平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

私たちの一人一人がネヘミヤ(2015.2.22 礼拝)

2015-02-23 17:36:38 | 礼拝メッセージ
2015年2月22日礼拝メッセージ
『私たちの一人一人がネヘミヤ』
【ネヘミヤ2:4~16】

はじめに
 ネヘミヤ記の学びを続けます。先週はあまり先には進まずに、エズラ記とエレミヤ書、そしてハガイ書を開いて、ネヘミヤ記の背景を学びました。そして、主がエルサレムに帰還した民を励まして、中断していた神殿の再建に取り掛かるよう促したことを学びました。主は、ハガイを通して、このように民を励ましました(ハガイ2:4,5)。

2:4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。──【主】の御告げ──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。──【主】の御告げ──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】の御告げ──
2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。

 こうしてバビロンからエルサレムに帰還した民は、神殿の再建を成し遂げることができました。しかし、城壁の再建はまだできていませんでした。

聖霊が注がれていたネヘミヤ
 そのエルサレムの依然として荒廃している状況を聞いて、ペルシャでにいたネヘミヤは嘆き悲しみ、しおれていました。そのネヘミヤのしおれた様子を見て、王はネヘミヤに声を掛けたのでした。では、4節から見て行きましょう。4節と5節、

2:4 すると、王は私に言った。「では、あなたは何を願うのか。」そこで私は、天の神に祈ってから、
2:5 王に答えた。「王さま。もしもよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください。」

 ネヘミヤは主に大変に用いられた器であり、ネヘミヤ記を書いた聖書の記者でもありますから、聖霊が注がれていた人物だと思います。聖霊が注がれた器には、主が何を話すかを教えて下さいます。いま祈祷会では出エジプト記を学んでいますが、主はモーセに対してこのように仰せられました。

「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」(出エジプト4:12)

 モーセには聖霊が注がれて預言者として用いられましたから、モーセが言うべきことは聖霊が教えました。その聖霊の声を聞くには、先ずは祈りが必要です。ネヘミヤ2章4節でも、ネヘミヤは王に答える前に、祈りました。そして王に、エルサレムへ行って城壁を再建したいということを願い出ました。すると、6節で王は快く送り出してくれました。また、ネヘミヤはエルサレムへの旅の途中とエルサレムで便宜をはかってもらえるよう、王に手紙を書いてもらいたいと願いました。この願いも、かなえられました。それは8節の終わりにあるように、神の恵みの御手がネヘミヤの上にあったからでした。そして9節、

2:9 私は、川向こうの総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。それに、王は将校たちと騎兵を私につけてくれた。

 このように、ネヘミヤはペルシャのアルタシャスタ王の全面的な支援のもとにエルサレムに行くことができました。
 先週のメッセージでは、主はエルサレムの神殿の再建のために、異邦人であるペルシャのクロス王を用いたことを話しましたが、ここでも異邦人のアルタシャスタ王が城壁の再建のために用いられています。世界の平和は、まずエルサレムの城壁が完成してエルサレムの平和が守られることから始まります。それはユダヤ人の力だけではできないことであり、異邦人の力も必要でした。その平和のための働きに主は、日本人の私たちも用いられるということを覚えていたいと思います。

誰にも告げずに城壁を調べたネヘミヤ
 こうしてペルシャの王アルタシャスタの後方支援を得てエルサレムに向けて旅立ったネヘミヤですが、現地では早くも不穏な動きがありました。

2:10 ホロン人サヌバラテと、アモン人で役人のトビヤは、これを聞いて、非常に不きげんになった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。

 このサヌバラテとトビヤは、これからもしばしば登場して城壁の再建を妨害しますから、覚えておいていただきたいと思います。
 さて、ネヘミヤはエルサレムに到着しました。11節、

2:11 こうして、私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。

 そして12節、

2:12 あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。

 ここに、「私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされる」とありますから、城壁を再建する働きはネヘミヤが自発的に行ったことではなくて、やはり聖霊がネヘミヤの心に働きかけ、導いていることなのですね。そしてネヘミヤは誰にも告げずに城壁の様子を調べることにしました。続いて13節から15節、

2:13 私は夜、谷の門を通って竜の泉のほう、糞の門のところに出て行き、エルサレムの城壁を調べると、それはくずされ、その門は火で焼け尽きていた。
2:14 さらに、私は泉の門と王の池のほうへ進んで行ったが、私の乗っている獣の通れる所がなかった。
2:15 そこで、私は夜のうちに流れを上って行き、城壁を調べた。そしてまた引き返し、谷の門を通って戻って来た。

 ネヘミヤは破壊された城壁がどのような状態になっているのか、非常に丹念に調べました。これらの調査をネヘミヤは一人で行いました。そのことは16節にもまた書かれています。16節、

2:16 代表者たちは、私がどこへ行っていたか、また私が何をしていたか知らなかった。それに、私は、それをユダヤ人にも、祭司たちにも、おもだった人たちにも、代表者たちにも、その他工事をする者たちにも、まだ知らせていなかった。

 以上の記述にあるように、ネヘミヤが先ず誰にも告げずに、破壊された城壁の様子を調べたことから、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
 平和の働き、教会の伝道の働き、教会の会堂の再建については、牧師が先ず一人で調べて、教会の皆さんは、それに従えば良いのだということでしょうか。そんな筈はありませんね。

私たちの一人一人がネヘミヤ
 では私たちは、ここから何を読み取るべきでしょうか。きょうの聖書箇所の中の重要な文を、もう一度振り返ります。まず4節に、

「そこで私は、天の神に祈ってから」

とあります。そして、8節の終わりに、

「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた」

とあります。そしてさらに12節に、

「私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされる」

とあります。先ほども話したように、ネヘミヤは神に用いられた器であり、ネヘミヤ記という聖書の記事の記者にもなった人物ですから、ネヘミヤには聖霊が注がれていました。そのネヘミヤが天の神に祈って事を為す時、神の恵みの御手がネヘミヤの上にありますから、ネヘミヤの願いはかなえられます。そして神がネヘミヤの心を動かして導いて下さいます。
 旧約の時代には誰にでも聖霊が注がれるわけではありませんから、ネヘミヤ記に登場する人物たちの中で聖霊が注がれていたのは恐らくネヘミヤだけでしょう。それ以外の者たちは、人間的な思いで動かされやすい者たちでした。それゆえ先ずは聖霊が注がれているネヘミヤが一人で、神と対話をしながら城壁の様子を調べたのだと私は考えます。

