出し、ニュートンが運動方程式という数学の方程式を使って惑星の運動を表現し、そこからすべての物体の間には引力が存在するという万有引力の存在を示しました。そして、地球上の物体の運動もこの運動方程式に従うことがガリレオなどが考えた実験によって確かめることができますから、天体の運行は天動説ではなく地動説で説明すべきであることが確かになりました。
 これらケプラーやガリレオ、ニュートンが為した仕事は人類が知識や技術をかなりのところまで蓄えるまではできないことでしたから、先ずは天動説から始めるという順序が良かったのでしょう。

人類の救いにも必要だった準備段階
 人類の救いも、まずはアブラハムとの契約から始めて、イスラエルの民のエジプトからの救い、律法の授与という段階を踏む必要があったのでしょう。そしてイエスさまの十字架と復活を経た後の聖霊の注ぎも、まずはガリラヤ人とユダヤ人、そしてサマリヤ人、そして最後に異邦人という段階を踏む必要がありました。
 このように、神様は様々な準備の段階を人々に踏ませた後に、それまでの常識をくつがえすお方です。ですから私たちは、常識に縛られることなく、神が何を教えようとしておられるのか、御心を捉えて行く必要があります。初代教会では、この異邦人への聖霊の注ぎ以降、ペテロやパウロたちが戸惑いながらも、徐々に神の御心を理解してキリストの教えを広く伝えて行きます。ただし、割礼派による惑わし(ガラテヤ書)や、ユダヤ人と異邦人との対立(ローマ書)があって、それらを乗り越えることは容易ではありませんでした。それゆえパウロは御霊による一致を訴え(エペソ書)、ヨハネもまたぶどう木である主のもとに一つになることの重要性を説きました。

おわりに
 私たちも御霊によって一つになって、主にお仕えして行きたいと思います。そうして世界の光となって、地域の方々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
 
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

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大統領はマナセ王か?(2017.2.1 祈り会)

2017-02-02 11:42:10 | 祈り会メッセージ
2017年2月1日祈り会メッセージ
『大統領はマナセ王か?』
【エレミヤ15:1~6】

15:1 【主】は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。
15:2 彼らがあなたに、『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『【主】はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。』
15:3 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。──【主】の御告げ──すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。
15:4 わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。
15:5 エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねよう。
15:6 おまえがわたしを捨てたのだ、──【主】の御告げ──おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた。

はじめに
 祈り会では、きょうもエレミヤ書を開くことにしました。これまで何度か話して来たように、私はつばさ3月号に掲載される「日々の聖句」でエレミヤ書の8~22章を担当することになり、きょうが締切日です。きょうの朝、原稿を送ってホッとしたところです。3月号には4月の「日々の聖句」が掲載され、私の担当分は4月1日~15日でした。今年はイースターが4月16日ですので、ちょうどイースター直前の半月分が私の担当ということになります。それで私は神がエレミヤの時代にエルサレムを滅ぼしたことと、神がイエスさまを十字架に付けたこととを重ねて読むという全体の方針を立てて「日々の聖句」の原稿を書いて提出しました。
 そうして、この原稿を書いていた1月にアメリカではトランプ氏が大統領に就任しました。いま世界はトランプ氏が次々に署名している大統領令や、相変わらず治まらない過激な発言に翻弄されて混乱しています。昨年の11月にトランプ氏が選挙で勝った時、これから世界は混迷の度を深めるであろうと私は話しました。その時の私は、トランプ氏は当面の間は大人しくしているだろうと思っていました。そうして1年ぐらいしたら本性を現わして世界は混乱するだろうと思っていました。しかし、その予想ははずれてトランプ氏が就任した直後から既に混乱は始まっています。

大統領はマナセ王?
 横暴に見えるトランプ氏の振る舞いを見ながらエレミヤ書からの「日々の聖句」の原稿を書いていた私は、きょうの聖書箇所に出て来るマナセ王とトランプ大統領が何だか重なってみえるような気がしています。エレミヤ15章4節で主は、

15:4 わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。

と仰せられました。このマナセ王がどんな悪いことをしたかについて、列王記第二がやや詳しく書いているので、21章の記述をご一緒に見てみたいと思います。
 マナセのことは21章の1節から18節まで書いてありますが、全部読むと長いので、一部だけを読むことにします。まず2節と3節、

21:2 彼は、【主】がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、【主】の目の前に悪を行った。
21:3 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。

 このようにマナセは異教の神々を礼拝して偶像を拝みました。しかし、マナセの行った悪はそればかりではありませんでした。16節、

21:16 マナセは、ユダに罪を犯させ、【主】の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。

マナセ王はこのように、罪のない者の血まで多量に流したと列王記第二は書いています。
 さて私はトランプ氏が大統領になったことで、これまでよりも多くの血が流されるであろうと心配しています。特に、最近の中東とアフリカの7カ国の市民の入国禁止の大統領令を出したことは、これらの地域の人々の怒りを増し加えさせ、テロ組織への人々の参加を促して、多くの血が流されることになることが危惧されます。

神の愛を理解していない者たち
 旧約の時代、マナセ王が行ったことは神を大変に怒らせました。そして、列王記第二の次のように書いています。列王記第二24章の1節から4節までを交代で読みましょう。

24:1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。
24:2 そこで【主】は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。【主】がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
24:3 ユダを主の前から除くということは、実に【主】の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、
24:4 また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため【主】はその罪を赦そうとはされなかった。

 こうして主はエレミヤの時代にエルサレムを滅ぼしました。
 今回、私はつばさ誌の「日々の聖句」で神がエレミヤの時代にエルサレムを滅ぼしたことをイエスさまの十字架と重ねました。新約の時代では神は罪人たちを滅ぼす代わりにイエスさまを十字架に付けました。ヨハネの手紙第一は、このことを次のように記しています。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 イエスさまの十字架は、神の大きな愛の現れです。私たちが十字架を見上げる時に心の平安が得られるのは、十字架から神の圧倒的にな愛が注ぎ出されているからです。しかし、トランプ氏を大統領に選んだアメリカ人は、この十字架の神の愛を理解できていないようです。このことを神は嘆き、悲しんでいることを感じます。

涙を流されたイエス
 最後に、いつもご一緒に開いているヨハネの福音書11章を、きょうもご一緒に読みたいと思います。いつも話している通り、この箇所で、イエスさまが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、そして涙を流されたことの背後にはエルサレムが滅亡したことがあります。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。

 そしてイエスさまは現代においても、多くのテロ事件や内戦や国同士の戦争で多くの血が流されていることに憤りを覚え、涙を流されていることを私は強く感じます。
 私たちはこのことを心に刻み、まずは地域の方々の心が平安で満たされるよう、働いていかなければならないと思います。
 お祈りいたしましょう。
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