2015年9月27日礼拝メッセージ
『神の義を知り、礼拝の質を高めよう』
【ローマ1:11~17】
はじめに
先週の礼拝からローマ人への手紙の学びを始めました。先週のメッセージのタイトルは『平和に必要な御霊の霊的理解』としました。平和を実現するには、私たちは御霊のことをもっと霊的に理解する必要がある、そのためにローマ人への手紙をこれから学んで行くことにしたい、というような話をしました。先週の説教を聞けば御霊のことが霊的に理解できるようになるというわけではなく、これからローマ人への手紙を学んで行く中で理解できるようになって行きましょうという話をしました。
きょうのメッセージのタイトルも同様のこととして受け留めていただきたいと思います。きょうのタイトルは『神の義を知り、礼拝の質を高めよう』としましたが、きょうのメッセージを聞けば神の義のことがわかって礼拝の質が高まるというわけではありません。これからローマ人への手紙を学んで行くことで神の義の奥深さを学び、そのことで礼拝の質が高めて行きましょうという話です。先週のメッセージと今週のメッセージを一くくりにして言うなら、ローマ人への手紙を学ぶことで御霊への霊的な理解が深まるなら神の義への理解も深まり、そのことによって礼拝の質も高まり、平和のための働きにも貢献できるようになるでしょう、ということです。
これは実に壮大な学びです。この学びをどのように運んで行くか、まだ定まってはいませんが、単にローマ人への手紙を少しずつ順番に学ぶのでなく、聖書のあちこちを見ながら、ということになると思います。特に御霊の学びのためにはヨハネの福音書は大変に役に立ちますから、ヨハネの福音書の引用も随所で行うことになると思いますし、旧約聖書も随時開くだろうと思います。そうして私たちはローマ人への手紙を学びながら広く聖書全体を学び、そうして御霊への理解を深め、礼拝の質を高めることができるようになればと願っています。
分裂があったローマの教会
さて、きょうのメッセージの前半では、先週のメッセージについて簡単に振り返っておきたいと思います。先週は体調を崩したり様々なご都合があったりで多くの方々が欠席されましたから、先週の復習を先ずしておくことにします。
先週は先ず、最近私が示されているローマ14:19から話を始めました。
14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
この平和に役立つこととお互いの霊的成長に役立つこととを追い求めることとは、今の私たちの教会には、とても必要なことだと思いますし、また今の世界にとっても日本にとっても必要なことであると話しました。
そして、このローマ人への手紙が書かれた時、ローマの教会には分裂があって教会の中には平和が無かったことを説明しました。この時、ローマ教会は食べ物のことで分裂していました。たとえば、14章の2節と3節でパウロは次のように書いています。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
ここから、食べる人と食べない人との間で分裂があったことがわかります。食べる人というのは主に異邦人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守る必要はないと考える人々のことです。そして食べない人というのは主にユダヤ人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守っている人々のことです。
ローマの教会ではこのようにユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、食べ物の問題のことで争いがあって平和が無かったようです。
教会の一致に欠かせない霊的な成長
ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとは、同じローマの教会に集っていても、育った環境があまりにも違い過ぎます。そのようにあまりにも違う両者が一つになるには御霊によって一つになるしか方法は無いでしょう。ですから霊的成長が必要なわけです。御霊によって一つになるには霊的な成長が欠かせません。
霊的成長とはわかりやすく言えば、イエスさまに似た者にされて行くことと言っても良いかもしれません。イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とおっしゃいました。私たちがイエス・キリストを信じるなら私たちには聖霊が注がれます。そして、その聖霊に私たちの心を明け渡すなら、私たちは聖霊の働きによって次第にイエスさまに似た者にされて行きます。
この時、自分の心をどれだけ聖霊に明け渡すことができるかで、霊的成長の度合は変わって来るでしょう。自分の心を聖霊に明け渡すことがなかなかできないでいるなら霊的成長はなかなか見られないでしょうし、もし全面的に明け渡すことができるなら急速に霊的な成長を遂げることができるでしょう。
