2013年11月27日祈り会メッセージ
『38年間の病気からの癒し』
【ローマ3:28~30、ヨハネ5:1~9】
はじめに
先聖日は幸いな聖餐式礼拝と愛餐会がありました。そして、その後で、クリスマスの飾り付けをすることができたことも、また感謝でした。その時、この教会には、この教会が長い間、慣れ親しんで来た方式というものがあることも改めて教えていただきました。私が一番、「へ~、そうだったんだ~」と感じたのは、クリスマスツリーを外に飾っていたということでした。私自身がこれまで慣れ親しんで来た教会のクリスマスは、ツリーは会堂の中にありました。それで、外に置くことには違和感を感じたので、中に置かせてもらうことにしました。しかし、小さい時からこの教会の方式に慣れ親しんで来たY姉などにとっては、ツリーを中に置くことのほうが違和感を感じるようですね。人は慣れ親しんだことを変えることには抵抗感を感じます。今回はツリーを外に置くことに私が違和感を感じましたので、ちょっと強引かもと思いましたが、中に置かせていただくことにしました。私も案外強情だなと自分自身で思ったことです。ツリーを外に置こうが中に置こうが、これは慣れ親しんで来た慣習の問題で、信仰には関係がないことです。信仰的には関係がありませんから、どちらでも良いことです。どちらでも良いことに強情を張った私も大人げないという思いもしていますが、キャンドルサービスの時などのことを考えると、やはり中に置いたほうが良いのだろうと思っています。
1.断ち切り難い慣習
さて、ツリーを外に置くか中に置くかの慣習に関しては、信仰的にはどちらでも良いことです。しかし、慣習によっては、どちらでも良いわけではないというものもあります。信仰のことを考えるなら、断ち切るべき慣習もあります。しかし、人は慣れ親しんだ慣習を断ち切るのは、なかなか難しいことです。
私は教会に通うようになる前までは、神社に参拝するのが好きでした。ちょうど20年前のことになりますが、私は名古屋の大学を退職しました。当時、私は助手でしたが、研究室の教授に付いて行くことができなかったからです(その約5年後に関係は回復できましたが)。それで、それまでの専門分野の世界ではもう生きては行けないだろうと思って、次に何を仕事にして生きて行くべきか考えに考えて、日本語教師となることに決めました(どうして日本語教師を選んだかは省略します)。そして、日本語学校の日本語教師養成科に入って勉強しつつ、とにかく何が何でも日本語教育能力検定試験に合格することを目標に掲げました。この日本語教育能力検定試験に合格すれば自動的に日本語教師になれるわけでもなく、長年日本語教師をしている先生の中には検定試験を受けたことが無い先生もたくさんいました。ですから、検定試験の合格が日本語教師になるための必要条件というわけではありません。しかし、私のように日本語教師としての実績が何も無い者にとっては、検定試験に合格しなければ話にならないと思いましたから、何が何でも合格しなければならないと思いました。それで私は、約半年間、受験勉強をするとともに毎日のように神社に行って「検定試験に合格しますように」とお祈りしていました。今の私の解釈では、この時の私の必死の祈りを聖書の神様が聞いて下さったから検定試験に合格でき、そのおかげで東京の大学の留学生センターへの就職も決まり、やがて高津教会に導かれたのだと思います。当時の私は聖書のことを知りませんでしたから、神社にお参りしていたことも、仕方のないことであったと言えるでしょう。しかし、聖書の神様を知ったからには、神社への参拝という慣習は断ち切らなければなりません。
私が洗礼を受けたいと思い始めた時に、最も断ち切り難かった慣習が、この神社への参拝でした。しかし、この神社への思いを断ち切って洗礼を受けて多くの恵みを受けることができましたから、感謝なことでした。
2.異邦人もユダヤ人の慣習に従うべきか
さて、前置きはこれぐらいにして、今日の説教の箇所に入って行きますが、紀元1世紀の「使徒の時代」のユダヤ人たちにとっても、「律法の行い」は大切な慣習でした。ユダヤ人でイエス・キリストを信じた人々も、「律法の行い」を大切にしていました。これはこれで、別に問題ではありません。イエスを信じた日本人が神社への参拝をやめなければならないのは、神社が祀っている神と聖書の神様とが異なるからです。しかし、ユダヤ教の神様とキリスト教の神様は同じ神様ですから、イエス・キリストを信じたユダヤ人が「律法の行い」をやめる必要はありません。問題なのは、ユダヤ人の慣習を持たない異邦人がイエスを信じたら、その異邦人もユダヤ人の慣習である割礼を受けなければならないという割礼派が存在したことでした。
