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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

荘子とヨハネは似た者同士

2024-02-14 06:16:39 | 荘子と聖書
 荘子とヨハネは、とても良く似ています。例えば、前回の記事で説明したヨハネ4章1~5節の「イエス」が実は「弟子たち」であること、これは『荘子』の「胡蝶(こちょう)の夢」の話と似ていると思います。中公文庫のカバーの蝶の絵は、「胡蝶の夢」が題材です(写真)。



 この「胡蝶の夢」の話は『荘子 内篇』の斉物論篇の最後に出て来ます。今回は岩波文庫の金谷治氏の訳と注を引用します。「荘周(そうしゅう)」とは、荘子本人のことです。

【訳】むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう、自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。

【注】この章は「胡蝶の夢」として古来有名な章である。「物化」すなわち万物の変化とは要するにこうしたもので、因果の関係は成立せず、荘周と胡蝶との間には一応の分別相違はあっても絶対的な変化というべきものはない。荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地、それがここで強調される世界である。(金谷 治・訳注『荘子 第一冊[内篇]』岩波文庫 p.89)

 「荘周が胡蝶であり、胡蝶が荘周だという境地」に達するなら、敵味方や彼我の区別なく皆が平和に暮らせるのではないでしょうか。ジョン・レノンの『イマジン』の世界にも通じるものがあります。

 『ヨハネの福音書』においても弟子たちがイエスであり、イエスが弟子たちです。ヨハネはバプテスマのヨハネであり、使徒ヨハネであり、記者ヨハネであり、証人であり、愛弟子です。私たち読者も愛弟子であり、証人ですから、私たちもまたヨハネです。私たちは罪人であると同時に神の子でもあります。私たちは塵(ちり)や埃(ほこり)のような小さな存在であると同時に大鵬のようなスケールの大きな存在でもあります。

 聖書には堅苦しいイメージがあるかもしれません。しかし聖書を深く知れば知るほど、様々な束縛から解放されて自由になります。中でも『ヨハネの福音書』は『荘子』と同じで頭抜けて自由な書です。次回以降も、ヨハネが荘子と同じようにいかに自由人であるかを紹介して行きます。(つづく)
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木を見て森も見る

2024-02-12 07:38:00 | 荘子と聖書
 職場の地震防災センターの館内では、木造住宅の耐震性が補強の有無で大きく異なることを示す動画を流しています。左の家は「補強なし」、右の家は「補強あり」です。この二棟を起震台に載せて揺らすと、「補強なし」の家は倒壊してしまいます。



 この家が小さな模型ではなくて実際の大きさの家であることは、後方にいる見学者たちが一緒に写っていることで分かります。もしヘルメット姿の見学者たちが大きければ、家は小さな模型ということになるでしょう。しかし、ヘルメット姿の見学者たちが小さいので、家は実際の大きさの住宅であることが分かります。



 このように背景を併せ見ることで家の大きさを正しく認識することができます。ヘルメット姿の見学者たちを見なければ、「木を見て森を見ず」になってしまいます。
 聖書も背景を併せて読むこと、すなわち「森も見る」ことが大切です。例えば『ヨハネの福音書』4章1~5節には、次のように記されています。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。

 2節は不可解です。「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」とは、何を意味するのでしょうか?まず押さえておきたい重要な背景は、マタイ・マルコ・ルカの福音書では、バプテスマを授けていたのはバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)だけだったということです。イエスも弟子たちもバプテスマを授けてはいませんでした。また、さらに重要な背景として、ヨハネ2章~4章の流れがあります。

 ヨハネ2章ではガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じて、次いでユダヤ人たちもイエスを信じました。そしてヨハネ3章では、聖霊についての教えに戸惑うユダヤ人ニコデモの姿が描かれています。そして、ヨハネ4章ではサマリア人たちと異邦人たち(王室の役人と家の者たち)がイエスを信じました。このヨハネ2章~4章の流れは『使徒の働き(使徒言行録)』の2章~10章の流れと同じです。使徒たちの時代においても、人々はガリラヤ人→ユダヤ人→サマリア人→異邦人の順にイエスを信じて聖霊を受けました。そして、このことに戸惑うユダヤ人たちが怒り、弟子たちを迫害するようになりました。

 これらの背景を併せ読むなら、ヨハネ4章1~5節のイエスは十字架・復活の後に天に昇った「天国のイエス」であることが分かります。五旬節の日(使徒2章)以降、「天国のイエス」は地上の弟子たちに聖霊を遣わして、聖霊を通して様々なことばを天国から伝えました。弟子たちは天のイエスのことばを人々に語ってバプテスマを授けていたので、弟子たちの内にはイエスがいました。つまりヨハネ4章2節の「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」は、五旬節の日以降に、エルサレムの教会が急成長していた時期の状況を示しています。

 そうしてステパノ殉教をきっかけに激しい迫害が起きて、弟子たちはエルサレムから散らされて行きました。散らされた弟子の一人のピリポはサマリア人たちに伝道しました(使徒8章)。ヨハネ4章5節の「それでイエスは、・・・サマリアの町に来られた」とは、ピリポの内にいるイエスのことです。

 『荘子』の大鵬のように地上から飛び立ち、九万里の上空の視座からも聖書を読むことをお勧めしているのは、地上からの視座だけでは「木を見て森を見ず」になってしまうからです。それゆえ、地上と天上の両方の視座から聖書を読みたいと思います。すると、天国との距離がぐっと縮まり、死後まで待たなくても天国に近づくことができて、心の深い平安が得られるようになります。(つづく)
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天上から?地上から? ~聖書の読み方のコペルニクス的転回~

