2022年12月25日クリスマス礼拝メッセージ
『寒い夜の温まる出来事』
【ルカ2:8~20】
はじめに
クリスマスおめでとうございます。
きょうはイエス・キリストがお生まれになったクリスマスの日です。新約聖書のルカの福音書2章には、その日の出来事が記されています。その中でも、きょう注目したいのは羊飼いたちです。きょうはイエス様が生まれた日の羊飼いたちのことを身近に感じながら、この日の出来事について、ご一緒に思いを巡らしたいと思います。
きょうの中心聖句は、ルカ2章11節です(週報p.2)。
①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
②今日の本題:a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる
①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
きょう私たちが注目するのは羊飼いたちですが、その前に、この日お生まれになったイエス・キリストについて、見ていきましょう。ごくごく簡単に言えば、イエス・キリストは表題で示したように、「家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子」です。
イエス様が家畜小屋で生まれた経緯は、きょうの聖書箇所より前の箇所に書かれていますから、そちらから見て行きましょう。ルカの福音書2章1節と2節、
皇帝アウグストゥスというのは、ローマ帝国の皇帝のことです。ローマ帝国は地中海の沿岸一帯を支配しており、ユダヤもまたローマ帝国に支配されていました。ここでルカは当時の皇帝がアウグストゥスであり、シリアの総督がキリニウスの時代のことであると書いています。このことから、イエス様がお生まれになったのが何年頃だったのかが、かなり絞られます。皇帝や総督についての歴史的な資料は聖書以外にもありますから、照らし合わせることで、年代が絞り込めます。そういう意味でもルカの福音書は非常に貴重な書物です。
さて、当時の住民登録は出身地で行うようになっていたんですね。それで皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行きました。イエス様の父親のヨセフはダビデの子孫でした。ダビデの出身地はベツレヘムですから、ヨセフはベツレヘムに向かいました。その時、妻のマリアも一緒でした。マリアのお腹にはイエス様がいて身重でした。
そして、6節と7節、
ベツレヘムには住民登録のために多くの人が訪れていて、宿屋はどこも一杯でした。もしヨセフがお金持ちだったら、泊めてもらうこともできたでしょう。でも、ヨセフとマリアは貧しかったので宿屋に泊まることができず、家畜小屋に泊まっていました。そして、そこでイエス様が生まれました。
イエス様は神の御子です。神の御子が、私たちに神様のことや様々なことを教えるために、天から私たちの地上に降って来て、ヨセフとマリアの子として生まれて下さいました。きょうの礼拝の最初の方でご一緒に読んだヨハネの福音書の1章には、そのことが書いてあります(週報p.2)。1節と14節を、お読みします。
「ことば」とはキリストのことです。キリストは神でした。しかし、神であることを手放して、人となって、この世に降って来て下さいました。天から降って来て誕生したので、「降誕」という呼び方をします。神様が地上に降って来て生まれるだけでも、すごいことなのに、生まれた場所は何と、家畜小屋でした。イエス様は裕福な家庭の子としてではなく、貧しい家庭の子として生まれました。何も持たずに赤子として生まれ、生まれてからも貧しい家庭の子として育ちました。そうして、最後は十字架で死にました。十字架では衣服をはぎとられて、生まれたままの裸の姿で十字架に付けられて、死にました。イエス様は神の子ですから抵抗する力もありました(ヨハネ18:6参照)。でも、その力を行使せず、すべてを手放して、自ら十字架に向かって行って死にました。
ちなみに、手放したのはイエス様だけではありませんでした。天の父も、ひとり子のイエス様を手放して、地上に遣わせました。ヨハネ3章16節は、そのことを次のように書いています(週報p.2)。
天の父は世を愛し、私たちを愛して下さっています。それゆえに、ひとり子のイエス様を手放して地上に遣わして下さいました。それは御子イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。「永遠のいのち」については、最後にまた触れます。
