平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

心と思いを一つにしていた教会員たち(2016.8.28 礼拝)

2016-08-29 07:56:35 | 礼拝メッセージ
2016年8月28日礼拝メッセージ
『心と思いを一つにしていた教会員たち』
【使徒4:32~37】

はじめに
 きょうは使徒の働き4章の2回目の学びです。前回は4章の前半を見ました。3章でペテロは神殿の門で足がなえた人を癒しました。そうしてペテロとヨハネは神殿の中に入って行き、説教を始めました。ペテロたちは神殿の中で力強くイエス・キリストを宣べ伝えました。しかし、イエスは十字架の死刑になった罪人でした。その罪人が救い主のキリストであるという説教を神殿の中でされては、祭司たちは放っておくわけにはいきませんでした。そこで祭司たちはペテロとヨハネを捕らえました。
 そうしてペテロとヨハネを捕らえた翌日にユダヤ人の指導者たちが集まり、ペテロとヨハネに尋問し、彼らをどうしようか相談しました。そして出した結論が、彼らがイエスの名によって語ったり教えたりすることを禁じることでした。18節から見て行きます。

4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。

 それに対してペテロとヨハネは答えました。19節と20節、

4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

 先週はここまでを見ました。聖霊を受けてイエスの証人となったペテロたちは、自分の見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかないほど聖霊の力を受けていました。イエスの証人が受ける聖霊の力はこれほどに強く大きなものです。私たちもまたイエスの証人になって力強くイエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。

聖霊に満たされた教会員たち
 続いて、21節から見て行きます。

4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。

 これは、なかなか興味深い記述ですね。この21節によれば、ユダヤ人の指導者たちは神ではなく人を見ていたということになります。神を第一にしていたと思いきや、さにあらずで、人々のことをとても気にしていたということです。人々からの評判が悪くなると、指導者としての地位が危なくなるからでしょうか。
 これはローマの総督のピラトが取った行動に似ていますね。ピラトはイエスを十字架に付ける必要はないと考えていましたが、人々の「十字架に付けろ」という声の大きさに押されてイエスを十字架に付けることにしました。もし暴動にまで発展してしまったら、統治能力が無いとローマの皇帝に判断されて総督としての地位が危なくなるからでしょう。
 ユダヤ人の指導者たちも、もしペテロたちを厳しく罰することで大きな騒ぎに発展するようなことがあると、ローマの介入があることを恐れたのでしょうか。しかし、もし本当にイエスがただの罪人で決してキリストではないと信じていたなら、神をあがめていた人々を、それはおかしなことだと説得すればよいと思います。このユダヤ人の指導者たちも、もしかしたらイエスがキリストであるかもしれないと半分ぐらいは思っていたのでしょうか。或いは、あまりに世俗にまみれていて、信仰心に基づいて判断することができなかったのでしょうか。いずれにしても当時のユダヤ人の指導者たちの信仰が非常に中途半端であった様子が見て取れるように思います。
 さて、こうしてペテロとヨハネは釈放されました。23節と24節、

4:23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
4:24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。

 この祈りのことばの部分を今日は省略して、31節に飛びます。31節、

4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

 一同は聖霊に満たされました。ここでも聖霊の力が大きく働いていたことがわかります。次いで32節と33節を交代で読みましょう。

4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

 まず33節を見ると、「使徒たちは主イエスの復活を非常に力強くあかしし」とありますから、使徒たちはまさに「イエスの証人」になっていたのですね。このように「イエスの証人」には聖霊の強い力が与えられ、大きな恵みもまた与えられます。

失われる兄弟愛
 そして32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして」いました。きょうは、この初代教会の教会員たちが心と思いを一つにしていたことに注目したいと願っています。
 彼らは聖霊に満たされていましたから、御霊の一致を保っていました。これは素晴らしいことです。私たちもそのように御霊によって一つになりたいと思います。
 ただし先回りして言っておくと、使徒の働き6章1節には、こんな記述があります。

6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

 教会の中では早くも苦情が出るようになっていました。そうすると、もう一つになっているとは言えないのではないかなと思います。私たちが一つになることは、本当に難しいことです。少し前に、新約聖書の手紙には兄弟愛を持つように勧めることばがたくさんあることを話しました。つまりそれは、教会員たちがなかなか兄弟愛を持つことができないでいたことを示します。最初は良かったのかもしれませんが、次第に兄弟愛を失っていったのでしょう。
 黙示録のエペソの教会への手紙にも、「あなたは初めの愛から離れてしまった」という記述があります。黙示録2章の1節から5節までを、交代で読みましょう。

2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 4節に「あなたは初めの愛から離れてしまった」とあります。この「初めの愛」とは何なのか、具体的なことは書かれていませんが、この「初めの愛」には兄弟愛も含まれているのではないかなと思います。それは先ほども言ったように、新約聖書の色々な手紙で兄弟愛を持つことを勧めているからです。
 一体どうして私たちはこんなにも一つである状態を保つことがこんなに難しいのでしょうか。なぜ一つになったと思ってもまたすぐにバラバラになってしまうのでしょうか。皆が御霊の一致を保っていればバラバラになることはないはずですが、すぐに御霊の一致を保つことが難しくなるようです。

保つのが難しい高いレベルの霊性
 私は、それは聖霊に満たされた状態を維持するのが難しいからだろうと考えます。いつもいつも聖霊に満たされているのは至難の業なのだと思います。以前も何度か話したことがあると思いますが、神様との関係を強め、そして維持することはスポーツや楽器で高いレベルを維持するのと、そんなに変わらないのだろうと私は考えています。
 ピアノやヴァイオリンのプロの演奏者は、一日練習を休むと腕が落ちるそうです。そうして腕が落ちた分を取り戻すには何日も掛かるということです。高いレベルに到達しても、練習を怠るとそのレベルを維持することはできないのですね。聖霊に満たされるのも、霊的に高いレベルに引き上げられることですから、霊的に高いレベルの状態を保つのは非常に難しいと言えるでしょう。
 これも以前話したことがあると思いますが、私は神学院に入る前は剣道の稽古をしていました。ただし大体において週に1回ぐらいしか稽古ができていませんでした。しかし、試合の前や昇段審査の前には週2回か3回は稽古をするようにしていました。週に2回は稽古をしていないと剣道にならないからです。
 週1回の稽古では剣道とは言えず、ただ竹刀を振り回すだけの体操だと言わざるを得ません。週1回では体が思うように動きませんから、相手に面を打つ場合でも、「さあ、これから打つぞ」と脳が体に指令を出してからヨイショと打つ感じです。相手に打たれる場合も、相手の動きがほとんど見えませんから、いつの間にか打たれてしまいます。これでは、剣道とは言えないでしょう。
 それが週2回の稽古だと脳から出る指令と体の動きが同じくらいになります。脳で「打て」と指令を出すと同時に体が動くようになります。そしてさらに週3回以上の稽古だと脳から「打て」と指令を出す前に動物的に体が動いて自然に技が出るようになります。また相手の動きもよく見えるようになります。そうして相手の動きに反応することができるようになります。
 このように剣道では週1回しか稽古しないのか、2回なのか、3回以上なのかで全然違って来ます。週1回ではただ竹刀を振り回すだけの体操であり、2回目以上で初めて剣道らしくなります。
 神様との間で霊的な関係を築くことも、週1回神様と向き合うだけでは強い関係を築くことは難しいでしょう。ですから教会に来ない日でも各家庭で祈り、毎日聖書を開く習慣を持っていただく必要があります。そして週1回は教会に来て神様に霊的な礼拝を捧げる必要があります。この霊的な礼拝を深めるために、私たちは霊的な雰囲気を持つ礼拝堂を是非とも建設したいと思います。私たちが聖霊に満たされやすい雰囲気を持つ礼拝堂を是非とも持ちたいと思います。そうして私たちの教会は霊的なレベルの高い状態を長い期間維持できる教会でありたいと思います。

おわりに
 きょうは8月の第4聖日で、来月からは9月に入ります。来年の7月の始めに着工するためには、年内には礼拝堂の資金計画を取りまとめ、設計の大枠も決めなければなりません。時間はあっという間に過ぎて行くことを感じます。
 どのような礼拝堂にするにせよ、私たちが建設する礼拝堂は、私たちが聖霊に満たされて一つになることができる礼拝堂でなければならないと思います。それも最初のうちだけ聖霊に満たされるのでなく、これからもずっと、いつまでも聖霊に満たされ続ける教会でなければならないと思います。そうして私たちはイエス・キリストの証人となって、イエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
 そのような礼拝堂を主が与えて下さいますよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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もう一度一つになるための出発

