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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

永遠の中の主が共にる御国(2022.4.24 召天者記念礼拝)

2022-04-26 11:09:06 | 礼拝メッセージ
2022年4月24日召天者記念礼拝メッセージ
『永遠の中の主が共にいる御国』
【マタイ1:18~23】

はじめに
 この教会に私が遣わされてから早いもので3年が経ちました。この教会で召天者記念礼拝を行うのは今年で4回目になります。

 3年前にこの教会で初めて召天者記念礼拝を行った時、このように召天した先輩方の遺影を前方に並べるのを見て、それまでに神学生や牧師として遣わされた教会では、このようなスタイルでの召天者記念礼拝を行ったことはありませんでしたから、とても新鮮に感じました。

 2年前の2020年の春は4月から5月に掛けてコロナの緊急事態宣言が発令されましたから、召天者記念礼拝は秋の10月に延期しました。この年は5月にN兄が天に召され、さらにその1ヶ月後の6月にS兄が天に召されました。ですから10月の召天者記念礼拝は、このお二人の兄弟のことを格別に強く思いながらの礼拝となりました。皆さんはそれぞれのご家族のことを思いながらの礼拝だったと思いますが、私自身はやはりNさんとSさんを強く思いながらの礼拝でした。

 去年の2021年の4月は、その1ヶ月前の3月20日にM兄を天に見送ったばかりでしたから、やはりMさんのことを強く思いながらの礼拝となりました。

 そして、この1年間は守られて天に見送った方はいませんでしたから感謝でしたが、しかし、今年は今年でまた特別な感慨があります。先週の礼拝の後、皆さんがこの写真を載せるための台を準備して下さり、写真が並べられました。それで私はこの写真を見ながら1週間を過ごしたわけですが、この写真の信仰の先輩方は今、平和に満ちた永遠の中の御国におられるのだなということを、これまでになく、とても強く感じました。それは今、ウクライナが戦場となって悲惨なことが起きているからです。戦争のニュースをこの2ヶ月間、毎日のように見ていて心を痛めていますから、先輩方は平和に満ちた御国にいるんだな~ということを、今年はとても強く感じました。

 私は戦後の生まれです。生まれた年の1959年以降も世界では多くの紛争や戦争がありました。しかし、今年のロシアとウクライナの戦争は今までの戦争と決定的に違う点があると思います。それは、ウクライナの市民がスマホとSNSなどを用いて戦場となった国の悲惨な様子を直接世界に向けて発信しているということです。それまでの戦争は報道記者が戦場に入るという形でしか報道されませんでした。一般市民には発信する術がありませんでした。それが今はスマホやSNSで報道記者ではない一般の市民によって直接、悲惨な様子が伝えられています。或いはまた、日本にいるウクライナ人が現地に残っている家族とテレビ電話で通話している様子なども報じられています。現地の家族は本当に危険な中にいる様子が表情と声から良く分かりますし、日本にいるウクライナ人も現地の家族のことが心配で心配でたまらない様子も表情と声から分かります。

 こういう生々しい映像を毎日のように見ていますから、信仰の先輩方は平和に満ちた御国にいるんだな~ということを、今年はとても強く感じています。御国が平和なのは、そこに主がおられるからです。聖書には、神が私たちと共におられると書かれている記事があちこちにあります。きょうの中心聖句は、その中の一つのマタイ1章23節です。

マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①後の者と先の者が混ざって時間の前後がない御国
 ②「先→後」の時間の前後関係が平和を妨げる要因
 ③主が共にいる御国の平安の恵みに、地上で与る

①後の者と先の者が混ざって時間の前後がない御国
 きょうの聖書箇所のマタイ1章は、クリスマスの時期によく開く箇所ですが、きょうの召天者記念礼拝のこの機会を、神様が私たちと共におられるというインマヌエルの恵みに改めて思いを巡らす機会としたいと思います。ここに並んでいる信仰の先輩方は今もう神様が共におられる恵みにどっぷりと浸かっています。この状況を用いさせていただいて、私たちも改めて、神様が私たちと共におられるインマヌエルの恵みについて、改めて思いを巡らす機会としたいと思います。

 イエス様は、私たちが神様と共にいることができるようにして下さるために、天からこの世に遣わされました。そうして十字架で死んで復活した後はまた天に帰り、今も天におられます。この天におられるイエス様をとても身近に感じて、神様が私と共におられることを感じるなら、それは既に天国に入れられているのと同じで、自分は救われているという「救いの確証」が得られます。この「救いの確証」を得ることで私たちは深い平安を得ることができます。ですから、「救いの確証」を得ることはとても大事なことです。

 少し極端なことを言えば、「救いの確証」が得られるなら、キリスト教の教理の難しいことはそんなに知らなくても良いと言えるでしょう。英語や中国語、韓国語などの外国語を学ぶ時のことを考えれば分かると思いますが、文法などを知らなくても、その外国語が自然と身に着くなら、それが一番良いでしょう。しかし、ある程度の年齢になると外国語を自然に身に着けることは難しくなりますから、その外国語の文法を学ぶことをします。

 キリスト教の十字架の教理なども外国語の文法のようなものだと言えるでしょう。教理を学ばなくても、イエス様の方をしっかりと向くことで義と認められ、そのことで神様が共にいて下さることを感じるようになり、「救いの確証」を得るなら十字架の意味も何とはなしに分かる、むしろそのほうが自然ではないかなと思います。

 私は牧師になる前は大学の留学生センターという所にいて、外国人に日本語を教えていました。18歳ぐらいで日本に来て日本語を学ぶ学生は、文法などはあまり気にしないでどんどん日本語が上手になります。しかし30歳を越えて博士の学位を取ってから研究のために日本に来た、というような人は文法から入りますから、なかなか上手になりません。キリスト教も、神様が共におられるということを自然に感じることができるようになるなら、それが一番ではないかと思います。

 さてしかし、神様が共におられると感じることを妨げるものがあります。それは私たちの多くが次のように考えていることです。

「私たちの信仰の先輩方は今、天の御国にいます。私たちよりも先に天の御国に入っていて、今まだ地上にいる私たちはイエス様を信じれば天の御国に入ることが許されて、地上生涯を終えたら先輩方よりも後から天の御国に入ります。」

 こう考えることは、間違ってはいないのかもしれませんが、私たちはあまりにも「先」とか「後」とか、「先輩」とか「後輩」とか、時間の後先にとらわれ過ぎているように思います。

 一つ質問をします。私たちが先輩たちの後から天の御国に入ったら、先輩たちを「先輩」と呼ぶでしょうか?「先輩」と呼んで敬うでしょうか?

 答は、天の御国は先輩も後輩もありませんから、「先輩」と呼ぶことはありません、それが答でしょう。

 イエス様は福音書で、「後の者が先になり、先の者が後になる」と何度か話していますね。例えば週報p.2に載せたように、マタイ19:30では、

マタイ19:30 先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。

とおっしゃり、マタイ20:16では

マタイ20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。

とおっしゃいました。トランプのカードを混ぜることを考えると分かりやすいと思いますが、カードを混ぜる時、後のものが先になり、先のものが後になります。それを何回か繰り返す間に、カードはきれいに混ざって後も先もなくなります。天の御国も、後の者が先になり、先の者が後になることが繰り返される間に、後も先もなくなって、先輩も後輩もなくなります。

 ですから、ここ(写真台)におられる信仰の先輩方は地上においては先輩ですが、天の御国に入れば先輩も後輩もありません。皆が平等です。

②「先→後」の時間の前後関係が平和を妨げる要因
 天の御国では先輩も後輩もありません。トランプのカードのように、よくシャッフルされていて、時間の前後関係はありません。何故このことを強調するかというと、この後先の問題が神様が共におられると感じることを妨げるだけでなく、平和の実現をも妨げる要因になっているからです。争い事はどちらかが先に、相手に不快な思いをさせることから始まります。でも争い事の多くは些細なことから始まりますから、どちらが先に相手を不快にさせたのか、よく分からないことも多いのではないでしょうか。

 或いは、先輩と後輩という関係があると、よくあるパターンとしては先輩がいばって後輩に不快な思いをさせるということがあります。

 4月から新年度が始まって、今の時期、夕方に外を走っているとランニングコースの近くの高校の部活の生徒たちにも新しい1年生が加わっているのが見られます。様子を見ていれば、ああこれは新入生だなというのが大体は分かります。10日ぐらい前でしたが、新入生が先輩に何かの歌を歌わされていました。たぶん中学の校歌を歌わされていたんだと思います。なぜ分かるかというと、私も静岡の別の高校で1年生の時に先輩に中学の校歌を歌わされたことがあるからです。そして、2年生になった時は今度は後輩の1年生に中学の校歌を歌わせました。どこの高校でも同じのようですね。

 この春、新入生が歌を歌わされている様子を見ながら、懐かしいというよりは、過去の自分の罪は棚に上げて、まだこんなことやってるんだと思いました。先輩・後輩という時間の前後関係があると、この様な先輩が威張るということが起きて心の平和を乱します。

 或いはまた、言い争いになった時に古いことを持ち出されることもよくあるパターンではないでしょうか。古いことを持ち出されると、カチンと来て、争いがエスカレートすることも、よくあるパターンです。時間の前後関係があると、こういうことになります。

 大学の留学生センターで働いていた時、日韓留学プログラムを担当するようになって、日韓関係の歴史も少し学びました。20世紀の前半に日本は朝鮮半島を植民地化して、そこに住む人々に日本語を使うように強制しました。軍隊にも徴兵して日本兵として出征させました。日本の軍需工場でも働かせました。多くの女性が日本の従軍慰安婦にもなりました。20世紀の前半にそういうことを日本は朝鮮半島の人々に対してしていましたから、このことを韓国の人々が不快に思っていることは以前から知っていました。でも、韓国の人々が豊臣秀吉の朝鮮出兵に対しても21世紀になっても不快感を持っているということを日韓留学プログラムを担当するようになってから知りました。

 日本と韓国はお隣同士で、どちらも中国から強い影響を受けた歴史がありますから、日本と韓国は兄弟国と言えるかもしれません。そして韓国の方が地理的には中国に近くて、国らしい国ができたのは韓国の方が早かったですから、韓国が兄で日本は弟ということになります。朝鮮半島に百済・新羅・高句麗の三国が成立したのが紀元前1世紀で日本に邪馬台国ができたのはそれより200~300年ぐらいも後ですから、韓国のほうが圧倒的にお兄さんです。韓国にはお兄さんとしてのプライドもあることでしょう。

 ロシアとウクライナも兄弟国であると言われていますね。ウクライナの方が、モスクワが首都のロシアよりも地中海や西ヨーロッパに近くて早くに発展したので、ウクライナのほうがお兄さんなのだそうです。ウクライナがロシアの侵攻に徹底的に抵抗しているのは、お兄さんとしてのプライドもあるのかもしれません。どちらが先に発展したかということは、国のプライドに大きく関わっているように思います。