パウロは、この割礼派と激しく闘いました。ガラテヤ人への手紙の中でパウロは、割礼派に惑わされるガラテヤ人のことを、「ああ愚かなガラテヤ人」(ガラテヤ3:1)と言って嘆いています。さらにパウロはもっと過激に、割礼派のことを次のように言っています。「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです」(ガラテヤ5:12)。切り取ってしまうほうが良いとは、去勢したほうが良いということですから、パウロはかなり過激なことを言っていますね。
きょうの聖書箇所のローマ人への手紙3章も、この割礼の問題に関してです。もう一度、交代で読みましょう。
3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
28節でパウロが言っている「律法の行い」とは割礼のことです。29節と30節を合わせて読むと、そのことがわかると思います。ただ、28節を単独で読むなら、「律法の行い」とは単に割礼だけのことではなく、「善い行い」全般のことのようにも見えて来ます。
いま私は月に2回、お茶の水でローマ人への手紙を学ぶ機会を得て感謝に思っているところです。ルター以来のプロテスタントの伝統的な解釈では、「律法の行い」というと、「善い行い」を積み上げることであって、善い行いの積み重ねでは人は義と認められず、信仰によってのみ義と認められるのだということになっています。しかし、「律法の行い」はユダヤ人と異邦人を区別する割礼などの行いに限定してパウロの手紙を解釈したほうが良いという説もあることを、お茶の水で学んでいます。パウロは割礼派と闘っていましたから、割礼を受けているユダヤ人も割礼を受けていない異邦人も同じように信仰があれば義と認められるし、信仰が無いなら義と認められないと言っているというわけです。「律法の行い」は「善い行い」全般に拡張して考えなくても、単にユダヤ人と異邦人とを分ける、割礼などの慣習に限って解釈したほうが良いという説です。私もそのように、考えたほうが良いのではないかと感じています。というのは、そう考えることで、ヨハネの福音書の5章も良く理解できるようになるからです。
3.慣習にとらわれてイエスを見ない病人
ヨハネ5章に登場する「三十八年もの間、病気にかかっている人」の背後に何が存在するのか、「38年」と「病気」は何を表すのかの解読は難しい問題です。しかし、今話して来たような「使徒の時代」における「律法の行い」の問題が背後にあると考えるなら、上手く説明できそうです。
まず「38年」が何を表すかですが、イエスの十字架が紀元33年であったするなら、紀元70年の神殿崩壊までの年数がちょうど「38年」になります。イエスが十字架に掛かって死んだ年は様々な要因を考え合わせると紀元30年または33年のどちらかになるそうです〔岩上敬人『パウロの生涯と聖化の神学』p.26〕。どちらかと言えば紀元30年のほうが有力のようですが、十字架の年を紀元33年として、ローマ軍の攻撃によりエルサレムの神殿が崩壊した紀元70年までの期間を「38年間」とするなら、「病気」を「神殿礼拝」とすることで説明することが可能になります。
律法には、男子は年に三度、エルサレムに上って神殿を礼拝しなければならない規定がありました(申命記16:16)。しかし、イエスはヨハネ4章でサマリヤの女に神殿礼拝のことで言いました。「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。今がその時です。…神は霊ですから、神を礼拝する者は、例とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:21,24)。また共観福音書には、イエスが十字架で死んだ時に神殿の幕が真っ二つに裂けたことが記されています(マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)。こうして、イエスの十字架での死により、神殿で神を礼拝する目的でわざわざエルサレムに上る必要はなくなりました。大切なのは霊とまことによって礼拝することで、神殿で礼拝することではないのです。
神殿で礼拝する必要がなくなったことは異邦人にとっては朗報です。異邦人は汚れた者として神殿に入ることは許されなかったからです。もし入るとしたら、ユダヤ教に改宗して割礼を受ける必要がありました。使徒の働きにはイエスを信じた者も割礼を受ける必要があると主張する割礼派と不要であるとする者との間で激しい対立と論争があったことが使徒の働きに記されています。割礼派は「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていました(使徒15:1,2)。この割礼派のことをパウロがガラテヤ人への手紙で激しく批判したことは、さきほど話した通りです。