2024-02-08 11:43:43 | 荘子と聖書
【天上から?地上から?】

 視座の違いが聖書の読み方にもたらすコペルニクス的転回について、今回は書きます(前回からの続きです)。

 九万里の上空を飛翔する『荘子』の大鵬のように、天上からの視座で聖書を読んでみましょう。

 新約聖書の『ルカの福音書』の最終盤の24章50~51節には、イエスが「天に上げられた」ことが書かれています(写真)。



ルカ24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

 つまりイエスは大鵬のように九万里の上空に飛び立ちました。読者の私たちもイエスとともに飛び立ちましょう。そうして『ルカの福音書』から『ヨハネの福音書』に移ります。一般的な聖書の読み方では、この時点で読者の視座はまた地上に降り立ちます。しかし、私たちはこのまま天上を飛び続けましょう。すると、ヨハネ1章6~8節が、従来とは全く異なる光景で目に映ります。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 天上から『ヨハネの福音書』を読むなら、上記1章6節の証人の「ヨハネ」とは、この福音書を書いた記者のヨハネです。そして読者の私たちは九万里の上空を飛んでいますから、この福音書の最後の締めくくりの箇所も視界に入ります。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 前回、『ヨハネの手紙第一』の記者のヨハネが、私たちを天上の「御父また御子イエス・キリストとの交わり」(Ⅰヨハネ1:3)に招いていることを書きました。この交わりに入れられた者は皆、イエスの弟子であり、証人です。つまり、ヨハネ1:6の証人の「ヨハネ」とは、天上での神様との交わりに入れられた者たち全員であり、この皆がヨハネ21:24~25に記されている『ヨハネの福音書』の記者です。1世紀から21世紀に至るまで弟子たちの数は膨大ですから、「世界もその書かれた書物を収められない」とは決して誇張ではなく、事実です。

 このように『ヨハネの福音書』を天上からの視座で読むなら、この福音書のイエスは、降誕する前と昇天した後の「天上のイエス」です。一方、地上からの視座で読むなら、イエスはマタイ・マルコ・ルカが描いたのと同じ紀元30年頃の「地上のイエス」です。

 『ヨハネの福音書』のイエスを「地上のイエス」として読んでも良いと思います。しかし現状では、専ら「地上のイエス」としてのみ、読まれています。それゆえ、もう一方の「天上のイエス」も分かち合えるようになることを強く望みます。なぜなら「天上のイエス」との交わりによって、より深い平安が得られるからです。世界が平和に向かうためには、この読み方は不可欠でしょう。

 今回は『ヨハネの福音書』の冒頭の1章と締めくくりの21章しか紹介しませんでした。次回は4章について書き、この福音書のイエスが「天上のイエス」であるとヨハネが明記していることを明らかにします。(つづく)
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大鵬のように地上の縛りから離れる

2024-02-05 08:05:25 | 荘子と聖書
 今回から天国や極楽浄土の話を織り交ぜて行きます。

 4~5年前の60歳前後の頃、同年代の友人・知人の何人かが亡くなり、自分の余命もそんなに残されていないかもしれないと思いました。60歳にして漸くその心境に至ったのですが、寿命がもっと短かった時代には、「死」はもっと若い頃から意識されたことでしょう。世界では戦争・疫病・災害・貧困などによって現代においても寿命が短い地域があります。日本でも年明け早々の能登半島地震や羽田空港での衝突事故などを通じて、「死」は身近であることを改めて思い知らされています。

 最近、企業爆破事件の容疑者が「最期は本名で死にたい」と名乗り出たことが報道されて、とても考えさせられました。この世の汚れや罪や偽りから解放されて平安の中で最期を迎えたいという思いは誰の内にもあるでしょう。それが適わなくても普段から神や仏にすがることで「死後」は天国や極楽浄土で安らかに憩うことができると信じる人も多いと思います。

 その一方で『荘子』は、この世の汚れや罪や偽りからの解放が「現世」においても可能であることを説いています。「死後」まで待たなくても、何ものにもとらわれない自由な境地に至るなら、九万里の上空を飛翔する大鵬のように悠然と過ごすことができます。前回引用した『荘子』の冒頭の逍遥遊篇の書き出しの続きを引用します。

 地上には野馬(かげろう)がゆらぎたち、塵埃(ちり)がたちこめ、さまざまな生物が息づいているのに、空は青一色に見える。あの青々とした色は、天そのものの本来の色なのであろうか。それとも遠くはてしないために、あのように見えるのであろうか。おそらくは後者であろう。とするならば、あの大鵬が下界を見おろした場合にも、やはり青一色に見えていることであろう。

 そもそも水も厚く積もらなければ、大舟を浮かべるだけの力がない。杯の水を土間のくぼみに落としただけでは、芥(あくた)が浮かんで舟になるのがせいぜいであり、杯をおいても地につかえるであろう。水が浅くて、舟が大きすぎるからである。とするならば、風も厚く積もらなければ、鵬の大きな翼をささえるだけの力はない。だから九万里の高さにのぼって、はじめて翼にたえる風が下にあることになる。

 こうしていまこそ、大鵬は風に乗って上昇しようとする。背に青天を背負うばかりで、さえぎるものもない。こうしていまこそ、南をさして飛びたとうとする。(森三樹三郎・訳注『荘子 内篇』中公文庫 1974)

 このように「現世」においても様々な縛りから解放され得ることを『荘子』が説く一方、キリスト教では「死後」に可能になると一般的には理解されていると思います。

 しかし実は聖書も、「現世」においてそれが可能であることを説いています。たとえばヨハネの手紙第一1章1~4節です(写真)。



Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 3節に「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」とありますが、これは天の神様との交わりです。この手紙が書かれた時代、イエスは地上ではなく天にいます。つまり読者は『荘子』の大鵬のように九万里の上空を飛翔して、天の御父と御子と交わるのです。私たちは様々なことに縛られていますが、それらから少しずつ解放されるなら、やがては天の神様との交わりに「現世」においてでも、入れていただくことができます。

