平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

悩む人々8:イエス(2017.12.24 礼拝)

2017-12-27 07:04:58 | 礼拝メッセージ
2017年12月24日クリスマス礼拝メッセージ
『悩む人々8:イエス』
【ルカ22:39~46】

はじめに
 クリスマスおめでとうございます。
 今月に入ってから3回のアドベントの礼拝を行い、きょうはいよいよクリスマス礼拝の日となりました。
 私たちはクリスチャンであってもなくても、クリスマスを盛大に祝います。神のひとり子である御子イエスがキリスト、すなわち救い主として、この世にお生まれになったことは本当に素晴らしい恵みです。

永遠の中にいる御父と御子イエス・キリスト
 多くの皆さんがご承知のように、この素晴らしい恵みは、イエス・キリストが十字架で死んだ後にもたらされたものです。十字架の前にも多くの病人が癒されたりしましたから、恵みを受けた人々はもちろんいました。しかし、病気が治っても人は必ず年老いて行きますから、いつかは必ず死にます。人はそういう死への不安を抱えながら毎日を生きて行かなければなりません。
 このように私たちが生きるこの世界には死がありますが、イエス・キリストは死がない神の「永遠」の世界から来られました。ヨセフとマリヤの子として人の世界に来て、十字架に掛かって私たち人間と同じように死にました。しかし死んでから三日目のイースターの日に復活して弟子たちの前に姿を現した後で天に昇り、再び神の「永遠」の世界へと帰って行かれました。このイエス・キリストを信じるなら私たちには天から聖霊が注がれて、私たちは「永遠」の中にいる神様と霊的な交わりを持つことができるようになります。すると私たちの心は平安で満たされ、死へと向かう不安からは解放されることになります。
 キリスト教について誤解されがちなことの一つに、クリスチャンは死んだ後に天国に行けることに希望を持って今を生きているということがあると思います。それは間違いではないとは思いますが、あまり正確ではないと思います。イエス・キリストを信じて永遠の中にいる天の父と子との交わりの中に入れられるなら、私たちは死後でなくても今を生きる毎日が平安で満たされ、喜びに満ちた生活を送ることができるようになります。もちろん私たちの生活では様々なことが起こりますから24時間いつでも平安でいられるわけでは必ずしもありません。それでも心を天の神様に向けるなら大きな平安が得られますから感謝です。これは本当に素晴らしい恵みですから、このことをもっと多くの方々に知っていただきたいと思います。

「永遠」への入口の十字架
 先ほども言いましたが、この素晴らしい恵みは十字架の後にもたらされたものです。私たちが永遠に入れられる素晴らしい恵みを得るためには、まず十字架によって悪が滅ぼされる必要がありました。そうは言っても、十字架以降も悪は存在しているではないかと多くの人々は思うことでしょう。しかし、十字架は永遠の世界への入口にありますから、それで良いのです。きょうはあまりややこしい話はしないつもりでいますが、少しだけ話すと、十字架とは例えるならドラえもんのタイムマシンの入口の、のび太の机の引き出しのようなものだと言えるでしょう。ドラえもんやのび太たちは、この机の引き出しに入るなら、どの時代にも行くことができます。つまり、この引き出しは永遠につながっています。ですから永遠の世界に入るには、この机の引き出しを必ず通らなければなりません。私たちも「永遠」の中にいる神様と交わりを持つためには、必ず十字架を通らなければなりません。イエス・キリストが十字架で流した血によって私たちの罪がきよめられて初めて、私たちは神の「永遠」の中に入ることが許されます。
 このように私たちの罪がきよめられて神の「永遠」の中に入り、平安を得るためには十字架がどうしても必要です。イエス・キリストはクリスマスの日に生まれた時から、すでに十字架に掛かって死ななければならないように定められていました。赤ちゃんとして生まれたイエスさまが何歳ぐらいになった時にこのことを自覚するようになったかはわかりませんが、30歳ぐらいの時にガリラヤの地で宣教を開始した時には、すでにご存知であったろうと思います。きょうは、そこら辺りのところから見て行きたいと思います。

宣教の開始時から殺されかけたイエス
 まず同じルカの福音書の4章16節からを見ましょう(新約聖書p.114)。これは、イエスさまがガリラヤで宣教を始めてから間もない時のことです。16節から19節までをお読みします(目で追ってください)。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 このイザヤ書は、イエスさまの時代よりも何百年も前に書かれた書です。このイザヤ書はイエスさまがいずれ人々の前に現れることを予告していました。そして、このことが実現したことをイエスさまは21節で言いました。

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 これを聞いた人々は、みことばには恵まれましたが、このイザヤ書で預言された救い主が目の前のイエスだとは思いませんでした。22節にあるように、「この人は、ヨセフの子ではないか」と言いました。このようにイエスさまは宣教の始めの頃から、ご自身が救い主であることを人々に理解してもらうことができませんでした。そして28節と29節を見ていただくと、

4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

とありますから、ここに既に十字架の予兆のようなことが見られます(崖から落とされたら死んでしまいます)。そして、この時のイエスさは、やがて自分が十字架に掛けられて死ななければならないことをご存知であったでしょう。ですからイエスさまは、このことに当然苦悩していたであろうと思います。神の御子イエスといえども人の子です。人々に理解されない孤独とともに、やがて大変な苦痛を受けなければならないことに悩まなかったはずがありません。

イエスを理解できなかった弟子たち
 また、人々がイエスさまを理解しないという点においては、弟子たちも同様でした。18章31節から34節までを読みますから目で追ってください(新約聖書p.154)

18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

 ルカの福音書では、弟子たちは5章からイエスさまと行動を共にしました。そして、いま読んだ箇所は18章ですから、ここまで弟子たちはイエスさまから多くのことを教わっていました。それにも関わらず、弟子たちは今お読みした31節から33節までのイエスさまのことばを理解することができませんでした。もう一度、確認しておきましょう。31節でイエスさまは「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます」と言いました。これから、イエスさまはエルサレムで捕らえられて十字架に掛けられます。そして、イエスさまは続けます。
「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。」
 このことが預言されている旧約聖書の箇所で一番有名なのはイザヤ書53章でしょうね。私のほうでお読みします(開かなくても良いです)。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 イエス・キリストは私たちの神へのそむきの罪のために十字架に掛けられました。この十字架によって悪が滅ぼされて私たちの罪も赦され、この十字架に向き合う者には平安がもたらされるようになりました。ドラえもんやのび太が机の引き出しを通して永遠の世界との行き来ができたように、私たちはこの十字架を通して神の「永遠」へとつながることができます。
 ただし、このことを弟子たちが理解したのはイエスさまが十字架で死んだ後のことでした。イエスさまが地上で宣教している間は理解することができませんでした。それゆえイエスさまの孤独感は本当に大きかっただろうと思います。

十字架を前にして苦悩したイエス
 そのイエスさまの苦悩は最後の晩餐の後で頂点に達します。きょうの聖書箇所のルカ22章39節から46節までです。これは最後の晩餐の後のことです。ここは交代で読みましょう。

22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

 42節でイエスさまは、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。イエスさまもできることなら十字架に掛かりたくなかったのです。それは当然のことです。しかし、「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈りました。そして御使いがイエスさまを力づけましたが、イエスさまの苦悩が消え去ることはありませんでした。44節にあるように、イエスさまは苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血のしずくのように地に落ちたとあります。夜の涼しい時間帯にその場で祈っているだけで汗が血のしずくのように地に落ちるとは、いったいどれほどの苦悩でしょうか。イエスさまがそれほどまでに苦しみ悶えていたのに、弟子たちは眠り込んでしまっていました。「悲しみの果てに」とありますから、鈍感だった弟子たちでも、イエスさまの様子を見て尋常ではないことを感じ、悲しい思いになったのでしょう。しかし弟子たちはイエスさまのことを最後の最後まで理解することができないでいました。それは仕方のないことです。まさかイエスさまが十字架に掛けられることになろうとは、弟子たちはこの時点で夢にも思っていませんでした。
 しかし、仕方がなかったとは言え、それがますますイエスさまの孤独感を増し加えることになったと思いますから、本当につらかったことだろうと思います。