2016-08-25 18:23:22 | 祈り会メッセージ
2016年8月24日祈り会メッセージ
『もう一度一つになるための出発』
【創世記12:1~4、ヨハネ8:58】

創世記12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

ヨハネ8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは、『もう一度一つになるための出発』です。
 先週の一週間前の前回の祈り会と3日前の礼拝のメッセージで話しましたが、私はNHKの番組の『ふたりの贖罪』を見て、自分の体験を基にした伝道が大きな力を持つことを感じました。そして、これからは私も、もう少し自分の体験を織り交ぜながらメッセージを語って行くことを考えたいと思っています。いつもそうできるとは限らないと思いますが、先ずはそう思った直後のきょうのメッセージはそのようにしたいと思わされています。

昔のことが昔でなくなる聖霊の働き
 きょうのメッセージの基になる私の体験は、もう既に何度か証したことがある体験ですが、「私が信仰を持ってから、昔のことが昔のことではなくなった」という体験です。私が北大の学生だった10代から20代の時、私は「Boys be ambitious」で有名なクラーク先生のことを100年前の大昔の人物だと思い、そんなに身近に感じることはありませんでした。それは30代においても変わりありませんでした。しかし2001年に40代でクリスチャンになった後、2003年に北大を訪れた時、クラーク先生をすごく身近に感じるという体験をしました。そしてクラーク先生のことをわずか100年前の人物だと思うようになっていました。それは私が聖書の人物をとても身近に感じるようになっていたからです。2000年前のイエスの時代の人々や3000年以上前のアブラハムやモーセ、ダビデなどを身近に感じるようになっていましたから、100年前のクラーク先生は、本当につい最近の人だと思うようになっていました。
 この2003年という年は、高津教会では藤本満先生による『祈る人びと』の説教のシリーズが始まった年でした。まずアブラハムからこのシリーズの説教は始まりました。当時私はまだ聖書通読を始めていませんでしたから、アブラハムのことはこの説教によって初めて知りました。そうして私はアブラハムの物語に引き込まれ、アブラハムの時代を身近に感じるようになっていました。
 この、昔のことが昔のことではなくなり、身近に感じるようになるのは聖霊の働きによるというのが私の考えです。聖霊の働きの一つにこのような時間感覚に変化を与えるという働きがあることは、これまで特には言われて来なかったことです。ただしクリスチャンは皆、2000年前の十字架の出来事を身近なこととして感じていますから、聖霊の働きに時間感覚に変化を与える働きがあることは、皆、薄々は何となく感じていることだと思います。しかし、この聖霊の時間感覚への働きはあまり言われていません。私は今、このことをもっとしっかりと伝えるようにすることが私に与えられた役割だと感じています。このことをしっかりと伝えて行くことで、やがてはヨハネの福音書の永遠観も理解されるようになるだろうと感じています。

イエスが共にいるから身近に感じる
 さて、では聖霊を受けるとどうして昔のことが昔のことでなくなるのか、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。その鍵となるのが、先ほどご一緒に読んだ、ヨハネ8:58のイエスさまのことばです。もう一度お読みします。

ヨハネ8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 ここでイエスさまはアブラハムが生まれる前から自分はいると自身で言っています。ですから創世記12章で神がアブラムにハランの地を出発してカナンに向かうように声を掛けた時、イエスさまもそこにおられたわけです。イエスさまはアブラムと共にいました。そしてイエスさまは私たちとも共にいて下さいます。このことを私たちは聖霊の働きによって感じています。そしてイエスさまは永遠の中を生きておられますから、アブラムと共にいるのと同時に私たちとも共にいます。
 クラーク先生も同じことです。クラーク先生は札幌農学校の一期生たちに聖書を教えて、イエス・キリストを宣べ伝えました。それゆえ、この重要な働きをしたクラーク先生には当然、イエスさまが共にいました。そして私にもまたイエスさまが共にいて下さいます。私がクラーク先生を身近に感じるのは、それゆえです。このように私たちは神に仕えた人々のことを身近に感じるようになっています。このことを私は私自身の体験を織り交ぜて、もっとしっかりと伝えて行きたいと願っています。
 さて、きょうはさらにもう少し、この聖霊の働きについての学びを深めたいと願っています。神様は聖霊の働きによって、私たちが創世記12章のアブラムのことを身近に感じるように為さっています。それは何を期待してのことだろうか、ということをもう少し考えてみたいと思います。

もう一度一つになるための出発
 イスラエルの歴史はアブラハムから始まりました。これはご一緒に見た通り、創世記12章での神のアブラムへの言葉から始まりました。しかし聖書にはそれ以前にも創世記1章から11章までの記述があります。それで今日は、創世記12章の手前の11章も開きたいと思います。11章の前半には有名なバベルの塔の話があります。創世記11章の1節から9節までを交代で読みましょう。

創世記11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 こうして、もともと一つの民、一つのことばであったのが神様によってバラバラにされました。
 しかし、新約聖書を読むと神様は私たちに一つになるように教えています。私たちの今年の聖句である、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」もそうですね。私たちはイエスさまのもとで一つになることが求められています。
 すると創世記12章の主のアブラムへのことばは、バベルで一旦バラバラにされた人類が、もう一度イエスさまのもとで一つになることができるようにするための出発のことばであったことが見えて来ます。バベルの塔の時代、人類はあまりに身勝手になり、増長していました。そこで神様は一旦人類をバラバラにし、もう一度一つになることができるよう、アブラムに出発を促してイスラエルの歴史が始まりました。そうしてイエスさまの十字架のもとで一つになることができるようになさいました。
 ヨハネの福音書12章32節と33節でイエスさまは、このようにおっしゃっています(新約聖書p.205)。

ヨハネ12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

 イエスさまは十字架にすべての人を引き寄せるとおっしゃいました。この十字架の働きは現代においても、なお続いています。そしてイエスさまは、私たちが一つになることができるよう、天の御父に祈って下さっています。最後に、ヨハネの福音書17章の22節と23節を交代で読んで終わりたいと思います(新約聖書p.217)。

ヨハネ17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 もし聖霊の働きが無ければバベルの時代、アブラムの時代、イエスさまの時代はあまりに昔のことですから私たちは身近に感じることはできないでしょうし、これらの出来事を一つのことを考えることはできないでしょう。しかし私たちは聖霊の働きによって、これらの出来事をひとまとまりの事柄として受け取ることができますから、本当に感謝なことだと思います。

おわりに
 この聖霊の働きをさらに深く理解して、いまだにバラバラである世の中が一つになり、平和な世界を作って行くことができるように働いて行きたいと思います。そのために、この教会の働きも用いられますよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りしましょう。
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私たちは証言しないわけにはいかない(2016.8.21 礼拝)

2016-08-22 19:28:12 | 礼拝メッセージ
2016年8月21日礼拝メッセージ
『私たちは証言しないわけにはいかない』
【使徒4:13~20】

指導者たちの前で堂々と語ったペテロ
 今週から使徒4章の学びに入ります。聖書朗読では1節から読むと少し長くなるので、司会者には13節から読んでいただきましたが、1節から見て行くことにします。まず1節、

4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、

 ここでは、3章からの場面が続いています。3章ではペテロが神殿の中で人々にイエス・キリストを宣べ伝えていました。すると、祭司たちや宮の守衛長たちがやって来ました。2節と3節、

4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。

 神殿の中で勝手なまねをするなというわけですね。イエスは十字架で死刑になった罪人です。その罪人が救い主のキリストなどという異端の教えを説くことなど、祭司たちから見れば、けしからんことでした。しかし4節、

4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

 ペテロたちの証言を信じた人たちはどんどん増えていました。祭司たちは、ペテロたちが神殿の外で説教をしていた間は放っておきましたが、神殿の中で説教を始めたとなると、もう放っておくわけにはいかなくなったのですね。5節と6節、

4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。

 ユダヤ人の指導者の主だった人々は皆、エルサレムに集まりました。そして大祭司の一族もみな出席しました。そして使徒たちに尋問しました。8節、

4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 ペテロは聖霊に満たされていました。これが、まず注目すべき点です。

