平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

神の義を知り、礼拝の質を高めよう(2015.9.27 礼拝)

2015-09-28 06:24:13 | 礼拝メッセージ
2015年9月27日礼拝メッセージ
『神の義を知り、礼拝の質を高めよう』
【ローマ1:11~17】

はじめに
 先週の礼拝からローマ人への手紙の学びを始めました。先週のメッセージのタイトルは『平和に必要な御霊の霊的理解』としました。平和を実現するには、私たちは御霊のことをもっと霊的に理解する必要がある、そのためにローマ人への手紙をこれから学んで行くことにしたい、というような話をしました。先週の説教を聞けば御霊のことが霊的に理解できるようになるというわけではなく、これからローマ人への手紙を学んで行く中で理解できるようになって行きましょうという話をしました。
 きょうのメッセージのタイトルも同様のこととして受け留めていただきたいと思います。きょうのタイトルは『神の義を知り、礼拝の質を高めよう』としましたが、きょうのメッセージを聞けば神の義のことがわかって礼拝の質が高まるというわけではありません。これからローマ人への手紙を学んで行くことで神の義の奥深さを学び、そのことで礼拝の質が高めて行きましょうという話です。先週のメッセージと今週のメッセージを一くくりにして言うなら、ローマ人への手紙を学ぶことで御霊への霊的な理解が深まるなら神の義への理解も深まり、そのことによって礼拝の質も高まり、平和のための働きにも貢献できるようになるでしょう、ということです。
 これは実に壮大な学びです。この学びをどのように運んで行くか、まだ定まってはいませんが、単にローマ人への手紙を少しずつ順番に学ぶのでなく、聖書のあちこちを見ながら、ということになると思います。特に御霊の学びのためにはヨハネの福音書は大変に役に立ちますから、ヨハネの福音書の引用も随所で行うことになると思いますし、旧約聖書も随時開くだろうと思います。そうして私たちはローマ人への手紙を学びながら広く聖書全体を学び、そうして御霊への理解を深め、礼拝の質を高めることができるようになればと願っています。

分裂があったローマの教会
 さて、きょうのメッセージの前半では、先週のメッセージについて簡単に振り返っておきたいと思います。先週は体調を崩したり様々なご都合があったりで多くの方々が欠席されましたから、先週の復習を先ずしておくことにします。
 先週は先ず、最近私が示されているローマ14:19から話を始めました。

14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 この平和に役立つこととお互いの霊的成長に役立つこととを追い求めることとは、今の私たちの教会には、とても必要なことだと思いますし、また今の世界にとっても日本にとっても必要なことであると話しました。
 そして、このローマ人への手紙が書かれた時、ローマの教会には分裂があって教会の中には平和が無かったことを説明しました。この時、ローマ教会は食べ物のことで分裂していました。たとえば、14章の2節と3節でパウロは次のように書いています。

14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 ここから、食べる人と食べない人との間で分裂があったことがわかります。食べる人というのは主に異邦人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守る必要はないと考える人々のことです。そして食べない人というのは主にユダヤ人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守っている人々のことです。
 ローマの教会ではこのようにユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、食べ物の問題のことで争いがあって平和が無かったようです。

教会の一致に欠かせない霊的な成長
 ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとは、同じローマの教会に集っていても、育った環境があまりにも違い過ぎます。そのようにあまりにも違う両者が一つになるには御霊によって一つになるしか方法は無いでしょう。ですから霊的成長が必要なわけです。御霊によって一つになるには霊的な成長が欠かせません。
 霊的成長とはわかりやすく言えば、イエスさまに似た者にされて行くことと言っても良いかもしれません。イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とおっしゃいました。私たちがイエス・キリストを信じるなら私たちには聖霊が注がれます。そして、その聖霊に私たちの心を明け渡すなら、私たちは聖霊の働きによって次第にイエスさまに似た者にされて行きます。
 この時、自分の心をどれだけ聖霊に明け渡すことができるかで、霊的成長の度合は変わって来るでしょう。自分の心を聖霊に明け渡すことがなかなかできないでいるなら霊的成長はなかなか見られないでしょうし、もし全面的に明け渡すことができるなら急速に霊的な成長を遂げることができるでしょう。
 そして先週は心を明け渡した者の例として、旧約の預言者エリシャの時代のナアマンの話をしました(Ⅱ列王記5章)。
 さて、ここからは先週は話さなかったことを付け加えて、段々と今週の話に入って行くことにしたいと思います。ナアマンの話を続けます。
 列王記にはツァラアトに冒されていたナアマンの体が幼子のようにきよくなったとありますが、心までがきよめられたとは直接的には書いてありません。しかし体がきよめられた後のナアマンの言動を見るなら心もきよめられたことがわかります。
 では、ナアマンの心がきよめられたのは体がきよめられたからでしょうか。それとも、心がきよめられたから、体がきよめられたのでしょうか。私は後者だと考えます。ナアマンが聖霊に心を明け渡したからこそ、その信仰によってナアマンの病気が治されたのだと考えます。イエスさまの時代には長血を患っていた女が、イエスさまの着物に触りさえすれば癒されるだろうという信仰が、彼女の病気を治しました(マルコ5:25-34他)。ナアマンも、ヨルダン川に七度身を浸せば病気が治るというエリシャのことばを信じた、その信仰がナアマンの病気を治したと見るべきでしょう。ただしナアマンの場合は、初めはそのことを信じないで怒って帰ろうとしました。しかし、部下の言うことを聞いて川に入ることにしました。だからこそ、七度も川に入る必要があったのだろうと私は思います。もしナアマンが初めから強い信仰を持っていたのなら、一回川に入れば病気は治ったことでしょう。長血の女の場合は、そういう強い信仰を持っていましたから、イエスさまの着物に一回触れただけで病気が治りました。何度も着物に触れる必要はありませんでした。しかしナアマンの場合は、初めはほとんど信じていませんでしたから、何度も川に入る必要がありました。

一回目で霊的な何かを感じる教会
 教会も同じではないでしょうか。教会に一度も行ったことがない人の場合、教会に何かを期待して行く人はそれほど多くはないでしょう。たいていの場合は、誰かに誘われたから仕方なしに来たとか、ちょっとした気まぐれで入ってみようと思った、そんな程度の思いで教会を訪れる場合が多いのではないでしょうか。しかし、教会の会堂の中に身を置いたことで何かを感じて、また来てみようという気になり、回を重ねるうちに次第に信仰に目覚めて行く、そんな風になっているのではないでしょうか。
 ナアマンの場合は、最初は部下に説得されたので仕方なしに入ったのでした。しかし、一回目に川に入った時に何かを感じたのだと思います。ナアマンは軍人としてのプライドが高く、エリシャの家の前に戦車で乗り付けるなど、軍人としての自分に強いこだわりを持っていました。そんなナアマンが嫌々ながらも一回目に川に入った時、聖霊の語り掛けが微かに心に届くようになったのだと思います。もちろんナアマンの心はプライドで厚く塗り固められていましたから、聖霊の語り掛けが心に届いたといっても、ほんのちょっと届いただけでしょう。しかし、一回目でほんの少しだけれども何かを感じたナアマンは、もう一回川に入ることにして、二回目には一回目よりも強く何かを感じ、そうして七度それを繰り返すことで心を覆っていた厚い殻が取り去られて聖霊に心を明け渡すことができて行ったのでしょう。
 私たちの教会も、教会を初めて訪れた方が一回目に霊的な何かを感じる、そんな教会にすることができたらと思います。私たちが建設する新しい礼拝堂はこれから設計を始めるのですから、小さくても、そんな礼拝堂を建てることができたらと思います。一回訪れたら、またもう一回訪れたくなる。そして、二回、三回、四回と繰り返し訪れたくなる、そんな礼拝堂にできたらと思います。そうして何度か教会に通うことで、間もなく信仰の芽が土から顔を出し、成長が始まります。

私たちにも必要な霊的な成長
 さて既に信仰を持っている私たちも、信仰の成長が必要です。特に霊的な成長が必要です。ですからローマ人への手紙の学びを通して、霊的に成長することができたらと願っています。先週のメッセージの中で、ローマの教会では一時的にユダヤ人クリスチャンがいなくなって異邦人クリスチャンだけになっていた時期があったという話をしました。ローマの皇帝のクラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、プリスカとアクラを始めとするユダヤ人クリスチャンたちはローマから離れなければならなくなりました。そうしてユダヤ人クリスチャンがローマの教会からいなくなったことで、旧約聖書の学びが疎かになって異邦人クリスチャンの霊的な成長が止まってしまっていたのではないかという話を先週しました。この霊的に十分成長していないローマの教会員に、パウロは霊的な賜物を与えたいと願っていました。
 先週の聖書箇所はローマ1章の1節から11節まででした。そして、きょうはまたもう一度11節をご一緒にお読みしたいと思って聖書箇所を11節からとしました。ローマ1章11節を、ご一緒にお読みしましょう。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