 でも私たちは、イエス様が「後の者が先になり、先の者が後になります」とおっしゃったことを、しっかり心に留めて、どちらが先でどちらが後かということからは自由になりたいと思います。後先の問題から皆が自由になるなら、世界は平和に向かって行くことでしょう。
 
③主が共にいる御国の平安の恵みに、地上で与る
 きょうの中心聖句のマタイ1:23をもう一度お読みします。

マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 イエス様は人の子として地上に遣わされて、ペテロやヨハネ、マタイたちと共に地上で過ごしました。マタイは取税人でしたがイエス様の12弟子の一人になりました。その時のことをマタイは9章9節で書いています(週報p.2)。

マタイ9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 こうしてマタイはイエス様の弟子の一人になってからは、いつもイエス様と共に過ごすようになりました。そうして、イエス様が天に帰られた後のペンテコステの日に聖霊を受けましたから、今度は聖霊を通していつも天のイエス様を近くに感じるようになりました。きょうの中心聖句のマタイ1:23は、そういう中で書かれたものです。ですから、「神が私たちとともにおられる」とマタイが書いた時、マタイはきっと天のイエス様を身近に感じていたことでしょう。マタイにとって天の御国とは、死んで地上生涯を終えてから入る所ではなくて、既に入っているも同然でした。

 ヨハネもイエス様の十二弟子の一人ですから、地上生涯のイエス様と共にいて、イエス様が天に帰ってからは聖霊を通してイエス様との交わりの中に入れられていました。礼拝で良く引用するヨハネの手紙第一1:3は、そのことを書いています。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 ヨハネにとっても天の御国は地上生涯を終えてから入る場所ではなくて、既に入っているのも同然でした。そのヨハネは御国がどんなに素晴らしい場所であるかを幻で見る恵みに与り、その御国の光景を黙示録の21章と22章に書きました。その一部をもう一度読むことにしましょう。ヨハネの黙示録21章22節から26節までを私のほうでお読みします。聞いていただくだけでも良いですが、開ける方は開いて下さい(新約p.517)。

ヨハネ21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。

 23節には、この御国は太陽も月も必要としないとありますから、太陽が昇ったり沈んだりすることがありません。ですから25節にも書いてありますが、ここには夜がありません。太陽が昇ったり沈んだりの繰り返しがありませんから、昼と夜の繰り返しがありません。つまり、ここには「昨日→今日→明日」という日付の前後関係がありません。時間の後先がありません。

 そして、私たちの教会の信仰の先輩たちは、この後先の前後関係がない御国の中にいます。この黙示録21章の始めには天の御国が地上に降って来る光景が書かれていますから、これは未来のことと思うかもしれません。でも御国に入っている先輩方にとっては既に時間の前後関係がない場所にいますから、既にこの御国の中にいます。

 そして、私たちもイエス・キリストを信じることで、ヨハネが第一の手紙1:3に書いたように、父と御子イエス様との交わりに入れられますから、私たちもまた後先の時間関係から自由にされています。普段の日常生活では時間に縛られて後先の関係から自由になることはなかなかできませんが、お祈りをして聖書を開いてみことばに触れ、ディボーションの時を持って神様との交わりに入れていただくなら、後先の前後関係からは自由になれます。

 この後先の関係から自由になることで、私たちは平和を実現できます。どちらが先に相手を侮辱したとか、どちらが先に暴力をふるったとか、どちらが先に生まれた兄だから弟よりも偉いんだとか、そういう後先の関係から自由になるなら、争い事に発展することはずっと少なくなり、平和を実現できるでしょう。

おわりに
 きょうのメッセージを締めくくります。きょうは召天者記念礼拝で、多くの信仰の先輩方がここにおられます。その中のお一人にNさんのお兄さんのKさんがいます。Kさんは24歳の若さで天に召されましたから、この写真だけ見ると、弟のNさんのほうが、ずっと年上に見えます。これだけを見ても、御国には後も先もないことが分かると思います。

 Mさんはイエス様を信じたのが私たちよりも後ですが御国には先に入りました。そうしてイエス様のみもとで憩っておられます。やはり御国には後も先もありません。

 この、後も先もない御国におられる信仰の先輩方、そしてイエス様、そして天の御父に心を寄せることで、私たちはこの地上にいながらにして、時間の後先の関係から自由になり、永遠の神様が共におられることを感じて深い平安を得ます。

 日頃、時間に縛られて生きている私たちは、御国での平安が得られるのは地上生涯を終えてからだと思ってしまいがちですが、そんなことはありません。イエス様を信じてイエス様が身近にいることを感じ、神様が共におられることを感じるなら、いつでも、この世の後先の関係から解放されて深い平安を得ることができます。

 この深い平安を得て、戦争が絶えないこの世にあって、イエス様が与えて下さる深い平安を証しできる私たちでありたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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強盗の巣(2022.4.21 祈り会)

2022-04-23 11:16:12 | 祈り会メッセージ
2022年4月21日祈り会メッセージ
『強盗の巣』
【マルコ11:15~19、エレミヤ7:1~15】

 イースターを越えましたが、きょうは再びイエス様が宮きよめをした場面を開きます。マルコ11:15~19です。

マルコ11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。

 このイエス様の宮きよめの場面を読むと、私自身の心の中にも、余計な物がまだまだたくさんあることを思わされます。余計な物が置かれているのは、エルサレムの宮だけでなく、私自身の心の中も、そうです。

 このマルコ11章の15~19節の宮きよめの記事には旧約聖書からの引用を示す二重の鍵括弧が二ヶ所あります。一つ目がイザヤ書からの引用の『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』で、もう一つがエレミヤ書からの『強盗の巣』です。前回はイザヤ書の方を見ましたから、きょうはエレミヤ書を開くことにします。この『強盗の巣』ということばが出て来るのは、エレミヤ書の7章11節です(旧約p.1300)。少し長くなりますが、7章の1節から読んで行きたいと思います。まず1節、

エレミヤ7:1 からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。

 主はエレミヤに次のように仰せられました。2節、

2 「の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、のことばを聞け。

 主は、宮に主を礼拝しに来た人々に次のように言うようにエレミヤに命じました。3節、

3 イスラエルの神、万軍のはこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。

 ユダの人々は不信仰の罪に陥っていましたから、それを改めるように主は警告しました。4節、

4 あなたがたは、「これはの宮、の宮、の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。

 主の宮は汚されていて、もはや「主の宮」と呼ぶことはできないということですね。あとで11節に「強盗の巣」ということばが出て来ますが、それほどひどいことになっていて、もはや「主の宮」と呼ぶことを主はお許しになりませんでした。続いて5節から7節、

5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、
6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。

 主は、ユダの民が行いを改めるなら、この地にとこしえに住まわせると約束しています。8節から10節、

8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。
9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。
10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。

 善い王だったヨシヤ王の時代には、宮は一旦きよめられましたが、ヨシヤ王が死んだ後のエホヤキム王の時代には、エルサレムの宮は再びひどいことになっていたんですね。このあまりのひどさに、この宮のことを主は「強盗の巣」と呼びました。11節です。

11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──のことば──。

 不信仰に陥ってやりたい放題をしていたエルサレムの民は、もはや主の目には強盗と映っていました。それで主は、このままでは、かつてシロに幕屋があった時代のことに触れて警告しました。12節、

12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。

 これはサムエル記の最初のほうに記されている、サムエルがまだ子供だった頃の祭司エリの時代のことのようです。この時、祭司エリの息子たちはやりたい放題のことをしていました。そして、長老たちの信仰もまた未熟であり、神の箱を幕屋から出してペリシテ人たちとの戦いの場に担ぎ込むという過ちを犯しました。神の箱がそこにあれば、主が共にいて下さり、ペリシテとの戦いに勝たせて下さると思ったんですね。でも、このことの是非を主に伺うことなくイスラエルは自分たちの都合だけで勝手に神の箱を担ぎ出しました。このことに主は怒り、この戦いでイスラエルの兵3万人が倒れ、神の箱も奪われてしまいました。そうして、ダビデがエルサレムに再び運び入れるまで、神の箱は長い間、幕屋の外にありました。

 そして、エレミヤの時代においても、不信仰が繰り返されていました。それゆえ主はエレミヤを通して警告しました。13節から15節、

13 今、あなたがたは、これらのことをみな行い──のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、
14 わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。
15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』

 15節の「エフライムのすべての子孫を追い払った」とは、北王国が滅びて北の民がアッシリアに捕囚として引かれて行ったことを指します。主はシロだけでなく、北王国の民も打ちました。そうして南王国の民も打たれて、エルサレムはバビロン軍の攻撃によって滅び、民はバビロンに捕囚として引かれて行きました。

 イエス様が宮きよめの時に、「強盗の巣」ということばを使ったということは、イエス様の時代のエルサレムもまた似たような状況になっていたということです。それゆえ、イエス様は乱暴な方法で宮きよめを行いました。

 イエス様の時代の祭司たちは、偶像礼拝はしていなかったかもしれませんが、異邦人の祈りの場を商売の場にしていました。隣人の異邦人を愛さず、異邦人の祈りを妨げ、商売人に宮での商売の権利を与えることで利益を得ていました。

 それゆえイエス様は宮きよめを行ったわけですが、結局、エルサレムはこの約40年後に、ローマ軍の攻撃によって再び滅んでしまいました。イエス様はこの40年後のエルサレムの滅亡のことも知っていて、この都のために泣いたことがルカの福音書には書かれています。

  結局、人は同じ過ちを何度も何度も繰り返すのですね。この過ちの繰り返しを断ち切るためにイエス様は十字架に付いて死にましたが、イエス様の十字架の死があってもなお、人々の不信仰は続きます。ロシアとウクライナの戦争でのロシアの残虐な行いにも、不信仰を感じざるを得ません。

 そして、そのような過ちの繰り返しは私自身の中にもあります。イエス様は、これまで何度も私の心の中にある余計な物を取り払って下さいましたが、しばらくすると私はまたここに余計な物を運び込みます。すると、イエス様はまた取り払って下さいますが、また持ち込むということを繰り返します。この過ちの繰り返しから抜け出すためには、やはりもっと永遠の御国にいるイエス様に心を寄せるべきであると思わされます。

 御国にはもはや夜はなく、昼と夜の繰り返しはありません。当然、不信仰が繰り返されることもなく、そこにいる者たちは皆、永遠にきよめられた者たちです。次の聖日は召天者記念礼拝です。私たちの信仰の先輩たちは、この永遠の御国の中にイエス様と共にいて、完全にきよめられています。この信仰の先輩たちのことを思い、素晴らしい御国に思いを寄せることができることを、心から感謝したいと思います。

 そうして、イエス様がこの私を、同じ過ちを繰り返す罪から救い出して下さるように、お祈りしたいと思います。
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空っぽの私に命を吹き込む主(2022.4.17 イースター礼拝)