イエスの証人に与えられる聖霊の力
 これまでにも、ペテロが力強くイエス・キリストを宣べ伝えたのは聖霊の力を受けたからだということを話して来ましたが、2章から3章、3章から4章へと移るたびにペテロの力強さは増し加わって行きました。
 2章では、弟子たちが集まっていた場所で聖霊が注がれ、そこでペテロは説教を始めましたから、それはエルサレムの中心からは少しはずれた場所ではなかったかと思います。しかし、3章においては、神殿の中というエルサレムの中心中の中心でペテロは力強い瀬教を行いました。そして、きょうの4章では、ペテロはユダヤ人の指導者たちの前で堂々と弁明を始めました。何度も見ましたが、イエスさまが逮捕された時にはペテロは大祭司の家の庭でこそこそしていて、イエスさまのことを三度「知らない」と言っていたのです。そんなペテロが大祭司たちの前で堂々とイエス・キリストについて語っています。
 聖霊の力はイエス・キリストの証人になろうとする者に与えられます。それは1世紀のペテロたちの時代も、21世紀の現代の私たちの時代も変わりません。イエス・キリストの証人になろうとする時、私たちは聖霊の力を受けます。
 ですから、これから私たちがこの地域で力強く伝道して行くために、どうしたら良いかと言えば、それは私たちがイエス・キリストの証人になれば良いということになります。そうすれば私たちは聖霊の力を受けますから、教会の働きも用いられ、祝福されるのではないでしょうか。
 来月から毎月第一聖日の礼拝で、普段の生活の中でイエスさま、或いは神様が共にいて下さると感じた時の証をしていただきたいと願っています。そうして私たちの一人一人がイエス・キリストの証人になることで、私たちの教会は聖霊の力が働く教会になることと思います。
 私自身で言えば、私は神学院に入ってから、聖霊の力をとても感じるようになりました。ですから、神学院に入って以降の神様が共にいて下さることの証なら、たくさんできます。しかし、それではあまり皆さんの参考にならないかもしれませんから、私が高津教会の一般信徒だった時に、どんな時に神様が共にいて下さると感じていたかを、少し思い出して話してみたいと思います。思い出すと言っても色々な機会にこの教会でも一度は話したことがほとんどだと思いますが、いくつか挙げてみたいと思います。

神が共にいて下さると感じた時
 まず一つめ、私は高津教会に通い始めて間もなく、自分がこの教会に導かれていたことを感じましたから、そこに神様の存在を感じていたと思います。
 二つめには、私は教会に通うようになる前から、誰かに守られていることを感じていました。それが仏教の仏様なのか神社の神様なのか、ご先祖さまの霊なのか誰なのかはわかりませんでしたが、とにかく自分は守られていることを感じていました。そして高津教会に通うようになって間もなくして、自分を守っていたのが聖書の神様だったことを知りました。まったく想定していませんでしたが、聖書の神様が自分を守って下さっていたとわかった時に心の平安を感じたように思います。こうして私は神様を身近に感じるようになったと思います。
 三つめには、信仰を持ってから私は、時間の中での漂流感が全くなくなるという経験をしました。私は20代のほとんどを北海道で過ごしました。その20代の頃のことを30代の頃の私はとても愛しく思っていました。しかし、時間の速い流れの中で20代の頃の思い出はどんどん遠ざかって行きます。その遠ざかって行く過去を振り返っては、私は感傷に浸っていました。そして時間の速い流れの中で自分がどこに向かっているのかはわからずにいました。自分がこれからどこに行こうとしているのかがわからずに、ただ時間の中を漂流していました。それが信仰を持ったことで、その漂流感がぴたりとなくなりました。こうして私は神様が共にいて下さることを、よりしっかりと感じるようになりました。
 四つめには、昔のことを昔のことと感じなくなったことが挙げられます。これは信仰を持った後で北海道に行った時に感じたことですが、私は北大の学生の頃は、札幌農学校のクラーク先生のことを100年前の大昔の人物と思っていましたから親近感は特には感じていませんでした。それが信仰を持った後で北大を訪れた時、クラーク先生のことをたった100年前の最近の人物と感じるようになっていました。それは聖書を読むようになったことで2000年前のイエスさまの時代の人々や3000年以上前のモーセやアブラハムなどを身近に感じるようになっていたからです。聖書の人物を身近に感じているのですから、100年前のクラーク先生は、つい最近の人と感じるようになっていました。
 五つめには、広島の原爆資料館に行った時のことを挙げたいと思います。それは信仰を持ってから約4年後の2005年の夏でしたが、原爆資料館の展示品を見て、こんなにもひどいことを為し得る人間の邪悪さに打ちのめされていた時に、マタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」のみことばが心に響いて来ました。そして私は資料館を出た後、平和公園の中のベンチに座り、持っていた携帯用の聖書を開いてこの箇所を確認し、長い時間ベンチで過ごしながら「私を平和のために用いてください」と祈りました。この体験が、3年後に神学院に入学することにつながりました。

力強く伝道した淵田とディシェイザー
 私の体験を話すことは、今日はこれぐらいにしておきますが、私はこれらの一般信徒だった時の体験や、さらには神学生の時の体験、そして牧師になってからの体験をもっと証したほうが、より聖霊が働いて下さるのかなと思い始めています。そう思うきっかけになったのは、先週の月曜日、すなわち終戦の日の15日にNHKで放送された『ふたりの贖罪』という番組を見たことでした。この番組のことは、先日の祈祷会でも話しましたから、短く話すにとどめますが、NHKのホームページに、この番組の紹介として次のように書いてあります。

(ここから引用)
 憎悪が、世界を覆い尽くしている。どうすれば、憎しみの連鎖を断ち切ることができるのか。その手がかりを与えてくれる2人の人物がいる。70年前、殺戮の最前線にいた日米2人の兵士である。
 「トラトラトラ」を打電した真珠湾攻撃隊の総指揮官、淵田美津雄。その後もラバウル、ミッドウェーを戦い、戦場の修羅場をくぐってきた淵田だが、1951年、キリスト教の洗礼を受け、アメリカに渡り、伝道者となった。
 淵田が回心したのは、ある人物との出会いがきっかけだった。元米陸軍の爆撃手、ジェイコブ・ディシェイザー、真珠湾への復讐心に燃え、日本本土への初空襲を志願、名古屋に300発近くの焼夷弾を投下した。そのディシェイザーもまた戦後キリスト教の宣教師となり、日本に戻り、自分が爆撃した名古屋を拠点に全国で伝道活動を行った。
 戦争から4年後の冬、ふたりは運命の出会いを果たす。ディシェイザーの書いた布教活動の小冊子「私は日本の捕虜だった」を淵田が渋谷駅で偶然受け取ったのだ。以来ふたりは、人生をかけて贖罪と自省の旅を続ける。淵田はアメリカで、ディシェイザーは日本で。
 ふたりの物語は、「憎しみと報復の連鎖」に覆われた今の世界に、確かなメッセージとなるはずである。
(引用ここまで)

 この番組を見て私が感じたことは、やはり自分の体験に基づいた伝道というのは力があるなということでした。伝道に力があるということは、聖霊の力が働いているということだと思います。この番組の二人、ディシェイザーと淵田は共に、自分の心の中に激しい憎しみの感情を抱えていました。それが聖書に出会ったことでその憎しみの感情を消すことができました。その体験を伝道で伝えていました。偶然ですが、二人ともルカ23:34の十字架のイエスさまのことばの「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」に強く心を動かされたことによって、赦すことができる者に変えられていました。そうして二人はそれぞれの伝道の地で、人を赦すことの大切さを熱心に説きました。このように二人は十字架のイエスさまの証人になりました。それゆえに聖霊の力が与えられて力強い伝道ができたのだと言えるのだと思います。この二人には十字架のイエスさまに出会った自分の体験を証言しないわけにはいかないという強い気持ちが聖霊によって与えられていました。

証言しないわけにはいかない
 そしてペテロもまた、聖霊の力によって証言しないわけには行かないという思いになっていました。使徒の働きに戻ります。使徒4章20節です。

4:20 「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

 先ほど8節まで読みましたが、少し飛ばして15節からまた見て行きます。15節、

4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。

 彼らというのはユダヤ人の指導者たちです。16節から18節、

4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。

 このようにユダヤ人の指導者たちはペテロたちに、イエスの名によって語ったり教えたりすることを禁じました。するとペテロとヨハネは答えました。19節と20節、

4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

 禁じられても、なお話さないわけにはいかない。これが、聖霊がペテロたちに与えた力でした。これほどの力が与えられたので、教会は力強く発展して弟子たちが増えて行きました。

