2017年12月24日クリスマス礼拝メッセージ
『悩む人々8:イエス』
【ルカ22:39~46】
はじめに
クリスマスおめでとうございます。
今月に入ってから3回のアドベントの礼拝を行い、きょうはいよいよクリスマス礼拝の日となりました。
私たちはクリスチャンであってもなくても、クリスマスを盛大に祝います。神のひとり子である御子イエスがキリスト、すなわち救い主として、この世にお生まれになったことは本当に素晴らしい恵みです。
永遠の中にいる御父と御子イエス・キリスト
多くの皆さんがご承知のように、この素晴らしい恵みは、イエス・キリストが十字架で死んだ後にもたらされたものです。十字架の前にも多くの病人が癒されたりしましたから、恵みを受けた人々はもちろんいました。しかし、病気が治っても人は必ず年老いて行きますから、いつかは必ず死にます。人はそういう死への不安を抱えながら毎日を生きて行かなければなりません。
このように私たちが生きるこの世界には死がありますが、イエス・キリストは死がない神の「永遠」の世界から来られました。ヨセフとマリヤの子として人の世界に来て、十字架に掛かって私たち人間と同じように死にました。しかし死んでから三日目のイースターの日に復活して弟子たちの前に姿を現した後で天に昇り、再び神の「永遠」の世界へと帰って行かれました。このイエス・キリストを信じるなら私たちには天から聖霊が注がれて、私たちは「永遠」の中にいる神様と霊的な交わりを持つことができるようになります。すると私たちの心は平安で満たされ、死へと向かう不安からは解放されることになります。
キリスト教について誤解されがちなことの一つに、クリスチャンは死んだ後に天国に行けることに希望を持って今を生きているということがあると思います。それは間違いではないとは思いますが、あまり正確ではないと思います。イエス・キリストを信じて永遠の中にいる天の父と子との交わりの中に入れられるなら、私たちは死後でなくても今を生きる毎日が平安で満たされ、喜びに満ちた生活を送ることができるようになります。もちろん私たちの生活では様々なことが起こりますから24時間いつでも平安でいられるわけでは必ずしもありません。それでも心を天の神様に向けるなら大きな平安が得られますから感謝です。これは本当に素晴らしい恵みですから、このことをもっと多くの方々に知っていただきたいと思います。
「永遠」への入口の十字架
先ほども言いましたが、この素晴らしい恵みは十字架の後にもたらされたものです。私たちが永遠に入れられる素晴らしい恵みを得るためには、まず十字架によって悪が滅ぼされる必要がありました。そうは言っても、十字架以降も悪は存在しているではないかと多くの人々は思うことでしょう。しかし、十字架は永遠の世界への入口にありますから、それで良いのです。きょうはあまりややこしい話はしないつもりでいますが、少しだけ話すと、十字架とは例えるならドラえもんのタイムマシンの入口の、のび太の机の引き出しのようなものだと言えるでしょう。ドラえもんやのび太たちは、この机の引き出しに入るなら、どの時代にも行くことができます。つまり、この引き出しは永遠につながっています。ですから永遠の世界に入るには、この机の引き出しを必ず通らなければなりません。私たちも「永遠」の中にいる神様と交わりを持つためには、必ず十字架を通らなければなりません。イエス・キリストが十字架で流した血によって私たちの罪がきよめられて初めて、私たちは神の「永遠」の中に入ることが許されます。
このように私たちの罪がきよめられて神の「永遠」の中に入り、平安を得るためには十字架がどうしても必要です。イエス・キリストはクリスマスの日に生まれた時から、すでに十字架に掛かって死ななければならないように定められていました。赤ちゃんとして生まれたイエスさまが何歳ぐらいになった時にこのことを自覚するようになったかはわかりませんが、30歳ぐらいの時にガリラヤの地で宣教を開始した時には、すでにご存知であったろうと思います。きょうは、そこら辺りのところから見て行きたいと思います。
宣教の開始時から殺されかけたイエス
まず同じルカの福音書の4章16節からを見ましょう(新約聖書p.114)。これは、イエスさまがガリラヤで宣教を始めてから間もない時のことです。16節から19節までをお読みします(目で追ってください)。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
このイザヤ書は、イエスさまの時代よりも何百年も前に書かれた書です。このイザヤ書はイエスさまがいずれ人々の前に現れることを予告していました。そして、このことが実現したことをイエスさまは21節で言いました。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
これを聞いた人々は、みことばには恵まれましたが、このイザヤ書で預言された救い主が目の前のイエスだとは思いませんでした。22節にあるように、「この人は、ヨセフの子ではないか」と言いました。このようにイエスさまは宣教の始めの頃から、ご自身が救い主であることを人々に理解してもらうことができませんでした。そして28節と29節を見ていただくと、