おわりに
 最後に、礼拝の始めに交代で読んだルカ2章をもう一回皆さんと交代で読みたいと思います。救い主のイエスさまの誕生は本当に素晴らしい出来事でしたが、その素晴らしい恵みが私たちにもたらされるためには、イエスさまは十字架に掛からなければなりませんでした。そのことはイエスさまがお生まれになった時から、すでに定められていたのだということを私たちは覚えたいと思います。ルカ2章の8節から20節までを交代で読みましょう。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 お祈りいたしましょう。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
コメント

悩む人々7:バプテスマのヨハネ(2017.12.20 祈り会)

2017-12-22 08:20:39 | 祈り会メッセージ
2017年12月20日祈り会メッセージ
『悩む人々7:バプテスマのヨハネ』
【マタイ11:2~6】

11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

はじめに
 悩む人々のシリーズは祈り会と礼拝とを合わせて今日は7回目です。きょうはバプテスマのヨハネに注目し、クリスマス礼拝の24日はイエスさまご自身に注目する予定です。

獄中にいたバプテスマのヨハネ
 マタイ11章2節から見て行きます。「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは」とありますから、この時、バプテスマのヨハネは囚われの身で牢屋の中にいました。ヨハネを捕らえたのはユダヤの王のヘロデでした。ヘロデがヨハネを捕らえた理由は、マタイ14章3節と4節にあります。

14:3 実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。
14:4 それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。

 ヨハネはこのように、不法なことをしているヘロデに捕らえられるという理不尽な目に遭って苦しんでいました。ヨハネは牢屋にいましたから、イエスの御業を直接見ることはなく、人づてに聞きました。イエスは病気で苦しんでいる人や貧しい人々に寄り添っているということでした。それはそれで素晴らしいことかもしれませんが、ヨハネ自身の境遇は少しも変わりませんでした。もしイエスが救い主であるのならダビデ王のように強力な軍勢を率いてヘロデとローマの支配を打ち破り、自分を獄中から救い出してくれるはずではないのか。そんな風にも思ったかもしれません。
 それゆえヨハネは弟子たちに託してイエスにこう言い送りました。11章3節です。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

 それを聞いてイエスさまはヨハネの弟子たちに答えました。4節から6節、

11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 5節に挙げられていることは、イエスさまがメシヤであることのしるしです。特に死人が生き返るような御業はイエスさまが神の子キリストでなければできないことでしょう。ルカの福音書では、ヨハネが弟子をイエスさまのところに送った箇所の直前にイエスさまが死人を生き返らせた記事を置いています。

死人を生き返らせたイエス
 今度はルカの福音書を見ましょう。ルカ7章11節から17節までを交代で読みます。

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
7:16 人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。
7:17 イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。

 そうして18節で獄中にいたヨハネは、弟子たちからこれらのことを聞き、弟子たちをイエスさまのところに送りました。そしてイエスさまはマタイに書いてあることと同じことを言い、23節のように言いました。

7:23 「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 ヨハネは、この死人がよみがえった話を弟子たちから聞いて、信じなかったわけではないと思います。しかし、それほど力強い御業を為さる方がいるのに、どうして今の自分の理不尽な状況が変わらないのかという思いは当然持ったことと思います。ヨハネの母のエリサベツとイエスさまの母のマリヤは親類同士です。そうしてヨハネはイエスさまにバプテスマを授けました。そういう近い関係にあり、しかもイエスさまは死人を生き返らせるほどの力を持った方です。それほどの方がどうして不法なことをしているヘロデに捕らえられている自分を救ってくれないのか。ヨハネは悩んだに違いありません。

ユダもペテロもつまづいた
 イエスの御業を自分の目で直接目撃したイスカリオテのユダでさえ、つまづいたのですから、獄中にいて直接御業を見ていないヨハネが悩んだのは当然のことではないかと思います。
 イスカリオテのユダも、イエスさまがいくら病人を癒しても世の中の体制が変わらないことに疑問を持ち、つまづいたのだと思います。そしてペテロも、祭司長たちがイエスさまを捕らえようと人を送った時、勇敢に戦い始めたのをイエスさまに制止され、イエスさまが大人しく捕らえられてしまったことに、つまづきました。そうしてペテロは鶏が鳴くまでにイエスさまを三度知らないと言いました。
 このようにイエスさまの御業を直接目撃したイスカリオテのユダやペテロでさえつまづいたのですから、獄中にいてイエスさまの御業を人づてに聞いただけのバプテスマのヨハネがイエスさまについて疑問を持ったのは当然のことだろうと思います。
 このバプテスマのヨハネの状況は、福音書の読者である私たちの状況とも似ていると言えるでしょう。福音書の読者の私たちも、ルカ7章15節にあるような死人が生き返った現場を直接目撃したわけではありません。イエスさまを信じる前の聖書の初心者が、この7章15節を読んでも、素直に信じる人はほとんどいないのではないかと思います。
 しかしイエスさまの復活を信じるようになるなら、イエスさまを生き返らせた神なら15節の死人だって生き返らせることができるだろうと信じることができます。イエスさまは地上生涯において様々なしるしを行われて、ご自身が神の子キリストであることをお示しになりましたが、結局のところ十字架で死んだ後によみがえるまでは、人々がイエスさまを本気で信じることはなかったということになります。

イースターと併せて語りたいクリスマス
 今回、このメッセージの準備をしていて、これからはクリスマスにイースターについてもお伝えしたほうが良いのではないかなということを示されました。と言うのは、最近では日本においても「イースター」のことがよく知られるようになって来たからです。イースターの深い意味を知る人は少ないかもしれませんが、「イースター」という言葉を一度も聞いたことがないという人はほとんどいないのではないかと思います。少し前までだったら「イースター」という言葉を聞いたことがない人は多かったことと思います。そんな状況でクリスマスの伝道の時期にわざわざイースターを持ち出すことは話をわかりにくくするだけですから避けるべきであったと思いますが、近年は状況が違います。
 イエス・キリストがクリスマスの日にこの世にお生まれになったのは、病気の人々や貧しい人々に寄り添って彼らに平安を与え、そして病人を癒したり死人を生き返らせたりして自分が神の子キリストであるしるしをお示しになるためでした。そして最後はご自身が十字架に掛かって死に、よみがえりました。そうしてイエスさまが神の子キリストで復活したことを信じる者には聖霊が与えられて自らの罪についても深く知ることができるようになり、イエスさまが私たちの罪のために十字架に掛かったことについてもより深く理解できるようになり、罪から解放されます。そして永遠の命が与えられたことを感じて大きな平安を得るという素晴らしい恵みが与えられます。

おわりに
 イエスさまがこの世に生まれたことをお祝いするこのクリスマスに、イエスさまが何のためにこの世に来て下さったのかについても、少しでもお伝えすることができれば幸いだと思います。ただ単にイエスさまがこの世で何をしたかをお伝えするだけでは、バプテスマのヨハネが弟子たちからイエスさまのことを聞いて疑い悩んだことと同じことになってしまうかもしれません。きょうは、イエスさまの復活を知らなかったバプテスマのヨハネの悩みについて思い巡らすことができましたから感謝に思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

5:36-39(ヨハネの福音書注解)旧約聖書の中にいるイエス

2017-12-22 08:09:13 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:36-39 旧約聖書の中にいるイエス


36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

 39節にある「聖書」とは旧約聖書のことだ。イエスは「その聖書が、わたしについて証言している」と言っている。これまで解説してきたようにヨハネの福音書の背後には「旧約の時代」が隠されている。そしてヨハネ1章では霊的イエスが神としてアブラハムとヤコブと関わり、或いはまたヨハネ2章と4章では霊的イエスがモーセとエリヤの中にいることを説明した。このように旧約聖書の背後には常に霊的イエスが存在している。それゆえ「聖書がわたしについて証言している」と言ったのだ。
コメント

悩む人々6:兄息子

2017-12-18 09:45:44 | 礼拝メッセージ
2017年12月17日アドベント第3礼拝メッセージ
『悩む人々6:兄息子』
【ルカ15:25~32】

はじめに
 「悩む人々」のシリーズは祈り会と礼拝とを合わせて今日で6回目になります。先週の祈り会では「弟息子」に注目しました。そして、きょうの礼拝では「兄息子」に注目します。また次の20日の祈り会では「バプテスマのヨハネ」に注目する予定にしていて、来週の24日のクリスマス礼拝では人としてのイエス様ご自身に注目する予定にしています。