おわりに
 私たちの教会も、聖霊の力がより働く教会になりたいと思います。そのために、私たちの一人一人がイエスさまの証人になりたいと思います。先ほど私が高津教会の信徒だった時に、どんな時に神様が共にいて下さることを感じたかの証を簡単にさせていただきました。皆さんも、いろいろな時に神様、そしてイエス様が共にいて下さることを感じた経験があると思います。それらのことを、是非お証していただきたいと思います。
 私たちがイエスさまの証人として用いられますよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖霊の力がより働く教会に(2016.8.17 祈り会)

2016-08-18 19:14:39 | 祈り会メッセージ
2016年8月17日祈り会メッセージ
『聖霊の力がより働く教会に』
【ルカ23:34、使徒1:8】

『ふたりの贖罪』
 一昨日の8月15日は終戦の日でした。この日の晩、NHKスペシャルでとても良い番組がありました。ご覧になった方もあると思いますが、番組のタイトルは『ふたりの贖罪 ~日本とアメリカ・憎しみを越えて~』というものでした。
 NHKのホームページに、この番組の紹介文がありますから、先ずはその紹介文を全文引用します。

(ここから引用)
 憎悪が、世界を覆い尽くしている。どうすれば、憎しみの連鎖を断ち切ることができるのか。その手がかりを与えてくれる2人の人物がいる。70年前、殺戮の最前線にいた日米2人の兵士である。
 「トラトラトラ」を打電した真珠湾攻撃隊の総指揮官、淵田美津雄。その後もラバウル、ミッドウェーを戦い、戦場の修羅場をくぐってきた淵田だが、1951年、キリスト教の洗礼を受け、アメリカに渡り、伝道者となった。
淵田が回心したのは、ある人物との出会いがきっかけだった。元米陸軍の爆撃手、ジェイコブ・ディシェイザー、真珠湾への復讐心に燃え、日本本土への初空襲を志願、名古屋に300発近くの焼夷弾を投下した。そのディシェイザーもまた戦後キリスト教の宣教師となり、日本に戻り、自分が爆撃した名古屋を拠点に全国で伝道活動を行った。
 戦争から4年後の冬、ふたりは運命の出会いを果たす。ディシェイザーの書いた布教活動の小冊子「私は日本の捕虜だった」を淵田が渋谷駅で偶然受け取ったのだ。以来ふたりは、人生をかけて贖罪と自省の旅を続ける。淵田はアメリカで、ディシェイザーは日本で。
ふたりの物語は、「憎しみと報復の連鎖」に覆われた今の世界に、確かなメッセージとなるはずである。
(引用ここまで)

 私の記憶違いもあるかもしれませんが、もう少し私のほうで補足説明します。この番組が取り上げた二人は、両名とも激しい憎しみの感情から抜け出せないでいました。ディシェイザーは真珠湾を攻撃した日本を激しく憎み、日本への最初の空襲の作戦に参加しました。まだまだ日本の近くの島々は日本が支配していた時代でしたし、爆撃機の航続距離も長くはありませんでしたから、片道分の燃料しか積んでいなかったということです。それで名古屋を爆撃した後は中国まで飛んで、中国が支配している地域に着陸する予定でした。しかし日本軍が支配している地域に降りてしまったために、ディシェイザーは日本軍の捕虜になってしまいました。そして何人かは処刑され、ディシェイザーは収容所に収監されました。その収容所で仲間が病死した時に、一人の日本人の看守が、これで葬式をするようにと聖書をこっそりと差し入れてくれたそうです。ディシェイザーは、それまで聖書を読んだことがありませんでしたが、むさぼるように聖書を読み、そしてルカの23:34が突き刺さって来ました。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 ここを読んで、真珠湾を攻撃し、自分たちを捕虜にして収容している日本人も自分たちが何をしているのか自分でわからないのだとわかったということです。それでイエスが「父よ。彼らをお赦しください」と言ったように、自分も赦してみようかと徐々に思い始めたということでした。もちろん、すぐに赦せるようになったわけではありません。しかし、この時からディシェイザーは少しずつ変えられて行き、日本人の看守に挨拶をするようになりました。すると日本人の看守の応対も柔らかくなって行きました。そしてディシェイザーは相手を憎むだけでは何も変わらず、まず自分が相手を赦すことの重要性を学びました。この経験を得て、ディシェイザーはキリスト教の伝道者になり、戦後の日本で布教するようになりました。
 ディシェイザーは「私は日本の捕虜でありました」という小冊子を作って配り、自分が日本人を赦すようになった経緯を証して伝道しました。この小冊子を偶然に手にしたのが、真珠湾攻撃を指揮した淵田でした。この時、淵田は、日本人が戦後、自分を憎むようになったことにショックを受け、自分を憎む日本人を恨み、そして憎むようになっていました。それを良くないことと知りつつも日本人を憎む気持ちから抜け出すことができずに苦しんでいました。それがディシェイザーの小冊子と出会ったことで淵田も聖書を読むようになり、同じルカ23:34に心を刺されました。淵田は、何をしているのか自分でわからないのは自分であったことを悟りました。そして自分を憎んだ日本人を赦し、自分もまたキリスト教の伝道者になりました。そして淵田は真珠湾を攻撃した罪を謝罪するために全米各地で講演をするようになり、ハワイの真珠湾にも行って謝罪しました。
 この二人は、憎しみの心に囚われていた日本人とアメリカ人から憎しみを取り去る、大きな働きをしました。もちろん話を聞いても憎しみを持ち続けた人々もいますが、少なからぬ人々に、人を赦すことの大切さを説くことができたことは本当に大きな働きであったと思います。

イエスの証人になる時に働く聖霊の力
 この番組を見て私は、二人の伝道の働きが大変に祝されたのは、二人が自分の体験を前面に出して伝道したからだと思いました。自分の体験に基づく伝道がいかに力強いものとなるかを改めて思い知らされました。そうして、このように自分の体験を前面に出す時にこそ聖霊の力が最大限に働くのだなと改めて教えられたと感じています。自分がイエス・キリストと出会った体験を証してイエスの証人になる時、聖霊の力が働くのですね。使徒1:8に書いてある通りです。

使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 このことから、私もこれからの伝道は、もっと自分の体験を前面に出して訴える必要があると感じています。私自身がどのような時にイエスさまと出会ったと感じたかを証し、イエス・キリストの証人として福音を宣べ伝えるなら、より聖霊の力が働いて伝道の力が増すのだと思います。
 逆にイエス・キリストについて学術的に論じようとするなら、聖霊の力はまったく働かないでしょう。ネット上で、イエス・キリストについて議論されているのをよく見ますが、そこで論じている人の中にはイエス・キリストに出会った経験が無いと思われるような人も含まれます。そのような人のイエス・キリスト論には聖霊の力が全く働いていませんから、私にはひどく空しく響きます。

聖霊の力がより働く教会に
 来月の第一聖日の礼拝から教会員の皆さんに証をしていただくことになりましたが、このような証を取り入れることで、より聖霊の力が働く教会になって行くことを期待したいと思います。
 次の聖日の午後の聖書を読む会でも、聖書を読む時には聖霊の働きに注目して読むべきだという話をして、皆さんと意見交換をしたいかなと思い始めています。
 旧約の時代に聖霊が注がれていた預言者には、神様がいつも共にいました。聖霊が注がれた者は、神様が共にいることの証人であると言えるのではないかと思います。
 そして新約の時代の私たちのうちで聖霊が注がれた者たちには、イエス・キリストの証人になる役割が与えられています。結局のところ、聖霊の力とはイエス・キリストの証人になるための力ということに尽きるのではないかと思います。
 御霊の賜物が与えられるのは、教会の働き人として用いられるためで、教会で私たちはイエス・キリストがいつも共にいて下さることを証します。またガラテヤ書にある御霊の実、すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を持つことも、イエス・キリストに似た者とされることでイエス・キリストの証人になる、そのために与えられるものだと言えるでしょう。
 私がいつも言っている、聖霊には時間を超越して感じることができる働きがあるのも、十字架という2千年前の出来事を身近に感じさせるためです。このことによってイエス・キリストが昔の人物ではなく、今も生きておられて私たちと共にいて下さることの証人に私たちはなることができます。
 聖書を読む会では、このことの再確認を皆でして、私たちの教会に聖霊の力がより働くようになるためには、どうしたら良いかについて話し合うきっかけにできたらと思います。

