インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

9月3日礼拝プログラム

2017-08-30 09:33:37 | 礼拝プログラム
十字架から二千年の2033年までに平和を
 インマヌエル沼津キリスト教会

9月3日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

9月 第1聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  詩篇149篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  確かなもとい ただ主に置き 230
 証  詞                中原兄
 讃 美 ③  けがれ果てた身に      306
 聖  書  使徒16:19~34
 説  教  『心を開く賛美歌の力』   小島牧師
 讃 美 ④  主とともに罪に死に     312
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント

伝道を妨害する様々な霊(2017.8.27 礼拝)

2017-08-29 08:21:24 | 礼拝メッセージ
2017年8月27日礼拝メッセージ
『伝道を妨害する様々な霊』
【使徒16:16~18】

はじめに
 使徒の働きのきょうの箇所では、パウロたちは引き続きピリピの町にいました。きょうも地図で地理を確認しておきましょう。(地図)

ルカが目撃した事実
 きょうの箇所は、とても奇妙なというか面白いというか、変なことが書かれています。16節をお読みします。

16:16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。

 この記述も「私たちが」で始まりますから、ここには記者のルカがいました。ですから、ここにはルカ自身が自分の目で見たことが書かれています。ルカが人から聞いた話がここに書かれているのではなく、ルカが自分の目で実際に見たことが書かれています。
 ルカの記述がどれくらい正確であるか、調べた人がいますから、始めにその話をします。この使徒の働きの最後の方の27章にパウロたちを乗せた船が漂流した話が載っています。27章の14節と15節をお読みします。

27:14 ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、
27:15 船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。

 こうしてパウロたちが乗った船は地中海を漂流し始めました。18節に「私たちは暴風に激しく翻弄された」と、ここにも「私たちは」とありますから、この船にもルカは一緒に乗っていました。そしてこの27章の記述を見ると、地中海のクレテ島の近くのクラウダという小さな島からマルタ島まで14日間にわたって流され続けたことが書かれています。27節に、

27:27 十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。

と書かれています。ルカたちがアドリヤ海を漂っていたところ、14日目の夜に陸地に近づきました。この陸地がマルタ島でした。(ここも地図で確認しておきましょう)。
 パウロとルカたちはクラウダ島から漂流が始まって14日目にマルタ島に達したとルカが書いています。そして19世紀のジェームス・スミスという人が、この記述の正確性を調べました。この時期の激しい季節風に遭って漂流した場合、どれくらいの速度で流されるのかを計算し、その速度で流された場合には正に14日目にマルタ島に漂着することがわかったそうです。このことからルカの記述は非常に正確であると考えられます。

占いの霊に憑かれた女
 このことを念頭に置いて16章に戻りますが、ここには非常に奇妙なことが書かれています。この奇妙なことはルカが実際に見たことなので作り話ではなくて本当にあった話であるということになります。16節から18節までをお読みします。

16:16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
16:17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。
16:18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

 ここにある「占いの霊」が、どのような霊なのか正確なところはわかりませんが、パウロたちの伝道の妨害をしていましたから、悪霊の一種だと考えて良いでしょう。17節の「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」という言葉は本当のことですから、別に嘘をついて人々を惑わしているわけではありませんが、祈り場でこんなことを叫び続ける女がいたら迷惑ですね。パウロは困り果てて、その霊に女から出て行くようにイエス・キリストの御名によって命じました。すると霊は出て行きました。
 随分と奇妙なことが書いてある記事ですが、これはルカが実際に見たことですから、私たちはこれを本当のこととして、ここから教訓を得たいと思います。

現代においても有害な占いの霊
 まず、占いが信仰にとっては有害であるということをしっかりと認識しておきたいと思います。これは今の人々もこの害を被っていますから、非常に問題です。例えば民放の朝の番組では、きょうの運勢のコーナーがあったりしますし、新聞にも載っていたりします。
 私は朝日新聞のデジタル版を購読していて、毎朝、朝日新聞のサイトに行って、その日の新聞記事を読みます。この朝日新聞のサイトのトップ画面には、読者の住んでいる地域の天気予報や鉄道の運行情報も表示されるようになっています。ただし地域を登録しなければ、天気の場合は東京の天気が表示され、鉄道情報は表示されません。そして何年か前から、ここに星座占いが加わりました。自分の星座(例:てんびん座など)を登録しておくと、その日の自分の運勢がわかるというものです。この星座占いが加わった時、私は「何だこれっ!?」と思いました。天気予報と鉄道情報は非常に役に立つものですが、それと同じ並びに星座占いという百害あって一利なしの役に立たないものが加わったことを、私は本当に腹立たしく思いました。
 なぜ、この種の星座占いが「百害あって一利なし」のものなのかを、これから説明します。私はもちろん、私の星座を登録していませんから、普段は自分の運勢が表示されないようにしてありますが、皆さんへの説明のために、試しに昨日の土曜日の私の運勢を表示させてみました。すると、このように書いてありました。

