インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

聖書の大きな物語と「永遠」

2017-12-08 06:33:04 | 牧師のつぶやき
 いま私はGrace-onlineでeラーニング「ルカが語る福音の物語〜ルカ文書入門」(講師:山崎ランサム和彦先生)を受講しています。先週で前期4週の学びが終わり、クリスマス関連で忙しい今の時期は中断していますが新年に入ると後期4週の学びが再開されます。
 この学びで私が最も興味深く感じているのは、「ルカの福音書」と「使徒の働き」とが構造的に並行関係にあるということです。そう言われれば確かに「使徒の働き」のペテロやパウロなどが病人を癒したり迫害に遭ったりしたことや、パウロがエルサレムで捕らえられて裁判に掛けられた様子などは福音書のイエスとそっくりです。ですから、記者のルカが何らかの意図を持って二つの文書を似た構造にしたことは確かなようです。
 このことをなぜ私が興味深く感じるのかと言えば、時間的に

 → ルカの福音書 → 使徒の働き →

という順番で起きたことをルカが、

 → 使徒の働き →
 → ルカの福音書 →

というように並べていることです。これは拙著『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街 桜の国」』に書いた、ヨハネの福音書における時間進行が

 → 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →

とはなっておらず、

 → 使徒の時代 →
 → イエスの時代 →
 → 旧約の時代 →

というように並行して進行する時間構造になっていることと似ています。これまで私はこの独特の三層構造はヨハネが独自に着想したものであろうと考えていました。しかしeラーニングでルカ文書を学び始めてからは、ヨハネはルカ文書の二層構造および福音書終盤の「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(ルカ24:27)という文から着想を得て三層構造の福音書を執筆したのかもしれないと考えるようになりました。
 次に、eラーニングと直接の関係はありませんが、講師の山崎先生のブログにある「聖書のグランドナラティヴ再考」についてもヨハネの福音書との絡みで大変に興味深く思っていますので、以下に書きます。
 聖書には大きな物語の流れがあります。山崎先生のブログをそのまま引用させていただくと、

(引用ここから)
N・T・ライトは聖書全体を5幕のドラマにたとえ、次のような構成を提案しています:

 1.創造
 2.堕落
 3.イスラエル
 4.イエス
 5.終わりの時代(教会~終末)

ライトの5幕劇のアナロジーは非常に有名になりましたが、他の人々は、6幕(あるいは6章)の構成を提案しました。たとえば、旧約聖書学者のクリストファー・ライトは第6回日本伝道会議の主題講演で、聖書の物語を6幕劇にたとえていました。これは基本的にライトの最終幕を二つに分けて、教会の時代と終末の時代を区別したものと言えます:

 1.創造
 2.堕落
 3.イスラエル
 4.イエス
 5.教会
 6.新創造
(引用ここまで)

 これまで私(小島)は、聖書の大きな物語を5幕や6幕の劇に例えることには賛同しかねていました。なぜなら、このような例え方は、「過去→現在→未来」という一方通行の時間にあまりにも縛られすぎていると感じるからです。確かに人間はこのような時間に縛られています。しかし神は、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)とおっしゃる方ですから「過去→現在→未来」という時間には縛られておらず、ヨハネの福音書が示すような

 → 使徒の時代 →
 → イエスの時代 →
 → 旧約の時代 →

という三つの時代が同時進行する時間の中にもいることもできます。ですから5幕や6幕の劇を考えることは、あまりに人間寄りの考え方のような気がして賛同しかねたのです。
 さてしかし、山崎先生はさらにもう一幕加えて7幕とし、次のような真ん中の第4幕を中心とした集中構造(キアスムス)を提案しています。

 A 創造
  B 悪の起源
   C 神の民(イスラエル)
    X イエス・キリスト
   C’ 神の民の刷新(教会)
  B’ 悪の滅び
 A’ 創造の刷新

 これを見て私は、ヨハネの福音書の構造もまた、

 A → 使徒の時代 →
  X → イエスの時代 →
 A’→ 旧約の時代 →

という構造になっていることに思い至りました。聖霊を受けた旧約の時代の預言者と使徒の時代のクリスチャンの中には同じ霊的イエスがいます。ですから、

 A → クリスチャンの中の霊的イエス(使徒の時代)→
  X → 人間イエス(イエスの時代)→
 A’→ 預言者の中の霊的イエス(旧約の時代)→

というような集中構造として考えても良いのかもしれません。
 また、山崎先生の集中構造の縦方向を神の「永遠」の方向と考えて、

 ↑ A 創造
    B 悪の起源
 永   C 神の民(イスラエル)
      X イエス・キリスト
 遠   C’ 神の民の刷新(教会)
    B’ 悪の滅び
 ↓ A’ 創造の刷新

とすれば、拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」の終章で示した縦方向を神の「永遠」、横方向を人間の時間とした図1(下図)の、



とも合致します。つまり、人間にとっては

 A→B→C→X→C’→ B’→ A’