船頭はイエスさま
 さて、新約の時代にはイエス・キリストを信じれば、誰にでも聖霊が注がれるようになりました。ですから、この教会に集っている皆さんもイエス・キリストを信じているのであれば、聖霊が注がれています。ですから、私たちの一人一人がネヘミヤです。きょうのメッセージのタイトルは『私たちの一人一人がネヘミヤ』としました。この大切なことを今日は皆さんとご一緒に学びたいと思います。
 平和のための働き、伝道の働き、会堂の再建の働きのために何をどうしたら良いか、私たちの一人一人がネヘミヤになって進めるべきです。
 週報の1ページ目に、私は今月の目標として、「総会資料の教財勢の現況を見て、教会の将来について一人一人が真剣に考える時を持ちましょう」と書きました。この「総会資料の教財勢の現況を見て」というのは、ネヘミヤが城壁の様子を一人で調べたことに当たりますね。私たちは、まず一人一人で教会の現況を知る必要があります。単に牧師が言うことに受動的に聞き従うのではなく、一人一人が能動的に知ろうとする必要があります。そうして、一人一人がどうしたら良いかを考えるべきです。
 そんなことをしたら、船頭が多くて舟が山に登ってしまうのではないかと心配する方もおられるかもしれません。しかし、私たちの一人一人は牧師も含めて主のしもべですから、船頭ではありません。私たちの船頭はイエスさまです。ですから船頭が多くて舟が山に登ることを心配する必要はありません。私たちは御霊の一致を保って船頭であるイエスさまに聞き従えば良いのですね。

御霊の賜物
 聖霊が注がれている者には、それぞれに異なる御霊の賜物が与えられています。御霊の賜物というのは、教会を建て上げるために必要な能力を聖霊によって神様が私たちに与えて下さるものです。賜物というのは、英語では「gift(ギフト)」ですから、「贈り物」と言っても良いでしょう。私たちは聖霊によって神様から「贈り物」が贈られています。その「贈り物」を用いて私たちは教会で働きます。この「御霊の賜物」については第一コリントの12章でパウロが詳しく書いていますから、きょうは最後に第一コリント12章をご一緒に見たいと思います(新約聖書p.334)。先ず1節、

12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。

2節と3節は飛ばして、4節から11節までを交代で読みましょう。

12:4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 このように、私たちの一人一人には、それぞれ異なる御霊の賜物が与えられていますから、その賜物を生かして、教会でのご奉仕に当たって行きたいと思います。それぞれに与えられた賜物に従って、私たちの一人一人がネヘミヤのように丹念に状況を調べて、自分がどのように動くべきかを考えて、その上で船頭であるイエスさまの声に聞き従って行きたいと思います。主の声は細い声ですから、私たちが受動的でいる間は、なかなかハッキリとは聞こえてきません。一人一人が能動的に動こうとする時、主イエスの声がさやかに聞こえて来ます。

おわりに
 いまのこの時代、世界も日本も、静岡も沼津も、そしてこの教会も、困難な中を通っています。私たちの一人一人がネヘミヤになって、主の御声に聞き従って歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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これが永遠にわたしの名(2015.2.18 祈り会)

2015-02-19 20:25:59 | 祈り会メッセージ
2015年2月18日祈り会メッセージ
『これが永遠にわたしの名』
【出エジプト3:15】

はじめに
 出エジプト記の学びを続けて行きますが、きょうは新改訳聖書に太字で書いてあるについて学ぶことにします。15節をお読みします。

3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 ここで神はモーセに、太字のが「わたしの呼び名である」と仰せられました。この太字のは、以前使われていた文語訳では「ヱホバ」になっています。しかし、現代では読み方としては「ヱホバ」ではなく、恐らくは「ヤハウェ」が本来の読み方であったのだろうという説が有力のようです。きょうは、この辺りの事情を学んでおくことにしたいと思います。私たちが使っている今の聖書には「ヱホバ」も「ヤハウェ」も出て来ませんから、この学びは省略しても良いのだと思いますが、出エジプトの3章15節を学ぶ以上は、この学びははずせません。ただ、細かい話になりますし、私もこのことに詳しいわけではありませんので、この3章15節を飛ばしてしまうという選択肢もありました。しかし、それも何となく気持ちが悪いので、学ぶことにします。

読み替えられていた聖四文字
 まず先ほどの読み方の問題で、「ヱホバ」ではなく、恐らくは「ヤハウェ」であろうということですが、「ヤハウェ」も100%確実というわけではないようです。どうして、そんなことになっているのかというと、元々のヘブル語の文字は子音しかなく、母音は無かったからです。今は母音の記号が考案されて子音に母音も添えられていますが、紀元前から伝わった写本には子音しか書かれていませんでした。
 また、イスラエルの王国が南北に分裂して、まず北王国のイスラエルがアッシリヤに攻め滅ぼされて捕囚として引かれて行き、北の10部族は消滅してしまいました。そして北のサマリヤには異民族が入って来ましたから、北方ではヘブル語が話されなくなりました。さらに南王国のユダもバビロニア帝国に攻め滅ぼされてバビロンに捕囚として引かれて行き、ユダの民族はバビロンで使われていたアラム語を話すようになって行きました。そして先日の礼拝で学んだように約70年後のペルシャのクロス王の時代にエルサレムへの帰還が始まりましたが、帰還した民は、もはやアラム語を話していたようです。従ってイエス・キリストの時代のユダヤ人たちがエルサレムで話していた言語もアラム語であったと言われており、福音書に出てくるイエスさまが話したことばの「タリタ、クミ」(マルコ5:41)、「エパタ」(マルコ7:34)、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)もアラム語です。
 このように、口語でヘブル語が話されなくなっていたことに加えて、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に適用するようになっていたという事情もあります。出エジプト記の20章を見て下さい。ここにはモーセの十戒が記されていますが、7節に、

20:7 あなたは、あなたの神、の御名を、みだりに唱えてはならない。は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 とあります。ある時期から、これが厳格に適用されるようになって、ヘブル語聖書に子音の四文字で書かれていた神の名前は、別の呼び方に置き換えて読まれるようになりました。その子音の四文字というのが、今お配りした、



というヘブル文字です。ヘブル語は右から左へ読むようになっていて、それぞれに英語のアルファベットを当てはめると「YHWH」になります。この四文字がある箇所では、「主」の意味である「アドナイ」と読むようになったため、この「YHWH」の4つの子音にどのような母音を加えて読んでいたのかが、わからなくなってしまったのだそうです。そうして以前は「ヱホバ」であろうとされていたものが、今では「ヤハウェ」であるというのが有力なようです。
 いずれにしても、それが「ヱホバ」であろうが「ヤハウェ」であろうがイスラエルでは、その名を唱えることはせずに「アドナイ」と読み替えていましたから、英語訳の聖書でも、敢えて「YHWH」の四文字の子音に母音を付け加えることをせずに、「主」の意味のLordを使っています(頭文字は大文字です)。またNIV(新国際訳)では、四文字全てを大文字にしてLORDと表記しています。新改訳がと太文字で表記しているのも、それに習っているのかなと思います。