そして先週は心を明け渡した者の例として、旧約の預言者エリシャの時代のナアマンの話をしました(Ⅱ列王記5章)。
さて、ここからは先週は話さなかったことを付け加えて、段々と今週の話に入って行くことにしたいと思います。ナアマンの話を続けます。
列王記にはツァラアトに冒されていたナアマンの体が幼子のようにきよくなったとありますが、心までがきよめられたとは直接的には書いてありません。しかし体がきよめられた後のナアマンの言動を見るなら心もきよめられたことがわかります。
では、ナアマンの心がきよめられたのは体がきよめられたからでしょうか。それとも、心がきよめられたから、体がきよめられたのでしょうか。私は後者だと考えます。ナアマンが聖霊に心を明け渡したからこそ、その信仰によってナアマンの病気が治されたのだと考えます。イエスさまの時代には長血を患っていた女が、イエスさまの着物に触りさえすれば癒されるだろうという信仰が、彼女の病気を治しました(マルコ5:25-34他)。ナアマンも、ヨルダン川に七度身を浸せば病気が治るというエリシャのことばを信じた、その信仰がナアマンの病気を治したと見るべきでしょう。ただしナアマンの場合は、初めはそのことを信じないで怒って帰ろうとしました。しかし、部下の言うことを聞いて川に入ることにしました。だからこそ、七度も川に入る必要があったのだろうと私は思います。もしナアマンが初めから強い信仰を持っていたのなら、一回川に入れば病気は治ったことでしょう。長血の女の場合は、そういう強い信仰を持っていましたから、イエスさまの着物に一回触れただけで病気が治りました。何度も着物に触れる必要はありませんでした。しかしナアマンの場合は、初めはほとんど信じていませんでしたから、何度も川に入る必要がありました。
一回目で霊的な何かを感じる教会
教会も同じではないでしょうか。教会に一度も行ったことがない人の場合、教会に何かを期待して行く人はそれほど多くはないでしょう。たいていの場合は、誰かに誘われたから仕方なしに来たとか、ちょっとした気まぐれで入ってみようと思った、そんな程度の思いで教会を訪れる場合が多いのではないでしょうか。しかし、教会の会堂の中に身を置いたことで何かを感じて、また来てみようという気になり、回を重ねるうちに次第に信仰に目覚めて行く、そんな風になっているのではないでしょうか。
ナアマンの場合は、最初は部下に説得されたので仕方なしに入ったのでした。しかし、一回目に川に入った時に何かを感じたのだと思います。ナアマンは軍人としてのプライドが高く、エリシャの家の前に戦車で乗り付けるなど、軍人としての自分に強いこだわりを持っていました。そんなナアマンが嫌々ながらも一回目に川に入った時、聖霊の語り掛けが微かに心に届くようになったのだと思います。もちろんナアマンの心はプライドで厚く塗り固められていましたから、聖霊の語り掛けが心に届いたといっても、ほんのちょっと届いただけでしょう。しかし、一回目でほんの少しだけれども何かを感じたナアマンは、もう一回川に入ることにして、二回目には一回目よりも強く何かを感じ、そうして七度それを繰り返すことで心を覆っていた厚い殻が取り去られて聖霊に心を明け渡すことができて行ったのでしょう。
私たちの教会も、教会を初めて訪れた方が一回目に霊的な何かを感じる、そんな教会にすることができたらと思います。私たちが建設する新しい礼拝堂はこれから設計を始めるのですから、小さくても、そんな礼拝堂を建てることができたらと思います。一回訪れたら、またもう一回訪れたくなる。そして、二回、三回、四回と繰り返し訪れたくなる、そんな礼拝堂にできたらと思います。そうして何度か教会に通うことで、間もなく信仰の芽が土から顔を出し、成長が始まります。
私たちにも必要な霊的な成長
さて既に信仰を持っている私たちも、信仰の成長が必要です。特に霊的な成長が必要です。ですからローマ人への手紙の学びを通して、霊的に成長することができたらと願っています。先週のメッセージの中で、ローマの教会では一時的にユダヤ人クリスチャンがいなくなって異邦人クリスチャンだけになっていた時期があったという話をしました。ローマの皇帝のクラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、プリスカとアクラを始めとするユダヤ人クリスチャンたちはローマから離れなければならなくなりました。そうしてユダヤ人クリスチャンがローマの教会からいなくなったことで、旧約聖書の学びが疎かになって異邦人クリスチャンの霊的な成長が止まってしまっていたのではないかという話を先週しました。この霊的に十分成長していないローマの教会員に、パウロは霊的な賜物を与えたいと願っていました。
