平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

寒い夜の温まる出来事(2022.12.25 クリスマス礼拝)

2022-12-27 03:39:49 | 礼拝メッセージ
2022年12月25日クリスマス礼拝メッセージ
『寒い夜の温まる出来事』
【ルカ2:8~20】

はじめに
 クリスマスおめでとうございます。
 きょうはイエス・キリストがお生まれになったクリスマスの日です。新約聖書のルカの福音書2章には、その日の出来事が記されています。その中でも、きょう注目したいのは羊飼いたちです。きょうはイエス様が生まれた日の羊飼いたちのことを身近に感じながら、この日の出来事について、ご一緒に思いを巡らしたいと思います。

 きょうの中心聖句は、ルカ2章11節です(週報p.2)。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 ①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
 ②今日の本題:a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
        b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
        c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
 ③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる

①背景の説明:家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子
 きょう私たちが注目するのは羊飼いたちですが、その前に、この日お生まれになったイエス・キリストについて、見ていきましょう。ごくごく簡単に言えば、イエス・キリストは表題で示したように、「家畜小屋で生まれ、十字架で死んだ神の子」です。

 イエス様が家畜小屋で生まれた経緯は、きょうの聖書箇所より前の箇所に書かれていますから、そちらから見て行きましょう。ルカの福音書2章1節と2節、

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

 皇帝アウグストゥスというのは、ローマ帝国の皇帝のことです。ローマ帝国は地中海の沿岸一帯を支配しており、ユダヤもまたローマ帝国に支配されていました。ここでルカは当時の皇帝がアウグストゥスであり、シリアの総督がキリニウスの時代のことであると書いています。このことから、イエス様がお生まれになったのが何年頃だったのかが、かなり絞られます。皇帝や総督についての歴史的な資料は聖書以外にもありますから、照らし合わせることで、年代が絞り込めます。そういう意味でもルカの福音書は非常に貴重な書物です。

 さて、当時の住民登録は出身地で行うようになっていたんですね。それで皆、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行きました。イエス様の父親のヨセフはダビデの子孫でした。ダビデの出身地はベツレヘムですから、ヨセフはベツレヘムに向かいました。その時、妻のマリアも一緒でした。マリアのお腹にはイエス様がいて身重でした。

 そして、6節と7節、

6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ベツレヘムには住民登録のために多くの人が訪れていて、宿屋はどこも一杯でした。もしヨセフがお金持ちだったら、泊めてもらうこともできたでしょう。でも、ヨセフとマリアは貧しかったので宿屋に泊まることができず、家畜小屋に泊まっていました。そして、そこでイエス様が生まれました。

 イエス様は神の御子です。神の御子が、私たちに神様のことや様々なことを教えるために、天から私たちの地上に降って来て、ヨセフとマリアの子として生まれて下さいました。きょうの礼拝の最初の方でご一緒に読んだヨハネの福音書の1章には、そのことが書いてあります(週報p.2)。1節と14節を、お読みします。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

 「ことば」とはキリストのことです。キリストは神でした。しかし、神であることを手放して、人となって、この世に降って来て下さいました。天から降って来て誕生したので、「降誕」という呼び方をします。神様が地上に降って来て生まれるだけでも、すごいことなのに、生まれた場所は何と、家畜小屋でした。イエス様は裕福な家庭の子としてではなく、貧しい家庭の子として生まれました。何も持たずに赤子として生まれ、生まれてからも貧しい家庭の子として育ちました。そうして、最後は十字架で死にました。十字架では衣服をはぎとられて、生まれたままの裸の姿で十字架に付けられて、死にました。イエス様は神の子ですから抵抗する力もありました(ヨハネ18:6参照)。でも、その力を行使せず、すべてを手放して、自ら十字架に向かって行って死にました。

 ちなみに、手放したのはイエス様だけではありませんでした。天の父も、ひとり子のイエス様を手放して、地上に遣わせました。ヨハネ3章16節は、そのことを次のように書いています(週報p.2)。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 天の父は世を愛し、私たちを愛して下さっています。それゆえに、ひとり子のイエス様を手放して地上に遣わして下さいました。それは御子イエス様を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。「永遠のいのち」については、最後にまた触れます。

②今日の本題
a) 私財を持たず屋外で夜番をした羊飼い
 さて、きょうの本題に入って行きましょう。きょう注目したいのは羊飼いたちです。8節、

8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

 羊飼いたちは、屋外で野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていました。羊が盗まれないように、また狼などの獣に襲われて殺されないように、或いは何かに驚いて羊が散り散りになってしまうことがないように、羊飼いたちは夜番をしていました。

 どのような季節であれ、夜は冷えます。羊飼いたちは寒さに震え、寒さに耐えながら夜番をしていたことでしょう。きょうはここで、いま現在、寒さに震えている人々に心を寄せたいと思います。この会堂はエアコンとストーブとで暖かさが保たれていますが、いま現在も寒さに震えている方々がいます。

 世界を見れば、ウクライナなどの戦争・紛争地域の人々が寒さに震えています。ウクライナではロシアが発電所などの電力施設を攻撃したために、電力が不足していて寒さに震えている人々がたくさんいることが報道されています。

 日本の国内も、いま寒波に襲われています。先週は日本海側だけでしたが、ここ2、3日は太平洋側の名古屋や瀬戸内の広島など、全国各地で大雪が降っていることが報じられています。そして、倒木などが原因で停電している地域があると報じられています。先週、停電していた柏崎市で、車の中で暖を取っていた20代の女性が一酸化炭素中毒で死亡したことが報じられていました。本当に痛ましい事です。さらには屋根の雪下ろしの最中の死亡事故のことも多く報じられています。

 私たちの地元の静岡市でも9月の大雨で浸水したお宅の多くが暖房器具を失って寒さに震えています。床上浸水があった地域ではエアコンの室外機が水没して使えなくなりました。かろうじてファンが回る室外機でも、泥水がモーターに入ったことで異常な音がします。私は泥の撤去などの肉体労働系のボランティアは11月の初めには終えて、ここ11月の中旬からは浸水したお宅を訪問して電気製品を無料で支給するプロジェクトのお手伝いをしています。ここ1ヶ月でめっきり寒くなりましたから、暖房器具を希望するお宅が多くありました。ホットカーペットやこたつ、石油ファンヒーターなどの要望をお聞きしました。支援の手が届いていないお宅もあることと思います。身近な静岡においても今、寒さに震えている方々がいることを覚えていたいと思います。

b) 弱い者たちへ真っ先に知らされた降誕
 ベツレヘムの羊飼いたちも、夜の寒さに震えていたことでしょう。そして、神様からの良い知らせは、こういう弱い立場の人に真っ先に告げ知らされました。少し飛ばして11節と12節、

11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 御使いは羊飼いたちに、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言いました。救い主は、この世の苦しみから私たちを救って下さるだけでなく、「永遠のいのち」をも与えて下さいます。続いて13節と14節、

13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 これは、すごい光景ですね。救い主イエス様のご降誕が、いかに祝福に満ちたことであったかが分かります。この素晴らしい知らせは、羊飼いという世間的には軽蔑されて弱い立場にあった者たちに真っ先に伝えられました。

c) 「さあ」と言って応答した羊飼いたち
 この羊たちの反応もまた、素晴らしいものでした。15節、

15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」

 せっかく御使いが知らせてくれた素晴らしいことを自分たちの目で確かめるのと確かめないのとでは大違いです。羊飼いたちは直ちに反応しました。16節、

16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

 すこし飛ばして20節、

20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 このことで、羊飼いたちは身も心も温められたことでしょう。寒い夜に震えながら夜番をしていた羊飼いたちにとって、最高のクリスマス・プレゼントが天から与えられました。

③私はどうする?:執着を手放して御子イエスに心を寄せる
 では、この聖書の箇所を読んで、私はどうするべきなのでしょうか?聖書は物語として読むだけでも十分に興味深く面白いものです。でも、聖書はそれだけで終わる書物ではありません。聖書のことばは私たち一人一人に語り掛けて来て、時には私たちの心を突き刺します。きょうの箇所から聖書はどんなことを語り掛けて来ており、その語り掛けを聞いた私は、どう反応したら良いでしょうか?