おわりに
 私たちはイエス・キリストについての一般論を宣べ伝えるのではなく、私たちの一人一人がどのようにイエスさまと出会い、多くの恵みを受けているかの証ができる者たちになりたいと思います。そのことによって聖霊の力がより強く働き、私たちの教会の働きも用いられるようになります。そのことを願い、祈りつつ、伝道に励んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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あなたがたは預言者たちの子孫です(2016.8.14 礼拝)

2016-08-15 07:56:31 | 礼拝メッセージ
2016年8月14日礼拝メッセージ
『あなたがたは預言者たちの子孫です』
【使徒3:17~26】

はじめに

 先週に続いて使徒の働き3章の学びを続けます。ペテロは2章に続いて3章においても人々にイエス・キリストを宣べ伝えています。3章でペテロが説教した場所は神殿の中でした。ガリラヤ地方の漁師出身の言わば田舎者であったペテロが大都会のエルサレムの中でも中心中の中心である神殿の中で堂々とした説教を行いました。これはすごいことです。聖霊の力によって、弱かったペテロはイエス・キリストを力強く宣べ伝える証人へと変えられました。

罪人の側
 さて3章のペテロの説教の中で私は24節の「あなたがたは預言者たちの子孫です」に目が留まりましたので、きょうはここに注目してみたいと思います。なぜ目が留まったかと言うと、聖書の中で人々「○○の子孫」という場合、罪人の側の悪い意味で使われることが少なくないからです。それが、ここでは、「預言者たちの子孫」ということで、罪人ではなくて神に仕える側であることから、私の目に留まりました。
 罪人の子孫という場合、私たちはアダムの子孫です。最初の人のアダムの違反によって罪がこの世に入りました。このことはパウロがローマ人への手紙で指摘しています。
 また、マタイの福音書ではバプテスマのヨハネとイエスさまはパリサイ人たちに対して「まむしのすえたち」(マタイ3:7、12:34、23:33)という言い方をしています。これは、かなり厳しい言い方だと思います。
 そしてヨハネの福音書ではイエスさまがユダヤ人たちに「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」(ヨハネ8:44)と言っています。イエスさまのこの言葉の背後には、かつてのユダの王国のマナセ王の時代が悪魔のような時代があったことがあります。このような時代はどの国にもありましたから、これをユダヤ人迫害の口実にしてはなりません。日本も、原爆や焼夷弾による空襲の被害に遭ったことだけでなく、中国や韓国そして太平洋沿岸一帯の諸国の人々の命を奪い、国土を荒廃させた加害国の側にもあったことを忘れてはならないと思います。明日は終戦記念日ですが、私はヨハネの福音書のイエスさまの「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」ということばは日本人もまた噛み締める必要があると感じています。

聖霊を受けた預言者たち
 さて、これらの厳しい言葉に比べると、ペテロの「あなたがたは預言者たちの子孫です」は神に仕える預言者の側で使われています。では、「あなたがたは預言者たちの子孫です」とペテロが言った時、この言葉の背後には何があるのか、3つのポイントに思いを巡らしてみたいと思います。

 ①預言者たちには聖霊が注がれた。そして、あなたがたにも聖霊が注がれる。
 ②預言者たちは神に熱心に仕えた。あなたがたも、それを受け継いで行く。
 ③神に仕える働きを私たちはさらに次の世代にも引き継いで行く。

 先ず一つめのポイントの、

 ①預言者たちには聖霊が注がれた。そして、あなたがたにも聖霊が注がれる。

について。
 いつも話していることですが、旧約の時代には預言者たちだけに聖霊が注がれました。しかし、新約の時代になって誰にでも聖霊が注がれるようになりました。これは預言者のヨエルが預言していたことですが、ペテロたちはペンテコステの日以降に、まさにそれを経験していました。使徒の働き2章の41節に、ペンテコステの日だけで三千人ほどが弟子に加えられ、47節には主が毎日仲間を加えて下さったとあります。イエス・キリストを信じれば誰にでも聖霊が注がれるようになったのです。
 この、誰にでも聖霊が注がれるの「誰にでも」には若干の補足説明が必要です。「誰にでも」と言っても、この時点では「ユダヤ人なら誰にでも」とペテロたちは考えていました。まさか異邦人たちにまで、この恵みが及ぶとは考えていませんでした。しかし、使徒の働きの8章と10章に出て来るように、この聖霊の恵みはサマリヤ人たちにも異邦人たちにも与えられることが、後になってわかって来ました。そうして新約の時代には本当に「誰にでも聖霊が注がれるようになりました。そういうわけで私たち日本人も、血のつながりとしては預言者たちの子孫ではないかもしれませんが、聖霊を受けるという意味では、預言者たちの子孫と言えるだろうと思います。

神に仕える側の困難
 次に、二つめのポイントに移ります。二つめのポイントは、

 ②預言者たちは神に熱心に仕えた。そしてあなたがたも、それを受け継いで行くのだ。

ということです。
 この「あなたがた」には「私たち」も含まれます。私たちもまた聖霊が注がれたなら神に仕え、教会を建て上げて行きます。
 聖霊を受けて神に仕えることは、聖霊を受けていない人々から見れば理解できないことが多いので、様々に困難な目にも遭います。それは旧約の時代でも新約の時代でも変わりません。しかし、どんな困難があっても神に仕えることで得られる霊的な喜びは非常に大きいので、預言者たちや使徒たちは困難の中でも熱心に神に仕えました。
 旧約聖書から一つ例を引きたいと思います。エレミヤ書19章を見ましょう(旧約聖書p.15)。14節と15節をお読みします。

19:14 そこでエレミヤは、【主】が預言のために遣わしたトフェテから帰って来て、【主】の宮の庭に立ち、すべての民に言った。
19:15 「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」

 これはユダの王国がバビロンによって攻撃を受けることの預言です。そしてエレミヤはこのように預言したことによって迫害を受けます。20章の1節と2節。

20:1 祭司であり、【主】の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。
20:2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を【主】の宮にある上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。

 迫害を受けたエレミヤは嘆きました。少し飛ばして20章の8節と9節、

20:8 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません。私への【主】のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

 エレミヤは迫害を受けてもなお霊的に燃やされており、主のことばを語らずにはいられないでいました。
 迫害する側は聖霊を受けていないために神の御心がわかりません。預言者たちへの迫害はそれゆえに起きます。それでもなお預言者たちが神のことばを語るのは、聖霊を受けた者はそうせずにはいられないほど、霊的に燃やされているということなのでしょう。

パウロの困難
 新約の時代に目を移すと、パウロもまた様々な迫害に遭いましたが、それでもイエス・キリストを宣べ伝え続けました。いくつかパウロのことばを見て行きたいと思います。どれも有名な箇所ですが、例えば第二コリント12章の9節と10節を交代で読みましょう(新約聖書p.360)。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 そしてパウロはピリピ人への手紙では、次のように書いています。ピリピ1章21節から25節までを交代で読みます。

1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

 23節でパウロは生きることと死ぬことの板ばさみになっていると書いていますが、実は世を去ってキリストと共にいることのほうが、遥かにまさっているとも書いています。ここを読んで今の私は、私もそのように言ってみたいものだと感じています。パウロはこの手紙を書いた時点で既に大きな働きをたくさんしていましたが、私の場合は、まだこの世で大した働きができていません。多くの人々が救いに導かれるようにと願いつつ働いていますが、なかなか実を結びません。ですから、この世での働きが実を結ばない間は、私の場合はまだまだ、この世を去りたいとは思いません。パウロがこのように言えるのは、パウロがここまで多くの働きをして来たからこそと思いますから、私もパウロのように言ってみたいものだと感じています。
 さてそんなパウロでしたが、24節と25節にあるように、ピリピの人々の信仰の進歩と喜びのためには、なお生きながらえることが必要だとパウロは考えていました。これらを読むと、パウロは様々な迫害に遭いながらも幸せな伝道者生涯を過ごしたのだなと思うことです。