ヨハネ5章に登場する病人は弱い立場の人です。この38年間病気であった人の「病気」とは、神殿で神を礼拝しなければ自分は救われないと信じ込んでいたことではないでしょうか。信仰の弱い人は、それまでの慣習からなかなか脱することができません。ただ単にイエスへの信仰のみがあれば救われるのに、律法の行いが必要であるという考えから、なかなか抜け出ることができません。ヨハネ5章の病人も、イエスが「よくなりたいか」と聞いているのに、病人は「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」(7節)と答え、池に入らなければ病気が治らないと信じ込んでいました。イエスへの「信仰」ではなく、「行い」のほうに気を取られていました。
イエスが十字架で死んだ時に神殿の幕が真っ二つに裂けてから38年後にローマ軍の攻撃によって神殿は崩壊し、神殿そのものが無くなりました。信仰の弱い人たちは38年間神殿に礼拝しなければ自分は救われないと信じていましたが、神殿が無くなったことで、イエスを信じる信仰に立つことができるようになりました。
4.礼拝が単なる慣習になっていないか
この慣習の問題には、いろいろと考えさせられます。例えば、礼拝についてです。礼拝が単なる慣習になってしまっているなら、あまり意味はありません。事情はそれぞれだと思いますが、今まで礼拝に来ていて礼拝に来なくなるような人は、礼拝が単なる慣習になってしまっていたのかもしれません。礼拝が単なる慣習で、礼拝に出てもたいして恵みが得られないのであれば、今礼拝に出ている人でも、やがて礼拝に出なくなるかもしれません。
礼拝で何より大事なのは、イエス・キリストとの霊的な交わりができる雰囲気が形成されているかどうか、ではないかと私は思います。礼拝でイエス・キリストとの交わりを感じることができないのであれば、やがて人は離れて行くでしょう。ヨハネ5章でイエスが病人に「よくなりたいか」と話し掛けているのに、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません」などと言うようなことになってしまいます。せっかくイエスが話し掛けているのにイエスと交わろうとしないで、池に入ることばかり考えるようなことであってはいけないと思います。
おわりに
私たちは礼拝を単なる慣習としてではなく、霊とまことによって礼拝を捧げることができる者たちでありたいと思います。新会堂を実現できるかどうかも、そこに掛かっているのではないかと思います。
お祈りいたしましょう。
『38年間の病気からの癒し』
【ローマ3:28~30、ヨハネ5:1~9】
はじめに
先聖日は幸いな聖餐式礼拝と愛餐会がありました。そして、その後で、クリスマスの飾り付けをすることができたことも、また感謝でした。その時、この教会には、この教会が長い間、慣れ親しんで来た方式というものがあることも改めて教えていただきました。私が一番、「へ~、そうだったんだ~」と感じたのは、クリスマスツリーを外に飾っていたということでした。私自身がこれまで慣れ親しんで来た教会のクリスマスは、ツリーは会堂の中にありました。それで、外に置くことには違和感を感じたので、中に置かせてもらうことにしました。しかし、小さい時からこの教会の方式に慣れ親しんで来たY姉などにとっては、ツリーを中に置くことのほうが違和感を感じるようですね。人は慣れ親しんだことを変えることには抵抗感を感じます。今回はツリーを外に置くことに私が違和感を感じましたので、ちょっと強引かもと思いましたが、中に置かせていただくことにしました。私も案外強情だなと自分自身で思ったことです。ツリーを外に置こうが中に置こうが、これは慣れ親しんで来た慣習の問題で、信仰には関係がないことです。信仰的には関係がありませんから、どちらでも良いことです。どちらでも良いことに強情を張った私も大人げないという思いもしていますが、キャンドルサービスの時などのことを考えると、やはり中に置いたほうが良いのだろうと思っています。
1.断ち切り難い慣習
さて、ツリーを外に置くか中に置くかの慣習に関しては、信仰的にはどちらでも良いことです。しかし、慣習によっては、どちらでも良いわけではないというものもあります。信仰のことを考えるなら、断ち切るべき慣習もあります。しかし、人は慣れ親しんだ慣習を断ち切るのは、なかなか難しいことです。