家に近づくほど不安が増した勇作

 はじめに、先週の祈り会で注目した放蕩息子である弟息子の悩みについて、簡単に話したく思います。父親から分けてもらった財産を湯水のようにじゃんじゃん使って、使い果たしてしまった弟息子は食べる物に困っている時に「我に返り」、父親の家に戻ることにしました。この弟息子が家に戻る過程では、家に近づけば近づくほど、きっと不安が増していったことと思います。このことを40年前の映画の『幸福の黄色いハンカチ』を例話にして話しました。この高倉健と賠償千恵子が北海道の夕張の夫婦の役を演じた映画についてはテレビでも何度も放映されましたから、多くの皆さんがご存知のことと思います(実は来週のお楽しみ会で10分ぐらいラストシーンを中心にしてビデオをご一緒に観るようにしようかなと思っています)。
 網走の刑務所を出所した高倉健が演じる元・夫の勇作は、倍賞千恵子が演じる夕張にいる元・妻の光枝に一枚の葉書を出しました。その葉書には、もしまだ一人でいて自分を待ってくれているなら、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチを掲げてほしい、もし掲げていなかったら黙って去るからと書いてありました。そうして夕張に向かいます。しかし、夕張に近づくにつれて、もう光枝は待ってくれてはいないだろうという思いが段々と強くなり、夕張に行くのをやめようとします。それを若い二人(当時)、武田鉄矢と桃井かおりが彼を励まし、車で夕張まで連れて行きます。勇作は夕張の家に近づけば近づくほど結果を恐れて不安になって行きました。それは勇作が事件を起こして刑務所に入所する前後に光枝に対して色々とひどいことを言って彼女を深く傷つけてしまっていたからでした。そんな罪深い自分を光枝が待ってくれているはずがないと勇作は思うのでした。だったらなぜ彼女に葉書を出したのか、それはやはり勇作が光枝を愛していたからで、できれば彼女と和解してもう一度人生をやり直したいという微かな希望を持っていたからです。

罪を自覚していた勇作と弟息子

 放蕩して財産を失った弟息子もまた、家に近づけば近づくほど不安が増しただろうと思います。『黄色いハンカチ』の勇作の場合は妻に対して自分がひどいことを言ってしまったという罪深さを自覚していました。そして弟息子の場合は父親に対して自分が罪を犯したことを自覚していました。18節にありますね。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」ですから、父は決して自分を赦してはくれないだろうと弟息子は思っていました。しかし、父は大きな愛で弟息子の罪を赦し、それだけではなくて大歓迎をしました。20節に、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」とあります。それだけではありません。父親は、しもべたちに言いました。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めました。
 ここまでが弟息子の物語です。前置きが少し長くなりましたが、きょうは兄息子のほうに注目します。

家に入ろうとしなかった兄息子

 この兄息子は父親が弟を歓迎したことに不満でした。25節から28節までを交代で読みましょう。

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

 28節の「家に入ろうともしなかった」というのは大事なポイントかもしれません。弟息子は家に入りましたが、兄息子は家に入りませんでした。続いて29節と30節を交代で読みましょう。

15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

兄と弟をユダヤ人と異邦人として読む
 この11月から私はeラーニングでルカ文書の学びをしています。ルカ文書というのはルカが書いたルカの福音書と使徒の働きのことです。このeラーニングではルカの福音書と使徒の働きとが並行関係にあることを学んでいます。それで私は、この「放蕩息子の帰郷」の物語はパウロたちの異邦人伝道と重ねられていると考えるようになりました。つまり弟息子は異邦人と重ねられていて、遠い昔にイスラエル民族の家系から離れてしまった民族のことだというわけです。その異邦人である弟息子が使徒の働きの時代になって父の家に戻ったと考えるのです。ですから、父の家にずっといた兄息子とはユダヤ人たちのことです。この兄息子に対して父は「おまえはいつも私といっしょにいる」と言っています。31節と32節を、お読みします。

15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 ユダヤ人たちは父の家にずっといながら、父のことを敬っていません。敬っていないということは父のことを心の底からは信じていないということです。父を信じているなら御子イエス・キリストのこともまた信じるはずですが、彼らは信じませんでした。このことをパウロは、とても嘆いていました。このことは使徒の働きで私たちは学んでいますね。パウロは行く先々の町でイエス・キリストを信じようとしないユダヤ人から迫害を受けていました。そして、パウロに同行していたルカもまた、信じようとしないユダヤ人たちを数多く目撃していました。使徒の働きの最後の部分もそうです。

パウロの嘆き
 使徒の働きの最後の部分をご一緒に見ましょう。使徒28章の16節と17節の途中までをお読みします。

28:16 私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。
28:17 三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。

 16節に「私たち」とありますから、ルカはパウロと共にローマに来ていました。そしてパウロはローマにいるユダヤ人たちに話を始めました。すると、もっと大勢で聞くことになりました。少し飛ばして23節と24節、

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。

 このように信じる者もいましたが、信じようとしない者もいました。それで25節、

28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。

 そうしてパウロはイザヤ書を引用して言いました。

28:26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
28:27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。」

 パウロは28節で、神のこの救いは異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう」と言いました。こうして家を出ていた異邦人は父の家に帰りました。

イスラエルにねたみを起こさせる異邦人の救い

 ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとしないことへのパウロの嘆きはローマ人への手紙にも書かれています。

11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

 11節の「彼らがつまずいた」の「彼ら」とはユダヤ人たち(或いはイスラエル人たち)のことです。ユダヤ人たちの違反によって救いが異邦人に及びました。ユダヤ人たちがクリスチャンを迫害したことでクリスチャンが散らされて、救いが異邦人に及びました。それはイスラエルにねたみを起こさせるためだとパウロは書いています。そしてパウロは14節でも「ねたみ」という言葉を使っています。14節の「私の同国人」とはパウロの同国人ですからユダヤ人です。パウロは同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っていました。
 この「ねたみ」がどんな「ねたみ」なのかは、このローマ人への手紙だけからではよくわかりませんが、放蕩息子の兄の行動を見るとよくわかりますね。

弟をねたんだ兄息子

 もう一度、ルカ15章に戻りましょう。28節から30節までを交代で読みましょう。

15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

 ユダヤ人の兄は異邦人の弟をねたんでいました。異邦人の弟は律法を守らずに好き放題をしていました。そんな異邦人が救われることは、ユダヤ人にとっては到底受け入れがたいことでした。
 しかし、これが父の願いでした。ユダヤ人の兄も異邦人の弟も、同じ父の家で一つになって暮らすことが父の願いでした。イエス・キリストが十字架に掛かったのは、ユダヤ人と異邦人とが一つになるためでもありました。イエスさまはこの十字架に掛かるために、クリスマスの日にお生まれになったとも言えます。

ユダヤ人と異邦人を一つにするイエス・キリスト

 最後にパウロのエペソ人への手紙の2章をご一緒に読みましょう。まず11節と12節(私が読みます)、

2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

 エペソ人への手紙ですから、「あなたがた」とは異邦人であるエペソ人たちのことです。12節に異邦人の「あなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外されて」いたとあります。異邦人は遠い昔に父の家を出た者たちでした。その者たちは放蕩息子のように望みもなく、神もありませんでした。しかし13節、

2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

 続いて14節から16節、

2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 イエス・キリストの十字架はユダヤ人たちと異邦人たちを一つにして神と和解させる力があります。そして平和が宣べられます。17節、

2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

 そして18節、

2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

 私たちはキリストによって、ユダヤ人も異邦人も一つの御霊において父の家に入ることができます。これは兄息子にとっては、受け入れがたいことであったかもしれませんが、人類が一つになり、平和がもたらされるためには欠かせないことでした。

おわりに
 今の時代、世界は一つになる方向とは逆行して分断が進行しつつあるように見えますが、皆がキリストにあって一つになり、平和に向かうよう祈りつつ、私たちも周囲の方々にイエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

5:31-35(ヨハネの福音書注解)振り出しに戻った背後の「使徒の時代」

2017-12-18 08:39:14 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:31-35 振り出しに戻った背後の「使徒の時代」

