平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

平和の引力(2018.8.19 礼拝)

2018-08-20 15:25:14 | 礼拝メッセージ
2018年8月19日礼拝メッセージ
『平和の引力』

【詩篇122篇】
1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。
2 エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。
3 エルサレム それは一つによくまとまった都として建てられている。
4 そこには多くの部族 の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。
5 そこにはさばきの座ダビデの家の王座があるからだ。
6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。
7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」
8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」
9 私たちの神 の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

はじめに
 先週の水曜日は祈り会を1回休みにして夏休みをいただきましたから、8月の14、15、16日の三日間、私は広島へ行って来ました。
 三週間前の礼拝メッセージで開いた詩篇42篇では、詩人はエルサレムへ行くことを渇望していました。そして私は広島へ行くことを渇望していたのですね。42篇の1節には、こうあります。

1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように
 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

 詩篇42篇の詩人はエルサレムの神殿に行って神を礼拝することを渇望していました。そして私は広島の平和公園に行って平和のために祈ることを渇望していました。
 しかし、神を礼拝することはエルサレムの神殿に行かなくてもできるでしょう。正式な礼拝ではないにせよ、エルサレム以外のどこにいても心を神に向けることはできます。でも、それでは満ち足りないものを詩篇42篇の詩人は感じていたのですね。同様に、平和のために祈ることは広島に行かなくてもできることです。沼津にいても平和のために祈ることはできますし、実際私はそうしています。

エルサレムへ、広島へ、続々と集まる人々
 そういうわけで私は今年の広島行きは秋の涼しくなってからにしようと思っていました。夏の広島は沼津に比べてずっと暑いです。ですから今年の夏はどこか別の所に行こうと思っていました。ところが8/6にテレビで広島の様子を見ていて、無性に広島に行きたくなりました。それで、暑くても良いから行こうと思い、宿泊の予約を入れました。そうして宿の予約を済ませた時、私は喜びを感じました。詩篇122篇の詩人のようです。122篇の1節、

1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。

 祭りの時には、イスラエルの多くの人々が各地からエルサレムの都に上って来ます。4節、

4 そこには多くの部族 の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。

 そうして詩人は祈りへと誘います。6節、

6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。」

 広島にもまた、多くの人々が世界中から続々と集まって来ます。そうして原爆ドームを見上げて原爆が投下された当時に思いを馳せ、慰霊碑の前で平和のために祈ります。さらに、平和記念資料館に入って原子爆弾がいかに邪悪な兵器であるかを知り、そして核兵器削減と廃絶のために、どのような取り組みが為されて来ているのかを学びます。この学びは自分で平和公園内の施設を見て歩いたり、資料館の展示物を見て回ったりすることでもできますが、ガイドの方に説明してもらうと、もっと深く学ぶことができます。平和公園では被爆体験を持つ語り部、語り部の被爆体験の証しを継承する伝承者、施設や展示物の説明をするピースボランティアの方々など、多くの地元の方々が平和のために働いています。これらの地元の方々もまた平和公園に引き寄せられた人々だと言えるでしょう。