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
とありますから、ここに既に十字架の予兆のようなことが見られます(崖から落とされたら死んでしまいます)。そして、この時のイエスさは、やがて自分が十字架に掛けられて死ななければならないことをご存知であったでしょう。ですからイエスさまは、このことに当然苦悩していたであろうと思います。神の御子イエスといえども人の子です。人々に理解されない孤独とともに、やがて大変な苦痛を受けなければならないことに悩まなかったはずがありません。
イエスを理解できなかった弟子たち
また、人々がイエスさまを理解しないという点においては、弟子たちも同様でした。18章31節から34節までを読みますから目で追ってください(新約聖書p.154)
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
ルカの福音書では、弟子たちは5章からイエスさまと行動を共にしました。そして、いま読んだ箇所は18章ですから、ここまで弟子たちはイエスさまから多くのことを教わっていました。それにも関わらず、弟子たちは今お読みした31節から33節までのイエスさまのことばを理解することができませんでした。もう一度、確認しておきましょう。31節でイエスさまは「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます」と言いました。これから、イエスさまはエルサレムで捕らえられて十字架に掛けられます。そして、イエスさまは続けます。
「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。」
このことが預言されている旧約聖書の箇所で一番有名なのはイザヤ書53章でしょうね。私のほうでお読みします(開かなくても良いです)。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
イエス・キリストは私たちの神へのそむきの罪のために十字架に掛けられました。この十字架によって悪が滅ぼされて私たちの罪も赦され、この十字架に向き合う者には平安がもたらされるようになりました。ドラえもんやのび太が机の引き出しを通して永遠の世界との行き来ができたように、私たちはこの十字架を通して神の「永遠」へとつながることができます。
ただし、このことを弟子たちが理解したのはイエスさまが十字架で死んだ後のことでした。イエスさまが地上で宣教している間は理解することができませんでした。それゆえイエスさまの孤独感は本当に大きかっただろうと思います。
十字架を前にして苦悩したイエス
そのイエスさまの苦悩は最後の晩餐の後で頂点に達します。きょうの聖書箇所のルカ22章39節から46節までです。これは最後の晩餐の後のことです。ここは交代で読みましょう。
22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
42節でイエスさまは、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。イエスさまもできることなら十字架に掛かりたくなかったのです。それは当然のことです。しかし、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈りました。そして御使いがイエスさまを力づけましたが、イエスさまの苦悩が消え去ることはありませんでした。44節にあるように、イエスさまは苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血のしずくのように地に落ちたとあります。夜の涼しい時間帯にその場で祈っているだけで汗が血のしずくのように地に落ちるとは、いったいどれほどの苦悩でしょうか。イエスさまがそれほどまでに苦しみ悶えていたのに、弟子たちは眠り込んでしまっていました。「悲しみの果てに」とありますから、鈍感だった弟子たちでも、イエスさまの様子を見て尋常ではないことを感じ、悲しい思いになったのでしょう。しかし弟子たちはイエスさまのことを最後の最後まで理解することができないでいました。それは仕方のないことです。まさかイエスさまが十字架に掛けられることになろうとは、弟子たちはこの時点で夢にも思っていませんでした。
しかし、仕方がなかったとは言え、それがますますイエスさまの孤独感を増し加えることになったと思いますから、本当につらかったことだろうと思います。
おわりに
最後に、礼拝の始めに交代で読んだルカ2章をもう一回皆さんと交代で読みたいと思います。救い主のイエスさまの誕生は本当に素晴らしい出来事でしたが、その素晴らしい恵みが私たちにもたらされるためには、イエスさまは十字架に掛からなければなりませんでした。そのことはイエスさまがお生まれになった時から、すでに定められていたのだということを私たちは覚えたいと思います。ルカ2章の8節から20節までを交代で読みましょう。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
お祈りいたしましょう。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