31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。

 ここにはバプテスマのヨハネのことが書かれている。前節までは「最後の審判」のことが書かれているので、背後の「使徒の時代」は双六(すごろく)の振り出しに戻った形だ。
 バプテスマのヨハネは「イエスの時代」であり、「使徒の時代」の人物ではない。背後の「使徒の時代」に「イエスの時代」がどのように用いられているのかは、後の箇所で少しずつ説明して行くことにしたい。
コメント

悩む人々5:弟息子(2017.12.13 祈り会)

2017-12-14 03:12:30 | 祈り会メッセージ
2017年12月13日祈り会メッセージ
『悩む人々5:弟息子』
【ルカ15:11~24】 

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

我に返った弟息子
 この「放蕩息子の帰郷」の物語は、皆さんがよくご存知の箇所ですから、途中の説明は飛ばして、いきなり17節から見ることにしたいと思います。

15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。

 父から分けてもらった財産を遠い外国で使い果たし、食べる物に困った弟息子は、我に返りました。この「彼は我に返った」はNKJVの英訳では「He came to himself」になっています。日本語に直訳すれば「彼は彼自身に来た」で、原文のギリシャ語もこれに近いものになっています。
 今回、この箇所に改めて思いを巡らしていて思ったことは、この「我に返る」が「神に立ち返る」、或いは「神の方向を向く」ことだとしたら、誰の導きもなしに一人だけで神に立ち返ることができるだろうかということです。私たちは皆、誰かに導かれて信仰を持つに至ったのではないでしょうか。仮に誰にも導かれなかったとしても、何かの本を読んでとかがあったはずです。まったく何の導きもガイドもなしに「神に立ち返る」ということが可能なのでしょうか。

探しに行く者もまた必要
 そこで思ったことは、この「放蕩息子の帰郷」の物語は、この前の「いなくなった一匹の羊」と「なくなった一枚の銀貨」とセットになっているのではないかということです。
 一匹の羊についてイエスさまは4節のように言いました。

15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 また、銀貨についてはイエスさまは8節のように言いました。

15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

 羊と銀貨の場合は、探す者がいました。そうして見つけ出し、天に喜びが湧き起こりました。これは異邦人伝道をしたパウロたちや宣教師たちであると最近の私は考えています。
 少し前に話したように同じルカが書いたルカの福音書と使徒の働きとは並列関係にあります。ですから私は「放蕩息子の帰郷」は異邦人伝道と並べていると見ています。それで、いなくなった羊を探しに行った人となくなった銀貨を探した女はパウロたちや宣教師たちの姿と重なります。
 一方、我に返った弟息子を探しに行った者はいません。これまで私は「羊と銀貨」には探しに行った者がいて、「弟息子」には探しに行った者がいないことを対比しているのだろうかと考えていましたが、対比というよりは抱き合わせのセットにして、「弟息子」にスポットを当てるために敢えて「探しに行った者」を描かなかったとも考えられるような気がしています。

家に近づくにつれて増す不安
 さて、では、この弟息子の悩みに迫りたいと思います。弟息子は、父にこう言おうと思いながら家に向かいました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」(18,19節)。
 しかし、もし父の怒りが大きければ雇い人のひとりにしてもらうこともできず追い返されてしまうことでしょう。それだけのひどいことを弟息子はしたのですから、きっと父は怒っているはずです。道中、弟息子は思い悩んだはずです。
 もう40年も前の映画になってしまいましたが、高倉健と賠償千恵子が夫婦の役を演じた『幸福の黄色いハンカチ』という映画がありますね。網走の刑務所を出た高倉健が演ずる元・夫は、夕張にいる元・妻の賠償千恵子に一枚の葉書を出しました。その葉書には、もしまだ一人でいて自分を待ってくれているなら、鯉のぼりの竿に黄色いハンカチを掲げてほしい、もし掲げていなかったら黙って去るからと書いてありました。そうして夕張に向かいます。しかし、夕張に近づくにつれて、もう彼女は待ってくれてはいないだろうという思いが段々と強くなり、夕張に行くのをやめようとします。それを若い二人(当時)、武田鉄矢と桃井かおりが彼を励まし、車で夕張まで連れて行きます。高倉健は夕張の家に近づけば近づくほど結果を恐れて不安になって行きました。
 放蕩息子もまた、家に近づけば近づくほど不安が増しただろうと思います。罪を自覚するようになった者は、神様を恐ろしく感じます。

大きな愛を示す父は万物の創造主
 しかし、実は神様は、罪を自覚した者に対しては大きな愛を示して下さいます。20節にあるように、弟息子はまだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、しもべたちに言いました。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めました。
 私たちが信仰を持った時にもまた、天では祝宴が持たれました。今回、この箇所を改めて読み直して、人が救われるためには、いなくなった人を探しに行く者と、そのいなくなった人が我に返ることの両方が必要であることを学んだように思います。
 私たちは、まだ我に返っていない人に対して様々な機会に声を掛けます。クリスマスや特別伝道会、礼拝などに誘います。それは探しに行く者と同じと言って良いでしょう。しかし、最終的には本人が我に返らなければ救いには至りません。これは本当に難しいことだとつくづく感じます。どうしたら良いのか、使徒の働き14章に記されているパウロのルステラでの説教が参考になるかもしれません。使徒14章10節でパウロは、生まれつき足のなえた人を癒しました。すると人々は12節にあるようにバルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼びました。
 その人々にパウロは言いました。15節です。

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」

 ここに「生ける神に立ち返る」とあります。これは弟息子の「我に返る」に当たりますね。この生ける神は、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになったとパウロは言いました。つまり立ち返るべき生ける神は万物の創造主であるということです。

おわりに
 神が宇宙を造り、私たちの命をも造ったということ、それゆえ神は父であるということ、このことをわかってもらえれば、我に返ってもらえるのでしょう。これもまた困難なことかもしれませんが、様々に工夫をして、神様のことをお伝えして行かなければならないと思います。
コメント

悩む人々4:マリヤ(2017.12.10 礼拝)

2017-12-11 10:25:57 | 礼拝メッセージ
2017年12月10日アドベント第二礼拝メッセージ
『悩む人々4:マリヤ』
【ルカ2:25~35】

はじめに
 「悩む人々」のシリーズ4回目のきょうはマリヤに注目します。聖書箇所はシメオンの箇所にしました。ルカの福音書でマリヤが登場する場面はいくつかありますが、マリヤの苦悩ということを考えた時、シメオンが35節で予告した「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」という言葉がとても重く響くと感じたからです。

我が子の十字架に心を刺し貫かれたマリヤ
 ルカが書いた福音書の続編の使徒の働き1章13節と14節を見ていただくと、イエスさまの弟子たちは母のマリヤと一緒にいたことが記されています。13節と14節を交代で読みましょう。

1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 14節にイエスの母マリヤの名前が出て来ます。ですから、マリヤはイエスさまが十字架に掛かって死んだ時にまだ生きていました。ヨハネの福音書には母が十字架のすぐそばにいたことが書かれています。このことについては、後でまた触れたいと思いますが、いずれにしても母マリヤは我が子が十字架に掛かって死んだ時に、まさに心が剣によって刺し貫かれるような大きな痛みと深い傷を負いました。きょうは後で、このことに思いを巡らすことにしたいと思います。

主のはしため・しもべの信仰
 その前に、皆さんよくご存知の箇所ですが、マリヤが御使いのガブリエルから受胎についての告知を受けた場面をご一緒に見ておきましょう。少し長いですが、ルカ1章26節から38節までを交代で読みましょう。

1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

 この時のマリヤはまだ若い娘でした。イエスさまが十字架で死んだのは、この時から30年以上が経ってからでした。聖書の読者の私たちにとっては、毎年クリスマスになると開くおなじみの箇所であり、この後で何が起きるかを私たちは知っています。しかし、これから何が起きるかわからず、しかも若い娘で人生経験も乏しかったマリヤは本当に何が何だかわけがわからなかったことでしょう。しかし、38節にあるように、