次世代に引き継いできた預言者と使徒たち
 そして三つめのポイントは、

 ③神に仕える働きを、私たちはさらに次の世代にも引き継いで行く。

ということです。
 聖書を読むと、預言者たちが次の世代の後継者に役割を引き継いで行った場面を多く見ることができます。有名なのは、モーセの後を引き継いだヨシュアの働きです。イスラエルの民がヨシュアに率いられてヨルダン川を渡った場面については、私たちも何度も学びましたね。或いはまた、預言者エリヤはエリシャにバトンを渡しました。またダビデ王も、使徒たちは預言者として見ていました。ダビデの後継者に関しては、私たちは少し前にダビデが息子のソロモンに神殿建設の働きを託したことを何回かに亘って見ました。
 そして、再びパウロの手紙を見ることにするなら、テモテへの手紙があります。パウロは、この世を去る時を目前にして、後継者のテモテに手紙を書きました。テモテへの手紙第二の4章を、ご一緒に見てみたいと思います(新約聖書p.416)。1節から8節までを交代で読みましょう。

4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 パウロの後継者はテモテだけではありませんが、この手紙を読むとパウロがテモテにどれだけ大きな期待を寄せていたかがわかります。こうしてパウロの働きはテモテたちへと引き継がれ、そしてテモテの働きはさらに次の世代に引き継がれ、イエス・キリストを宣べ伝える働きは現代に至るまで引き継がれて来ました。

おわりに
 この沼津教会の働きももちろん、これらの働きの継承の流れの中に含まれていて、私たちもまた次の世代にこの働きを引き継いで行かなければなりません。新しい会堂を建てることは、そのために必要なことです。少しでも良い会堂を建てて後の世代に引き継ぎたいと思います。幸いにして神様は私たちの働きを助けていて下さいますから、私たちには新しい土地が与えられました。そして今私たちは新しい礼拝堂の来年の着工のために備えています。
 使徒の働き3章25節でペテロは人々に「あなたがたは預言者たちの子孫です」と言いました。そうして旧約の時代の預言者たちの働きはペテロ、パウロ、テモテたちが建て上げた教会に継承されて行き、さらに現代の私たちの教会もそこにつながっています。このように、私たちの教会の働きが聖書の時代からつながって来ていることを感じることができることはとても幸いなことです。聖霊が注がれている私たちは、このことの喜びを全身全霊で感じたいと思います。そして、神様に仕える働きを、次の世代へとしっかりと継承して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神殿で大胆に教え始めたペテロ(2016.8.7 礼拝)

2016-08-08 10:59:59 | 礼拝メッセージ
2016年8月7日礼拝メッセージ
『神殿で大胆に教え始めたペテロ』
【使徒3:1~15】

はじめに
 きょうから使徒の働きの3章に入ります。その前に使徒2章を少し振り返っておきましょう。
 五旬節の日、すなわちペンテコステの日に、エルサレムに来ていたガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれました。そして次にエルサレムにいたユダヤ人たちに聖霊が注がれて弟子に加えられ、教会が始まりました。2章の40節と41節をお読みします。

2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 このペンテコステの日に、三千人ほどが弟子に加えられたと使徒の働きは記しています。これは大変な数です。どうして、こんなにたくさんの人々が弟子に加えられることになったのか、それはエルサレムが大都会であったからと言えるでしょう。こうして大都会のエルサレムに教会ができました。ガリラヤ地方のいなか出身の弟子たちがリーダーになって大都会に教会ができた、これはすごいことだと思います。そして、きょうの使徒3章の学びでは、このことを頭の片隅に置きながら読むことにしたいと思います。

大都会の真ん中で説教を始めたペテロ
 3章の1節と2節、

3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。

 ペテロとヨハネはエルサレムの神殿に上って行きました。そしてペテロは、そこにいた足の悪い人の足を治しました。少し飛ばして6節、7節、8節、

3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。

 この足の悪い人の足を治した後、ペテロとヨハネは神殿の中に入り、そしてペテロは説教を始めました。12節、

3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。

 先月、使徒の働きの2章で私たちは力強く説教を始めたペテロを見ました。そして続く3章でもペテロは説教を始めましたから、この2章と3章の説教を私たちは同じような目で見がちだと思います。しかし、2章と3章とでは、説教している場所という点において大きな違いがあります。2章の説教はペテロたちが集まっていた場所で始めたことでした。ガリラヤ人の彼らが集まっていた場所ですから、中心街からは少しはずれていたのではないかと想像します。しかし神殿は、大都会のエルサレムの中でも特に人が集まる場所です。神殿には多くの人が集まりますから、その門前では様々な商いもされていたことでしょう。そういう風に人が集まるエルサレムの中心中の中心(地理的にではなく)でペテロは説教を始めました。これは凄いことだと思います。ガリラヤの漁師出身のペテロが2章で堂々とした力強い説教を始めたことだけでも大変な驚きですが、エルサレムの中心地で説教を始めたのですから、本当に驚きです。まさに聖霊の力を得たのでなければ到底為し得ないことでした。
 私たちは静岡県の東部の小さな街に住んでいますから、このことの凄さがよくわかると思います。地方から東京に行くと、地方の人の大半は気後れのようなものを感じるのではないかと思います。人によってその程度は色々だと思いますが、大都会に出ると微妙に気おされるような気分を感じることを否定する人は少ないのではないでしょうか。別に東京に住んでいる人が特に偉いわけではないのに、東京の人を自分よりも上の人と見てしまう感情が微妙に自分の中に湧くことを感じます。
 私自身がかつてそういうものを感じていて、これは決して私だけのことではないと思います。私は若い頃、東京という大都会を特別な場所と薄っすらと感じていました。しかし30代の後半から10年以上に亘って東京の大学に勤務し、東京の中をあちこち行き巡りましたから、そういう特別な感情は無くなりました。とは言え、今はまた沼津にいることで、東京を特別視する気持ちが微妙に復活して来ているのを感じる時があります。東京は何事においても日本の中心ですから、そういう感情が薄っすらと湧くのも仕方がないことだと思います。

田舎者だったペテロ
 ペテロの場合も、大都会のエルサレムに気おされるような感情はきっと持っていたと思います。先日もご一緒に開きましたが、ルカ22章の54節から59節までを交代で読みましょう。

22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。

 三人目の男はペテロのことを「この人もガリラヤ人だから」と言いました。きっとペテロは田舎のガリラヤ人の雰囲気をプンプンと放っていたのですね。洗練された都会のエルサレムの人々とは明らかに違う田舎臭さを言葉と容貌とでペテロは放っていたのだと思います。
 そして、そのペテロの田舎臭さは、使徒3章でペテロが神殿で説教した時も、まだまだあったのではないかと思います。しかし、イエスさまが逮捕された時には人目を忍んでこそこそおどおどしていたペテロも、使徒3章の神殿においては堂々としていました。そうして、これ以降、ペテロは表舞台に立ち続けました。
 私たちの教会はどうでしょうか。今まで私たちの教会はほとんど目立たちませんでした。別に人目を忍んでこそこそおどおどしていたわけではありませんが、そんなに堂々としているようには見えなかったことは否定できないのではないでしょうか。しかし、今やそれは払拭されて、これから私たちはペテロたちのように表舞台で堂々と大胆に伝道活動をして行くことになります。

羊にとどまっている私たち
 さて、ここから残りの時間を使って、これまでの私たちがどれだけ大胆にイエス・キリストを宣べ伝えているだろうかということについて、最近私が考えていることを、お話ししたいと思います。ここで「私たち」というのは、沼津教会ではなくキリスト教会全般のことを指します。
 ここでイザヤ書の聖句を、一節開きたいと思います。イザヤ書40章31節をご一緒にお読みしましょう(旧約聖書p.1189)。最近私はこの聖句が大変に心に通うようになって来ました。

40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 スズメやハトは低い所で翼をバタバタさせて一生懸命に飛びますが、ワシやタカやトビは翼を広げるだけで上昇気流に乗って羽ばたくことなしに天高く上って行きます。このイザヤ40:31のワシを天高く運ぶ上昇気流を「聖霊の風」に例える説教を私は何度か聞いたことがあります。聖霊は神様ですから、聖霊の上昇気流によって天高く上げられた私たちには神様の目が与えられて上空から地上を見ることが可能になります。しかし、クリスチャンである私たちの中の一体どれくらいの者が、この素晴らしい特権の恵みに与っているでしょうか。
 私たちは時にこの鷲のように天高く上って上空から地上を見渡す必要があるのに、実際はいつも地上にとどまっているのではないでしょうか。詩篇23篇でダビデは、

