2018年2月25日礼拝メッセージ
『元気を出しなさい』
【使徒27:20~26】
はじめに
先週は使徒の働き24章を開きました。21章に入った頃から私は皆さんに、残りの章は1週間に1章ずつ進んで、ちょうど3月の終わりに28章を学んで使徒の働きの学びを終える予定であることを話しました。それゆえ予定では、きょうは25章を開く予定でいました。
それで、きょうのためのメッセージの準備を始めた段階で25章を改めて読み直しましたが、パウロが捕らえられてからの状況が相変わらず続いています。パウロが話をする相手は変わって行きますが、パウロが話していることはあまり大きくは変わりません。それで予定を変更して25章と26章はスキップして、きょうは27章を開くことにしました。そうして年会前の次聖日に28章を開いて使徒の働きの学びを終えて、年会後からは、また新たな学びに移ることにしようと思います。
神からの慰めのメッセージ
平常時であれば、25章と26章もゆっくりと学ぶことも悪くはないと思います。特に26章ではパウロは再び自分がダマスコ途上で復活したイエスさまと出会ったことの証をしています。この証は22章にも書かれています。ルカが同じ証を繰り返し記しているということは、パウロのこのイエスさまとの出会いの出来事をとても重要だと思っているからです。その辺りを探ってみるのも必要なことかもしれません。
しかし、いまの私たちの教会は平常時ではありません。このような時には、その時にふさわしいメッセージを神様が与えて下さるように思います。私たちが困難の中にある時、神様は慰めと励ましの声を掛けて下さるお方です。
先週の水曜日の祈祷会のメッセージでは、イザヤ書の40章の慰めのメッセージを共に味わいました。使徒の働きを学ぶ前に、少しの間、イザヤ書40章をご一緒に味わいたいと思います。まず40章の1節と2節を、交代で読みましょう(旧約聖書p.1187)。
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
主は預言者のイザヤにご自分の民を慰めよ、慰めよと言って、慰めのことばを預けました。イザヤ書の構成は大きく分けると二部構成に成っていて、その境目が39章と40章の間です。少し戻って36章と39章までを眺めてみていただくと、歴史書の列王記と歴代誌のような記述の仕方でヒゼキヤ王のことが書かれていることがわかると思います。そうして40章に入るとガラッと雰囲気が変わって慰めのメッセージが始まります。ここで慰められている民は、バビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民です。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって神殿が焼かれ、町は廃墟となりました。それゆえバビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民は心に深い傷を負いました。しかし、やがてペルシアのクロス王の時代になって捕囚が解かれ、エルサレムは回復の時を迎えます。これは大きな慰めです。
ここでイザヤがバビロン捕囚と解放、そして回復に言及していることから、聖書学では、この40章以降はバビロン捕囚後の別人が書いたと考える学者がたくさんいるそうです。39章まではエルサレムが滅びる前のヒゼキヤの時代までのイザヤ(イザヤ1:1にユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にイザヤが見た幻とあります)が書き、40章からは後の時代の別人(第二イザヤと呼ばれます)が書いたというわけです。しかし神様は永遠の中におられますから、未来に起きることをイザヤに伝えることができます。ですから、40章以降も39章までと同じイザヤが書いたと考えても少しもおかしくはありません。むしろ、そう考えなければ、イザヤ53章の苦難のしもべをイエスさまと結び付けることができなくなってしまいます。イザヤ53章の4節と5節(週報p.3)には、
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
とあります。イザヤが未来を知ることができなかったなら、この53章も十字架のイエスさまではないことになります。しかし、この箇所は使徒の働き8章のピリポも明らかにしているように主イエスの十字架についての預言です。ですから、イザヤ40章についてもバビロン捕囚の出来事がまだ実際に起きる前に未来のことを預言したものであると考えるべきです。
不思議な一致と励ましのメッセージ
とはいえ、39章と40章の間で記述がガラッと変わっていることは確かですから、私たちはイザヤ書を前半と後半に分けて、39章までを前半、40章からを後半という見方をします。そして、ここには大変に興味深い一致があります。それは、イザヤ書の章が66章までであり、聖書の書の数が66であることとの一致です。そして、旧約聖書の書の数が39であり、新約聖書の書の数が27であることまで不思議に一致しています。
そして新約に対応する40章が慰めのメッセージで始まりますから、まるでイエスさまが私たちを慰めて下さっているように感じます。神様は永遠の中におられますから、このようにして時間を越えて現代の私たちに対しても慰めと励ましの声を掛けて下さっています。
このイザヤ40章1節と2節には「慰め」のことばがありますが、40章の終わりのほうには励ましのことばがあります。28節から41節までを交代で読みましょう。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
ここで主はイザヤを通して疲れた者を励まして下さっています。いま読んだ4つの節にはすべて「疲れ」ということばが使われています。28節では主は疲れることがないとあります。そして29節では疲れた者に力を与えて下さること、そして30節には疲れた者はつまずき倒れるとありますが、31節には「【主】を待ち望む者は走ってもたゆまず、歩いても疲れないとあります。