先週の聖書箇所はローマ1章の1節から11節まででした。そして、きょうはまたもう一度11節をご一緒にお読みしたいと思って聖書箇所を11節からとしました。ローマ1章11節を、ご一緒にお読みしましょう。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
パウロはローマの教会の教会員に霊的に成長してもらいたいと強く願っていました。それで11節のように書きましたが、続く12節では、こんな風にも書いています。12節、
1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
パウロは共に励ましを受けたいと書きました。私は、これはパウロがだいぶ気を遣って、こんな風に書いたのではないかなと思います。あまり上から目線で、あなた方は霊的に成長していないから、もっと成長しなければダメですなどと言うと、反発を招いてしまうかもしれません。特にローマの教会はパウロが始めた教会ではありませんから、いきなり上から目線ではパウロの勧めも素直には聞いてもらえないでしょう。パウロは、そこら辺のところも良く心得ていたのだと思います。それはパウロがきよめられていたからなのでしょうね。パウロは、12章以降のお勧めを、自然と実行できていたのでしょう。
高いレベルの要求
ここで、12章を見ておきたいと思います。きょうの聖書交読でご一緒に読みましたが、きょうの学びで12章もご一緒に読みたいと思いましたので、予め交読して、準備をしておいていただきました。12章の10節を、ご一緒に読みましょう。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。先ほどの1章でパウロは、上から目線で言い放しにしておくことなく、「共に励ましを受けたい」と書きました。それはパウロが、この12章10節の「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」を率先して実行できていたからなのでしょう。パウロは優れた霊性を持ち、聖霊で満たされていましたから心もきよめられていました。
そのパウロが12章1節と2節で勧めています。12章の1節と2節を交代で読みましょう。
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
ここでパウロはローマの教会の人々に、そして私たちに、随分と高いレベルの霊性を要求しています。ここだけを取り出して読むと、およそ無理なことではないかと思われます。例えば、1節の「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ということなど、このように出来たら良いなとは思いますが、なかなかそこまではできないという気がします。しかし、それは、この一節だけを取り出して読むから、そう感じるのであって、このローマ人への手紙の全体を深く理解するならば当然そのようにならなくてはならない、ということでパウロは、このように書いているのですね。
神の義を知り、礼拝の質を高めよう
ここで、ローマ人への手紙全体の非常に大雑把な構成を説明しておきたいと思います(週報p.3)。人によって多少見方が違うかもしれませんが、大雑把には次のような構成になっています。
Ⅰ.導入(1:1~17)、Ⅱ.教理(1:18~8:39)、Ⅲ.イスラエル問題(9:1~11:36)、Ⅳ.適用(12:1~15:33)、Ⅴ.挨拶(16:1~27)
ここでⅢのイスラエル問題が挿入されていることをどう理解するかは、なかなか難しいと思うのですが、これをちょっと横に置いておいて1章から8章までの教理の説明と12章からの適用の流れを考えるなら、12章1節のパウロの高いレベルの霊性の要求は、1章から8章までに学びを積み上げて来た上で書いていることです。この1章から8章までの中で御霊のことが一番多く書かれているのが8章です。やはり御霊のことを霊的に理解するのは大変に難しいことですから、1章から7章までで学びを積み上げて来て、そうしてようやく8章で御霊の説明をして、それから12章のお勧めがあることになります。
また1章から8章までの間で私たちが理解しなければならないことは1章の16節と17節にまとめられていると言われています。この16節と17節を理解するために8章までの説明があり、それを理解するなら自ずと12章以降のような高いレベルの霊的な信仰生活を送ることができるようになる、というわけです。1章の16節と17節を交代で読みましょう。
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
この16節と17節の中でも特に重要とされるのは17節にある「神の義」です。パウロは「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」と書いています。きょうはもう時間がありませんから、この「神の義」についてご一緒に学ぶのは次回以降にしますが、簡単に予告しておくと、この「神の義」の「義」は単に正しいとか正しくないとかを越えた、もっと広いことを意味するということが言われています。
