平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

今、この世を支配する者を追い出す(2013.12.29 年末感謝礼拝)

2013-12-30 05:28:19 | 礼拝メッセージ
2013年12月29日年末感謝礼拝メッセージ
『今、この世を支配する者を追い出す』
【ヨハネ12:27~33】

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。
12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

はじめに
 きょうの礼拝は年末感謝礼拝です。いよいよ2013年の最後の礼拝となりました。欠けだらけの私の奉仕を皆さんが補い、支えて下さったことに心より感謝いたします。手漕ぎのボートに例えるなら、全員がオールを持って、ここまで漕いで来て、この年末感謝礼拝に辿り着くことができたと感じています。それは、もちろん私たちの主イエス・キリストが私たちに力を与えて下さったからこそ、できたことです。きょうは、このことを神様に心から感謝したく思います。お祈りいたしましょう。

「ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
 主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。」(詩篇149:1,4)
(祈り)

 きょうのメッセージのタイトルは『今、この世を支配する者を追い出す』で、中心となる聖句は12章31節の二つ目の文の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」です。「この世を支配する者」とは悪魔のことです。悪魔は様々な手を使って私たちが神への信仰を持たないようにします。多くの人々は、この悪魔の働きに妨げられて信仰を持つに至りません。それでも、幸いにも信仰を持つことができた者もいます。悪魔は、そのように信仰を持つに至った者に対しても執拗に攻撃を続けて、信仰から引き離そうとします。悪魔は、様々な汚い者を私たちの心に注入します。それらの例は、先週の礼拝でも言いましたが、イエス・キリストがマルコの福音書の中で言っているようなことですね。イエス・キリストは次のように言いました(マルコ7:20-23)。

7:20 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 悪魔はこれらの汚いものを人の心の中に注入して、人が神の方を向くことを妨げます。まだ信仰を持っていない人は、それゆえに、なかなか神の存在を信じることができませんし、神を信じた人でも、これらのものが心の中を占拠するなら再び神が見えなくなって、神から離れて行きます。

創り主を信じることを妨げる悪魔
 悪魔はさらに、人が神を創り主であると信じることの邪魔もします。先週の説教では、神を創り主(造り主)であると信じることはキリスト教の根幹であり、極めて大切なことであるという話をしました。
 盗みや殺人が悪いことであることは、信仰を持っていなくてもわかります。社会通念でそのようになっています。しかし、社会通念だけだと突きつめて考えて行った時に、どうして盗んだり人を殺したりしてはいけないのか、そんなに明快ではありません。新聞や雑誌の相談コーナーのような所で、「どうして人を殺してはいけないのですか」という質問をたまに見ることがあります。命の大切さや、周囲の人が悲しむことや、社会秩序のことなど、回答者はいろいろことばを尽くして答えますが、それらの答にも、さらに「どうして?」と突っ込むことができる突っ込み所が満載なように思います。
 しかし、聖書信仰を持つ私たちの場合は、どうして盗んだり人を殺したりしてはいけないかの理由は単純明快です。それは、神が「盗んではならない」(出エジプト20:15)、「殺してはならない」(出エジプト20:13)と言っているからです。 私たちは、この神の戒めを守らなければなりません。なぜなら、神が私たちの創り主だからです。神が私たちに命を与えて下さったのですから、私たちは神の戒めを守らなければなりません。
 この、神が私たちの創り主であるという信仰がしっかりとあるなら、信仰は揺るぎないものになると思います。逆に、この神が私たちの創り主であることを、しっかりと信じることができていないと信仰は揺らぎ易く、神から離れて行き易いと思います。また、神が私たちの創り主であることを信じることができないから信仰を持つに至らないという人も多いでしょう。悪魔は巧妙ですから、私たちが神を創り主として考えることを妨げようとします。

永遠の時間観を持つことを妨げる悪魔
 その悪魔の巧妙な戦略の一つが、私たちが永遠の時間観を持たないようにしていることでしょう。この悪魔の戦略は非常に上手く行っていて、私たちは未だに永遠の時間観を持つに至っていません。私たちが永遠の時間観を持っていないために、神が万物を創造した「初めの時」を遠い過去のことと感じてしまい、信じることを難しくさせています。もし私たちが【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間観を持っているなら、神が万物を創造した「初めの時」も、身近な出来事として感じることができますから、神が創り主であることを信じることは難しいことではありません。
 私たちが永遠の時間観を持つに至っていないのは、私たちが【過去→現在→未来】という従来型の直線的な時間観に強力に支配されているからです。人類がこの従来型の時間観の支配から脱出して【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観を持つに至るなら、世の中は相当に上手く行くはずです。報復の連鎖によって戦争を繰り返す世界から脱出して、平和な世界を実現することができるでしょう。しかし、今の所、人類は従来型の時間観にがっちりと支配されています。悪魔の戦略は非常に上手く行っているのですね。ですから、私は、従来型の直線的な時間観が悪魔そのものだとさえ言えるのではないかと思っています。ヨハネ12:31の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」の追い出されるべきものは、従来型の直線的な時間観であると私は言いたいと思います。この悪魔の時間観さえ追い出すことができたなら、悪魔そのものを追い出したと言えるほどに、世界は相当に良い方に変わるだろうと思います。

父が既に現した栄光とは何か
 きょうの聖書箇所の中には、私たちがいかに従来型の時間観に支配されているか、が良くわかる箇所が含まれています。従来型の直線的な時間観の悪い所は、過去のことを必要以上に遠い過去にしてしまうことです。永遠の時間観を持つなら何千年・何万年・何億年もの過去や未来のことでも身近に感じることができるはずなのに、私たちは従来型の時間観に支配されていますから、たかが何千年か前の出来事であっても、遠く離れた時代の出来事としてしまっています。その、私たちがいかに従来型の時間観に支配されているかが分かる箇所とは、12章の28節です。私が27節を読みますから、皆さんで28節を読んで下さい。ここは、イエスが人々に向かって話している時に天から父の声が聞こえた箇所です。

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

 28節で天の父は、「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」と言いました。この28節の前半の「わたしは栄光をすでに現した」の「すでに現した栄光」とは、どの栄光のことを指しているでしょうか。皆さんはどの栄光のことだと思いますか。このヨハネ12章の28節の天の父の声の箇所は、イエスが既にエルサレムに入京していて(13節)、十字架に掛かる直前の箇所ですから、ここまでにイエスは弟子たちと宣教の長い旅を続けて来ました。すると、どうしても、父が既に現した栄光を、イエスの地上生涯の出来事から探そうとしてしまいます。それは、当然そうなりますね。このヨハネの福音書の中だけでもイエスは12章に至るまで長い旅をして来ましたし、しかも、このヨハネの福音書は新約聖書の中では四番目の福音書ですから、マタイ・マルコ・ルカの福音書でそれまでに3回、イエスの地上生涯が繰り返されています。また、マタイの福音書の前のマラキ書との間には、400年以上もの空白の期間がありますし、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネはギリシャ語で書いてありますが、その前の旧約聖書はへブル語で書いてあります。ですから、私たちは、この空白の期間を必要以上に長く感じてしまっているようです。
 実は、この28節で父が言った「すでに現した栄光」とは「旧約の時代」の栄光のことなのですが、私たちは皆、「すでに現した栄光」をイエスの地上生涯の中に見出そうとします。12章に至るまでも、ヨハネの福音書のイエスは様々な奇跡を行って見せていますから、その中から「すでに現した栄光」を見出そうとします。12章に近い箇所から順におさらいしておくと、11章ではラザロをよみがえらせ、9章では盲人の目を開き、6章では五千人の給食の奇跡を行い、5章では38年間病気であった人を立って歩かせ、4章では離れた所にいる王室の役人の息子の病気を直し、2章ではきよめの水を良いぶどう酒に変えました。父が既に現した栄光は、これらの奇跡の中のどれのことだろうかと、どうしても考えてしまうでしょう。しかし、実は父が既に現した栄光とは「旧約の時代」の栄光のことです。
 従来型の直線的な時間観だと、「旧約の時代」の出来事は遠い過去の話になってしまうので、「すでに現した栄光」は何かと考えた時、どうしてもイエスの地上生涯の中という非常に近い出来事の中から探そうとしてしまうのですね。しかし、永遠の時間の中にいるなら、「旧約の時代」も身近な出来事として感じられます。