という幕の移り変わりに感じられても、「永遠」の中にいる神にとってはイエス・キリストを中心にして全ての幕が同時に存在する、

 ↑ → A →
   → B →
 永 → C →
   → X →
 遠 → C’→
   → B’→
 ↓ → A’→

という形になっていると説明しても良いのではないか、そのように感じています。
 拙著の終章の図2(下図)で示したように、私たちが横方向の人間の時間に縛られている間は、神の愛を少ししか感じることができません。しかし人間の時間から魂が解放されて縦方向の神の「永遠」に目覚めるなら、御父・御子・聖霊の三位一体の神の分厚い愛を豊かに感じることができるようになります。世界が平和に向かうためには、この豊かな神の愛を感じて心の深い平安を得ることが不可欠です。



 これからも、神の「永遠」をどのようにしたら多くの方々に伝わるかを追求して行きたいと思います。今回のeラーニングの学びで、ヨハネの福音書だけでなくルカ文書も絡めて行くことも有効であろうという感触が得られましたから、感謝に思っています。
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量子モデルで読む聖書

2017-12-04 20:05:46 | 牧師のつぶやき
量子モデルで読む聖書


量子モデルとは
 イエス・キリストは実在した人物で、紀元30年頃のユダヤとガリラヤにおいて多くの人々がイエスを目撃しています。そしてイエスはこれ以前の時代にも以後の時代にも神の霊として時空を越えて遍く存在してもいます。以前の時代とは宇宙の開始に始まる紀元前の時代であり、以後の時代とは紀元30年頃以降の1世紀から現代そして未来に至る時代です。つまりイエスは紀元30年頃に一つの場所にいる目に見える人間である一方で、時間と空間の中で広がりを持つ目に見えない神の霊でもあります。
 以上のイエスの特徴は、光子や電子などの量子が持つ性質と良く似ています(量子に限らず全ての物質は以下の物質波の性質を持つとされていますが、量子力学の現象ですので「量子モデル」と呼ぶことにします)。量子は観測される時には一点に収縮していて粒子の性質を示します。他方、観測されない時の量子は広がりを持って存在しているようです。光の二重スリットの有名な実験では、一つの光子が二つのスリットを同時に通過しているとしか考えられない波の干渉模様が現れるからです。この光子は経路の途中で観測を試みると必ず粒子としての性質を示すので、広がっている時の波を観測することはできません。これは遍在する神の霊としてのイエスを観測することはできないことと非常に良く似ています。
 このように量子をモデルとして聖書を読むと、聖書の中に目には見えないイエスがいることが良く分かってきます。特にヨハネの福音書はそのような書です。但し、量子モデルはあくまでもモデルであって、実際のイエスが量子と同じであると主張しているわけではないことには注意していただきたいと思います。

量子モデルのヨハネの福音書への適用

 ヨハネの福音書の1~11章は、

→ 使徒の時代(霊的イエス) →
→ イエスの時代(人間イエス) →
→ 旧約の時代(霊的イエス) →

というように、三つの時代が並行して進む三層構造を持ちます(拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」)。この分かりづらい構造は量子モデルを適用するならスッキリと理解することができます。例えばヨハネ2章で目に見える人間イエスはガリラヤのカナにいますが、目に見えない霊的イエスは預言者モーセ(出エジプト7:20)の中と五旬節の日に聖霊を受けたガリラヤ人の弟子たち(使徒2:4)の中にいます。或いはまたヨハネ4章で人間イエスはサマリヤで女と話をしていますが、霊的イエスは北王国の預言者エリヤの中(Ⅰ列王17:10)とピリポがサマリヤ伝道をしてペテロ・ヨハネによって聖霊を受けたサマリヤ人の中(使徒8:17)にいます。
 しかし、多くの人にとっては量子が持つ粒子と波動の二重性自体が分かりにくいものだと思いますから、私は量子モデルを使ってヨハネの福音書を説明することを自重してきました。「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」においても量子モデル用いませんでしたし、これまで様々な説明を試みて来ました。それでも結局はヨハネの福音書の構造を理解してもらうことはできませんでしたから、むしろ量子モデルを用いたほうが良いのではないかと思うようになりました。

なぜ量子モデルが必要か
 イエスと量子とはもちろん異なります。それでも敢えてこのモデルを提案するのは、皆が人間のイエスに囚われ過ぎていると感じるからです。それではあまりに一面的です。光は粒子の性質だけでは説明できずに波の性質も併せて考えなければならないのと同様に、イエスも人間だけでは説明できませんから神の霊としてのイエスも併せて考える必要があります。霊としてのイエスは時間と空間を越えた宇宙スケールの神です。この宇宙スケールの神の愛に包まれる時、私たちは心の平安を深く感じることができます。この深い平安を得るなら他者に対しても寛容になり、赦すことができる広い心を持つことができるようになるでしょう。世界が平和に向かうためには、心の深い平安を得ることがどうしても必要です。
 もちろん、人間のイエスだけからでも私たちは平安を得ることができます。しかし、それは言わば人知の範囲内の平安だと言えるでしょう。一方、霊的なイエスは宇宙スケールの神ですから、人知を遥かに越えた深い平安をもたらして下さるはずです。私がこれまでに得た平安はそれなりに深いものですが、まだまだだと感じています。量子モデルのイエスを多くの方々と共に探求して学びを深めることで、さらに深い平安を得たいと願っています。そうして平和の働きに貢献できるようになりたいと願ってやみません。
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『世界ネコ歩き』の劇場版を観て