『悩む人々8:イエス』
【ルカ22:39~46】
はじめに
クリスマスおめでとうございます。
今月に入ってから3回のアドベントの礼拝を行い、きょうはいよいよクリスマス礼拝の日となりました。
私たちはクリスチャンであってもなくても、クリスマスを盛大に祝います。神のひとり子である御子イエスがキリスト、すなわち救い主として、この世にお生まれになったことは本当に素晴らしい恵みです。
永遠の中にいる御父と御子イエス・キリスト
多くの皆さんがご承知のように、この素晴らしい恵みは、イエス・キリストが十字架で死んだ後にもたらされたものです。十字架の前にも多くの病人が癒されたりしましたから、恵みを受けた人々はもちろんいました。しかし、病気が治っても人は必ず年老いて行きますから、いつかは必ず死にます。人はそういう死への不安を抱えながら毎日を生きて行かなければなりません。
このように私たちが生きるこの世界には死がありますが、イエス・キリストは死がない神の「永遠」の世界から来られました。ヨセフとマリヤの子として人の世界に来て、十字架に掛かって私たち人間と同じように死にました。しかし死んでから三日目のイースターの日に復活して弟子たちの前に姿を現した後で天に昇り、再び神の「永遠」の世界へと帰って行かれました。このイエス・キリストを信じるなら私たちには天から聖霊が注がれて、私たちは「永遠」の中にいる神様と霊的な交わりを持つことができるようになります。すると私たちの心は平安で満たされ、死へと向かう不安からは解放されることになります。
キリスト教について誤解されがちなことの一つに、クリスチャンは死んだ後に天国に行けることに希望を持って今を生きているということがあると思います。それは間違いではないとは思いますが、あまり正確ではないと思います。イエス・キリストを信じて永遠の中にいる天の父と子との交わりの中に入れられるなら、私たちは死後でなくても今を生きる毎日が平安で満たされ、喜びに満ちた生活を送ることができるようになります。もちろん私たちの生活では様々なことが起こりますから24時間いつでも平安でいられるわけでは必ずしもありません。それでも心を天の神様に向けるなら大きな平安が得られますから感謝です。これは本当に素晴らしい恵みですから、このことをもっと多くの方々に知っていただきたいと思います。
「永遠」への入口の十字架
先ほども言いましたが、この素晴らしい恵みは十字架の後にもたらされたものです。私たちが永遠に入れられる素晴らしい恵みを得るためには、まず十字架によって悪が滅ぼされる必要がありました。そうは言っても、十字架以降も悪は存在しているではないかと多くの人々は思うことでしょう。しかし、十字架は永遠の世界への入口にありますから、それで良いのです。きょうはあまりややこしい話はしないつもりでいますが、少しだけ話すと、十字架とは例えるならドラえもんのタイムマシンの入口の、のび太の机の引き出しのようなものだと言えるでしょう。ドラえもんやのび太たちは、この机の引き出しに入るなら、どの時代にも行くことができます。つまり、この引き出しは永遠につながっています。ですから永遠の世界に入るには、この机の引き出しを必ず通らなければなりません。私たちも「永遠」の中にいる神様と交わりを持つためには、必ず十字架を通らなければなりません。イエス・キリストが十字架で流した血によって私たちの罪がきよめられて初めて、私たちは神の「永遠」の中に入ることが許されます。
このように私たちの罪がきよめられて神の「永遠」の中に入り、平安を得るためには十字架がどうしても必要です。イエス・キリストはクリスマスの日に生まれた時から、すでに十字架に掛かって死ななければならないように定められていました。赤ちゃんとして生まれたイエスさまが何歳ぐらいになった時にこのことを自覚するようになったかはわかりませんが、30歳ぐらいの時にガリラヤの地で宣教を開始した時には、すでにご存知であったろうと思います。きょうは、そこら辺りのところから見て行きたいと思います。
宣教の開始時から殺されかけたイエス
まず同じルカの福音書の4章16節からを見ましょう(新約聖書p.114)。これは、イエスさまがガリラヤで宣教を始めてから間もない時のことです。16節から19節までをお読みします(目で追ってください)。
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
このイザヤ書は、イエスさまの時代よりも何百年も前に書かれた書です。このイザヤ書はイエスさまがいずれ人々の前に現れることを予告していました。そして、このことが実現したことをイエスさまは21節で言いました。
「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
これを聞いた人々は、みことばには恵まれましたが、このイザヤ書で預言された救い主が目の前のイエスだとは思いませんでした。22節にあるように、「この人は、ヨセフの子ではないか」と言いました。このようにイエスさまは宣教の始めの頃から、ご自身が救い主であることを人々に理解してもらうことができませんでした。そして28節と29節を見ていただくと、
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。