②今日の本題
a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
さて、きょうの本題に入って行きましょう。きょう注目したいのは羊飼いたちです。8節、
羊飼いたちは、屋外で野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていました。羊が盗まれないように、また狼などの獣に襲われて殺されないように、或いは何かに驚いて羊が散り散りになってしまうことがないように、羊飼いたちは夜番をしていました。
どのような季節であれ、夜は冷えます。羊飼いたちは寒さに震え、寒さに耐えながら夜番をしていたことでしょう。きょうはここで、いま現在、寒さに震えている人々に心を寄せたいと思います。この会堂はエアコンとストーブとで暖かさが保たれていますが、いま現在も寒さに震えている方々がいます。
世界を見れば、ウクライナなどの戦争・紛争地域の人々が寒さに震えています。ウクライナではロシアが発電所などの電力施設を攻撃したために、電力が不足していて寒さに震えている人々がたくさんいることが報道されています。
日本の国内も、いま寒波に襲われています。先週は日本海側だけでしたが、ここ2、3日は太平洋側の名古屋や瀬戸内の広島など、全国各地で大雪が降っていることが報じられています。そして、倒木などが原因で停電している地域があると報じられています。先週、停電していた柏崎市で、車の中で暖を取っていた20代の女性が一酸化炭素中毒で死亡したことが報じられていました。本当に痛ましい事です。さらには屋根の雪下ろしの最中の死亡事故のことも多く報じられています。
私たちの地元の静岡市でも9月の大雨で浸水したお宅の多くが暖房器具を失って寒さに震えています。床上浸水があった地域ではエアコンの室外機が水没して使えなくなりました。かろうじてファンが回る室外機でも、泥水がモーターに入ったことで異常な音がします。私は泥の撤去などの肉体労働系のボランティアは11月の初めには終えて、ここ11月の中旬からは浸水したお宅を訪問して電気製品を無料で支給するプロジェクトのお手伝いをしています。ここ1ヶ月でめっきり寒くなりましたから、暖房器具を希望するお宅が多くありました。ホットカーペットやこたつ、石油ファンヒーターなどの要望をお聞きしました。支援の手が届いていないお宅もあることと思います。身近な静岡においても今、寒さに震えている方々がいることを覚えていたいと思います。
b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
ベツレヘムの羊飼いたちも、夜の寒さに震えていたことでしょう。そして、神様からの良い知らせは、こういう弱い立場の人に真っ先に告げ知らされました。少し飛ばして11節と12節、
御使いは羊飼いたちに、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言いました。救い主は、この世の苦しみから私たちを救って下さるだけでなく、「永遠のいのち」をも与えて下さいます。続いて13節と14節、
これは、すごい光景ですね。救い主イエス様のご降誕が、いかに祝福に満ちたことであったかが分かります。この素晴らしい知らせは、羊飼いという世間的には軽蔑されて弱い立場にあった者たちに真っ先に伝えられました。
c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
この羊たちの反応もまた、素晴らしいものでした。15節、
せっかく御使いが知らせてくれた素晴らしいことを自分たちの目で確かめるのと確かめないのとでは大違いです。羊飼いたちは直ちに反応しました。16節、
すこし飛ばして20節、
このことで、羊飼いたちは身も心も温められたことでしょう。寒い夜に震えながら夜番をしていた羊飼いたちにとって、最高のクリスマス・プレゼントが天から与えられました。
③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる
では、この聖書の箇所を読んで、私はどうするべきなのでしょうか?聖書は物語として読むだけでも十分に興味深く面白いものです。でも、聖書はそれだけで終わる書物ではありません。聖書のことばは私たち一人一人に語り掛けて来て、時には私たちの心を突き刺します。きょうの箇所から聖書はどんなことを語り掛けて来ており、その語り掛けを聞いた私は、どう反応したら良いでしょうか?