このように疲れた者を励まして下さる主は、マタイの福音書のイエスさまとも重なると私は感じています。マタイ11章28節(週報p.3)をご一緒に読みましょう。
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
このイエスさまのことばはもちろん、二千年前の人々に向かって言われたことばですが、イエスさまは永遠の中におられますから、21世紀の私たちが疲れている時、イエスさまは聖書を通して現代の私たちに向かって励まして下さっています。聖書は本当に素晴らしい書物だと思います。
元気を出しなさい
さて、それでは使徒の働き27章に移りますが、きょうはここからも励ましのことばに目を留めたいと思います。それは、「元気を出しなさい」ということばです。これはパウロのことばですが、パウロは22節で「元気を出しなさい」と言った後で25節でも、もう一度「元気を出しなさい」と言いました。
この時、パウロはローマへ向かう船の中にいました。しかし、14節と15節にあるように、ユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそれに巻き込まれ、しかたなく吹き流されるままになっていました。この時の状況をパウロと一緒にいたルカは20節のように書いています。20節、
27:20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。
最後の望みも今や絶たれようとしていたとありますから、ルカたちは文字通り絶望的な状況にありました。
なぜパウロたちがローマに向かう船に乗っていたかというと、捕らえられていたパウロがローマの皇帝のもとで裁判を受けることを希望したからです。少し戻って25章の11節でパウロは「私はカイザルに上訴します」とユダヤの総督のフェストに言いました。カイザルというのはローマの皇帝のことです。パウロはローマの市民権を持っていましたから、そのように上訴することができたのですね。そして次の12節でフェストは言いました。「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」
こうしてパウロは捕らえられたままの状態で船に乗ってローマに向かうことになりました。そして、その途中でユーラクロンという暴風に遭って、船が漂流することになったのでした。
その絶望的な状況の中でパウロは船に乗っている人々に「元気を出しなさい」と言って励ましました。そしてパウロは言いました。22節から24節、
27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
27:23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
27:24 こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
皆が絶望している状況の中で、パウロは絶望していませんでした。それはパウロには堅固な信仰があり、主のことばを聞いていたからです。そうして、さらに励ましのことばをつづけました。25節と26節、
27:25 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
27:26 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」
これは紀元1世紀のことです。古い時代の船の難破のことで日本人によく知られているのは紀元7世紀に始まった遣隋使や遣唐使のことではないでしょうか。この時代の日本人は命がけで中国の進んだ制度や技術、学問を学びに行きました。この時代でも随分と船の難破がありました。しかし、パウロの時代はそれよりも遥か以前のことであり、難破への恐怖心はもっと大きかっただろうと思います。しかし、パウロは全く動じていませんでした。
恐怖におびえていたウェスレー
ここで、私たちの教団の信仰の源流にいるジョン・ウェスレーの体験を見てみることにしましょう。ウェスレーは32歳だった1735年にイギリスからアメリカに渡る船の中にいました。アメリカの先住民に伝道するためです(と同時にウェスレーは自身の救いの確証を求めていました)。この時、ウェスレーが乗った船が嵐に遭遇し、ウェスレーは牧師でしたが船の中で恐怖におびえていたそうです。しかし、この時に同じ船に乗っていたモラビア派の一般信徒たちは落ち着いていたそうです。ウェスレーはこのことにショックを受けていました。そして、アメリカ上陸後にモラビア派の指導者のシュパンゲンベルクに助言を求めたそうです。すると、シュパンゲンベルクはウェスレーに次のように聞いたそうです。「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか。自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか。あなたはイエス・キリストを知っていますか」。ウェスレーは「『はい。知っています』と答えたものの、それらがむなしい言葉であると自分でわかっていた」と日誌に記しています。
この時のウェスレーはまだ救いの確証が得ておられず、苦悩の中にいました。ウェスレーが救いの確証を得たのは、この時から約2年半後の1738年、アルダスゲート街においてでした。先ほどのシュパンゲンベルクの質問をもう一度繰り返します。
「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか。自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか。あなたはイエス・キリストを知っていますか」。
ここでシュパンゲンベルクはパウロのローマ人への手紙の一節を引いていますね。ローマ8章16節です(週報p.3)。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。パウロには、自分が神の子であるという確証がありました。一方のウェスレーにはありませんでした。