2022-04-19 05:53:47 | 礼拝メッセージ
2022年4月17日イースター礼拝メッセージ
『空っぽの私に命を吹き込む主』
【ヨハネ20:19~23】

はじめに
 主のご復活を皆さんと心一杯喜び、感謝したいと思います。
 金曜日の午後3時頃に十字架で死なれたイエス様は日が沈む前に墓に葬られました。 そうして、安息日の土曜日を挟んで日曜日の朝にあった出来事を、交読の時にご一緒に読みました。このヨハネ20章の前半の場面も、後で短くご一緒に見ることにしています。そして、きょうの聖書箇所は20章の19~23節で、中心聖句は19節と20節です。
 
ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①期待に胸を膨らませていた弟子たち
 ②イエス様の受難で空っぽになった心
 ③空っぽの私に命を吹き込むイエス様

①期待に胸を膨らませていた弟子たち
 このパートでは、イエス様が十字架に掛かる前の弟子たちについて考えたいと思います。
 福音書には弟子たちが、誰が一番偉いかを議論していたという記述がありますね。ルカの福音書には2度も出て来ます。

ルカ9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

ルカ22:24 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。

 イエス様が北のガリラヤから南のエルサレムに行くまでの間、各地で群衆がイエス様のところに押し寄せました。ザアカイがいたエリコの町では、ザアカイは木に登らなければイエス様の姿が見えないほど、大勢の人がイエス様を見ようと群がっていました。

 そうして、先週も見たようにイエス様がロバの子に乗ってエルサレムに近づいて行った時には、人々は道に自分たちの上着を敷いて大歓迎しました。このように群衆がイエス様のところに押し寄せて来ていた時、弟子たちはイエス様のすぐそばにいましたから、きっと得意になってしまっていたんだろうな~と思います。自分はぜんぜん偉くないのに、まるで自分が偉くなったように、すっかり勘違いしてしまったように思います。

 やがてイエス様がダビデのような王様になったら、自分たちもイエス様の側近として高い地位が与えられるであろうと、妄想が膨らんで、すっかり舞い上がってしまっていたかもしれません。それゆえ最も高い地位が与えられるのは誰か、一番偉いのは誰か、そんな議論をしていたのでしょう。

 比較の対象にしたら気の毒かもしれませんが、与党の大きな派閥に所属している国会議員を思い浮かべると良いのではないかと思います。大きな派閥に属していて、当選回数がある程度になっていれば、大臣になれます。国会の答弁でも何でも官僚が原稿を作ってくれますから、それを読むだけで良くて、言っては悪いですが、派閥の親分が偉ければ、弟子は大したことがなくても、国の偉い地位に就けてしまいます。選挙区がある地元では偉いのかもしれませんが、国の政治の大臣には国レベルの実力がある人に大臣になってほしいと思います。でも親分が偉いと大臣にふさわしい実力が無くても大臣になれてしまいます。

 イエス様の弟子たちも、イエス様と一緒に旅をして各地で大歓迎されているうちに、まるで自分が歓迎されているかのように勘違いをして、やがてイエス様の側近としてダビデの王国の大臣になれるぞと期待で胸を膨らましていたのでしょう。

②イエス様の受難で空っぽになった心
 でも、イエス様が捕らえられて十字架で死刑になって死んでしまったことで、弟子たちの期待は打ち砕かれました。

 どうして、こんなことになってしまったのか、弟子たちは訳が分からなかったことでしょう。胸にぽっかりと穴が空くという表現がありますが、そんな感じではなかったかと思います。イエス様が葬られた墓が空っぽになったことは、弟子たちの心の中もまた空っぽになったことをも表現しているように感じます。

 ヨハネ20章を見て行きましょう。1節と2節、

ヨハネ20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

 マグダラのマリアは墓をふさいでいた石が取りのけられているのを見て、ペテロともう一人の弟子、これはヨハネでしょう、ペテロとヨハネに知らせました。そしてペテロとヨハネも墓に駆け付けて、墓の中に入り、イエス様の遺体が無くなっていることを確認しました。2節にあるようにマリアは誰かがイエス様の遺体をどこかに持って行ってしまったと思い込んでいて、ペテロとヨハネもそう思ったことでしょう。9節に、

9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

とあるからです。この時イエス様は既によみがえっていました。そうして、少し後にマリアの前に現れました。しかし、この時、10節にあるようにペテロとヨハネは自分たちのところに帰っていました。弟子たちの心の中を想像すると、本当に空っぽの墓のように空洞になってしまっていたのではないかなと思います。弟子たちは金曜日のイエス様の受難の出来事についてでさえ、心の整理がぜんぜん出来ていませんでした。どうして、こんなことになってしまったのか、ぜんぜん分かりませんでした。それに追い打ちをかけるように、今度はイエス様の遺体を誰かが持って行ってしまいました。次から次へと予想していなかった想定外のことが起きて、思考停止の状態、一頃よく使われた表現を使うなら「頭の中が真っ白になり」、何も考えられない状態になってしまったのではないでしょうか。

 ほんの数日前までは、自分たちは大臣のような高い地位に就けるのではないかという期待に胸を膨らませていました。その期待が打ち砕かれて、今はユダヤ人たちを恐れて、隠れ家のような所に身を潜めていました。

 そんな風に、この数日間であまりにも色々なことがありすぎて、何も考えられない状態になっていたことでしょう。そんな弟子たちのところに、またしても驚きの情報がもたらされました。マグダラのマリアが、復活したイエス様に会ったという情報でした。弟子たちは、信じられなかったことでしょう。混乱して何も考えられない状態のところに、死んだイエス様がよみがえったという普通では有り得ないことを聞いても、とても信じられなかったことでしょう。

 24節以降に、トマスがイエス様の復活を信じなかったことが書かれていますが、当然のことだと思います。ペテロたちも復活したイエス様が目の前に現れるまでは、マグダラのマリアが言ったことが信じられなかったに違いありません。何も考えられない空っぽの状態のペテロたちには、マグダラのマリアの言うことばは、空しい響きでしかなかったのではないかと思います。

③空っぽの私に命を吹き込むイエス様
 そんなペテロたちの前にイエス様が現れました。
 最後の3番目のパートに進んで19節と20節、

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、それは驚きを含んだ喜びであったことでしょう。エ~!マリアの言ったことは本当だったんだ、エ~、ホントですかイエス様?生きてらっしゃるんですか、イエス様?きっと驚きと喜びが入り混じった感じではなかったかと思います。

 それが一段落してから、やがてしみじみと、本当の喜びが心の奥底からジワジワとしみ出して来たのではないでしょうか。そうして、しみじみと喜びを噛みしめている弟子たちにイエス様は、もう一度語り掛けました。21節と22節です。

21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 今度はただの喜びではなく、心に命が吹き込まれる思いがしたのではないでしょうか。この時から50日目の五旬節の日に弟子たちは聖霊を受けてイエス様を力強く宣べ伝え始めます。そのための準備が、ここから始まりました。そして23節、

23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 イエス様が十字架に掛けられる前、弟子たちは、誰が一番偉いのかの議論をしていました。ルカの福音書には二度もそのことが書かれていますから、きっと、もっと何回も議論していたのでしょう。議論というより喧嘩みたいな言い争いになっていたかもしれません。王であるイエス様の次に偉い総理大臣になるのは、俺様だ、いや違う俺様だ、みたいな感じで、興奮してつかみ合いの喧嘩になりかねないぐらいの勢いで言い争っていたかもしれません。

 自分ではぜんぜん偉くないのに、イエス様の側に付いていたということだけで、すっかり偉くなったつもりになっていました。そうして、人よりも自分のほうが優れていることを主張し合っていたとしたら、それは大きな罪です。イエス様は最後の晩餐の時に、自らへり下って弟子たちの足を洗いましたが、それは弟子たちが誰が一番偉いかの議論をしていたからというのも大きな理由の一つだったんでしょう。

 弟子たちはそのような罪をたくさん持っていました。その罪を互いに赦し合うようにイエス様は弟子たちに教えました。「あなたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます」そうして、互いに赦し合い、互いに愛し合うようにイエス様は教えました。罪を抱えたままでは宣教は十分にはできませんから、まず互いに赦し合うようにイエス様は教え、そうして、ペンテコステの日に向けた準備が始められました。

 イエス様を宣べ伝えることは、大きな喜びです。いま静岡では、静岡のクラーク先生を見直して、札幌のクラーク先生と同じくらいに皆がよく知る人物になるようにしようという働きが動き始めています。私もその働きに遅れてですが少しずつ関わり始めていて、もっと大きな動きになれば良いなと願っているところです。

 札幌のクラーク先生のほうは、「Boys be ambitious」で有名な先生ですから、皆さんも名前だけなら、よく知っていると思います。静岡のクラーク先生は名前すらほとんど知られていないので、もっと知られるようになってほしいと願っています。

 私は北大の出身ですから、札幌のクラーク先生に関する本も何冊か持っています。札幌のクラーク先生はアメリカに帰国してから事業に失敗して、最後は財産も名誉も失って、寂しくこの世を去って行ったそうです。でもクラーク先生はこの世を去る前に、病気で寝ていたベッドで自分の人生を振り返り、札幌で若者たちに聖書を教えることができたことが、自分の人生の中で最大の喜びであったと満足げに振り返ったということです。クラーク先生は牧師ではありませんでしたから、アメリカで聖書を教えることはありませんでした。子どもに教えることぐらいはあったかもしれませんが、若者たちに聖書を教えたのは札幌においてだけだったでしょう。クラーク先生は大学の先生でしたから、アメリカでも多くの学生たちに学問を教えました。でもアメリカの学生たちに学問を教えたことに勝って、札幌の学生たちに聖書を教えることができたことが、自分の人生で最大の喜びであったと、クラーク先生は死の床にあって、語ったそうです。

 次に静岡のクラーク先生の話をします。札幌のクラーク先生はウイリアム・クラークですが、静岡のクラーク先生はエドワード・クラークです。

 静岡のエドワード・クラーク先生は札幌の先生より5年早い明治4年に日本に来て、静岡の学問所で若者たちに当時の最先端の科学などを教えました。それと共に、宿舎では若者たちに聖書を教えていたそうです。静岡に来たばかりの頃のクラーク先生の宿舎は沓谷の蓮永寺でした。北街道を水落から千代田の方面に行く時、沓谷で旧街道と新しい街道とが分岐する所がありますね。ちょうどその分岐点の辺りに蓮永寺はあります。そこでエドワード・クラーク先生は若者たちに聖書を教えました。当時は静岡のクラーク先生も牧師ではありませんでした。そして、先生はアメリカに帰国した後に牧師になりました。父親が牧師であったという家庭環境もあったと思いますが、やはり、静岡の若者たちに聖書を教えたことに大きな喜びを感じたからだろうと思います。