 パウロはローマの教会の教会員に霊的に成長してもらいたいと強く願っていました。それで11節のように書きましたが、続く12節では、こんな風にも書いています。12節、

1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 パウロは共に励ましを受けたいと書きました。私は、これはパウロがだいぶ気を遣って、こんな風に書いたのではないかなと思います。あまり上から目線で、あなた方は霊的に成長していないから、もっと成長しなければダメですなどと言うと、反発を招いてしまうかもしれません。特にローマの教会はパウロが始めた教会ではありませんから、いきなり上から目線ではパウロの勧めも素直には聞いてもらえないでしょう。パウロは、そこら辺のところも良く心得ていたのだと思います。それはパウロがきよめられていたからなのでしょうね。パウロは、12章以降のお勧めを、自然と実行できていたのでしょう。

高いレベルの要求
 ここで、12章を見ておきたいと思います。きょうの聖書交読でご一緒に読みましたが、きょうの学びで12章もご一緒に読みたいと思いましたので、予め交読して、準備をしておいていただきました。12章の10節を、ご一緒に読みましょう。

12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。先ほどの1章でパウロは、上から目線で言い放しにしておくことなく、「共に励ましを受けたい」と書きました。それはパウロが、この12章10節の「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」を率先して実行できていたからなのでしょう。パウロは優れた霊性を持ち、聖霊で満たされていましたから心もきよめられていました。
 そのパウロが12章1節と2節で勧めています。12章の1節と2節を交代で読みましょう。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 ここでパウロはローマの教会の人々に、そして私たちに、随分と高いレベルの霊性を要求しています。ここだけを取り出して読むと、およそ無理なことではないかと思われます。例えば、1節の「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ということなど、このように出来たら良いなとは思いますが、なかなかそこまではできないという気がします。しかし、それは、この一節だけを取り出して読むから、そう感じるのであって、このローマ人への手紙の全体を深く理解するならば当然そのようにならなくてはならない、ということでパウロは、このように書いているのですね。

神の義を知り、礼拝の質を高めよう
 ここで、ローマ人への手紙全体の非常に大雑把な構成を説明しておきたいと思います(週報p.3)。人によって多少見方が違うかもしれませんが、大雑把には次のような構成になっています。

Ⅰ.導入(1:1~17)、Ⅱ.教理(1:18~8:39)、Ⅲ.イスラエル問題(9:1~11:36)、Ⅳ.適用(12:1~15:33)、Ⅴ.挨拶(16:1~27)

 ここでⅢのイスラエル問題が挿入されていることをどう理解するかは、なかなか難しいと思うのですが、これをちょっと横に置いておいて1章から8章までの教理の説明と12章からの適用の流れを考えるなら、12章1節のパウロの高いレベルの霊性の要求は、1章から8章までに学びを積み上げて来た上で書いていることです。この1章から8章までの中で御霊のことが一番多く書かれているのが8章です。やはり御霊のことを霊的に理解するのは大変に難しいことですから、1章から7章までで学びを積み上げて来て、そうしてようやく8章で御霊の説明をして、それから12章のお勧めがあることになります。
 また1章から8章までの間で私たちが理解しなければならないことは1章の16節と17節にまとめられていると言われています。この16節と17節を理解するために8章までの説明があり、それを理解するなら自ずと12章以降のような高いレベルの霊的な信仰生活を送ることができるようになる、というわけです。1章の16節と17節を交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 
 この16節と17節の中でも特に重要とされるのは17節にある「神の義」です。パウロは「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」と書いています。きょうはもう時間がありませんから、この「神の義」についてご一緒に学ぶのは次回以降にしますが、簡単に予告しておくと、この「神の義」の「義」は単に正しいとか正しくないとかを越えた、もっと広いことを意味するということが言われています。
 単に正しいとか正しくないというだけなら、ここで言う「神の義」の神は単なる裁判官のような役割を担っているだけになります。神様はもちろん裁判官という一面も持ち合わせますが、もっともっと広く大きなお方です。この「神の義」の広さ深さを学ぶことで、私たちは礼拝の霊的な質も高めて行くことができるだろうと私は期待しています。
 私たちは裁判所の裁判官を尊敬することはあっても礼拝して賛美することはしないでしょう。私たちは神様が賛美すべき方だと知っていますから、賛美して礼拝を捧げます。しかし、うっかりすると、そのことを忘れて礼拝は惰性的になり、毎週同じような礼拝を習慣として捧げているだけになってしまう恐れがあります。そうではなくて、神様は賛美すべきお方であるということの理解を、「神の義」についての学びを通じて深めることができるなら、私たちが捧げる礼拝の霊的な質も、もっと高まって行くことでしょう。
 これは霊的なことですから、頭で理解できるものではありません。ですからこれは、私たちが毎週捧げる礼拝の霊的な質を、私たちが高めて行こうとする不断の努力によって理解できるようになって行くのだろうと思います。私たちが「神の義」を知ることで私たちの礼拝の霊的な質が高まり、礼拝の霊的な質が高まることによってさらに「神の義」を深く知ることができるようになり、そのことでさらに礼拝の霊的な質が高まり、というような好循環が生まれるのだと思います。

おわりに
 幸いにして私たちは今、新しい礼拝堂を建てるチャンスが与えられています。霊的に良い雰囲気を持つ礼拝堂を建設して礼拝を捧げるなら、私たちの霊性はますます高められることでしょう。そのための準備として私たちは、今のこの会堂の中で最大限に霊的な礼拝を捧げることができるようになりたいと思います。そうして私たちの霊性が高められて行くなら、この教会に新しく来て下さった方々も霊的な何かを感じて、またこの教会に来ようと思って下さることでしょう。
 神の義については、次回以降で学ぶことにしますから、きょう最後にご一緒にお読みするのは12章の1節にしたいと思います。ご一緒に読んできょうのメッセージを閉じます。12章1節、

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 お祈りいたしましょう。
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知恵者中の知恵者

2015-09-24 09:29:09 | 祈り会メッセージ
2015年9月23日祈り会メッセージ
『知恵者中の知恵者』
【箴言30:24~28】

30:24 この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。
30:25 蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。
30:26 岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。
30:27 いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。
30:28 やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。

はじめに
 きょうはまだ連休の中にあります。今回の秋の連休は五連休で、世間はのんびりとした中にありますし、私も一昨日・昨日・今日の午前と三日連続で屋根の上に上がって肉体労働をしていましたから、きょうの祈祷会のメッセージは肩に力の入ったものではなくて、少しのんびりしたものにしたいと願い、箴言30章のきょうの箇所を選びました。
 この箴言の箇所は、実は今月の初めの9月3日と4日にヌエック(国立女性教育会館)で持たれた、教団によるBTC卒業7年目以内の若手牧師研修会の開会のセッションで世話役の先生が開いて下さった箇所です。短い時間でしたので24節と27節だけが読まれ、私たちは「いなご」のようでありたいというショートメッセージをいただきました。
 この若手牧師研修会に先立ち、9月1日から3日の昼まではBTCの同窓会セミナーが開かれていました。そして若手牧師研修会は同窓会セミナーが3日の昼に終わった後の3日の午後から始まりました。この時までに既に同窓会で多くのメッセージを聞いていましたから、この若手牧師研修会のオープニングの短いメッセージでどこが開かれ、何が語られたか、普段の私でしたら忘れてしまうことも少なくないのですが、私たちは「いなご」のようでありたいという不思議なメッセージに心引かれて、記憶に残りました。そして、この若手牧師研修会で「本当に私たちはいなごのようだ」という感想を私は持ちました。

四つの小さいもの
 この私が持った、「本当に私たちはいなごのようだ」という感想については後ほど述べることにして、まず、この箴言30章の24節から28節までを簡単に見ておきたいと思います。
 まず24節で