 地上の縛りは強烈ですから大鵬のように飛び立つことは容易ではありません。それゆえ聖書も地上からの視座で読まれがちです。しかし地上から離れた視座で聖書を読むなら、どれほど素晴らしい恵みに浸ることができるかを、次回は書きます。(つづく)
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九万里の上空を飛翔する大鵬

2024-02-05 07:59:29 | 荘子と聖書
 静岡出身の横山芳介氏が作詞した「都ぞ弥生」の歌詞の1番を前回紹介しましたが、2番も紹介します。

豊かに稔れる石狩の野に 雁(かりがね)遥々沈みてゆけば
羊群(ようぐん)声なく牧舎に帰り 手稲の嶺(いただき)黄昏こめぬ
雄々しく聳ゆる楡(エルム)の梢 打振る野分に破壊(はえ)の葉音の
さやめく甍(いらか)に久遠(くおん)の光
おごそかに 北極星を仰ぐかな

 北大キャンパスに隣接する農場の西には手稲山が見えました。毎日の通学では農場の東端を通りましたから、広大な農場と手稲山がセットになって私の目に焼き付いています。当時の北大生は大きな事ばかり考えている者が多かったですが、校訓のようになっている「青年よ大志を抱け」の精神だけではなく、目に見える形で広大なキャンパスと農場があり、その中で日々を過ごしていたことが大きく影響していたと思います。

 私も大きな事ばかり考えていました。そして大学2~3年の頃は『荘子』の壮大なスケールに憧れを抱いていました。読み始めたきっかけは、『荘子』がノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏の愛読書であることを知り、どんな書か興味を抱いたからでした。『荘子』の冒頭の逍遥遊篇の書き出しを、当時読んでいた森三樹三郎・訳注の中公文庫から引用します。



 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。

 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海にうつろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。」(森三樹三郎・訳注『荘子 内篇』中公文庫 1974)

 北海道に住んでいた私は自分を魚の鯤(こん)であると思い、いつか鳥の大鵬に化身して南に向かって羽ばたき、九万里の上空を飛翔することを夢想していました。この『荘子』を愛読していたことが、後に出会った聖書の読み方に大きく影響していると思います。(つづく)
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北の大地への憧れ

2024-02-05 07:25:32 | 荘子と聖書
 少し前からFacebookの私のタイムラインで、荘子と聖書について書き始めました。このブログでは当面の間は、Facebookの記事をこちらに転載することにします。小説はマニアックな方向に進んで行きそうなので、しばらく休載して練り直すかもしれません。Facebookでは、まずは「都ぞ弥生」の歌碑から話を始めました。



 いま住んでいる沓谷(くつのや)1丁目には長源院があり、このお寺の境内には「都ぞ弥生」の歌碑があります。「都ぞ弥生」は北大の恵迪寮(けいてきりょう)の明治45年度の寮歌です。作詞者の横山芳介氏が静岡出身で、この寺にお墓があるという縁があるとのこと。



 たとえ歌えなかったとしても、北大生で「都ぞ弥生」を一度も聞いたことがない者はいないでしょう。それほど愛されている寮歌です(最近のことは定かではありませんが)。歌詞は5番までありますが、歌碑には1番が刻まれています。



都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)
尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の
夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて
星影冴かに光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ


 上記の1番の歌詞には、北の国にあこがれる、まだ北海道に行く前の若者の心情が綴られています。そして私も、北に憧れて北海道に行きました。中学生の頃、図書館(今は歴史博物館がある所)に通って畑正憲さんのムツゴロウシリーズを読み漁っていましたから、北の大地への憧れはかなり大きなものでした。

 そして北海道で学生時代を過ごしたことが、私の聖書の読み方に大きな影響を及ぼすことになりました。今回は、ここまでにしておきます😊
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旧約聖書の神の声は、イエスの声(小説『荘子と聖書』4)

2024-01-29 05:49:11 | 荘子と聖書
旧約聖書の神の声は、イエスの声(小説『荘子と聖書』4)

コトリ「心の容量が大きくなるって、どういうこと?もうちょっと具体的に教えてくれない?」
ジョン「時間を長い単位で考えるようになるということかな。わたしたちは毎日をあくせく苦労しながら暮らしているから、どうしても短い単位、たとえば数時間単位とか数日単位で時間を考えがちだよね。長い人でも数年単位、数十年単位じゃないだろうか?」
コトリ「人は長くても百歳ぐらいまでしか生きられないから、どうしてもそうなるよね。」
ジョン「しかし、聖書は数千年間のことを書いているから、少なくとも数千年単位で時間を考える必要があると思うよう。さらに21世紀の現代の科学は宇宙の誕生を137~138億年前、地球の誕生を45~46億年前と推定しているから、できれば時間を万年、億年の単位で考えて欲しいな。それが、心の容量が大きくなることにつながると思うな。」
コトリ「なるほど、『荘子』の時間のスケールも、空間のスケールと同じくらい壮大だもんね。」

 『荘子 内篇』の逍遥遊篇は、大鳳(大鵬)が九万里の上空を飛翔する様子を描いた後で、次のように記している。前回と同じく金谷治 訳の『荘子 内篇』(岩波文庫)から引用する。

 蜩(ひぐらし)と学鳩(こばと)とがそれ(大鳳の飛翔)をあざ笑っていう、「われわれはふるいたって飛びあがり、楡(にれ)や枋(まゆみ)の枝につきかかってそこに止まるが、それさえゆきつけない時もあって地面にたたきつけられてしまうのだ。どうしてまた九万里もの上空に上ってそれから南方を目ざしたりするのだろう。〔おおげさで無用なことだ。〕と。郊外の野原に出かける人は三食の弁当だけで帰ってきてそれでまだ満腹でいられるが、百里の旅に出る人は人晩かかって食糧の米をつき、千里の旅に出る人は三か月もかかって食糧を集め〔て準備をす〕る。この小さな蜩や学鳩には〔大鳳の飛翔のことなど〕いったいどうして分かろうか。