・総合運
 あなたの魅力が周りに注目されて大活躍出来そうな日。
・金運
 あなたの夢を語ることで、強力な援助者が現れるかも!?
・仕事運
 あなたが周囲を引っ張る事で、結果がついてきそう。

 昨日のてんびん座の運勢は良いものでしたから、この運勢を知って、私は信じていないのにも関わらず、少しばかりいい気持ちになってしまいました。これが曲者です。この朝日新聞の星座占いは、どうして、そのような運勢になっているのかは、一切書いてありません。つまり根拠が示されないままに、人が良い気分にさせられたり、暗い気分にさせられたりします。これは本当に問題です。

人と神の間に割って入る悪霊

 私たちの命は神様によって与えられ、私たちは神様の下で日々の生活を営んでいます。ですから、この神様のことを知ることはとても大切なことです。それゆえ私たちは日々聖書を読んで神様のことを知るための努力をしています。聖書は奥深い書物ですから一生掛かっても知り尽くすことはできません。それでも私たちは一生懸命に神様のことを知ろうとします。一方、星占いについての知識を私たちはほとんど持っていません。そんな星座占いが私たちを多少なりとも良い気持ちにさせたりします。神様だけに信頼すべきなのに星座占いで良い気持ちになってしまったりします。つまり、この星座占いは私たちと神様との間に割って入って私たちから神様が見えないようにしようとします。これは悪霊の一種だと言えるでしょう。百害あって一利なしの悪霊です。
 クリスチャンの私たちは、この占いの危険性がわかりますから、遠ざけておくことができます。私がきのうの運勢を見たのは、この礼拝メッセージのための例外的なケースです。しかし、一般の人はこの占いの霊に対する警戒心がありませんから、簡単に捕らわれてしまいます。この占いの霊は人と神様との間に入って神様を見えにくくしてしまいますから、これは本当に残念なことです。
 このように、現代であっても占いの霊は私たち自身の信仰を脅かし、また伝道の妨害をします。 また占いの霊だけではなく、様々な悪霊が私たちの働きが神様に用いられないようにします。この悪霊に対抗するために私たちは神の武具を身に着けなければならないでしょう。

おわりに

 最後に、エペソ人への手紙の6章をご一緒に読みたいと思います。ここでパウロは、悪魔の策略に立ち向かうことができるように、神の武具を身に着けることを勧めています。10節から18節までを交代で読みましょう。

6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

 私たちが神様に用いられるようになればなるほど、悪魔はいっそう熱心に私たちの働きを妨害しようとします。このことを警戒しながら、私たちは主に用いられるよう前進して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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8月27日礼拝プログラム

2017-08-25 11:25:36 | 礼拝プログラム
十字架から二千年の2033年までに平和を
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月27日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第4聖日 礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  父なる神 力の主よ       4
 交  読  詩篇148篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主イエスの名をほめたたえよ(2回) 42
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  使徒16:16~18
 説  教  『宣教を妨害する様々な霊』 小島牧師
 讃 美 ④  主から受ける安らぎは    440
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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「神の愛」の学び 1(2017.8.23 祈り会)

2017-08-24 06:32:54 | 祈り会メッセージ
2017年8月23日祈り会メッセージ
『神の愛の学び(1)』
【創世記1:26~31】

はじめに
 この夏の祈り会と礼拝のメッセージでは、イエスさまがあらゆる時代の戦争被害を悲しんでいることを何度も話して来ました。今月の第二土曜日に放送されたコーストFMの番組「潮風の中で」でも、私はイエスさまが戦災を悲しんでいることを話しました。
 そして8月の後半に入った今、どうしたらイエスさまの悲しみをもっと多くの人々が理解できるようになるだろうかということを考え始めています。きょうは、まずその話から始めます。
 イエスさまが戦災を悲しむのは、イエスさまが人々を愛しているからです。このイエスさまの愛は「神の愛」です。この「神の愛」を豊かに感じていないなら、イエスさまの悲しみを理解することは難しいでしょう。そこで、祈り会ではしばらくの間、聖書の記事の中から神の愛が感じられる箇所をシリーズで取り上げて学んでみようかと思います。

「神の愛」に直接言及している箇所

 まず旧約聖書と新約聖書から一箇所ずつ、「神の愛」に直接言及している箇所を見ておくことにしたいと思います。旧約聖書のイザヤ書43章4節を、ご一緒に読みましょう(旧約聖書p.1194)。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 ここで神様はご自身でイスラエルに向かって「わたしはあなたを愛している」と仰せられています。神様はご自身でこのように仰せられるほど人々を愛しているということで、様々な説教でよく引用される箇所です。しかし、この節だけを何万回読んでも「神の愛」がわかるようにはならないでしょう。「神の愛」は、やはり聖書全体の物語を理解することでわかるようになるものだと思います。
 もう一箇所、今度は新約聖書のヨハネの手紙第一4章の9節と10節を交代で読みましょう(新約聖書p.469)。

Ⅰヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 ここでも「神の愛」が語られていますが、やはりここだけを何万回読んでも「神の愛」は理解できないでしょう。少なくとも新約聖書の福音書を理解する必要がありますし、福音書を理解するには旧約聖書を理解したほうが良いことを私たちは学んでいます。