嵐の中で沈みかけている船という極限の状況の中で、自分が救われて神の子とされている確証の有る無しがどれだけ恐怖を減らしてくれるのか、私自身は嵐の中の船に乗った経験がありませんからよくわかりませんが、普段の日常生活の中で起きる嵐のような出来事に対しては、やはり自分が救われて神の子とされているという確証が有るか無いかでは、大きな違いをもたらだろうと思います。
私たちは神の子羊
私たちの教会も昨年から、嵐のような中を通っています。その中にあっても自分に御霊が注がれているという確信があれば平安でいられるということで、今年の聖句である第一ヨハネ4:13が示されました。週報の1ページにある、「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」ですね。このように、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかるなら、自分が救われて神の子とされているという確証も得られているはずです。そして私たちは御霊によって、「アバ、父と呼びます」。ローマ8章14,15節に書いてある通りです(新約聖書p.301)
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
この、私たちが「アバ、父」と呼ぶ神様は、最初にイザヤ書40章で見たように、私たちを慰め、励まして下さる神様です。
最後にもう一度、イザヤ書40章を開きましょう。今度は先ほど読まなかった10節と11節を交代で読みます。
40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
私たちは主に飼われている羊です。主は子羊を引き寄せ、ふところに抱き、またお母さんの羊を優しく導きます。この11節からは何とも優しい慰めと励ましを感じますね。そうかと思えば、31節のように力強くも励まして下さいます。31節ももう一度、ご一緒に読みましょう。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
この一年間、私たちは大変な中を通り、今もその中にありますが、そのことによって私自身はこれまでになくイザヤ書から多くの慰めと励ましを受けることができるようになりました。これは素晴らしい恵みです。イザヤ書がこんなにも恵みに溢れた書として読んだことが実はありませんでした。慰めと励ましのメッセージは、やはり物事が順調に進んでいる時にはわからないもので、今回のような経験をしなければわからないのだということを改めて感じています。聖書は本当に奥が深い、素晴らしい書物だと思います。
おわりに
教会がどういう形になるにせよ、私たちはこの素晴らしい聖書の恵みを、多くの方々にお伝えして行きたいと思います。主の慰めと励ましを受けながら、このことのために用いられる私たちでありたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『元気を出しなさい』
【使徒27:20~26】
はじめに
先週は使徒の働き24章を開きました。21章に入った頃から私は皆さんに、残りの章は1週間に1章ずつ進んで、ちょうど3月の終わりに28章を学んで使徒の働きの学びを終える予定であることを話しました。それゆえ予定では、きょうは25章を開く予定でいました。
それで、きょうのためのメッセージの準備を始めた段階で25章を改めて読み直しましたが、パウロが捕らえられてからの状況が相変わらず続いています。パウロが話をする相手は変わって行きますが、パウロが話していることはあまり大きくは変わりません。それで予定を変更して25章と26章はスキップして、きょうは27章を開くことにしました。そうして年会前の次聖日に28章を開いて使徒の働きの学びを終えて、年会後からは、また新たな学びに移ることにしようと思います。
神からの慰めのメッセージ
平常時であれば、25章と26章もゆっくりと学ぶことも悪くはないと思います。特に26章ではパウロは再び自分がダマスコ途上で復活したイエスさまと出会ったことの証をしています。この証は22章にも書かれています。ルカが同じ証を繰り返し記しているということは、パウロのこのイエスさまとの出会いの出来事をとても重要だと思っているからです。その辺りを探ってみるのも必要なことかもしれません。
しかし、いまの私たちの教会は平常時ではありません。このような時には、その時にふさわしいメッセージを神様が与えて下さるように思います。私たちが困難の中にある時、神様は慰めと励ましの声を掛けて下さるお方です。
先週の水曜日の祈祷会のメッセージでは、イザヤ書の40章の慰めのメッセージを共に味わいました。使徒の働きを学ぶ前に、少しの間、イザヤ書40章をご一緒に味わいたいと思います。まず40章の1節と2節を、交代で読みましょう(旧約聖書p.1187)。
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
主は預言者のイザヤにご自分の民を慰めよ、慰めよと言って、慰めのことばを預けました。イザヤ書の構成は大きく分けると二部構成に成っていて、その境目が39章と40章の間です。少し戻って36章と39章までを眺めてみていただくと、歴史書の列王記と歴代誌のような記述の仕方でヒゼキヤ王のことが書かれていることがわかると思います。そうして40章に入るとガラッと雰囲気が変わって慰めのメッセージが始まります。ここで慰められている民は、バビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民です。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって神殿が焼かれ、町は廃墟となりました。それゆえバビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民は心に深い傷を負いました。しかし、やがてペルシアのクロス王の時代になって捕囚が解かれ、エルサレムは回復の時を迎えます。これは大きな慰めです。