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

と詠みました。ですから、私たちは羊です。これもまた素晴らしい恵みです。しかし、私たちはこの羊として守られている恵みをあまりにも素晴らしい恵みとして受け取り過ぎ、鷲になる恵みを受け取り損ねているのではないでしょうか。
 こんなことを私が考えるのは、それは私がいつもヨハネの福音書の永遠観の恵みが人に上手く伝わらないのは、どうしてだろうかと考え続けているからです。それを私はこれまで、私たちが【過去→現在→未来】という人間の時間に縛られているからだと言って来ました。これは本当にそうで、このことを私はいつもつくづくと感じていますが、この時間観のことも、どうもあまり上手く伝わっていないような気がしています。それで私はさらに、それはどうしてだろうかと考え続けて来ました。そして最近になって、それは私たちがあまりにも羊の地位に安住してしまっているからではないかと考えるようになりました。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

このように私たちは羊としての素晴らしい恵みを神様からいただいています。この恵みがあまりに素晴らしすぎるので、私たちは鷲になり損ねている気がします。しかし、聖霊の上昇気流に乗って天高く上り、神の視点を分け与えられて地上の光景を見下ろすことができる恵みは、羊として受け取る恵みを遥かに上回ります。
 鷲の目で見る地上の光景は過去・現在・未来が混然一体となった永遠の光景です。この永遠の中で私たちは羊の平安を上回る平安をいただくことができます。

鷲にならなければならない私たち
 私たちは鷲となって神の視点を持ち、永遠の時間の中に入り、永遠の中の平安を得ることで初めて互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになるのだと思います。それは聖霊によって神と一つになることですから別の言い方をすれば放蕩息子の父親になるということです。放蕩息子の父親は、家に帰って来た弟息子を無条件で赦して祝宴をあげただけでなく、弟を赦そうとしなかった兄息子も一生懸命になだめて、私のものは、全部おまえのものだと言いました。ここも、ご一緒に見てみましょう。ルカの福音書15章31節と32節を交代で読みましょう(新約聖書p.148)。

15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

このように父親は、兄息子の罪もまた無条件に赦しました。このような愛を私たちも持ちたいものです。
 私たちは自分のことを弟息子に重ねてみたり、或いはまた兄息子に重ねてみたりするでしょう。しかし、それではいつまでも羊にとどまっていることになります。もちろん、私たちは罪人ですから自分がかつて群れの中から迷い出た羊であることを自覚することは、とても大切なことです。しかし、私たちは羊を卒業して鷲にもならなければなりません。そうして放蕩息子の父親のようにならなければなりません。そうでなければ世界に平和は永遠に訪れないでしょう。
 昨日は広島で平和を祈念する式典がありました。明後日は長崎で平和を祈念する式典があります。世界が平和になるためには、私たちの一人一人が父親になって互いに赦し合い、愛し合うことができるようにならなければならないと思います。

おわりに
 最後に、もう一度、使徒の働き3章に戻りましょう(新約聖書p.231)。使徒3章の6節から8節までをもう一度、交代で読んで、終わりたいと思います。

3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。

 この時のペテロは聖霊の力によって鷲のように力強く、そして放蕩息子の父親のように憐れみ深い者にされていました。聖霊が与えられた者は羊を卒業して鷲へと成長して行きます。
 私たちもまた、これから表舞台で伝道するに当たって鷲のように力強く、放蕩息子の父親のように憐れみ深い者たちになって行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
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8月6日の朝の黙想

2016-08-06 06:07:13 | 折々のつぶやき
原爆は地上ではなく上空で炸裂し、核兵器の時代が始まった。平和な世界を実現するためには、私たちは地上の羊にとどまっているだけではなく、原爆が炸裂した高度よりもさらに高い場所を飛ぶ鷲にもなる必要がある。
「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。」(イザヤ40:31)

最近になって気付かされたのだが、ルカ15章の羊と放蕩息子の例えの間に銀貨が挟まっているのは何故か。それは私たちの意識を父親の方に向けさせるためではないのか。私たちは自分を羊や放蕩息子に置き換えて読むが、銀貨は無生物だから自分を銀貨に置き換えることは少ないだろう。

聖書は、私たちがもっと父親の側に意識を置くよう勧めているのではないか。もっと父親の立場になって赦すことを考えるよう、勧めているのではないか。私たちが自分を羊や放蕩息子の側にとどまり続ける限り、報復の連鎖を止めることはできないのではないか。間もなく原爆が投下された8時15分だ。

羊や放蕩息子の側に身を置くことは、もちろん大切なことだ。そうでなければ弱い立場の人々に寄り添うことはできない。しかし同時にまた鷲や放蕩息子の父親の側に身を置くのでなければ互いに赦し合い、互いに愛し合うことは難しいのではないか。赦し合い、愛し合うことができないなら世界に平和はない。

イエス・キリストは人間の側に身を置きつつ神の側にもいる。私たちもまた聖霊を受け、聖霊の力が与えられるなら人間でありながら霊的には鷲のように神の高度へと翔け上がることが可能だ。それがヨハネの手紙第一1:3の「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を持つことではないか。

平和な世界を実現するためには、私たちは羊であると同時に鷲でなければならない。真の人であり、また真の神であるイエス・キリストは私たちに聖霊を注ぎ、私たちもまた人と神の両方の視座を持つことを勧めている。そうして互いに赦し合い、互いに愛し合うことができる者たちになるように勧めている。
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脳死の問題についての思い巡らし(2016.8.3 祈り会)

2016-08-04 09:45:43 | 祈り会メッセージ
2016年8月3日祈り会メッセージ
『脳死の問題についての思い巡らし』
【創世記2:7、ルカ23:46】

はじめに
 きょうは私が最近読んだ、東野圭吾の小説『人魚の眠る家』を読んで考えたことを、お話ししたいと思います。これは脳死の問題を扱った小説です。この小説を読んで、人間の生死について考えて整理する良い機会をもらうことができて感謝に思いましたから、きょうのこの祈り会で取り上げさせてもらうことにしました。
 作者の東野圭吾氏は『容疑者Xの献身』で直木賞を2006年に受賞した作家で、この『人魚の眠る家』は昨年の11月に出版された作品です。この作品について、アマゾンのサイトでは次のように紹介しています。

「娘の小学校受験が終わったら離婚する。そう約束した仮面夫婦の二人。彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前だった。娘がプールで溺れた―。病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか―。」

 アマゾンのサイトでは、ネタバレしないように、これだけしか書いてありませんから、私はもう少し補足することにします。きょうの前半では、この小説のあらすじを紹介します。ただし私もなるべくネタバレはしないようにします。そして後半に、この小説を読んで考えたことを話します。

少女は生きているのか、死んでいるのか
 さてプールで溺れた小学校入学前の娘、瑞穂ちゃんと言いますが、この少女の脳波は平坦になっていましたが、人工呼吸によって心臓は動いていました。それで病院の医師は、移植用の臓器提供をする意思があるかどうかを両親に尋ねました。もし臓器提供の意思があるなら脳死判定をして、脳死と判定されれば臓器を摘出して移植手術を待っている患者に提供することになります。
 脳死と判定されれば、心臓はまだ動いていても、その人は法律上死んだことになりますが、脳死判定を受けなければ、それは曖昧なまま置かれることになります。そして、この小説の大半は、瑞穂ちゃんが脳死判定を受ける前の曖昧な段階で話が進んで行きます。つまり瑞穂ちゃんが生きているのか死んでいるのかの法的な判定が為されていませんから、ある人は生きていると考え、ある人は死んでいると考えます。その両端は母親と病院の医師です。母親は生きていると考え、病院の医師は死んでいると考えています。ただし病院の医師もご両親の気持ちを配慮して瑞穂ちゃんは死んでいると強く主張することはありません。あくまでも医者としての見解を控えめに言うだけです。そして父親の考えは母親と医師との間に位置しますが、かなり医師の方に近いと言えます。さらに、この小説には、母親と父親のそれぞれの家族や、会社の関係者、学校の関係者など様々な人物が登場します。そして、それぞれの登場人物が瑞穂ちゃんが生きているのか死んでいるのかについて様々な思いを抱き、それによって母親は励まされたり傷ついたりしながら話が展開して行きます。
 あまりネタバレしたくありませんので、あらすじの紹介はここまでにしておいて、後半に私が考えたことを話すことにします。

(賛美歌を一曲挟んだ後に聖書を開く)