2017-11-17 23:35:35 | 牧師のつぶやき
 少し時間ができたので、前から観たいと思っていた『岩合光昭の世界ネコ歩き』の劇場版を観て来ました。
 内容に興味があったと言うよりは、製作者たちの熱量を感じたので、それを受けとめに行きたいと思ったのです。テレビで放映している番組をわざわざ劇場で上映するということは、劇場でしか伝わらない何かがあり、それをどうしても伝えたいのだろうと思いました。牧師の私にも、どうしても伝えたいことがありますから、観に行けば必ず得られるものがあるだろうと思いました。結果、やはり観に行って良かったです。
 まず感じたのは、スクリーンが大きいですから大自然や世界の歴史的な町並みをバックにしてもネコの存在感がしっかりと確保できているということです。テレビの場合はカメラが引けばネコは小さな点になってしまいます。また、テレビの小さな画面では大自然や歴史的な町並みの美しさから受ける感動も劇場ほどではありません。ですから、テレビではどうしてもカメラがネコに寄った映像が中心になりがちだと思います。背景の魅力を十分に伝えることは、テレビにはなかなかできないことです。
 そこで思ったのは教会での説教のことです。聖書中の人物の背後には時空を越えた永遠の中にいる神がいます。このスケールの大きな神の存在をしっかりと伝えずに人物のことばかりを伝えたとしたら、それはテレビ的な説教ということになるでしょう。人物と神の両方を劇場映画のようにしっかりと伝えることができる説教者になりたいと思いました。
 その他にも家族愛のことなど、いろいろと思ったことがありますが、上記のことを一番強く感じました。
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聖書の読み方も天動説から地動説へ移行しよう

2017-11-16 06:05:08 | 牧師のつぶやき
【聖書の読み方も天動説から地動説へ移行しよう】(ツイッターでのつぶやきより)

天動説では私たちの側は動かずに天の方が動きますが、地動説では私たちは宇宙空間の中を動きます。聖書を読む時も私たちの側が永遠の中を動く必要があります。21世紀から動かないで聖書の時代の動きを眺めるのは天動説的な聖書の読み方です。

そうではなくて、私たちの側が永遠の中を動いて聖書を読むべきです。これが地動説的な聖書の読み方です。イエスを信じて聖霊を受けるなら、それが可能となります。私たちの側が永遠の中を動くことで、神様との交わりを一層豊かに感じることができ、神様の愛の大きさもわかるようになります。

聖霊はドラえもんのタイムマシンのようなものです。イエスを信じて聖霊を受けると魂が21世紀を離れて聖書の時代を自由に行き巡ることができるようになります。聖霊を受けない間は21世紀から聖書の時代を眺めるだけです。これでは聖書を単に歴史資料みたいなものとして読むだけですから、本当の恵みは得られません。

聖霊のタイムマシンを得ると魂が永遠の中を動けるようになって、地動説的な聖書の読み方ができるようになります。それゆえ聖書の時代をよりリアルに実感できるようになります。人類は地動説に移行したからロケットを飛ばして宇宙を旅することが可能になりました。聖書の読み方も地動説に移行しなければなりません。
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お詫び

2017-11-06 09:00:14 | 牧師のつぶやき
 ここ数日、ヨハネの福音書注解の更新が滞っています。聖会等の大きな行事があったことや、全力を傾注しなければならない作業に当たっていること等によります。この状態は来週の13日(月)まで続きます。この間、可能なら更新したく願っていますが、もしかしたら更新できないかもできません。必ず再開しますので、ご理解願えれば幸いです。よろしくお願いいたします。
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平和のためのヨハネの福音書の学び

2017-10-20 06:30:51 | 牧師のつぶやき
【平和のためのヨハネの福音書の学び】

 2週間前から平和の働きの一環としてヨハネの福音書の注解の連載を始めました。昨日、2章までが終わって3章に入りました。
 ヨハネは「霊的イエス」を「人間イエス」の上に重ねる手法で私たちが神を見ることができるようにしました。ヨハネの福音書の主役は「霊的イエス」であって、「人間イエス」は脇役です。
 一方、マタイ・マルコ・ルカの福音書の主役は「人間イエス」です。マタイ・マルコ・ルカの福音書の「人間イエス」に関する証言を受け入れてイエスが神の子キリストと信じるなら、その者は聖霊を受けます。そして聖霊を受けた者は「霊的イエス」が見えるようになることをヨハネの福音書は教えてくれています。また記者のヨハネはさらに、この福音書の読者に「霊的イエス」の新たな証人として加わるように求めています。そうして証言が増えていくなら、世界は証言が記された書物を収めきれないほどになります(ヨハネ21:25)。
 「霊的イエス」を学ぶことで私たちは霊的に成長することができます。そして霊的に成長した人が増えるなら、世界は平和に向かうことでしょう。もちろん私もまだまだですから、ヨハネの福音書の学びを分かち合うことで互いに成長できたらと思います。まず日本で、そして次に世界で、主役が「霊的イエス」のヨハネの福音書への理解が深まることを願ってやみません。

「ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」(ローマ14:19)

 ヨハネの福音書の注解の目次とリンク
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「花子とアン」の再放送を観ていて思うこと

2017-10-03 11:51:14 | 牧師のつぶやき
(ツイッター上でのつぶやきより)