アドナイ・イルエ
 きょう学びたいと思っていたことは以上ですが、まだ少し時間がありますから、「主」の意味の「アドナイ」、即ちユダヤ人が「YHWH」の四文字を置き換えていた「アドナイ」が新改訳聖書の中で使われている箇所を見ておきたいと思います。そうすれば「アドナイ」を覚えておくことができるでしょう。新改訳聖書では、「アドナイ」が3箇所で使われています。創世記と出エジプト記と士師記の3箇所で使われています。このうち、アブラハムがイサクをほふろうとした場所のアドナイ・イルエが一般的にも有名ですし、記憶に留めやすいかなと思いますので、そこを開きましょう。創世記の22章です。有名な箇所ですから、皆さんも良くご存知の箇所です。9節から14節までを交代で読みましょう。

22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

 この14節の「アドナイ・イルエ」がそうですが、ここに星印が付いていますから、下の脚注を見ると、あるいは「が備えてくださる」というように、が太文字で書かれていますね。ですから、ここはヘブル語聖書では、「YHWH」の四文字が使われています。その四文字をユダヤ人が「アドナイ」と読み換えたように、新改訳聖書でも「アドナイ」と読ませています。
 ですから、これから旧約聖書を読む時には、という太文字が現れたら、実はここには「YHWH」の四文字があり、それをユダヤ人は「アドナイ」と読み換えていたのだということを頭の隅に置いておくと良いかもしれません。

おわりに
 ユダヤ人たちは、このようにを畏れ敬っていました。私たちももちろんを畏れ敬う者たちですが、私たちには聖霊が注がれており、「神の子ども」とされていますから、私たちにはを「父」あるいは「お父さま」などと呼ぶことができる特権が与えられています。この素晴らしい特権が与えられている恵みを、私たちはもっと噛み締めるべきなのだろうと思います。この、私たちが神の子どもとされ、を「父、お父さま」と呼べる特権を噛み締めながら、最後にもう一度、出エジプト記3章15節を、ご一緒に呼んで終わりたいと思います。

3:15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。

 お祈りしましょう。
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平和を建設するために・2(2015.2.15 礼拝)

2015-02-16 05:54:26 | 礼拝メッセージ
2015年2月15日礼拝メッセージ
『平和を建設するために(2)』
【ネヘミヤ2:1~3】

はじめに
 先週に引き続き、「平和を建設するために」というタイトルでネヘミヤ記の学びを続けて行きます。昨今の国内・国外の情勢を見ていると、私たちは平和のための働きに真剣に取り組まなければならないと強く思わされます。今こそ平和を守る強固な城壁が必要であると思います。ネヘミヤは、バビロン捕囚後にエルサレムに帰還したユダヤ人たちが、なかなか為し得なかったエルサレムの城壁の修復を、強力なリーダーシップによって短期間で成し遂げた人物です。私たちは、このネヘミヤ記から多くのことを学ぶことができると思いますから、しばらくの間、ネヘミヤ記の学びを続けたいと思います。
 きょうは先週の続きですが、あまり先には進まずにエズラ記、エレミヤ書、ハガイ書を開いて、先週の学びをさらに深めることにしたいと思っています。先週の学びと重なる部分もありますが、ネヘミヤ記の背景を、もっとしっかりと押さえておくことにしたいと思います。

エレミヤの預言
 ユダヤ人のネヘミヤはエルサレムから遠く離れたシュシャンの城で、ペルシャ帝国の王様の献酌官をしていました。かつてエルサレムはバビロニア帝国による攻撃にさらされ、ユダの国のエルサレムの民はバビロンに捕囚として引かれて行きました。しかし、その約70年後、バビロニア帝国がペルシャ帝国によって倒され、ペルシャのクロス王がユダヤの民のエルサレムへの帰還を許したため、民の一部が戻って、エルサレムの再建を始めました。ただ、エルサレムの再建は容易なことではありませんでした。エルサレムがバビロニアに滅ぼされた時、城壁は崩され、神殿は焼き払われていて廃墟になっていました。エルサレムに戻った民は先ず神殿の再建に取り掛かりましたが、基礎が出来上がったところで、周辺の民族の妨害に遭って中断してしまったことがエズラ記に記されています。
 きょうは先ずエズラ記を開くことにします。エズラ記はネヘミヤ記の一つ前にある書です。まずエズラ記1章を見ましょう(旧約聖書p.794)。

1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。

 ペルシャのクロス王というのは、バビロニア帝国を倒した王様です。このクロス王の第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたとあります。少しあちこち見ることになりますが、このエレミヤの預言も見ておくことにしたいと思います。聖書は部分的に見ているだけだと、聖書全体がどのようにつながっているのか、なかなか見えて来ません。聖書のみことばには力がありますから、部分的に見ているだけでも、もちろん十分な恵みをいただくことができますが、全体がわかるようになると、さらに大きな恵みをいただくことができますから、皆さんにとっては少し大変かもしれませんが、時間に余裕がある時には、なるべく全体を見るようにしたいと思います。
 さてエレミヤ書のどこを開いたら良いかというと、今のエズラ1:1の「エレミヤ」というところに2)と小さな数字が添えてありますね、これは「下の脚注の②を見よ」ということですから、1節の脚注の②を見ますと、エレミヤ25:11,12と29:10の二つの箇所が示されています。この両方を見たいと思います。まず、エレミヤ書の25章11節と12節を見ましょう(旧約聖書p.1289)。
 せっかくですから、8節から読みたいと思います。私が朗読しますから、皆さんは聖書を目で追いながら聞いて下さい。これは、ユダの国がまだバビロニアに滅ぼされる前に、エレミヤがユダの民に向かって言った主のことばです。まず8節から10節、

25:8 それゆえ、万軍の【主】はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、
25:9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。──【主】の御告げ──すなわち、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。
25:10 わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。

 ユダの民は主のことばに聞き従わなかったため、主はバビロンの王を呼び寄せて、エルサレムを攻めて滅ぼし、廃墟とすると仰せられました。そして11節、

25:11 この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。

 ユダの国は全部廃墟となり、民はバビロンに捕囚として引かれて行き、バビロンの王に仕えるのだとエレミヤは預言しました。続いて12節、

25:12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、──【主】の御告げ──またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。