 狭小な知識では広大な知識は想像もつかず、短い寿命では長い寿命のことは及びもつかない。どうしてそのことが分かるか。朝菌(ちょうきん)〔朝から暮までの命で〕夜と明け方を知らず、夏ぜみは〔夏だけの命で〕春と秋とを知らない。これが短い寿命である。楚(そ)の国の南方には冥霊(めいれい)という木があって、五百年のあいだが生長繁茂する春で、また五百年のあいだが落葉の秋である。大昔には大椿(たいちん)という木があって、八千年のあいだが生長繁茂の春で、また八千年のあいだが落葉の秋であった。〔これが長い寿命である。〕ところが、今や彭祖(ほうそ)は〔わずか八百年を生きたというだけで〕長寿者として大いに有名で、世間の人々は〔長寿を語れば必ず〕彭祖をひきあいに出す、何と悲しいことではないか。(逍遥遊篇)

ジョン「聖書も、心の中で大鳳が飛翔するくらいに心を広くして読まれることを願っているよ。」
コトリ「ジョンが書いた『ヨハネの福音書』も、「初めにことばがあった」(ヨハネ1:1)で始まるから、時間の単位が宇宙スケールだね。」
ジョン「うん。ぜひ、旧約聖書の『創世記』1章を思い浮かべながら読んで欲しいね。」

 もう一度、創世記1章の出だしを引用する。

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

コトリ「この『創世記』1章を思い浮かべながらジョンのヨハネ1章を読むと、『光、あれ』で始まる旧約聖書の神のことばは、すべてイエスのことばであったことが見えて来るんだね。」
ジョン「うん。」
コトリ「それから、僕がものすごく面白いと思ったのは、ジョンが【公】ということばを使って旧約聖書を表していることだよ。」
ジョン「ふふふ、面白いでしょ?」
コトリ「このことが分かった時は、聖書って本当に面白いなと感動に浸ったよ。」

 ここで、コトリが言った【公】とは何のことか、解説しておこう。

 『ヨハネの福音書』の1~11章の深層部には旧約聖書の『創世記』~『マラキ書』が時代順に存在する(詳しくは小島 聡「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」(ヨベル新書 2017)を参照していただきたい)。ちなみに『マラキ書』は旧約聖書の最後の書だ。

 まずヨハネ1章の出だしは『創世記』1章の「天地創造」を表す。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 そして、次のヨハネ11章の記述は旧約聖書が『マラキ書』で閉じられたことを表している。

ヨハネ11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を【公】然と歩くことをせず、そこから荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

 なぜ、「イエスはもはやユダヤ人たちの間を【公】然と歩くことをせず」が『マラキ書』で旧約聖書が閉じられたことを表すのか?それは、イエスが「ことば」だからだ(ヨハネ1:1)。旧約の時代に語られた神のことばは、すべてイエスのことばだ。そして、イエスのことばの中で旧約聖書に記されたものが【公】のことばなのだ。それ以外にも、もちろんイエスは多くのことばを発したはずだが、それらは【非公式】のことばということだろう。

 【公】が旧約聖書の記述を表すことは、ヨハネ7章の記述からも分かる。

ヨハネ7:3 イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。
4 自分で【公】の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」

 このヨハネ7章の最初の1~9節では、イエスはまだ北方のガリラヤにいた。しかし、その後10節で南方のユダヤのエルサレムに上って行った。

ヨハネ7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。

 このヨハネ7章10節のイエスの北から南への移動は、旧約聖書の記述の舞台が北王国から南王国に移動したことを示す。イエスは「ことば」であるから、イエスのいる場所が聖書の記述の舞台になるのだ。イエスがヨハネ7章で北から南へ移動したのは、手前の6章で北王国が滅亡したからだ。ヨハネは6章66節に次のように記して、北王国の民がアッシリアに捕囚として引かれて行ったことを伝えている。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 このヨハネ6:66は、旧約聖書の列王記第二17章の次の記事に対応するものだ。

Ⅱ列王17:6 ホセアの第九年に、アッシリアの王はサマリアを取り、イスラエル人をアッシリアに捕らえ移し、彼らをハラフと、ゴザンの川ハボルのほとり、またメディアの町々に住まわせた。
7 こうなったのは、イスラエルの子らが、自分たちをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王ファラオの支配下から解放した自分たちの神、に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、
8 がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習にしたがって歩んだからである。
(中略)
22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので、
23 は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 上記の列王記第二17章の記述から分かることは、北王国の民自身が神(イエス)から離れて行ったということだ。神から離れたくないのに無理やり引き裂かれたのではなく、彼らが自ら不信仰の道を歩んで神から離れて行ったのだ。それゆえヨハネはそれを6:66の表現で書き表したのだ。もう一度、引用しよう。

ヨハネ6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 そうして北王国が滅亡したことで、聖書からは北王国についての記述が途絶えた。列王記第二18章以降のイスラエルについての記述は専ら南王国のことだけになる。聖書の舞台が北王国から南王国に移動したのだ。ヨハネ7章のイエスの北から南への移動は、以上のように聖書の記述の舞台の北から南への移動に伴うものだ。

コトリ「この北王国の滅亡は、天の父とイエスにとっては本当に悲しいことだったことが、ジョンのヨハネ6:67から分かるね。」

ヨハネ6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」(新改訳第3版)