 お気付きのことと思いますが、きょうの説教の重要なキーワードは「手放す」です。イエス・キリストは神でありながら、すべてを手放して地上に降って来て下さり、私たちに神様のこと、また天の御国について教えて下さいました。そして、最後は十字架に付けられて死にました。神としての力を行使すれば十字架刑を避けることはできたでしょう。でもイエス様はその力も手放して十字架で死にました。天の父もひとり子のイエス様を手放して地上に遣わしました。羊飼いたちは羊以外には手放すものが無いほど、ほとんど何も持っていない者たちだったでしょう。その羊でさえ、預かっているに過ぎない場合もあったことでしょう。彼らはもともと、多くを手放している者たちでした。

 宗教では、手放すことを勧めるものが多いと思います。キリスト教に限らず、仏教や修験道もそうでしょう。大晦日になると除夜の鐘の音が聞こえて来ます。私が以前住んでいた大岩の実家では、近所の臨済寺から、除夜の鐘の音が聞こえて来ました。除夜の鐘の「除」という言葉には古いものを捨てて新しいものに移るという意味があり、心穏やかに新年を迎えようという願いが込められているのだそうです。執着していることを捨てて手放すなら、新しい気持ちで新年を迎えられます。私たちはいろいろなことに囚われていますから、それらを手放すことが勧められています。

 修験道も、険しい山岳地帯で修行することで、余計なものがそぎ落されて行くのでしょうか。四国の八十八ヶ所の霊場巡りも自らの足で踏破するなら、きっとその過程でいろいろと手放して行くことができるのでしょう。

 宗教ではありませんが、この夏、私は日本アルプス縦断レースの応援をしました。出場選手は日本海側の富山湾から太平洋側の駿河湾まで北アルプス、中央アルプス、南アルプスを越えて来ます。ゴールは大浜海岸ですから、私は大浜街道と大浜の海岸で4人の選手を出迎えました。トップの土井選手、4位の望月選手、完走した20人の中では最後から2番目の19位の中島選手、そして最後の20位の吉川選手を、ゴール前の1~2kmほどを自転車で先回りしては応援しました。日本海側から415km走って来た選手の方々は、様々なものがそぎ落されて力が抜けていて、とても「良い人」になっているという印象を受けました。到着後のインタビューを聞いていると、「感謝しかない」、「すべてが感謝だ」ということが語られていました。レースに送り出してくれた家族や職場の同僚、大会を運営するスタッフ、共にレースを走った仲間の選手たち、沿道で声援を送ってくれた人々、すべてが感謝だと語っていました。レースの中でいろいろ手放して、すべて感謝する者へと変えられて行ったようです。

 この秋、私は台風15号で被災したお宅の多くに行ったことを最初に話しましたが、床上浸水して家財の多くを失った方々は、強制的にものを手放さざるを得なかった方々です。その方々は、日本アルプス縦断レースを完走して大浜の海岸に辿り着いた選手の方々とどこか似ているように感じました。家財を失って最低限の物で暮らしている方々は、欲得から解放されて、電気製品の無料支給を素直に喜んで下さり、このプロジェクトに感謝する、とても「良い人」であるという印象を受けました。

おわりに
 宗教であってもなくても、経験上、私たちは執着を手放すことで幸福に近づけることを知っています。しかし、手放すことは、とても難しいことであることもまた知っています。自分で何とかしようと私たちはもがき、苦しんでしまいます。その難しい手放すことを、どうやったら達成できるのか、宗教によって異なることが語られるのでしょう。キリスト教の場合は、神の子であるイエス・キリストが率先して手放すことを実践している点に大きな特徴があります。神の御子であるイエス様が率先してすべてを手放しているのですから、私たちもそれに倣いたいと思います。

 それによって、どんな良いことがあるのか?と問われるなら、余計なものを手放してきよめられることで、イエス様に似た者にされて行くという良い点があるほか、聖書が段々と分かるようになるという素晴らしいことを挙げたいと思います。

 聖書を読んでも最初はなかなか分かりません。それは、私たちが現代の常識にあまりに囚われているからです。私たちは学校や世間で習った様々な知恵や知識をたくさん持っています。それらの知恵や知識を持っている間は、聖書はなかなか理解できません。しかし、それらを手放して行くなら、聖書のことばが段々と心の中に入って来るようになります。そうして手放せば手放すほど、聖書のことばが素直に心の中で響くようになります。だから、聖書は読むたびに新鮮です。去年よりも今年のほうが多く手放せているなら、聖書のことばはより一層深く心の奥に入って来ます。これが聖書の醍醐味です。イエス様がすべてを手放したお方であることも、より実感できるようになることでしょう。そしてさらに、「永遠のいのち」とは何かについても、手放せば手放すほど、分かるようになって来るでしょう。「永遠」とは、この世の知恵や知識や常識では決して理解できない領域のことです。ですから、それらの知恵や知識や常識を手放すことで、「永遠のいのち」のことも段々と分かるようになります。そして、この世の苦しみから解放されるだけでなく、死の恐怖からも解放されて、深い平安が得られます。

 私自身もまだまだ道半ばですが、そのような平安の深みにイエス様に連れて行っていただきたいと願っています。イエス様がこの世に生まれて下さったからこそ、私たちはその平安の深みに連れて行っていただくことができます。

 きょうのクリスマス礼拝、イエス様のご降誕に心一杯感謝しながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
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やがて王座に就いて、王国を治める子(2022.12.22 祈り会)

2022-12-23 08:38:43 | 祈り会メッセージ
2022年12月22日祈り会メッセージ
『やがて王座に就いて、王国を治める子』
【イザヤ9:6~7】

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

 アドベントに入ってから、木曜日の祈祷会ではイザヤ書を開いて来ました。アドベント第1週はイザヤ書6章を開き、第2週はイザヤ書7章14節を見ました。

イザヤ7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 そして、先週のアドベント第3週はイザヤ書9章6節から、生まれて来る男の子がどんな男の子であるかを、ヨハネの福音書を見ながら分かち合いました。9章6節、

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 その男の子は「不思議な助言者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」です。これら四つを示すヨハネの福音書の箇所を先週は共に開いて、イエス様がどんなお方であるかを分かち合い、思いを巡らしました。この時、「主権はその肩にあり」、の「主権」については、次の週に見る事にすると話して、説明しませんでした。きょうは7節を見ながら、まずはこの「主権」から見て行きたいと思います。7節、

7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。

 「主権」ということばは少し分かりにくいことばですから、他の聖書訳を参考にしたいと思います。新共同訳では「権威」、口語約では「まつりごと」と訳しています。口語訳の「まつりごと」とは政治のことですから、こちらの方が分かりやすいですね。英語訳では、 government(NIV, NKJV, RSV, TLB等)、authority(NRSVUE等)、ruler(TEV)などと訳されています。governmentは政府、政治、authorityは権威、rulerは支配者・統治者のことですから、これらからイメージがつかめると思います。要するに「主権」とは7節にあるような「ダビデの王座に就いて、王国を治める」権威・権力のことであり、イエス様はその主権を持つ王であるということでしょう。