 ここには、その70年後に今度はバビロンの王が罰せられることが預言されています。すなわちそれはバビロニア帝国がペルシャ帝国によって倒されるということです。エレミヤは、それらのことが起こる前に、このように預言していました。このエレミヤの預言にしても、イザヤの預言にしても、まだ起きていないことを的確に予言していますから、ここに神である主が永遠の中を生きていることの証拠を見ることができると思います。

幸いな約束
 続いて、エレミヤ29章の10節と11節を見ましょう(p.1296)。今度は交代で読みましょう。皆さんに読んでいただくエレミヤ29章11節は、非常に有名な聖句です。

29:10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

 10節で主はここでも、バビロンで捕囚になってから70年後に民をエルサレムに帰還させると仰せられましたが、それは「幸いな約束」を果たすことなのだと仰せられました。そして次の11節では、これが主のご計画であることが明かされます。
 このエレミヤ29:11は、みことばの人気ランキングでは上位に来る聖句のようですね。人気のある聖句には例えばヨハネ3:16や詩篇23篇などがあると思いますが、このエレミヤ29:11も大変に人気のある聖句のようです。このエレミヤ29:11は、この1箇節だけでも、もちろん大きな恵みをいただけますが、その背景を知るなら、さらなる恵みをいただけるのではないでしょうか。或いはまた、この29:11だけを取り出してしまうと、自分の都合の良いように解釈してしまう恐れもありますが、どういう経緯で主がこのことを仰せられたのかを知れば、私たちは多くの教訓をも得ることができます。

主に用いられたクロス王
 エズラ記の1章に戻りましょう(ネヘミヤ記ではなくエズラ記のほうに戻ります。p.794)。もう一度1節、そして2節と3節もお読みします。

1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
1:2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。
1:3 あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。

 続いて5節、

1:5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。

 こうしてエルサレムへの帰還が始まり、神殿が再建されることになりました。ここで確認しておきたいことは、主はユダヤ人ではない異邦人であるペルシャの王クロスをも用いたということです。神殿を再建するには、ユダヤ人の力だけではどうにもならず、異邦人の力が必要であったということです。これはイエス・キリストの福音の宣教についても同様です。新約聖書の「使徒の働き」に書かれている通り、イエス・キリストの福音は、ユダヤ人以外の異邦人も宣教に関わるようになって世界へと広がって行きました。私たち日本人もまた異邦人です。こうして世界中の人々がイエス・キリストの十字架の愛を深く知り、互いに愛し合うことができるようになるなら、世界は平和へと向かうでしょう。そのための働きを私たちは進めて行かなければなりません。

ハガイを通した主の励まし
 さて、クロス王の文書によるおふれによって始まった神殿の再建は、基礎を築くところまでは順調に進みました。エズラ記3章の10節と11節をお読みします。

3:10 建築師たちが【主】の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって【主】を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。
3:11 そして、彼らは【主】を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな、【主】を賛美して大声で喜び叫んだ。

 こうして神殿の基礎が築かれました。しかし、間もなく妨害が入って神殿の建設は中断してしまいました。4章の4節と5節をお読みします。

4:4 すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。
4:5 さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。

 こうして始まった妨害によってエルサレムの民の気力が萎えてしまいましたから、神殿の建設は約16年間にわたって中断しました。しかし、主は預言者のハガイを通してエルサレムの民を励ましました。きょうは、せっかくですから、ハガイ書も見ることにしたいと思います。ハガイ書の1章を見ましょう(旧約聖書p.1544)。ハガイ書は十二ある小預言書の十番目の書です。十二番目がマラキ書、十一番目がゼカリヤ書、そして十番目がハガイ書です。
 これはエルサレムの民に主が預言者ハガイを通して仰せられたことです。2節から5節までをお読みします。

1:2 「万軍の【主】はこう仰せられる。この民は、【主】の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」
1:3 ついで預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。
1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。
1:5 今、万軍の【主】はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

 続いて8節、

1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。【主】は仰せられる。

 次に、少し飛ばして14節を読みます。
 
1:14 【主】は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の【主】の宮に行って、仕事に取りかかった。

 こうして主に励まされて仕事に取り掛かった民を、主は2章においてもさらに励ましています。2章の4節と5節、

2:4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。──【主】の御告げ──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。──【主】の御告げ──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】の御告げ──
2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。

 この4節と5節の主の励ましは凄いですね。まず、4節では「強くあれ」と三度も言って下さっています。それは、ゼルバベルと大祭司ヨシュアと民のそれぞれに「強くあれ」と言って下さっていますから三度になるのですが、それにしても、「強くあれ」と三度もありますから、この4節には励まされます。さらに4節では「わたしがあなたがたとともにいる」と言って下さり、5節では、「わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな」と言って下さっています。短い中にこれほど主の励ましがたっぷりと詰まっているみことばは、他に無いのではないでしょうか。

進まない城壁の再建
 このような主からの力強い励ましを受けて、エルサレムの民は神殿を再建することができました。しかし、それでもなお「城壁」の再建は、様々な妨害によって完成できずにいました。
 これは私の推測ですが、妨害する側も城壁は破壊しやすかったのだろうなと思います。神殿のほうは、もし破壊すればどんな災いが自分たちにあるか分からないという恐ろしさがあったのではないかと思います。ですから工事が中断するように妨害はしましたが、出来上がった神殿を破壊することは、さすがに出来なかったのではないかと思います。しかし城壁のほうは宗教的な建造物ではありませんから、ユダヤ人たちが修復を行ったなら、その修復した部分を、ためらうことなく攻撃して破壊したのではないかと思います。それで城壁はなかなか完成しなかったのだと思いますが、そのように城壁が無い無防備な状態であっても神殿は攻撃されずに済んでいたのではないかと思います。しかし、神を恐れぬ民族が、いつまた現れて神殿を破壊するかわかりませんから、城壁の再建はどうしても必要です。それが、いつまで経っても進まない状況をネヘミヤは嘆き悲しんでいたのだと思います。
 最後に少しだけネヘミヤ記を見ましょう。先週も開いた箇所ですが、ネヘミヤ1章3節、

1:3 (すると、)彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」

 このエルサレムの城壁の様子を聞いてネヘミヤは泣きました。そして、きょうの箇所の2章では、ネヘミヤは王の前でもしおれていました。そのネヘミヤのしおれた顔を見て王は言いました。2章2節、