ヨハネ12:28はブレイクスルーの起点
 実は、このヨハネ12章28節は、私がヨハネの福音書の独特の時間構造に気付くというブレイクスルーがあった起点の箇所です。これまでの礼拝説教の中で私は、ヨハネの福音書の永遠の時間観のことを繰り返し、しつこく語って来ましたが、この永遠の時間観に気付くようになった経緯については、まとまった形では話していなかったと思いますから、今日のこの2013年の最後の礼拝という機会に話しておくことにします。
 ヨハネの福音書の背後に「旧約の時代」が隠されていることに私が最初に気付いたのは2011年の6月で、それは私が神学生の4年生で関西の教会にインターン実習生として遣わされていた時のことでしたが、私はそれ以前から、ヨハネの福音書のことが大好きでした。2009年の秋、神学生の2年生の時に、神学院の男子寮での祈祷会の説教でヨハネの福音書からの連講をすることにして、それ以来、この福音書の魅力に魅せられ続けています。翌年の神学生の3年生だった2010年の夏、夏期実習で2ヶ月間、関西の教会に遣わされた時には、私は祈祷会の説教を8回、礼拝の説教を2回担当したと思いますが、全ての説教をヨハネの福音書からしました。それぐらい、私はヨハネの福音書のことが好きでした。しかし、その時にはまだ私も、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの共観福音書と同じ、イエスの地上生涯だけを描いた福音書だと思っていました。
 そうして、神学生の4年生になってインターン実習で関西の教会に滞在している時に、これは既に話したことですが、朝、聖書通読でレビ記1章を読み始めて間もなく、涙が溢れて来て止まらなくなるという経験をしました。レビ記は律法のおきての「~しなければならない」、「~しなければならない」ということばが延々と続きますから、それまでの私にとってレビ記は、ただひたすら退屈な書でした。高津教会の一般信徒だった時には、このレビ記のせいで聖書通読に2度失敗していました。レビ記の前の出エジプト記の後半の幕屋の作り方で既に「~しなければならない」のオンパレードが始まっていますから、出エジプト記の段階で既に退屈しています。そして、ようやく出エジプト記の「~しなければならない」が終わったかと思ったら、レビ記でまだ「~しなければならない」が続くので、それ以上読み進める気力が無くなってしまうのですね。私にとって、レビ記とはそれぐらい退屈な書でした。しかし、2011年の6月17日の朝にレビ記を読み始めた時には、そこから父の深い愛が感じられて、涙がボロボロ出て来てしまいました。これは間違いなく聖霊体験であると言えます。私がレビ記で涙するなど、それまでの経緯から考えると考えられないことだからです。これは間違いなく聖霊によって魂が揺さぶられた聖霊体験でした。そうして、私は律法には父の愛がたっぷりと詰まっていることが分かり、律法は恵みなのだということが分かりました。
 このようにして律法は恵みなのだということを聖霊によって教えられたことで私は、それまでヨハネの福音書の中で、どう解釈して良いか分からないでいた箇所が分かり始めました。最初に分かったのは、ヨハネの福音書1章の16節と17節です。お読みします。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」の、さらに恵みを受ける前の恵みがモーセの律法の恵みだということに確信を持てたのですね。もし律法が恵みではないのなら、16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」は、新約のイエスの恵みを強調する表現として「恵み」を2回繰り返していることになります。しかし、律法が恵みであるなら、モーセの律法の恵みの上に、さらにイエスの恵みを受けたということになります。それで私はレビ記で涙したことによって律法は恵みなのだと聖霊に教えられましたから、16節は、モーセの律法の恵みの上にイエスの恵みを受けたのだと確信しました。
 そして遂に、12章28節の解釈というブレイクスルーのポイントの所に思いが至りました。ブレイクスルーというのは、突き破るという意味で、研究の世界では良く使われることばです。そこを突き破ることで新しい世界が開けた時に、ブレイクスルーがあったという言い方がされます。12章28節の父が「既に現した栄光」については、どの注解書を見ても、それが「旧約の時代」の栄光であると解説している書を私はまだ見たことがありません。しかし、この父が「既に現した栄光」とは「旧約の時代」のことなのだと聖霊体験を通して確信が与えられました。レビ記で涙して天の父の愛を霊的に深く理解したことで永遠の時間観が与えられたのでしょうね。私にとって「旧約の時代」は身近な時代になっていましたらから、父が「既に現した栄光」は「旧約の時代」のことだと確信しました。
 そこまで分かったら、後は芋づる式に次々と、背後に隠された「旧約の時代」のことが見えるようになりました。本当に次々と新しい発見があったので、まさにこういうことを、ブレイクスルーがあったと言うんだな、と実感した幸せな時でした。

従来型の時間観に強く支配されている私たち
 しかし、私は幸せな気分に浸る一方で、人に話しても分かってもらえないことで失望も味わいました。背後の「旧約の時代」の存在理由を上手く説明できなかったので、人にも分かってもらえませんでした。私としては、「旧約の時代」が存在すること自体は、人にも問題なくすぐに分かってもらえると思っていました。そうして、「旧約の時代」が存在するという事実を皆に分かってもらった上で、「旧約の時代」の存在理由については私一人が無い知恵を絞るより、皆で考えるべきだと思っていました。しかし、「旧約の時代」の存在をなかなか人に理解してもらえなかったので、存在理由も自分で考えなければならなくなりました。ただし、その時はまだ私も「使徒の時代」の存在にまでは気付いていませんでしたから、「永遠の時間観」という考え方に辿り着くのは、もっとずっと後のことです。この「永遠の時間観」というキーワードに辿り着くまで私は悶々と悩み続けました。この悶々と悩んだ期間がありますから私は、人がいかに従来型の「直線的な時間観」に縛られているかが、ものすごく良くわかります。私たちは従来型の時間観に支配されていますから、私たちは「永遠の時間観」に気付くことができていません。「直線的な時間観」を私が「悪魔の時間観」であると考えるのは、こういう経緯があるからです。

今が悪魔の時間観を追い出す時
 この「悪魔の時間観」は本当に人々を強力に支配しています。今話して来たように、私が人にヨハネの福音書の背後の「旧約の時代」のことを少し話したぐらいでは全然分かってもらえません。それで、私は少し長めの説明もするようにしたのですが、それでも分かってもらえません。そうして私は、これは本を一冊書かなければダメだなと思うようになり、最近になって、ようやく本一冊分の文章を書き上げました。いろいろと修正しなければならない箇所がありますから、まだ完成とは言えませんが、もう少しで、人に読んでもらえる所まで来ています。来年の1月の後半か2月には人に読んでもらい、コメントをもらって修正を加えることで、何とか出版できるレベルにまで引き上げて、世に出すことができたらと願っています。来年の中頃までには、何とか出版できるところまで辿り着けないだろうかと思っています。そうして、このヨハネの永遠の時間観について書いた本が出版に至るなら、その時が、ヨハネ12章31節の、「今、この世を支配する者は追い出されるのです」とイエス・キリストが言った時になるのだと思いますし、この教会にとっては、今がその時です。

永遠の時間の中を生きている私たち
 私たちは見かけ上は【過去→現在→未来】の直線的な流れの時間の中を生きていますが、実際は【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間の中を生きているのだということを、私自身は強烈に感じています。というのは、今ちょうど私のヨハネの永遠の時間観の本が完成しつつある時に、日本の情勢が急速に悪くなって、今や日本の平和が脅かされているからです。
 私が伝道者となるよう召し出された2008年の春は、今と比べれば、まだ平和な時代でした。与党の自民党もそんなに強くありませんでしたから今のような強引な政治はできませんでしたし、野党の民主党も、まだ政権交代ができる所までは行っていませんでした。しかし、私が神学生になった翌年の2009年に民主党への政権交代があり、今にして思えば、これが却って今の自民党の一強時代を作ることになってしまいました。今の政権は平和を脅かすことを次々と行い、その結果として東アジアでは緊張が高まり、今や偶発的な軍事衝突が起こりかねない状況になっています。
 いま私は、世界が平和を実現するための切り札は、ヨハネの永遠の時間観に皆が慣れ親しむようになることしか無いであろうと考えます。人類はこれまで延々と戦争を繰り返して来て、これからも、やはり延々と戦争を繰り返すことでしょう。しかし、1世紀の聖書の時代にヨハネが提示していた永遠の時間観に皆が気付き、皆がこの永遠の時間観を深く理解することができるようになるなら、平和を実現できる可能性が大いにあります。
 これまでも話して来たように、永遠の時間の中を生きるなら、人は誰でも被害者でもあると同時に加害者でもあります。この誰もが被害者であると同時に加害者でもあるという認識を皆が共有するなら、人は互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになるでしょう。それによって直ちに平和が実現できるとは私も思っていませんが、少なくとも平和実現へのスタートラインには立つことができるでしょう。従来型の時間観のままではスタートラインにすら立てないのですから、大きな違いです。スタートラインに立ってから本格的な平和の実現までに100年は掛かるとしても、今まで二千年掛かってもできなかったことなのですから、100年で出来るなら感謝なことです。今の子供たちの世代に、この重要な役割を託し、今の子供たちがまた次の世代にこの役割を引き継ぐなら、やがて必ずや世界の平和を実現することができるでしょう。

今が永遠の時間観を宣べ伝えるスタートの時
 今の緊張が高まっている時代は、平和を実現する永遠の時間観のことについて人々に耳を傾けてもらうには、むしろ良い時代なのかもしれません。私が2008年の春に召し出されたのは、今の危険な時代に合わせて、平和の時間観を訴えるためだったのだと、いま私は感じています。神には今のことが見えていて、2008年から、それに向かって備えられていたのだという気がします。永遠の中を生きるとは、そのようなことなのだと今、私は実感しています。また、さらに遡るならば、私が、かつて大学の留学生センターで外国人留学生たちと親しく交わっていたことや、その前には理工系の研究者であったことも、全部、今に至るまでの準備の期間であったのだと思います。
 留学生センターで私は韓国人留学生の教育プログラムに携わっていましたから、韓国人の考え方も多少知ることができました。韓国人にとって、日本人の悪者と言えば朝鮮に出兵した豊臣秀吉と、日露戦争後にできた朝鮮統監府の初代の統監の伊藤博文で、韓国の二大英雄と言えば、豊臣軍を撃退した将軍の李瞬臣と、伊藤博文を暗殺した安重根なのだそうです。日本人としては、豊臣秀吉の時代のことを持ち出されても困ってしまうのですが、韓国の人々にとっては、根深い恨みがあるようです。そのような韓国人と比べると、日本人はどういうわけか淡泊というか、お人好しというか、何故だか良く分からないのですが、例えば原爆投下について考えてみると、原爆という核兵器のことは強く憎んでいますが、原爆を投下したアメリカ人のことはそんなに激しく恨んでいるわけではありませんね。ですから、私は神がヨハネの永遠の時間観を発信する発信地として日本を選んだのは、それなりの理由があるのではないかと考えます。日本人は民族全体で何百年も前のことについて他の民族に対して恨みを持ち続けることはないように思いますから、従来型の時間観から脱しやすいのではないかという気がします。悪魔の時間観を追い出して、永遠の時間観を持つためのスタートを切るのに、日本という場が最もふさわしいと神様は考えていらっしゃるのではないか、いま私はそのように感じています。