 こうして生まれた子は王であるがゆえに、東方の博士たちがその子を礼拝するためにユダヤを訪ねて来ました。今年のアドベントの礼拝ではもっぱらルカの福音書を開き、マタイの福音書の東方の博士たちの箇所を開く機会がありませんでしたから、今ここでご一緒に読んで、この箇所を味わいたいと思います。マタイ2章の1節から12節、

マタイ2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。
4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」
7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。
8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。
9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。

 博士たちはユダヤ人ではなく、異邦人でした。それなのに、ユダヤ人の王を礼拝しに来ることは少し不思議な感じもします。しかし、ペテロやパウロたちの使徒の時代には地中海沿岸一帯の人々が主を礼拝するようになり、その後、アメリカ大陸、アジア大陸そして日本の私たちにも主イエス様の福音が伝わって主を礼拝するようになりました。そして、終わりの日にはすべての国々の人々が主のもとに上って来ると、イザヤは預言しています。

 イザヤ書2章2節から4節を、お読みします。

イザヤ2:2 終わりの日に、の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムからのことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

 すべての国々が主の家に流れて来る終わりの日には、人々は槍を釜に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学びませんから、永遠の平和が実現します。

 今年の9月に天に召されたイギリスのエリザベス女王の葬儀では、終わりの日に先立って、その一端を垣間見ることができました。場所はエルサレムではなくてロンドンでしたが、世界中の王族や大統領などが集い、日本からも天皇・皇后の両陛下が葬儀に参列しました。また、この葬儀はテレビやインターネットによって世界中に中継の映像が配信され、まさに世界の目がこのロンドンのウェストミンスター寺院に注がれました。

 この葬儀は英国国教会のキリスト教式の葬儀でしたから、正に礼拝でした。主をほめたたえる讃美歌が歌われ、全知全能の神に女王の霊を委ねる祈りが為されました。わずか一日限りのことでしたが、終わりの日の光景を垣間見ることができたことは、本当に感謝なことでした。なぜなら、この光景を見たことで、イザヤが預言した終わりの日の光景は本当に実現するのだと確信できたからです。

 ルカの福音書1章には、男の子を身ごもると御使いに告げられたマリアがエリサベツのもとに行った時、エリサベツがこのように言ったことが記されています。

ルカ1:45 「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」

 終りの日にはすべての国々が主の家に流れて来ます。東方の博士たちが幼子のイエス様を礼拝したのは、その先駆けであり、それはイエス様がイザヤ書9章の6節と7節で預言された王の王だからです。この王の王であられるイエス様が私たちのために地上に遣わされ、神様のこと、神の王国のことを説き明かして下さり、神様に背いていた私たちの罪を赦すために十字架に付いて下さり、復活して天に帰られた後は聖霊によって私たちをきよめて下さいました。そうしてきよめの恵みに与った私たちはイエス様の弟子とされて「剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」(イザヤ2:4)よう励まされており、そのことによって平和が実現します。このことに心一杯、感謝したいと思います。

 最後にもう一度、イザヤ書9章6節と7節を読んで、クリスマスの恵みに感謝しましょう。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍のの熱心がこれを成し遂げる。
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恐れなく主に仕えるようにしていただく(2022.12.18 アドベント第4礼拝)

2022-12-19 15:01:13 | 礼拝メッセージ
2022年12月18日アドベント第4礼拝メッセージ
『恐れなく主に仕えるようにしていただく』
【ルカ1:67~80】

はじめに
 今年のアドベントはルカの福音書を開いています。先週のアドベント第3礼拝ではマリアの賛歌と呼ばれる箇所を開きました。そして、きょうはザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所をご一緒に見ることにしています。
 きょうの中心聖句はルカ1章74節です

ルカ1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。

 そして次の三つのステップで話を進めて行きます。

 ①全体的な背景:男の子を産んだザカリヤの妻のエリサベツ
 ②今日の聖書箇所:敵はあらゆる手を使って信仰を破壊する
 ③自分への適用:恐れなく目に見えない全能の神を信じる

①全体的な背景:男の子を産んだザカリヤの妻のエリサベツ
 先週はマリアがザカリヤとエリサベツが住む家を訪ねた箇所をご一緒に見ました。その時、エリサベツは妊娠してから6ヶ月目に入っていました(26節)。そして、マリアはエリサベツのもとに3ヶ月ほどとどまってからナザレの自分の家に戻りました。ですから、マリアがナザレに戻った時、エリサベツは妊娠9ヶ月目で、まさに月が満ちようとしていました。そうして、57節にあるように月が満ちてエリサベツは男の子を生みました。

 さて、夫のザカリヤはこの時まで、ずっと口がきけない状態にありましたが、それが解かれました。それは63節にあるように、「その子の名はヨハネ」と書いた時でした。ザカリヤの口がきけなくなったのは彼が御使いのことばを信じなかったからです。それゆえなのでしょう。御使いが言った通りの「ヨハネ」と名付けるべきことを人々に伝えた時、ザカリヤの口は開かれました。そうして、神をほめたたえました。

 ここにも正しい人であるザカリヤの信仰が現れていると思います。私だったら、口がきけるようになった途端、「ああ、ひどい目に遭った」などと、つい言ってしまうかもしれません。しかし、正しい人であったザカリヤは開口一番、神をほめたたえました。きっと口がきけないでいる間、御使いのことばを信じなかったことを悔いていたのでしょう。それとともに、妻のエリサベツのお腹が大きくなっていく様子を、喜びを持って見ていたのでしょう。この3ヶ月は若いマリアも共にいてエリサベツも明るく過ごしていたことと思いますから、ザカリヤもまた明るく過ごしていたのでしょう。そうしてザカリヤは神をほめたたえました。それが今日の聖書箇所のザカリヤの賛歌です。


②今日の聖書箇所:敵はあらゆる手を使って信仰を破壊する
 きょうの聖書箇所を見ましょう。68節から79節までを眺めると、75節までは主の救いについてザカリヤはほめたたえ、76節から79節までは、生まれた幼子が主の救いに備える者であることをザカリヤは賛美しています。まず主の救いの道を備える者についての76節から79節までを、先に見たいと思います。

ルカ1:76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。

 バプテスマのヨハネが具体的に何をしたかは、マルコの福音書が簡潔にまとめていますから、マルコ1章の4節と5節をお読みします(週報p.2)。

マルコ1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 罪を赦す権威があるのは神様だけです。神の御子であるイエス様には、その権威がありましたが、バプテスマのヨハネにはその権威は与えられていません。しかし、罪の赦しに導くための悔い改めのバプテスマを授けることはできました。それがバプテスマのヨハネに与えられた役割でした。神様に背いている罪を認めて悔い改める、この悔い改めがされているなら、イエス様による罪の赦しにすぐに導いて行くことができます。そして、ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民は「みな」、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、バプテスマを受けたとマルコの福音書は記しています。

 ルカの福音書に戻ります。

78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」

 これは神様の深いあわれみによるものです。神様に背くことは、本来は決して赦されない重大な罪です。この罪を、神様は深いあわれみによって赦して下さいます。神の怒りにふれて赦されていない間は、暗闇と死の陰に住んでいます。そんな私たちに神様は光りを与えて下さり、救って下さいます。バプテスマのヨハネはその救いへの道を整えて備えるために遣わされました。

 では、主の救いをほめたたえるザカリヤの賛歌の前半の部分を見たいと思います。68節から71節、

ルカ1:68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
71 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。