 
2:2 「あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」

 ネヘミヤは答えました。3節、

2:3 「王よ。いつまでも生きられますように。私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか。」

 このネヘミヤの悲しみは、現代の平和の状況を悲しむ私たちと通じるでしょう。今年の1月から今月に掛けて私たちは、毎週のように悲しく痛ましいニュースに新たに接しています。「イスラム国」の関係のニュースで言えば、湯川さん、後藤さん、ヨルダン空軍のパイロット殺害のニュースに続き、先週はシリアで人道支援をしていて「イスラム国」に拘束されていたアメリカ人女性の死亡が確認されたというニュースが報じられました。
 世界の平和はなかなか実現しません。エルサレムの城壁を少し修復してもすぐにまた破壊されてしまうように、世界の平和を守るための城壁作りはなかなか進んでいません。今、世界ではネヘミヤが短期間で完成させた城壁のような、平和を守る強固な城壁を早急に作る必要に迫られていると思います。その平和のための働きに、私たちもまた尽力したいと思います。

再建すべき教会
 しかし、その働きの拠点となる私たちの教会の会堂もまた、少し修復してもすぐにまた雨風(あめかぜ)の攻撃によってダメージを受ける状態にあります。今月に入ってから、2階の私の居室でまた雨漏りがするようになりましたから、私は三日前の木曜日に屋根に上がって修復をしました。改めて屋根の状態を見てみて、前任の先生が修復して下さった箇所の傷みも進んでいますから、本当にこの会堂はあと数年しか持たないだろうと思います。いま私たちは、会堂の予約献金に関する第一段階の調査を始めていますが、今のこの時期にまた雨漏りがあったのは、神様が私たちの背中を押して下さっているのだと私は感じています。
 私たちの教会の屋根はアルミテープを貼って雨漏りをしのいでいます。この周辺には三階建て以上の建物がありませんから、幸いにして、屋根にアルミテープを大量に貼ったこの教会の姿は周囲に知られていないだろうと思いますが、大相撲で体中にテーピングをした力士の姿が美しくないのと同様、この教会の屋根も美しくありません。この教会は満身創痍です。満身創痍の力士が十分な闘いができないのと同様に、この教会の働きも十分にはできていません。私たちは、もっと十分な闘いができるように、この教会を整えなければならないと思います。

おわりに
 私たちは困難な闘いの中にありますが、きょうハガイ書で学んだように、主はいつも私たちを励まして下さっていますから、主の励ましに、しっかりと応答したいと思います。メッセージを閉じる前にもう一度、皆さんとご一緒にハガイ書2章の4節と5節を読みたいと思います。ご一緒に読みましょう。

2:4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。──【主】の御告げ──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。──【主】の御告げ──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】の御告げ──
2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
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平和を建設するために(2015.2.8 礼拝)

2015-02-09 06:54:41 | 礼拝メッセージ
2015年2月8日礼拝メッセージ
『平和を建設するために』
【ネヘミヤ1:1~11】

はじめに
 これから、礼拝メッセージでは何度かのシリーズでネヘミヤ記を学びたいと思います。沼津教会の皆さんは、このネヘミヤ記について、どの程度ご存知でしょうか。一昨年の6月の会堂月間の会堂特別礼拝で、広瀬善子先生がこのネヘミヤ記から『よい企てにふるい立って ― ネヘミヤの祈りに学ぶ ―』というタイトルで説教をして下さいましたから、ある程度はご存知だと思います。
 私は神学生の1年生と2年生の時、静岡教会で夏期実習をしました。当時の静岡教会の牧師の高桑先生が教会の会堂のリフォームを熱心に進めていた時期でしたから、高桑先生は祈祷会の説教でやはりネヘミヤ記から語っていました。その時に私はネヘミヤ記を学ばせていただきました。そんなことがあって私の心の中にネヘミヤ記がしっかりと刻み込まれました。それで私は姫路教会の牧師になった時、姫路教会の会堂もだいぶ老朽化が進んでいて業者に修理に入ってもらったりしていましたから、その折に姫路教会の皆さんとネヘミヤ記を学びました。
 そうして沼津教会に転任になって、沼津教会は新会堂の闘いをしている教会ですから、当然ネヘミヤ記からの説教を早い機会にすることになるだろうと私は思っていました。そう思っていたところ、着任早々の6月の会堂月間で広瀬善子先生がネヘミヤ記からメッセージを取り次いで下さいましたから、私は当面は会堂に関することでネヘミヤ記からの説教はしないことにしました。聖書66巻のいたる所から会堂建設のためのメッセージはできる筈ですから、ネヘミヤ記にこだわる必要はありません。
 ですから、これからしばらくシリーズで何回か行いたいと思っているネヘミヤ記からのメッセージも、「会堂」を建設するためのメッセージではなくて「平和」を建設するためのメッセージです。残虐な犯行が世界でも日本でも起きていて、それらのいたたまれないニュースが次々の報じられている昨今、人の心の荒廃が極限にまで進んでいると私は感じています。その人心の荒廃について暗い思いがしていた時に、ネヘミヤがエルサレムの荒廃した様子を聞いて泣いた場面が思い起こされました。そして、ネヘミヤ記は平和の建設のためにこそ用いられなければならないと強く思いました。ですから、私たちはこれからしばらく、ネヘミヤ記から平和の建設について学びたいと思います。
 私たちの教会は今、新会堂の建設のための闘いをしています。しかし、少し前にも言ったように、私たちは会堂を建設するために教会の活動をしているわけではありません。教会の活動を続けて行くために会堂が必要だから新しい会堂を建設する闘いを始めています。教会の活動にもいろいろありますが、平和の働きは重要な位置を占めています。その重要な平和の働きを熱心に進めるなら、会堂問題は神様が何とかして下さることでしょう。前にも言いましたが、いろいろある教会の活動のうちの何に熱心に取り組むかは牧師によって異なります。音楽を用いた伝道に熱心に取り組む牧師もいれば、スポーツを用いた伝道に熱心に取り組む牧師もいます、被災地の支援に熱心に取り組む牧師もいれば、ホームレスの方々への支援に熱心に取り組む牧師もいます。そういう中で、私は平和の働きに熱心に取り組むように示されていますから、私は教会の皆さんと一緒に平和の働きに取り組みたいと願っています。これからしばらくネヘミヤ記をご一緒に学ぶことで、その思いを分かち合うことができたらと願っています。

ネヘミヤの嘆きと悲しみ
 それではネヘミヤ記の1章1節から見て行きます。1節、

1:1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、

 このネヘミヤ記はペルシャ帝国の時代の話です。南王国のユダのエルサレムはバビロニア帝国によって滅ぼされ、エルサレムの民はバビロンに捕囚として引かれて行きました。その後、ペルシャ帝国がバビロニア帝国を倒し、ペルシャのクロス王がバビロンで捕囚になっていた人々のエルサレムへの帰還を許したので、エルサレムの民の一部が戻って神殿の再建を始めました。しかし、エズラ記によればエルサレムの周辺の民族の様々な妨害を受けて神殿の再建は長い間(約16年間)中断したりしました。それでも預言者のハガイとゼカリヤを通じた主の励ましによって、神殿を再建することができました。
 しかし、城壁の再建までには、なかなか至りませんでした。2節と3節、