御父と御子との交わりで感じる「神の愛」

 そして、ヨハネの手紙第一からもう一箇所、「神の愛」が豊かに感じられる箇所をご一緒に読んでおきたいと思います。第一ヨハネ1章3節です。

Ⅰヨハネ1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 ここには「神の愛」という言葉は使われていませんが、「神の愛」の豊かさを感じることができます。神は私たちが御父および御子イエス・キリストとの交わりに入るように招いて下さっています。そして、この招きに応じるなら豊かな「神の愛」を感じることができるようになります。これは私の主観なのかもしれませんが、「私たちの罪を赦す『神の愛』」よりも、「神との交わりに私たちを招く『神の愛』」のほうが遥かに豊かな愛を私自身は感じます。これからシリーズで学びたいと願っている「神の愛」もまた、この第一ヨハネ1:3に感じられる「神の愛」を中心に学びたく願っています。

人が「神のかたち」に造られたとは?

 では前置きが長くなりましたが、きょうの箇所を見ることにします。まず創世記1章の26節と27節を交代で読みましょう。

創世記1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 ここには神様が人を「神のかたち」として造られたと書かれています。この「神のかたち」がどのようなものなのかについては、いろいろな説明がされています。皆さんも説教で聞いたり本で読んだりしたことがあると思います。きょうは、この「神のかたち」を第一ヨハネ1:3から理解してみようと思います。つまり人は、御父および御子イエス・キリストと交わることができるような「かたち」に造られたということです。
 例えば人と人型ロボットとの交流を考えてみましょう。人型ロボットは人の形をしていますが、果たして人と人型ロボットとの心の交流は可能でしょうか。漫画や映画では世界では、そのような交流も描かれていますが(例:鉄腕アトムなど)、現実には難しいと言えるでしょう。ロボットとも心を通わせることができるという人もいないわけではありませんが、それはちょっと違うんじゃないかと思います。つまり見た目の形が人に似ていれば心の交流ができるわけではありません。
 神が人を「神のかたち」として造ったとは、そういうことでしょう。大切なのは心の交流ができるか否かです。神様は、人が神様と心の交流ができるように造って下さいました。もっと言えば魂のレベルの霊的な交流ができるように造って下さいました。神は霊的な存在ですから、人が神のかたちに造られたとは神様と霊的な交流ができるように造られたと言うことでしょう。このように神様が人を神様との交わりに招いて下さっていることに、私たちは「神の愛」を豊かに感じることができます。

すべてが非常に良かった創世記1章

 続いて28節を、ご一緒に読みましょう。

28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 神様は人を祝福して下さいました。ここにも「神の愛」が感じられます。そして「すべての生き物を支配せよ」と仰せられました。「支配」というと少しイメージが悪いかもしれませんが、治めるということです。ここからは神様が人を信頼していることがわかりますから、神様と人とは非常に良い関係にあります。人が「神の愛」の中にいることを感じます。続いて29節と30節を交代で読みましょう。

29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

 神様は人にこのように食物を与えて下さいました。ここにも「神の愛」を感じることができます。そして最後の31節は、ご一緒に読みましょう。

31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 「見よ。それは非常に良かった」とあります。ここまでの記述では、神様と人とが非常に良い関係にあったことがあります。人は神様の豊かな愛の中で平和な暮らしを営んでいました。
 「神の愛」を考える時には、まずこの創世記1章の非常に良かった時のことが基本にあることを、まずしっかりと心に刻み込んでおきたいと思います。この創世記1章のことが理解できていないと人の背きの罪のこともわかりませんし、この背きの罪を赦して下さった「神の愛」も理解できないことになります。そうして、この「神の愛」が理解できていないなら、人が神に背いていることを悲しむ御父および御子イエス・キリストの深い悲しみもまた、理解することはできないでしょう。

おわりに
 これからシリーズで「神の愛」について学びたく願っていますが、きょうご一緒に読んだ第一ヨハネ1:3と創世記1章のことはいつも念頭に置きながら学びを進めて行きたく思います。
 お祈りいたしましょう。

Ⅰヨハネ1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

創世記1:31 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。
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ルデヤの心を開いた主(2017.8.20 礼拝)

2017-08-21 09:05:34 | 礼拝メッセージ
2017年8月20日礼拝メッセージ
『ルデヤの心を開いた主』
【使徒16:11~15】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。先週は第二次伝道旅行を続けるパウロたちがアジヤでの伝道ではなくマケドニヤへの伝道に導かれたところまでを学びました。9節と10節から見て行きます。パウロたちは南方面の伝道も北方面の伝道も聖霊によって禁じられました。そんな、ある夜、パウロは幻を見ました。9節と10節、

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 マケドニヤはギリシャにあり、ギリシャはヨーロッパにあります。こうしてパウロたちはヨーロッパ伝道への第一歩を踏み出すことになりました。この10節には、「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした」とあります。その前の6節には、「彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」とあります。10節より前は「彼ら」で、10節から「私たち」になったのは、ここから使徒の働きの記者のルカがパウロの一行に加わったからだと考えられています。