30:24 この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。

とあって四つの生き物、蟻、岩だぬき、いなご、やもりについての説明があります。25節の蟻は力のない種族ですが、夏のうちに食糧を確保する知恵者中の知恵者です。
 26節の岩だぬきは強くない種族ですが、巣を岩間に設けて敵から攻撃されないようにしている知恵者中の知恵者です。
 27節のいなごに王はいませんが隊を組みます。この隊を組むことで人が恐れるほどの強さを持つことができます。いなごは隊を組むことで強くなれることを知っている知恵者中の知恵者です。
 28節のやもりは手でつかまえることができますが、王の宮殿にいることが知恵者だと箴言は言います。やもりは動きが遅いですから、確かに手でつかまえることができます。トカゲのように動きが速いと手でつかまえることは簡単ではありませんが、やもりは簡単につかまえることができます。この夏、この会堂の2階の私の居室の中にも、どこから入ったのかわかりませんが、やもりがいましたから、私は手でつかまえて外に出しました。このやもりが、王の宮殿にいることが知恵者だと箴言は言います。どういうことでしょうか。注解書を2,3冊調べてみたら、王の宮殿にいるという大胆なところが知恵者なのだということです。でも私は、この説明にはあまり納得していません。私は王の宮殿は天井が高いために壁も高い所まであるから、簡単には手が届かないという意味で知恵者なのではないかと考えます。この会堂くらいの天井の低さであれば、高い所にいても椅子に上がれば簡単に手が届いてしまいます。しかし、王の宮殿であれば、椅子に上がっても天上に手が届くことはないでしょう。

隊を組むことができる私たち
 さて世話役の先生の牧師研修会の開会のメッセージにおける、「私たちはいなごのようでありたい」ということの意味するところは、私たち牧師はこの研修会で隊を組むことができるということでした。牧師は普段はそれぞれに遣わされた教会に散らばっていますが、この研修会では隊を組んでそれぞれが直面している問題・課題を分かち合って祈り合い、励まし合うことで強められることができます。そのような場として、この牧師研修会を用いていただきたいというお勧めのメッセージでした。そして果たして本当に、この牧師研修会で私は励まされ、強められることができましたから、確かに私たちは「いなご」のようだと思い、この箴言からのメッセージをいただけたことに心から感謝しました。
 この牧師研修会があった9月3日と4日は、私たちの教会では臨時教会総会を目前に控えていましたから、私は落ち着かない気持ちでいました。私自身がまだ牧師4年目の不慣れな者であるにも関わらず、会堂問題に直面していました。そして、取得を検討している物件が私たちの教会の規模からすれば、やや大きいということで教会内にも動揺がありました。そういう不安を抱えていましたが、牧師研修会では若手牧師だけでなく世話役の先生の他にも代表や教育局の先生方もいらして、これまでに直面した牧会上の困難な点について分かち合い、励まし合い、祈り合うことで力をいただくことができました。そして本当に私たちは隊を組んでいるという実感を得ることができました。
 さて、ではこの教会の私たちはどうでしょうか。私たちも隊を組んでいますね。私たちの教会は人数が少ないですが、私たちのために祈り、支援して下さっている方々が教会の外にたくさんいらっしゃいます。私たちはそれらの方々とも隊を組んでいます。今の会堂問題の推進力は主に、この教会の外の方々によって与えられています。このことは本当に感謝なことです。

おわりに
 そして私たちにはイエス・キリストという王がいます。いなごには王がいません。しかし、私たちにはイエス・キリストという王の中の王がおられます。このように私たちは隊を組むことができ、しかも王の中の王であるイエス・キリストがおられ、さらに私たちには聖書があります。ですから私たちは知恵者中の知恵者よりもさらに大きな力が与えられています。
 これらのことに感謝しながら、これからも困難なことは様々にあることと思いますが、恐れることなく前進して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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平和に必要な御霊の霊的理解(2015.9.20 礼拝)

2015-09-20 13:54:44 | 礼拝メッセージ
2015年9月20日礼拝メッセージ
『平和に必要な御霊の霊的理解』
【ローマ1:1~11】

はじめに
 きょうは謝恩日聖日です。敬老の日に合わせて引退された先生方と現役の伝道者の祝福と福祉面での充実について考え、継続的に祈って行く機会とする日です。この謝恩日聖日を機に皆さんに考えていただきたいことについては、週報に折り込んだ信徒厚生委員からの文書がありますから、そちらを読んでいただけたらと思います。

平和と霊的成長に役立つことを追求しよう
 きょうの聖書箇所はローマ人への手紙の1章の始めの部分です。これから、しばらく礼拝ではローマ人への手紙を学びをして行くことにしたいと願っています。
 ローマ書を学ぶことにしたのは、ちょうどe-ラーニングでローマ書の学びが始まったからということが第一の理由です。今回私はこのe-ラーニングを機会にローマ書全体を改めて読み直してみて、ローマ書には今の私たちの教会とさらに言うなら今の世界と日本に必要なこととが書かれていると強く感じました。先週の礼拝説教では、ローマ8:28を聖書箇所にしましたが、あれから1週間が経って、今、私の心に通っているのはローマ14:19です。ご一緒に読んでみたいと思います。

14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 この平和に役立つこととお互いの霊的成長に役立つこととを追い求めることとは、今の私たちの教会には、とても必要なことだと思いますし、今の世界にとっても日本にとっても必要なことだと思います。

平和が無かったローマ教会
 ここでパウロがローマ書のこの部分で言っている「平和」について14章の文脈から簡単に説明しておきたいと思います。19節の次の節の20節を見て下さい。

14:20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。
 
 ここに「食べ物のこと」とあります。ローマの教会では食べ物のことで分裂があったようです。少し戻って14章の2節と3節を見て下さい。

14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 ここから、食べる人と食べない人との間で分裂があったことがわかります。食べる人というのは主に異邦人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守る必要はないと考える人々のことです。そして食べない人というのは主にユダヤ人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守っている人々のことです。
 ローマの教会ではこのようにユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、食べ物の問題のことで争いがあって平和が無かったようです。それで14節のような言葉になったのでしょう。もう一度14節をお読みします。

14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

 ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとは、同じローマの教会に集っていても、育った環境があまりにも違い過ぎます。そのようにあまりにも違う両者が一つになるには御霊によって一つになるしか方法は無いでしょう。ですから霊的成長が必要なわけです。御霊によって一つになるには霊的な成長が欠かせません。

聖霊に心を明け渡す
 霊的成長とはわかりやすく言えば、イエスさまに似た者にされて行くことと言っても良いかもしれません。イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とおっしゃいました。私たちがイエス・キリストを信じるなら私たちには聖霊が注がれます。そして、その聖霊に私たちの心を明け渡すなら、私たちは聖霊の働きによって次第にイエスさまに似た者にされて行きます。
 この時、自分の心をどれだけ聖霊に明け渡すことができるかで、霊的成長の度合は変わって来るでしょう。自分の心を聖霊に明け渡すことがなかなかできないでいるなら霊的成長はなかなか見られないでしょうし、もし全面的に明け渡すことができるなら急速に霊的な成長を遂げることができるでしょう。
 私たちは一人一人がそれぞれ自分らしくありたいという願望を持っています。ですから自分の心を自分以外の者に明け渡すなど恐ろしくてなかなかできません。もし明け渡してしまったなら操り人形のようにされて個性の無い、自分らしさのかけらも無い者にされてしまうのではないかと恐れます。私もかつてはそういう思いを持っていました。
 しかし、聖霊が心を支配することとは聖霊がその人の個性を奪うこととは全く異なります。聖霊は、むしろその人の本来の個性を生かす形で、その人らしさを引き出して下さいます。私たちは自分中心の考え方で、これが私だ、これが私らしさだ、と思い込んでいる形があります。しかしその形は実は自分中心の考えで作り上げた自分らしさである可能性が非常に強いです。
 例えば将軍ナアマンは武装した自分が自分らしいと思っていました(第二列王記5章)。ナアマンはツァラアトに冒された病人なのに軍人らしく戦車で預言者エリシャの家に乗り付けました。そんなナアマンは、エリシャが自分に会わずに、エリシャの使いの者がヨルダン川に七度身を浸せばツァラアトが治ると言った時にはプライドを傷つけられて怒りました。軍人としてのプライドが許さなかったのですね。そういうふうに軍人らしくしていることが自分らしいことだとナアマンは勘違いをしていました。しかし、ヨルダン川に七度身を浸した時、ナアマンが着けていた心の鎧はきれいに落とされて本来のナアマンになることができました。
 聖霊はこのように、本来のありのままの本当の自分らしさを上手に引き出して下さいます。それが聖霊に心を明け渡すことで得られる、きよめの恵みです。
 さて、ここで私たちの教会について考えてみたいと思いますが、私たちの教会も昼食の食べ物のことで一つになれないことがありましたね。昼ごはんをどうするかにも、それぞれにスタイルがあり、こだわっている形があります。会堂問題もその延長線にあるように思います。会堂への思いも、それぞれのこだわりがあります。ですから一人一人のこだわりを越えて一つになるには、私たちにもどうしても霊的成長が必要なわけです。そういうわけで、このローマ人への手紙を学ぶことで私たちの教会も霊的に成長することができたらと願っています。