 札幌のクラーク先生は日本に来た時に既に50歳でしたが、静岡のクラーク先生は日本に来た時は22歳で、アメリカに帰国した時もまだ20代後半の若さでしたから、帰国してからの生涯をイエス様を宣べ伝えるためにささげたのですね。いずれにしても、札幌のクラーク先生にしても、静岡のクラーク先生にしても、まだ聖書を知らなかった日本の若者たちに聖書を教えたことが、いかに大きな喜びであったかということが、よく分かる逸話だと思います。

 エドワード・クラーク先生が静岡に来た明治4年当時、静岡には徳川慶喜と共に静岡に移り住んだ幕臣たちが多くいました。勝海舟もその一人でした。この徳川家の家来の幕臣たちは薩長連合の官軍に負けて江戸城を明け渡して静岡に移って来た訳ですから、心の中が空っぽになっていた者が多かったでしょう。静岡の学問所で学んでいた若者たちは、その子弟たちでした。親が希望を失って静岡に来たのですから、その子である若者たちも将来どうしたら良いのか分からなくて希望が持てない者たちがほとんどではなかったかと思います。

 その空っぽだった若者たちの心を満たしたのが、エドワード・クラーク先生が教えた聖書と西洋の最先端の科学でした。若者たちの心は燃えたことでしょう。ちょうどイエス様の弟子たちが、イエス様が十字架で死んで心が空っぽになった所に復活したイエス様が現れて弟子たちの心に命が吹き込まれたように、江戸城を明け渡した幕臣の子で明るい希望もなく空っぽだった静岡の若者たちの心もクラーク先生の聖書と科学が豊かに満たし、燃やしたことでしょう。

 そして、イエス様は空っぽだった私たちの心にも命を吹き込んで下さいました。イースターのきょう、このことを心一杯感謝して喜び、お祝いしたいと思います。

おわりに
 聖書は伝える側にも教わる側にも大きな喜びを与えます。札幌のクラーク先生は人生で最大の喜びであったと死の床で語り、静岡のクラーク先生は帰国してから牧師になりました。聖書を学ぶ喜びは、伝える側と教わる側の両方が喜び合うことで共鳴し合って、喜びが増幅するものであるということが、二人のクラーク先生が聖書を教えた経験から伝わって来ます。今の時代、牧師が不足しているのは、この喜びが共鳴することが不足しているからではないかと、とても考えさせられます。

 牧師が不足しているのはインマヌエルだけでなく、どの教団も事情は同じです。特に若い牧師が圧倒的に不足しています。それは牧師の給料が少ないせいだろうか?と漠然と思っていましたが、それ以前に伝える側と教わる側の喜びが共鳴し合って喜びが増幅することが少ないからなのかもしれません。

 これは全国的なことですから、私の説教が下手だからとか、そういうことだけではなさそうです。それが何なのか、イースターのこの機会に考えなさいとイエス様はおっしゃっているように感じます。その原因が分かれば、(大きなことを言うようですが)、日本のキリスト教会もきっと息を吹き返して復活するように思います。

 教会学校でも礼拝の説教でも、聖書を伝える側と教わる側が共に喜びを分かち合うこと、それを妨げる何かが今の世にはありそうです。それが何かを考えるなら、きっとイエス様が答を教えて下さることと思います。

 それが分れば、きっと日本のキリスト教会は復活します。きょうのイースターの日、イエス様が復活したことで私たちは喜びに包まれています。そして、教会が息を吹き返して多くの人が集うようになるなら、私たちはもっと大きな喜びに包まれます。そのことを願い、どうしたら教会が息を吹き返すのか、イエス様に教えていただきたいと思います。そうして、さらなる喜びをいただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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聖書とエントロピー

2022-04-14 07:31:17 | 霊と魂の熱力学
聖書とエントロピー
~時間の矢からの解放が世界を平和に導く~


はじめに
 平和を実現するために、聖書を本気で信じる人がもっと必要だ。聖書は「世界のベストセラー」とも呼ばれて世界で一番読まれている本だと言われている。しかし、読まれている割には聖書の記述を本気で信じている人は少ないようだ。20世紀から21世紀に掛けて科学技術の発達が加速したことで、聖書を本気で信じる人はますます少なくなっていると思う。これでは平和は遠のく一方だ。20世紀の二度の世界大戦も21世紀のロシアとウクライナの戦争も、聖書を本気で信じる人がもっと多くいたら防げたのではないか。聖書は多くの人に読まれている本であるからこそ、世界を平和に導く大きな力を秘めている。ぜひ多くの人に聖書に書かれていることを本気で信じていただきたい。

 聖書を本気で信じることを妨げる要因の第一は、「奇跡」の記述があることだろう。本稿では先ず、奇跡を「エントロピー」の観点から眺めることにする。物理学の大きな成果であるエントロピーの概念を聖書の奇跡の解釈に取り入れることで、21世紀の読者が聖書を本気で信じるきっかけとなれば幸いである。理工系以外の人には取っ付きにくいであろうエントロピーについて書くと、聖書を余計に難しくしてしまうかもしれない。しかし、聖書が『花咲か爺さん』のような「良い話」として読まれて、書かれた奇跡を本気で信じる必要はないと思われるよりは、遥かに良いであろう。

1.奇跡とエントロピー
 エントロピーとは秩序・無秩序の乱雑さの度合いを示す物理学の指標だ。秩序があって整然としていればエントロピーは低く、無秩序で乱雑ならエントロピーは高い。複数個の赤い球と白い球を机の上に置いた時に赤と白が混じり合うことなく偏っていればエントロピーは低く、よく混じり合っていればエントロピーは高い。

 或いはまた、将棋の駒を箱から出して将棋盤の上にバラバラの状態で置いた時、エントロピーは高い。その駒を盤上に王将から歩兵まで順番に並べて行けば、エントロピーは低くなる。本が書棚にきちんと収まっていればエントロピーは低いが、地震で本が棚から落ちて床に散乱すればエントロピーは高くなる。果物をミキサーでジュースにすればエントロピーは低い状態から高い状態になる。

 さて、ミキサーで作ったイチゴのジュースをしばらく放っておいたら、いつの間にか元のイチゴの形に戻ったとしよう。つまり、いつの間にかエントロピーが高い状態から低い状態に戻ったとしよう。そんなことは、普通は起こらない。果物のジュースが果物の形に戻れば奇跡だ。そんな奇跡は、普通は起きないと多くの人は考えるだろう。つまり、【奇跡とはエントロピーが高い状態から低い状態になること】と言えそうだ。

 しかし実は、エントロピーが高い状態から低い状態に移ることは日常的に起きている。例えば、赤ちゃんはミルクを飲んで大きくなる。ミルクというエントロピーの高い液体が、骨、筋肉、臓器などのエントロピーの低い組織の一部となって赤ちゃんを成長させて行くのだ。ミルクは赤ちゃんの胃から吸収されることで、エントロピーが高い状態から低い状態へ移行する。植物も同様だ。光合成によってエントロピーの高い二酸化炭素と水が、エントロピーの低い糖類になる。

 これらの生命活動は神秘的であり奇跡的だ。日常的に起きていることだから奇跡とは呼ばないかもしれないが、やはり生命活動は奇跡だ。この生命を、聖書は創世記1章で神が創造したと記している。植物も動物も人間もすべて神が造ったと聖書は記している。聖書には死んだ人が生き返る話も載っているが、これもエントロピーが高い状態から低い状態に移ったと言えるだろう。死ねば腐敗が進んでエントロピーは高まる一方だが、生き返って生命活動が再開すればエントロピーは再び低くなる。

 奇跡を信じることは非科学的であると、21世紀を生きる人の多くは思うかもしれない。しかし、上記のように生命活動においてはエントロピーが高い状態から低い状態へ移行する奇跡が日常的に起きている。この生命の奇跡を考えるなら、聖書が記す奇跡を私たちが本気で信じることは、決して非常識なことではないと思う。生命の仕組みは極めて精巧だ。精巧な時計が偶然に組み上がると考える人は皆無であろう。精巧な生命なら偶然に組み上がっても不思議ではないのだろうか?

 神が生命を造ったと書くと、人間のような姿をした神が試験管やフラスコを振っている様子を思い浮かべる人もいるかもしれない。そして、クリスチャンとは試験管を振る神を信じる非科学的な人種だと思うかもしれない。しかし、それは誤解だ。神が生命を造ったと信じることは、科学者たちが提唱するメカニズムに神が見えない形で関与していると信じることだ。それ以外に特別なことは考えておらず、科学者の説を尊重している。生物の進化も私は科学者の説を尊重しており、遺伝子の変異に神の関与があったと考えている。

 生命の仕組みは本当に不思議だ。私が住む教会の2階の物干し台ではキジバトが巣を作って子育てをするので、目の前でじっくりと観察することができる。ヒナの大きさは孵化直後は3~4cm程度なのだが、わずか2週間ほどで親鳥に近いサイズの20cm以上にまで大きくなる。その成長スピードの速さにも驚くが、成鳥のサイズになった途端に急ブレーキが掛かるかのように成長が止まることにも驚く。細胞分裂を促す遺伝子のスイッチがオンからオフになるのだろうか?

 最近読んだ『日本人の「遺伝子」からみた病気になりにくい体質のつくりかた』(奥田昌子、講談社ブルーバックス 2022)によれば、人間の母親が妊娠中に栄養不良であると、子は肥満や生活習慣病になりやすい体質を持って生まれて来るのだそうだ。第二次世界大戦中の1944~1945年に飢きんに苦しんだオランダの母親の胎内にいた赤ちゃんは成長後に心筋梗塞などの心臓病、動脈硬化、糖尿病による腎臓の機能障害、肥満などの発生率が高くなったそうだ。21世紀になってゲノム解析が可能になり、この人たちのゲノムを調べたところ、成長と発達に関係する遺伝子のうち、本来はオフでなければならないスイッチが中途半端にオンになっていたことが分かったとのことだ(p.190-194)。少ない栄養でも成長できるように遺伝子のスイッチがオンになって生まれたものの、戦後は食料事情が好転したので肥満等になったようだ。このような遺伝子のスイッチのオンオフの仕組みは本当に巧妙だ。このような仕組みが偶然にできるだろうか?神の関与を考えたほうがむしろ自然なのではないかと個人的には思う。

 生命は神が造ったと信じるか否かで、聖書が説く倫理的な教えとの向き合い方も違って来る。聖書の記述を本気で信じるなら、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネの福音書13章34節、他)というイエスの教えにも本気で耳を傾けるようになる。すると、世界はもっと平和になる筈だ。但し、時間の矢が常に人を不安へと誘う。不安が増すなら人は心の平安を失い、争いが起きやすくなる。そして最悪の場合には戦争にまで発展する。ウクライナへの侵攻に踏み切ったロシアのプーチン大統領の心の中は様々な不安が交錯していることだろう。心の平安を得るには、時間の矢がもたらす不安から解放される必要がある。次に、時間の矢とエントロピーとの関係を考えることにしよう。