おわりに
 まもなく2013年が終わって2014年になります。2014年は人類が永遠の時間観に慣れ親しむためのスタートラインに立つ年であると私は考えます。永遠の時間の中を生きるイエス・キリストは、「今、この世を支配する者は追い出されるのです」(ヨハネ12:31)とおっしゃっています。私たちはその最前線に立つのだという覚悟を持って2013年を終えて2014年を迎えることができたらと思います。
 そのためにお祈りさせていただきます。
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信仰の「カーリングのたとえ」(2013.12.25)

2013-12-25 20:53:15 | 折々のつぶやき
信仰の「カーリングのたとえ」
 信仰はカーリングにたとえることができます。
 カーリングの重要なポイントとして、①石をカール(回転)させることと、②氷をブラシでスイープする(こする)こととがあります。この二つのポイントを、信仰における①神は【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間の中にいると考えることと、②その永遠の時間観の中で祈ること、の二つのことの必要性を説明するのに用いることができます。
 カーリングの石をカールさせないなら直進しかしません。カールしない石の前の氷をいくらスイープしても進路を変えることはできません。カールさせるからこそ、スイープによって石が曲がるタイミングを調整することで目標の地点に持って行くことができます。私たちが信仰生活において祈るのは、この目標地点に到達したいからです。そのためにカーリングの選手が氷を一生懸命にスイープするように、私たちも一生懸命に祈ります。
 しかし、もし私たちが祈る時に【過去→現在→未来】という直線的な一方通行の時間観しか持たないなら、それはカーリングの石をカールさせないのと同じで、過去に投げた石の方向にそのまま未来に向かって直線的に進むだけです。私たちが祈るのは、そのまま直進したのでは願っている地点に到達できないから進路が変わって欲しいと願って祈るのです。その進路を変えるために石をカールさせることに相当するのが、【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の時間観を持つことです。祈り手は、過去と未来とが絡み合う現在の中で一生懸命に祈ります。祈りに力があるのは神が【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の中にいるからです。神が永遠の中にいるからこそ、祈りによって状況が変わって行きます。私たちが永遠の中にいる神に心を寄せて過去と未来の絡み合いの中でタイミング良く祈る時、今は目標の地点に向かっていなくても、やがて進路が変わって目標に向かって進んで行くようになります。
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闇の支配からの救い(2013.12.22 クリスマス礼拝)

2013-12-22 14:58:41 | 礼拝メッセージ
2013年12月22日クリスマス礼拝メッセージ
『闇の支配からの救い』
【ヨハネ1:1~13】

はじめに
 イエス・キリストのご降誕をお祝いする今日のクリスマス礼拝のメッセージのタイトルは『闇の支配からの救い』です。「闇」とは言うまでもなく「心の闇」のことです。私たちの心は闇に支配されています。
 いま私は「私たちの心は闇に支配されています」と言いましたが、イエス・キリストを信じる者の中にも、まだまだ心の闇は存在すると言っても良いと思います。ただしイエス・キリストを信じない人は真っ暗闇ですが、イエス・キリストを信じる者の場合は真っ暗闇ではありません。それでも、まだまだ闇に支配されているように思います。
 では、私たちの心を支配している「闇」とは何なのでしょうか。きょうのメッセージでは、この「心の闇」とは何かを明らかにすることができたらと願っています。

心の闇の根幹に迫る必要性
 「心の闇」とは何でしょうか。それは「罪」と言い換えても良いものですが、比較的思い浮かべやすいのが、例えばマルコの福音書でイエス・キリストが言っているようなことですね。マルコの福音書でイエス・キリストは次のように言っています。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)

 これらの汚いものは、「心の闇」の中でうごめいています。ですから、これらは確かに「心の闇」の一部を形成している「罪」と言えるでしょう。しかし、今日のメッセージでは、私はもっと「心の闇」の根幹的な部分に迫って行きたいと思っています。これらの「悪い考え、不品行、盗み、…」などなどの罪は、普段の礼拝で語られることです。私は普段の礼拝でも、こういう「悪い考え、不品行、云々」については、あまり語らないほうですが、多くの教会では、これらのことについて普段、語られているのではないかと思います。しかし、いずれにせよ、これらは普段の礼拝で語られるべきことであり、クリスマスとイースターという横綱クラスの礼拝においては、もっとキリスト教の根幹的な部分に迫って行かなければならないと私は思っています。クリスマス礼拝とイースター礼拝は教会の礼拝の中でも東西の横綱であると言えるでしょう。その他にも重要な礼拝として新年礼拝やペンテコステ礼拝、召天者記念礼拝などがありますが、それらは横綱というよりは張出横綱か大関クラスではないかなと思います。
 さてクリスマス礼拝は横綱級の礼拝です。相撲では「心技体」ということが言われ、この「心技体」が充実していなければ横綱にはなれません。「心技体」の「心」は「こころ」、「技」は「わざ」、「体」は「からだ」ですね。この三つが充実していないと横綱にはなれません。「技」は上手いけれど「心」または「体」が今ひとつなので、横綱になれない力士はたくさんいますね。「技」だけが上手くても横綱にはなれません。さきほど挙げた、心の闇の中でうごめいている「悪い考え、不品行、盗み、…」などをテーマにしたメッセージは、相撲で言えば、これらの事柄は「技」に相当する部分ではないかと思います。キリスト教の教会の説教では、このような「技」の部分だけではなく、もっと根幹的な「心」と「体」の部分についても、語られる必要があるだろうと思います。特に横綱級の礼拝であるクリスマス礼拝とイースター礼拝においては、根幹的な部分について語られなければならないであろうと私は考えます。しかし、日本のキリスト教の教会のどれくらいの教会が、根幹的な部分について語っているだろうかと考える時、私は少々不安を覚えます。案外、語られていないのではないか、という気がしています。

きよい生活の勧めだけでは不十分
 私がここで、敢えて日本の他の教会のメッセージについて批判なコメントをするのには理由があって、実は、私は後で「仏教」について批判的なコメントをするつもりでいるからです。私は説教を全部ブログ上で公開していますから、説教で他の宗教の批判はあまりしないことにしています。しかし、きょうは話をわかりやすくするために「仏教」について批判的なことを言うことにしています。そこでバランス上、身内のキリスト教についても批判的なコメントをしておいたほうが良いと思うわけです。そういうわけで、身内のキリスト教の中でも、最も身内である「きよめ派」についての批判的なコメントを、先ずはしておくことにしたいと思います。
 プロテスタントの教会にもいろいろありますが、その中には「福音派」という群れがあり、また福音派の中でも「きよめ派」と言われるグループがあって、私たちのインマヌエルの群れは、その「きよめ派」に属します。「きよめ派」についての細かい説明は今日は省略しますが、思いっきり簡単に言うなら、「きよめ派」は心がきよいことを、とりわけ重視する群れであると言えると思います。
 すると、陥りやすいのが、先ほど挙げた汚いもののリストを挙げて、そうではない生活をすることを勧め、そこの所でとどまってしまうことです。「悪い考えを持たず、不品行でなく、盗まず、欺かず、ねたまず、そしらず、高ぶらず、…」、そういう生活を勧めるところでとどまってしまうことです。これらの「ねたまず、そしらず、高ぶらず」は、もちろん大切なことです。しかし、ここでとどまってしまっては、これらの生き方は宗教とは無関係の道徳教育においても勧められていることですから、特にキリスト教で無くても言われることです。ただし、「きよめ派」の場合は、さらに十字架を強調して、イエス・キリストが十字架に掛かって血を流し、その血によって私たちのこれらの罪をきよめて下さったということも語られます。ですから無宗教の道徳教育とは異なることは分かります。しかし、私は、それでも、それでキリスト教の根幹的な部分がしっかりと押さえられているのだろうかと少々疑問に思っています。汚い心を持たないことが強調されて、もっと根幹的な部分について語ることがおろそかになってはいないだろうかという気がしています。
 その根幹的な部分とは、神が万物を創造した創り主であるということです。考えてみると、私自身もこの沼津教会においては、まだ創り主としての神については、ほとんど語っていないように思います。それは多分、もう一つの横綱クラスのイースター礼拝を越えてから着任したために、その機会を逸していたようです。これからは折々に創り主である神についても語って行くことにしたいと思います。