ルデヤの心を開いた主
 さて、ここから今日の聖書箇所に入ります。11節と12節、

16:11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

 ここで地図を見ましょう(第二次伝道旅行のルートを確認)。
 続いて13節、

16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

 そして、ここにルデヤという女性がいました。14節と15節、

16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください」と言って頼み、強いてそうさせた。

信じない人は主が心を開かないからか?
 今回私は、この説教の準備をしていて、14節の「主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた」に目がとまりました。これはとても気になる表現ですね。このこと自体はよくわかるものの、では私たちの周囲にたくさんいる、イエスさまのことを信じようとしない人々は、主が心を開いて下さらないから信じないのでしょうか。主が心を開いて下さらない限り、これらの人々はイエスさまを信じないのでしょうか。
 これは、そんなに簡単な問題ではないと思います。しかし、しっかり考えなければならない問題だと思います。
 このことについては、パウロも思い悩んでいました。パウロは同胞のユダヤ人がなかなかイエス・キリストを信じようとしないことを残念に思い、悲しんでいました。使徒の働きの最後の部分をご一緒に読んでみたいと思います。

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。
28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 使徒の働きの記者のルカは、パウロがこのように言ったと記しています。パウロがこのように言いたくなる気持ちは、私たちはよくわかると思います。周囲の人々にイエスさまのことを一生懸命に語っても、なかなか聞く耳を持ってもらえない時、それは主がこれらの方々の耳を閉じているからではないかと思いたくなります。

主は皆を救いたい

 しかし、このイザヤの預言は旧約の時代のことであって、イエスさまを信じれば誰でも聖霊を受ける時代になって以降は、目と耳を閉じている人がいたなら、それはやはり自分で閉じているのであって、主が閉じているのではないと考えるべきでしょう。第二ペテロ3:9(週報p.3)にあるように、 主は・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおらます。また、この礼拝でよく開くヨハネの手紙第一の1:3は「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」と書いています。この交わりには誰でもが招かれています。
 これらのことを念頭に置いて、改めて使徒16章の13節以降を見てみたいと思います。13節、

16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

 そして、ここにルデヤという女性がいました。14節と15節、

16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

 主はルデヤがパウロの語る事に心を留めるようにされました。そこから先、ルデヤが信じるか信じないかは、ルデヤに委ねられています。主は決して強制的にルデヤが信じるようにしたのではないと思います。強制的に信じさせたのでは、ただの操り人形になってしまいます。主は決してそのようなことはなさいません。
 パウロがイエスさまを信じた時もそうです。主はパウロの目を見えなくするという、かなり手荒いことをしましたが、それでも強制的に信じさせることはしませんでした。パウロは自分自身の意思でイエスさまを信じました。
 ルデヤも、そして家族たちも同様です。そうしてルデヤも、またその家族もバプテスマを受けました。

おわりに
 きょうのメッセージはここまでにしますが、きょうのポイントをもう一度復習したいと思います。
 私たちは、イエスさまのことがなかなか伝わらない時、絶望して、これは主がこの人たちの目と耳を閉じてしまっているからではないかと疑いたくなる時もあります。しかし、そんなことはないでしょう。もし主が目を閉じているのであれば、私たちがどんなに頑張っても、それは無駄な努力であるということになります。そうではなくて主も一人も滅びることを望んではおられず、みんなが御父と御子との交わりに入れるよう、望んでおられます。
 ですから私たちは決してあきらめることなく、周囲の人たちにイエスさまを宣べ伝えて行かなければなりません。ただし人がどのようなことに反応するかは、本当に人それぞれです。ですから、工夫が要ります。かつては、日本人のほぼ全体が同じ映画やテレビ番組や流行歌で盛り上がっていた時代がありました。しかし今は、そのようなことはほとんどなくなりました。好みが多様化しましたから、日本全体が一つのことで盛り上がることは稀になりました。3年後の東京オリンピックでさえ期待する人も多くいる一方で冷めている人もたくさんいます。
 こういう時代の伝道には、本当に知恵が必要だと思います。この知恵は主が与えて下さいますから、私たちは主の御声に耳を澄ませたいと思います。ただしイエスさまを信じるか信じないか、最後の最後にそれを決めるのは本人です。それは主でさえも強制的に信じさせることはなさいません。ですからイエスさまを宣べ伝えることは本当に大変なことですが、それでも私たちはめげずに、イエスさまを宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
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8月20日礼拝プログラム

2017-08-18 08:19:26 | 礼拝プログラム
十字架から二千年の2033年までに平和を
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月20日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第3聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  雨をふりそそぎ       308
 交  読  詩篇147篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  ベツレヘムに生まれて    103
 讃 美 ③  目を上げて主のみ顔を    415
 聖  書  使徒16:11~15
 説  教  『ルデヤの心を開いた主』 小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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戦争とクリスチャン(2017年8月15日)

2017-08-15 08:23:07 | 牧師のつぶやき
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネの福音書4章42節)