2.時間の矢とエントロピー
 時間の矢とは、【過去→現在→未来】というように、時間が過去から未来の方向へ一方通行で流れているかのように感じることだ。この時間の矢を感じることは、エントロピーの変化と密接に関連している。例えば、空の雲が動物の形に似ていたとしよう。それが段々と形が崩れて動物らしくない乱雑な形になったら、時間の経過を意識するだろう。しかし最初から乱雑な形であった雲が、別の乱雑な形に変化したとしても、特には時間の経過を意識しないだろう。冷たいジュースの中にある氷が溶けてしまったら時間の経過を意識するが、氷が無いジュースを眺めていても時間の経過を意識することはあまりないだろう。氷のエントロピーは低く、氷が溶けた後の水のエントロピーは高い。時間の矢はエントロピーが低い状態から高い状態に移る時に意識するものだ。つまり時間の矢はエントロピーが低い側から高い側へと向いている。

 エントロピーが増大する方向が時間の矢の方向であることは、物理学者のブライアン・グリーンも『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体・上』(青木薫・訳、草思社 2009)の中で述べている。グリーンは原初の宇宙ではエントロピーが極めて低い状態にあったとして、次のように述べている。

宇宙の起源に関するもっとも精巧な理論――もっとも精巧な宇宙の理論――によれば、誕生からおよそ2分後の宇宙は、水素が約75%と、ヘリウムが23%、そして少量の重水素とリチウムからなるほぼ均一な高温のガスで満たされていた。ここで重要なのは、宇宙を満たしていたこのガスのエントロピーは、非常に低かったことだ。ビッグバンはこの宇宙を、エントロピーの低い状態でスタートさせた(p.283)。

 このグリーンの本を私が最初に読んだのは2010年で、当時はなぜ原初の宇宙のガスのエントロピーが非常に低かったのか、不思議だった。それは、つい自分の身の回りにある空気のようなエントロピーが高い希薄なガスを思い浮かべてしまっていたからだ。しかし、ビッグバンの時の原初のガスは超高温高密度であったということだ。超高温であればエネルギーの価値が高く、また超高密度であれば内部で自由に動き回ることができないのでエントロピーは非常に低かったということなのだろう。

 そうして宇宙はエントロピーが低い状態から高い状態へ向かっているので、私たちが生きているこの世もまたエントロピーが低い状態から高い状態へ向かっていて、それが時間の矢の方向になっているということだ。

 すると、エントロピーが高いミルクからエントロピーが低い赤ちゃんの細胞組織を造ることができる神は、人間を時間の矢から解放する力を持っていると言えるのではないか。時間の矢は人の心を不安定にするので、人が時間の矢の縛りから解放されれば、この世はもっと平和になる筈だ。

 人生には良い時もあれば悪い時もあり、その中で人は絶えず不安を抱えている。良い時にはまたいつか悪くなるのではないかと心配し、悪い時にはこのまま悪いままでいるのではないかと心配する。物価の変動に一喜一憂し、給与の増減にも一喜一憂する。或いはまた学業や仕事の成績の上下にも人の心は浮き沈みを繰り返す。職場で他者と業績の競争を強いられれば、それも大きなストレスとなる。ストレスが心のイライラとなって人との衝突の原因となることもしばしばだ。

 人は生まれた瞬間から死へ向かって時間の矢に縛られながら生きて行く。死への不安は人生を暗くする。そこで死から目を背けて、無理に明るく過ごす生き方もある。しかし、それもどこか不自然で不健全であり、頽廃を招く。時間の矢に縛られた人間の悩みは深く、時間の矢が様々な罪を生み出して行く。

3.人間の罪とエントロピー
 聖書の冒頭は次の書き出しで始まる。

はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。(創世記1:1-3)

この最初の光は、ビッグバンの光であると考える人も多い。それはともかくとして、最初はすべてが「非常に良かった」と創世記は記している。

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。(創世記1:31)

 最初は「非常に良かった」ということは、最初はエントロピーが非常に低かったということだ。これは、上述した物理学者のブライアン・グリーンが書いたビッグバン直後のエントロピーが低い原初の宇宙と、よく一致する。

 また聖書は、そもそも神自身が「完全」であると記している。新約聖書のマタイの福音書では、イエスのことばとして次のように書かれている。

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)

「天の父」とは神のことだ。神は「完全」であるから、エントロピーが最小の存在だということになる。そうしてイエスは弟子たちに対しても「完全でありなさい」と教えた。もちろん人間は神のような完全な存在にはなれない。しかし、少しでも近づけるようにすべきだとイエスは弟子たちに教えた。

 なぜイエスは弟子たちに完全になるように教えたのか。それは旧約の時代に人間の悪が増大し続けて来たからだ。人間は創世記1章の最初の頃は「非常に良かった」。しかし、神が食べてはならないと命じていた木の実を食べてしまったために悪くなり始めた。アダムの妻のエバが蛇にそそのかされて木の実を食べ、夫のアダムもまた食べてしまったのだ(創世記3章)。こうして人間は悪くなる方向へと進んでいった。つまりエントロピーが増大する方向に進んで行ったのだ。その旧約の時代に増大した罪を赦して正すために、神の御子イエスは天から遣わされた。新約聖書にはそのイエスと弟子たちの働きが記されている。

4.エントロピー減少への転換点の十字架
 聖書は、神に背き、神から離れることが罪であることを教える。その神から離れる罪が、人を常に不安にさせる。人には未来のことが分からないが、永遠の中にいる神には未来のことが分かる。神から離れずにいて神に導かれていれば、不安は大幅に軽減される。【過去→現在→未来】の一方通行の時間の矢の中に縛られている人間は、永遠の中にいる神が共にいなければ、決して平安は得られないのだ。

 以上の事柄を踏まえて、イエス・キリストの十字架のこともまた、エントロピーの観点から考えてみよう。十字架に付く日を目前にしてイエスは人々に、こう言った。

「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

「地上から上げられるとき」とは、「十字架に付けられるとき」ということだ。この時に「すべての人を自分のもとに引き寄せます」ということは、エントロピーが減少する方向への転換を示すと言えるだろう。神に背いて神から離れる一方であった人々が、神の方を向くようになるからだ。それゆえ十字架とは、増大する一方であったエントロピーが減少へ向かうようにする転換点であったと言うことができるだろう。

 十字架の直前の最後の晩餐の祈りでイエスは皆が一つになるように祈った。

「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(ヨハネ17:21-22)

 旧約の時代は人々がバラバラになっていた。それをイエスは新しい契約(新約)を結んで十字架に付くことで、皆が一つになる方向へと転換した。バラバラの者たちが一つになるのだから、それはエントロピーが減少する方向であるということだ。

 そうして終わりの時には新しい天と新しい地(新天新地)が創造される。新天新地はエントロピーが最小の完全な場所だ。聖書の最終盤のヨハネの黙示録21章には次のように記されている。

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1-4)

 ここに死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。ここではすべてが整然とした秩序の中にあるから、エントロピーは最小だ。創世記1章で造られたエントロピーが最小の「非常に良かった」場所はアダムとエバが犯した罪によってエントロピーが増え始めた。しかし、イエス・キリストの十字架を転換点としてエントロピーが減少に転じて、新天新地というエントロピーが最小の完全な場所に戻るのだ。

5.時間の矢から罪人を解放する十字架
 十字架は不思議だ。十字架を見ると心が安らぐ。残酷な死刑に用いられる十字架なのに、なぜ十字架は人の心に平安を与えるのだろうか?よく言われることは、人の罪が十字架によって赦されたから心が平安になるのだ、ということだ。神に背いていた罪人の私たち一人一人を神は愛しており、その愛ゆえにイエスは十字架の苦しみを受けて私の罪を赦して下さった、その十字架の愛によって心の平安が得られる、というのだ。

 もちろん、そうだろう。しかし、上記の十字架の赦しの説明には重大な欠落がある。なぜ1世紀の十字架で21世紀の私の罪が赦されるのか、この時間の逆転に関する説明が欠落している。1世紀には私はまだ生まれておらず、罪を犯してはいなかった。罪の赦しとは普通は罪が犯された後で行われるものの筈だ。それなのに、なぜ21世紀の罪が1世紀の十字架によって赦されるのだろうか?

 それは、十字架がまさにエントロピーの増大から減少への転換点になっているからだ。十字架はバラバラに離散した罪人を一つに集めるだけでなく、罪人を時間の矢からも解放するのだ。21世紀の罪人は時間の矢から解放されるからこそ、1世紀の十字架によって赦される。そうして時間の矢から解放された罪人の私は様々な不安からも解き放たれて、心の深い平安を得ることができる。

おわりに ~時間の矢からの解放が世界を平和に導く~
 十字架がエントロピーの増大から減少への転換点であるのに、今なお多くの人が時間の矢に縛られており、心の不安を抱えてイライラし、争い事を起こすことが繰り返されている。それは、聖書が人を時間の矢から解放する書であることが十分に理解されていないからであるように思う。それゆえ、聖書は世界を平和に導く大きな力を秘めている。聖書は「世界のベストセラー」であり、世界で一番読まれている本であるから、多くの人が聖書に書かれていることを本気で信じて、時間の矢の縛りから解放されるなら、世界は平和へ向かうだろう。今は時間の矢に縛られている人がまだ極めて多い状態だ。だからこそ、多くの人が時間の矢から解放されれば、世界は平和へ向かうだろう。

 しかし、時間の矢の縛りは強烈だ。聖書を本気で信じている人々でもまだまだ時間の矢に強烈に縛られている。拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~」(ヨベル新書 2017)では、ヨハネの福音書のイエスが完全に時間の矢から解放されていて、「旧約の時代」と「使徒の時代」にも同時に存在していることを説明したが、ほとんど理解されていない。聖書を本気で信じ、十字架によって平安が得られているクリスチャンなら時間の矢から解放されている筈なのだが、なお縛られているようだ。

 聖書を本気で信じているのに時間の矢に縛られたままでいるのは、【過去→現在→未来】という時間の流れをあまりにも当たり前のこととして感じているからだろうか?しかし、神は【過去→現在→未来】という時間の流れには縛られない永遠の中にいる。私たちは聖書を本気で信じ、永遠の中にいる神に心を寄せることで平安を得て、争いのない平和な世界の実現に貢献したい。ロシアがウクライナに侵攻して起こした戦争によって第三次世界大戦への発展も心配される今、聖書が秘める大きな力によって平和が実現することを願うばかりである。

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戦災の悲劇を悲しむイエスと一つになる(2022.4.10 礼拝)