お気付きのことと思いますが、きょうの説教の重要なキーワードは「手放す」です。イエス・キリストは神でありながら、すべてを手放して地上に降って来て下さり、私たちに神様のこと、また天の御国について教えて下さいました。そして、最後は十字架に付けられて死にました。神としての力を行使すれば十字架刑を避けることはできたでしょう。でもイエス様はその力も手放して十字架で死にました。天の父もひとり子のイエス様を手放して地上に遣わしました。羊飼いたちは羊以外には手放すものが無いほど、ほとんど何も持っていない者たちだったでしょう。その羊でさえ、預かっているに過ぎない場合もあったことでしょう。彼らはもともと、多くを手放している者たちでした。
宗教では、手放すことを勧めるものが多いと思います。キリスト教に限らず、仏教や修験道もそうでしょう。大晦日になると除夜の鐘の音が聞こえて来ます。私が以前住んでいた大岩の実家では、近所の臨済寺から、除夜の鐘の音が聞こえて来ました。除夜の鐘の「除」という言葉には古いものを捨てて新しいものに移るという意味があり、心穏やかに新年を迎えようという願いが込められているのだそうです。執着していることを捨てて手放すなら、新しい気持ちで新年を迎えられます。私たちはいろいろなことに囚われていますから、それらを手放すことが勧められています。
修験道も、険しい山岳地帯で修行することで、余計なものがそぎ落されて行くのでしょうか。四国の八十八ヶ所の霊場巡りも自らの足で踏破するなら、きっとその過程でいろいろと手放して行くことができるのでしょう。
宗教ではありませんが、この夏、私は日本アルプス縦断レースの応援をしました。出場選手は日本海側の富山湾から太平洋側の駿河湾まで北アルプス、中央アルプス、南アルプスを越えて来ます。ゴールは大浜海岸ですから、私は大浜街道と大浜の海岸で4人の選手を出迎えました。トップの土井選手、4位の望月選手、完走した20人の中では最後から2番目の19位の中島選手、そして最後の20位の吉川選手を、ゴール前の1~2kmほどを自転車で先回りしては応援しました。日本海側から415km走って来た選手の方々は、様々なものがそぎ落されて力が抜けていて、とても「良い人」になっているという印象を受けました。到着後のインタビューを聞いていると、「感謝しかない」、「すべてが感謝だ」ということが語られていました。レースに送り出してくれた家族や職場の同僚、大会を運営するスタッフ、共にレースを走った仲間の選手たち、沿道で声援を送ってくれた人々、すべてが感謝だと語っていました。レースの中でいろいろ手放して、すべて感謝する者へと変えられて行ったようです。
この秋、私は台風15号で被災したお宅の多くに行ったことを最初に話しましたが、床上浸水して家財の多くを失った方々は、強制的にものを手放さざるを得なかった方々です。その方々は、日本アルプス縦断レースを完走して大浜の海岸に辿り着いた選手の方々とどこか似ているように感じました。家財を失って最低限の物で暮らしている方々は、欲得から解放されて、電気製品の無料支給を素直に喜んで下さり、このプロジェクトに感謝する、とても「良い人」であるという印象を受けました。
おわりに
宗教であってもなくても、経験上、私たちは執着を手放すことで幸福に近づけることを知っています。しかし、手放すことは、とても難しいことであることもまた知っています。自分で何とかしようと私たちはもがき、苦しんでしまいます。その難しい手放すことを、どうやったら達成できるのか、宗教によって異なることが語られるのでしょう。キリスト教の場合は、神の子であるイエス・キリストが率先して手放すことを実践している点に大きな特徴があります。神の御子であるイエス様が率先してすべてを手放しているのですから、私たちもそれに倣いたいと思います。
それによって、どんな良いことがあるのか?と問われるなら、余計なものを手放してきよめられることで、イエス様に似た者にされて行くという良い点があるほか、聖書が段々と分かるようになるという素晴らしいことを挙げたいと思います。
聖書を読んでも最初はなかなか分かりません。それは、私たちが現代の常識にあまりに囚われているからです。私たちは学校や世間で習った様々な知恵や知識をたくさん持っています。それらの知恵や知識を持っている間は、聖書はなかなか理解できません。しかし、それらを手放して行くなら、聖書のことばが段々と心の中に入って来るようになります。そうして手放せば手放すほど、聖書のことばが素直に心の中で響くようになります。だから、聖書は読むたびに新鮮です。去年よりも今年のほうが多く手放せているなら、聖書のことばはより一層深く心の奥に入って来ます。これが聖書の醍醐味です。イエス様がすべてを手放したお方であることも、より実感できるようになることでしょう。そしてさらに、「永遠のいのち」とは何かについても、手放せば手放すほど、分かるようになって来るでしょう。「永遠」とは、この世の知恵や知識や常識では決して理解できない領域のことです。ですから、それらの知恵や知識や常識を手放すことで、「永遠のいのち」のことも段々と分かるようになります。そして、この世の苦しみから解放されるだけでなく、死の恐怖からも解放されて、深い平安が得られます。