ここでイザヤがバビロン捕囚と解放、そして回復に言及していることから、聖書学では、この40章以降はバビロン捕囚後の別人が書いたと考える学者がたくさんいるそうです。39章まではエルサレムが滅びる前のヒゼキヤの時代までのイザヤ(イザヤ1:1にユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にイザヤが見た幻とあります)が書き、40章からは後の時代の別人(第二イザヤと呼ばれます)が書いたというわけです。しかし神様は永遠の中におられますから、未来に起きることをイザヤに伝えることができます。ですから、40章以降も39章までと同じイザヤが書いたと考えても少しもおかしくはありません。むしろ、そう考えなければ、イザヤ53章の苦難のしもべをイエスさまと結び付けることができなくなってしまいます。イザヤ53章の4節と5節(週報p.3)には、
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
とあります。イザヤが未来を知ることができなかったなら、この53章も十字架のイエスさまではないことになります。しかし、この箇所は使徒の働き8章のピリポも明らかにしているように主イエスの十字架についての預言です。ですから、イザヤ40章についてもバビロン捕囚の出来事がまだ実際に起きる前に未来のことを預言したものであると考えるべきです。
不思議な一致と励ましのメッセージ
とはいえ、39章と40章の間で記述がガラッと変わっていることは確かですから、私たちはイザヤ書を前半と後半に分けて、39章までを前半、40章からを後半という見方をします。そして、ここには大変に興味深い一致があります。それは、イザヤ書の章が66章までであり、聖書の書の数が66であることとの一致です。そして、旧約聖書の書の数が39であり、新約聖書の書の数が27であることまで不思議に一致しています。
そして新約に対応する40章が慰めのメッセージで始まりますから、まるでイエスさまが私たちを慰めて下さっているように感じます。神様は永遠の中におられますから、このようにして時間を越えて現代の私たちに対しても慰めと励ましの声を掛けて下さっています。
このイザヤ40章1節と2節には「慰め」のことばがありますが、40章の終わりのほうには励ましのことばがあります。28節から41節までを交代で読みましょう。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
ここで主はイザヤを通して疲れた者を励まして下さっています。いま読んだ4つの節にはすべて「疲れ」ということばが使われています。28節では主は疲れることがないとあります。そして29節では疲れた者に力を与えて下さること、そして30節には疲れた者はつまずき倒れるとありますが、31節には「【主】を待ち望む者は走ってもたゆまず、歩いても疲れないとあります。
このように疲れた者を励まして下さる主は、マタイの福音書のイエスさまとも重なると私は感じています。マタイ11章28節(週報p.3)をご一緒に読みましょう。
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
このイエスさまのことばはもちろん、二千年前の人々に向かって言われたことばですが、イエスさまは永遠の中におられますから、21世紀の私たちが疲れている時、イエスさまは聖書を通して現代の私たちに向かって励まして下さっています。聖書は本当に素晴らしい書物だと思います。
元気を出しなさい
さて、それでは使徒の働き27章に移りますが、きょうはここからも励ましのことばに目を留めたいと思います。それは、「元気を出しなさい」ということばです。これはパウロのことばですが、パウロは22節で「元気を出しなさい」と言った後で25節でも、もう一度「元気を出しなさい」と言いました。
この時、パウロはローマへ向かう船の中にいました。しかし、14節と15節にあるように、ユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそれに巻き込まれ、しかたなく吹き流されるままになっていました。この時の状況をパウロと一緒にいたルカは20節のように書いています。20節、
27:20 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。
最後の望みも今や絶たれようとしていたとありますから、ルカたちは文字通り絶望的な状況にありました。
なぜパウロたちがローマに向かう船に乗っていたかというと、捕らえられていたパウロがローマの皇帝のもとで裁判を受けることを希望したからです。少し戻って25章の11節でパウロは「私はカイザルに上訴します」とユダヤの総督のフェストに言いました。カイザルというのはローマの皇帝のことです。パウロはローマの市民権を持っていましたから、そのように上訴することができたのですね。そして次の12節でフェストは言いました。「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」
こうしてパウロは捕らえられたままの状態で船に乗ってローマに向かうことになりました。そして、その途中でユーラクロンという暴風に遭って、船が漂流することになったのでした。
その絶望的な状況の中でパウロは船に乗っている人々に「元気を出しなさい」と言って励ましました。そしてパウロは言いました。22節から24節、
27:22 しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
27:23 昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、
27:24 こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