世界の平和に必要な霊的成長
 そして、さらに言えば霊的に成長しなければならないのは今の世界の人々もそうであり、今の日本の人々も同様です。アメリカやヨーロッパには多くのクリスチャンがいますが、欧米の人々による戦争が絶えないのは、結局は欧米のクリスチャンが霊的に成長していないからだと私は考えています。特にアメリカは第二次世界大戦以降も、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などほとんど絶え間なく戦争をしています。もしアメリカ人のクリスチャンが聖霊に心を明け渡し、聖霊による心の支配を受け入れてイエス・キリストに似た者とされているなら、これほどまでに絶えず戦争を行うことはない筈です。
 これまで私は霊的成長のためにはヨハネの福音書を深く学ぶことが最適であると考え、ヨハネの福音書からの説教を多くして来ました。今でもヨハネの福音書が最適であるとの考えは変わりませんが、少し目先を変えてパウロの手紙を深く学ぶことで霊的な成長を目指すことも、とても良いことであろうと思うようになりました。パウロの手紙を深く学べばヨハネの福音書の学びでよくわからなかったこともわかるようになると期待できます。そうしてヨハネとパウロの両方を深く理解することができるようになるなら、「鬼に金棒」であろうと思います。
 一昨日の金曜日、私は昼過ぎから夜の8時まで国会前のデモに参加していました。そして国会前で私はローマ14章19節の「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」のみことばを心に刻み込んで来ました。昨日の未明、国会の参議院は与党が提出した安保法案を可決しました。これにより自衛隊の集団的自衛権の行使が法律的に可能になり、アメリカなどの同盟国の戦争に加担することが可能になりました。先ほども話したように、アメリカにはクリスチャンが多いのに霊的成長が十分でないために戦争が絶えないと私は考えます。そして日本人の多くはクリスチャンではありません。その日本人が霊的成長が不十分なアメリカ人の戦争にこれから加担して行くなら、日本も世界もますます恐ろしいことになって行くだろうと私は深く憂慮しています。
 ですから私たちが真に平和な世界を築いて行くためには、多くの者がイエス・キリストを信じ、そして信じた者たちが霊的に成長して行く必要があります。そのための働きに励まなければならないと決意を新たにしています。(そのようにすべての人々が霊的に成長するための道筋が整えられて初めて主が再臨があるだろうというのが私の個人的な考えですが、それはともかく、)そのためにヨハネの福音書への理解を深めると同時にローマ人への手紙の理解を深めることは、鬼に金棒となって、とても有効であることでしょう。

ユダヤ人クリスチャンがいなくなったローマ教会
 では、ローマ人への手紙の1章を見ることにしましょう。きょうの聖書箇所は1章の1節から11節までとしました。まず11節をお読みします。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

 ここでパウロは「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたい」と書いています。ですからパウロがローマの教会の人々の霊的成長を強く望んでいたことが、ここからもわかります。
 パウロはローマに行ってローマ教会の人々に直接会って霊的な指導をしたいと願っていましたが、この時は結局行くことが適いませんでしたから、手紙を書くことにしました。ローマ教会はパウロが始めた教会ではありません。しかし、ローマの教会の内部で問題が発生していたことはパウロの耳に入っていました。情報元はいくつかあったのだと思いますが、プリスカとアクラからの情報は重要であったことでしょう。
 ローマ人への手紙の16章を見て下さい。ここにはパウロからローマの教会の人々への挨拶が記されています。そして16章3節に、プリスカとアクラへの挨拶があります。

16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

 この時プリスカとアクラはローマの教会にいたのですね。プリスカとアクラの夫妻はユダヤ人のクリスチャンで、パウロのコリントとエペソの教会での働きを手伝いましたが、元々はローマの教会員で、パウロを手伝った後はまたローマに戻っていました。ローマの教会にいたプリスカとアクラが何故コリントとエペソでパウロを手伝うことになったのか、その辺りの事情は使徒の働きの18章に書かれています(p.265)。使徒の働き18章の1~3節をお読みします。

18:1 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。
18:2 ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、
18:3 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

 プリスカとアクラと同様にパウロもまた天幕作りの職人であったので、同業者としてウマが合ったのでしょうね。そのプリスカとアクラがコリントに来ていたのは、2節にあるようにローマのクラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したためでした。後にこのクラウデオ帝が亡くなってから、この命令は解除されたために、パウロがローマ人への手紙を書いた頃にはプリスカとアクラの夫妻はローマに戻っていたのでした。そして、ローマの教会で起きている問題をパウロに手紙で伝えていたのでしょう。
 このクラウデオ帝の命令が出されていた頃、ローマの教会ではプリスカとアクラを始めとするすべてのユダヤ人クリスチャンがいなくなっていましたから、異邦人クリスチャンだけの教会になっていました。そうしてユダヤ人クリスチャンが戻った時に問題が起きたのですね。

霊的成長が止まった異邦人クリスチャン
 私は、ローマ教会からユダヤ人クリスチャンがいなくなっている間に、異邦人クリスチャンの霊的な成長が止まり、或いはまた後退していたのだろうと考えています。そして、それは旧約聖書の学びが止まってしまっていたからではないかと私は考えています。その一端がこの手紙の書き出しに見えているように感じます。1章の1節から4節までをお読みします。

1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

 パウロはこの手紙の書き出しで神の福音について2節と3節で、「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので御子に関することです」と書いています。聖書とは旧約聖書のことです。御子イエス・キリストは旧約聖書で預言されていました。例えばイザヤ53章のしもべがそうですね。
 私はこの旧約聖書を知っていることが霊的成長には必須だと考えています。なぜなら、旧約聖書を知ることで神の愛の深さがわかるからです。旧約聖書で示された神の愛が、時間と空間を越えて今も変わらずに注がれていること、この時間と空間を越えた神の愛を感じることは霊的成長に欠かせません。そしてそれは聖霊の働きによります。
 聖霊の働きによって神の愛を知ることで私たちの霊的成長が促され、そして霊的に成長することで、さらに神の愛をより深く知ることが出来るようになり、そのことがさらに霊的成長を促すというような良い循環があるということを私は私自身の霊的成長の経験を通して知っています。そのことに気付かせてくれたのが、ヨハネの福音書の深い学びの経験です。ヨハネの福音書の背後には、旧約聖書と使徒の働きが隠されていて、そこに神の深い愛が感じられます。このヨハネの福音書に旧約聖書と使徒の働きが重ねられていることと、使徒パウロが書いたローマ人への手紙に旧約聖書に関する記述がたっぷりと含まれていることとは、大いに関係しているように思えます。ですからヨハネの福音書とパウロの手紙の両方を深く学ぶことは鬼に金棒であると言えます。

おわりに
 私たちが霊的に成長できるよう、これから礼拝でローマ人への手紙を学んで行きたいと思います。きょうのメッセージのタイトルは『平和に必要な御霊の霊的理解』としましたが、きょうのメッセージで御霊を霊的に理解できるようになれるというわけではありません。これからローマ人への手紙を学んで行くことで私たちが霊的に成長して御霊を霊的に理解できるようになりましょうという意味です。ローマ人への手紙の中で御霊について多くのことが書かれているのは8章です。その8章に向けてパウロは段階を踏みながら議論を積み上げて行き、8章で御霊についてじっくりと語るという構成に、ローマ人への手紙はなっています。ですから私たちも、少し時間が掛かると思いますが御霊の霊的理解に向けて学びを積み上げて行きたいと思います。そうして私たちは平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めて行きたいと思います。
 お祈りしましょう。
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御霊のうめき(2015.9.16 祈り会)