単に正しいとか正しくないというだけなら、ここで言う「神の義」の神は単なる裁判官のような役割を担っているだけになります。神様はもちろん裁判官という一面も持ち合わせますが、もっともっと広く大きなお方です。この「神の義」の広さ深さを学ぶことで、私たちは礼拝の霊的な質も高めて行くことができるだろうと私は期待しています。
私たちは裁判所の裁判官を尊敬することはあっても礼拝して賛美することはしないでしょう。私たちは神様が賛美すべき方だと知っていますから、賛美して礼拝を捧げます。しかし、うっかりすると、そのことを忘れて礼拝は惰性的になり、毎週同じような礼拝を習慣として捧げているだけになってしまう恐れがあります。そうではなくて、神様は賛美すべきお方であるということの理解を、「神の義」についての学びを通じて深めることができるなら、私たちが捧げる礼拝の霊的な質も、もっと高まって行くことでしょう。
これは霊的なことですから、頭で理解できるものではありません。ですからこれは、私たちが毎週捧げる礼拝の霊的な質を、私たちが高めて行こうとする不断の努力によって理解できるようになって行くのだろうと思います。私たちが「神の義」を知ることで私たちの礼拝の霊的な質が高まり、礼拝の霊的な質が高まることによってさらに「神の義」を深く知ることができるようになり、そのことでさらに礼拝の霊的な質が高まり、というような好循環が生まれるのだと思います。
おわりに
幸いにして私たちは今、新しい礼拝堂を建てるチャンスが与えられています。霊的に良い雰囲気を持つ礼拝堂を建設して礼拝を捧げるなら、私たちの霊性はますます高められることでしょう。そのための準備として私たちは、今のこの会堂の中で最大限に霊的な礼拝を捧げることができるようになりたいと思います。そうして私たちの霊性が高められて行くなら、この教会に新しく来て下さった方々も霊的な何かを感じて、またこの教会に来ようと思って下さることでしょう。
神の義については、次回以降で学ぶことにしますから、きょう最後にご一緒にお読みするのは12章の1節にしたいと思います。ご一緒に読んできょうのメッセージを閉じます。12章1節、
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
お祈りいたしましょう。
『神の義を知り、礼拝の質を高めよう』
【ローマ1:11~17】
はじめに
先週の礼拝からローマ人への手紙の学びを始めました。先週のメッセージのタイトルは『平和に必要な御霊の霊的理解』としました。平和を実現するには、私たちは御霊のことをもっと霊的に理解する必要がある、そのためにローマ人への手紙をこれから学んで行くことにしたい、というような話をしました。先週の説教を聞けば御霊のことが霊的に理解できるようになるというわけではなく、これからローマ人への手紙を学んで行く中で理解できるようになって行きましょうという話をしました。
きょうのメッセージのタイトルも同様のこととして受け留めていただきたいと思います。きょうのタイトルは『神の義を知り、礼拝の質を高めよう』としましたが、きょうのメッセージを聞けば神の義のことがわかって礼拝の質が高まるというわけではありません。これからローマ人への手紙を学んで行くことで神の義の奥深さを学び、そのことで礼拝の質が高めて行きましょうという話です。先週のメッセージと今週のメッセージを一くくりにして言うなら、ローマ人への手紙を学ぶことで御霊への霊的な理解が深まるなら神の義への理解も深まり、そのことによって礼拝の質も高まり、平和のための働きにも貢献できるようになるでしょう、ということです。
これは実に壮大な学びです。この学びをどのように運んで行くか、まだ定まってはいませんが、単にローマ人への手紙を少しずつ順番に学ぶのでなく、聖書のあちこちを見ながら、ということになると思います。特に御霊の学びのためにはヨハネの福音書は大変に役に立ちますから、ヨハネの福音書の引用も随所で行うことになると思いますし、旧約聖書も随時開くだろうと思います。そうして私たちはローマ人への手紙を学びながら広く聖書全体を学び、そうして御霊への理解を深め、礼拝の質を高めることができるようになればと願っています。
分裂があったローマの教会
さて、きょうのメッセージの前半では、先週のメッセージについて簡単に振り返っておきたいと思います。先週は体調を崩したり様々なご都合があったりで多くの方々が欠席されましたから、先週の復習を先ずしておくことにします。
先週は先ず、最近私が示されているローマ14:19から話を始めました。
14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