1:2 私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。
1:3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」

 神殿の再建の時と同様に城壁の再建は様々な妨害を受けて進まなかったようです。もし城壁が完成しなければ、エルサレムの町を守ることができませんから、いつかまた神殿も破壊されてしまうかもしれません。4節、

1:4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、

 先ほど、私は姫路教会でネヘミヤ記を開いて説教をしたことがあると話しました。それは教会の会堂の再建を念頭に置いてのことです。おととしの会堂月間の広瀬善子先生の説教も新会堂の建設を念頭に置いてのことです。静岡教会の高桑先生の説教も会堂の修繕を念頭に置いてのことでした。今思い起こしてみると、私はそれらのメッセージを自分で話したり、先生方のメッセージを聞いたりした時、正直言って今のネヘミヤ1章の3節と4節のネヘミヤの嘆きを自分のことのように心を合わせることがほとんどできていなかったと思います。
 しかし、「イスラム国」による、あまりにも残虐な行為をインターネットで見て、人々の心の荒廃に衝撃を受け、ネヘミヤの嘆きと悲しみに私は以前よりも深いレベルで心を合わせることができると感じています。
 ネヘミヤは11節にあるように、ペルシャの王の献酌官でしたから王からの信頼も厚く、それゆえネヘミヤも王に誠意をもって仕えていました。しかし、ネヘミヤの心は複雑だったと思います。ペルシャの王に誠意をもって尽くしてはいるものの、やはりユダヤがペルシャに支配されていることは本来あるべき姿ではありません。

堅固な城壁が無ければ危うい神殿
 ここで一旦ネヘミヤ記を離れて、ゼカリヤ書9章の9節と10節を交代で読みたいと思います(旧約聖書p.1555)。

9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
9:10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。

 ゼカリヤは神殿の再建を励ました預言者ですから、ネヘミヤより少し前の時代の預言者です。このゼカリヤ9章9節はヨハネの福音書でも引用されています(ヨハネ12:15)。イエス・キリストが十字架に掛かるためにエルサレムに入京した時、ろばに乗って行ったのは、このゼカリヤの預言が成就するためでした。そして、いま注目したいのは10節のほうです。

「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。」

 まずはイスラエルとエルサレムに平和がもたらされます。そうして、「この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」とありますから、エルサレムに平和が訪れなければ、諸国が平和になることはありません。先ずはエルサレムが平和になることで世界に平和が訪れます。しかし、エルサレムの町の城壁が周辺の民族の妨害によって、いつまでたっても再建されないようではエルサレムに平和は訪れません。神殿は再建されたものの城壁が無ければいつまた神殿が崩壊するかわかりません。
 
平和を守る堅固な城壁を築くために
 これは現代の私たちの脆(もろ)い平和の状況と似ているように思います。今の世界では、平和が訪れたと思っても、それは束の間のことであり、すぐに平和はなくなります。イラク戦争によってフセイン大統領が拘束され処刑され、これで平和になるかと思いきや、かえって混乱が増して「イスラム国」という悪魔の台頭を許してしまいました。アラブの春によってエジプトなどの国が民主化されるかと思ったのも束の間、クーデターによって軍事政権が支配しています。日本は幸いにして70年の間平和が保たれていますが、今やそれも危うい状況に段々なって来ました。
 日本においても世界においても、私たちは堅固な城壁を作って平和という神殿を守らなければならないと思います。せっかく平和という神殿を再建しても、すぐに崩壊してしまうのではなく、永遠に平和の神殿が守られる、真に堅固な城壁を築く必要があると思います。そのためには、どうしたら良いか、それはやはり、私たちが互いに愛し合うことができるようになることでしょう。私たちが互いに愛し合うことができるようになるためには、私たちは永遠観を身に付け、私たちが1世紀に閉じ込めてしまっているイエスの愛弟子を救出しなければならないと思います。
 そのための出発点として私たちがしなければならないことは、先ずは悔い改めることでしょう。自分たちが正しくて相手が悪いのだと言って非難の応酬をし、報復の連鎖に陥るのではなく、先ずは自らの罪を悔い改める必要があるでしょう。
 ネヘミヤの祈りも悔い改めの祈りでした。ネヘミヤ記1章に戻ります。5節から7節までを交代で読みましょう。7節はご一緒に読みます。

1:5 言った。「ああ、天の神、【主】。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。
1:6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
1:7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。

 7節でネヘミヤは、「私たちは、あなたに対して非常に悪いことをし」たと言っています。私たちも、先ずはこのように私たちの罪を認めることから始めなければならないでしょう。ネヘミヤは、「あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした」と言いました。

私たちが守るべき戒め
 では、私たちが守るべき命令、おきては何でしょうか。それはイエスさまが私たちに与えて下さった新しい戒めではないでしょうか。この年末年始に何度も開きましたが、ヨハネの福音書の最後の晩餐のイエスさまのみことばに、もう一度、目を留めましょう。ご一緒に読みましょう(ヨハネ13:34、15:12、15:17)。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

 イエスさまは最後の晩餐でこのように三度も互いに愛し合いなさいとおっしゃったのに、クリスチャンはそれができなかったから、今も世界は戦争に苦しんでいるのだと思います。ネヘミヤ1章8節、

1:8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。

 イスラエルの民はモーセの戒めを守らなかったために北王国も南王国も滅ぼされ、民は諸国に散らされました。クリスチャンもイエスさまの新しい戒めを守らなかったので、いまだに私たちには平和がありません。ネヘミヤ1章9節と10節、

1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る』と。
1:10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。

 ここでネヘミヤが言おうとしていることは、「私たちは罪を悔い改めて主に立ち返りますから、どうか憐れんで下さい」ということです。11節、

1:11 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

 このネヘミヤの祈りのように、私たちはイエスさまに立ち返らなければなりません。

おわりに
 私たちはイエスさまに立ち返り、イエスさまが私たちに与えて下さった新しい戒めの「互いに愛し合うこと」ができるようにならなければなりません。そしてさらにこの沼津教会の十何人かが互いに愛し合えるようになるだけでなく、百人、千人、万人、億人が互いに愛し合えるようになるための働きをして行かなければならないと思います。そのための働きに懸命に取り組むなら、主の御業によって私たちの会堂の問題は自ずと解決することと思います。
 お祈りいたしましょう。
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平和建設のためのネヘミヤ記