創り主を認識することの重要性
 キリスト教の根幹には、先ずは神が万物を創造したのだということが第一にあります。そして、そのことをイエスの十字架の死からの復活によって証明し、さらに私たちに聖霊が注がれて、私たちがそれらを霊的に理解できるようになっています。神が万物を創造したことをあまり語らないで罪のことやイエス・キリストの十字架の話ばかりしても、それは不十分です。なぜなら、神が私たちを造ったのでなければ、必ずしも神の戒めに聞き従わなくても良いからです。私たちを造った神が聖書を通して私たちがどう生きるべきかを教えているのですから、私たちは教えを守らなければなりません。もし生命が偶然によって誕生したのであれば、私たちは必ずしも聖書の教えを守る必要はありません。しかし、神が生命を誕生させたのですから、私たちは聖書の教えを守らなければなりません。それゆえ、神が万物を創造した創り主であることを認識することは、極めて大切なことです。神が生命を造ったと言っても、別に神が実験室みたいな所で何かを混ぜ合わせている様子を想像する必要はありません。科学者たちが考えている通りのメカニズムを想像すれば良いと思います。そのメカニズムの中に神の意志が入っているかどうかが重要です。神の意志によって、生命の基となった細胞が組み立てられたのであれば神が造ったことになり、偶然によって生命ができたのであれば、神は関与していなかったことになります。それだけの違いです。
 もちろんキリスト教だけではなく、ユダヤ教やイスラム教もヘブル語聖書(旧約聖書)を正典としていますから、神が万物を創造したことを語ります。しかし、神が万物を創造したことの証明は、しっかりとは為されていないように見えます。キリスト教の場合は十字架で死んだイエスがよみがえったことで、神が万物を創造したことを証明しています。聖書を虚心坦懐に丹念に読むなら、十字架で死んだはずのイエスがよみがえったことは、事実として認めざるを得ません。そうして死んだイエスに再び命を与えることができる神なら万物を創造することができるでしょう。このように神が万物を創造したことと十字架で死んだイエスがよみがえったこととは分かちがたい関係にあります。ですから、十字架のことばかり語るのでは不十分であり、神が万物を創造したことはしっかりと語られなければなりません。

道徳教育の道具としてキリスト教
 神が万物を創造したことを語らないで、きよい心を持つべきことを強調するだけでは、キリスト教は単なる道徳教育の道具になってしまいます。キリスト教を単なる道徳教育の道具にしている人はたくさんいます。特にキリスト教国と言われる国では、そのような傾向があるのだと思います。私は以前、親しくしていたことがあるアメリカ人の友人と、キリスト教の信仰について話したことがあります。私はアメリカの研究所で研究員をしていたことがあります。アメリカ滞在中は信仰を持っていませんでしたが、その後、私は高津教会で洗礼を受けました。そうして私がキリスト教の信仰を持った後、出張で日本に来ていたそのアメリカの友人と会って話す機会があったので、私は自分がキリスト教の信仰を持つようになったことを話しました。そして、信仰の話を始めてしばらくして、私はその友人は教会に通ってはいるけれども、そんなに深い信仰は持っていないことに気付きました。その友人も、教会に通っていましたが、それは子供のためだと話していました。つまり、子供のしつけのためには聖書を教えるのが良いという考え方なんですね。深い信仰は持っていないけれども子供が健全に育つには聖書について教える教会に通わせるのが良いと私のアメリカの友人は考えていました。
 いま私は剣道から離れてしまっていますが、日本では子供を剣道の道場に通わせる親が結構います。今は減っているかもしれませんが、昔はたくさんいました。剣道を習えば礼儀正しい子供に育つからと考えて、子供を剣道の道場に通わせる親がけっこういたのですね。剣道場が子供のしつけの場として見られているわけです。アメリカでは教会も剣道場のような見方がされているのだなと思いました。
 教会は確かに道徳教育の場として、とても良い所でしょう。しかし、神が私たちを造った創り主であるということを抜きにして道徳的なことだけを教えても、あまり意味が無いでしょう。私たちが神の戒めを大切にしなければならないのは、神が私たちを造ったからです。私たちを造った神が、命令することだから、私たちは聞かなければなりません。
 キリスト教は、信じたい人が信じれば良いのではありません。世界中の皆が信じなければなりません。なぜなら神が私たちを造ったことはイエスが十字架の死からよみがえったことによって証明されているからです。その私たちを造った神が、神を信じなさいと言っているのなら信じなければなりません。それを信じるか信じないかは個人の自由かもしれませんが、信じない者は滅びます。なぜなら、私たちを造った神が信じない者は滅びると言っているからです。ですから、神が万物を創造し、私たちの命を造った創り主であることを認識しておくことは、極めて大切なことです。神が私たちを造ったと言っても神が実験室で分子を合成したのではなく、科学者たちが考えるメカニズムの中に神の意志が関与しているのだと考えるだけで良いのですから、神が生命を造ったと考えることはそんなに難しいことではないと思います。むしろ、私たちの生命という複雑な仕組みが全て偶然によって作られたと考えるほうが非現実的だと私は考えます。神が生命を造ったと考えることは非科学的だと考える人は多いと思いますが、複雑な生命の仕組みが全て偶然によって出来たと考えることが科学的な態度であるとは私には思えません。

創り主の存在を前提としない考え方の奇妙さ
 創り主の存在を前提としない考え方は、私にはとても奇妙に見えます。今言ったような、複雑な生命の仕組みが全て偶然によって組み上げられるという考え方は、とても奇妙です。百歩譲って生命の基本単位である細胞が偶然によって出来ることがあったとしても、霊や魂も偶然によってできるのでしょうか。霊の存在は一般に認められていることです。霊を慰める慰霊ということばは一般に定着しており、戦没者や震災で亡くなった方々の慰霊の事業は税金を使って行われますから、霊は存在すると多くの人が考えています。その霊や魂も偶然によってできるのでしょうか。霊は神が人に吹き込むものであって、決して偶然によってできるものではないでしょう。
 さて、ここから少しの間、仏教の話をします。年末になると、お寺では仏像のスス払いをするということがニュースになります。そのスス払いをする前に、まずお経を唱えて仏像から魂を抜くというのですね。このことが私にとっては何とも奇妙で仕方がありません。仏像に魂が入ったままでハタキやホウキで仏像をはたいたら失礼であると考えて魂を抜くのかもしれませんが、人間がお経を唱えることで仏像から魂を抜くことができるなら、人間は仏像よりも偉いことになります。人間の方が偉いのに、なぜ仏像を拝むのでしょうか。全く奇妙なことだと私は思います。それとも、仏像に魂を入れたり抜いたりするのは、仏像よりももっと大きな存在なのでしょうか。だとすれば、そっちの大きな存在の方を直接に拝めば良いのであって、何故わざわざ魂を入れたり出したりするのでしょうか。いろいろ奇妙なことだらけです。
 万物を創造した創り主が存在するのだという前提が無いと、このような奇妙なことになります。霊や魂は偶然によって出来たことになります。また、人間の都合で魂を抜いたり入れたりすることができることになってしまいます。魂とは、そんなに人間の都合で出したり入れたりすることができるものではないでしょう。霊や魂を入れたり抜いたりすることができるのは、神だけです。しかし、人間は自己中心的に考えてしまいがちですから、人間が自分の都合で霊や魂を抜いたり入れたりできると考えてしまいます。

人間の考えを反射させる偶像
 私は神学生の4年生になったばかりの2011年の4月の1ヵ月間、インマヌエルの京都西教会に派遣されて礼拝や祈祷会の説教の御用をしました。4月から新たに京都西教会に着任する予定だった先生が、東日本大震災のために、すぐに京都に引っ越すことができなくなってしまったためでした。私は京都滞在が1,2か月の短期間であることが最初から分かっていましたから、滞在中に京都のお寺をできるだけ訪れてみたいと思いました。特に、仏像を見て回りたいと思い、そのようにしました。その時の私の興味は、人はどうして仏像に引き付けられるのか、ということでした。木や金属に過ぎない仏像が、どうして人を引き付けるのか、それを見極めたいと思っていました。私自身も信仰を持ったのが40歳を過ぎてからでしたから、信仰を持つ以前には仏像に大きな魅力を感じていました。いったい仏像の何がそんなに人を引き付けるのか、せっかく京都の教会に派遣されたのだから、それを見極めることができたらと思いました。そうして、いくつかのお寺を巡り、仏像と向き合っているうちに気付いたことは、人は先ず自分の思いを、人間の側から仏像に向かって送り、その自分の思いをあたかも仏像が自分に語り掛けているように感じているのではないかということです。自分の思い入れが単に仏像から反射して戻って来ているだけなのに、それを、あたかも仏像が自分に向かって語り掛けているように感じているのではないかと思いました。それゆえ仏像には魂が入っているとも感じてしまうようになるのではないかとも思います。
 しかし、考えてみれば、クリスチャンも聖書に対して同じようなことをしているようです。自分の思いを聖書にまず送り、そこから跳ね返って来るものを、あたかも聖書が自分に語り掛けているように思い込もうとします。それは聖書を偶像化していると言えるでしょう。牧師も気を付けていないと、そのようになってしまいがちです。そうして聖書のみことばを自分たちの都合の良いように利用しようとします。その場合は、まず始めに自分のことばがあります。神のことばが初めにあるのではなく自分のことばが始めにあります。これを自己中心と言いますが、それは、神が万物を創造したのだということを心の奥深いレベルで納得していないから、そのようなことが起きるのではないかと思います。聖書に書いてあることは全部信じるべきだと教えられたから、そのように信じるのではなく、自分の心の奥深いところで、しっかりと納得する必要があるだろうと思います。