とありますから、ここに既に十字架の予兆のようなことが見られます(崖から落とされたら死んでしまいます)。そして、この時のイエスさは、やがて自分が十字架に掛けられて死ななければならないことをご存知であったでしょう。ですからイエスさまは、このことに当然苦悩していたであろうと思います。神の御子イエスといえども人の子です。人々に理解されない孤独とともに、やがて大変な苦痛を受けなければならないことに悩まなかったはずがありません。
イエスを理解できなかった弟子たち
また、人々がイエスさまを理解しないという点においては、弟子たちも同様でした。18章31節から34節までを読みますから目で追ってください(新約聖書p.154)
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
ルカの福音書では、弟子たちは5章からイエスさまと行動を共にしました。そして、いま読んだ箇所は18章ですから、ここまで弟子たちはイエスさまから多くのことを教わっていました。それにも関わらず、弟子たちは今お読みした31節から33節までのイエスさまのことばを理解することができませんでした。もう一度、確認しておきましょう。31節でイエスさまは「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます」と言いました。これから、イエスさまはエルサレムで捕らえられて十字架に掛けられます。そして、イエスさまは続けます。
「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。」
このことが預言されている旧約聖書の箇所で一番有名なのはイザヤ書53章でしょうね。私のほうでお読みします(開かなくても良いです)。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
イエス・キリストは私たちの神へのそむきの罪のために十字架に掛けられました。この十字架によって悪が滅ぼされて私たちの罪も赦され、この十字架に向き合う者には平安がもたらされるようになりました。ドラえもんやのび太が机の引き出しを通して永遠の世界との行き来ができたように、私たちはこの十字架を通して神の「永遠」へとつながることができます。
ただし、このことを弟子たちが理解したのはイエスさまが十字架で死んだ後のことでした。イエスさまが地上で宣教している間は理解することができませんでした。それゆえイエスさまの孤独感は本当に大きかっただろうと思います。
十字架を前にして苦悩したイエス
そのイエスさまの苦悩は最後の晩餐の後で頂点に達します。きょうの聖書箇所のルカ22章39節から46節までです。これは最後の晩餐の後のことです。ここは交代で読みましょう。
22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
42節でイエスさまは、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。イエスさまもできることなら十字架に掛かりたくなかったのです。それは当然のことです。しかし、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈りました。そして御使いがイエスさまを力づけましたが、イエスさまの苦悩が消え去ることはありませんでした。44節にあるように、イエスさまは苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血のしずくのように地に落ちたとあります。夜の涼しい時間帯にその場で祈っているだけで汗が血のしずくのように地に落ちるとは、いったいどれほどの苦悩でしょうか。イエスさまがそれほどまでに苦しみ悶えていたのに、弟子たちは眠り込んでしまっていました。「悲しみの果てに」とありますから、鈍感だった弟子たちでも、イエスさまの様子を見て尋常ではないことを感じ、悲しい思いになったのでしょう。しかし弟子たちはイエスさまのことを最後の最後まで理解することができないでいました。それは仕方のないことです。まさかイエスさまが十字架に掛けられることになろうとは、弟子たちはこの時点で夢にも思っていませんでした。
しかし、仕方がなかったとは言え、それがますますイエスさまの孤独感を増し加えることになったと思いますから、本当につらかったことだろうと思います。
おわりに
最後に、礼拝の始めに交代で読んだルカ2章をもう一回皆さんと交代で読みたいと思います。救い主のイエスさまの誕生は本当に素晴らしい出来事でしたが、その素晴らしい恵みが私たちにもたらされるためには、イエスさまは十字架に掛からなければなりませんでした。そのことはイエスさまがお生まれになった時から、すでに定められていたのだということを私たちは覚えたいと思います。ルカ2章の8節から20節までを交代で読みましょう。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
お祈りいたしましょう。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。