 71節に、この救いは私たちの敵からの救いであるとザカリヤは賛美しました。この場合の敵とは何でしょうか?目に見える形での敵としては、それは北王国を滅ぼしたアッシリアであり、南王国を滅ぼしたバビロニアでしょう。さらに言えば、このザカリヤの時代のユダヤを支配していたローマ帝国も敵と言えるでしょう。しかし、北王国と南王国が滅ぼされたのは、彼らの不信仰のゆえでした。預言者たちは再三にわたって王と民に、主に立ち返るように警告しました。しかし、それに聴き従わなかったために、不信仰の罪によって主の怒りにふれて滅ぼされてしまいました。

 それゆえ、敵とはアッシリアやバビロニアなどのような外側の敵というよりは、不信仰という内側の敵でしょう。そして、その不信仰をあおっているのが悪魔です。敵である悪魔はあらゆる手を使って私たちの信仰を破壊しようとします。この敵からの救いは、74節でもう一度語られます。

72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
75 私たちのすべての日々において、 主の御前で、敬虔に、 正しく。

 主は私たちを敵である悪魔の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださいます。

③自分への適用:恐れなく目に見えない全能の神を信じる
 この敵である悪魔の攻撃がいかに強力であるか、最後の3番目のステップに進んで、パウロのエペソ人への手紙を見ることで分かち合いたいと思います。少し長いですが、エペソ6章のその部分を、週報のp.2にも載せておきました。お読みします。

エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

 とにかく悪魔はあらゆる手を使って私たちの信仰を破壊しようとしますから、神のすべての武具を取って神様に守っていただかなければなりません。

 悪魔の代表的な手口は、人の霊性を弱めて神の霊を感じる霊的な能力を奪うことでしょう。先週ご一緒に見たマリアの賛歌でマリアは1章46節と47節のように賛美しました。

ルカ1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 マリアは「私は主をあがめ」ではなく、「私のたましいは主をあがめ」と言って主をあがめました。「私は私の救い主である神をたたえます」ではなく、「私の霊は私の救い主である神をたたえます」と言って、神をたたえました。

 この霊性が悪魔によって弱められると、目に見えない神ではなくて、目に見える形あるものを頼るようになり、偶像を礼拝するようになります。或いは形式を重んじる律法主義に陥ります。イエス様の時代のパリサイ人たちは、まさに形式的な律法主義に陥っていました。安息日に働かずに主に心を向けることは大切なことですが、だからと言って安息日に病人を癒したイエス様を批判したパリサイ人はあまりに形式にこだわっていました。隣人を愛し、病人を癒すことは主の御心に適うことです。それゆえイエス様は安息日でも病人を癒しました。

 目に見えない神様は変幻自在のお方です。形式主義に陥ると、この変幻自在の神様が見えなくなります。クリスマスによく語られる「くつ屋のマルチン」の話は、イエス様がまさに変幻自在のお方であることを示していますね。

 くつ屋のマルチンは、ある晩、聖書を読んでいる時にうたた寝をしてしまいます。その夢の中でイエス様が現れて、「マルチン、明日あなたの所に行きます」とおっしゃいました。翌日、マルチンはイエス様とお会いするのを楽しみにしながら、いつ来て下さるだろうとずっと窓の外を気にしていました。すると、窓の外で雪かきをしていたおじいさんが寒さで凍えている様子が見えたので、家の中に招き入れて、熱いお茶をごちそうしました。

 その次には上着もなく薄着で赤ちゃんを抱えていた若い母親の姿が見えたので、先ほどと同じようにその母親を家の中に招き入れました。彼女はここ何日も満足に食事をしておらず、お乳も出なくなっていたということで、マルチンは彼女に食事を与えました。そうして上着も着させて送り出しました。

 イエス様はなかなか現れませんでしたが、マルチンはイエス様を待ち続けて、くつ屋の仕事をしながら窓の外を見ていました。すると今度は、売り物のりんごを盗んだ少年をつかまえてお仕置きしようとしているおばあさんの姿が目に入ったので、マルチンは外に出て行き、りんごの代金を払って少年を赦してあげるように説得しました。人を赦すことはとても難しいことですが、おばあさんはそうしようと思いました。少年も赦されたことで、優しい気持ちになり、おばあさんの荷物を持ってあげました。

 そうして、日が暮れました。マルチンはイエス様が来なかったことにガッカリしていました。その時、「マルチン、マルチン」とおっしゃるイエス様の声がして、おじいさんが現れました。そのおじいさんはイエス様の声で「わたしですよ」と言いました。次に若い母親が現れて、イエス様の声で「わたしですよ」とおっしゃいました。おばあさんと少年も現れて「わたしですよ」とおっしゃいました。

 このように、イエス様は変幻自在に現れるお方です。11月の子供祝福礼拝では、「しんせつなサマリア人」という絵本を使って、ルカの福音書の「善きサマリア人のたとえ」の話をしました。強盗に襲われて大ケガをした人もまたイエス様でしょう。祭司とレビ人は、神殿での儀式という形式を重んじていたためでしょう、大ケガをした人を見て見ぬふりをして通り過ぎました。でも親切なサマリア人はケガ人を介抱しました。

おわりに
 悪魔の策略によって霊性が弱められると、形式主義に陥って変幻自在の神様の姿が見えなくなります。すると、天地万物をお造りになった全知全能の神様も見えにくくなります。神様が全地全能のお方であると信じるなら、私たちはマリアが告白したように、はしため(女奴隷)もしくは僕(しもべ、奴隷)に過ぎません。それゆえ、マリアのように「あなたのおことばどおり、この身になりますように」としか言えない者であることが分かります。でも悪魔の策略によって目に見えない神様が見えづらくなると、自分の力で何とかしようと悪あがきをするようになります。そうして、主にお仕えすることができなくなってしまいます。

 しかし、ザカリヤがほめたたえたように、「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる」お方です。ですから、私たちは恐れなく主にお仕えして、マリアのように、「ご覧ください。私は主のはしためです。あなたのおことばどおり、この身になりますように」と信仰告白できるお互いであらせていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
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戸惑いが喜びになる神様の人生への介入(2022.12.11 アドベント第3礼拝)

2022-12-14 05:37:33 | 礼拝メッセージ
2022年12月11日アドベント第3礼拝メッセージ
『戸惑いが喜びになる神様の人生への介入』
【ルカ1:39~56】

はじめに
 今年のアドベントの礼拝メッセージでは、ルカの福音書を開いています。先々週のアドベント第1礼拝ではバプテスマのヨハネの父親となった祭司ザカリヤに御使いのガブリエルが現れた場面を見ました。この後でザカリヤの妻のエリサベツに子供が与えられて身ごもりました。また、先週のアドベント第2礼拝ではイエス・キリストの母親となったマリアにも御使いのガブリエルが現れた場面を見ました。そして、きょうはマリアがエリサベツの所に行って、二人で喜びを分かち合った場面を開きます。きょうの中心聖句はマリアの賛歌と呼ばれる箇所の中から49節と50節とします。

ルカ1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

 そして、次の三つのステップで話を進めて行きます。

 ①全体的な背景:戸惑いつつエリサベツを訪問したマリア
 ②今日の聖書箇所:エリサベツと喜びを分かち合ったマリア
 ③自分への適用:神様の介入を受け入れれば人生が変わる

①全体的な背景:戸惑いつつエリサベツを訪問したマリア
 まず、きょうの聖書箇所の背景を先週の箇所から見ておきたいと思います。
 子供を身ごもることを御使いのガブリエルから告げられたマリアは戸惑っていました。28節と29節、