永遠の時間観に慣れ親しむことの重要性
 では、私たちは、どうしたら心の深いレベルで神が万物を創造したのだということを信じることができるでしょうか。そのためにも、私たちは、永遠の時間観に慣れ親しむ必要があるだろうと思います。もし、永遠の時間観を持たずに、従来型の【過去→現在→未来】の直線的な時間観にとどまるなら、神が宇宙を創造し、また生命を創造した時は、気が遠くなるぐらいに遠い過去のことです。そんなに遥か彼方の遠い過去に神がしたことを信じろというほうが無理な話のような気もします。しかし、永遠の時間観を持つなら、神が宇宙を創造し、生命を創造した時代も、そんなに遠い昔のことではありません。御霊が与えられているクリスチャンは、無意識のレベルでは永遠を理解していますから、神が万物を創造したことを信じている人は多いでしょう。しかし、表面的な意識のレベルでは、相変わらず従来型の直線的な時間観に縛られています。だから時に信仰が揺らいでしまうことがあるのだと思います。悪魔はそれを利用して、私たちを信仰から引き離そうとします。それゆえ、私たちは永遠の時間観に慣れ親しみ、神が万物を創造したのだという揺るぎない信仰を確立しなければならないと思います。私たちが永遠の時間観をしっかりと持ち、神が万物を創造したのだということを心の奥深いレベルでしっかりと納得していない間は、私たちは心は暗闇に支配されているということができるでしょう。

創り主を最初に明言したヨハネ
 ここまで、聖書を開かずに語って来ましたが、ここで聖書を見ることにしましょう。ヨハネの福音書の1章です。1章1節、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 初めに人間の自分のことばがあって、聖書を自分の都合の良いように解釈するのではなく、初めに、ことばがありました。ことばとはイエス・キリストのことであり、イエス・キリストが私たちに聖書のことばについて教えて下さいます。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 万物は神によって創造されました。ヨハネの福音書は、初めに、このことをきっちりと書いています。この神が万物を創造したということが、キリスト教の根幹にあります。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 神が万物を創造したのだという揺るぎない信仰が無いと、そこは暗闇に支配されています。教会を単なる子供の道徳教育のためのしつけの場であると考える人々や、木や金属で作ったものに人が魂を出し入れできると考える人々は、暗闇に支配されています。神が万物を創造したのだということを心の奥深いレベルでしっかりと納得することができた時に、私たちは暗闇の支配から救い出されます。
 少し飛んで、

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 イエス・キリストを受け入れることができなかった人々は、暗闇に支配されたままでいます。しかし、イエスを受け入れた人は違います。12節と13節、

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 イエス・キリストを信じた人は、聖霊が与えられますから、新しく生まれて霊的に救われます。しかし、救われた人の多くも表面的な意識のレベルでは、まだまだ従来型の【過去→現在→未来】の直線的な時間観に支配されています。この直線的な時間観に支配されている限り、まだまだ心の中には闇が残っています。それは、この直線的な時間観では、神が万物を創造した時が遠い過去にあるからです。私たちが永遠の時間観に慣れ親しむことができて初めて、神が万物を創造した時代を身近に感じることができ、それによって、創り主の存在を揺るぎなく確信することができるでしょう。

おわりに
 神が万物を創造したことは、キリスト教の根幹です。このことを私たちにしっかりと教えるためにイエス・キリストは2千年前のクリスマスに私たちの世に生まれて下さり、そして十字架に掛かって死んだ後によみがえり、聖霊を遣わして下さいました。
 神は私たちの創り主ですから、私たちに惜しみなく愛を注いで下さいます。この素晴らしい恵みをしっかりと思い巡らし、噛みしめることのできるクリスマスを過ごすことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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時が満ちて(2013.12.18 祈り会)

2013-12-19 09:05:16 | 祈り会メッセージ
2013年12月18日祈り会メッセージ
『時が満ちて』
【マラキ4:1-6/マルコ1:1-4、14,15】

はじめに
 先日の15日は午前の礼拝と午後の千本プラザでのクリスマスの集いが祝されて感謝でした。15日は、私にとって、もう一つ感謝なことがありました。正確には15日ではなくて、日付が変わった後の16日の未明ですが、カーリングの日本女子がオリンピックの最終予選でノルウェーに勝って、ソチオリンピックへの出場を決めました。私はこれをBS放送の生中継で観ていました。

奇跡の第8エンド
 16日の未明のカーリング女子の日本対ノルウェーの試合では、日本チームは今ひとつ波に乗れずにいて、私は観戦しながら負けも覚悟していました。その前の2試合、日本は中国に2連敗していました。中国はほとんどミスをしないので、日本が勝てなかったのは仕方が無かったのですが、ノルウェーの選手は結構ミスをしていました。せっかく相手がミスをしてくれているのに、日本はそのミスに乗じて複数得点することができずにいたので、これはオリンピック出場は難しいかなと私は思っていました。そうして私は半分は負けを覚悟しながら観ていた第8エンドに奇跡が起きました。この第8エンドは、日本は相手のミスに乗じて次々にハウスの中に自分たちの石をため込んで行きました。そして、何と6点の大量得点をあげて勝利し、オリンピック出場を決めました。それまで形勢が悪かったのを第8エンドの大量得点で一気に覆しましたから、まさに「奇跡の第8エンド」でした。
 このカーリングの試合を観て、私は、日本のキリスト教にも近い将来、「奇跡の第8エンド」が起きるであろうという気がして来ました。つまり、日本のキリスト教の形勢は今は悪いですが、その形勢が一気に逆転するような奇跡が近い将来、起きるのではないか、そんな予感がしています。何故そのような予感がするかというと、「時が満ちて」来ているのを、感じるからです。今の日本の中でどのように「時が満ちて」来ているのか、それは今日のメッセージの最後のほうでまた話すことにして、聖書を見ることにしましょう。きょうのメッセージのタイトルは「時が満ちて」です。

時が満ちたときに誕生したイエス
 まずマラキ書の4章を見ましょう。マラキ書は旧約聖書の最後にある書で、4章はこの書の最後の章ですから、マラキ書の4章は旧約聖書の最後の章であることになります。
 そのマラキ4章の中でもまた最後の方の、5節と6節を交代で読みましょう。

4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 この記述を最後に、聖書は沈黙の期間に入ります。マラキ書が書かれた正確な年代はわかっていませんが、おおよそ紀元前400年~450年ぐらいの間であろうというのが通説のようです。そうすると、新約聖書の時代に入るまでに400年以上の沈黙の期間があったことになります。マラキを通して主が「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と語られてから400年以上、この預言は成就されることなく、神の沈黙の期間が過ぎて行きました。
 15日のクリスマスの集いで私たちは「久しく待ちにし」という賛美歌を歌いましたね。ユダヤの人々は本当に長い間、エリヤが現れ、そしてメシヤが来ることを待ち望んでいました。しかし400年経っても、まだエリヤは現れませんでした。
 日本で今から400年前と言うと、1603年に徳川家康が江戸幕府を開きました。それから、1614年に大阪冬の陣、1615年に大阪夏の陣があって豊臣が滅び、1616年に徳川家康が死にました。ユダヤの人々がマラキが預言したことを信じて400年間待っていたということは、日本人の場合なら、400年間という期間だけで言うなら、徳川家康が言ったことを400年間信じて待つ、みたいな感じですね。400年間というのはそれぐらい長い期間です。
 そうして400年以上が経過して、遂にその時が来ました。きょうのもう一つの聖書箇所のマルコの福音書を見ましょう。1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 このバプテスマのヨハネこそがきたるべきエリヤである、とイエス・キリストは言っていますね。(マタイ11:14他)そしてマルコ1章の14節と15節を交代で読みましょう。

1:14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 いよいよ時が満ちたから、神は御子イエスをこの世に遣わしたのですね。ということは、イエス・キリストがこの世に来て宣教を開始するまでの400年あまりは、まだ時が満ちていなかったとうことです。それゆえ、時が満ちるまで、神は待っておられたということです。

十字架後に急速に広まったキリストの教え
 このイエス・キリストが宣教を開始した時代は、どのように時が満ちていたのでしょうか。ケアンズの『基督教会史』という本には、この「時が満ちた」状況について、やや詳しく書いてありますが、ここでは私が重要であると考える点を、簡潔に述べたいと思います。
 どう「時が満ちた」状況になったかと言うと、キリストの教えが地中海沿岸の広い地域一帯に短期間で一気に広まる状況が整ったんですね。この地中海沿岸一帯というのは北アフリカも含まれます。このユダヤの地は、アジアとヨーロッパとアフリカの三つの大陸が接する辺りの交通の要所にありましたから、もともと地理的に、エルサレムから発信された教えが広まりやすい場所にありました。先日の15日のクリスマスの集いのメッセージで私は、ユダヤは交通の要所にあったために外国から攻められやすくて不安定な状況にあったと話しました。ユダヤは、国の安定にとっては地理的に不利な場所にありましたが、キリストの教えが広まるためには、非常に有利な土地にあったのですね。それで、ステパノの迫害をきっかけにエルサレムから散らされた人々によって、キリストの教えは非常な勢いで広まって行きました。そのように急速に広まったのは、時が満ちていたからです。
 マラキの時代は、まだペルシャ帝国に支配されていた時代です。その後、このユダヤの地はギリシャに支配され、さらにイエスの時代にはローマに支配されていました。まず、ギリシャの支配により、ギリシャ語が広い地域で使われるようになりました。ペルシャ語が広い地域で使われることはありませんでしたが、なぜかギリシャ語は広範囲で使われるようになりました。このギリシャ語による媒介なしには、キリスト教が広範囲に広がることはなかったでしょう。
 そして、地中海沿岸一帯がローマ帝国に支配される時代になってからは、交通網が整備されて、人々は安全に広い地域を移動することができるようになりました。それで、ステパノの迫害で散らされた人々は遠くまで行くことができましたし、パウロも広い地域に亘って安全に伝道旅行をすることができました。またパウロのような伝道者だけでなくプリスカとアクラのような信徒も、ローマやコリント、エペソなど広い範囲を移動してキリストの教えが広まるのを助ける働きをしました。
 このようにしてキリストの教えが、イエスの十字架の死後のわずか30年ぐらいの間に一気に広まったのですから、神さまのご計画というのは本当にすごいなあと御名を崇めることです。イエスが日本で生まれても、2千年前の日本では、このように広範囲にキリストの教えが広まることはなかったでしょう。