2022-04-10 12:56:31 | 礼拝メッセージ
2022年4月10日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『戦災の悲劇を悲しむイエスと一つになる』
【ルカ19:41~44】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日、パームサンデーです。交読の時にご一緒に読んだように、イエス様はロバの子に乗ってゆっくりとエルサレムに近づいて行きました。すると、人々は道に自分たちの上着を敷いて、イエス様を歓迎しました。そうして37節と38節には、このように書かれています。

ルカ19:37 イエスがいよいよオリーブ山(やま)の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 37節には大勢の弟子たちがみな、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めたとあります。「大勢の弟子たち」ということは、イエス様が北のガリラヤから南のエルサレムまで旅をする間にイエス様に付き従う弟子たちの数がどんどん増えていったんですね。

 そうして、いよいよイエス様はエルサレムのすぐ近くにまで来ました。イエス様はそこで、この都のために泣きました。これがきょうの中心聖句の、ルカ19章41節です。

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①余計な物を片付けイエス様と一つになる
 ②同じ悲劇を繰り返すエルサレムを悲しむ
 ③十字架後もすぐには変わらぬ世を悲しむ

①余計な物を片付けイエス様と一つになる
 先週の礼拝説教では、マルコの福音書の「宮きよめ」の場面を開きました。ルカの福音書にも、きょうの聖書箇所の後に「宮きよめ」の記事がありますから、見てみましょう。19章の45節と46節です。

45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、
46 彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」

 エルサレムの宮は祈りの家なのに、祈りを妨げる余計な物がたくさん置かれていました。そして、もしかしたら私たちの心の中も同じなのかもしれません。余計な物がいろいろと置かれているなら、イエス様との距離が離れてしまいます。

 先週の説教では、ライフラインで放送されたソプラノ歌手の坂井田真実子さんの証しを紹介しました。坂井田さんは超一流のオペラ歌手としての階段を着実に上ってキャリアを積んでいましたが、難病に掛かって一時は下半身不随になりました。リハビリによって、ある程度までは回復したものの、それまでのような音楽活動はできなくなり、限られた活動しかできなくなりました。でも、そのことで坂井田さんは神様と自分との間に挟まっていた余計な物、キャリアやオーディション、大きな舞台、そういったものが全部取り払われて、神様をずっと近くに感じることができるようになった、だから幸せなのだそうです。

 私たちも神様を、そしてイエス様をできるだけ近くに感じることができるようになりたいと思います。教会に通い始めた頃に比べると今はイエス様を随分と近くに感じるようになっている、ということはほとんどの皆さんが感じていることだと思います。最初の頃は、二千年前のよく分からない人という感じで、自分からはすごく離れた所にイエスという男がいます。それが、いつの間にか、とても近くに感じるようになって、「イエスという男」ではなくて「イエス様」と呼ぶようになります。

 そうして、きょう願っていることは、私たちの一人一人がイエス様と一つになるくらいにイエス様との距離を縮めたいということです。エルサレムに近づいたイエス様は、この都のために泣きました。イエス様はどんな思いで、泣いたのでしょうか。イエス様と一つになるぐらいに近づいて、イエス様の思いを知りたいと思います。

②同じ悲劇を繰り返すエルサレムを悲しむ
 きょうの聖書箇所を見て行きましょう。まず41節、

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

 イエス様はどうして泣いたのでしょうか。42節、

42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

 「おまえ」というのはエルサレムのことです。イエス様はエルサレムを擬人化して、つまり人のように見て、エルサレムに語り掛けています。エルサレムには平和に向かう道もありました。でも、エルサレムに住む人々にはそれが見えていませんでした。そうして、この約40年後にエルサレムはローマ軍の攻撃によってメチャメチャにされて火を付けられ、炎上して廃墟になってしまいます。43節と44節、

43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかないとは、このエルサレムの街が徹底的に破壊されてメチャメチャになるということです。実際にエルサレムはそのように破壊され、火を付けられて神殿も炎上して崩れ去り、廃墟になってしまいました。

 これは、エルサレムがまたしても滅びるということです。エルサレムは旧約の時代の紀元前586年にも、バビロン軍の攻撃によって滅亡しています。列王記を読むと、当時のユダの国の王たちの多くが悪王であり、主の目に悪であることを行っていたと書かれています。中にはヒゼキヤ王やヨシヤ王のような良い王もいましたが、多くは律法を重んじない悪王たちでした。ヨシヤ王の前のマナセ王とアモン王の親子の時代は最悪で、悪魔の時代とされています。預言者たちが殺され、はっきりと書かれてはいませんが、イザヤもマナセ王の時代に殺されたのではないかという説があります。いずれにしても、マナセ王の時代には多くの血が流されたと列王記第二には記しています。

 こういう悪王たちの悪魔の時代のことを礼拝の説教で話してもぜんぜん恵まれませんから、あまり話すことはありません。ですから、それを補う意味でもご自宅での聖書通読はぜひ行っていただきたいなと思います。これらの時代の悲惨な出来事の数々を聖書通読によって知り、そうして永遠の中を生きるイエス様がどれほど悲しんでおられたか、イエス様と一つになることで分かるようになりたいと思います。

 さて、最悪の王であったマナセ王とアモン王の親子の後のヨシヤ王は良い王で、宗教改革を行いました。クリスチャンホームで男の子が生まれると「よしや」と名付けられることがありますね。それはヨシヤがとても良い王として聖書に記録されているからです。このヨシヤの時代に律法の書が神殿から発見されました。発見されたということは、紛失していたということで、ヨシヤは最初のうちは律法の書の存在すら知りませんでした。それほどヨシヤの前のマナセ王とアモン王の時代は悪に満ちた、ひどい時代でした。それをヨシヤ王は正しました。

 しかし、せっかくヨシヤ王が宗教改革を行って悪を取り払ったのに、ヨシヤの子のエホヤキム王がまたしても、マナセとアモンの悪王の時代に戻してしまいました。エレミヤ書には、エホヤキム王がエレミヤが語った神のことばを記した巻物を暖炉の火で焼いてしまったことが書かれています。こういうひどいことをしていたのですから、主の怒りによって滅ぼされてしまったのも仕方のないことと言えるかもしれません。主は滅ぼす前にエレミヤを通して再三に渡って悔い改めるように警告していました。その警告が王たちに聞かれることはありませんでしたから、エルサレムは滅ぼされてしまい、エルサレムの住民の多くは殺され、生き残った者たちもバビロンに捕囚として引かれて行ってしまいました。

 このエルサレムの滅亡の悲劇が紀元70年にもまた繰り返されました。エルサレムは廃墟となって住民の多くが殺され、生き残った者たちは世界中に散らされました。イエス様の悲しみはどれほど深かったことでしょうか。

③十字架後もすぐには変わらぬ世を悲しむ
 きょう皆さんと一番分かち合いたいと願っていることは、エルサレムのために泣いたイエス様が、これから5日後には十字架に付けられる、そういう時であったということです。イエス様が十字架の苦しみを受けたことで、私たちは心の平安を得ることができるようになりました。それはイザヤ書53章5節に書かれている通りです。それは、イエス様ご自身もよくご存じのことでした。イザヤ53章5節、

イザヤ53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 十字架に付くことで人々の罪が赦され、そのことで人々が心の平安を得て、地上に平和がもたらされるようになる、このことはイエス様ご自身もよくご存じのことです。でも、十字架に付くことは大変な苦しみを受けることになります。イエス様は、できればこの苦い杯を飲みたくはありませんでした。ルカ22章42節でイエス様は天の父に祈っています

ルカ22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。
44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕

 御使いが天から現れてイエス様を力づける必要があったほどにイエス様はこれから受ける十字架の苦しみのことで悶え、苦悩していました。そして同時にイエス様は、人々の不信仰はそんなに簡単には改められずに、地上に平和がもたらされるのには、長~い時間が掛かることもよくご存じでした。使徒の働きに書かれているようにイエス様を信じる人々もいましたが、それはまだまだ少数派であり、ステパノの迫害をきっかけにして弟子たちは迫害を受けることになることもイエス様はご存じでした。そんなに簡単には不信仰が改まらないことをイエス様はご存じでした。

 そうして、イエス様を信じないエルサレムのユダヤ人たちの多くはローマ軍の攻撃を受けた時に亡くなりました。それが1世紀の出来事です。そして20世紀には二度の世界大戦があり、21世紀の今、ロシア人は隣人のウクライナ人を愛することができずに軍事侵攻して、一般市民の多くが残虐な方法で殺害されたことが報じられています。イエス様は永遠の中を生きておられますから、こういうことのほとんどを、よくご存じでしょう。

 イエス様はご自分が十字架につくことで、多くの人々が神様に立ち返り、すぐにでも地上に平和がもたらされるなら、イエス様は「喜んで」とまでは言いませんが、それほど苦悩せずに十字架に付いたかもしれません。でも、イエス様はご自分が十字架に付いてもそんなにすぐには地上に平安がもたらされないことを、よくご存じでした。それでも、十字架に付かなければ、世の中は改まらずに悪いままですから、十字架はどうしても必要でした。でも、世の中が改まるにはとても長い時間が掛かることが分かっていました。イエス様にとって、これはどんなにつらいことだったでしょうか。ですから、できればこの苦い杯を飲みたくはありませんでした。でも、イエス様は「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と天の父に祈りました。

 このイエス様の耐え難い苦悩を、私たちはイエス様と一つになって感じ取りたいと思います。

おわりに
 1年半前にスコット・マクナイトの『福音の再発見』(中村佐知訳、キリスト新聞社 2013)の新装改訂版が出版された時に購入して、週報台に置きました。この本は2013年に最初に出版された時に、大変に話題になって多くの人が買い求めたので品切れ状態になり、2020年の秋に新装改訂版として再び出版されました。この本の中で著者のマクナイトは、現代のアメリカの教会が「救いの文化」に支配されてしまっていて、「福音の文化」が廃れてしまっていることを大変に憂慮していて、聖書的には「福音の文化」を持つことが教会の本来の姿であることをこの本で主張しています。それはアメリカだけではなく日本も同じだということで、何人かの有志の方々によって、この本の日本語訳が2013年に出版されました。

 「救いの文化」というのは要約して簡単に言うなら、イエス・キリストの十字架の贖いを信じて罪が赦され、永遠の命を得て天国に入れるようになることを最大の目的として伝道活動をする文化のことです。もちろん、この「救いの文化」はとても大事です。でも、イエス様の弟子となって、イエス様の働きに加わることは、もっと大事なことです。イエス様は、この世に神の国を築くために今も働いておられます。その働きを助ける弟子となることが何よりも大切であり、イエス様の弟子になるなら救いの恵みには自動的に与ることができます。