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

とマリヤは言いました。このマリヤの信仰を私たちも見習いたいというメッセージが、教会ではよく語られるわけですが、このマリヤの信仰は考えれば考えるほどすごいことだと思います。
 「私は主のはしためです」とは、男の場合で言えば「私は主のしもべです」です。「私は主のしもべですから、おことば通りになさって下さい」と言うことは、それほどたやすいことではありません。牧師である私も、神学校にいた頃なら、様々に自由が制限されている中にいて、上の人が言うことに従って動いていましたから、おことば通りになさって下さいということはできたかもしれません。しかし、神学校を出てからはまた、それなりに自由な生活をするようになりましたから、その中で「私は主のしもべですから、おことば通りになさって下さい」ということは、なかなか難しいことだと感じます。だからこそ、このマリヤの信仰を見習わなければならないと、改めて思わされています。

家畜小屋でイエスを産んだマリヤ
 さて次に、マリヤがイエスさまを産んだ場面を見ましょう。ルカ2章の1節から7節までを交代で読みましょう。

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 マリヤは身重の身でナザレからベツレヘムは行かなければなりませんでした。ユダヤのベツレヘムはガリラヤのナザレからは遠く離れています。そうして苦労してベツレヘムにたどり着きましたが、宿屋に泊まることができませんでした。マリヤが出産した場所は何と家畜小屋でした。ルカはこの時のマリヤの気持ちを書いていませんが、マリヤにしてみれば、どうして、こんなことになるのかと思ったことでしょう。
 ただし家畜小屋で良かったことも、一つだけありました。それは羊飼いたちから祝福を受けたことでした。まず、御使いが羊飼いたちの前に現れて11節と12節のように言いました。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

 少し飛ばして15節と16節、

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。

 こうして羊飼いたちはみどり子のイエスさまを捜し当て、祝福しました。祝福したとは書いてありませんが、きっと祝福したことでしょう。もしマリヤとヨセフが普通に宿屋に泊まることができていたら、このように羊飼いたちの訪問を受けることはできませんでしたから、これも神様のご計画でしょうか。とても不思議なことです。そして羊飼いたちは御使いから告げられたことを両親に話しました。17節と18節です。

2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。

 ここには両親以外にも人が集まって来ていたようです。それを聞いた人たちは皆、羊飼いの話したことに驚いたとありますが、マリヤだけは違いました。19節、

2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

 きっとマリヤは御使いのガブリエルから受胎告知を受けた時から、ずっと思いを巡らしていたことでしょう。特に、お腹に確かに胎児がいることを感じるようになってからは、なおさら、ずっと思いを巡らしていたことでしょう。

マリヤは十字架のそばにいたのか?
 そして両親とイエスさまは、羊飼いたちだけでなく様々な人々の訪問を受け、祝福されました。マタイの福音書には東方の博士たちがベツレヘムを訪れたことが記されています。そうして、きょうの聖書箇所では、両親が神殿を訪れた時にシメオンから祝福を受けました。週報のp.3にレンブラントの有名な絵を貼り付けておきました。この時のシメオンの賛歌が29節から32節までにあります。交代で読みましょう。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

 32節に「異邦人を照らす啓示の光」とありますから、私たちが使徒の働きで学んでいるパウロたちによる異邦人伝道のことも、ここで預言されているのですね。これを聞いて両親は、33節にあるように驚きました。そしてシメオンはマリヤに対して、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」と35節で言いました。
 このシメオンの予告は、イエスさまが十字架に掛かったことで、本当のこととなりました。ルカ23章の46節から49節までを交代で読みましょう。

23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 49節に女たちは皆、遠く離れて立ち、とあります。母のマリヤがこの女たちの中に含まれていたかどうかですが、マタイの福音書は次のように記しています。マタイ27章の55節と56節です(新約聖書p.62)。

27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。

 ここには母マリヤがいたという記述はありません。マルコの福音書はどうでしょうか。マルコ15章40節と41節を見ましょう(新約聖書p.102)。

15:40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
15:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

 ここにも母マリヤの名前は挙がっていません。

私たち読者の隣に母マリヤを置いたヨハネ
 さてしかし、ヨハネの福音書だけは異なる描写をしており、母マリヤが愛弟子と共にいたことが記されています。ヨハネ19章の25節から27節までです(新約聖書p.221)。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 このヨハネの福音書の記述をどのように考えるか、私はかねてから言っているように、この十字架のそばにいる愛弟子とは読者である私たち自身であると考えますから、記者のヨハネは私たちの横に母マリヤを置き、「母マリヤの心が剣によって刺し貫かれたこともまた深く思い巡らしなさい」と言っているのだと捉えています。
 イエスさまが誕生した時、母マリヤと父ヨセフは、羊飼いや東方の博士たちの訪問を受けて祝福されました。そのように祝福されて生まれた我が子が、どうして十字架に付けられてみじめに死ななければならなかったのか。マリヤには全くわからなかったことと思います。
 しかし、三日目にイエスさまが復活し、それから五十日目の五旬節の日に弟子たちが聖霊を受けてから、神様の壮大な計画が次第に明らかになって行きました。そうして私たちが使徒の働きで学んでいるようにパウロたちの伝道旅行によってイエス・キリストの福音は地中海沿岸の広い地域に広がって行きました。
 その後、さらにキリストの教えはヨーロッパ全域に広がり、宣教師たちの働きによって世界各地に伝えられるようになりました。この伝道の働きは、今もまだその途上にあります。日本にはザビエルによって1549年に伝えられましたが、なかなか浸透しません。この働きは、本当にゆっくりとしか進みません。ある時は非常に盛んになりますが、少し経つと勢いが衰えてしまいます。

聖書の大きな物語の中にいる私たち

 その中で私たちの教会も苦しい戦いを強いられていますが、私たちもこの世界伝道の働きの一翼を担っているのだという意識を忘れることなく持ち続けていなければなりません。聖書の大きな物語は、ひと続きになっています。アダムとエバが罪を犯して以来、人類は神から離れるようになってしまいましたが、神様はアブラハムを召し出し、まずはイスラエルの民族を救い出し、そうして全人類を救うという壮大な計画をお立てになり、今はまだその途上にあります。ただし、途上にあるのは私たち人間の側であって、永遠の中にいて、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである(黙示録22:13)」とおっしゃる神様にとっては全体像が見えていることでしょう。
 ヨハネの福音書19章27節では、愛弟子は母マリヤを「自分の家に引き取った」とあります。愛弟子とは私たちのことですから、私たちは母マリヤの苦悩と悲しみもまた自分のこととして受け留めたいと思います。母の気持ちをどれくらい受け留めることができるか、男性と女性とでは違うと思いますし、私のような単身の者は十分には受け留めることはできないでしょう。それでも母の悲しみをでき得る限り、受け留めたいと思います。世界では今も争い事が絶えず、紛争や戦争で多くの人々が命を落としています。その度に家族たちは大きな悲しみに心を刺し貫かれます。平和のための働きはなかなか進みませんが、このような深い悲しみがなくなるよう、宣教の働きに励まなければならないと思わされます。

おわりに
 母マリヤの悲しみを考える時、私たちがイエスさまの証人として為さなければならない役割の重さをより一層感じます。伝道がなかなか進まない中、私たちは苦しい戦いを強いられていますが、母のマリヤがどれだけ深い傷を心に負ったかということにもまた思いを巡らしながら、私たちが進むべき道を祈り求めて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

5:25-30(ヨハネの福音書注解)最後の審判

2017-12-11 09:40:57 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:25-30 最後の審判

25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。30 わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

 ここでは「最後の審判」のことが語られており、次の31節からはバプテスマのヨハネの証言について語られ始める。それゆえ背後の「使徒の時代」は30節までで一旦終了してリセットされ、すごろくの振り出しに戻るような構成になっている。
 このようにヨハネの福音書1~12章の背後の「使徒の時代」は二部構成になっている。これは使徒の働き(使徒行伝)がペテロ編とパウロ編の二部構成になっているのを模しているのかもしれない。ヨハネの福音書の背後の「使徒の時代」もペテロ編とパウロ編になっているとも言えるからだ。このことについては、次回以降で説明することにしたい。
コメント