2015-09-16 22:55:46 | 祈り会メッセージ
2015年9月16日祈り会メッセージ
『御霊のうめき』
【ローマ8:26、27】

はじめに
 政治の動きでは与党が安保法制の参議院での採決を今週中に強行しようとしているのに対して、野党はそうはさせまいと徹底的に戦うつもりであると報じられています。
 市民の反対運動も活発になっています。おとといの月曜日の夜と昨日の火曜日の夜、国会前のデモは2夜連続で国会の正門前の車道が解放されるに至るほどの多くの市民が集まりました。
 きょうの午後、予定では今頃は新横浜駅前のプリンスホテルで地方公聴会が行われています。
 そして与党の目論見では今夜、参議院の特別委員会を開いて締めくくりの質疑を行った後に採決する運びとなっているようです。しかし、そうはさせまいと多くの市民がプリンスホテルを包囲して公聴会に出席した委員が東京に戻ることができないようにするのだろうと思います。
 ただし政権側はそんなことは百も承知ですから、恐らく大量の警察官を動員して鉄柵も用いて公聴会に出席した委員が市民に妨げられることなくホテルを出て国会に向かうことができるようにするのだろうと思います。
 世論調査ではどのマスコミの調査でも、安保法制に賛成する人はだいたい30%ぐらい、反対する人はだいたい60%ぐらいで、1対2の割合で反対が賛成を大きく上回っています。それなのに多数の国民の反対の声を無視して大量の警察官を動員してでも採決を強行しようとする、そんな今の日本の政治の状況を私は本当に嘆かわしく思います。

御霊を理解できていない私たち
 今国会で安保法制が成立すれば日本の自衛隊はアメリカの戦争を助けるために出動することになります。アメリカはほとんど絶え間なく戦争を行っていますから、自衛隊は遠からずその支援に出向くことになるのでしょうか。アメリカには多くのクリスチャンがいるのに、絶え間なく戦争を行っていることもまた嘆かわしいことです。
 2千年前にイエス・キリストが「互いに愛し合いなさい」と説いたのに、この2千年間私たち人類が互いに愛し合うことができずに戦争を止められないでいるのは、煎じ詰めれば私たちが神の愛を御霊によって十分に感じることができていないからでしょう。
 御霊のことはヨハネの福音書を深く理解すればするほど良くわかって来ます。ヨハネの福音書にはいたる所に御霊に関する記述があり、その表面上の記述と背後に隠されていることとが結び付くと御霊のことが豊かにわかるようになります。ですから私は以前から、皆がヨハネの福音書を理解するようになるなら、世界の人々は互いに愛し合うようになり世界は平和実現へと向かって行くであろうと礼拝と祈祷会のメッセージで繰り返し語って来ました。
 しかし今回、私が繰り返しヨハネの福音書からのメッセージを語って来た私たちの教会においてさえも容易には一つになれなかったことに私は、この問題の深刻さを改めて深く思い知らされています。それは要するに私たちの御霊の感じ方が十分ではなかったから、なかなか一つになれなかったのだと思います。皆が御霊を十分に感じることができていないのであれば御霊の一致を保つことは不可能です。ですから御霊の一致を保つことは、実はとてつもなく困難なことなのだと今回私は思い知らされました。ただしこれは悪いことばかりではなく、今回私は、ちょうどローマ人への手紙のe-ラーニングによる学びを開始したこともあって、パウロの嘆きと御霊のうめきのことが前よりも良くわかるようになった気がしています。

御霊のうめきはパウロのうめき?
 これから述べることは、礼拝の出席者とも分かち合いたいので、きょうここで聞いたことを礼拝でまた聞くことになるかもしれませんが、大切なことは何度でも語るべきだと思いますから、ご容赦下さい。きょうの聖書箇所のローマ8:26,27をもう一度交代で読みましょう。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 私は以前から、御霊ご自身の「深いうめき」とは、どういうことだろうかと思っていました。しかし、最近になって私自身が、多くの人々が御霊を感じることができるようになることがいかに難しいかを深く感じるようになり、御霊の「深いうめき」とは実はパウロの「深いうめき」のことではないかと感じるようになりました。つまりパウロ自身も人々が御霊を感じることができないでいることを深く嘆き、そしてうめいており、それゆえパウロと共にいて下さっている御霊ご自身もまた深くうめいている、そのようなことになっているようだと示されています。
 きょうの祈り会では簡単な説明だけをして、礼拝のほうで丁寧な説明をすることにしたいと思いますが、パウロの悩みは異邦人もユダヤ人も両方とも御霊を十分に感じることが出来ていないことでした。
 イエス・キリストを信じる者には聖霊が注がれますから、聖霊が注がれた異邦人クリスチャンであれば御霊をもっと感じて御霊の一致を保つことができても良い筈です。それなのにローマの教会の異邦人クリスチャンは御霊の一致を保つことができないでいました。パウロは、このローマ人への手紙の導入部の1章11節で、

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

と書いていますから、ローマの教会の教会員のうちの特に異邦人クリスチャンの霊性が十分に育っていないことを感じていたようです。
 それからパウロがいつも気に掛けている同胞のユダヤ人たちの多くはイエス・キリストを信じていませんでしたから聖霊が注がれていません。聖霊が注がれなければ御霊のことがわかる筈がありませんから、これもまたパウロの大きな悩みでした。ローマ人への手紙の9~11章にはユダヤ人の問題のことが書かれていますね。9章2節でパウロは、

9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

と書き、10章1節では、

10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

と書きました。「彼らの救われること」の「彼ら」とはユダヤ人のことです。
 このローマ9章から11章に掛けてのパウロの深い嘆きを読むと、8章26節にある御霊ご自身の言いようもない深いうめきというのは、実はパウロのうめきではないかという気がします。もう一度、8章26節をお読みします。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 パウロはローマ教会の異邦人クリスチャンの霊的成長が不十分であることを感じて深く憂慮していましたし、ユダヤ人がイエス・キリストを信じようとしないことにも深く失望していました。宣教の働きを進めることはパウロにとっても嘆かわしいことの連続だったのだと改めて感じます。

おわりに
 パウロやヨハネの時代から2千年近くが経った現代においても相変わらず御霊のことがあまり理解されていない状況に私も深く失望していますが、御霊の働きによって私の失望をパウロの失望の理解へと御霊が導いて下さったことに私は感謝しています。
 私たちの教会も日本も世界も御霊の理解という点では厳しい状況にありますが、幸いなことに新会堂の問題においては主は私たちを豊かに祝福して下さっていることを感じますから、これもまた感謝なことです。私たち沼津教会の者たちは皆がもっと御霊を感じることができるようになって御霊の一致を保ち、この素晴らしい恵みをこの地域の方々に伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖書の世界に招く聖霊(2015.9.13 礼拝)

2015-09-14 06:50:30 | 礼拝メッセージ
2015年9月13日礼拝メッセージ
『聖書の世界に招く聖霊』
【ローマ8:28】

はじめに
 きょうはギデオン協会の兄姉のお証しがあり、礼拝後には会堂祈祷会も予定していますから、メッセージは10分ちょっとの短いものです。
 聖書箇所は、ローマ8:28としました。きょうは、この聖書箇所の解釈ではなく、聖書とはどういうものかということを、ご一緒に考えたいと願い、この箇所を引いています。

聖書を通して教会に招く聖霊
 私が神学生の時、毎週日曜日の実習で行っていた教会の伝道会で聞いた救いの証しに、ギデオン協会が配布した聖書にまつわる証しがありました。その証しをして下さった方は、中学生だった時に、学校の前でギデオンの聖書を受け取ったそうです。でも、その時は中を読まずに、その聖書は本棚に直行したそうです。しかし、何年も経った後の、社会人になった時、仕事のことや人間関係で悩んでいた時に、本棚に収まっていた聖書の背表紙が偶然目に入ったのだそうです。そして、読み始めてみたところ、今の自分に必要なことが書いてあると感じたそうです。でも理解できないことが多いので、教会に行って聖書について教えてもらいたいと思い、教会に足を運んだそうです。そうして集会にも参加するようになって洗礼を受けたということでした。
 ギデオンの働きが用いられたことの良き証しですから、本当に感謝なことだと思います。そして、きょう私がお話をしたいのは、聖書にはこういう不思議な働きもあるということです。聖書に何が書いてあるのかが理解できなくても、聖書によって神様の御もとに引き寄せられて救われることがあります。これも聖霊の働きと言えるでしょう。聖霊は聖書の内容の理解も助けてくれますが、内容が全くわからなくても私たちを教会に引き寄せる不思議な力も持ちます。