私自身もまだまだ道半ばですが、そのような平安の深みにイエス様に連れて行っていただきたいと願っています。イエス様がこの世に生まれて下さったからこそ、私たちはその平安の深みに連れて行っていただくことができます。
きょうのクリスマス礼拝、イエス様のご降誕に心一杯感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
『寒い夜の温まる出来事』
【ルカ2:8~20】
はじめに
クリスマスおめでとうございます。
きょうはイエス・キリストがお生まれになったクリスマスの日です。新約聖書のルカの福音書2章には、その日の出来事が記されています。その中でも、きょう注目したいのは羊飼いたちです。きょうはイエス様が生まれた日の羊飼いたちのことを身近に感じながら、この日の出来事について、ご一緒に思いを巡らしたいと思います。
きょうの中心聖句は、ルカ2章11節です(週報p.2)。
ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
②今日の本題:a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる
①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
きょう私たちが注目するのは羊飼いたちですが、その前に、この日お生まれになったイエス・キリストについて、見ていきましょう。ごくごく簡単に言えば、イエス・キリストは表題で示したように、「家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子」です。
イエス様が家畜小屋で生まれた経緯は、きょうの聖書箇所より前の箇所に書かれていますから、そちらから見て行きましょう。ルカの福音書2章1節と2節、
ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
皇帝アウグストゥスというのは、ローマ帝国の皇帝のことです。ローマ帝国は地中海の沿岸一帯を支配しており、ユダヤもまたローマ帝国に支配されていました。ここでルカは当時の皇帝がアウグストゥスであり、シリアの総督がキリニウスの時代のことであると書いています。このことから、イエス様がお生まれになったのが何年頃だったのかが、かなり絞られます。皇帝や総督についての歴史的な資料は聖書以外にもありますから、照らし合わせることで、年代が絞り込めます。そういう意味でもルカの福音書は非常に貴重な書物です。
さて、当時の住民登録は出身地で行うようになっていたんですね。それで皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行きました。イエス様の父親のヨセフはダビデの子孫でした。ダビデの出身地はベツレヘムですから、ヨセフはベツレヘムに向かいました。その時、妻のマリアも一緒でした。マリアのお腹にはイエス様がいて身重でした。
そして、6節と7節、
6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
ベツレヘムには住民登録のために多くの人が訪れていて、宿屋はどこも一杯でした。もしヨセフがお金持ちだったら、泊めてもらうこともできたでしょう。でも、ヨセフとマリアは貧しかったので宿屋に泊まることができず、家畜小屋に泊まっていました。そして、そこでイエス様が生まれました。
イエス様は神の御子です。神の御子が、私たちに神様のことや様々なことを教えるために、天から私たちの地上に降って来て、ヨセフとマリアの子として生まれて下さいました。きょうの礼拝の最初の方でご一緒に読んだヨハネの福音書の1章には、そのことが書いてあります(週報p.2)。1節と14節を、お読みします。
ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
「ことば」とはキリストのことです。キリストは神でした。しかし、神であることを手放して、人となって、この世に降って来て下さいました。天から降って来て誕生したので、「降誕」という呼び方をします。神様が地上に降って来て生まれるだけでも、すごいことなのに、生まれた場所は何と、家畜小屋でした。イエス様は裕福な家庭の子としてではなく、貧しい家庭の子として生まれました。何も持たずに赤子として生まれ、生まれてからも貧しい家庭の子として育ちました。そうして、最後は十字架で死にました。十字架では衣服をはぎとられて、生まれたままの裸の姿で十字架に付けられて、死にました。イエス様は神の子ですから抵抗する力もありました(ヨハネ18:6参照)。でも、その力を行使せず、すべてを手放して、自ら十字架に向かって行って死にました。
ちなみに、手放したのはイエス様だけではありませんでした。天の父も、ひとり子のイエス様を手放して、地上に遣わせました。ヨハネ3章16節は、そのことを次のように書いています(週報p.2)。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
天の父は世を愛し、私たちを愛して下さっています。それゆえに、ひとり子のイエス様を手放して地上に遣わして下さいました。それは御子イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。「永遠のいのち」については、最後にまた触れます。