皆が絶望している状況の中で、パウロは絶望していませんでした。それはパウロには堅固な信仰があり、主のことばを聞いていたからです。そうして、さらに励ましのことばをつづけました。25節と26節、
27:25 ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
27:26 私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」
これは紀元1世紀のことです。古い時代の船の難破のことで日本人によく知られているのは紀元7世紀に始まった遣隋使や遣唐使のことではないでしょうか。この時代の日本人は命がけで中国の進んだ制度や技術、学問を学びに行きました。この時代でも随分と船の難破がありました。しかし、パウロの時代はそれよりも遥か以前のことであり、難破への恐怖心はもっと大きかっただろうと思います。しかし、パウロは全く動じていませんでした。
恐怖におびえていたウェスレー
ここで、私たちの教団の信仰の源流にいるジョン・ウェスレーの体験を見てみることにしましょう。ウェスレーは32歳だった1735年にイギリスからアメリカに渡る船の中にいました。アメリカの先住民に伝道するためです(と同時にウェスレーは自身の救いの確証を求めていました)。この時、ウェスレーが乗った船が嵐に遭遇し、ウェスレーは牧師でしたが船の中で恐怖におびえていたそうです。しかし、この時に同じ船に乗っていたモラビア派の一般信徒たちは落ち着いていたそうです。ウェスレーはこのことにショックを受けていました。そして、アメリカ上陸後にモラビア派の指導者のシュパンゲンベルクに助言を求めたそうです。すると、シュパンゲンベルクはウェスレーに次のように聞いたそうです。「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか。自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか。あなたはイエス・キリストを知っていますか」。ウェスレーは「『はい。知っています』と答えたものの、それらがむなしい言葉であると自分でわかっていた」と日誌に記しています。
この時のウェスレーはまだ救いの確証が得ておられず、苦悩の中にいました。ウェスレーが救いの確証を得たのは、この時から約2年半後の1738年、アルダスゲート街においてでした。先ほどのシュパンゲンベルクの質問をもう一度繰り返します。
「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか。自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていますか。あなたはイエス・キリストを知っていますか」。
ここでシュパンゲンベルクはパウロのローマ人への手紙の一節を引いていますね。ローマ8章16節です(週報p.3)。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。パウロには、自分が神の子であるという確証がありました。一方のウェスレーにはありませんでした。
嵐の中で沈みかけている船という極限の状況の中で、自分が救われて神の子とされている確証の有る無しがどれだけ恐怖を減らしてくれるのか、私自身は嵐の中の船に乗った経験がありませんからよくわかりませんが、普段の日常生活の中で起きる嵐のような出来事に対しては、やはり自分が救われて神の子とされているという確証が有るか無いかでは、大きな違いをもたらだろうと思います。
私たちは神の子羊
私たちの教会も昨年から、嵐のような中を通っています。その中にあっても自分に御霊が注がれているという確信があれば平安でいられるということで、今年の聖句である第一ヨハネ4:13が示されました。週報の1ページにある、「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります」ですね。このように、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかるなら、自分が救われて神の子とされているという確証も得られているはずです。そして私たちは御霊によって、「アバ、父と呼びます」。ローマ8章14,15節に書いてある通りです(新約聖書p.301)
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
この、私たちが「アバ、父」と呼ぶ神様は、最初にイザヤ書40章で見たように、私たちを慰め、励まして下さる神様です。
最後にもう一度、イザヤ書40章を開きましょう。今度は先ほど読まなかった10節と11節を交代で読みます。
40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
私たちは主に飼われている羊です。主は子羊を引き寄せ、ふところに抱き、またお母さんの羊を優しく導きます。この11節からは何とも優しい慰めと励ましを感じますね。そうかと思えば、31節のように力強くも励まして下さいます。31節ももう一度、ご一緒に読みましょう。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
この一年間、私たちは大変な中を通り、今もその中にありますが、そのことによって私自身はこれまでになくイザヤ書から多くの慰めと励ましを受けることができるようになりました。これは素晴らしい恵みです。イザヤ書がこんなにも恵みに溢れた書として読んだことが実はありませんでした。慰めと励ましのメッセージは、やはり物事が順調に進んでいる時にはわからないもので、今回のような経験をしなければわからないのだということを改めて感じています。聖書は本当に奥が深い、素晴らしい書物だと思います。
おわりに
教会がどういう形になるにせよ、私たちはこの素晴らしい聖書の恵みを、多くの方々にお伝えして行きたいと思います。主の慰めと励ましを受けながら、このことのために用いられる私たちでありたいと思います。
お祈りいたしましょう。