「花子とアン」の再放送での宣教師による厳格な教育の場面を観て、キリスト教は随分と堅い宗教だというイメージを持つ人も少なくないだろう。実際、クリスチャンには堅物が多いから、そう思われても仕方がないが、学問でも芸術でもスポーツでも何でも、先ずは基本を身に着けるところから始まる。→

→物理学者が自由な発想を楽しめるようになるのは、物理の基本を身に着けた後だ。サッカー選手が芸術的なプレーができるのは、サッカーの基本を努力して身に着けたからだ。囲碁・将棋の一流棋士がファンを魅了する独創的な一手を放つことができるのは、基礎の段階で徹底的な訓練を受けているからだ。→

→キリスト教の聖書の世界も、基本を身に着けるなら、その中で思いを巡らすことで心の自由を獲得し、平安を得ることができる。しかし残念ながら、その様な心の自由と平安に達する人は多くはないようだ。音楽やスポーツは素質が無ければ一流になれないが、心の平安を得るのに素質は要らない筈なのだが。

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全ての時代に同時にいるイエス

2017-09-28 12:55:32 | 牧師のつぶやき
 拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」では、ヨハネの時間は

 → 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →

という一方通行の流れではなく

 → 旧約の時代 →
 → イエスの時代 →
 → 使徒の時代 →

という重層構造になっていることを示しました。
 イエスはこれらの全ての時代に同時に存在しています。文字だけではわかりにくかったようですので、下のような図を作ってみました。



 霊的な世界のことに図を用いるのは、自由な霊の世界のイメージの固定化につながりますから、あまり多用したくありません。しかし、図が全く無いとそれもわかりにくいと思いますから、これからも少しずつ図を考えてみたいと思います。
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「悪の支配」と「聖の支配」

2017-09-25 07:52:20 | 牧師のつぶやき
悪の支配 ← → 聖の支配
 利己的 ← → 利他的
  争い ← → 平和

 「悪の支配」が勝れば世の中は利己的な方向に向かい、争い事が増える。今の世は正にその方向に向かっている。ここから方向転換するためには、まずは今の我々が悪に支配されつつあることを自覚する必要があるだろう。
 「悪の支配」とは、要するに悪魔・悪霊の類による支配ということだ。これらは、たとえ除霊やお祓いで除去できたとしても、少し経てば再び取り憑くことだろう。それゆえ「悪の支配」から脱するためには、我々は「聖の支配」の下に置かれなければならない。
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大鵬と聖霊の平安 ~時間を超越した存在を感じるためのヒント~

2017-09-23 09:53:58 | 牧師のつぶやき
大鵬と聖霊の平安
~時間を超越した存在を感じるためのヒント~


1.はじめに
 新約聖書の『ヨハネの福音書』には「人間イエス」と「霊的イエス」の両方が存在します。「人間イエス」は紀元1世紀の初めの約30年間の「イエスの時代」に存在し、「霊的イエス」は「イエスの時代」の前と後の「旧約の時代」と「使徒の時代」に存在します。そして『ヨハネの福音書』の1~11章においては、これら三つの時代が同時並行で進んで行きます。すなわち『ヨハネの福音書』の時間進行は、

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →


という重層構造になっています。
 このことを私は今年の6月に出版した拙著(『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』 ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~)で明らかにしました。しかし、目に見えない「霊的イエス」の存在を『ヨハネの福音書』から感じ取ることは容易ではないようです。
 私たちの多くは「過去→現在→未来」という一方通行の時間の流れに縛られていますから、上記の三つの時代も

→ 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →


という順番で流れていると思い込んでいます。このような時間の流れに縛られているなら、時空を超越した「霊的イエス」の存在を感じることは難しいでしょう。
 そこで本稿では、「過去→現在→未来」の時間の流れから自由になって、「霊的イエス」を感じるためのヒントを提案することにします。これによって時間を超越した「父・子・聖霊」の三位一体の神との交わりを豊かに感じ、心の平安を得ていただければ幸いです。
 「過去→現在→未来」という時間に縛られている間は、心の深い平安は得られません。平安のない心が争い事を引き起こし、世界を平和から遠ざけます。世界が平和な方向に向かうために、多くの方々に時間を超越した三位一体の神との交わりを感じることができるようになっていただきたいと思います。

2.地に足が付いていては味わえない世界
 『ヨハネの福音書』の記者のヨハネは、『ヨハネの手紙第一』の冒頭で次のように書いています。

1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:1-3)


 ヨハネは「人間イエス」と実際に出会い、何年かを共に過ごしました。その時の経験をこの手紙と福音書の読者に伝えたいと願っていました。それは、読者がヨハネたちと交わりを持つようになるためだと3節に記しています。その「交わり」とは、天の御父および御子イエス・キリストとの親交・交友です。これは霊的な世界での親交・交友です。なぜならヨハネがこの手紙を書いた紀元1世紀の末頃の時点では、もはや「人間イエス」は存在していないからです。
 これは天の神との霊的な親交・交友ですから、1世紀末の読者だけでなく21世紀の私たちも仲間に入れてもらうことができます。私たちの肉体は21世紀の現在に縛られていますが、魂は自由です。魂は「過去→現在→未来」という時間の流れには縛られないからです。
 この天の神との交わりは、地に足が付いていたのでは感じることが難しいと思います。私たちの足は21世紀の現在に縛られていますから、霊的に浮遊することで21世紀の束縛から自由にならなければなりません。
 そのために私がお勧めしたいのは、自分が鳥になって大空を飛翔する様子を思い浮かべることです。飛行機や国際宇宙ステーションのような乗り物に乗って空を飛ぶことを想像しても良いかもしれませんが、それだと少し弱い気がします。乗り物の内側にいるのでは、天の神との直接の交わりを十分には感じられないでしょう。鳥になって自分自身が自由に天を飛んだほうが、より深く神との交わりを感じることができて魂の自由を得やすいことと思います。