聖書の大きな物語と「永遠」

2017-12-08 06:33:04 | 折々のつぶやき
 いま私はGrace-onlineでeラーニング「ルカが語る福音の物語〜ルカ文書入門」(講師:山崎ランサム和彦先生)を受講しています。先週で前期4週の学びが終わり、クリスマス関連で忙しい今の時期は中断していますが新年に入ると後期4週の学びが再開されます。
 この学びで私が最も興味深く感じているのは、「ルカの福音書」と「使徒の働き」とが構造的に並行関係にあるということです。そう言われれば確かに「使徒の働き」のペテロやパウロなどが病人を癒したり迫害に遭ったりしたことや、パウロがエルサレムで捕らえられて裁判に掛けられた様子などは福音書のイエスとそっくりです。ですから、記者のルカが何らかの意図を持って二つの文書を似た構造にしたことは確かなようです。
 このことをなぜ私が興味深く感じるのかと言えば、時間的に

 → ルカの福音書 → 使徒の働き →

という順番で起きたことをルカが、

 → 使徒の働き →
 → ルカの福音書 →

というように並べていることです。これは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」』に書いた、ヨハネの福音書における時間進行が

 → 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →

とはなっておらず、

 → 使徒の時代 →
 → イエスの時代 →
 → 旧約の時代 →

というように並行して進行する時間構造になっていることと似ています。これまで私はこの独特の三層構造はヨハネが独自に着想したものであろうと考えていました。しかしeラーニングでルカ文書を学び始めてからは、ヨハネはルカ文書の二層構造および福音書終盤の「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(ルカ24:27)という文から着想を得て三層構造の福音書を執筆したのかもしれないと考えるようになりました。
 次に、eラーニングと直接の関係はありませんが、講師の山崎先生のブログにある「聖書のグランドナラティヴ再考」についてもヨハネの福音書との絡みで大変に興味深く思っていますので、以下に書きます。
 聖書には大きな物語の流れがあります。山崎先生のブログをそのまま引用させていただくと、

(引用ここから)
N・T・ライトは聖書全体を5幕のドラマにたとえ、次のような構成を提案しています:

 1.創造
 2.堕落
 3.イスラエル
 4.イエス
 5.終わりの時代(教会~終末)

ライトの5幕劇のアナロジーは非常に有名になりましたが、他の人々は、6幕(あるいは6章)の構成を提案しました。たとえば、旧約聖書学者のクリストファー・ライトは第6回日本伝道会議の主題講演で、聖書の物語を6幕劇にたとえていました。これは基本的にライトの最終幕を二つに分けて、教会の時代と終末の時代を区別したものと言えます:

 1.創造
 2.堕落
 3.イスラエル
 4.イエス
 5.教会
 6.新創造
(引用ここまで)

 これまで私(小島)は、聖書の大きな物語を5幕や6幕の劇に例えることには賛同しかねていました。なぜなら、このような例え方は、「過去→現在→未来」という一方通行の時間にあまりにも縛られすぎていると感じるからです。確かに人間はこのような時間に縛られています。しかし神は、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)とおっしゃる方ですから「過去→現在→未来」という時間には縛られておらず、ヨハネの福音書が示すような

 → 使徒の時代 →
 → イエスの時代 →
 → 旧約の時代 →

という三つの時代が同時進行する時間の中にもいることもできます。ですから5幕や6幕の劇を考えることは、あまりに人間寄りの考え方のような気がして賛同しかねたのです。
 さてしかし、山崎先生はさらにもう一幕加えて7幕とし、次のような真ん中の第4幕を中心とした集中構造(キアスムス)を提案しています。

 A 創造
  B 悪の起源
   C 神の民(イスラエル)
    X イエス・キリスト
   C’ 神の民の刷新(教会)
  B’ 悪の滅び
 A’ 創造の刷新

 これを見て私は、ヨハネの福音書の構造もまた、

 A → 使徒の時代 →
  X → イエスの時代 →
 A’→ 旧約の時代 →

という構造になっていることに思い至りました。聖霊を受けた旧約の時代の預言者と使徒の時代のクリスチャンの中には同じ霊的イエスがいます。ですから、

 A → クリスチャンの中の霊的イエス(使徒の時代)→
  X → 人間イエス(イエスの時代)→
 A’→ 預言者の中の霊的イエス(旧約の時代)→

というような集中構造として考えても良いのかもしれません。
 また、山崎先生の集中構造の縦方向を神の「永遠」の方向と考えて、

 ↑ A 創造
    B 悪の起源
 永   C 神の民(イスラエル)
      X イエス・キリスト
 遠   C’ 神の民の刷新(教会)
    B’ 悪の滅び
 ↓ A’ 創造の刷新

とすれば、拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」の終章で示した縦方向を神の「永遠」、横方向を人間の時間とした図1(下図)の、



とも合致します。つまり、人間にとっては

 A→B→C→X→C’→ B’→ A’

という幕の移り変わりに感じられても、「永遠」の中にいる神にとってはイエス・キリストを中心にして全ての幕が同時に存在する、

 ↑ → A →
   → B →
 永 → C →
   → X →
 遠 → C’→
   → B’→
 ↓ → A’→

という形になっていると説明しても良いのではないか、そのように感じています。
 拙著の終章の図2(下図)で示したように、私たちが横方向の人間の時間に縛られている間は、神の愛を少ししか感じることができません。しかし人間の時間から魂が解放されて縦方向の神の「永遠」に目覚めるなら、御父・御子・聖霊の三位一体の神の分厚い愛を豊かに感じることができるようになります。世界が平和に向かうためには、この豊かな神の愛を感じて心の深い平安を得ることが不可欠です。



 これからも、神の「永遠」をどのようにしたら多くの方々に伝わるかを追求して行きたいと思います。今回のeラーニングの学びで、ヨハネの福音書だけでなくルカ文書も絡めて行くことも有効であろうという感触が得られましたから、感謝に思っています。
コメント

悩む人々3:長血の女(2017.12.6 祈り会)

2017-12-07 03:56:46 | 祈り会メッセージ
2017年12月6日祈り会メッセージ
『悩む人々3:長血の女』
【マルコ5:25~34】

はじめに
 「悩む人々」のシリーズを続けます。きょうは長血の女に注目します。きょうはまずマルコの福音書の長血の女の箇所をご一緒に見て、その後でいま私たちが直面している問題についても少し考えてみたいと願っています。
 イエスさまが地上で宣教していた時代は、まだ人々に聖霊が注がれる前の時代ですが、この長血の女の箇所は聖霊の時代を生きる私たちに、信仰についての様々なヒントを与えてくれているように思います。

長血の女の苦悩
 まず簡単に長血の女の箇所を見ておきましょう。

5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

 この長血の女の出来事は、イエスさまがヤイロという会堂管理者と話している場面に挿入されています。24節を見ると、イエスさまはヤイロと一緒に彼のところへ向かおうとしていました。そこに多くの群集もついて来ていました。長血の女もその中の一人でした。彼女は12年間も長血をわずらっていました。この長血がどんな病気であったかは不明ですが、出血を伴う病気であることは確かです。旧約聖書のレビ記によれば血が漏出している女は汚れていますから、隔離されていなければならず、本来なら人々に近づくことは許されないことです(レビ15:25-33)。レビ記を簡単に見ておきましょう(すぐにまたマルコに戻ります。
 レビ15章25節をお読みします(旧約聖書p.198)。

15:25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。

 そして、31節を見ていただきますと、次のように書いてあります。

15:31 あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。

 ですから、女が群集の中に入って行ったことは、実はとんでもないことでした。しかし、そこに、いかに女の悩みが深く、癒しを求めて必死であったかがわかると思います。26節、

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

 こういう状況は、医学が発達した現代でもいまだに起きていますね。原因不明の病気はまだ多くありますから、今の時代でも苦しんでいる人々は多くいます。まして、二千年前でしたら、もっと状況が悪かったことは容易に想像できます。そういう中で、この女は悩み苦しんでいました。

必死の形相でイエスに向かった女
 続いて27節と28節、

5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

 この状況を想像してみると、いかに女が必死であったかがわかります。イエスさまは群集に取り囲まれていましたから、容易には近づくことができなかったはずです。その群集の中に、本来は人に近づくことが禁じられている女が潜り込んで行き、人をかきわけながら前進していきました。
 そうして、とうとう最前列にたどりつき、イエスさまのうしろから着物にさわりました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからであるとあります。恐らくイエスさまの体に触れることもできたのだと思いますが、そこは女にも遠慮があったのだろうなと想像します。次に29節と30節、

5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

 今回、この状況に思いを巡らしていて、面白いことに思い至りました。それは、ここにはイエスさまだけでなく天の御父も関わっているのではないかということです。もう少し先へ進んでから、そのことを話します。