時が満ちつつある日本
 しかし、2千年を経て、今度は日本発でイエスの教えを世界に広める時が満ちて来ているのではないか、私はそのように感じ始めています。少し前には、韓国発で、キリストの教えが世界に広まる働きがなされ、今も続いています。私も韓国人に教会に誘われて、教会に行くようになりました。
 そして、今や日本発でキリストの教えが広まって行くのではないかと私は思っています。飛行機やインターネットがありますから、いまや日本が地理的に不利である状況はありません。そして、いまの日本は時代の雰囲気としても神による救いが必要な時期になって来ています。いま日本は悪い方向に向かいつつあります。悪魔が働いているのでしょうか。しかし、こういう時は神の働きもまた活発になります。平和のために働くよう、神は先にイエスを信じた人々を促します。そして、私も平和のために働くよう、召し出されて、ヨハネの福音書の永遠の時間観を平和実現のために広めるように示されています。日本人の私がこのような役割を神様から与えられたということは、日本人は案外、「永遠の時間観」に慣れ親しみやすいのではないかという気が、今私はしています。それゆえ、日本のキリスト教は近い将来に「奇跡の第8エンド」が起きるのではないか、すなわち悪い形勢が一気に良くなるような奇跡が起きるのではないか、私はそんな予感がしています。
 日本人は案外、「永遠の時間観」に慣れ親しみやすいのではないか、という考えが与えられたのは、本当につい最近ですから、まだ考察が不十分ですが、例えば手塚治虫や宮崎駿のようなアニメーション作家は「永遠」に関する素晴らしい感受性を持っているように思います。

おわりに
 いま日本は悪い時代に向かっていますから、この悪いことだけを考えると暗い気持ちになりますが、日本発で永遠の時間観が世界に広まって行くとしたら、こんなに素晴らしいことはないと思います。そうしてキリストの教えが日本から世界へ広まって行くとしたら、これこそが全き喜びであると言えるでしょう。そのような働きを私たちの教会から始めて行くことができるとしたら、こんなに喜ばしいことはありません。
 クリスマスの日を目前にして、私たちはそのような夢を見ても良いのではないでしょうか。お祈りいたしましょう。
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平和の君(2013.12.15 礼拝)

2013-12-16 08:51:20 | 礼拝メッセージ
2013年12月15日礼拝メッセージ
『平和の君』
【イザヤ9:6,7】

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

はじめに
 きょうはアドベントの第3礼拝です。きょうは午後から千本プラザのクリスマスの集いでも20分弱のメッセージを予定していますから、この午前のメッセージの時間も、いつもの半分くらいとします。

三位一体の神であるキリスト
 きょうの聖書箇所のイザヤ9章の特に6節は、クリスマスの時に良く開かれる箇所ですね。この6節の、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」は、キリストの誕生をイザヤが預言した聖句として有名です。そしてイザヤは「主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と続けます。
 
 ここからはキリストが三位一体の神であることが読み取れます。「不思議な助言者」とは聖霊のことですね。ヨハネの福音書の最後の晩餐でイエスは弟子たちに聖霊のことを「助け主」と呼んで、次のように教えています。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

 助け主である聖霊は、このようにして私たちにすべてのことを教えて下さる助言者ですから、イザヤ9章6節の「不思議な助言者」とは聖霊のことでしょう。
 そして「永遠の父」とは、もちろん天の御父のことであり、「平和の君」とは御子イエス・キリストのことです。もう一つの「力ある神」は、この三位一体の神と私は捉えたいと思います。

「平和の君」である御子イエス
 さて、これらの呼び名の中で、きょうは「平和の君」に集中したいと思います。御子イエス・キリストは私たちに平和をもたらします。同じイザヤ書の53章でイザヤは次のように預言しました。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

 「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」とは、イエス・キリストの十字架によって私たちに平安がもたらされたということです。平安とは平和のことですね。
 また、マタイの福音書の有名な山上の説教では、イエスは次のように言いました。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)

「平和の君」であるイエス・キリストは、このように「平和をつくる者は幸いです」とおっしゃいました。マタイの福音書の山上の説教は、いろいろとわかりにくい点も多いのですが、「不思議な助言者」である助け主の聖霊が、私たちの理解を助けて下さいます。例えば、同じマタイ5章の、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)は、パウロの「弱さを誇る」という考え方が理解を助けてくれると思います。パウロは第二コリントで書きました。

「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)

 私たちの国は平和憲法という、弱さを誇る憲法を持っています。戦争放棄を明言した平和憲法は弱さを誇る憲法であると言えると思います。しかし、いま日本は弱さを誇ることをやめて、強い国作りを目指しています。私たちは「弱さを誇る」ことの大切さを、もう一度噛みしめなければならない重要な時期に立たされているのではないかと思います。この、弱さを誇ることに関しては、午後のクリスマスの集いでも、短く触れることにしています。
 そして、きょうの聖書交読の箇所のヨハネ20章では、イエス・キリストは19節、21節、26節で三度も、「平安があなたがたにあるように」、「平安があなたがたにあるように」、「平安があなたがたにあるように」と言っています。この「平安」は新共同訳では「平和」と訳されています。イエスがここで、「平安があなたがたにあるように」と三度も繰り返しているということは、このことばがよほど大切であるということです。まさにイエス・キリストはイザヤ9:6でイザヤが呼んだ通りの「平和の君」です。

「永遠」を感じるのが下手な私たち
 「平和の君」であるイエス・キリストは、私たちに「平安があなたがたにあるように」と三度も言いました。それなのに、二千年が経った今も、私たちの世界には平和はありません。世界的な大戦はそれほど頻繁にはないにしても、地域的な紛争なら絶えず世界中のどこかで起きています。それは、私たちが「永遠」を感じることが、とても下手だからだ、というのが、これまで私が語って来たことであり、これからもしつこく語って行きたいと思います。
 先週も話しましたが、これから私は「永遠」について、しつこく語り続けたいと思います。「十字架」を語るのと同じくらいの頻度で「永遠」についても語りたいと思います。
 なぜ、そんなに「永遠」にこだわるかと言うと、この頃わかって来たことなのですが、どうやら私は人よりも、たくさん「永遠」を感じることができるようなんですね。でも、どうして私が人よりも多く「永遠」を感じることができるのか、私にも良くわかっていません。それで、「永遠」を語り続けることによって、私がどのように「永遠」を感じているかが、もう少しきちんとわかって来るのではないか、と期待しています。「永遠」を感じることは「神」を感じることと、ほぼ等しいであろうと言っても良いと思います。ですから、どうしたら「永遠」をより多く感じることができるようになるのかがわかれば、まだ神を感じることができていない方々に対しても、どうしたら神を感じることができるようになるのかを、お伝えすることができるでしょう。
 そういうわけですから、皆さんには、ご忍耐をいただいて私が「永遠」について、しつこく語ることに、お付き合いを願えたらと思います。それが伝道にもつながり、この教会の成長にもつながり、長い目で見れば、世界の平和の実現にもつながって行くだろうと思います。

「永遠」と「平和」との関係
 さてそれで、今日は「永遠」と「平和」とが、どういう関係にあるのかについて、もう一度おさらいをしておきたいと思います。
 平和が実現しないのは、私たちが互いに赦し合い、愛し合うことができないからです。なぜ私たちが互いに赦し合い、愛し合うことができないかと言えば、それは私たちが「永遠」を感じるのが下手であるからだと思います。互いに赦し合うことができなければ、互いに愛し合うこともできません。そして、互いに赦し合うことは、永遠の時間の中にいるのでなければ不可能でしょう。なぜなら、【過去→現在→未来】という直線的な時間観の中では、ある瞬間においては、必ずどちらかが一方的な被害者になっている時があるからです。人は、その一方的に被害者であった瞬間に固執しがちです。そして、それが行き過ぎると恨みを抱き、報復しようとします。典型的な例が、ストーカー殺人ではないかと思います。ストーカー殺人の加害者というのは、要するに「振られた男」です。ストーカーの加害者は大部分の時間においては一方的な加害者ですが、振られた瞬間だけを見るなら一方的な被害者と言えるでしょう。その振られた瞬間のことだけを異常に膨らませて相手を恨み憎み、遂には殺人に至ると思われます。このように、瞬間・瞬間だけを切り出すなら、人は一方的に被害者になったり被害者になったりする瞬間があります。しかし、トータルの時間で考えるなら、誰でも被害者であり、加害者です。どんな人でも加害者になる瞬間はあるでしょう。ストーカーの被害者も、相手を振った瞬間だけを切り出すなら加害者です。ですから、トータルの時間の中では誰でも被害者でもあり加害者です。
 このトータルの時間が「永遠」です。それゆえ、「永遠」の時間の中では誰でも被害者でもあり加害者でもあります。私たちの皆が永遠の中では被害者でもあり加害者でもあるという共通の認識を持つことができるなら、私たちは互いに赦し合い、愛し合うことができるようになるのではないでしょうか。