平和の引力
 今回、広島に行くに当たり、私の心の中では旧約の時代の人々が続々とエルサレムに上って行く姿と、現代の世界中の人々が広島に続々と集まって来る姿がオーバーラップしていました。このオーバーラップから何か大切なことが学べるような気がして、それに期待して広島に向かいました。私自身もそうなのですが、広島へは日本中・世界中から人々が引き寄せられて来ます。そして地元の方々も平和の働きのために引き寄せられます。人はどうして広島の平和公園に引き寄せられるのか、このことを思い巡らしたくて、今回、私は平和公園のベンチに座って、ここに集って来る人々を見ていました。
 そうして思ったことが、きょうのメッセージのタイトルにした「平和の引力」のことです。どうやら平和には引力があるようです。この広島の平和公園には確かに平和があります。73年前には凄まじい被害があった場所ですが、今は公園内はきれいに整備されています。そうして世界から、日本各地から、そして地元からも人々が続々と集まって来ます。このように平和を願う人々が多く集うことで、引力が強まっているように感じます。この強まった引力がますます平和を求める人々を引き寄せ、平和公園の「平和の引力」はどんどん強まって行きます。惑星ができる時、物質が集まれば集まるほど重力も増して、それがまた多くの物質を引き寄せるのに似ています。
 平和公園に集まって来る人々を見ていると、人には本来的に平和を求める心が備えられていて、平和がある所に引き寄せられて行くように見えます。それは心の深い所にありますから、魂の中に平和を求める思いが備えられていると言っても良いかもしれません。そして詩篇にあるように、旧約の時代のイスラエルの人々がエルサレムに引き寄せられて行ったこととも、それは重なります。きょうは、このことを、もう少し掘り下げてみたいと思います。そうして教会のことについても考えてみることができたらと願っています。73年前の終戦の時からしばらくの間、人々は続々と教会に押し寄せたということです。それは人々が魂の平安を求めて、続々と教会に集まったということではないかと思います。戦時の過酷な体験を経て、真の平安を多くの人々が求めていたのではないかと思います。この教会のことについても、思いを巡らすことができたらと思います。

重力に似ている「平和の引力」
 さて今回、「平和の引力」というように「引力」という言葉を使ったのは、先ほども少し触れましたが平和が人を引き寄せる力が、太陽や惑星などの天体の間に働く重力にとても良く似ていると思ったからです。と言っても、ここであまり天体や物理の重力の話を多くすると皆さんも戸惑うと思いますから気を付けたいと思います。しかし天体の話が少し出て来ることは、ご容赦願いたいと思います。
 きょうはこれから、日本から遠く離れた国からも世界の平和を願う人々を引き付ける力を持っている広島のことを太陽と御父に例えたいと思います。そして、魂の平安を願う地域の人々を引き付ける力を持っている教会のことを地球と御子イエス・キリストに例えたいと思います。
 太陽は巨大ですから、太陽から遠く離れた地球や木星、土星などにも重力が及びます。ですからこれらの星は太陽に引き寄せられています。引き寄せられているのに地球が太陽に吸い込まれないのは、地球が太陽の周りを回っているからです。もし太陽の周りを回っていなかったら地球も木星も土星も皆、太陽に吸い込まれてしまいます。遠く離れた木星や土星、さらには天王星や海王星にも太陽の重力は及ぶのですから、すごいことだと思います。そして私たちは地球の重力圏の中でも生活しています。私たちは太陽の周りを回りながら、地球上で生活しています。つまり太陽と地球の重力圏の両方の中で生活しています。同じように広島やエルサレムは遠く離れた場所にいる人たちを引き付けています。そして教会は近隣の人々を引き付けています。つまり私たちは広島やエルサレムの「平和の引力」と、教会の「平和の引力」の両方の中で生活しています。