 もし上記のヨハネ4:42の聖句が何を教えているのかを世界のクリスチャンが深く理解していたなら、これまでにクリスチャンが起こした戦争の数はもっとずっと少なかったはずです。この聖句が理解されていないことは甚だ残念なことですが、せめてこれからは人々の理解が進んで、世界が平和に向かうように働くことが私に与えられた使命です。

 ヨハネの福音書の重要な目的の一つは、読者に「聖霊とは何か」を教えることです。それはイエスが聖霊についてニコデモ(3章)、サマリヤの女(4章)、弟子たち(14~16章)に教えていることから明らかです。そしてイエスは弟子たちに20章で「聖霊を受けなさい」(22節)と言っています。さらにまた「聖霊」という言葉を使っていなくても、「聖霊とは何か」を教えている箇所はたくさんあります。ヨハネ4:42もその一つです。

 ヨハネ4:42が教えていることは、人は聖霊を受けて初めて「イエスがほんとうに世の救い主だ」と知ることができるのだということです。私たちは先ずは他者(または聖書)を通して「イエスはキリスト(救い主)だ」と教わります。この「イエスはキリストだ」を信じる人もいれば、信じない人もいます。そして信じた人は聖霊を受けます。そうして聖霊を受けるとイエスと霊的に出会い、イエスから直接語り掛けを受けることができるようになるのです。聖霊を受ける前は聖書のイエスしか知り得ませんが、イエスが神の子キリストと信じれば(ヨハネ20:31)、聖霊を受けて実際にイエスに出会えるのです。イエスがトマスに「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)と言ったのは、それゆえです。聖書のイエスしか知らない段階ではイエスを見たとは言えません。しかし聖霊を受ければ霊的に見ることができます。

 このように聖霊を受けたクリスチャンがイエスと霊的に出会うなら、ヨハネ4:42のサマリヤ人たちとは実は使徒8章の聖霊を受けたサマリヤ人たちのことであることがわかるでしょう。使徒8章ではピリポが種をまき、ペテロとヨハネが刈り取りました。イエスが『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざを引用したのは、そのためです(ヨハネ4:37)。或いはまたイエスが「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」(ヨハネ6:67)と弟子たちに言ったのは、北王国の民がアッシリヤに連行されて失われたこと(Ⅱ列王記17:23、18:11)をイエスが悲しんでいるのだと霊的に見えるでしょうし、ラザロの墓に向かう途中でイエスが霊の憤りを覚えて涙を流したのは(ヨハネ11:33-35)、南王国がバビロン軍の攻撃で廃墟となったこと(Ⅱ列王記25:8-10)を悲しんでいることも霊的に見えることでしょう。北王国の滅亡も南王国の滅亡もまた戦争被害です。

 上記のようにイエスが戦争被害を悲しんでいることが霊的に見えていたなら、クリスチャンが起こした戦争の数はもっとずっと少なかったはずです。しかし、見えていなかったために多くの戦争が繰り返されて来ました。ヨハネの福音書のイエスが戦災を悲しんでいることに気付かれて来なかったのは何故なのか、私にも理由はよくわかりません。「永遠」への覚醒が関係しているのだろうと拙著の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」には書きましたが推測に過ぎません。この理由に関しては是非とも多くの方々と議論して、真相に迫りたいと願っています。そうすれば世界はもっとずっと平和になるだろうと思うからです。
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沼津コーストFM「潮風の中で」メッセージ

2017-08-14 11:03:43 | 牧師のつぶやき


2017年8月12日放送「潮風の中で」メッセージ(クリック)
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私たちのアンテオケとマケドニヤ(2017.8.13 礼拝)

2017-08-14 10:59:20 | 礼拝メッセージ
2017年8月13日礼拝メッセージ
『私たちのアンテオケとマケドニヤ』
【使徒16:6~10】

はじめに
 先週の聖日は8月6日で広島の原爆の日でしたから、使徒の働きの学びはお休みにしました。きょうはまた使徒の働きに戻ります。ただし2日後には8月15日の敗戦の日を控えていますから、きょうもまた平和の働きのことに言及します。そして、併せて会堂問題にも触れる予定でいます。
 さて、きょうの使徒の働き16章の箇所までの流れを簡単に復習しておきます。最初から復習していると時間が掛かりますから、アンテオケ教会ができた頃のことから復習します。

アンテオケ教会の始まりと第一次伝道旅行
 まず11章19節と20節をお読みします。

11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。

 それ以前は主イエスのことについてはユダヤ人にしか語られていませんでした。しかしアンテオケでは異邦人のギリシヤ人にもイエスさまのことが宣べ伝えられるようになりました。そして21節と22節、

11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。

 こうしてアンテオケにバルナバが派遣されてアンテオケ教会ができました。少し飛ばして25節と26節、

11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

 こうしてアンテオケ教会にパウロが加わりました。続いて13章の2節と3節をお読みします。

13:2 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。
13:3 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

 こうしてパウロとバルナバは第一次伝道旅行に出発しました。続いて4節、

13:4 ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。

 第一次伝道旅行では、まずキプロス島に船で渡りました。そうしてキプロス島からまた船でアジヤの方に渡り、ガラテヤ地方などを巡って再び船でアンテオケに戻りました。14章の25節と26節をお読みします。