ジョン「うん。人の心が離れ去って行くことは、神にとっては本当につらいことなんだ。『荘子』の大鳳(大鵬)のスケールで聖書を読むなら、このヨハネ6:66~67のイエスの深い悲しみは北王国滅亡の時の悲しみだということが分かると思うよ。」
コトリ「聖書の読者の多くが、これらのことが分かるようになる日が、早く来ると良いね。」
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神が備えた巨大な皮袋(小説『荘子と聖書』3)

2024-01-22 11:50:55 | 荘子と聖書
神が備えた巨大な皮袋(小説『荘子と聖書』3)

「『ひと休み』と言いながら、もうだいぶ休んでいるよ。そろそろジョンの『ヨハネの福音書』と『荘子』との関係について話してくれない?」
「ごめん、ごめん。実を言えばわたしも何から話したら良いか分からずにいるんだよ。何しろ、『荘子』は壮大だからね。下手に話すと、せっかくの壮大な話を小さく縮めてしまうからね。」

 そう、『荘子』は冒頭から壮大だ。本稿では金谷治訳の岩波文庫から『荘子』を引用することにする。

 北の果ての海に魚がいて、その名は鯤(こん)という。鯤の大きさはいったい何千里あるか見当もつかない。〔ある時〕突然形が変わって鳥となった。その名は鳳(ほう)という。鳳の背中は、これまたいったい何千里あるか見当もつかない。ふるいたって飛びあがると、その翼はまるで大空一ぱいに広がった雲のようである。この鳥は、海の荒れ狂うときになると〔その大風に乗って飛びあがり、〕さて南の果ての海へと天翔(あまかけ)る。南の果ての海とは天の池である。(内篇・逍遥遊篇)

「『荘子』の出だしは本当に壮大だね。でも、ジョンの『ヨハネの福音書』の出だしも同じく壮大だね。」

 『ヨハネの福音書』は次の書き出しで始まる(本稿の聖書は新改訳2017から引用する)。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

「ジョンの福音書の壮大な書き出しを読むと、創世記の書き出しを自動的に思い起こすね。」

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

「聖書を読む時は、できるだけ心の容量を大きくして、スケールの大きな神様を感じながら読む必要があると思うんだ、コトリ。」
「『ヨハネの福音書』の書き出しには、そういうジョンの思いが込められているんだね。」
「うん。そして、『荘子』も同じだよ、コトリ。『荘子』の出だしの逍遥遊篇は心の容量を最大限に大きくする働きがあるんだよ。」
「でも、聖書を知らない荘子が、どうしてこんなにも壮大な書を書くことができたんだろうね?」
「そのことなんだけどね、コトリ。そこには天の神様の働き掛けがあったのではないか、という気がしているんだよ。わたしは神ではないから、確信があるわけではないけどね。」
「どういうことなの?ジョン。」
「荘子が生きた時代は紀元前300年頃で、それは聖書の中間時代のちょうど只中にあるんだよ。」
「中間時代って、旧約聖書の最後の書の『マラキ書』が書かれてからイエス・キリストが誕生するまでの約400年間のことだよね、ジョン。」
「うん。『空白の400年間』と呼ばれることもあるね。」
「『神が沈黙していた時代』と教会の説教で聞いたこともあるよ。」
「そうだね。でも、神様は黙って何もしていなかったわけではないと思うんだ、コトリ。イエス・キリストの誕生に向けて神様はいろいろと準備をしていたと思うんだ。」
「例えば?」
「例えば『新しい皮袋』を備えていたとかさ。」

 ジョンが言った「新しい皮袋」とは、イエスの次のことばと関係しているようだ。

マタイ9:17 「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

マルコ2:22 「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

ルカ5:37 「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。38 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければなりません。」

「『新しい皮袋』はね、皮が新しいだけじゃダメなんだ、コトリ。容量も巨大である必要があるんだ。大きくないと、イエスが教えた天の神様についての教えを小さく縮めてしまうんだ。」
「ジョン、それが『中間時代』とどういう関係があるの?」
「天の神様は中間時代に、来たる新約の時代に備えて人々の心の容量が大きくなるよう、熱心に働き掛けていたんじゃないだろうか。対象はパレスチナや地中海沿岸の人々だけとは限らないよ。キリストの新しい教えはいずれは全世界に広まって行くのだから、荘子のような中国人にも働き掛けていたかもしれないよ。」
「でもジョン、荘子は聖書を知らないでしょ?」
「そうだよ。だから荘子が書いた『荘子』は聖書とはだいぶ違う。でも、スケールの大きさは聖書と良く似ているんだ。」
「・・・」

 ジョンの話は荒唐無稽なので、僕は良く分からないでいた。それでもジョンはなおも説明を続けた。

「天の神様は中間時代に、世界中の人々に向けて心の容量が大きくなるメッセージを発した。でも、ほとんどの人はそのメッセージを受け損なった。そんな中、荘子は飛び切り優れた霊感を持っていたので、このメッセージを受け取ることができたんだ。ただし荘子は聖書を知らなかったから、彼独自の受け取り方をして、それが『荘子』という書物として著されたというストーリーなんだけど、どうかな?」
「そういうことか~。何となく分かってきたよ、ジョン。『荘子』の記述が壮大なのは、天の神様が中間時代に世界中に発した心の容量を大きくする働き掛けに荘子が反応したから、というわけか。面白いね。でも、こんな話を21世紀の現代の人々にしても、誰も相手にしてくれないんじゃないかな。」
「ハハハ、そうだね。でも、今の『中間時代説』が合っているか合っていないかは、実はどうでも良いことなんだ。21世紀の人の心の容量が大きくなることが真の目的なんだよ。そのために『荘子』はとても役に立つと思うんだ。『荘子』で皆の心の容量が大きくなれば、わたしの『ヨハネの福音書』の奥義も分かってもらえるんじゃないかと期待しているんだ。」
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目に見えない神についての福音書(小説『荘子と聖書』2)