直線的な時間観の奴隷である私たち
 では「永遠」は、どうすれば感じることができるでしょうか。それには、イエス・キリストが2000年前だけの存在ではなく、永遠の中を生きていることを感じれば良いのだと思います。イエスを信じる方々の多くは、今もイエスが生きておられるということは感じることができていると思います。イエス・キリストは今も生きておられます。これが「永遠」を感じる第一歩だろうと思います。そして第二歩、第三歩と進んで行くには、今だけでなく、「旧約の時代」も「使徒の時代」のあらゆる時代にも生きていることを感じることができるようになりたいと思います。また、聖書の時代だけでなく、さらに2世紀以降の現代にまで至る、あらゆる時代をイエスは生きておられるのだと感じることができるなら、より「永遠」を豊かに感じることができるのではないかと思います。
 しかし、人はかなり強烈に【過去→現在→未来】の直線的な時間観に支配されています。イエス・キリストを信じるクリスチャンでも、なかなか、この直線的な時間観の支配の束縛から自由になることができていないと私は感じています。ヨハネの福音書の時間構造が、これまで気付かれていなかったのは、直線的な時間観に支配されていたからだろうと思います。御霊が与えられているクリスチャンが、どうして直線的な時間観の奴隷になっているのか。それは多分、あまりに理性に頼り過ぎているからだと思うのですが、どうしたら、理性に頼り過ぎることをやめて、もっと霊的になることができるのでしょうか。これからも考え続けて行かなければなりません。

おわりに
 どうすれば、私たちが直線的な時間観の奴隷状態から自由になって永遠の時間観に親しむことができるようになるのか、これからも考え続けて行きたいと思いますから、皆さんにも忍耐強くお付き合い願えたらと思います。
 未来を見通すことができたイザヤは、永遠の時間の中にどっぷりと浸かり、永遠の時間観に親しむことができていた預言者だと思います。私たちもまた、イザヤのように永遠の時間の中を自由に行き来できる者になれたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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平和な世へのパラダイムシフトを目指して(2013.12.11 祈り会)

2013-12-11 21:21:59 | 祈り会メッセージ
2013年12月11日祈り会メッセージ
『平和な世へのパラダイムシフトを目指して』
【ヨハネの手紙第一4:13】

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(ヨハネの手紙第一4:13)

はじめに
 12月6日の特定秘密保護法の成立を受けて、12月8日付の朝日新聞の「天声人語」は次のように記しています。少し長いですが、全文引用します。
(ここから引用)
 作家の永井荷風は浅草のようすが気になり、足を延ばした。歓楽街の人出はいつもと変わりなく、芸人や踊り子のふるまいもまた同じ。〈無事平安なり〉と日記「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」に書き記した。1941年12月8日の日米開戦から3日後のことである▼やはり作家伊藤整(せい)の「太平洋戦争日記」は、開戦翌日の新宿を描いている。〈今日は人々みな喜色ありて明るい〉。世には祝祭気分すら漂ったらしい。日本軍による真珠湾奇襲の戦果に国中が「酔っている」と、戦後回想した学者もいる▼今から思えば、その明暗に驚く。開戦の日、北海道帝大生が軍事機密を漏らしたとしてスパイの濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた。旅の見聞を知人に話しただけだった。学生は獄中で病み、27歳で死去。後に「レーン・宮沢事件」と呼ばれ、当局による秘密独占の危うさをまざまざと物語る▼国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか。心配が杞憂(きゆう)に終わる保証はない。おととい、特定秘密保護法が成立した▼国家安全保障会議の設置と併せ、外交や軍事面で米国との連携を強めるための法律である。その先には武器輸出三原則の見直しや集団的自衛権の行使の解禁が控える。安倍政権の野望が成就すれば、平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる▼12・8の日付を忘れることはできない。今、忘れない日付のリストに12・6も加えなければならない。
(引用終わり)

 日本は再び戦争への道を歩み始めたようです。歴史は繰り返すのです。いったい私たちはいつまで、戦争を繰り返せば気が済むのでしょうか。

1.直線的な時間観では互いに愛し合えない私たち
 どうして私たちは戦争を繰り返す世界から脱却することができないのでしょうか。
 答はわかっています。私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合うことができないからです。私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合うことができないから、人類は延々と戦争を繰り返して来ました。イエス・キリストが二千年も前に「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言ったのに、人類はいまだに互いに愛し合うことができません。それは、「互いに愛し合いなさい」と言ったイエス・キリストを描いたヨハネの福音書が、永遠の中を生きるイエスを描いた書であることに人類が気付いていないからです。ヨハネの永遠の時間観に人類が気付いていないから、人類は永遠の時間の中に入ることができずに、【過去→現在→未来】という直線的な時間観に縛られています。この一次元の直線的な時間観の中で人類は過去の恨みを未来の報復で晴らすという愚かな繰り返しを延々と続けています。その報復の連鎖が小競り合いで終わるならまだしも、往々にしてその小競り合いは戦争へと発展して行きます。
 私たちは今こそ、この直線的な時間観を脱却して永遠の時間観へと移行して、平和な世界を実現しなければなりません。いわば「戦争の世」から「平和な世」へのパラダイムシフトです。この「戦争の世」から「平和な世」への移行には100年、200年掛かるかもしれません。しかし、今まで二千年掛けて出来なかったのですから、100年、200年を掛けてでも、何としても移行を果たさなければなりません。天動説から地動説への移行にも200年近くが掛かりました。地動説を唱えたコペルニクス(1473~1543)が西暦1500年ぐらいに生きていた人で、地動説のニュートン力学を完成させたニュートン(1642~1727)が西暦1700年ぐらいに生きていた人だからです。
 直線的な時間観から永遠の時間観への移行は人類にとっては天動説と地動説ぐらいの大転換ですから、すぐには移行が進まないかもしれません。しかし、今始めなければ、いつまで経っても私たちは互いに赦し合えず、互いに愛し合えない世界の中を生き続けることになってしまいます。ですから、私たちは何としてでも、永遠の時間観を感じることができるようにならなければならないと思います。

2.永遠の時間観を感じるために
 いま私は、私たちが永遠の時間観を「感じる」ことができるようにならなければならないと話しましたが、このように永遠の時間観とは「感じる」ものである、と言えるでしょう。頭で考えてわかるものではなく、感じるものです。一方、【過去→現在→未来】の直線的な時間観は、頭の中で作られ、頭で考えてわかるものです。この、【過去→現在→未来】の時間観は脳の中で作られるものであろうという話は7月15日の講演の『真の時間と人の時間』で話しました( http://blog.goo.ne.jp/numazu-c/e/29697254a595da4a09ac8616c0b3d67d )。
 この頭で考えてわかる直線的な時間観ではなく、永遠の時間観を感じることができるようになるには、どうしたら良いのか、その試みの一つとして、きょうはヨハネの手紙第一の4章13節の、

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(Ⅰヨハネ4:13)

について考えてみたいと思います。
 神は永遠の中を生きておられます、その永遠の中を生きている神を感じるのに、私たちが神のうちにおり、神もまた私たちのうちにおられるということを感じることが大事な鍵になるかもしれません。なぜなら、もし永遠を【過去→現在→未来】という直線的な時間の中で捉えていたら、神の永遠を十分に感じることができないからです。神の永遠とは、「永遠の過去」から「永遠の未来」までという直線で捉えるべきものではありません。
 この第一ヨハネ4:13の「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」を別のことばで言い換えると、「神は私たちの内側にも外側にもおられる」とも言えるでしょう。もっと別の言い方をすると、「神は私たちの小さな細胞の一つ一つを支配し、また宇宙をも支配している」とも言えますし、「神は私たちの命を創造し、宇宙も創造した」とも言えると思います。神は分子や原子や素粒子という小さな世界から、太陽系、銀河系、宇宙という大きな世界までのすべてを支配しています。それが第一ヨハネ4:13の「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」ということだと、私は感じています。このミクロからマクロへの空間的な変化は、生命の誕生から人間の誕生までの時間、或いはビッグバンから始まった原初の小さな宇宙から現在の大きな宇宙、そして未来の宇宙までのすべての時間を包含しているとも言えます。時間と空間とは一体になっています。永遠とは、このような立体感を持つものであると言えるでしょう。私たちは、そのような中に身を置いています。決して直線的なひょろ長い時間の流れの中に身を置いているわけではありません。永遠の時間とは、宇宙のような分厚い広がりを持ったものです。