天の御父と一つのイエス
 続いて31節と32節、

5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

 この様子からは、イエスさまが自分からこの女を癒したのではないことがわかります。普通の場合は、イエスさまが病人の上に手を置くことで病人を癒すでしょう。イエスさまがその病人を見て、イエスさまご自身がその病人を癒すために手を置き、そうして癒されます。しかし、この場合はイエスさまのほうから女を癒そうと思って癒したわけではありません。34節でイエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言いました。この場合、この娘の信仰を見ていた存在がイエスさまの他にいて、それが天の御父であろうと今回、思いました。
 なぜ、そう思ったのか。今度はヨハネの福音書の5章を見ましょう。このヨハネ5章でイエスさまはベテスダの池のほとりにいた病人を癒しました。8節に、イエスさまがこの病人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言いました。すると、9節にあるように、病人の病気は治って床を取り上げて歩き出しました。
 さて安息日にこの病人を癒したことを咎めたユダヤ人たちに対してイエスさまは17節のように答えました。

5:17 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

 さらにイエスさまは19節のように言われました。

5:19「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

 ここからは、イエスさまが行われた癒しの奇跡は、天の御父が行われていることだと読み取ることができると思います。天の御父とイエスさまとは一つですから、イエスさまが行っている奇跡の御業は父が行っている御業だと言えるでしょう。
 そうすると長血の女が癒された奇跡もわかりやすいように思います。長血の女がイエスさまの着物をさわった時、イエスさまは誰がさわったのかわかりませんでした。しかし、天の御父はその女の信仰を見ていたので、御父がそれを癒したと考えたいと思います。イエスさまは神の御子ですが、地上にいる間は様々な制約に縛られていて、すべてをお見通しというわけにはなかなか行かなかったのだろうと思います。ですから長血の女が近づいていたことにも気づきませんでしたが、天の御父は長血の女を見ていました。
 ここで一旦、賛美歌を挟むことにします。(賛美歌)

常識に囚われていては救われない
 きょうの長血の女の箇所は、イエスさまが地上にいた時の出来事ですが、聖霊の時代を生きる私たちにも信仰について、いろいろと考えさせられることが詰まっている箇所だと思います。
 まず考えさせられることは、人が救われるためには、まずは私たちはイエスさまがいるところに向かって行かなければならないということです。しかし、イエスさまのところに行けば、誰でも救われるわけではありません。長血の女がイエスさまに近づいた時、他にも多くの群集がイエスさまのところに集まっていました。しかし、ここに集まっていたすべての人が救われたわけではないでしょう。
 今はクリスマスに向かっているシーズンですから、この時期には普段教会に行っていない方々も教会を訪れる機会が多いです。しかし、教会に行けば誰でも救われるわけではありません。神様にすがりたいという必死さのようなものが必要であることを、長血の女の記事は教えてくれています。
 ただ、それ以外の群集も癒しを求めていましたから、必死さもあったでしょう。この長血の女の記事からは何が学べるでしょうか。思いを巡らしていて示されたことは、人は世間の常識に囚われていてはなかなか救われないということです。長血の女は汚れているとみなされていても、それに縛られずにイエスさまに近づいて行きました。ヨハネ5章のベデスダの池の病人は、池に入れば癒されるという言い伝えに縛られていて、癒される機会を失っていました。イエスさまはこの病人を癒すことで、言い伝えに縛られていてはならないということを教えたように思います。パリサイ人や使徒の時代のユダヤ人たちは、律法を守らなければ救われないと頑なに信じていました。そのような縛りから解き放たれないと、人はなかなか救われないということを長血の女の箇所は教えてくれているように思います。

天とつながっている教会
 次に学びたいことは、イエスさまの人を引き付ける力のことです。長血の女はイエスさまに吸い寄せられるように近づいて行きました。教会もそんな風であったら良いなと思います。それで、きょうの長血の女の箇所で学んだことを教会に適用してみたいと思います。
 きょうの箇所で学んだことの一つに、イエスさまは天の御父とつながっているということがあります。教会もまさにそういう場所です。長血の女の箇所には天の御父のことは書いてありません。しかし、今回私はここに天の御父を感じました。教会も、天とつながっているということがハッキリとはわからなくても、何となくそれを感じ取れるような場所であるべきだろうと思います。この小さな教会で、どうしたら天とのつながりを感じることができるか、考え続けて行きたいと願っています。信仰は目に見えませんから、その見えない部分をどう人に伝えるか、本当に難しいことですが、様々に考えなくてはならないと思います。
 ここまで考えて、ふと隣の土地のことを思いました。隣の土地には目に見える形での建物は建っていませんが、私はいつもここから大きな励ましをもらっています。この広々とした土地に神様の存在を感じています。
 私たちがどのような方向に進むべきか、悲観的な材料が多いですが、私たちはいつも励ましを受けていることもまた忘れずに、進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント

5:17-24(ヨハネの福音書注解)神の「永遠」の時間

2017-12-07 03:19:02 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:17-24 神の「永遠」の時間
 
17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 イエスは10章で「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言っており、この5章には、イエスと父がどのように一つであるかが具体的に書かれている。ユダヤ人たちがイエスを捨て置けなかったのは当然のことであろう。自分を神と同一と主張する者など通常の感覚で言えば、おかしいと見られても仕方がないであろう。しかし、固定観念に囚われている者に救いは届かない。ここに信仰を伝えることの難しさがある。
 24節の「信じる者は……死からいのちに移っている」は、時間の束縛を受けない神の「永遠」に移されているということだ。神の「永遠」は「過去・現在・未来」が渾然一体となっている。
 「イエスの時代」を【現在】とすれば、ヨハネの福音書は、

→ 使徒の時代【未来】 →
→ イエスの時代【現在】 →
→ 旧約の時代【過去】 →

というような三層構造になっていて、過去と現在と未来とが同時並行で進む。これは「過去・現在・未来」が一体の神の「永遠」と人間の「過去→現在→未来」という時間とを混合したような時間だと言えるだろう。私たちは「過去→現在→未来」という時間の流れの固定観念にあまりにも縛られているので、ここから解き放たれなければならない。
コメント

量子モデルで読む聖書

2017-12-04 20:05:46 | 折々のつぶやき
量子モデルで読む聖書


量子モデルとは
 イエス・キリストは実在した人物で、紀元30年頃のユダヤとガリラヤにおいて多くの人々がイエスを目撃しています。そしてイエスはこれ以前の時代にも以後の時代にも神の霊として時空を越えて遍く存在してもいます。以前の時代とは宇宙の開始に始まる紀元前の時代であり、以後の時代とは紀元30年頃以降の1世紀から現代そして未来に至る時代です。つまりイエスは紀元30年頃に一つの場所にいる目に見える人間である一方で、時間と空間の中で広がりを持つ目に見えない神の霊でもあります。
 以上のイエスの特徴は、光子や電子などの量子が持つ性質と良く似ています(量子に限らず全ての物質は以下の物質波の性質を持つとされていますが、量子力学の現象ですので「量子モデル」と呼ぶことにします)。量子は観測される時には一点に収縮していて粒子の性質を示します。他方、観測されない時の量子は広がりを持って存在しているようです。光の二重スリットの有名な実験では、一つの光子が二つのスリットを同時に通過しているとしか考えられない波の干渉模様が現れるからです。この光子は経路の途中で観測を試みると必ず粒子としての性質を示すので、広がっている時の波を観測することはできません。これは遍在する神の霊としてのイエスを観測することはできないことと非常に良く似ています。
 このように量子をモデルとして聖書を読むと、聖書の中に目には見えないイエスがいることが良く分かってきます。特にヨハネの福音書はそのような書です。但し、量子モデルはあくまでもモデルであって、実際のイエスが量子と同じであると主張しているわけではないことには注意していただきたいと思います。