2024-01-21 14:29:43 | 荘子と聖書
目に見えない神についての福音書(小説『荘子と聖書』2)

「わ~、うれしい。ジョンが一緒に考えてくれるなら百人力だよ。でもね、ジョン。そもそも何でこんなに分かりにくい福音書を書いたの?ジョンがもっと分かりやすく書いていてくれたら、僕がこんな苦労をしなくても良かったのに。」
「ハハハ、ごめんねコトリ。目に見えない神について書いているんだから、そもそも分かりやすく書けるはずがないんだよ。これでも随分と分かりやすく書いたつもりなんだけどね。」
「そうなの?でもさ~、ジョン。いろいろと紛らわしいんだよ。イエスが登場すれば、誰だって『マタイの福音書』、『マルコの福音書』、『ルカの福音書』が描いたのと同じ「地上のイエス」だと思うでしょう?まさか、ジョンの福音書のイエスが「天上のイエス」だとは、なかなか気付かないよ。」
「それはそうだね。でもそれは、わたしだけの責任ではないと思うよ、コトリ。新約聖書の編纂者たちが最初の五つの書の順番を、

『マタイの福音書』→『マルコの福音書』→『ルカの福音書』→『ヨハネの福音書』→『使徒の働き』

としたんだからね。少なくともルカ・ヨハネ・使徒に関しては、

『ルカの福音書』→『使徒の働き』→『ヨハネの福音書』

にして欲しかったよ。」
「確かにそうだね、ジョン。同じ記者が書いた『ルカの福音書』と『使徒の働き』は二つで一つの書のようなものだから、

『ルカの福音書・使徒の働き』→『ヨハネの福音書』

になっていたら、ジョンの『ヨハネの福音書』も少しは分かりやすくなっていたかもしれないね。」
「そうなんだよ、コトリ。ルカの『使徒の働き』は弟子たちの中にいる「天上のイエス」の働きを垣間見せてくれているから、『使徒の働き』の後にわたしの福音書があれば、同じように弟子たちの中にいる「天上のイエス」のことをわたしが書いたんだと気付いてもらえたと思うんだ。」

 そう語るジョンの顔は少し曇っていた。でも、すぐに明るい表情に戻ってジョンは言った。

「でもね、コトリ。これまでも、わたしの福音書は多くの人々の心の平安のために役に立って来たから、それはそれで良かったと思っているよ。そうして、「天上のイエス」についての奥義が広まるなら、さらに役に立つことができるんだから、早くそうなると良いなと思っているよ。」
「ジョンは前向きだね。」
「ハハハ、イエスがいつも共にいるから当たり前だよ。それに、コトリが『荘子』に着目したのは、とても良いことだと思っているから、わたしは大いに期待しているんだよ。」
「そうそう、ジョン。僕はそのことを相談したかったんだよ。ジョンの福音書と『荘子』は壮大さという観点から、とても良く似ていると思うんだ。」
「良いところに気付いたね、コトリ。」
「どうしてジョンの福音書と『荘子』は似ているの?」
「う~ん、ひと言では話せないことだから、ちょっと休憩しようか。」
「じらすね~、ジョンは。」
「あわてない、あわてない。ひと休み、ひと休み。」
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ジョンとコトリ(小説『荘子と聖書』1)

2024-01-21 08:40:44 | 荘子と聖書
ジョンとコトリ(小説『荘子と聖書』1)

「ジョン、来てくれてありがとう。ちょうどジョンに相談したいと思っていたことがあるんだよ。」
「うん、知ってるよ、コトリ。わたしと対話する形式で小説を書きたいとコトリがブログに書いていたから、来てみたんだよ。」
「わ~!ありがとう、ジョン。さっそく僕のブログを読んでくれたんだね。」
「いつも読んでるよ。わたしが書いた『ヨハネの福音書』の奥義を伝えたいとコトリは奮闘してくれているけど、随分と苦労しているよね。」

 そう、「ジョン」は『ヨハネの福音書』の記者のヨハネだ。英語ではヨハネをJohnと言うから、僕も彼を「ジョン」と呼んでいる。そして、「コトリ」は少年時代の僕のあだ名だ。「コトリ」と呼ばれるようになったのは、同級生が僕の名字の「小島(こじま)」を「小鳥(ことり)」と書き間違えて、それを面白がった友人たちが僕を「コトリ」と呼ぶようになったからだ。あだ名は他にもあったけど、ジョンには「コトリ」が発音しやすいんだろう。

「そうなんだよ、ジョン。どうしたらジョンの福音書の奥義を分かりやすく伝えられるか、ずっと悩んでいるんだ。それで、ジョンと対話する形式の小説にすれば、もしかしたら伝わりやすくなるかもしれない、と思ったんだ。」
「なかなか面白そうだね、コトリ。」
「ありがとう、ジョン。」
「わたしの福音書の奥義を、どうしたら多くの人たちに分かりやすく伝えることができるか、ぜひ一緒に考えよう。」
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『荘子と遊ぶ』の対話形式を真似ようかと・・・

2024-01-21 05:47:14 | 荘子と聖書
 昨日の記事でカバーのイラストを紹介した玄侑宗久氏の『荘子と遊ぶ』には、「周さん」という不思議な人物が登場します。周さんは21世紀の現代に現れた荘子のようですが、21世紀の職業は動物整体師なのだそうです。そうして、『荘子と遊ぶ』は周さんと著者の宗久さんが対話する形で話が進められて行きます。周さんはNHKの「100分de名著」の『荘子』にも登場しています。俳優の古舘寛治さんが演じていて、良い味を出しています(NHKオンデマンドで視聴できます)。