ルカ1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 この後、マリアと御使いとの間でいくつかのことばが交わされて、マリアは御使いの言うことを受け入れました。38節です。

38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 こう言って御使いの言ったことを受け入れたマリアでしたが、戸惑いが消えることは無かったはずです。これから自分がどうなって行くのか、分からないことだらけでした。でも、たった一つだけ分かっていたことがあります。それは、自分は主のはしためであって、決して主に逆らえる立場にはないということでした。新改訳聖書で「はしため」と訳されているギリシャ語のドゥーレーは「女奴隷」の意味を持つことを先週は話しました。奴隷は主人の命令に背くことは許されていません。それゆえマリアは御使いの言うことを受け入れて、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言いました。しかし、戸惑いは消えないままだったので、親類のエリサベツのところに行ったのでしょう。

 きょうの聖書交読ではマタイの福音書の1章をご一緒に読みました。御使いはヨセフにも(夢の中で)現れて、マリアが聖霊によって身ごもることを告げました。その箇所をもう一度お読みします。マタイ1章の18節から21節までです。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 ヨセフの戸惑いも大きかったことでしょう。ヨセフの戸惑いとマリアの戸惑いのどちらが大きかったのかは比べようがなく、どちらの戸惑いも非常に大きかったとしか言いようがないのではないかと思います。

②今日の聖書箇所: エリサベツと喜びを分かち合ったマリア
 では、今日の聖書箇所を見て行きましょう。39節と40節、

ルカ1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。

 ここにはヨセフが出て来ませんから、マリアはヨセフに黙ってエリサベツの所に行ったのでしょうか?そこら辺のところは良く分かりませんが、とにかくマリアは急いでエリサベツの所に行きました。ガリラヤのナザレからユダまでは直線距離でも100km以上ありますから、何日間か掛かったと思いますが、このルカの描写には、とてもスピード感がありますね。マリアが困惑していた様子が分かります。

41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」

 エリサベツは妊娠6ヶ月目(26節)に入っていましたから、子が胎内で動くのが分かったのですね。きっと、これが初めて子が動いた瞬間だったのでしょう。エリサベツは大声で叫んで、その喜びを表現しました。そして、その喜びがマリアにも伝わりました。

46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 この46節と47節の2つの節を見ただけで、聖書がいかに霊的な世界を重要視しているかが分かりますね。マリアは「私は主をあがめ」ではなく、「私のたましいは主をあがめ」と言いました。「私は…神をたたえます」ではなく、「私の霊は…神をたたえます」と言いました。このマリアのことばから、ふと詩篇42篇を思い起こしました(週報p.2)。

詩篇42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 この詩篇42篇の詩人も、「神よ、私はあなたを慕いあえぎます」ではなく、「神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」と言っています。目に見えない神様はたましいで感じる存在です。この聖書の霊的な世界をどれくらい感じ取れるかどうかが、世界の情勢にも大きく関係しているような気がします。世界には多くのクリスチャンがいます。それなのに、世界がなかなか平和にならないのは、マリアのように「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます」と信仰の告白ができる者が多くないからではないかと思わされることです。

 そして次の48節からもマリアにいかに豊かな霊性が与えられたかが分かります。

48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。

 マリアは「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」と言いました。「今から後、どの時代の人々も」と言いました。若いマリアが「今から後、どの時代の人々も」と言った所に豊かな霊性が与えられた様子が分かります。霊性が目覚めると、時間を長いスケールで捉えることができるようになります。神様は黙示録22章でおっしゃいました(週報p.2)。

黙示録22:13 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 このように神様は初めであり、終わりであるお方です。このスケールの大きさが、霊性が目覚めると段々と分かるようになり、それによって霊性がさらに豊かにされます。マリアの霊性も豊かにされて、「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」と言えるまでになったのでしょう(50節の「代々にわたって」からも、それが分かります)。そして、きょうの中心聖句の49節と50節、

49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。

 この49節と50節を中心聖句にしたのは、きょうのタイトルの『戸惑いが喜びになる神様の人生への介入』で表した通り、「神様の人生への介入」について、分かち合いたいと願っているからです。神様は小さな私たちの小さな人生に突然入り込んで来ます。つまり「介入」します。そして私たちの一人一人を用いようとします。与えられる役割が大きいか小さいかは人によるでしょう。マリアのようにとてつもなく大きな役割が与えられる者もあれば、マリアに比べれば小さな役割を与えられる者もあります。でも、マリアよりも小さな役割であっても、小さな私たちにとっては、神様から与えられる役割は決して小さくはありません。教会の奉仕も、どんな奉仕であっても一人一人にとっては大きなものであり、決して小さくはありませんね。それゆえ私たちは戸惑います。でも、その戸惑いを超えて神様の介入を受け入れるなら、戸惑いが喜びへと替わります。

③自分への適用:神様の介入を受け入れれば人生が変わる
 最後の三つめのステップで、さらに「神様の介入」について考えたいと思います。
 私たちは皆それぞれ、「明日はこのように生きて行こう」という思いを持って日々を生きていると思います。何も考えずに生きている人もいるかもしれませんが、それは今日と変わらない明日を生きようとしているのであって、それはそれで明日を考えながら生きているとも言えるだろうと思います。

 そんな自分に神様は急に介入して来て、「教会に行ってみませんか」と誘います。チラシや知人や家族を通して、そう誘って来ます。それまで教会のことなど何も知らなかった私に対して、介入して来ます。

 或いは、教会に通っている人に対しては、「教会の奉仕を担ってみませんか」と介入して来ます。既に担っている人に対しては、「もっと大きな役割を引き受けてみませんか」と介入して来ます。高津教会にいた時の自分を振り返ってみると、私の場合もそんな風に、少しずつ大きな役割を与えられて引き受け、そのことが牧師として召し出されることにつながったのかなと感じています。

 教会に通うようになってしばらくは、何の役割も担わないで、ただ教会の方々がしていることを眺めているだけでした。それが、教会の行事の奉仕を少しずつお手伝いをするようになりました。最初は本当に小さなことだったと思います。そうして、段々と大きなことを任されるようになり、牧師として召し出される少し前には教会で開く音楽コンサートの準備委員長を務めるようになりました。最初に音楽家と交渉して承諾を得るのは牧師の役目でしたが、それ以降の準備面の多くは教会員に任されて準備が進められました。こういう大きな役割を担うようになったことが、後に牧師として召し出されることにつながったのかなと思います。

 これらのことは、引き受けないという選択肢ももちろんあります。日頃の仕事に加えて教会の奉仕を引き受ければそれだけ忙しくなりますから、引き受けなかったとしても、それはそれで尊重されるでしょう。でも、引き受けないでいる間は、自分で自分の人生をコントロールしようとしているのだと思います。そういう自分に神様は介入して来て、もっと神様に仕える者へ変えようと介入して来ます。自分で自分の人生をコントロールしようとする者から、神様に仕え、神様に従う者へと変えようとなさいます。

 そういう神様の介入を受け入れるなら、自分が変えられて行きます。神様から与えられた役割を引き受けるに当たっては、当然戸惑いがあります。自分にはとてもできないのではないかと恐れ、尻込みします。でも神様は「恐れることはありません」と言って下さり、励まして下さるお方です。その神様のことばに従い、自分で自分の人生をコントロールしようとうする思いを少しずつ手放して行くなら、戸惑いが喜びに替えられます。これは、経験した者でないと分からない喜びだと思います。皆さんの多くは既にそれを経験しておられると思いますが、神様はもっと大きな役割も担ってほしいと介入して来ることもあると思います。そのような時、戸惑いを乗り越えて神様のことばに従うなら、さらに大きな喜びが得られるようになるでしょう。