この平和に役立つこととお互いの霊的成長に役立つこととを追い求めることとは、今の私たちの教会には、とても必要なことだと思いますし、また今の世界にとっても日本にとっても必要なことであると話しました。
そして、このローマ人への手紙が書かれた時、ローマの教会には分裂があって教会の中には平和が無かったことを説明しました。この時、ローマ教会は食べ物のことで分裂していました。たとえば、14章の2節と3節でパウロは次のように書いています。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
ここから、食べる人と食べない人との間で分裂があったことがわかります。食べる人というのは主に異邦人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守る必要はないと考える人々のことです。そして食べない人というのは主にユダヤ人のクリスチャンのことであり、旧約聖書の律法にある食物規定を守っている人々のことです。
ローマの教会ではこのようにユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間で、食べ物の問題のことで争いがあって平和が無かったようです。
教会の一致に欠かせない霊的な成長
ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとは、同じローマの教会に集っていても、育った環境があまりにも違い過ぎます。そのようにあまりにも違う両者が一つになるには御霊によって一つになるしか方法は無いでしょう。ですから霊的成長が必要なわけです。御霊によって一つになるには霊的な成長が欠かせません。
霊的成長とはわかりやすく言えば、イエスさまに似た者にされて行くことと言っても良いかもしれません。イエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とおっしゃいました。私たちがイエス・キリストを信じるなら私たちには聖霊が注がれます。そして、その聖霊に私たちの心を明け渡すなら、私たちは聖霊の働きによって次第にイエスさまに似た者にされて行きます。
この時、自分の心をどれだけ聖霊に明け渡すことができるかで、霊的成長の度合は変わって来るでしょう。自分の心を聖霊に明け渡すことがなかなかできないでいるなら霊的成長はなかなか見られないでしょうし、もし全面的に明け渡すことができるなら急速に霊的な成長を遂げることができるでしょう。
そして先週は心を明け渡した者の例として、旧約の預言者エリシャの時代のナアマンの話をしました(Ⅱ列王記5章)。
さて、ここからは先週は話さなかったことを付け加えて、段々と今週の話に入って行くことにしたいと思います。ナアマンの話を続けます。
列王記にはツァラアトに冒されていたナアマンの体が幼子のようにきよくなったとありますが、心までがきよめられたとは直接的には書いてありません。しかし体がきよめられた後のナアマンの言動を見るなら心もきよめられたことがわかります。
では、ナアマンの心がきよめられたのは体がきよめられたからでしょうか。それとも、心がきよめられたから、体がきよめられたのでしょうか。私は後者だと考えます。ナアマンが聖霊に心を明け渡したからこそ、その信仰によってナアマンの病気が治されたのだと考えます。イエスさまの時代には長血を患っていた女が、イエスさまの着物に触りさえすれば癒されるだろうという信仰が、彼女の病気を治しました(マルコ5:25-34他)。ナアマンも、ヨルダン川に七度身を浸せば病気が治るというエリシャのことばを信じた、その信仰がナアマンの病気を治したと見るべきでしょう。ただしナアマンの場合は、初めはそのことを信じないで怒って帰ろうとしました。しかし、部下の言うことを聞いて川に入ることにしました。だからこそ、七度も川に入る必要があったのだろうと私は思います。もしナアマンが初めから強い信仰を持っていたのなら、一回川に入れば病気は治ったことでしょう。長血の女の場合は、そういう強い信仰を持っていましたから、イエスさまの着物に一回触れただけで病気が治りました。何度も着物に触れる必要はありませんでした。しかしナアマンの場合は、初めはほとんど信じていませんでしたから、何度も川に入る必要がありました。
一回目で霊的な何かを感じる教会
教会も同じではないでしょうか。教会に一度も行ったことがない人の場合、教会に何かを期待して行く人はそれほど多くはないでしょう。たいていの場合は、誰かに誘われたから仕方なしに来たとか、ちょっとした気まぐれで入ってみようと思った、そんな程度の思いで教会を訪れる場合が多いのではないでしょうか。しかし、教会の会堂の中に身を置いたことで何かを感じて、また来てみようという気になり、回を重ねるうちに次第に信仰に目覚めて行く、そんな風になっているのではないでしょうか。