 これから、本ブログでの連載を考えている「小説『荘子と聖書』」も『荘子と遊ぶ』を真似て、著者の「僕」とヨハネが対話する形式で話を進めて行こうかな、と考えています。

 さてしかし、対話形式ということだけは決めましたが、全体をどういう構成にしたら良いのか、さっぱり見えて来ません。もしかしたら、全体の構成もまたヨハネと対話する中でアイデアが膨らんで行くかもしれません。

 そういうわけで、次の記事から「小説『荘子と聖書』」の連載を始めてみようかと思います。話がどういう方向に展開して行くのか、ぜんぜん見えませんが、とりあえず始めてみることにします。
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自由な境地へ招く荘子と聖書

2024-01-20 03:22:58 | 荘子と聖書
 今週はNHKの「100分de名著 『荘子』」のテキストを読むのと並行して番組(放送日:2015年5月6日、13日、20日、27日)もオンデマンドで視聴しました。そして、講師の玄侑宗久氏の著書『荘子と遊ぶ』が第1回の放送の冒頭で紹介されていたので、さっそく購入しました。番組で写し出されていたのは2010年刊行の単行本でしたが、買ったのは2019年発行の文庫本です。



 この文庫本のカバーのイラストは、荘子の境地をよく表していると思います。下に見える魚のヒレは巨大な魚の鯤(こん)ヒレ、荘子と思われる人物の背中に生えている羽根は巨大な鳥の大鵬(たいほう)の羽根でしょう。1月15日の2つめの記事でも引用した『荘子』の冒頭部分をもう一度、引用します。

 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。

 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海にうつろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。」(森三樹三郎 訳注『荘子 内篇』中公文庫 1974)

 地上は争い事が絶えず、苦難に満ちています。特に荘子が生きた紀元前の中国は血みどろの争いが繰り広げられていました。福永光司氏は『荘子』(中公新書 1964)の第一章「痛ましいかな現実」で次のように書いています。

 斉の王室の狂乱の歴史を思い、魯の王室の惑溺の歴史を思う荘子は、これらを己れの祖国の宋の王室の狂乱の歴史と思いあわせてまったくやり切れぬ気持になる。どこかが狂っているのだ、と彼は考える。そして、何が彼らを狂わしたのか、とひそかに自問してみる。要するに、彼らが権力の世界に身を置いたからではないのか。権力が彼らの血を狂いたたせ、彼らの行為を狂暴化し、彼らを救いようのない惑溺の中で破滅させたのだ、と彼は自答する。

 権力は人間を狂わせる。それは他人を害い辱めるとともに己れ自らを傷つけ破滅させる狂乱の刃である。権力の世界にさえ身を置かなければ、安らかな生涯を楽しみえたであろう人間でも、ひとたびその渦中に身を置けば驕慢となり放恣となり、独善化し狂暴化し、支配欲と物質欲と名誉欲とに身をこがす。権力の世界は個人の意志と願望を超えた、それ自身のメカニズムの中で人間を翻弄し、狂乱させ、破滅させる。(p.39)

 現代の世界の国家でも同様のことが行われています。また、国家よりも小さな単位の組織においても同様であり、多くの人々が傷つき、倒れ、立ち上がれないでいます。荘子は、このように苦難に満ちた地上を離れて九万里の天空を飛翔して自由な境地を楽しむよう、読者に勧めています。

 とは言え、様々なことに縛られている私たちはそう簡単には荘子のような自由な境地には至れません。イエス・キリストはこのように地上で苦しむ私たちに寄り添って下さり、生きる力と希望を与えて下さるお方です。教会では、このように地上の私たちと共にいて下さるイエス・キリストのことが語られます。これは、素晴らしい恵みです。しかし、少し前の記事でも書きましたが、この恵みばかりが語られることに私は違和感を覚えています。聖書は、私たちもまた荘子のように自由な境地に至ることができることを示しているからです。今回は新約聖書の『エペソ人への手紙』から引用しましょう。

エペソ3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 エペソ書は「獄中書簡」と呼ばれる四つの手紙の中の一つです。この手紙を書いた時のパウロは、ローマで囚われの身となっていました。いわゆる軟禁状態にあって自由に出歩くことができませんでした。しかし、パウロの魂はまったく自由でした。それは、この『エペソ人への手紙』を読めば分かります。これほどまでの壮大な記述ができたのは、パウロの心の内が自由であったからです。パウロは心の中で大鵬のように九万里の上空を飛翔していたと言っても良いでしょう。

 聖書を読めば、私たちもまたパウロや荘子のように九万里の上空を飛翔して自由な境地の一端を味わうことができます。このことが教会でもっと語られても良いのではないでしょうか。(つづく)
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そっくりの荘子と聖書

2024-01-19 05:08:42 | 荘子と聖書
 このブログで「荘子と聖書」についての連載を始めようかなと思い付いた時、最初に手に取ったのはNHK「100分de名著」のテキストでした。下の写真の一番大きな本です。



 実は、このテキストは書棚にはあったものの、読んだことがありませんでした。NHKの番組も見ていませんでした。沼津にいた頃に、いろいろな訳者・著者の『荘子』と『老子』の訳本・解説本を買い漁ったことがありました。短い期間に多くの本を買ったので、このNHKのテキストの『荘子』は読みそびれていたようです。目次を開くと、次のように書かれています。



【はじめに】 心はいかにして自由になれるのか
第1回 人為は空しい
第2回 受け身こそ最強の主体性
第3回 自在の境地「遊」
第4回 万物はみなひとしい

 この第1~4回のタイトルは、私から見れば聖書の内容そのものです。

1.人為は空しい
 聖書は神様中心の生き方を勧めます。それは、「人為は空しい」からです。旧約聖書の『伝道者の書』の記者は冒頭で次のように記しています。

伝道者1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。

 そして、記者は次のことばで書を閉じます。

伝道者12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。


 『伝道者の書』は難解な書というイメージがありますが、『荘子』をガイドラインにすれば随分と分かりやすくなるかもしれません。

2.受け身こそ最強の主体性
 クリスチャンは、自分の人生は神様から「与えられた」ものであると考えます。自分の命は神様に与えられたものであり、衣食住も神様によって与えられたものです。何かを思い付けば神様からアイデアを「示された」と考え、苦難に遭えば試練を「与えられた」と考えます。すべてが神様中心ですから、言葉遣いも「受け身」を多用します。この点でも荘子の教えと聖書の教えは良く似ています。