3.大きくなって初めてわかる神の大きな愛
 私自身が想像するのは、小さな鳥ではなくて「鵬(ほう)」という巨大な鳥です。これは紀元前4世紀頃の中国で書かれた『荘子』の冒頭に登場する鳥です。下にその冒頭部分を引用します(森三樹三郎・訳、中公文庫)

 北のはての暗い海にすんでいる魚がいる。その名を鯤(こん)という。鯤の大きさは、幾千里ともはかり知ることはできない。やがて化身して鳥となり、その名を鵬(ほう)という。鵬の背のひろさは、幾千里あるのかはかり知られぬほどである。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。この鳥は、やがて大海が嵐にわきかえるとみるや、南のはての暗い海をさして移ろうとする。この南の暗い海こそ、世に天池(てんち)とよばれるものである。
 斉諧(せいかい)というのは、世にも怪奇な物語を多く知っている人間であるが、彼は次のように述べている。「鵬が南のはての海に移ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼる旋風(つむじかぜ)に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うものである。(『荘子』逍遥遊篇より)


 天の神から見れば、私たちは米粒以下の小さな存在です。ですから私たちは本来なら神との親交・交友などを持つことなど許されない、取るに足らない存在です。そんな小さな私たちと交友を持つために神の御子は「人間イエス」となって、この世に降りて来て下さいました。
 しかし、21世紀の私たちは「人間イエス」が存在しない「使徒の時代」を生きています。私たちが小さな米粒のままでは大きな神と十分な交わりを持つことはできません。小さなままでいるなら、神の大きな愛も少ししか感じることができません。ですから、霊的な世界においては私たちの側が巨大な鳥になる必要があります。これは決して傲慢なことではありません。神の圧倒的な愛を豊かに感じるためには、どうしても必要なことです。私たちが小さな米粒のままでは、小さな池の水ほどの愛でも、大きな愛と感じてしまうでしょう。しかし神の愛は海よりも大きな愛です。その大きさを感じるためには、私たちの側が大鵬のような巨大な鳥にならなければなりません。

4.聖霊が私たちを大きくする
 ただし、いくら想像をたくましくしても、大鵬になって自由に飛ぶほどに魂を自由にすることは、なかなかできません。しかし聖霊を受けるなら、それが可能になります。聖霊は「父・子・聖霊」の三位一体の神ですから、宇宙スケールの神です。その巨大な神が私たちの内に入るなら、私たちもまた巨大になり、大鵬のようになることができます。
 さてしかし、聖霊を受けるためには「イエスが神の子キリストである」と信じる必要があります。日本人にとっては「イエスは神の子キリストである」と信じることは容易ではないかもしれません。そこで、私のケースを紹介します。私がたどった経路を通じてなら、そんなに難しいことではないと思います。
 私の場合は新約聖書の『使徒の働き』9章の、サウロ(後のパウロ)がイエスと出会った場面を実話だと信じたことが、「イエスは神の子キリストである」と信じたことになったのだと思います。その場面を引用します。

1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。(使徒9:1-9)


 この霊的なイエスとの出会いがサウロ(パウロ)の人生を180度変えました。それまでのサウロはイエス・キリストを信じる者たちを迫害していましたが、この経験の後、逆にイエス・キリストを宣べ伝える者になりました。そして私は、このことを事実として疑うことなく信じました。人の人生が劇的に変わるには、それなりの体験が必要ですから、そういうことが確かにあったのだろうと単純に信じました。それは私が霊的なイエスの存在を信じたということであり、それはつまり「イエスは神の子キリストである」ということを信じたということなのだと思います。
 私たちが「イエスは神の子キリストである」と信じるに至るには様々な経路があると思いますが、私自身がたどった経路はこのように、とても単純なものでした。ですから私個人的としてはパウロの話を信じるところから始めることを、是非お勧めしたいと思います。
 
5.時間を超越した宇宙スケールの神
 どのような経路をたどるにせよ、「イエスは神の子キリストである」と信じた者は聖霊を受けます。「父・子・聖霊」の三位一体の神は宇宙スケールの神ですから、聖霊を受けた者の魂もまた宇宙スケールの時空間の中に招き入れられます。これが、ヨハネが第一の手紙に書いた「御父および御子イエス・キリストとの交わり」です。
 神は時間を超越した存在ですから、この交わりの中に入れられるなら、私たちの魂もまた自由になります。しかし、現実には多くのクリスチャンが「過去→現在→未来」という時間の流れに依然として縛られているようです。それは、『ヨハネの福音書』の

→ 使徒の時代 →
→ イエスの時代 →
→ 旧約の時代 →


という独特の時間構造が理解されていないことからもわかります。
 時間を超越した宇宙スケールの神を豊かに感じるためには、私たちもまた大鵬のような巨大な鳥にならなければなりません。そうして魂が、