証詞
 ここで私の証しをさせていただきます。
 2001年に私の父が死んだ時、母が父と結婚した時に教会からもらったという記念品を見せてくれました。私の父は若い頃に教会に通っていて洗礼も受けたクリスチャンであったけれども、結婚後はあまり教会に行かなくなり、私が物心付いた頃には全く教会に行かなくなっていましたから、私は父が死ぬときまで父がクリスチャンであったことを知らなかったということは、前にお証ししたことがあると思います。父と母は、父が洗礼を受けた教会で結婚式を挙げ、その教会からの記念品には「ローマ8:28」と書き入れてありました。それで私は気になって家にあった聖書でローマ8:28を開いて読んでみましたが、書かれていることの意味は全くわかりませんでした。その頃は、この手紙がパウロによって書かれたことも知りませんでしたし、パウロがどういう人物かも知りませんでしたし、聖書のことをほとんど知らなかったのですから当然です。でも、それが結婚式の記念品であったこと、そして父と母が結婚したから私が生まれたことから、このローマ8:28がわかったら良いなということを思いました。
 そして時が流れて、今は当時に比べれば私はローマ8:28に関して遥かによくわかるようになりました。ですが、まだ十分にはわかっていないと感じています。それゆえ私は、まだこの箇所から説教がなかなかできないでいます。しかし、近い将来、このローマ8:28から何が学べるかを、ご一緒に学ぶことができたら良いなと考えています。それゆえローマ人への手紙の学びを深めたいと思っています。いまe-ラーニングでもローマ人への手紙の学びが始まっていますから、この機会にローマ8:28の理解も深めたいと願っています。

神様との交わりを経験する
 このように聖書は私たちに聖書を学ぶよう招いています。聖書知識がどの段階にあろうとも、すべての人を聖書の学びへと招いています。私の場合で言えば、聖書のことが何もわかっていなかった時も聖書は私を学びへと招いていましたし、牧師になった私に対しても、聖書はなお、もっと深い学びへと招いています。それは何故なのか、それは聖書を学ぶこととは、神様と交わることだからです。聖書を深く学ぶことで、私たちは神様との豊かな交わりの中に入れていただくことができます。
 さてしかし、聖書を深く学びながらも神様との交わりを経験していない人々も数多くいます。かなりの聖書知識を持っていても神様との交わりを経験していない人というのは、イエス・キリストが神の子であることを信じていない人たちです。イエスさまが単なる人間だと思っている人は神様との交わりに入れていただくことはできません。何故ならイエスさまが神の子キリストであると信じることで私たちに聖霊が注がれるからです。そして私たちは聖霊の働きによって神様との交わりの中に入れられます。その聖霊の働きの中で聖書を深く学ぶ時、私たちは神様との交わりを経験することができます。
 ではイエスさまは神の子キリストと信じる前、たとえばギデオンの聖書を手にしたばかりの人たちや、私がローマ8:28を初めて調べた頃はどうだったのでしょうか。この段階ではまだ聖霊が注がれていないわけですから、聖霊は働いてはいないのでしょうか。そんなことは無いと思います。その人に聖霊が注がれていなくても、聖霊はその人に働き掛けて、聖書の世界へと招いています。ウェスレー神学ではこれを「先行的恩寵」と呼びますが、呼び方はどうであれ、まだ聖霊が注がれていない者に対しても聖霊は、聖書を通して神様との交わりの中に入るよう招いています。すべての人は、この招きを受けています。

イエスに付き従うよう招く聖霊
 最後に、ヨハネの福音書1章を開きましょう。これまでに何度も開いた箇所ですが、これも聖霊による招きであるということを学ぶために、ご一緒に読みたいと思います。ヨハネ1章の35節から39節までを、交代で読みましょう。

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

 これも聖霊の働きです。私たちヨハネの福音書の読者は聖霊によって「あなたがたは何を求めているのですか?」と問われ、聖霊によって「来なさい。そうすればわかります」とイエス・キリストに付いて行くよう招かれています。この聖霊の招きに応答するなら、自分が心の奥底では本当は何を求めているのかが、段々とわかるようになって来ます。
 ですからギデオン協会の方々が学校の正門の近くに行って生徒たちに聖書を配布するのも、聖霊が生徒たちに「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」と語り掛ける、お手伝いをしているのですね。この貴い働きに感謝したいと思います。

おわりに
 2ヶ月前、ギデオン協会の兄弟たちは今沢中学の前で生徒たちに聖書を配って下さいました。これにより、ギデオンの聖書を受け取った生徒たちへの聖霊の語り掛けは始まっています。この生徒たちが将来、ふとしたきっかけで配布された聖書を開き、教会に行ってみようという思いが与えられることも、きっとあることでしょう。
 その時までに、私たちは今よりも、もっと入りやすい雰囲気の会堂を建てて、待っていたいと思います。私たちがこれから建設する礼拝堂は、新しい方々が入りやすい雰囲気を持つものであればと思います。
 聖霊による語り掛けを受けた方々が次々と集う、そんな教会を建て上げて行くことができるよう、私たちは一つになって進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

 「あなたがたは何を求めているのですか」
 「来なさい。そうすればわかります」
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大雨の中で(2015.9.9 祈り会)

2015-09-10 09:22:14 | 祈り会メッセージ
2015年9月9日祈り会メッセージ
『大雨の中で』
【創世記7:11~13】

7:11 ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。
7:12 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
7:13 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。

はじめに
 台風18号は今日の午前に愛知県に上陸して今頃は岐阜県の辺りを進んでいるのでしょうか。先週も今週も、ここのところ、ずっと大雨が続いていて浜松の方では浸水の被害も出ていますから、ふとノアの洪水の箇所が思い浮かびました。
 きょうは、この箇所を短く見て会堂問題について振り返り、私のお証しも簡単にさせていただきたいと思います。今後私は、しばらくの間は、礼拝の説教の中で会堂問題について語ることはやめて、もっぱら祈祷会のほうで語ることにします。今回の会堂問題では深く傷ついた方々もおられます。その傷ついた方々は癒しのメッセージを必要としています。これまでは会堂問題を前進させるために皆さんを鼓舞するようなメッセージを礼拝の中で語って来ましたが、今後、さらに鼓舞するメッセージを語り続けるなら傷ついた方々の心の傷を一層深くしてしまう恐れがあります。ですから礼拝では、当分の間は会堂問題から離れることにします。それで会堂の話は主に祈祷会のほうですることにします。

大雨続きの日々
 先ほど交代で読んだノアの箇所の12節に、「大雨は、四十日四十夜、地の上に降った」とあります。沼津もそうですが、このところ全国的に雨続きですから、この箇所を思い出しました。先週、私は埼玉のヌエック(国立女性教育会館)にいて、沼津の会堂のことをずっと心配していたことを先日の礼拝で話しました。沼津では火・水・木と三日連続で大雨警報が出て、そのことを沼津市から携帯メールで知らせて来ていましたから、教会を出る前に置いて来た洗面器から水が溢れ出して2階が水浸しになっているのではないかと私はずっと心配していました。金曜日の夕方に戻って来て、洗面器に水が半分ぐらい溜まっていたものの、溢れ出してはいませんでしたから、安心しました。そして、土曜日は備え日でしたが屋根に上がり、雨漏りした箇所にガッチリと防水対策を行いました。それで、先週雨漏りした箇所の雨漏りは止まりましたが、日曜日の晩から再び降り始めた大雨で、今度は別の二箇所で雨漏りが始まっています。今の雨が一段落したら、今度はその二箇所を補修するつもりです。
 こうして私は雨漏りの心配ばかりしなければならない状況になってしまっていますが、心配はしているものの暗い気持ちにはなっていません。それは先日の臨時教会総会でまた新たな一歩を踏み出すことができたからです。もし会堂問題が何も進展しない状況だったら、とても不安で暗い気持ちになっていただろうと思います。実際、今年の2月の中旬に冬には珍しい雹が降って屋根へのダメージを心配した時、私は本当に暗い気持ちになりました。それが、今は連日の大雨でも暗い気持ちにはなっていません。主はこの9月の長雨を見越した上で今回の物件を備えて下さっていたのかもしれません。

一つ目の物件であったこと
 今回の総会では皆さんのほとんどが最終的には賛成して下さいましたが、4月や5月の時点では当惑していた方も多かったのだろうと思います。それは今回の物件が真剣に検討するに値するという意味では最初の物件であったのに、私がその最初の一つ目の物件で話を進めたからなのでしょうね。普通は有力な物件を複数見て、それらをいくつも見ながら段々と目を肥やしていった上で決めるのでしょう。しかし、今回はそうではありませんでした。それは私が年会で霊的に燃やされて今回の物件を御心と確信したからですが、それに加えて元々私は何かを選択する時に、あれこれ比較検討することをしないで、良いなと直感的に感じるものが目に入ったなら、たとえそれが一つ目であっても、それを選ぶ傾向があることによります。大事なものであればあるほど、あまり迷わずに私は早めに決断します。大事なものであればあるほど迷うことは良い結果をもたらさないと私は考えるからです。私は、そういう考え方なのです。神様は、このような私の考え方を用いるために、私をこの教会に派遣したのかもしれません。もし他の牧師だったら、今回の物件が示されても、まだ一つ目の物件だから、もっといろいろ見るべきということで見送ったのかもしれません。それで私のような考え方の者を、今回の物件を取得するために神様は遣わしたのかもしれません。