14:25 ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、
14:26 そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。

 ここまでが第一次伝道旅行です。それからパウロはかなり長い期間をアンテオケで過ごした後、異邦人の割礼の問題を話し合うためにエルサレムに行き、再びアンテオケに戻りました。

第二次伝道旅行の開始
 そうして15章の36節から第二次伝道旅行が始まります。36節、

15:36 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」

 第二次伝道旅行の目的は、まずは第一次伝道旅行の時に新しくできた教会の弟子たちの様子を確かめに行くことでした。(ここで地図を見ましょう。)

 そして16章に入ってパウロはガラテヤ地方のデルベにいたテモテを第二次伝道旅行に連れて行くことにしました。きょうの聖書箇所の6節に入ります。6節から10節までは週報のp.3を見ていただいて、聖書は地図のページを見たままでいて下さい。
 まず6節、

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。

 アジヤというのは南の方向にあります。しかし、アジヤでの宣教は行わないようにと、聖霊からの語り掛けがあったようです。理由は書いてありませんから、よくわかりませんが、既にこの時点でヨーロッパ伝道へと導かれていたということだろうと思います。それでパウロたちは北寄りのルートを取りました。

16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

 パウロたちはさらに北の方角を目指そうとしましたが、御霊がそれをお許しになりませんでした。これもヨーロッパに導かれていたからであろうと思います。続いて8節と9節、

16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。

 マケドニヤはギリシヤにあり、ギリシヤはヨーロッパにあります。このマケドニヤ人の懇願を聞いてパウロは、ヨーロッパでの宣教に乗り出すことになりました。パウロの新しい一歩でした。10節、

16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 今回、私はこの9節と10節を読んでいて、パウロの伝道旅行と私たちの教会の会堂問題とは大変によく似ていると感じています。パウロはアンテオケを拠点にして伝道旅行へと出発して行きました。第一次、第二次、第三次伝道旅行の出発点はいずれもアンテオケです。そして今さっき見たように第二次伝道旅行ではヨーロッパという新しい土地へ踏み出して行きました。

私たちのアンテオケとマケドニヤ
 私たちも、今こちら側にある現会堂を拠点にして、県道側に新しい会堂を建設したいと願っています。つまり今のこちら側の会堂が私たちのアンテオケであり、県道側が私たちのマケドニヤです。いま私たちは先ずアンテオケの現会堂をしっかりと整備したいと考えています。しかしマケドニヤに乗り出すことを断念したわけではありません。私自身には、マケドニヤ人の「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」という嘆願の声が聞こえていると感じています。これは平和を願う声ではないでしょうか。
 今や平和は危機の中にあります。北朝鮮とアメリカが互いに威嚇し合い、核兵器が使用される危険性が高まっていると感じます。ヨーロッパの首脳たちが双方に自制するようしているほどです。静観していられないほど事態は深刻化しているということです。
 私たちも平和の祈りを続けつつ、近い将来にマケドニヤへの次の一歩を踏み出すことを視野に入れながら、アンテオケの整備を進めたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
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沼津コーストFM「潮風の中で」メッセージ(2017年8月12日放送)

2017-08-13 04:29:26 | 牧師のつぶやき
沼津コーストFM「潮風の中で」メッセージ(2017年8月12日放送)
インマヌエル沼津キリスト教会・小島 聡 


♪音楽①:映画『夕凪の街 桜の国』オリジナル・サウンドトラックより二曲
 「掌(てのひら)のハンカチ~お姉ちゃん」(2分23秒)
 「ひとつの願い~ゴエモン~」(1分11秒)