2015-02-05 05:00:34 | 折々のつぶやき
 これからしばらく礼拝説教では旧約聖書のネヘミヤ記を学ぼうかと思います。人心の荒廃が極限にまで達していると思うからです。ネヘミヤ記は会堂建設を鼓舞するために語られることが多いと思います。実際、私自身も新会堂建設の趣旨でネヘミヤ記から何度か語っています。しかし、ネヘミヤ記は平和の建設のためにこそ用いられなければならないという気が今、強くしています。
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一粒の麦(2015.2.4 祈り会)

2015-02-05 04:30:31 | 祈り会メッセージ
2015年2月4日祈り会メッセージ
『一粒の麦』
【ヨハネ12:24、15:13/出エジプト3:13,14】

はじめに
 前半は先ず二つのみことばをご一緒に読みたいと思います。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

 昨年の5月に私の伯父が亡くなりました。私の父と同じ昭和2年の生まれで、87歳でした。私の父は、それより13年前の2001年に74歳で亡くなりましたから、昨年伯父が亡くなった時には、私の父ももう少し長生きして欲しかったなと父の早い死を残念に思いました。しかし、もし父が死ななければ、私が教会に通うようになることはなかったと思います。ですから当然、私が牧師になることもなかったでしょう。そういう意味で私の父は一粒の麦になったのだと私は思っています。父は多くの実を結ぶために早くに死んだのだと思います。ただし、私の働きはまだまだ豊かな実を結ぶところまでは行っていません。ですから、私の父がヨハネ12:24のみことばの通りの豊かな実を結ぶ一粒の麦になるように、私はもっと働かなければならないと思わされています。

豊かな実を結ぶ一粒の麦に
 今週の日曜日に「イスラム国」によって殺害されたことが報じられた後藤健二さんも「一粒の麦」なのだと私は思います。後藤さんの死は残念で悲しいことですが、私たちは後藤さんがヨハネ12:24のみことばのように豊かな実を結ぶ一粒の麦になることができるように、平和の実現のために全力で働かなければならないと思います。
 報道によれば後藤さんは「イスラム国」に拘束された湯川さんについての情報を得るために、危険を承知で敢えて危険な領域に入って行ったと報じられています。後藤さんは、以前湯川さんがシリアで拘束された時に通訳を頼まれて湯川さんと知り合いになったそうです。湯川さんは英語も現地の言葉も話せない、危なっかしい素人に近い人のように見えます。一方、後藤さんは戦場の取材経験が豊富なプロのジャーナリストです。後藤さんと湯川さんはこんなにも違うのに、どうして後藤さんは湯川さんのために危険を冒したのか。これは私の推測に過ぎませんが、後藤さんは湯川さんのことを友だと思っていたのだろうなと思うことです。ヨハネ15章13節をもう一度、お読みします。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

 イエス・キリストは弟子たちとは本来は同じレベルにはありませんでしたが、イエスさまは弟子たちと同じレベルに立ち、弟子たちを友と呼びました。後藤さんも湯川さんを友と思って、ある覚悟を持って危険な領域に踏み込んで行ったのだろうかと思うことです。

イエスの愛弟子を救出しよう
 私たちは後藤さんが豊かな実を結ぶ一粒の麦になることができるよう、全力で働かなければならないと思います。私もそのために、今、執筆中の「イエスの愛弟子を救出しよう」というタイトルの原稿を早く完成させたいと思います。私たちが互いに愛し合うことができないでいるのは、私たちがイエスの愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっているからだと思います。私たちがイエスの愛弟子を1世紀から救出するためには、私たちは霊性をもっと研ぎ澄ます必要があります。私たちは後藤さんを救出することはできませんでしたが、イエスの愛弟子は何としてでも、1世紀から救出しなければならないと思います。
 昨日は、この「イエスの愛弟子を救出しよう」の原稿でヨハネ4章について書きました。ヨハネ4章でサマリヤ人たちがサマリヤの女に言った、

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:42)

という言葉について、この教会の皆さんにはもう何度も話しましたから、ある程度は理解していただいていると思いますが、これは霊的な領域の話です。このヨハネ4章の後半でサマリヤ人たちがイエスに会った箇所は、新約聖書の「使徒の働き」8章のピリポのサマリヤ伝道と重ねられていますから、サマリヤ人たちが会ったのは霊的な復活したイエスでした。サマリヤ人たちはイエスに会う前にサマリヤの女の話でイエスを信じました。そうしてイエスを信じたことで聖霊を受けたので、復活した霊的なイエスと会うことができました。それゆえサマリヤ人たちは女に、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」と言いました。これは聖霊の働きによる、霊的な領域の話であり、現代の私たちに重要なことを教えてくれています。現代の私たちは肉的なイエスには決して会うことができません。そして聖霊が注がれていなければ霊的なイエスにも会うことができません。ですから霊的なイエスに会うにはサマリヤ人たちが女の話を信じたように、私たちは福音書の話を信じなければなりません。「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)とイエスがトマスに言ったのは、このためです。
 このように現代の私たちにも密接に関わるヨハネの福音書の霊的な領域のことが未だ気付かれていないことは、人類にとって大きな損失であると、私は昨日、この箇所について執筆していて、つくづく思いました。4章のこの箇所のことだけでも人類にとって大きな損失なのですから、ヨハネの福音書全体で霊的な理解が為されていないことは人類にとって莫大な損失だと思います。それもこれも、私たちがイエスの愛弟子のことを1世紀の肉的な人物であると思い込んでいて、霊的な領域での愛弟子についての考察が為されていないからです。
 私たちは互いに愛し合うことができるよう、何としてでもイエスの愛弟子を救出しなければならないと思います。

(賛美歌を歌って後半へ)