→ 旧約の時代 → イエスの時代 → 使徒の時代 →


という常識的な時間から解放されてこそ、私たちはパウロが下記の『エペソ人への手紙』の中の祈りのことばにある、キリストの大きな愛を感じることができるようになるでしょう。

16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:16-19)


6.おわりに
 『荘子』で巨大な大鵬を描いた荘子は紀元前4世紀頃の人物で、当時の中国は戦国時代の中にありました。戦乱の世にあって人々が心の平安を得られないでいる中、荘子は究極の自由の境地を追求しました。その自由な心の象徴が大鵬です。
 ヨハネが『ヨハネの福音書』を記した1世紀末の時代の人々もまた、心の平安が得られないでいました。エルサレムがローマ軍の攻撃によって滅亡し、神殿は焼失しました。これによってユダヤ人たちは散らされて故郷を失いました。クリスチャンたちもまた激しい迫害に遭って苦しんでいました。そのような時代の中にあってヨハネは時間を超越した「御父および御子イエス・キリストとの交わり」の中に人々を招き入れ、スケールの大きな三位一体の神の愛の中で心の深い平安が得られることを示しました。これは聖霊を受けることで可能になります。しかし「過去→現在→未来」の時間の流れに縛られている私たちは、たとえ聖霊を受けてもヨハネが示した宇宙スケールの神を感じにくくなっていますから、本稿では「大鵬になった自分」を想像することを勧めました。
 私たちは謙遜であることを美徳と考えますから、自分を大きく想像することには抵抗を感じる方も少なくないかもしれません。しかし、世界が平和に向かうためには、私たちの側が大きくなって宇宙スケールの三位一体の神の大きな愛を豊かに感じることが、是非とも必要だと考えます。多くの方々に、この交わりの中に加わっていただきたいと願い、祈ります。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(Ⅱコリント13:13)
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「無為無欲+聖霊の導き」の勧め

2017-09-18 08:05:12 | 牧師のつぶやき
 為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。無為而無不為。
 取天下、常以無事。及其有事、不足以取天下。(老子第48章)

 学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず。これを損じてまた損じ、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。
 天下を取るは、常に無事を以てす。其の事有るに及んでは、以て天下を取るに足らず。

【私訳】
 学問を行うと我欲我執が日々に増し、道を為せば日々に少なくなる。我欲我執を減らし減らして無為に至る。無為無欲になればできないことはない。
 天下を取るには心が無の状態でなければならない。心の中に何か有るようでは天下は取れない。

 私たちは天下を取ることまでは考えていませんが、いずれにしても我欲我執に囚われていては、何事も為すことはできません。しかし、心を無の状態にすることは危険を伴うことでもあります。もし悪霊に憑かれてしまったら最悪です。
 ルカの福音書には、次のような記述があります。

24 「汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(ルカ11:24-26)

 このことから、単に無為無欲であれば良いわけではないことがわかります。心を正しく導く聖霊(御霊)で満たされる必要があります。無為の状態に聖霊を受けることで、その人は正しい方向に導かれます。

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ5:16-25)
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戦争とクリスチャン(2017年8月15日)

2017-08-15 08:23:07 | 牧師のつぶやき
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネの福音書4章42節)

 もし上記のヨハネ4:42の聖句が何を教えているのかを世界のクリスチャンが深く理解していたなら、これまでにクリスチャンが起こした戦争の数はもっとずっと少なかったはずです。この聖句が理解されていないことは甚だ残念なことですが、せめてこれからは人々の理解が進んで、世界が平和に向かうように働くことが私に与えられた使命です。

 ヨハネの福音書の重要な目的の一つは、読者に「聖霊とは何か」を教えることです。それはイエスが聖霊についてニコデモ(3章)、サマリヤの女(4章)、弟子たち(14~16章)に教えていることから明らかです。そしてイエスは弟子たちに20章で「聖霊を受けなさい」(22節)と言っています。さらにまた「聖霊」という言葉を使っていなくても、「聖霊とは何か」を教えている箇所はたくさんあります。ヨハネ4:42もその一つです。

 ヨハネ4:42が教えていることは、人は聖霊を受けて初めて「イエスがほんとうに世の救い主だ」と知ることができるのだということです。私たちは先ずは他者(または聖書)を通して「イエスはキリスト(救い主)だ」と教わります。この「イエスはキリストだ」を信じる人もいれば、信じない人もいます。そして信じた人は聖霊を受けます。そうして聖霊を受けるとイエスと霊的に出会い、イエスから直接語り掛けを受けることができるようになるのです。聖霊を受ける前は聖書のイエスしか知り得ませんが、イエスが神の子キリストと信じれば(ヨハネ20:31)、聖霊を受けて実際にイエスに出会えるのです。イエスがトマスに「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)と言ったのは、それゆえです。聖書のイエスしか知らない段階ではイエスを見たとは言えません。しかし聖霊を受ければ霊的に見ることができます。