量子モデルのヨハネの福音書への適用

 ヨハネの福音書の1~11章は、

→ 使徒の時代(霊的イエス) →
→ イエスの時代(人間イエス) →
→ 旧約の時代(霊的イエス) →

というように、三つの時代が並行して進む三層構造を持ちます(拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」)。この分かりづらい構造は量子モデルを適用するならスッキリと理解することができます。例えばヨハネ2章で目に見える人間イエスはガリラヤのカナにいますが、目に見えない霊的イエスは預言者モーセ(出エジプト7:20)の中と五旬節の日に聖霊を受けたガリラヤ人の弟子たち(使徒2:4)の中にいます。或いはまたヨハネ4章で人間イエスはサマリヤで女と話をしていますが、霊的イエスは北王国の預言者エリヤの中(Ⅰ列王17:10)とピリポがサマリヤ伝道をしてペテロ・ヨハネによって聖霊を受けたサマリヤ人の中(使徒8:17)にいます。
 しかし、多くの人にとっては量子が持つ粒子と波動の二重性自体が分かりにくいものだと思いますから、私は量子モデルを使ってヨハネの福音書を説明することを自重してきました。「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」においても量子モデル用いませんでしたし、これまで様々な説明を試みて来ました。それでも結局はヨハネの福音書の構造を理解してもらうことはできませんでしたから、むしろ量子モデルを用いたほうが良いのではないかと思うようになりました。

なぜ量子モデルが必要か
 イエスと量子とはもちろん異なります。それでも敢えてこのモデルを提案するのは、皆が人間のイエスに囚われ過ぎていると感じるからです。それではあまりに一面的です。光は粒子の性質だけでは説明できずに波の性質も併せて考えなければならないのと同様に、イエスも人間だけでは説明できませんから神の霊としてのイエスも併せて考える必要があります。霊としてのイエスは時間と空間を越えた宇宙スケールの神です。この宇宙スケールの神の愛に包まれる時、私たちは心の平安を深く感じることができます。この深い平安を得るなら他者に対しても寛容になり、赦すことができる広い心を持つことができるようになるでしょう。世界が平和に向かうためには、心の深い平安を得ることがどうしても必要です。
 もちろん、人間のイエスだけからでも私たちは平安を得ることができます。しかし、それは言わば人知の範囲内の平安だと言えるでしょう。一方、霊的なイエスは宇宙スケールの神ですから、人知を遥かに越えた深い平安をもたらして下さるはずです。私がこれまでに得た平安はそれなりに深いものですが、まだまだだと感じています。量子モデルのイエスを多くの方々と共に探求して学びを深めることで、さらに深い平安を得たいと願っています。そうして平和の働きに貢献できるようになりたいと願ってやみません。
コメント

悩む人々2:ヨセフ(2017.12.3 礼拝)

2017-12-03 20:49:14 | 礼拝メッセージ
2017年12月3日アドベント第1礼拝メッセージ
『悩む人々2:ヨセフ』
【マタイ1:18~25】

はじめに
 きょうは五十周年の証もありましたし、礼拝後にはクリスマス・下半期感謝献金の趣意書の朗読と会堂問題勉強会もあります。会堂問題勉強会に多くの時間を残したく思いますから、メッセージは10分ちょっとの短いものにとどめます。
 礼拝と祈祷会ではこれからしばらくの間、『悩む人々』を取り上げたいと願っています。礼拝では来年の新年礼拝を越えたらまた使徒の働きの学びに戻ると思いますが、祈祷会では、しばらく『悩む人々』にスポットを当てたいと思っています。その際には悩んでいる人のことだけでなく、背後にいるスケールの大きな神様についても思いを巡らすことができたらと願っています。小さな人間だけでなく背後の大きな神にもまた注目することで、人知を遥かに越えたキリストの大きな愛を感じることができるようになりたいと思います。

悩むヨセフ
 さて、きょうはアドベント第一礼拝ということでマタイ1章のヨセフの悩みを短く見たいと思います。まず1章18節です。

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

 このことが真実であることを知っていたのはマリヤのほうです。男性と関係を持たなかったのに妊娠したことはマリヤ自身がよくわかっていることでした。しかしヨセフにはそれが本当のことなのかはわかりません。マリヤを信用するしかありません。たとえヨセフがマリヤを信用したとしても世間の人々は信用しないでしょう。世間の人々はマリヤが婚約者ではない男性と関係を持って妊娠したと思うでしょう。これは律法で禁じられていることですから、さらし者になって制裁を受けなければなりません。
 ヨセフは悩みに悩んだことでしょう。19節にあるように、ヨセフは正しい人でした。正しい人であるとは律法を守る人であったということです。ですからマリヤが他の男性と関係を持ったなら彼女を許すわけにはいきません。一方でヨセフはマリヤを愛していたという面においても正しい人でしたから、彼女をさらし者にはしたくありませんでした。それで、彼女を内密に去らせることにしました。これは苦渋の決断であったと思います。
 そんな時に御使いがヨセフの夢に現れて言いました。20節と21節です。

「20 ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 目が覚めてからヨセフはまた悩んだのではないかと思います。マリヤを内密に去らせようと決めたことは、相当に悩んだ末に決めたことだと思いますから、夢でお告げがあったぐらいであっさりとそれを覆すことは容易ではなかったはずです。
 そうして、ヨセフはさらに悩んだ末にだと思いますが、24節にあるようにマリヤを迎え入れました。

時空を越えた神を感じたであろうヨセフ
 さて、ではヨセフはどうして主の御使いが命じられたとおりにすることができたのでしょうか。ヨセフの信仰が立派であったからと言ってしまえば、それまでですが、今ご一緒に読んだ箇所から少し探ってみたいと思います。そしてスケールの大きな神様に共に思いを馳せてみたいと思います。
 まず押さえておきたい重要な点は、御使いが夢に現れた時点でヨセフは聖霊を受けていなかったということです。もし聖霊を受けていたならヨセフは御使いの言うことを単純に受け入れることができたと思います。しかし、ヨセフは聖霊を受けていませんでした。そんなヨセフがなぜ御使いの言うことに耳を傾けることができたのか、二つのポイントで考えてみたいと思います。
 一つは、御使いは天から遣わされる使者だということです。天からの使者ということであれば心は宇宙スケールの神様のほうに向いて行きます。それは私たちの場合も同じです。イエスさまを信じる私たちには聖霊が注がれていますが、その聖霊は天から遣わされました。復活したイエスさまは天に昇り、使徒信条にある通り、全能の父なる神の右に座しています。聖霊はその天の御座から遣わされます。御使いも聖霊もどちらも宇宙スケールの神様が遣わすのだということを意識することはとても大切なことだと思います。この宇宙スケールの神様を感じることで私たちは人知を遥かに越えるキリストの大きな愛を感じることができるようになります。
 二つめのポイントとして、御使いがヨセフに対して「ダビデの子ヨセフ」(20節)と呼び掛けたことを挙げたいと思います。ルカの福音書によれば、ヨセフはこの後、マリヤとベツレヘムに住民登録のために行き、そこでイエスさまが生まれました。ヨセフがダビデの町のベツレヘムに向かったのはヨセフが自分がダビデの血筋の者であることを知っていたからです。マタイの福音書の1章の始めの系図によれば、6節にダビデ王が生まれたとあり、そして16節にマリヤの夫のヨセフが生まれたことが記されています。ヨセフは確かにダビデの子でした。しかし、普段のヨセフはそれまで「ダビデの子」などと呼ばれることはなかったでしょう。ダビデとヨセフの間には千年の隔たりがあるからです。そんな中、御使いが現れて「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれたことで特別な感情が湧いたのではないかという気がします。
 ヨセフにとってダビデ王は約千年前の祖先です。その千年の時間を越えて「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれた時、ヨセフは聖霊を受けてはいませんでしたが、霊的な目が開かれたのではないかという気がします。人が霊的であるか無いかは、時間を越えることができるかどうかに掛かっていると言ってもよいほど、時間を越えることは大切だと私は考えます。二千年前のイエス・キリストの十字架が自分のためでもあったと私たちが感じる時、私たちは二千年の時間を越えて霊的な目が開かれます。同様に、「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれたヨセフは千年の時間を越えて霊的な目が開かれたのではないかと思います。

おわりに
 ヨセフがイザヤ書のみことばを知っていたかどうかはわかりませんが、23節の「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というのはイザヤ書の預言ですね。このイザヤの預言もイエスさまが生まれる700年以上も前のものです。
 最後にイザヤ書のこの箇所をご一緒に見ましょう。イザヤ7章14節です(旧約聖書p.1136)。

7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

 お祈りいたしましょう。
コメント