②今日の本題
a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
さて、きょうの本題に入って行きましょう。きょう注目したいのは羊飼いたちです。8節、
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
羊飼いたちは、屋外で野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていました。羊が盗まれないように、また狼などの獣に襲われて殺されないように、或いは何かに驚いて羊が散り散りになってしまうことがないように、羊飼いたちは夜番をしていました。
どのような季節であれ、夜は冷えます。羊飼いたちは寒さに震え、寒さに耐えながら夜番をしていたことでしょう。きょうはここで、いま現在、寒さに震えている人々に心を寄せたいと思います。この会堂はエアコンとストーブとで暖かさが保たれていますが、いま現在も寒さに震えている方々がいます。
世界を見れば、ウクライナなどの戦争・紛争地域の人々が寒さに震えています。ウクライナではロシアが発電所などの電力施設を攻撃したために、電力が不足していて寒さに震えている人々がたくさんいることが報道されています。
日本の国内も、いま寒波に襲われています。先週は日本海側だけでしたが、ここ2、3日は太平洋側の名古屋や瀬戸内の広島など、全国各地で大雪が降っていることが報じられています。そして、倒木などが原因で停電している地域があると報じられています。先週、停電していた柏崎市で、車の中で暖を取っていた20代の女性が一酸化炭素中毒で死亡したことが報じられていました。本当に痛ましい事です。さらには屋根の雪下ろしの最中の死亡事故のことも多く報じられています。
私たちの地元の静岡市でも9月の大雨で浸水したお宅の多くが暖房器具を失って寒さに震えています。床上浸水があった地域ではエアコンの室外機が水没して使えなくなりました。かろうじてファンが回る室外機でも、泥水がモーターに入ったことで異常な音がします。私は泥の撤去などの肉体労働系のボランティアは11月の初めには終えて、ここ11月の中旬からは浸水したお宅を訪問して電気製品を無料で支給するプロジェクトのお手伝いをしています。ここ1ヶ月でめっきり寒くなりましたから、暖房器具を希望するお宅が多くありました。ホットカーペットやこたつ、石油ファンヒーターなどの要望をお聞きしました。支援の手が届いていないお宅もあることと思います。身近な静岡においても今、寒さに震えている方々がいることを覚えていたいと思います。
b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
ベツレヘムの羊飼いたちも、夜の寒さに震えていたことでしょう。そして、神様からの良い知らせは、こういう弱い立場の人に真っ先に告げ知らされました。少し飛ばして11節と12節、
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
御使いは羊飼いたちに、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言いました。救い主は、この世の苦しみから私たちを救って下さるだけでなく、「永遠のいのち」をも与えて下さいます。続いて13節と14節、
13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
これは、すごい光景ですね。救い主イエス様のご降誕が、いかに祝福に満ちたことであったかが分かります。この素晴らしい知らせは、羊飼いという世間的には軽蔑されて弱い立場にあった者たちに真っ先に伝えられました。
c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
この羊たちの反応もまた、素晴らしいものでした。15節、
15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
せっかく御使いが知らせてくれた素晴らしいことを自分たちの目で確かめるのと確かめないのとでは大違いです。羊飼いたちは直ちに反応しました。16節、
16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
すこし飛ばして20節、
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
このことで、羊飼いたちは身も心も温められたことでしょう。寒い夜に震えながら夜番をしていた羊飼いたちにとって、最高のクリスマス・プレゼントが天から与えられました。
③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる
では、この聖書の箇所を読んで、私はどうするべきなのでしょうか?聖書は物語として読むだけでも十分に興味深く面白いものです。でも、聖書はそれだけで終わる書物ではありません。聖書のことばは私たち一人一人に語り掛けて来て、時には私たちの心を突き刺します。きょうの箇所から聖書はどんなことを語り掛けて来ており、その語り掛けを聞いた私は、どう反応したら良いでしょうか?