 このように聖霊を受けたクリスチャンがイエスと霊的に出会うなら、ヨハネ4:42のサマリヤ人たちとは実は使徒8章の聖霊を受けたサマリヤ人たちのことであることがわかるでしょう。使徒8章ではピリポが種をまき、ペテロとヨハネが刈り取りました。イエスが『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざを引用したのは、そのためです(ヨハネ4:37)。或いはまたイエスが「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」(ヨハネ6:67)と弟子たちに言ったのは、北王国の民がアッシリヤに連行されて失われたこと(Ⅱ列王記17:23、18:11)をイエスが悲しんでいるのだと霊的に見えるでしょうし、ラザロの墓に向かう途中でイエスが霊の憤りを覚えて涙を流したのは(ヨハネ11:33-35)、南王国がバビロン軍の攻撃で廃墟となったこと(Ⅱ列王記25:8-10)を悲しんでいることも霊的に見えることでしょう。北王国の滅亡も南王国の滅亡もまた戦争被害です。

 上記のようにイエスが戦争被害を悲しんでいることが霊的に見えていたなら、クリスチャンが起こした戦争の数はもっとずっと少なかったはずです。しかし、見えていなかったために多くの戦争が繰り返されて来ました。ヨハネの福音書のイエスが戦災を悲しんでいることに気付かれて来なかったのは何故なのか、私にも理由はよくわかりません。「永遠」への覚醒が関係しているのだろうと拙著の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」には書きましたが推測に過ぎません。この理由に関しては是非とも多くの方々と議論して、真相に迫りたいと願っています。そうすれば世界はもっとずっと平和になるだろうと思うからです。
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沼津コーストFM「潮風の中で」メッセージ

2017-08-14 11:03:43 | 牧師のつぶやき


2017年8月12日放送「潮風の中で」メッセージ(クリック)
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沼津コーストFM「潮風の中で」メッセージ(2017年8月12日放送)

2017-08-13 04:29:26 | 牧師のつぶやき
沼津コーストFM「潮風の中で」メッセージ(2017年8月12日放送)
インマヌエル沼津キリスト教会・小島 聡 


♪音楽①:映画『夕凪の街 桜の国』オリジナル・サウンドトラックより二曲
 「掌(てのひら)のハンカチ~お姉ちゃん」(2分23秒)
 「ひとつの願い~ゴエモン~」(1分11秒)

 この番組のメッセージを私が担当するのは今回で7回目ですが、8月のメッセージを担当するのは初めてです。8月は「戦争と平和」について考える月と言っても過言ではないと思います。特に8月の前半はそうです。今回、「戦争と平和」について考える8月の前半に初めてメッセージを担当することになったことに私は不思議な巡り合わせを感じています。というのは、私は2ヶ月前の6月に、平和の実現を願って一冊の本を出版したばかりだからです。本のタイトルは「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」です。
 タイトルに使わせていただいた『夕凪の街 桜の国』は、広島の原爆の被害者とその家族を描いた漫画で、作者はこうの史代さんです。この作品は佐々部清監督によって映画化もされて、ちょうど10年前の今の夏の時期に上映されていました。
 「夕凪の街」とは広島のことで、「桜の国」とは東京のことです。「夕凪の街」の物語では広島で原爆の被害に遭いながらも生き延びていたヒロインが、10年後の昭和30年に放射線障害の原爆症を発症して亡くなります。そして亡くなったヒロインの家族は、しばらく広島で過ごした後に東京に引っ越します。「桜の国」は、その東京の家族の物語です。この家族は表面上は明るく過ごしていますが、心の底では悲しみと苦悩を抱えています。つまり「桜の国」の物語の下には「夕凪の街」の悲しい物語があって、二つの物語は重なり合っています。
 この「夕凪の街」と「桜の国」の二つの物語が重なって一つの物語になっている『夕凪の街 桜の国』の構成は、聖書ととても良く似ています。聖書も「旧約聖書」の物語と「新約聖書」の物語の二つが重なって一つの物語になっているからです。平和を実現するには「旧約聖書」と「新約聖書」とを重ねて考えるべきです。「旧約聖書」の時代を過去に置き去りにするのでなく、土台として据えることが大切です。
 「新約聖書」の物語の土台には「旧約聖書」の時代のイスラエルの悲しみがあります。「旧約聖書」の時代、イスラエルのダビデとソロモンの王国は繁栄していましたが、ソロモンの死後、北王国と南王国の二つの国に分裂してしまいました。そののち北王国はアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、南王国はバビロニヤ帝国によって滅ぼされてしまいました。その後、イスラエルの民族はほとんどの時代において大国の支配下に置かれて、「新約聖書」の時代にはローマ帝国の支配下にありました。「新約聖書」の下にある土台には、このイスラエルの北王国と南王国の滅亡の悲劇があることを忘れてはなりません。
 北王国がアッシリヤ帝国に滅ぼされて人々が国外に連行されて行ったことは「旧約聖書」の列王記第二18章に記されています。サマリヤという地名が出て来ますが、サマリヤとは北王国の首都のことです。お読みします。

「イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリヤは攻め取られた。アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、町々に連れて行った。これは、彼らが神の声に聞き従わず、その契約を破り、モーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。」(列王記第二18:10~12、聴き易いように一部を改変)

 聖書はこのように、イスラエルが滅びたのはイスラエル人が神の声に聞き従わなかったからだとしています。こうして北王国のイスラエル人たちはアッシリヤに捕らえ移されて二度と戻ることがありませんでした。
 そして、イエス・キリストは、このことをとても悲しんでいます。その悲しみが表れている「新約聖書」の『ヨハネの福音書』6章をお読みします。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」(ヨハネ6:66~67)

