2025年8月15日静岡朝朝祷会メッセージ
終戦の日のメッセージ
~『くつ屋のマルチン』と『ヨハネの福音書』~
きょうは終戦の日です。この日にメッセージを担当させていただけることを感謝に思います。
私が神学校に入学する時に与えられた聖句はイザヤ書52章7節です。
イザヤ52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
私は平和を告げ知らせるために、神様から呼ばれましたから、8月15日には格別の思いがあります。
平和を巡る状況は悪くなる一方ですが、私に与えられた使命を淡々と行っていこうと決意を新たにしているところです。
私は神学生の4年生の時の2011年に新約聖書の『ヨハネの福音書』の従来とは全く異なる読み方を知りました。それゆえ私に与えられた使命は『ヨハネの福音書』の新しい読み方がもたらす深い平安を多くの方々に伝えることです。心に深い平安があれば争い事も少なくなるでしょう。しかし、『ヨハネの福音書』の新しい読み方を知ってから14年になりますが、なかなか上手く伝えられていません。そんな中、最近少し反省していることがあります。これまでの私は『ヨハネの福音書』の従来の読み方を改めなければならないという思いが強すぎたように思います。
しかし、スポーツや芸術や学問の楽しみ方がいろいろでなのと同じで、聖書の楽しみ方もいろいろです。それなのに私は『ヨハネの福音書』の新しい読み方にこだわり過ぎていました。それゆえ、これからは『ヨハネの福音書』には、今までの読み方に加えて、こういう別の読み方もある、という伝え方をして行こうと思います。
そして今考えているのは、『くつ屋のマルチン』のイエス・キリストを、『ヨハネの福音書』の読み方に応用することです。
『くつ屋のマルチン』は、教会ではクリスマスの頃に子ども向けの劇などで演じられることが多く、私も何度か劇に出た経験があります。
イエス・キリストはどのような形で人の前に現れるのか、『くつ屋のマルチン』は分かりやすく伝えています。ご存知の方も多いと思いますが、簡単にあらすじを紹介します。
ある晩、靴職人のマルチンは聖書を開いたまま寝てしまいました。その時、「マルチン、明日あなたの所に行きます」というイエスの声をマルチンは聞きました。翌日、マルチンはイエスに会えることを楽しみに、窓の外を気に掛けながら仕事をしました。冬の寒い日で、外では雪かきをしている年老いた男性が凍えていました。それでマルチンは男性を暖かい部屋に招き入れて熱いお茶をごちそうしました。他にも外で困っていた人々を招き入れて助けました。
そうして一日が終わり、マルチンはイエスが現れなかったことに落胆していました。その時、昼間に助けた男性が現れて「マルチン、分からなかったのですか。わたしですよ。」と言って消えました。他にもマルチンが助けた人々が現れては「わたしですよ。」と言って消えました。実はイエスはマルチンが助けた人々の姿を借りて、マルチンの前に現れていたのでした。
私自身も『くつ屋のマルチン』を通してイエスと出会った経験があります。2009年の3月、神学生の1年生の時、4年生が卒業公演で『くつ屋のマルチン』の劇を行いました。神学生が少なかったので1年生の私もマルチンの友人役で出演しました。そうして劇を見て下さった教会の方々の多くが私の演技を褒めて下さいました。私自身は、そんなに上手く演じられた気はしなかったので、お世辞だと思いましたが、いろいろな方々から「良かったよ」と言っていただけたので、とても元気づけられました。神学校での寮生活は規則が厳しくて、入学前まで自由奔放に暮らしていた私は苦しい思いをしていました。特に1年生の時は苦しかったです。そんな私を励ますためにイエスは教会の方々の姿を借りて、私の前に次々と現れたのだと思います。
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書もイエスと出会った人々を描いていますが、マタイ・マルコ・ルカが紀元30年頃の地上生涯のイエスと出会った人々を描いているのに対して、ヨハネはそれ以外の時代――「旧約の時代」と「使徒の時代」――にイエスと出会った人々を描いている、という読み方ができます。『ヨハネの福音書』には「旧約の時代」と「使徒の時代」が重ねられているからです[詳しくは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~』(ヨベル新書 2017)を参照願います]。
例えばヨハネ1章45~51節は、創世記のヤコブがイエスと出会った時代を描いています。ヤコブは兄のエサウとの再会を目前にしてペヌエルで神様と格闘しました。そして名前を神様に聞かれた時に偽らずに「ヤコブです」と答えました。その20年前、ヤコブは父のイサクに対して自分を偽り、「エサウです」と答えていました。しかし、この時は偽らずに「ヤコブです」と答えました。それで、ヤコブは神様からイスラエルの名前を与えられました。
創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」
これを記したのがヨハネ1章47節です。
ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
つまり、神様と格闘していた創世記のヤコブは、実はイエスと格闘していたのだと『ヨハネの福音書』は伝えています。
列王記第一のアハブ王の時代のツァレファテのやもめは、エリヤの姿を借りたイエスに出会っていました。このことを伝えているのがヨハネ4章7節です。
列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
もう一つ、旧約聖書の時代のイエスの例を示します。ヨハネ10章1節のイエスのことばは、エレミヤの叫びです。
ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」
このヨハネ10章1節に対応する旧約聖書の箇所は、列王記第二の24章1節です。
列王記第二24:2 そこで主は、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
このことをエレミヤは次のことばで預言しています。
エレミヤ25:36 牧者たちの叫ぶ声がする。群れの飼い主たちの泣き声が。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。
主は不信仰を改めようとしないエルサレムに、外国人の略奪隊を遣わしました。略奪隊は城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して財宝を略奪しました。そうしてエルサレムは滅亡しました。このことを預言したのはエレミヤは、実はエレミヤの姿を借りたイエスであったことを、『ヨハネの福音書』は示しています。
他にもまだ、たくさん例がありますが、時間の関係でここまでとします。そして、イエスは『ヨハネの福音書』の読者の私たちにも現れています。『ヨハネの福音書』には「イエスが愛された弟子」、すなわち「愛弟子」が登場しますが、実はこの「愛弟子」はこの福音書の読者である私たちです。イエスは私たちを愛して下さっていますから、私たちは「愛弟子」です。『ヨハネの福音書』を何度も読み込む間に、いつの間にか私たちは聖霊の働きで書の中に入り込み、登場人物の「愛弟子」になります。最後の場面を、少し長いですが引用します。
ヨハネ21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。
聖書は世代を超えて受け継がれて行きますから、「愛弟子」も世代を超えて受け継がれ、イエスが再び来られる時まで決して死にません。そうして「愛弟子」の私たちはイエスがして下さったことを証しします。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないでしょう。
このようにして、イエスは聖書の読者である私たちにも現れて下さっています。くつ屋のマルチンに現れたように、私たちにも現れます。そうして、私たちに深い平安を与えて下さいます。この深い平安を知るなら、争い事は減って行くことでしょう。
このような『ヨハネの福音書』の読み方を、他の人にもしてもらいたいと以前の私は思っていました。でも、スポーツや芸術や学問に楽しみ方があるように、聖書の楽しみ方もいろいろです。ですから、これからは、こういう別の読み方もある、という伝え方にしたいと思います。
神様があと何年私を生かして下さるのか分かりませんが、与えられている日数の限り、『ヨハネの福音書』を読むことで与えられる深い平安、――イエスと出会うことで得られる深い平安――を伝えて行きたいと願っています。今回、朝祷会のメッセージの機会をいただけたことで、この思いを新たにすることができましたから、心より感謝致します。