 黙示録の最後の21章と22章に書かれているように、終わりの時には天から新しいエルサレムが降って来て、新天新地が創造されます。その終わりの時に間に合わなければ、私たちは先ずは天の御国に入りますが、その天はいずれはこの地に降って来ます。私たちが主の祈りで祈る、「御国が来ますように」は、このことの筈です。この、天の御国が地上に来る時に備えて、私たちは少しでもこの世が平和になるために働き、天の御国が降って来た時には多くの人々が入ることができるよう、働くべきです。働くと言っても別にそのことのために汗をかきましょうと言っているわけではありません。イエス様に似た者へと変えられて行き、きよめられて行くことで、自然とその働きができるようになるでしょう。ですから、私たちはきよめられる必要があります。イエス様に似た者へときよめられることで、福音が自然と伝わっていくようになります。これが「福音の文化」でしょう。マクナイトは「きよめ」ということばは使っていませんが、同じことです。私たちはイエス様の弟子となって、この世に神の国が築かれるように働くイエス様を助けたいと思います。これが「福音の文化」です。「救いの文化」にとどまっているなら、イエス様の弟子としてきよめられる、次のステップに進んで行くことができません。

 イエス様の十字架から間もなく二千年が経とうとしています。それなのに、今のウクライナのようなことが起きています。どうしてでしょうか。それは、クリスチャンの多くが「救いの文化」にとどまっているからでしょう。『福音の再発見』を書いたマクナイトは戦争のことまでは書いていません。でも私は、クリスチャンが多くいる国で戦争が繰り返されて来たのは、クリスチャンの多くが「救いの文化」にとどまっていたからだと考えます。天国に入れる入場券さえ手に入ればそれで良くて、イエス様の弟子になって、きよめられることまでは考えないクリスチャンが多いために、いつまで経っても戦争が繰り返されているのだと思います。

 今私たちは、ウクライナが悲惨な状況になっている報道を、毎日目の当たりにしています。その今こそ私たちは「救いの文化」を超えて「福音の文化」へと移って行かなければならないのだと思います。イエス様の弟子になり、戦災の悲劇を悲しむイエス様と一つになって、天の御国が来るように働くイエス様と共に、きよめの道を進みたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りいたしましょう。

ルカ19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
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あらゆる民の祈りの家(2022.4.7 祈り会)

2022-04-10 12:40:37 | 祈り会メッセージ
2022年4月7日祈り会メッセージ
『あらゆる民の祈りの家』
【マルコ11:15~19、イザヤ2:1~4、56:6~7】

 きょうは4月7日で、17日のイースターの日まであと10日です。十字架の金曜日と復活のイースターに向けて、心を整えて行きたいと思います。

 きょうの聖書箇所は先日の礼拝説教で開いた箇所と同じですが、礼拝では主に15節に注目しました。きょうは17節に注目したいと思います。17節をもう一度、お読みします。

マルコ11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 この17節のイエス様のことばの中には旧約聖書からの引用が2箇所あります。二重の鍵括弧でくくってある箇所で、1つ目の『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』はイザヤ書からの引用、2つ目の『強盗の巣』はエレミヤ書からの引用です。きょうはイザヤ書のほうを見て、再来週、エレミヤ書のほうを見たいと思っています。来週は最後の晩餐の日ですから、別の箇所を開いて聖餐式を行いたいと願っています。来週の祈り会の司会は私ですから、前半に短く聖書を開いて心を整え、そして皆でお祈りをした後で、後半は聖餐式を行いたいと思います。
 
 では、イザヤ書を開く前に先日の礼拝で注目した15節を簡単に振り返っておくことにします。15節をもう一度お読みします。

15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 イエス様がこの15節でしたことは、随分と乱暴に見えます。でも、このエルサレムの宮の状態を私たち一人一人の心の中の状態であると考えるなら、これぐらい乱暴に片づけてもらわなければならないほど、私たちの心の中には余計な物がいろいろと運び込まれているのかもしれない、そういう話をしました。

 エルサレムの宮は一番聖所に近い内側に①男子の庭があり、その外側に②婦人の庭、そして一番外側に③異邦人の庭があったそうです。そして商売人たちが商いをしていたのは一番外側の異邦人の庭であったということです。異邦人はここまでしか入ることが許されていませんでしたから、異邦人にとっては、ここが祈りの場です。その祈りの場に商売や両替をしている人たちがいたのでは、騒がしくて祈りに集中できなかったことでしょう。

 一方、祭司長たちは男子の庭(或いはさらにその内側)で祈りに集中することができました。異邦人の庭と男子の庭の間には婦人の庭がありましたから、男子の庭は静かであったことでしょう。そうして、祭司長たちは自分たちは静かな場所で祈り、主を愛していると思い込んでいましたが、隣人である異邦人たちを愛することができていませんでした。しかも、祭司長たちは商売人たちに宮の中で商いをする権利を与えることで利益も得ていたということです。そうして祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭を自分たちの私腹を肥やすために利用していました。この罪に気付かずに、自分たちは主を愛していると思い込んでいました。

 このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な形で商売人たちを追い出しました。でも、こういう祭司長たちの隣人を愛さない自己中心は私たちの中にも少なからずあるかもしれないと先日の礼拝では話しました。この後でイエス様は十字架に掛かって死にます。その十字架でイエス様が流した血によって私たちの罪で汚れた心はきよめられます。でも、イエス様の血によってきよめられる以前に、まず余計な物を取り除いていただかなければ、血によってきよめていただくことはできないでしょう。机の上のアルコール消毒にたとえるなら、机の上にいろいろな物が載っていたら消毒はできません。消毒する前に先ずは机の上を片付ける必要があります。

 同様に、イエス様の血によって心をきよめていただくには、先ずは余計なものを取り除いていただかなければなりません。もし余計な物が多くあるなら、その取り払い方が少々乱暴になっても仕方のないことでしょう。

 心の中がいろいろな物で占領されているなら、心が狭くなって隣人を愛することができなくなります。エルサレムの宮の異邦人の庭は余計な物で占領されていました。そして、それを許した祭司長たちの心の中もまた狭くなっていました。イエス様がイザヤ書を引用しておっしゃったように、エルサレムの宮はあらゆる民の祈りの家です。ですから、異邦人も静かに祈ることができる場に祭司長たちはしておかなければなりませんでした。それができていなかったので、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめを行いました。

 イエス様が引用したイザヤ書56章を、ご一緒に見ましょう(旧約p.1263)。6節と7節を読みます。

イザヤ56:6 また、に連なって主に仕え、の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、
7 わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。

 ここには異邦人のことが書かれています。6節に「異国の民」とあり、異国の民もイスラエルの民と同じように安息日を守って主との契約を堅く保つなら、主は異国の民を聖なる山に来させて、主の祈りの家で楽しませて下さいます。なぜなら、7節の最後の文にあるように、主の家は、「あらゆる民の祈りの家と呼ばれるから」です。主はイスラエル人も異邦人も区別なく、エルサレムの宮をあらゆる民の祈りの家として下さっています。それなのに祭司長たちはエルサレムの宮の異邦人の庭で商売人たちに商売をさせて、その権利を与えることで利益を得て私腹を肥やしていました。隣人の異邦人を少しも愛しておらず、それでいて、自分たちは主を愛しているつもりでいました。このことをイエス様は厳しく咎めて乱暴な方法で宮きよめを行ったのですね。

 イザヤ書は、いろいろな箇所で、主の救いがあらゆる民にもたらされることを預言していますね。例えば、イエス様の十字架を預言した有名なイザヤ書53章の直前の52章10節で、イザヤはこのように預言しています(旧約p.1258)。

イザヤ52:10 はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現された。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る。

 このイザヤの預言の通り、主はすべての国々のすべての者たちが神の救いを見ることができるようにして下さいましたから、日本人の私たちも救いの恵みに与っています。それは、イエス様がすべての者の罪のため、私たちの罪のために十字架に掛かって下さったからです。その十字架がイザヤ書53章で預言されて、イエス様の時代に成就しました。その十字架の直前に、イエス様は少々乱暴な方法で宮きよめをしました。乱暴にしなければ片付かないほど多くの余計な物が置かれていたからです。そして、余計な物が置かれているのは私たちの心の中も同じかもしれません。もし余計な物が置かれているとしたら、イエス様の血によるきよめが妨げられて、隣人を愛することができなくなります。

 今、ロシアが隣人のウクライナを愛することができずに悲惨なことが起きています。イエス様はこのことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。最後にイザヤ書2章1節から4節までをご一緒に見たいと思います(旧約p.1169)。

イザヤ2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。
2 終わりの日に、の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムからのことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

 イザヤ書は2章という非常に早い段階で、すべての国々が主の家に流れて来ると預言しています。2節にありますね。「そこにすべての国々が流れて来る」と。そして3節、

3 多くの民族が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムからのことばが出るからだ。

 エルサレムの宮にはすべての国々の民族が集って、主の平和のメッセージを受け取ります。そうして4節にあるように彼らはその剣を鋤(すき)に、槍を鎌に打ち直します。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学びません。そういう平和な世になるとイザヤは預言しました。

 それなのに、今なお戦争が絶えることがありません。ウクライナでは残虐な方法で多くの人々の命が奪われました。イエス様は、このことをどんなに悲しんでおられることでしょうか。こういうイエス様を悲しませる悲惨な戦争を繰り返す限り、終わりの日の平和は決して訪れないのではないでしょうか。

 皆が隣人を愛することができる世になるように、祈らなければなりません。隣人を愛することを妨げる余計な物を心の宮からイエス様に取り除いていただいて、そうしてイエス様の血によってきよめていただき、皆が隣人を愛することができるようにしていただきたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。」
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神様と私の間に何も置かない(2022.4.3 礼拝)

2022-04-04 12:47:16 | 礼拝メッセージ
2022年4月3日聖餐式礼拝メッセージ
『神様と私の間に何も置かない』
【マルコ11:15~19】

はじめに
 きょうは聖餐式を行います。聖餐式の前のひと時、聖書を開いて神様の御声を聴き、心を整えるひと時としたいと思います。

 きょうの聖書箇所は「宮きよめ」と呼ばれる箇所です。ここは2週間前の教会学校で開かれた箇所です。教会学校で読まれたワークシートの説明書きには次のように書かれています。

当時のエルサレムの庭(神殿)には、ローマの貨幣を神殿に納める貨幣に両替する両替商や、いけにえ用の動物を売る商人がいました。礼拝に来る人々にとって便利である一方で、その手数料や値段はかなりの高値でした。また神殿を管理する祭司長たちも、その商売を許可することで利益を得ていました。エルサレムの宮は、①イスラエル(男子)の庭、②婦人の庭、③異邦人の庭、の3つに区切られており、商売が行われていたのは、異邦人が礼拝をささげる③でした。(せいちょう グレード4-5 ワークシート 3月20日「宮きよめ」)

 この説明書きを読むまで私はイエス様が宮きよめをしたのが異邦人の庭であったことを知りませんでした。いつも使っている注解書を調べてみたら、宮きよめは異邦人の庭での出来事であるとしっかり書いてありましたが、今まで気にとめたことがなくスルーしていたようです。あ~そうだったんだと今回、このことに思いを巡らすことで、大切なことを教えられたと感じていますから、聖餐式の前のひと時、皆さんとこの恵みを分かち合いたいと思います。