3.自在の境地「遊」
 聖書の『ヨハネの福音書』には遊び心が各所にあります。例えば、

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 この「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」というイエスのことばは、下記のように創世記で神(その人)がヤコブに対して言ったことばです。

創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」

 ヤコブはかつて父のイサクに対して「エサウです」(創世記27:19)と言って自分を偽りました。しかし、神と闘った時には偽らずに「ヤコブです」と答えたので、「イスラエル」という新たな名前が与えられました。

 このように聖書には遊び心があるので、読者も自在の境地「遊」で聖書を読まないと、大切なメッセージを読み落とすことになってしまいます。

4.万物はみなひとしい
 『荘子』は大鵬が飛翔する九万里の上空から地上を見れば万物はみなひとしいと説きます。天におられる神様にとっても、地上にいる私たちは皆ひとしく、区別はありません。私たち人間は塵から造られ、簡単に割れてしまう陶器ですから、物に等しいとも言えます。天上の視座から地上を見る点においても、荘子と聖書はそっくりです。

 きょうも勤務があるので、十分な解説ができていませんが、こんな感じでぼちぼち書いて行こうと思います。(つづく)
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小説『荘子と聖書』を始めようかと・・・

2024-01-18 05:58:58 | 荘子と聖書
 小説『荘子と聖書』なるものを始めようかな、と思っています。

 これまで、新しいシリーズを始めては途中で頓挫することを繰り返して来たので、今回も中断するかもしれません。でも、なるべくそうならないように、今回は準備を少し入念にしようかなと思います。シリーズが中断するのは、思い付きで走り始めて、途中で息切れするからです。ですから、ぼちぼち始めるという感じが良いのかなと思います。参考文献は、下の写真の書を考えています。



 これらの書物についての簡単な解説も、ぼちぼちやって行こうかと思います。きょうは勤務があるので、これぐらいにしておきます。(つづく)
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天に昇ったパウロと大鵬(荘子と聖書 2)

2024-01-15 10:42:59 | 荘子と聖書
『荘子と聖書』(2)
~天上で安らぐ大鵬とイエスの弟子たち~

天に昇ったパウロと大鵬
 2001年に教会に通うようになってから、私はたくさんの説教を聴いたり読んだりして来ました。特に神学生だった2008~2012年の4年間は説教を聴く(読む)機会が多かったですし、2012年に牧師になって以降も自分の説教づくりの参考にするために、名説教者と呼ばれる先生方の説教を聴く(読む)ようにして来ました。

 名高い先生方の説教は本当に素晴らしく、心が洗われる思いがします。そういう説教を聴く(読む)なら、神様を身近に感じることができましたから、とても感謝に思いました。ただ正直を言えば、ここ何年かは若干の違和感を覚えるようになっていたこともまた、確かでした。この世で苦しむ私たちにイエス・キリストは寄り添って下さり、平安を与えて下さいます。この恵みを語る説教のほとんどが、福音書に書かれている「地上のイエス」が私たちに寄り添うイメージで語られます。これは確かに素晴らしい恵みですが、私たちが「天上のイエス」と交わることで得られる深い平安についても、もう少し語られても良いのではないか、これがここ何年かで私が抱くようになった違和感です。

 たとえばヨハネの手紙第一1章の3節で語られている「御子イエス・キリスト」とは「天上のイエス」の筈です。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 イエスが地上にいたのは紀元1世紀の初めの約30年間だけです。この約30年間を除けば、イエスはずっと天上にいます。ですから、この手紙が書かれた1世紀の終わり頃のイエスももちろん、「天上のイエス」です。このようにヨハネは、天上の御父と御子イエス・キリストとの交わりに私たちを招いています。これは、本当に素晴らしい恵みです。この恵みに私たちは与ることができます。たとえばパウロは、この恵みに与ったことをコリント人への手紙第二の12章で告白しています。

Ⅱコリント12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました

 パウロほどの強烈さではないかもしれませんが、私たちもまた聖霊を受けるなら、多かれ少なかれ、このような天上に引き上げられる神秘体験が可能です。たとえば前回の記事でも引用したヨハネ4章1~2節、

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

 この箇所で「天上のイエス」を感じることができるなら、私たちは地上にいながらにして「天上のイエス」と結び付いています。そうして、パウロほど強烈ではないにして、自分が天上に引き上げられて御子イエス・キリストと交わっていることを感じることができます。

 この天上の御子イエス・キリストと交わる恵みが、なかなか共有できないでいます。どうしてでしょうか?そこで思い至ったのが、『荘子』を愛読していた私だから天上を思い描きやすいのではないか、ということです。『荘子』は次のような書き出しで始まります。学生時代に愛読していた森三樹三郎 訳注の『荘子 内篇』(中公文庫 1974)から引用します。

 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池とよばれるものである。

 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、かれは次のように述べている。「鵬が南のはての海にうつろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。」

 このように壮大なスケールで天を飛翔する大鵬の姿を思い浮かべるたびに、私はうっとりとして、心の平安をもらっています。そして最近になって、この『荘子』が旧約聖書と新約聖書とのつなぎ役になるのではないかと、強く思うようになりました。このことについては、次の記事以降で少しずつ明らかにして行きたいと思います。(つづく)
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