 イエス・キリストは「永遠」の中を生きていますから、「旧約聖書」の時代にも「新約聖書」の時代にもいて、両方の時代に神から去っていった者たちのことを同じように悲しんでいます。ただし、「新約聖書」の下には「旧約聖書」の時代のイスラエル民族の悲しみがあることを理解していないなら、イエスのこの深い悲しみを感じ取ることはできません。
 北王国が滅ぼされたことも一つの戦争被害です。永遠の中を生きるイエス・キリストはどの時代にもいますから、すべての戦災を悲しんでいます。それゆえイエスは私たちが住む、この沼津の街の空襲の被害のことも、広島・長崎の原爆の被害のことも、現代の戦争の被害のことも同じように悲しんでいます。

♪音楽②:映画『夕凪の街 桜の国』オリジナル・サウンドトラックより
 「雨だれ~おばあちゃん」(3分37秒)

 私は一年に一回は広島の平和公園を訪れることにしていて、今年は2週間前の7月の終わりに平和公園に行って来ました。平和公園では既に8月6日の式典に向けた準備が進められていました。式典は原爆で死没した犠牲者の慰霊碑の前で行われます。この慰霊碑の前には建物がなく広大な芝生が広がっていますが、原爆が投下される前には木造の民家や商家が密集して建っていました。爆心地に近いこの地区にいた人々のうち、家の外にいて強烈な放射線と熱線を浴びた人は短時間で死に至り、家の中にいて原爆の光を直接浴びなかった人も凄まじい爆風で倒壊した建物の下敷きになって動けなくなり、その後に起きた火災によって焼死しました。この地区の一帯はほとんどが火災で焼失しました。この焼け跡に土を盛ってできたのが今の平和公園です。ですから、この土を掘り返せば下から焼けただれた地層が出てきます。平和公園の下には、この原爆被害の悲劇の地層があります。
 映画の『夕凪の街 桜の国』でも、東京の「桜の国」の物語の下には原爆症で亡くなった「夕凪の街」のヒロインの悲劇があります。聖書もまた「新約聖書」の物語の下には「旧約聖書」の時代の北王国と南王国の滅亡の悲劇があります。そして「新約聖書」の『ヨハネの福音書』のイエス・キリストはこれらの戦争被害を悲しんでいることを、私は著書の「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」に書きました。
 メッセージの前半ではイスラエルの北王国が滅亡した時の記事を紹介しましたから、今度は南王国が滅亡した記事の、「旧約聖書」の列王記第二25章をお読みします。

「バビロンの王ネブカデネザルの第十九年、王の家来のネブザルアダンがエルサレムに来て、神殿と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。王の家来といっしょにいた軍勢は、エルサレムの回りの城壁を取りこわした。彼らは、町に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。」(列王記第二25:8~11、聴き易いように一部を改変)

 こうして南王国の首都エルサレムはバビロンの王の軍勢によって焼かれて、人々はバビロンに捕囚として連行されて行きました。そして『ヨハネの福音書』のイエスはこの戦災を深く悲しんで涙を流しています。『ヨハネの福音書』11章のその箇所をお読みします。

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:32~35)

 永遠の中を生きるイエス・キリストはこのように悲しみの涙を流しました。ただしここでも、「新約聖書」の下に「旧約聖書」の時代の悲劇があることを理解していないなら、イエスが戦争被害を悲しんでいることに気付くことはありません。「旧約聖書」は「新約聖書」よりも読まれる機会が少ないですから、「旧約聖書」の時代の悲劇を知らない人も少なくありません。
 戦争がなくならない理由の一つとして私は、永遠の中を生きるイエスが世界のあらゆる時代の戦争被害を悲しんでいることを聖書の読者が十分に理解していないことを挙げたいと思います。聖書は世界のベストセラーと呼ばれるほど、世界中の多くの人々に読まれています。ですから聖書の読み方が少し変わるだけで世界はもっと平和な方向に向かうであろうと私は期待しています。
 沼津の街もまた72年前に米軍の爆撃機による空襲に遭い、焦土と化しました。私たちの多くは今、その上で生活をしています。イエスはこの沼津の戦争被害のことも悲しんでいます。私たちの教会では、この沼津の戦争被害のことも覚えながら8月6日の日曜日の礼拝では平和の祈りを捧げました。
 もうあと十数年でイエス・キリストの十字架と復活から二千年の記念の年になります。二千年目のイースターの時までに核兵器が廃絶されて平和な世界が実現することを私たちは期待して、祈り続けたいと思います。
 神の平安が皆様と共にありますよう、お祈りしています。

♪音楽③:映画『夕凪の街 桜の国』オリジナル・サウンドトラックより
 「エンディング・テーマ」(5分30秒)
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FM放送のメッセージがネット配信されます

2017-08-12 20:25:35 | 牧師のつぶやき
 8月12日(土)19:00~19:30に、FMラジオの沼津コーストエフエムの番組「潮風の中で」で、牧師が平和のメッセージを語ります。
 今年の4月からインターネット配信もされていますから、全国で聴いていただくことができます。ぜひ多くの皆さんに聴いていただきたく思います。
 http://www.coast-fm.com/

 なお8月6日(日)の礼拝メッセージでは、この8/12の放送原稿を読みましたので、公開は8/12の晩以降とします。
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