お気付きのことと思いますが、きょうの説教の重要なキーワードは「手放す」です。イエス・キリストは神でありながら、すべてを手放して地上に降って来て下さり、私たちに神様のこと、また天の御国について教えて下さいました。そして、最後は十字架に付けられて死にました。神としての力を行使すれば十字架刑を避けることはできたでしょう。でもイエス様はその力も手放して十字架で死にました。天の父もひとり子のイエス様を手放して地上に遣わしました。羊飼いたちは羊以外には手放すものが無いほど、ほとんど何も持っていない者たちだったでしょう。その羊でさえ、預かっているに過ぎない場合もあったことでしょう。彼らはもともと、多くを手放している者たちでした。
宗教では、手放すことを勧めるものが多いと思います。キリスト教に限らず、仏教や修験道もそうでしょう。大晦日になると除夜の鐘の音が聞こえて来ます。私が以前住んでいた大岩の実家では、近所の臨済寺から、除夜の鐘の音が聞こえて来ました。除夜の鐘の「除」という言葉には古いものを捨てて新しいものに移るという意味があり、心穏やかに新年を迎えようという願いが込められているのだそうです。執着していることを捨てて手放すなら、新しい気持ちで新年を迎えられます。私たちはいろいろなことに囚われていますから、それらを手放すことが勧められています。
修験道も、険しい山岳地帯で修行することで、余計なものがそぎ落されて行くのでしょうか。四国の八十八ヶ所の霊場巡りも自らの足で踏破するなら、きっとその過程でいろいろと手放して行くことができるのでしょう。
宗教ではありませんが、この夏、私は日本アルプス縦断レースの応援をしました。出場選手は日本海側の富山湾から太平洋側の駿河湾まで北アルプス、中央アルプス、南アルプスを越えて来ます。ゴールは大浜海岸ですから、私は大浜街道と大浜の海岸で4人の選手を出迎えました。トップの土井選手、4位の望月選手、完走した20人の中では最後から2番目の19位の中島選手、そして最後の20位の吉川選手を、ゴール前の1~2kmほどを自転車で先回りしては応援しました。日本海側から415km走って来た選手の方々は、様々なものがそぎ落されて力が抜けていて、とても「良い人」になっているという印象を受けました。到着後のインタビューを聞いていると、「感謝しかない」、「すべてが感謝だ」ということが語られていました。レースに送り出してくれた家族や職場の同僚、大会を運営するスタッフ、共にレースを走った仲間の選手たち、沿道で声援を送ってくれた人々、すべてが感謝だと語っていました。レースの中でいろいろ手放して、すべて感謝する者へと変えられて行ったようです。
この秋、私は台風15号で被災したお宅の多くに行ったことを最初に話しましたが、床上浸水して家財の多くを失った方々は、強制的にものを手放さざるを得なかった方々です。その方々は、日本アルプス縦断レースを完走して大浜の海岸に辿り着いた選手の方々とどこか似ているように感じました。家財を失って最低限の物で暮らしている方々は、欲得から解放されて、電気製品の無料支給を素直に喜んで下さり、このプロジェクトに感謝する、とても「良い人」であるという印象を受けました。
おわりに
宗教であってもなくても、経験上、私たちは執着を手放すことで幸福に近づけることを知っています。しかし、手放すことは、とても難しいことであることもまた知っています。自分で何とかしようと私たちはもがき、苦しんでしまいます。その難しい手放すことを、どうやったら達成できるのか、宗教によって異なることが語られるのでしょう。キリスト教の場合は、神の子であるイエス・キリストが率先して手放すことを実践している点に大きな特徴があります。神の御子であるイエス様が率先してすべてを手放しているのですから、私たちもそれに倣いたいと思います。
それによって、どんな良いことがあるのか?と問われるなら、余計なものを手放してきよめられることで、イエス様に似た者にされて行くという良い点があるほか、聖書が段々と分かるようになるという素晴らしいことを挙げたいと思います。
聖書を読んでも最初はなかなか分かりません。それは、私たちが現代の常識にあまりに囚われているからです。私たちは学校や世間で習った様々な知恵や知識をたくさん持っています。それらの知恵や知識を持っている間は、聖書はなかなか理解できません。しかし、それらを手放して行くなら、聖書のことばが段々と心の中に入って来るようになります。そうして手放せば手放すほど、聖書のことばが素直に心の中で響くようになります。だから、聖書は読むたびに新鮮です。去年よりも今年のほうが多く手放せているなら、聖書のことばはより一層深く心の奥に入って来ます。これが聖書の醍醐味です。イエス様がすべてを手放したお方であることも、より実感できるようになることでしょう。そしてさらに、「永遠のいのち」とは何かについても、手放せば手放すほど、分かるようになって来るでしょう。「永遠」とは、この世の知恵や知識や常識では決して理解できない領域のことです。ですから、それらの知恵や知識や常識を手放すことで、「永遠のいのち」のことも段々と分かるようになります。そして、この世の苦しみから解放されるだけでなく、死の恐怖からも解放されて、深い平安が得られます。
私自身もまだまだ道半ばですが、そのような平安の深みにイエス様に連れて行っていただきたいと願っています。イエス様がこの世に生まれて下さったからこそ、私たちはその平安の深みに連れて行っていただくことができます。
きょうのクリスマス礼拝、イエス様のご降誕に心一杯感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。