 この番組のメッセージを私が担当するのは今回で7回目ですが、8月のメッセージを担当するのは初めてです。8月は「戦争と平和」について考える月と言っても過言ではないと思います。特に8月の前半はそうです。今回、「戦争と平和」について考える8月の前半に初めてメッセージを担当することになったことに私は不思議な巡り合わせを感じています。というのは、私は2ヶ月前の6月に、平和の実現を願って一冊の本を出版したばかりだからです。本のタイトルは「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」です。
 タイトルに使わせていただいた『夕凪の街 桜の国』は、広島の原爆の被害者とその家族を描いた漫画で、作者はこうの史代さんです。この作品は佐々部清監督によって映画化もされて、ちょうど10年前の今の夏の時期に上映されていました。
 「夕凪の街」とは広島のことで、「桜の国」とは東京のことです。「夕凪の街」の物語では広島で原爆の被害に遭いながらも生き延びていたヒロインが、10年後の昭和30年に放射線障害の原爆症を発症して亡くなります。そして亡くなったヒロインの家族は、しばらく広島で過ごした後に東京に引っ越します。「桜の国」は、その東京の家族の物語です。この家族は表面上は明るく過ごしていますが、心の底では悲しみと苦悩を抱えています。つまり「桜の国」の物語の下には「夕凪の街」の悲しい物語があって、二つの物語は重なり合っています。
 この「夕凪の街」と「桜の国」の二つの物語が重なって一つの物語になっている『夕凪の街 桜の国』の構成は、聖書ととても良く似ています。聖書も「旧約聖書」の物語と「新約聖書」の物語の二つが重なって一つの物語になっているからです。平和を実現するには「旧約聖書」と「新約聖書」とを重ねて考えるべきです。「旧約聖書」の時代を過去に置き去りにするのでなく、土台として据えることが大切です。
 「新約聖書」の物語の土台には「旧約聖書」の時代のイスラエルの悲しみがあります。「旧約聖書」の時代、イスラエルのダビデとソロモンの王国は繁栄していましたが、ソロモンの死後、北王国と南王国の二つの国に分裂してしまいました。そののち北王国はアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、南王国はバビロニヤ帝国によって滅ぼされてしまいました。その後、イスラエルの民族はほとんどの時代において大国の支配下に置かれて、「新約聖書」の時代にはローマ帝国の支配下にありました。「新約聖書」の下にある土台には、このイスラエルの北王国と南王国の滅亡の悲劇があることを忘れてはなりません。
 北王国がアッシリヤ帝国に滅ぼされて人々が国外に連行されて行ったことは「旧約聖書」の列王記第二18章に記されています。サマリヤという地名が出て来ますが、サマリヤとは北王国の首都のことです。お読みします。

「イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリヤは攻め取られた。アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、町々に連れて行った。これは、彼らが神の声に聞き従わず、その契約を破り、モーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。」(列王記第二18:10~12、聴き易いように一部を改変)

 聖書はこのように、イスラエルが滅びたのはイスラエル人が神の声に聞き従わなかったからだとしています。こうして北王国のイスラエル人たちはアッシリヤに捕らえ移されて二度と戻ることがありませんでした。
 そして、イエス・キリストは、このことをとても悲しんでいます。その悲しみが表れている「新約聖書」の『ヨハネの福音書』6章をお読みします。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」(ヨハネ6:66~67)

 イエス・キリストは「永遠」の中を生きていますから、「旧約聖書」の時代にも「新約聖書」の時代にもいて、両方の時代に神から去っていった者たちのことを同じように悲しんでいます。ただし、「新約聖書」の下には「旧約聖書」の時代のイスラエル民族の悲しみがあることを理解していないなら、イエスのこの深い悲しみを感じ取ることはできません。
 北王国が滅ぼされたことも一つの戦争被害です。永遠の中を生きるイエス・キリストはどの時代にもいますから、すべての戦災を悲しんでいます。それゆえイエスは私たちが住む、この沼津の街の空襲の被害のことも、広島・長崎の原爆の被害のことも、現代の戦争の被害のことも同じように悲しんでいます。

♪音楽②:映画『夕凪の街 桜の国』オリジナル・サウンドトラックより
 「雨だれ~おばあちゃん」(3分37秒)

 私は一年に一回は広島の平和公園を訪れることにしていて、今年は2週間前の7月の終わりに平和公園に行って来ました。平和公園では既に8月6日の式典に向けた準備が進められていました。式典は原爆で死没した犠牲者の慰霊碑の前で行われます。この慰霊碑の前には建物がなく広大な芝生が広がっていますが、原爆が投下される前には木造の民家や商家が密集して建っていました。爆心地に近いこの地区にいた人々のうち、家の外にいて強烈な放射線と熱線を浴びた人は短時間で死に至り、家の中にいて原爆の光を直接浴びなかった人も凄まじい爆風で倒壊した建物の下敷きになって動けなくなり、その後に起きた火災によって焼死しました。この地区の一帯はほとんどが火災で焼失しました。この焼け跡に土を盛ってできたのが今の平和公園です。ですから、この土を掘り返せば下から焼けただれた地層が出てきます。平和公園の下には、この原爆被害の悲劇の地層があります。
 映画の『夕凪の街 桜の国』でも、東京の「桜の国」の物語の下には原爆症で亡くなった「夕凪の街」のヒロインの悲劇があります。聖書もまた「新約聖書」の物語の下には「旧約聖書」の時代の北王国と南王国の滅亡の悲劇があります。そして「新約聖書」の『ヨハネの福音書』のイエス・キリストはこれらの戦争被害を悲しんでいることを、私は著書の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」に書きました。
 メッセージの前半ではイスラエルの北王国が滅亡した時の記事を紹介しましたから、今度は南王国が滅亡した記事の、「旧約聖書」の列王記第二25章をお読みします。

「バビロンの王ネブカデネザルの第十九年、王の家来のネブザルアダンがエルサレムに来て、神殿と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。王の家来といっしょにいた軍勢は、エルサレムの回りの城壁を取りこわした。彼らは、町に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。」(列王記第二25:8~11、聴き易いように一部を改変)

 こうして南王国の首都エルサレムはバビロンの王の軍勢によって焼かれて、人々はバビロンに捕囚として連行されて行きました。そして『ヨハネの福音書』のイエスはこの戦災を深く悲しんで涙を流しています。『ヨハネの福音書』11章のその箇所をお読みします。