人間にはわからないこと

【創世記2:7】神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

【ルカ23:46】イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 今回、私はこの小説を読むことで、人の生死が何によって決まるのかの考えを整理することができましたから、とても感謝に思いました。ただし私の頭の中では整理されましたが、それを人に上手く伝えられるかどうかは、また別の問題です。伝える相手が聖書をどれくらい読んでいるかによっても違いますし、聖書を読んでいても、聖書をどれだけ信じているかによって違います。
 たとえば、私は先ほどご一緒に読んだ創世記2:7の記述を信じています。すると私がこの聖句の一字一句までを文字通りに「神が土地のちりで人を形造り、鼻にいのちの息を吹き込んだ」と信じていると受け取る人もいるかもしれませんが、私は記述されていることの一字一句をそのまま信じているわけではありません。私が創世記2:7から読み取っていることは、①生命の誕生には神の意思が介在しているということ、②人は地球上の元素(土地のちり)でできているということ、そして③神によって霊が与えられるということです。これら3つを私は信じていますから「創世記2:7を信じる」と言っているわけです。しかし皆さんの中には、聖書の記述の一字一句をそのまま信じている方もおられるかもしれません。ですから、人の生死について自分の頭の中で整理できたことを人に伝えるのは、なかなかに難しいことです。ただ、こういうことを一つ一つ整理して行くことは、聖書の教えを多くの方々にお伝えして行く上で大変に役に立つと思いますから、今回、この脳死に関する小説を読むことができて本当に感謝だったと思います。
 さて、ここで先ず、私の脳死に関する考えを話しておきます。
 心臓は動いているけれども脳波は平坦になっている時、その人が死んでいるか生きているかについての私の考えは「わかりません」です。なぜわからないかというと、私は人の生死は肉体に霊魂がとどまっているか離れたかで決まると考えているからであり、霊が肉体を離れるのが脳死の段階なのか心停止の段階なのかは、個別のケースで異なると思いますし、それは外見からではわからないだろうと思うからです。ですから、これは祈りの中で神様に教えてもらうことによってしか知ることはできないと思います。これは神の領域のことであり、人間にはわからないことです。人に霊を吹き込んで命を与えたのは神様であり、神様はすべてをご存知ですから、自分で判断できないことは神様に教えてもらうべきだと思います。

生命は偶然によって生じたのか
 この私の判断基準からすると、今回の小説では色々なことが曖昧になっていますから、登場人物たちが苦悩するのは当たり前のように見えます。一番すっきりしているのは病院の医師です。はっきり書いてあるわけではありませんが、この医師は、脳科学者の茂木健一郎さんと同じ立場のように見えます。茂木健一郎さんのエッセイを読むと、茂木さんは神の存在を信じておらず、霊の存在も信じておらず、人間の肉体も脳もすべては物質であり、人間の活動のすべては物質である脳の中で起きる反応で説明できるという立場です。ですから脳の機能が停止して脳の中で反応が起きなくなれば、すべて終わり、来世などは存在しないと考えています。小説の中の病院の医師は、この茂木さんと同じ立場のように見えます。私とは正反対の立場ですが、一番すっきりしていてわかりやすい考え方です。
 普通の人はここまで割り切って考えることができないから苦悩するのだと思います。今回、思いを巡らしていて、多くの日本人が曖昧にしていて深く考えていないと思える部分が浮かび上がって来ました。
 それは、多くの日本人が生命は偶然の化学反応によって生じたと学校教育で教えられて信じている一方で、人は死んだら「あの世」に行くと漠然と考えているということです。生命が偶然の化学反応によって生じ、生命活動が単なる物質の反応であるなら霊魂などは存在しない筈ですから、「あの世」のことなど考える必要はない筈です。しかし、日本人の多くは漠然とあの世の存在を信じているようです。と言うことは霊が存在することも漠然と信じていることになります。
 すると脳死の問題で多くの人が苦悩するのも、突き詰めて考えると、脳波が平坦になって心臓が動いている場合、霊魂が肉体にとどまっているかどうかがわからないからということになります。すると、これは私の立場と同じだということになります。そして私の場合は、祈りの中で神様に答を求めるべきだと考えます。しかし、多くの人は神様と対話の時を持つことは少ないと思いますから自分で答を出す必要があり、苦悩するのだということになります。もちろん神様を信じている私たちにも様々な苦悩がありますが、対話できる神様がいるかいないかで、苦悩の度合いは随分と違うことだろうと思います。

放置されている大切なこと
 先ほど紹介した小説のアマゾンのサイトの内容紹介でも、後半の部分に次のように書いてあります。もう一度お読みします。

「娘がプールで溺れた―。病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか―。」

 「その愛と狂気は成就するのか」。小説の母親は、まさに狂ったと思えるような行動に出ます。それは、娘が死んだのか、或いはまだ生きているのか、周囲の人々の多くが曖昧な立場にいながらも次第に死んでいると考える方向にシフトして行ったために、娘は生きていると固く信じている母親がどんどん孤立してしまって行ったからです。しかし、人の生死は神様の領域のことですから、私たちには分からなくて当たり前のことと言えるでしょう。
 私たちの生活には霊的な領域のことが密接に関与していますが、普段はそのことを曖昧にしたままで、暮らしている人が多いと思います。普段の何でもない時には、曖昧なままでも格別に困ることはありませんから、放置しているのだと思います。それが、肉親の死というような非常事態に直面すると、そのことが露わになります。しかし、結局は大切な問題が放置されたままになりますから、苦悩はなくなりません。
 大切な問題とは、生命は偶然によって生じるものなのか、或いは神様が与えるものなのか、という問題です。この問題が小説の中で論じられることは一切ありませんでした。ただし、繰り返しになりますが、一般の日本人の多くは学校教育で教えられていて、生命は偶然によって生じたと信じていますから、小説の登場人物たちも、生命は偶然によって生じたと信じているのだろうと思います。私も聖書を深く学ぶ前には学校教育を信奉していましたから、そのように信じていました。ただし一方で私は霊魂の存在も信じていました。しかし、これは先ほども言ったように、おかしな考え方です。霊魂が偶然によって発生する筈がありませんから、生命の誕生が偶然によるなら、霊魂は存在しないのです。

すべてがつながっている聖書の記事
 そんな私が、神様が命を造ったとどうして信じるようになったのか、それは創世記2:7の神が人をちりから造って息を吹き込んだという記述を信じたからではありません。最初は別の記事を信じたことから始まりました。聖書は全部の記事がつながっていますから、重要な箇所を一つでもきっちりと信じることができれば、他の箇所も自然に信じることができるようになっています。
 私の場合は、イエスの弟子たちを迫害していたパウロが急にキリスト教の伝道者へと180度変えられたことを信じたことに始まり、次いでペテロのようにイエスを裏切った情けない弟子たちが力強い説教者へと変えられたことも信じました。そして、そのような劇的な変化をもたらしたものはイエスの復活以外には考えられないことから、イエスは本当に復活したのだと信じました。そうして、イエスを復活させることができる全能の神なら生命を誕生させることも可能であると信じ、あとは全ての奇跡を信じることができるようになりました。
 聖書に記されている奇跡は一つずつ取り上げるなら信じ難いものが多いですが、重要な奇跡の一つを信じることができたなら、あとは聖霊の働きによって全てを信じることができるようになります。
 このように考えると、変な言い方ですが、「キリスト教って本当に上手くできているなあ」と思います。旧約聖書の時代の奇跡、イエスの時代の奇跡、使徒の時代の奇跡の中の重要な奇跡をどれか一つ信じることがイエスの復活を信じることにつながり、そうしてイエスの復活を信じれば聖霊が注がれますから、あとは全てを信じることができるようになります。そして聖霊が注がれれば、祈りの中で神との対話が可能になります。神との対話ができるなら、脳死の問題のような神の領域の問題でも神に答を求めることで、自分で苦悩を背負い込むことは少なくなります。

おわりに
 それは、やがて来る自分の最期の時も同じであり、イエス・キリストが手本を示して下さいました。最後にルカ23:46をご一緒にお読みしましょう。

【ルカ23:46】イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 私たちが最期を迎える時も、普段の祈りの中で対話している神様に我が霊を委ねるなら、平安の中にいられることでしょう。ただし私自身が最期の時に本当に平安の中にいられるのか、それはその時になってみなければわかりません。わかりはしませんが、平安の中にいられる者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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