ナアマンの場合は、最初は部下に説得されたので仕方なしに入ったのでした。しかし、一回目に川に入った時に何かを感じたのだと思います。ナアマンは軍人としてのプライドが高く、エリシャの家の前に戦車で乗り付けるなど、軍人としての自分に強いこだわりを持っていました。そんなナアマンが嫌々ながらも一回目に川に入った時、聖霊の語り掛けが微かに心に届くようになったのだと思います。もちろんナアマンの心はプライドで厚く塗り固められていましたから、聖霊の語り掛けが心に届いたといっても、ほんのちょっと届いただけでしょう。しかし、一回目でほんの少しだけれども何かを感じたナアマンは、もう一回川に入ることにして、二回目には一回目よりも強く何かを感じ、そうして七度それを繰り返すことで心を覆っていた厚い殻が取り去られて聖霊に心を明け渡すことができて行ったのでしょう。
私たちの教会も、教会を初めて訪れた方が一回目に霊的な何かを感じる、そんな教会にすることができたらと思います。私たちが建設する新しい礼拝堂はこれから設計を始めるのですから、小さくても、そんな礼拝堂を建てることができたらと思います。一回訪れたら、またもう一回訪れたくなる。そして、二回、三回、四回と繰り返し訪れたくなる、そんな礼拝堂にできたらと思います。そうして何度か教会に通うことで、間もなく信仰の芽が土から顔を出し、成長が始まります。
私たちにも必要な霊的な成長
さて既に信仰を持っている私たちも、信仰の成長が必要です。特に霊的な成長が必要です。ですからローマ人への手紙の学びを通して、霊的に成長することができたらと願っています。先週のメッセージの中で、ローマの教会では一時的にユダヤ人クリスチャンがいなくなって異邦人クリスチャンだけになっていた時期があったという話をしました。ローマの皇帝のクラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、プリスカとアクラを始めとするユダヤ人クリスチャンたちはローマから離れなければならなくなりました。そうしてユダヤ人クリスチャンがローマの教会からいなくなったことで、旧約聖書の学びが疎かになって異邦人クリスチャンの霊的な成長が止まってしまっていたのではないかという話を先週しました。この霊的に十分成長していないローマの教会員に、パウロは霊的な賜物を与えたいと願っていました。
先週の聖書箇所はローマ1章の1節から11節まででした。そして、きょうはまたもう一度11節をご一緒にお読みしたいと思って聖書箇所を11節からとしました。ローマ1章11節を、ご一緒にお読みしましょう。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
パウロはローマの教会の教会員に霊的に成長してもらいたいと強く願っていました。それで11節のように書きましたが、続く12節では、こんな風にも書いています。12節、
1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
パウロは共に励ましを受けたいと書きました。私は、これはパウロがだいぶ気を遣って、こんな風に書いたのではないかなと思います。あまり上から目線で、あなた方は霊的に成長していないから、もっと成長しなければダメですなどと言うと、反発を招いてしまうかもしれません。特にローマの教会はパウロが始めた教会ではありませんから、いきなり上から目線ではパウロの勧めも素直には聞いてもらえないでしょう。パウロは、そこら辺のところも良く心得ていたのだと思います。それはパウロがきよめられていたからなのでしょうね。パウロは、12章以降のお勧めを、自然と実行できていたのでしょう。
高いレベルの要求
ここで、12章を見ておきたいと思います。きょうの聖書交読でご一緒に読みましたが、きょうの学びで12章もご一緒に読みたいと思いましたので、予め交読して、準備をしておいていただきました。12章の10節を、ご一緒に読みましょう。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。先ほどの1章でパウロは、上から目線で言い放しにしておくことなく、「共に励ましを受けたい」と書きました。それはパウロが、この12章10節の「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」を率先して実行できていたからなのでしょう。パウロは優れた霊性を持ち、聖霊で満たされていましたから心もきよめられていました。
そのパウロが12章1節と2節で勧めています。12章の1節と2節を交代で読みましょう。
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