受洗時と献身時の証詞
 ここで、私が以前、高津教会の近くに出来た新築のマンションを購入し、また売却した時のお証しをさせていただきたいと思います。このマンションの購入と売却は私の受洗と献身とに密接に関連していました。
 このマンションの購入の契約をしたのは確か2001年の10月で、まだ建設中でしたから完成して引き渡されたのが2002年の1月の初めでした。そして私はその少し前の2001年のクリスマス礼拝で洗礼を受けていました。ですから私は洗礼を受けてすぐにクリスチャンとしての新しい生活を新しいマンションで始めました。
 この2001年から2002年に掛けては本当にいろいろなことがありました。まず2001年の6月に父が亡くなりました。入院した時はまだ病名がわからず3日後に検査の結果が出て末期の膵臓がんと分かりました。それからわずか1週間で父は逝ってしまいました。そして父の葬式の準備の時に私は父が洗礼を受けたクリスチャンであることを知りました。そうして私は父の死後に、以前から教会へ行くことを勧めてくれていた韓国人の教会に連れて行ってもらい、それからそこで日本人教会に行くことを勧めらましたから、当時の私が住んでいた高津のアパートの近くの高津教会に通い始めました。最初に高津教会を訪れたのが8月12日でした。それから私は毎週欠かさず高津教会に通うようになりました。
 高津教会に通い始めて2ヶ月ぐらい経った10月の後半、高津のアパートにいた私に、新築のマンションを買いませんかという電話が掛かって来ました。その手の電話はしょっちゅう掛かって来ていましたから、いつも「興味ありません」と言ってすぐに電話を切っていました。しかし、不思議なことですが、何故かこの時は話を聞いてみようという気になって説明を聞きに行きました。そして、その新築のマンションが高津教会の比較的近くにあることを知りました。当時私が住んでいたアパートも高津教会の近くだったのですが、その建設中のマンションと私のアパートとは高津教会を挟んで反対側にあるという位置関係でした。それで私はマンションのセールスの人から説明を聞いているうちに、このマンションを買って一生ここに住み、高津教会にずっと通うことにするのも悪くないなと思いました。その時はまだ洗礼のことは考えていませんでしたが、高津教会にはこれからもずっと通いたいと思っていました。それで私は、一晩考えただけで、このマンションを買うことに決めてしまいました。今までマンションの見学など一度もしたことがなく、自宅を購入することもまだまだ考えていませんでしたが、わずか一晩で自宅としてマンションを買うことに決めてしまいました。私は大事なことであればあるほど迷うべきでないと考えていますから、このような時に迷うことはありません。
 私がその年のクリスマスに洗礼を受けたいと願ったのも、このマンションを買うことにしたことと関係があります。マンションを買って高津教会に通い続けることにしたのだから、洗礼を受けたいと思いました(他の理由もありますが省略します)。今から思えば、聖書のことをまだほとんどわかっていないのに、よく主牧の藤本先生が洗礼を授けて下さったものだと思いますが、私が本気で聖書の神様を信じようとしていることを感じ取って下さったのだと思いますから感謝しています。
 マンションの購入をあっさり決めたのは、セールスの人の話が上手かったこともあります。そして、献身する時のマンションの売却もあっさりと決めました。売却をあっさり決めたのも不動産屋さんの話が上手かったからです。2008年の春、献身に導かれていることを感じました。その場合にはマンションを売却しますから、いくらぐらいで売れるか知りたいと思いました。それで不動産屋さんにファックスで連絡したところ、すぐに人が来て、部屋の状態を見ました。不動産屋さんは、「状態が良いですね。これなら○○円で売れますよ」と言って、私が想像していたのよりも遥かに高い金額を提示してくれました。そして、すぐに売却の手続きに入るように私を促しました。私はとりあえず値段を知りたいだけだったので、手続きするつもりはなかったのですが、不動産屋さんに促されるうちに、それも良いかなと思って、売却することにしました。こうして私は退路を断って献身の道へと進みました。この私の決断に驚いたのは藤本先生のほうでした。なんでそうあっさりとマンションの売却を決めてしまったのと、あきれていました。それは不動産屋さんに促されたからでしたが、私はそうして迷いなく献身の道に進むことができましたから、それで良かったと思っています。このマンションを売却したのは2008年の7月1日で、その後、同じ年の9月にリーマンショックがあって不動産価格が下落しましたから、マンションを買って下さった方にはお気の毒でしたが、私にとってはリーマンショックの前に売却できて助かりました。

大雨で雨漏りする会堂の中で
 そして私はこのマンションの購入と売却の経験を通じて、自分が不動産屋さんの話に乗りやすいことも知りました。私個人の場合はそれで良くても教会の場合は事情が違います。ですから今回の会堂問題では、牧師の私自身が初めから不動産屋さんに相談することは考えていませんでした(クリスチャンの不動産屋さんなら別ですが)。誰か他の教会員の方が不動産屋さんと接触することはあっても私自身は最終段階においてしか会うつもりはありませんでした。それでネットや印刷物での物件情報は調べましたが、不動産屋さんには足を運びませんでした。ですから今回の物件で地主さんと直接話ができたことは良かったと思っています。
 神様はこのような私の経験と、大事なことほど迷わずに早く決断すべきという私の考え方を用いて下さったのだと感じています。もし今回の物件を見送っていたら、先週から今週に掛けての連日の大雨であちこち雨漏りがする会堂の中で、先が見えないことに私は暗然としていたことと思います。
 ただ、今回、少なからぬ方々が深い傷を負いましたから、これからはもっと慎重に事を運ばなければならないと思っています。

おわりに
 ノアの洪水の箇所に戻ります。創世記7章16節をお読みします。

7:16 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた

 主は、箱舟の戸を閉ざされました。これは創世記の時代の話です。しかし将来、主が再び戸を閉ざす時が来ます。それは主イエスが再臨する時です。その時までに教会とつながって救われていない者には天国の扉が閉じられます。
 その時までにできるだけ多くの方々が救われるよう、私たちは働かなければなりません。そのために、この教会が用いられるよう、ご一緒に働いて行きたいと思います。
 お祈りしましょう。
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主の栄光が現される時の動揺(2015.9.6 礼拝)

2015-09-07 02:48:57 | 礼拝メッセージ
2015年9月6日臨時教会総会礼拝メッセージ
『主の栄光が現される時の動揺』
【ヨハネ12:20~30/マルコ9:2~8】

はじめに
 先週、私は火曜日から金曜日までBTCの同窓会セミナーと、それに引き続いて行われた卒業7年以内の若手牧師の研修のために埼玉県のヌエック(国立女性教育会館)にいました。その間、婦人部の方々に植物の水遣りと郵便物がポストから溢れないように移動させることをお願いしていました。金曜日の夕方にこちらに戻って来て、郵便物が移動してありましたから、感謝いたします。一方、植物への水遣りの方は、こちらが大雨だったことから、ほとんど行う必要がなかったということです。