 きょうの中心聖句はマルコ11章15節です。

マルコ11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①エルサレムは私たち一人一人の心の状態
 ②神様を愛しても隣人は愛さないエゴの巣
 ③神様と私の間に余計な物を一切置かない

①エルサレムは私たち一人一人の心の状態
 まず心に留めたいことは、エルサレムは私たち一人一人の心の状態、もっと言えば霊的な状態を表しているということです。その象徴が、きょうの記事の一つ手前にある記事です。きょうは、ここから見て行きましょう。11章の12節と13節をお読みします。

マルコ11:12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 12節の前の11節によると、イエス様たちは前の日に一旦エルサレムに入っていました。いわゆる棕櫚の聖日のパームサンデーに、ロバの子に乗ったイエス様はエルサレムの人々に大歓迎されました。イエス様はエルサレムの宮にも入ってすべてを見て回った後、エルサレムを出てベタニアに泊まりました。そして12節でまたベタニアを出てエルサレムに向かいました。その時、イエス様は葉の茂ったいじちくの木が遠くに見えたので、近づいて見ました。空腹を覚えたので、もし実がなっていたら食べようと思ったようです。でも、よく茂った葉っぱだけで実はなっていませんでした。

 いちじくはイスラエルの象徴でもあります。そして、これがイスラエル人たちの心の状態でした。遠くから見ると繁栄しているように見えても近づいて見るなら、何も実を結んでいません。実がなる季節になれば実を付けることもあるのかもしれませんが、その前に日照りが続けば枯れてしまうかもしれません。すべては神様の御手の中にあるのに、神様など知らないといった風情で生い茂っています。

 日本にも「おごる平家は久しからず」ということばがありますね。今年のNHKの大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』が放送中で、これから源頼朝が率いる源氏側の軍勢によって平家は滅ぼされます。どんなに繁栄していても謙虚さを失って心が驕っていると、結局は滅びの道をたどることになります。イエス様はこのいちじくの木に向かって言いました。

14 「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」

 このいちじくの木が象徴するように、エルサレムの人々の心の中には霊的な実が結ばれていませんでした。先回りして19節を見ておくと、イエス様はこの日も夕方になるとエルサレムの城壁の外へ出て行きました。エルサレムの市内にも泊まれる場所はあったのではないかと思います。でもイエス様は、霊的な実が結ばれていなくて強盗の巣になっていたエルサレムの市内に泊まることに、きっと耐えられなかったのではないか、そんな気がします。
 
②神様を愛しても隣人は愛さないエゴの巣
 さて問題の15節です。

15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 このイエス様の行動はとても乱暴に見えます。でも、この宮の中の様子が私たち一人一人の心の中にある宮の状態であるとしたら、これくらい乱暴な方法でないと私たちの心の中の宮はきれいにならないのだと、納得するのではないでしょうか。この後でイエス様は十字架に付いて死にます。そのイエス様が十字架で流した血によって私たちの心はきよめられます。でも、きよめられる以前に、私たちの心の中には余計な物があまりにもたくさんあるのだと思います。まずそれらをイエス様に取り払っていただかなければ、イエス様の血によるきよめへと進んで行くことはできません。

 先ほど教会学校のワークシートの説明書きを読みました。イエス様がこの乱暴を働いたのは宮の中では一番外側の「異邦人の庭」でした。異邦人はここまでしか入ることが許されていませんでしたから、異邦人にとってはここが祈りの場でした。その祈りの神聖な場で商売することを祭司長たちは許して、利益を得ていました。商売の場になっていましたから騒然としていて、異邦人は祈りに集中することはできなかったでしょう。

 一方、ユダヤ人の男子は聖所に一番近い場所で静かに祈ることができました。男子の庭と異邦人の庭の間には婦人の庭がありましたから、商売のにぎやかさからは隔絶される形になっていたことでしょう。ここに祭司長たちの独善が見て取れます。自分たちは静かな場所で神様と向き合い祈ることができます。そうして神様を愛しているつもりになっています。でも、隣人の異邦人のことをぜんぜん気遣っておらず愛していません。こういう自己中心的なエゴイズムをイエス様は忌み嫌います。

 そして、そういう傾向は私の中にもあることを感じます。自分は神様を愛していて神様と向き合うことができていると独善的に思い込んでいると、隣人を気遣うことがぜんぜんできなくなります。隣人のことはどうでも良いと思っているわけではありませんが、エルサレムの宮で祭司長たちがしていたことを思うと、心を刺される思いがします。地域の方々を含めて、もっと周囲の方々がこの礼拝に集いやすい雰囲気を作らなければならないと思わされます。

 自分は神様を愛していて、神様と向き合うことができているという独善に陥り、隣人を愛せなくなっている時、イエス様はその人の心を乱暴な方法で変えようとします。例えば、パウロの例がとても分かりやすいでしょう。

 パウロは若い頃から一貫して神様を愛していました。パウロがまだサウロと呼ばれていた時も、サウロは神様を強く愛していました。そのサウロから見ると、十字架に付けられて呪われて死んだイエスという男が神の子であるなどとは、とうてい信じられませんでした。ですから、呪われたイエスを神の子と信じる者を絶対に赦すわけにはいかず、激しく迫害しました。自分は正しいと信じて、隣人を愛することがぜんぜんできていませんでした。そうしてエルサレムで迫害するだけでは足りずに、ダマスコまで出掛けて行きました。

 そこにイエス様が乱暴な方法で現れて、サウロの目を見えなくしてしまいました。隣人を愛することができない不信仰は、これぐらい乱暴な方法でないと正すことができないということでしょう。ただし、人の心は本当にやっかいですから、イエス様のこの乱暴な方法に屈服せずに却って心を閉ざす場合もあります。祭司長たちがそうでした。18節にあるように、祭司長たちや律法学者たちはイエス様を殺すための相談をしました。

③神様と私の間に余計な物を一切置かない
 8日前の3月26日の土曜日の朝のライフラインの放送ではソプラノ歌手の坂井田真実子さんのソロ・コンサートとインタビューの様子が放送されていました。とても良い放送でした。見逃した番組でもネットチャンネルの「聖書チャンネルBRIDGE」(https://www.seishobridge.com/)でいつでも見られるようになっていますから、是非ご覧になることをお勧めします。

 坂井田さんはソプラノの歌手として国際コンクールで数々の賞を受賞し、オペラではいくつもの大役の座をオーディションで次々に射止めて、超一流への階段を着実に上っていました。2014年には文化庁の奨学金も獲得してウィーンへの留学も果たしました。そうして、これからさらなる飛躍が期待されていたさ中の2016年に難病の視神経脊髄炎を発症して、一時は下半身不随になってしまったということです。リハビリによってある程度までは回復しましたが、後遺症が残っているとのことで、再発の恐れもあるということです。できる範囲での音楽活動を再開していますが、大勢の人々と共に練習・公演をする

 番組のインタビューで坂井田さんはこの病気のことを、「神様が病気を与えて下さった」と言って感謝しているということです。声楽家としての階段を上っていた時の人生よりも病気になってからの人生の方が幸せに感じているそうです。それは、病気をしたことで、神様をより一層近くに感じるようになったから、なのだそうです。それまで自分と神様との間に挟まっていた余計な物、キャリアやオーディション、大きな舞台、そういったものが全部取り払われて、神様をずっと近くに感じることができるようになった、だから幸せなのだそうです。

 そうして目に見えるものではなくて、見えないものに目が向くようになった、そのことをとても感謝に思っているそうです。坂井田さんの2ndアルバム「見えるものよりも」に収められている曲、アルバムのタイトルと同じ「見えるものよりも」という曲(加賀清孝・作)には、こうあります。

見えるものよりも 見えないものに
消えてゆくものよりも いつまでも残るものに
私は目を向ける 心の目を
形あるものは消え 愛はいつまでも

 坂井田さんは病気になったことで「永遠」に目を向けることができるようになりました。形あるものはいつか消えますが、神様の愛は永遠の中にあります。

 病気になる前の坂井田さんは決して隣人を愛することができない方ではなかったはずです。サウロに比べれば遥かに隣人を愛することができていた方でしょう。でも神の器が用いられようとする時、神様はしばしばとても乱暴な方法でその器をご自分の側に引き寄せようとします。坂井田さんの場合は難病によって一時は下半身不随になるという乱暴な方法でした。でも、坂井田さんはこのことを神様に感謝しています。ここに神様との関係が真実に築かれた方のすごさを感じます。

 私も多くを手放して神学校に入って寮生活を送っていた時は、神様をとても近くに感じていましたから、坂井田さんがおっしゃっている、神様と自分の間にある余計な物がなくなると神様をとても近くに感じるようになるという感覚は、良く分かります。でも、私の場合はイエス様が余計な物を取り除いて下さった後で、すぐにまた余計な物を運び入れてしまいます。神様との関係が近くなると、そのことで奢り高ぶって祭司長たちのように隣人のことを忘れてしまうようなところがあるのだろうと思います。

 マルコの福音書11章に戻って、16節と17節をお読みします。

16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 イエス様は私たちの心の中の余計な物を取り去って下さり、もう余計な物を運ぶことをお許しにならないのに、それにも関わらずまたしても余計な物を運び込むことを繰り返して強盗の巣にしてしまいます。皆さんはいかがでしょうか。せっかくイエス様が余計な物を取り払って下さったのに、またしても運び込んでしまうというようなことはないでしょうか?

 こういうことを繰り返す者に、神様は坂井田真実子さんの証しと歌を通して、その繰り返しをやめるようにおっしゃっているように思います。余計な物を取り払わないなら、イエス様の血によって真実にきよめられる段階へと進んで行くことはできないでしょう。

おわりに
 きょうの礼拝の後のお掃除の時に坂井田真実子さんのCDの曲をこの会堂のスピーカーで流したいと思います。私たちは坂井田さんのように、神様と自分との間に余計な物を置かずに神様といつも近い関係にある者たちでありたいと思います。イエス様は私たちが余計な物を置くと取り払って下さいます。その後ですぐにまた余計な物を持ち込むことなく、いつもイエス様を近くに感じることができる者たちでありたいと思います。

 これから聖餐式に臨みます。イエス様は十字架で血を流されました。そうして、その血によって私たちの心をきよめて下さいます。でも余計な物がたくさん置かれているなら、きよめられることはありません。まずはイエス様に余計な物を取り払っていただきたいと思います。あまりに多くの物が置かれている場合には、イエス様は少々乱暴な方法で取り除くこともあるでしょう。でも、それはとても感謝なことです。イエス様との距離がずっと縮まるからです。

 これから臨む聖戦式では、イエス様をすぐ近くに感じながらパンとぶどう液をいただきたいと思います。お祈りいたします。
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