ここでパウロはローマの教会の人々に、そして私たちに、随分と高いレベルの霊性を要求しています。ここだけを取り出して読むと、およそ無理なことではないかと思われます。例えば、1節の「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」ということなど、このように出来たら良いなとは思いますが、なかなかそこまではできないという気がします。しかし、それは、この一節だけを取り出して読むから、そう感じるのであって、このローマ人への手紙の全体を深く理解するならば当然そのようにならなくてはならない、ということでパウロは、このように書いているのですね。
神の義を知り、礼拝の質を高めよう
ここで、ローマ人への手紙全体の非常に大雑把な構成を説明しておきたいと思います(週報p.3)。人によって多少見方が違うかもしれませんが、大雑把には次のような構成になっています。
Ⅰ.導入(1:1~17)、Ⅱ.教理(1:18~8:39)、Ⅲ.イスラエル問題(9:1~11:36)、Ⅳ.適用(12:1~15:33)、Ⅴ.挨拶(16:1~27)
ここでⅢのイスラエル問題が挿入されていることをどう理解するかは、なかなか難しいと思うのですが、これをちょっと横に置いておいて1章から8章までの教理の説明と12章からの適用の流れを考えるなら、12章1節のパウロの高いレベルの霊性の要求は、1章から8章までに学びを積み上げて来た上で書いていることです。この1章から8章までの中で御霊のことが一番多く書かれているのが8章です。やはり御霊のことを霊的に理解するのは大変に難しいことですから、1章から7章までで学びを積み上げて来て、そうしてようやく8章で御霊の説明をして、それから12章のお勧めがあることになります。
また1章から8章までの間で私たちが理解しなければならないことは1章の16節と17節にまとめられていると言われています。この16節と17節を理解するために8章までの説明があり、それを理解するなら自ずと12章以降のような高いレベルの霊的な信仰生活を送ることができるようになる、というわけです。1章の16節と17節を交代で読みましょう。
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
この16節と17節の中でも特に重要とされるのは17節にある「神の義」です。パウロは「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」と書いています。きょうはもう時間がありませんから、この「神の義」についてご一緒に学ぶのは次回以降にしますが、簡単に予告しておくと、この「神の義」の「義」は単に正しいとか正しくないとかを越えた、もっと広いことを意味するということが言われています。
単に正しいとか正しくないというだけなら、ここで言う「神の義」の神は単なる裁判官のような役割を担っているだけになります。神様はもちろん裁判官という一面も持ち合わせますが、もっともっと広く大きなお方です。この「神の義」の広さ深さを学ぶことで、私たちは礼拝の霊的な質も高めて行くことができるだろうと私は期待しています。
私たちは裁判所の裁判官を尊敬することはあっても礼拝して賛美することはしないでしょう。私たちは神様が賛美すべき方だと知っていますから、賛美して礼拝を捧げます。しかし、うっかりすると、そのことを忘れて礼拝は惰性的になり、毎週同じような礼拝を習慣として捧げているだけになってしまう恐れがあります。そうではなくて、神様は賛美すべきお方であるということの理解を、「神の義」についての学びを通じて深めることができるなら、私たちが捧げる礼拝の霊的な質も、もっと高まって行くことでしょう。
これは霊的なことですから、頭で理解できるものではありません。ですからこれは、私たちが毎週捧げる礼拝の霊的な質を、私たちが高めて行こうとする不断の努力によって理解できるようになって行くのだろうと思います。私たちが「神の義」を知ることで私たちの礼拝の霊的な質が高まり、礼拝の霊的な質が高まることによってさらに「神の義」を深く知ることができるようになり、そのことでさらに礼拝の霊的な質が高まり、というような好循環が生まれるのだと思います。
おわりに
幸いにして私たちは今、新しい礼拝堂を建てるチャンスが与えられています。霊的に良い雰囲気を持つ礼拝堂を建設して礼拝を捧げるなら、私たちの霊性はますます高められることでしょう。そのための準備として私たちは、今のこの会堂の中で最大限に霊的な礼拝を捧げることができるようになりたいと思います。そうして私たちの霊性が高められて行くなら、この教会に新しく来て下さった方々も霊的な何かを感じて、またこの教会に来ようと思って下さることでしょう。
神の義については、次回以降で学ぶことにしますから、きょう最後にご一緒にお読みするのは12章の1節にしたいと思います。ご一緒に読んできょうのメッセージを閉じます。12章1節、
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
お祈りいたしましょう。