三日連続の大雨警報
 ヌエックでの滞在中、私の携帯には沼津市から大雨警報に関するメールが火曜・水曜・木曜の三日連続で送られて来ました。それで私は教会の2階が雨漏りで水浸しになっていないか、埼玉でずっと心配していました。火曜日の夜に大雨洪水警報が発令され、水曜の午前に洪水警報は解除されたものの大雨警報は継続中で、しかも市内の多くの箇所で停電があったと携帯メールで知らせて来ました。そして水曜の午後に大雨警報は解除されましたが、木曜日の夜にまた大雨・洪水警報が発令されたことを知らせるメールが来ました。
 私たちの教会の屋根は傾斜がほとんどない、ほぼ平らな構造になっているため、大雨警報が出るような強い雨が降ると屋根の上には一時的に水溜まりができます。屋根に何の補修も施していなければ水がきれいに流れてそんなに水が溜まることはないのですが、教会の屋根はほぼ全面にわたって補修がしてありますから、それが水の流れを悪くして、大雨が降ると、どうしても水が溜まるようになってしまっています。それで、補修した箇所にほんの少しでも隙間があるとそこから水が入ってしまって雨漏りが起きます。
 私は火曜日の午前中に教会を出るとき、雨漏りがよくある部屋の心配な箇所の下に洗面器を置いて出て来ました。以前、雨漏りが一番ひどかった時には、洗面器ではなくてバケツを置いたこともありましたが、屋根には丹念に補修を施していますから、今回はたとえ雨漏りがあったとしてもバケツではなくて洗面器で十分だろうと思っていました。しかし、それは留守中にまさか三日連続で大雨警報が出るほどの大雨が降るとは予想していなかったからです。それで私は埼玉のヌエックにいる間、雨漏りした水が洗面器から溢れ出して2階が水浸しになっていないか、気が気ではありませんでした。水浸しになっている筈という確信があれば教会のどなたかにお願いして中に入って様子を見ていただいたと思いますが、いちおう補修はしてありましたし、洗面器を置いて出て来ましたから、水浸しにはなっていないかもしれず、お願いすることはしませんでした。それでも気掛かりで仕方がありませんでした。
 おとといの金曜日の午後、埼玉から教会に戻る時は本当に憂鬱でした。いつもなら教会に近付けば、「ああ戻って来た」という安堵感に包まれますが、今回は教会に戻ったら悲惨なことになっているかもしれない不安感で一杯でしたから、とても憂鬱でした。それで、もし悲惨なことになっていてもショックを受けないように最悪の事態を想定して教会に戻りました。そして、戻って来た時に見た2階の光景はというと、洗面器に水が溜まっていたものの、洗面器から水が溢れ出すほどではありませんでした。それで私は安堵しましたが、天気予報を調べたら、今週はまた雨が降ることになっていましたから、昨日の土曜日は備え日ではありましたが、また屋根に上がって雨漏りをした箇所にさらに頑強な防水対策を行いました。

イエスさまに助けていただく
 埼玉にいる間の私の心境は、大暴風の湖の上で沈みそうな小舟の上でおろおろしているペテロたちのような心境でした。それは大雨という自然災害におろおろするのと同時に、今回の会堂問題で教会が一つになれずにバラバラになりそうなことに対する動揺です。今回、これらのことに私自身もイエスさまの弟子たちのように大変に動揺しているわけですが、一方で、この大変な時期とBTCの同窓会セミナーが行われた時期が不思議な偶然で一致したことから、同窓の先生方に教会の危機にどのように臨むべきかについての助言をいただいたり祈ったりしていただくことができて、大いに励まされました。そのような中で私は今日の聖書箇所を変更することにしました。
 埼玉に出発する前、私はエペソ書の「からだは一つ、御霊は一つです」(エペソ4:4)、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:5)の箇所と使徒15章のエルサレム会議で弟子たちが一つになった箇所を開いて、「私たちも一つになりましょう」と訴えることにしていました。しかし、埼玉で同窓の先生方と交わっている間に、これらの箇所では私たちは一つになれないであろうと思いました。と言うのは、私たちの聖書への理解度は様々ですから、霊的なことや使徒たちについての理解度も様々です。霊的なことや使徒たちのことを深く理解している方々となら一つになれるかもしれませんが、全員が十分に理解できていない場合、「一つ」という言葉が上滑りしてしまって一つになれないかもしれないと思いました。それで、今のように教会が嵐のような状態になっている時には、やはりイエスさまに助けていただくしかないと思い、福音書からメッセージを取り次がせていただくことにしました。そうして若手牧師研修会の席では、同窓の先生方に、福音書のどこを開くべきか示されるようにお祈りをお願いしました。そして木曜日の夜には、研修会が終わった後で複数の先生方がヌエックのホテルの私の部屋に来て一緒に祈って下さったので、大変に励まされました。そうして祈っていただいた夜の翌朝である金曜日の朝に示された箇所が、きょうの聖書交読と聖書朗読で開いたヨハネ12章とマルコ9章です。

おろおろする私たち
 これから短く、この箇所をご一緒に見た後で、臨時教会総会を開きますが、きょうはもう物件に関する細かい説明は致しません。それらは、これまでに何度も話して来ました。その代わり、皆さんに、いま嵐の中にある教会がどちらに向かって行くべきか、話し合っていただきたいと思います。私の個人的な意見はこれまでに繰り返し話して来ましたから、きょうは私は、なるべく進行役に徹して、皆さんに話し合っていただき、そうして最後には皆さんに投票していただいて、今回の物件を購入すべきかすべきでないかを皆さんで決めていただきたいと思います。賛成・反対のどちらの結果が出ようとも、教会の皆さんが出した結果ですから、私は受け入れます。
 今回の物件を購入するにしても、しないにしても、いずれにしても私たちはおろおろすることになるでしょう。今も私たちは既におろおろしていますが、賛成の結果が出ても、反対の結果が出ても、どちらにしても私たちは今よりも一層おろおろすることになります。賛成の結果おろおろするのか、反対の結果おろおろするのか、そのどちらの方に向かって行くのか、皆さんに決めていただきたいと思います。
 いったい何故、私たちはこんなにも、おろおろしなければならなくなったのでしょうか。会堂問題さえ無ければ、私たちは平穏無事に教会生活を今まで通りに送って行くことができた筈です。それなのに会堂の老朽化がもはや「待ったなし」の状態になって私たちが新たな一歩を踏み出さざるを得なくなったために、私たちはおろおろしなければならなくなりました。いったい何故私たちがこんなにもおろおろしなければならないのか、それは会堂建設が「主の栄光が現される場」であるからです。

栄光を現された主
 マルコ9章を開いて下さい。この箇所は、今年の元旦礼拝でもご一緒に開いた箇所です。元旦礼拝では7節に注目して、この7節が今年の私たちの教会の聖句になりました。ご一緒に読みましょう。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

 さてしかし、きょうは今の7節よりも前の、2節から6節までに注目したいと思います。2節と3節に、主イエスが栄光を現されたことが書かれています。そして5節と6節にそのことでペテロたちがおろおろした様子が書かれています。このマルコ9章を見る前に、聖書交読で開いたヨハネ12章をもう一度見たいと思います(新約聖書p.205)。ヨハネ12章の27節から29節までを交代で読みましょう。

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。

 28節で天の御父は「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と仰せられました。主は32年前に私たちの教会にこの今沢の会堂を与えて下さるという形で栄光を現して下さいました。そして今、主は「もう一度栄光を現そう」とおっしゃって下さっています。その、主の栄光が現される場所が今回の物件の場所なのか、或いはもっと別の土地にあるかもしれないのか、私の考えはこれまでに述べて来ましたから、きょうは皆さんに考えていただきたいと思います。いずれにしても主は「もう一度栄光を現そう」とおっしゃって下さっています。この、主が栄光を現そうとして下さっていることで、今の私たちはおろおろしています。29節にも、その場にいた人々が動揺しておろおろした様子が描かれていますね。29節、

12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。

 このように、主が栄光を現そうとされる時、小さな存在である私たちは、どうしてもおろおろすることになります。マルコ9章に戻りましょう。

 2節と3節を交代で読みましょう。

9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

 このようにして主イエスが栄光を現されました。そして4節にあるようにエリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていました。続いて5節と6節を交代で読みましょう。

9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。

おわりに
 このペテロのように、主が栄光を現される時には、私たちはどうしてもおろおろすることになります。今回の物件の購入が承認されても否決されても、いずれにしても私たちはおろおろすることになります。しかし、イエスさまはいつも私たちと共にいて下さいますから、おろおろする私たちを励まして下さいます。
 このことを覚えながら、これから臨時教会総会に臨みたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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"Spiritual Jesus"(霊的イエス)の更新状況

2015-09-01 08:42:54 | 折々のつぶやき
 9月に入りました。
 今朝、"Spiritual Jesus"(霊的イエス)(http://www.spiritual-jesus.com/)のウェブサイトに"John 9"(ヨハネ9章)のページを新たに加えました。
 あと追加を予定しているページは、"John 10"、"John 11"、"John 12"、"John 13-17"、"John 18-19"、"John 20"と"John 21"です。これらのページの追加が一段落したら日本語サイトの作成に取り掛かるつもりです。今月(9月)の後半には日本語サイトに取り掛かれると良いなと思っていますが、今週は他用で英語サイトの更新も滞ると思いますから、今月中に日本語サイトに取り掛かるのは、もしかしたら厳しいかもしれません。しかし何とかして、できるだけ早く日本語サイトの作成も始めたいと思います。
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