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:32~35)

 永遠の中を生きるイエス・キリストはこのように悲しみの涙を流しました。ただしここでも、「新約聖書」の下に「旧約聖書」の時代の悲劇があることを理解していないなら、イエスが戦争被害を悲しんでいることに気付くことはありません。「旧約聖書」は「新約聖書」よりも読まれる機会が少ないですから、「旧約聖書」の時代の悲劇を知らない人も少なくありません。
 戦争がなくならない理由の一つとして私は、永遠の中を生きるイエスが世界のあらゆる時代の戦争被害を悲しんでいることを聖書の読者が十分に理解していないことを挙げたいと思います。聖書は世界のベストセラーと呼ばれるほど、世界中の多くの人々に読まれています。ですから聖書の読み方が少し変わるだけで世界はもっと平和な方向に向かうであろうと私は期待しています。
 沼津の街もまた72年前に米軍の爆撃機による空襲に遭い、焦土と化しました。私たちの多くは今、その上で生活をしています。イエスはこの沼津の戦争被害のことも悲しんでいます。私たちの教会では、この沼津の戦争被害のことも覚えながら8月6日の日曜日の礼拝では平和の祈りを捧げました。
 もうあと十数年でイエス・キリストの十字架と復活から二千年の記念の年になります。二千年目のイースターの時までに核兵器が廃絶されて平和な世界が実現することを私たちは期待して、祈り続けたいと思います。
 神の平安が皆様と共にありますよう、お祈りしています。

♪音楽③:映画『夕凪の街 桜の国』オリジナル・サウンドトラックより
 「エンディング・テーマ」(5分30秒)
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FM放送のメッセージがネット配信されます

2017-08-12 20:25:35 | 牧師のつぶやき
 8月12日(土)19:00~19:30に、FMラジオの沼津コーストエフエムの番組「潮風の中で」で、牧師が平和のメッセージを語ります。
 今年の4月からインターネット配信もされていますから、全国で聴いていただくことができます。ぜひ多くの皆さんに聴いていただきたく思います。
 http://www.coast-fm.com/

 なお8月6日(日)の礼拝メッセージでは、この8/12の放送原稿を読みましたので、公開は8/12の晩以降とします。
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8月13日礼拝プログラム

2017-08-10 11:39:04 | 礼拝プログラム
十字架から二千年の2033年までに平和を
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第2聖日 礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なるかな          16
 交  読  詩篇146篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  キリストにはかえられません 465
 讃 美 ③  たとえば私が        395
 聖  書  使徒16:6~10
 説  教  『私たちのアンテオケとマケドニヤ』 小島牧師
 讃 美 ④  主よ、おわりまで      459
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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絶えず祈ることでつくられる平和

2017-08-09 10:51:35 | 牧師のつぶやき
「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:17)

 長崎に原爆が投下されて以降、戦争での核兵器使用はありません。これは不幸中の幸いです。世界中で平和の祈りが捧げられ続けていることが核兵器の使用を防いでいると私は考えています。この悪魔の兵器が二度と使われないように、これからも祈り続けなければなりません。
 昨日の投稿で、祈りは過去にも届くことを書きました。ですから長崎以降に核兵器の戦争使用が過去にないことは、今日の平和の祈りが過去に届いているからだとも言えるかもしれません。そして今日の平和は、今日から未来へと続く不断の祈りによってもたらされるとも言えるのだと思います。
 祈りの言葉は永遠の中にいる神様によって過去にも未来にも自在に届けられます。今日の祈りがどの時代に届くのか、私たちにはわかりません。ですから、祈りがどのように用いられるかはすべて神様にお委ねして、私たちは絶えず祈ることが大切なのだと思います。

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未来に促されて行動している私たち

2017-08-08 10:34:02 | 牧師のつぶやき
 平和は容易に実現するものではないと私も思います。それでも私が「ヨハネの福音書の時間観(永遠観)を皆が理解すれば世界は平和に向かう」と主張するのは、そう主張せずにはいられない促しを感じているからです。その促しは「未来からの促し」であろうと私は考えています。
 人が未来から促しを受けることは実際にあります。例えば添付したデイブ・アーリー著『最も祝福された 21人の祈り』(根本愛一・訳、福音社)のp.124-127に記されているアフリカに派遣された宣教師の証しによれば、湯たんぽが必要だと午前に祈ったら午後に届いたそうです。その湯たんぽは5ヶ月前に宣教師の故国から発送されたものでした。故国の人が5ヶ月先の未来から促しを受けて発送したのでした。神様は永遠の中にいますから5ヶ月先の祈りを現在に届けることができます。
 私たちは未来がどうなっているのかを知ることはできません。しかし、未来が何を必要としているのかは感じることができるのだと思います。その未来の必要に促しを受けながら、それぞれが行動しているのだろうと私は考えています。



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「へいわ深海聖書館」j準備室を立ち上げました

2017-08-06 15:49:46 | 牧師のつぶやき
 このたび、「へいわ深海聖書館」準備室を立ち上げて、ブログも開設しました。
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