おわりに
 与えらえる役割の大きさは人それぞれであり、マリアほど大きな役割を与えられることは決してないでしょう。恐らくこの二千年間でマリアほど大きな役割を与えられた者はいないでしょう。私たちに与えられる役割はもっと小さなものです。でも、一人一人にとっては大きな役割です。それゆえ戸惑い、尻込みしたくなることもあると思いますが、若いマリアがこんなにも大きな役割を引き受けたことを覚えて、私たちも「おことばどおり、この身になりますように」とお答えして、神様が与えて下さる役割を担うことができるお互いとならせていただきたいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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最善の時に成就したイザヤ7:14の預言(2022.12.8 祈り会)

2022-12-12 06:49:52 | 祈り会メッセージ
2022年12月8日祈り会メッセージ
『最善の時に成就したイザヤ7:14の預言』
【イザヤ7:1~14】

イザヤ7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。
2 ダビデの家に「アラムがエフライムと組んだ」という知らせがもたらされた。王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。
3 そのとき、はイザヤに言われた。「あなたと、あなたの子シェアル・ヤシュブは、上の池の水道の端、布さらしの野への大路に出向いて行ってアハズに会い、
4 彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。
5 アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、
6 「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、
7 である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。
8 アラムのかしらはダマスコ、そのダマスコのかしらがレツィンだから。──エフライムは六十五年のうちに、打ちのめされて、一つの民ではなくなる──
9 エフライムのかしらはサマリア、そのサマリアのかしらがレマルヤの子だから。あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない。』」
10 はさらにアハズに告げられた。
11 「あなたの神、に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。」
12 アハズは言った。「私は求めません。を試みません。」
13 イザヤは言った。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。
14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 イザヤ書7章14節は新約聖書のマタイの福音書の1章でも引用されていることから、クリスマスの時期によく開かれる箇所だと思います。しかし、イザヤ7:14だけにしか目が注がれない場合がほとんどのような気がします。そこで今日は、7章の1節から14節までを見て、そこから見えて来ることを分かち合いたいと思います。

 分かち合いたいことを最初に述べておくと、預言と成就が「安定と不安定」という観点から好対照であるということです。処女懐胎が預言された時は何もかもが不安定な時期でした。そして、成就した時は逆にいろいろなことが安定した時期であり、最善の時に預言が成就したことが二つの時期を見比べることで分かるように思います。

 イザヤ7章の1節から見て行きましょう。

イザヤ7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時代、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、戦いのためにエルサレムに上って来たが、これを攻めきれなかった時のことである。

 時代はユダの王アハズの時代でした。アハズはウジヤの孫で、ヒゼキヤ王の父です。預言者イザヤはウジヤ王、ヨタム王、アハズ王、ヒゼキヤ王の4代の王の時代を生きた預言者ですが、この4人の王たちの中でアハズだけが主の目にかなわずに悪を行った王であることが列王記第二を読むと分かります。不信仰であったアハズ王の心は不安定でした。そして、南王国のユダを取り巻く状況も不安定であったことが、1節を読むと分かります。この時代、アラムの王とイスラエルの王がエルサレムを攻めるために上って来ましたが、攻めきれないでいました。そうして2節、

2 ダビデの家に「アラムがエフライムと組んだ」という知らせがもたらされた。王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ。

 「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」と書かれていることから、アハズ王の心の動揺がいかに大きかったかが分かります。しかし、アハズ王の時代だけが不安定であったわけではありません。南王国のユダはユダ族とベニヤミン族(とレビ族)だけの小さな国でしたから、常に攻められる危険がある不安定な中にありました。特に、アハズの息子のヒゼキヤの時代にはアッシリヤに攻め滅ぼらされる一歩手前のところまで行きました。しかし、ヒゼキヤが懸命に祈ったことで主がアッシリヤを撃退して下さいました。一方、ヒゼキヤの父のアハズ王は不信仰であったことが、このイザヤ書7章からも分かります。

3 そのとき、はイザヤに言われた。「あなたと、あなたの子シェアル・ヤシュブは、上の池の水道の端、布さらしの野への大路に出向いて行ってアハズに会い、
4 彼に言え。『気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。あなたは、これら二つの煙る木切れの燃えさし、アラムのレツィンとレマルヤの子の燃える怒りに、心を弱らせてはならない。

 主はイザヤを通して「心を弱らせてはならない」とアハズを励ましました。さらに5節から7節、

5 アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、
6 「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、
7 である主はこう言われる。それは起こらない。それはあり得ない。

 アラムとエフライム(北王国イスラエル)がユダを征服することは有り得ないと主は仰せられました。そしてエフライムが滅ぼされると仰せられました。

8 アラムのかしらはダマスコ、そのダマスコのかしらがレツィンだから。──エフライムは六十五年のうちに、打ちのめされて、一つの民ではなくなる──
9 エフライムのかしらはサマリア、そのサマリアのかしらがレマルヤの子だから。あなたがたは、信じなければ堅く立つことはできない。』」

 もしアハズ王が信心深い主の目にかなう王であったなら、この主のことばに大いに励まされて感謝したことと思います。でも、アハズは主の方を向いてはおらず、主のことばに従いませんでした。

10 はさらにアハズに告げられた。
11 「あなたの神、に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。」
12 アハズは言った。「私は求めません。を試みません。」

 主が「しるしを求めよ」と仰せられているのに、「私は求めません」と言って拒みました。「を試みません」は信仰的な態度のようにも聞こえますが、しるしを求めることと主を試みることは同じではないと思います。しるしを求めることは必ずしも悪いことではありません。士師記のギデオンも召し出される時にしるしを求めています(士師記6:17)。モーセも直接的にしるしを求めたわけではありませんが、主がしるしを見せて下さいましたから(出エジプト記4:1-8)、暗にしるしを求めたと言うこともできるでしょう。ですから、アハズはしるしを求めるべきでした。それゆえイザヤは言いました。

13 イザヤは言った。「さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。
14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 アハズがしるしを求めなかったので、主は自らしるしを与えるとイザヤは預言しました。それが処女懐胎であり、御子イエス様が乙女マリアから生まれることの預言でした。

 こうして、ここまでアハズ王の時代のことを見渡すと、すべてが不安定であったことが見て取れます。ユダの王国自体が不安定なために、アハズ王と民の心も揺れていました。そして、アハズ王の信仰もまったく安定していませんでした。「私は求めません。を試みません」というアハズのことばは一見すると信仰的に見えます。しかし、アハズが礼拝したのは偶像でした。目に見える偶像ではなくて目に見えないを礼拝することが真の信仰ですが、アハズにはそのことが分かっていませんでした。

 一方で、処女懐胎の預言が成就した時代はローマ帝国によって平和が保たれている時代でした。ユダヤはローマ帝国の支配という苦難の中にはありましたが、戦乱がほとんどない平和が保たれていました。イエス様が生まれた時には住民登録が行われたとルカの福音書2章にありますが、このような住民登録は平和であるからこそできたことでしょう。ヨセフとマリアがナザレからベツレヘムに移動したように、多くの人々が移動したことでしょう。不穏な時代であったら、この大移動に乗じて帝国の転覆を企てる者たちが秘かに移動することもできたでしょうから、危険です。そういう心配が無いほど平和が保たれていたから、住民登録ができたとうことではないでしょうか。