私は教会に通うようになる前までは、神社に参拝するのが好きでした。ちょうど20年前のことになりますが、私は名古屋の大学を退職しました。当時、私は助手でしたが、研究室の教授に付いて行くことができなかったからです(その約5年後に関係は回復できましたが)。それで、それまでの専門分野の世界ではもう生きては行けないだろうと思って、次に何を仕事にして生きて行くべきか考えに考えて、日本語教師となることに決めました(どうして日本語教師を選んだかは省略します)。そして、日本語学校の日本語教師養成科に入って勉強しつつ、とにかく何が何でも日本語教育能力検定試験に合格することを目標に掲げました。この日本語教育能力検定試験に合格すれば自動的に日本語教師になれるわけでもなく、長年日本語教師をしている先生の中には検定試験を受けたことが無い先生もたくさんいました。ですから、検定試験の合格が日本語教師になるための必要条件というわけではありません。しかし、私のように日本語教師としての実績が何も無い者にとっては、検定試験に合格しなければ話にならないと思いましたから、何が何でも合格しなければならないと思いました。それで私は、約半年間、受験勉強をするとともに毎日のように神社に行って「検定試験に合格しますように」とお祈りしていました。今の私の解釈では、この時の私の必死の祈りを聖書の神様が聞いて下さったから検定試験に合格でき、そのおかげで東京の大学の留学生センターへの就職も決まり、やがて高津教会に導かれたのだと思います。当時の私は聖書のことを知りませんでしたから、神社にお参りしていたことも、仕方のないことであったと言えるでしょう。しかし、聖書の神様を知ったからには、神社への参拝という慣習は断ち切らなければなりません。
私が洗礼を受けたいと思い始めた時に、最も断ち切り難かった慣習が、この神社への参拝でした。しかし、この神社への思いを断ち切って洗礼を受けて多くの恵みを受けることができましたから、感謝なことでした。
2.異邦人もユダヤ人の慣習に従うべきか
さて、前置きはこれぐらいにして、今日の説教の箇所に入って行きますが、紀元1世紀の「使徒の時代」のユダヤ人たちにとっても、「律法の行い」は大切な慣習でした。ユダヤ人でイエス・キリストを信じた人々も、「律法の行い」を大切にしていました。これはこれで、別に問題ではありません。イエスを信じた日本人が神社への参拝をやめなければならないのは、神社が祀っている神と聖書の神様とが異なるからです。しかし、ユダヤ教の神様とキリスト教の神様は同じ神様ですから、イエス・キリストを信じたユダヤ人が「律法の行い」をやめる必要はありません。問題なのは、ユダヤ人の慣習を持たない異邦人がイエスを信じたら、その異邦人もユダヤ人の慣習である割礼を受けなければならないという割礼派が存在したことでした。
パウロは、この割礼派と激しく闘いました。ガラテヤ人への手紙の中でパウロは、割礼派に惑わされるガラテヤ人のことを、「ああ愚かなガラテヤ人」(ガラテヤ3:1)と言って嘆いています。さらにパウロはもっと過激に、割礼派のことを次のように言っています。「あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと切り取ってしまうほうがよいのです」(ガラテヤ5:12)。切り取ってしまうほうが良いとは、去勢したほうが良いということですから、パウロはかなり過激なことを言っていますね。
きょうの聖書箇所のローマ人への手紙3章も、この割礼の問題に関してです。もう一度、交代で読みましょう。
3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
28節でパウロが言っている「律法の行い」とは割礼のことです。29節と30節を合わせて読むと、そのことがわかると思います。ただ、28節を単独で読むなら、「律法の行い」とは単に割礼だけのことではなく、「善い行い」全般のことのようにも見えて来ます。
いま私は月に2回、お茶の水でローマ人への手紙を学ぶ機会を得て感謝に思っているところです。ルター以来のプロテスタントの伝統的な解釈では、「律法の行い」というと、「善い行い」を積み上げることであって、善い行いの積み重ねでは人は義と認められず、信仰によってのみ義と認められるのだということになっています。しかし、「律法の行い」はユダヤ人と異邦人を区別する割礼などの行いに限定してパウロの手紙を解釈したほうが良いという説もあることを、お茶の水で学んでいます。パウロは割礼派と闘っていましたから、割礼を受けているユダヤ人も割礼を受けていない異邦人も同じように信仰があれば義と認められるし、信仰が無いなら義と認められないと言っているというわけです。「律法の行い」は「善い行い」全般に拡張して考えなくても、単にユダヤ人と異邦人とを分ける、割礼などの慣習に限って解釈したほうが良いという説です。私もそのように、考えたほうが良いのではないかと感じています。というのは、そう考えることで、ヨハネの福音書の5章も良く理解できるようになるからです。
3.慣習にとらわれてイエスを見ない病人
ヨハネ5章に登場する「三十八年もの間、病気にかかっている人」の背後に何が存在するのか、「38年」と「病気」は何を表すのかの解読は難しい問題です。しかし、今話して来たような「使徒の時代」における「律法の行い」の問題が背後にあると考えるなら、上手く説明できそうです。