集う人が少ない教会
 さて太陽に例えた広島には現代においても人々が続々と集まって来ています。これは私が広島で毎年実際に見ていることですから、確かなことです。一方、地球に例えた地域の教会にはそんなに人が集ってはいないようです。たくさんの人々が集っている教会もありますが、多くの教会、特に地方の教会は人が減っている悩みを抱えていると思います。広島に集う人は大勢いる一方で、教会に集う人は少ないと感じます。どうもバランスが悪いように思います。同じように「平和の引力」が働いている筈なのに、教会の「平和の引力」はあまり働いていないのでしょうか。
 それは何故なのでしょうか。世界の平和を願う思いも、個人や家庭の平安を願う思いも、どちらも同じではないでしょうか。世界と個人では規模はまるで違いますが、平和を願う思いの根は同じではないかと私は考えます。このことを御子イエス・キリストを地球に、天の御父を太陽に例えて、さらに考えてみたいと思います。
 先ほども言ったように私たちは地球の重力圏の中で生活していると同時に、太陽の重力圏の中でも生活しています。同様に私たちは御子イエス・キリストの愛の中で生活していますが、同時に天の御父の愛の中でも生きています。この御子と御父の愛を感じさせてくれるのが聖霊です。私たちは聖霊の働きによって御子と御父の両方の愛を感じながら生きています。祈る時も、最初に天の御父に呼び掛け、最後に御子イエス・キリストの名によって祈ります。
 さてしかし、一般の人々の教会に対するイメージは専らイエスに偏っているのではないかと思います。しかも教会に導かれる前の私の経験から言うと、日本人はイエスにそんなには親しみを感じていません。クリスマスの赤ちゃんのイエスには親しみを感じるかもしれませんが、大人のイエスには興味のない人が大半だろうと思います。すると人々が教会に向かわないのは当然ということになります。しかし実際の多くの教会ではイエスだけでなく御父(と聖霊)についても語ります。教会に対する一般のイメージは、教会ではイエスだけが語られるというものですが、実際は御父・御子・聖霊が語られます。このギャップを埋めることができていないという気がします。
 平和公園にはイスラム圏の外国人もたくさん集っています。このような方々は正に御父の「平和の引力」に引き寄せられているのだと思います。私はもっと多くの日本の方々に御父のことを知っていただきたいと思います。それには、教会ではイエスだけが語られるというイメージを払拭する必要を感じます。このことが、今回の広島訪問で得られた収穫のように感じています。

御父についても知ることができる教会
 ここで私の大好きなエペソ人への手紙3章の14節から21節までをご一緒に読みたいと思います(新約聖書p.387)。このスケールの大きなキリストの愛が語られる箇所で注目したいのは、パウロも御父と御子と御霊(聖霊)に言及していて、御子イエスだけに言及しているのではないということです。エペソ3章の14節から21節までを交代で読みましょう。

14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

 重力の例えが皆さんに分かりやすいかどうか分かりませんが、私たちは地球の重力圏の中で生活していると同時に、太陽の重力圏の中にもいます。この例えを使えば、私たちは御子イエス・キリストの愛の中にいると同時に天の御父の愛の中にもいます。そして聖霊の働きで私たちはこの御父と御子の愛を感じることができます。そうして心の平安を求めて教会に集う私たちは御子イエスの「平和の引力」に引き寄せられています。また、世界の平和を求めて広島に集う人々は天の御父の「平和の引力」に引き寄せられています。ただし現代においては個人の心にそれなりの平安をもたらすものは、たくさん存在します。もちろん真の平安は御子によってもたらされます。それでも御子でなくても平安がそれなりに得られるのなら、人は教会には向かわない、そのようなことになっているのかもしれません。
 一方、世界の平和のような大きな問題の解決には、大きな存在が必要とされていると、現代においても多くの人々が無意識に感じているのではないかという気がします。教会では、この大きな存在である御父のことを知ることができます。それなのに教会ではイエスのことしか語られないというイメージがあるために大きな存在について知りたい人が教会を訪れることはなく、御父のことはほとんど知られていません。ノアの洪水やエジプト脱出の物語を通じて多少は知られているかもしれませんが、単なる作り話だと思われているだけでしょう。ですから私は多くの方々に教会に来ていただいて、御父のことをもっと深く知っていただきたいと思います。

おわりに
 広島の平和公園には、きょうも世界中から多くの人々が続々と集っていることでしょう。神様がお造りになった人間の心には、平和を求める思いがもともと備わっています。ですから、教会に集う人が少なくなっていることをあまり悲観する必要はないと思います。どうしたら平和を求める人の心の琴線に触れることができるかは、人によっても異なります。御子イエスについてはもちろんですが、教会は御父についても(さらには聖霊についても)深く知ることができる場であることをアピールしつつ、いろいろと考えながら、地域の方々の心に平安が与えられるよう、働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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