 そして、イエス様がおよそ30歳の頃に宣教を開始した時も平和が保たれていましたから、イエス様はガリラヤからユダヤへ安全に旅をすることができましたし、イエス様が天に上げられてからも、弟子たちによって地中海沿岸の地域一帯にイエス様の教えを広めて行くことができました。ローマの平和が保たれていたからこそ、ヨーロッパ・アフリカ方面へも安全に旅をすることができて福音が宣べ伝えられました。

 こうして処女懐胎が預言された時と成就した時の二つの時代を比べると、安定という観点からはまったく対照的であることがよく分かります。すべてが不安定であった時代に預言されて、世が安定している時代にマリアが用いられて成就しました。「あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と御使いに言ったマリアの信仰は不安定なアハズ王に比べると格段に安定していました。伝道者の書3章には、

伝道者3:1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

とありますが、まさにその通りです。

 2022年の今の世界もまったく不安定ですが、神様が最善の時に素晴らしいことを為さいますから、私たちは恐れることなくマリアのように「あなたのおこばどおり、この身になりますように」と信仰告白をして、イエス様と共に歩んで行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
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おことばどおり、この身になりますように(2022.12.4 礼拝)

2022-12-05 06:47:48 | 礼拝メッセージ
2022年12月4日アドベント第二礼拝メッセージ
『おことばどおり、この身になりますように』
【ルカ1:26~38】

はじめに
 主のご降誕を待ち望むアドベントの第1週の先週は、バプテスマのヨハネの父となる祭司ザカリヤに御使いが現れた記事をご一緒に見ました。そして第2週の今日は、イエス様の母となるマリアのところに御使いのガブリエルが来た時の記事をご一緒に見ることにします。
 きょうの中心聖句はルカ1章38節です。

ルカ1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主の*はしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
 *はしため(ドウーレー、女奴隷)は、男性名詞しもべ(ドウーロス、奴隷)の女性名詞

 そして次の三つのステップで話を進めて行きます。

 ①全体的な背景:エリサベツが整えて平にしたマリアの道
 ②今日の聖書箇所:身も心も全てを完全に明け渡したマリア
 ③自分への適用:主に用いられやすい者に変えていただく

①全体的な背景:エリサベツが整えて平にしたマリアの道
 先週は、バプテスマのヨハネの父親となる祭司ザカリヤのところに御使いが現れた箇所をご一緒に見ました。バプテスマのヨハネは、イエス様が来られるための主の道を整えた預言者です。きょうはルカの福音書を開いていますから、ルカの福音書3章を見ましょう。2節から6節までをお読みします。

ルカ3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 このようにバプテスマのヨハネはイエス様が来られる道をまっすぐで平な道にして整えて、イエス様が来やすいようにしました。ヨハネが人々に何を語ったのかが、この3章に書かれています。たとえばヨハネは16節と17節のことを言いました。

16 そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。
17 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。

 イエス様は聖霊と火でバプテスマを授けられるお方であり、その聖霊と火によって私たちをきよめて下さるお方です。このことを覚えておきたいと思います(3つめのステップでまた話します)。

 そしてもう1つ分かち合いたいことは、ザカリヤの妻のエリサベツもまた、主の道を整えた者であろうということです。エリサベツがいたからこそ、マリアは恐れることなくイエス様の母親となることができたと言えるでしょう。36節によればエリサベツはマリアの親類ですから、エリサベツが子を身ごもるに至った経緯をきっと伝え聞いていたのではないかという気がします。第2のステップに進んでそのことを確かめつつ、きょうの説教題の「おことばどおり、この身になりますように」に思いを巡らしたいと思います。

②今日の聖書箇所:身も心も全てを完全に明け渡したマリア
 では、聖書を見て行きましょう。きょうの聖書箇所の一つ手前の節では、ザカリヤの妻のエリサベツが身ごもったことが書かれています。そして26節と27節、

26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。

 エリサベツが子どもを身ごもってから6か月後、今度はマリアのところに御使いのガブリエルが現れました。

28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 29節にマリアがひどく戸惑ったとありますが、ザカリヤのように取り乱したりはしなかったようです(12 ザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた)。これは、6カ月前にザカリヤに御使いが現れたことをマリアが何らかの形で聞いていたからではないかという気がします。御使いが現れることは滅多にないことだと思いますから、何も聞いていなかったらマリアもザカリヤのように取り乱してもおかしくなかっただろうと思います。ただ、取り乱すほどではなかったにせよ、恐れる様子が顔に出ていたのでしょうか御使いは言いました。

30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

 この30節から33節に掛けての御使いのことばは非常に多くの情報を含みますし、まだ若いマリアは考えたこともないような事ばかりだったでしょうから、マリアがどこまで御使いの言ったことを理解できたかは分かりませんが、マリアは御使いに言いました。

34 「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 すると、御使いは答えました。

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
37 神にとって不可能なことは何もありません。」

 マリアは恐らくエリサベツの妊娠のことを知っていたと思いますから、この部分は先ほどの箇所よりは分かりやすかったのではないかと思います。不妊と言われていたエリサベツが高齢で妊娠したことは、通常では有り得ない奇跡です。その奇跡には明らかに神様が関わっていました。その神様の奇跡が自分の身にも及ぼうとしていたことをマリアは察したのでしょう。マリアは38節で御使いに言いました。

38 「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 「はしため」は、ギリシャ語を直訳するなら「女奴隷」でしょう。奴隷は主人の命令通りに働かなければなりません。マリアは身も心もすべてを主人である神様に明け渡して、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言いました。現代はもちろんですが、2000年前のユダヤでも神様を本気で信じない人は少なくなかっただろうと思います。そんな中でマリアは神様を信じ、身も心もすべてを明け渡す信仰を告白しました。そうして、御使いはそこを去って行きました。ザカリヤの時には、信じないザカリヤに対して口をきけなくするという罰が与えられましたが、マリアは全面的に主を信頼していました。そうして御使いはそこを去って行きました。

③自分への適用:主に用いられやすい者に変えていただく
 マリアの信仰から私たちは何を学び、見習うべきかについて考えたいと思います。

 私たちの場合、たとえ神様を信じていたとしても、神様にすべてを明け渡すことは簡単にはできないことです。自分の都合を優先させて、神様の命令は二の次にしてしまうことが多いのではないでしょうか。それも悪いことであるとは一概に言えません。自分の判断を優先させることが大切な場合もあります。たとえば今話題になっているようなマインドコントロールがあった場合、人間の声なのに神様の声と思い込ませて高額の献金を強いるようなことがあります。そういうマインドコントロールを防ぐには自分で判断することが大切です。

 しかし人間の声ではなくて、もし本当に神様の声であったとしたら、自分の判断を優先させると神様に背いてしまう恐れがあります。サタンは虎視眈々とそれを狙っていますから、私たちは御心に反した判断をしがちです。ですから、自分で判断することは悪魔の声に従うことだと言っても良いかもしれません。では、悪魔の声と神様の声をどうしたら聞き分けることができるでしょうか?それができるようになるには、結局は自分を捨ててイエス様に付き従う者になる他はないのではないでしょうか。

 イエス様は9章23節から25節でおっしゃいました(週報p.3)。

ルカ9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 イエス様と同じように自分を捨てて十字架に付き、イエス様に従うなら、霊的な耳と目が開かれて悪魔の声と神様の声を聞き分けることが、きっとできるようになるでしょう。自分を完全に捨てることは難しいことですから、私ももちろん十分にできてはいませんが、そのような者でありたいという思いは常に持ち続けていたいと思います。