まず「38年」が何を表すかですが、イエスの十字架が紀元33年であったするなら、紀元70年の神殿崩壊までの年数がちょうど「38年」になります。イエスが十字架に掛かって死んだ年は様々な要因を考え合わせると紀元30年または33年のどちらかになるそうです〔岩上敬人『パウロの生涯と聖化の神学』p.26〕。どちらかと言えば紀元30年のほうが有力のようですが、十字架の年を紀元33年として、ローマ軍の攻撃によりエルサレムの神殿が崩壊した紀元70年までの期間を「38年間」とするなら、「病気」を「神殿礼拝」とすることで説明することが可能になります。
律法には、男子は年に三度、エルサレムに上って神殿を礼拝しなければならない規定がありました(申命記16:16)。しかし、イエスはヨハネ4章でサマリヤの女に神殿礼拝のことで言いました。「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。今がその時です。…神は霊ですから、神を礼拝する者は、例とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:21,24)。また共観福音書には、イエスが十字架で死んだ時に神殿の幕が真っ二つに裂けたことが記されています(マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)。こうして、イエスの十字架での死により、神殿で神を礼拝する目的でわざわざエルサレムに上る必要はなくなりました。大切なのは霊とまことによって礼拝することで、神殿で礼拝することではないのです。
神殿で礼拝する必要がなくなったことは異邦人にとっては朗報です。異邦人は汚れた者として神殿に入ることは許されなかったからです。もし入るとしたら、ユダヤ教に改宗して割礼を受ける必要がありました。使徒の働きにはイエスを信じた者も割礼を受ける必要があると主張する割礼派と不要であるとする者との間で激しい対立と論争があったことが使徒の働きに記されています。割礼派は「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていました(使徒15:1,2)。この割礼派のことをパウロがガラテヤ人への手紙で激しく批判したことは、さきほど話した通りです。
ヨハネ5章に登場する病人は弱い立場の人です。この38年間病気であった人の「病気」とは、神殿で神を礼拝しなければ自分は救われないと信じ込んでいたことではないでしょうか。信仰の弱い人は、それまでの慣習からなかなか脱することができません。ただ単にイエスへの信仰のみがあれば救われるのに、律法の行いが必要であるという考えから、なかなか抜け出ることができません。ヨハネ5章の病人も、イエスが「よくなりたいか」と聞いているのに、病人は「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」(7節)と答え、池に入らなければ病気が治らないと信じ込んでいました。イエスへの「信仰」ではなく、「行い」のほうに気を取られていました。
イエスが十字架で死んだ時に神殿の幕が真っ二つに裂けてから38年後にローマ軍の攻撃によって神殿は崩壊し、神殿そのものが無くなりました。信仰の弱い人たちは38年間神殿に礼拝しなければ自分は救われないと信じていましたが、神殿が無くなったことで、イエスを信じる信仰に立つことができるようになりました。
4.礼拝が単なる慣習になっていないか
この慣習の問題には、いろいろと考えさせられます。例えば、礼拝についてです。礼拝が単なる慣習になってしまっているなら、あまり意味はありません。事情はそれぞれだと思いますが、今まで礼拝に来ていて礼拝に来なくなるような人は、礼拝が単なる慣習になってしまっていたのかもしれません。礼拝が単なる慣習で、礼拝に出てもたいして恵みが得られないのであれば、今礼拝に出ている人でも、やがて礼拝に出なくなるかもしれません。
礼拝で何より大事なのは、イエス・キリストとの霊的な交わりができる雰囲気が形成されているかどうか、ではないかと私は思います。礼拝でイエス・キリストとの交わりを感じることができないのであれば、やがて人は離れて行くでしょう。ヨハネ5章でイエスが病人に「よくなりたいか」と話し掛けているのに、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません」などと言うようなことになってしまいます。せっかくイエスが話し掛けているのにイエスと交わろうとしないで、池に入ることばかり考えるようなことであってはいけないと思います。
おわりに
私たちは礼拝を単なる慣習としてではなく、霊とまことによって礼拝を捧げることができる者たちでありたいと思います。新会堂を実現できるかどうかも、そこに掛かっているのではないかと思います。
お祈りいたしましょう。