私はある
 後半は先週の続きで出エジプト3章を開きましょう。きょうは3章の13節と14節です。

3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

 先週、出エジプト記3章の7節から12節からのメッセージを終えてから、次はいよいよ「わたしはある」の箇所だなと思いました。それで、この1週間は折にふれて、この14節にある「わたしはある」について思いを巡らしていました。とは言え、前半で話したように今私は「イエスの愛弟子を救出しよう」の原稿の執筆にかなり前のめりになっていますから、そんなに十分に思い巡らしができたわけではありません。それでも、ある程度はできましたから、きょうはこの「わたしはある」を中心に私が思い巡らしたことを話したいと思います。
 14節にあるように、神さまはモーセに「わたしは、『わたしはある』という者である」と仰せられました。私はこのみことばを、この沼津の今沢の地で思い巡らすことができて、本当に良かったなと思いました。
 前にも話したことがありますが、この今沢の地域には高い建物がありませんから、海岸の堤防の上に上がると、富士山と愛鷹山の方角を除けば、全天を見渡すことができます。富士山と愛鷹山は自然の山ですから、そういう意味では、360度、人工物にさえぎられることなく空を見渡すことができます。この1週間で私は何度か夕方に防波堤の上を散歩したりジョギングしたりしましたが、その時に、全天の空全体が「わたしはある」であることを感じました。そこから私は、「私はある」は、宇宙の時間と空間のすべてが「わたしはある」なのだと思いました。もし私がもっと都会で、「わたしはある」について思いを巡らしていたなら、もっと狭い思い巡らししかできなかったと思いますから、この今沢の地で「わたしはある」について思いを巡らすことができて、本当に良かったなと思いました。
 それから私がどのような順番で思いを巡らして行ったか、話しておきたいと思います。次に私が思い浮かべたのは、黙示録の「わたしはアルファであり、オメガである」というみことばです。この「わたしはアルファであり、オメガである」というのは、時間的にも空間的にも、始めであり、終わりであるということですから、出エジプト3:14の「わたしはある」と良く通じると思ったんですね。それから、この出エジプト3:14のギリシャ語訳を、70人訳のギリシャ語で調べました。それから、何冊かの注解書で出エジプト3:14についての注解を読みました。これから話すことは、これらのことを全て鍋に放り込んで、私なりの味付けをしたものです。まだ料理したてですので、良い味が出ていないと思いますが、とりあえず今の段階で話せることを話したいと思います。

永遠の中にいる三位一体の神
 まず、「わたしは、『わたしはある』という者である」の70人訳によるギリシャ語ですが、これは「エゴー エイミー ホ オーン」です。これは、なかなか興味深いことです。まず「エゴー エイミー」は英語で言えば「I am」、つまり「わたしは~です」ですが、これは「わたし」を特に強調した表現で、ヨハネの福音書のイエスさまが「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)や「わたしは門です」(ヨハネ10:9)や、「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14)などと言っている箇所で使われている表現です。
 それから、「エゴー エイミー ホ オーン」の後ろの部分の「ホ オーン」は、黙示録の「今いまし」で使われているのと同じギリシャ語です。これは大変に面白いですね。黙示録の1章8節には、このように書かれています。

1:8 神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 この「今いまし」が「ホ オーン」です。ですから、出エジプト3:14の「わたしは『わたしはある』という者である」という訳を、新約聖書の訳し方をミックスさせて言い直すなら、「わたしは『今いる』である」または「わたしは『今ある』である」ということになります。神様にとっての「今」というのは、過去も現在も未来も一体の永遠が「今」です。この出エジプト3:14の少し前の12節で神様はモーセに先週も見たように、「わたしはあなたとともにいる」と仰せられましたから、永遠の中にいる神様が共にいて下さるということは、モーセにとっても私たちにとっても大変に心強いことです。
 私たちは、今共にいて下さる神様が永遠の中にいることを、もっとしっかりと味わうことができる者になりたいと思います。この過去・現在・未来が一体の永遠観を身に付けるなら、愛弟子を1世紀から救出することができます。そのためにはヨハネの福音書で、「エゴー エイミー ~」と言っているイエスさま、すなわち「わたしは~です」と言っているイエスさまのことも、永遠の中で捉えることができるようになりたいと思います。
 例えばヨハネ6章のイエスさまがガリラヤの地で「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)と言った言葉は、「旧約聖書の時代」の滅亡寸前の北王国の民に向けられた言葉でもあることを感じたいと思います。イエス・キリストは預言者のホセアとアモスと共に北王国の民に向かって語ったのだということを感じたいと思います。ホセアやアモスなどの預言者たちには聖霊が注がれており、御父の言葉を民に向かって話しました。この聖霊が注がれた預言者たちとイエス・キリストも共にいたことから、永遠の中にいる御父・御子イエス・キリスト・聖霊の三位一体の神を感じることができるようになりたいと思います。
 或いはまたヨハネ10章のイエスさまがユダヤの地で「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14)と言った言葉は、滅亡寸前の南王国の民に向けられた言葉でもあることを感じたいと思います。イエス・キリストは預言者のエレミヤとエゼキエルと共に南王国の民に向かって語ったのだということを感じたいと思います。エレミヤやエゼキエルなどの預言者たちには聖霊が注がれており、御父の言葉を民に向かって話しました。この聖霊が注がれた預言者たちとイエス・キリストも共にいたことから、永遠の中にいる御父・御子イエス・キリスト・聖霊の三位一体の神を感じることができるようになりたいと思います。
 このように永遠の中にいる御父・御子イエス・キリスト・聖霊の三位一体の神を感じることができるなら、私たちは愛弟子を1世紀から救出して、互いに愛し合うことができるようになることと思います。

おわりに
 最後に、いま話したことを、もう一度短くまとめます。出エジプト3:14で神様がモーセに仰せられた、「わたしは、『わたしはある』という者である」の70人訳によるギリシャ語訳は「エゴー エイミー ホ オーン」であり、前の部分の「エゴー エイミー」はイエスさまが何度も言っておられる「わたしは~です」と同じギリシャ語であり、後ろの部分の「ホ オーン」は黙示録の「今いまし」と同じギリシャ語であることから、ここから私たちは永遠の中にいる御父・御子イエス・キリスト・聖霊の三位一体の神を感じることができるようになりたいという話をしました。
 私たちが永遠の中にいる御父・御子イエス・キリスト・聖霊の三位一体の神を感じることができるようになるために、いま私が執筆中の「イエスの愛弟子を救出しよう」の原稿を、何とか2月中、遅くとも3月には完成させたいと思います。そして、皆さんにも読んでいただき、この働きに加わっていただけるなら感謝であると思っていますから、このためにもお祈り願いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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33,333人

2015-02-04 07:40:52 | 折々のつぶやき
 2013年4月に開始した教会ブログの訪問者数のトータルが33,333人になりました。
 これまで訪問して下さった方々に感謝申し上げます。
 3は三位一体の3ですから、キリスト教会にとってはとても良い数字で感謝です。

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イエスの愛弟子を救出しよう

2015-02-01 06:19:24 | 折々のつぶやき
 2月1日の朝5時半、ニュースがあわただしく報じていた、アップロードされたばかりの動画を見ました。
 これまで私はこのような残虐な動画を敢えて見ることはしていませんでしたが、邪悪なこの世で何が行われているのか、そこから目をそむけてはならないと思い、見ることにしました。

 主よ、残虐な世を救い、平和をもたらしてください。
 平和の働きのために私を用いてください。

 いま「イエスの愛弟子を救出しよう」というタイトルで原稿を執筆中です。この執筆作業を早めなければなりません。私たちが互いに愛し合うことができないでいるのは、私たちがイエスの愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっているからです。
 1世紀に閉じ込められているイエスの愛弟子を救出して私たちが互いに愛し合うことができるよう、この働きを加速させたいと思います。

「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:9)
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