 キリスト教では、人のことをよく麦にたとえますね。私たち日本人は稲のほうが見慣れていますから、麦の代わりに稲にたとえましょう。稲に穂が入ってお米が十分に実ると頭を垂れて収穫できる状態になります。そうして稲が刈り取られて収穫されたなら、それは教会につながったということになります。つまり教会の一員になります。でも、米が食べられる状態になる、即ち神様の役に立ち、人の役に立つ状態になるには脱穀されて稲わらと分離され、さらにモミすりがされて殻が取り去られて玄米にならなければ食べられる状態にはなりません。玄米にならなければ神様のお役、人のお役に立てる者にはなれません。

 ここでバプテスマのヨハネが3章16節と17節で言ったことばを、もう一度見ましょう(週報p.2)。

ルカ3:16 そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。
17 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。

 たとえ刈り入れられて教会につながったとしても、私たちには依然として稲わらとモミ殻がしっかりと付いていて、主のお役には立てません。イエス様はそんな私たちから殻を取り去って下さり、殻を消えない火で焼き尽くしてきよめて下さいます。そうして私たちを主に用いられやすい者へと変えて下さいます。

おわりに
 マリアも、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と御使いに言った時点では、まだ殻をまとっていたかもしれません。でも神様はマリアをきよめて下さり、イエス様の母親という重大な任務を負うことができる器へと変えて下さいました。私たちも、たとえ今の状態が茎と殻を付けたままであったとしても、「あなたのおことばどおり、この身になりますように」ということができるなら、神様はそのようにして下さいます。そうして、神様に用いられやすい者へと変えていただきたいと思います。

 そのことを願いつつ、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。

ルカ1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
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現代でも閉ざされている霊的な目(2022.12.1 祈り会)

2022-12-05 06:07:26 | 祈り会メッセージ
2022年12月1日祈り会メッセージ
『現代でも閉ざされている霊的な目』
【イザヤ6:8~13、マルコ4:10~13、8:31~35】

【前半】
イザヤ6:8 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
9 すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。
13 そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(すえ)。」

 アドベントに入って礼拝説教では福音書を開いています。木曜の祈祷会ではイザヤ書を開きます。イザヤ書7章や9章ではイエス様の降誕のことが預言されていますから、それらの箇所を開きたいと思います。その前に今日は重要な6章を見ておきたいと思います。

 このイザヤ書6章で主は人々の心を鈍らせ、耳を遠くし、目を閉ざすと仰せられました。それはイエス様がこの世に遣わされるまでの筈でしたが、21世紀の現代においても今なお多くの人々の霊的な目が閉ざされていて、悲惨な戦争が繰り返されています。なぜ、人々の目が未だ閉ざされているのか、その理由を探りたいと思います。

 では、イザヤ書6章を見て行きましょう。イザヤ書6章はイザヤが神様に召し出された召命の章です。神様はイザヤを召し出すに当たって、まずイザヤをきよめました。セラフィムは神様の御使いです。御使いは言いました。7節、

7 「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

 そしてイザヤをきよめた後で、主は言われました。「だれを、わたしは遣わそう。だれがわれわれのために行くだろうか」。その主の声を聞いてイザヤは言いました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

 こうしてイザヤは召し出されましたが、主の命令は過酷なものでした。9節と10節、

9 「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

 預言者の役割とはほとんどの場合、主に背を向けて主の御声に耳を閉ざす人々に対して主の方を向いて御声を聞くように諫め、励ますことでしょう。しかし、ここで主はイザヤに民の耳を遠くし、その目を閉ざすように命じました。何と過酷な命令でしょうか。これを聞いたイザヤは思わず聞き返しました。「主よ、いつまでですか」。すると主は言われました。11節と12節、

11 「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
12 が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。」

 つまり、南王国がバビロンによって完全に滅ぼされ、人々が捕囚として引かれて行ってしまうまでということです。これは、もはや、この南王国が滅亡することは避けられないことを意味します。そして、わずかな者だけが残されると主は言われました。13節、

13 「そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔(すえ)。」

 そうして、そこに神の御子のイエス様が天から遣わされて、人々の耳と目を開いて下さいます。しかし、イエス様が遣わされて確かにペテロたちの耳と目は開かれましたが、依然として多くの人の耳と目は開かれないままで、それが現代に至るまで続いています。これは一体どういうことでしょうか。前半はここまでとして、後半にそのことを考えたいと思います。

【後半】
マルコ4:10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。
12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。

 前半のイザヤ書6章の主のことばからは、人々の耳と目が閉ざされるのは、イエス様が遣わされる時まであることが暗示されています。しかし、先ほども言ったように、ペテロたちなど弟子たちの耳と目は開かれましたが、多くの者の耳と目は閉ざされたままであり、それが現代に至っています。それがどうしてなのかは、福音書がヒントになるでしょう。

 イザヤ書6章の主のことばは、マタイ・マルコ・ルカの福音書の「種蒔きのたとえ」で引用されていますね。きょうはマルコを見ることにしたいと思います。マルコ4章でイエス様は「種蒔きのたとえ」を話されました。たとえ話は、普通は話を分かりやすくするために話す場合が多いと思います。しかし、イエス様の「種蒔きのたとえ」はとても分かりにくいものでした。そこで10節にあるように、イエス様の周りにいた人たちが、このたとえのことを尋ねました。するとイエス様は答えました。11節、

11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。

 そうしてイザヤ書6章を引用しました。

12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」

 つまり、イザヤの時代からの主が人々の耳と目を閉ざしたことが依然として続いていました。

 一方で、弟子たちには神の国の奥義が与えられます。この後の14節以降でイエス様は「種蒔きのたとえ」について説明しています。14節、

14 「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」

 こうして、弟子たちには奥義が伝えられました。しかし、その他の人々には奥義が伝えられませんでした。マルコ4章の1節には、非常に多くの群衆がイエス様のみもとに集まっていたと書かれています。これらの人々と弟子たちの違いは何だったのでしょうか?
 それは、弟子たちがそれまでの自分を捨てて、イエス様に付き従った者たちであったということなのでしょう。ここでマルコ8章を開きましょう。まず8章の31節から33節までを読みます。

マルコ8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 33節でイエス様はペテロに「下がれ、サタン」と言いましたが、この少し前の29節でペテロはイエス様に「あなたはキリストです」と言っています。つまり、ペテロはイエス様がどのようなお方か分かっていました。そんなペテロでも、サタンに妨害されると簡単に正しい方向から逸れてしまいます。4章の「種蒔きのたとえ」でも、道端に蒔いた種を鳥が食べてしまうたとえは、サタンが取り去ってしまうことだとイエス様は話されました。このように、サタンは常に人が神様の方向を正しく向くことを妨害します。このサタンの妨害から守られるためには、すべてを捨てて自分の十字架を負って、イエス様に従うほかないのでしょう。8章34節と35節、

34 「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

 きょうの関心の中心は、イエス様が遣わされたのに、どうして現代に至るまで多くの人の耳と目が閉ざされたままなのか、ということです。そして、福音書によれば、結局すべてを捨ててイエス様に従わなければ、耳と目は閉ざされたままであるということになります。何とも厳しいと言わざるを得ません。

 でも考えてみると、私たちには聖書の福音書が与えられていますから、いつでも聖書を通してイエス様とお会いできて、イエス様に従うことができます。ペテロたちは漁師などの職業を捨ててイエス様に付き従わなければなりませんでしたが、私たちはいつでも聖書を通してイエス様のすぐそばに行くことができます。そうして神の国の奥義を教えていただけますから、この恵みに心一杯感謝したいと思います。
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