3.ヨハネの福音書の【三一構造】と第一ヨハネ4:13との関係
 イエス・キリストはそのような永遠の中を生きています。そしてヨハネの福音書は独特の構造でイエスが永遠の中を生きていることを描いていることを、これまでの祈祷会と礼拝説教で、時間を掛けて説明して来ました。また、私がヨハネの福音書の独特の構造を【三一構造】と呼んでいることも話したことがあると思います。きょうは、その【三一構造】の図をまた、見ていただきたいと思います。



 この図が示すように、ヨハネの福音書の1章から11章までは、イエスが永遠の中を生きていることを描いています。ヨハネは「イエスの時代」の背後に「旧約の時代」と「使徒の時代」とを重ねて、イエスがこの三つの時代を同時に生きていることを描いています。この三つの時代は「イエスの時代」を【現在】とするならば「旧約の時代」が【過去】であり、「使徒の時代」が【未来】になります。こうしてヨハネの福音書は、イエスが【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間の中を生きていることを1~11章で描いています。そして、その三つの時代は12章において合流して一つになり、13章からの最後の晩餐において、「愛弟子」としてイエスの隣の特等席にいる私たち読者に、「互いに愛し合いなさい」とイエスは教えます。こうして、三つの時代の重なりという大きな宇宙は、イエスの教えを通して凝縮されて、私たちの内側にインプットされます。つまり私たちの外側にいる宇宙サイズの大きな神が、イエスのことばを通して私たちの内側に聖霊として入って来ます。こうして神は私たちの外側にいると同時に内側にもおられるようになります。それが第一ヨハネ4:13の、

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」(第一ヨハネ4:13)

ということでしょう。図の【三一構造】は、その宇宙サイズの大きな神が1~11章にいて、12章でぎゅっと凝縮されて13章で私たちの内側に入って行く様子を表していると言っても良いでしょう。
 こうして考えてみると、ヨハネの【三一構造】は、御霊が与えられて初めて理解できるものなのでしょう。しかし、御霊が与えられた者は、無数にいた筈です。それなのに、ヨハネの福音書のこの立体的な時間構造が気付かれていなかったのは、人類が直線的な時間観に支配されて、縛られていたからでしょう。

おわりに
 私たちは平和を実現するために、直線的な時間から永遠の時間観への移行を進める働きを、今こそ始めなければなりません。私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかるようになるには、御霊が与えられ、霊的に研ぎ澄まされていなければなりません。たとえ御霊が与えられていても、霊的に鈍感であるなら、なかなか永遠の時間観は会得できないでしょう。平和のために働くことができる者として、しっかりと霊性を整え、神と共に歩む私たちでありたいと思います。
 この大きな働きを私たちが沼津の地から始めることができますように、お祈りしたく思います。
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主のふところで感じる神の愛と永遠(2013.12.8 礼拝)

2013-12-08 14:51:54 | 礼拝メッセージ
2013年12月8日アドベント第2礼拝メッセージ
『主のふところで感じる神の愛と永遠』
【ヨハネ1:14~18】(交読)、【ヨハネ13:23、19:25~27】(朗読)

はじめに
 教会はイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスへと向かっています。きょうはアドベントの第2礼拝です。きょうの礼拝の聖書交読では、ヨハネの福音書のプロローグの後半の、1章の14節から18節までを交代で読みました。有名な1章14節には、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

とあります。ご承知の通り、この14節はイエス・キリストがヨセフとマリヤの子として、この世に生まれたことを示します。神の子であるイエス・キリストがこの世に来て下さったことで私たちにもたらされた恵みには様々なことがあります。その様々な恵みの中の一つに、18節に書かれていることがあります。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 神がどのようなお方なのか、クリスマスにイエス・キリストがこの世に生まれたからこそ、私たちはイエス・キリストを通して、神について知ることができます。イエス・キリストは神のふところにおられる神の御子ですから、神のことを良くご存知です。

1.イエスのふところにいた愛弟子
 きょうは、まず、この「ふところ」という言葉に注目します。この「ふところ」は原語のギリシャ語では「コルポス(κολποs)」で、英語ではbosomと訳されることが多いです。つまり、「胸」ですね。赤ちゃんを抱っこすると、赤ちゃんの頭がちょうど胸の所に来ます。ヨハネ1:18の「父のふところにおられるひとり子」というのは、そんなイメージでしょうか。
 この「ふところ」或いは「胸」の意味のギリシャ語の「コルポス」は、新約聖書の中では、そんなに多くは使われていません。代表的な箇所としては、ルカの福音書の16章で死んだラザロがアブラハムのふところに連れて行かれた話で使われています。ちょっと見ておきましょうか。ルカの福音書16章の22節と23節で「ふところ」が使われています。交代で、19節から25節までを読みましょう。25節はご一緒に読みます。

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 このルカ16章のラザロがいたアブラハムのふところは、ラザロが死んでから行った所です。私たちイエスを信じる者も、この世での生涯を終えたら神のふところに入ることが約束されています。しかし、実は私たちは、この世にいながらにしてイエスのふところの中に入ることができているのだ、ということが、きょうの話の要点です。
 イエスは永遠の中にいますから、そのイエスを信じて御父と御子イエスとの交わりを持つようになるなら(Ⅰヨハネ1:3)、私たちもまた永遠の中に入れられて、この世にいながらにして、イエスのふところの中に入ることができます。
 そのように私たちが、イエスのふところに入ることが示されているのが、きょうの聖書箇所の一つのヨハネの福音書13章23節です。ここには最後の晩餐の席にいた、イエスが愛しておられた弟子、すなわち「愛弟子」のことが書かれています。13章23節には、

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席についていた」

とあります。新改訳聖書をお持ちの方は、「右側で席についていた」という所に小さな星印(*)、アステリスクがあるのが見えると思います。これは、「下の注を見よ」という印ですから、下の注の「23」という所を見ると、*直訳「御胸のそばで、(食事のために)からだを横にしていた」とあります。この「御胸」のギリシャ語が、「ふところ」と同じ「コルポス(κολποs)」です。このように愛弟子は最後の晩餐の席でイエスの御胸のそばに座っていたのでした。

2.愛弟子は私たち
 では、この「愛弟子」とは誰か、という話になりますが、「イエスの時代」においては、このヨハネの福音書を書いた記者ですから使徒ヨハネでしょう。しかし、このヨハネの福音書は、これまで何度も語って来たように、イエスの地上生涯のみを描いた書ではありません。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いた書です。そして、その永遠の中に私たち読者もまたいるのですから、このイエスが愛しておられた弟子の「愛弟子」とは私たち読者のことであるということになります。
 ヨハネは、この福音書とヨハネの手紙第一で神の愛について説いています。ヨハネは神がいかに私たちを愛しているかを福音書と手紙の中で書いています。そして、この福音書と手紙は私たちに宛てて書かれた書ですから、イエスが愛された愛弟子とは、当然、私たちのことでなければなりません。私たちは霊的にそれを感じなければなりません。有名なヨハネ3:16に書いてありますね。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神は、これほどまでに私たちを愛して下さっています。このことをヨハネは、ヨハネの手紙第一でも、同じように書いています。ヨハネの手紙第一4章の7節から12節までを交代で読みましょう。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 11節に、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」とあります。私たちは、これほどまで神に愛されているとヨハネは書いているのですから、ヨハネの福音書に登場するイエスが愛しておられた者とは私たちのことであることを、しっかりと感じ取ることができなければなりません。もし、感じ取れないとしたら、それは、ヨハネの福音書のイエスを永遠の中を生きるイエスではなく、2000年前の紀元1世紀のイエスであるとしか捉えていないことになります。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いていますから、イエスを信じて永遠の中に入れられている私たちは、その永遠を感じ取り、私たちがイエスの御胸のそばにいることを感じることができるようにならなければなりません。

3.平和を実現する「永遠」の時間観
 これから私はこの沼津教会での説教では、「永遠」について、しつこいぐらいに繰り返し語って行きたいと思っています。キリスト教に「十字架」が欠かせないのと同じぐらいに「永遠」も欠かせないと私は、この頃ますます感じています。それは、「永遠」を感じることが、私たちが平和を実現するための切り札であると信じるからです。私たちの世界から戦争が無くならずに平和が実現できないのは、私たちが「永遠」を感じるのが苦手であるためだと私は考えます。私たちは「永遠」を感じるのが本当に下手です。もし「永遠」を上手に感じることができていたなら、ヨハネの福音書の永遠の時間観に私たち人類はもっと早くに気付いていたはずです。そのようにして人類が、もっと早くに「永遠」の時間観に慣れ親しんでいたなら、今頃は私たちは平和な世界を実現できていたかもしれません。なぜなら、永遠の中に身を置くなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるようになるはずだからです。
 私たちの世の中にはいろいろな争い事がありますが、私たちは全てのことにおいて一方的に被害者であるわけではありません。罪深い私たちは時には加害者の側にいることもあります。それゆえ、永遠の中に身を置くなら、私たちは皆、被害者でもあり加害者でもあります。私たちの皆が被害者でもあり加害者でもあるのだという共通の認識があるなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるでしょう。
 しかし、時間を【過去→現在→未来】の直線的な流れとして捉えるなら、ある瞬間には自分が一方的に被害者であった時間が存在します。人はその一方的に被害者になった瞬間を心の中で肥大させ、相手を恨み、憎さのあまりに報復を行ったりするから、いつまで経っても私たちに平和が訪れないのではないでしょうか。
 この永遠の時間観については、これから私は、来週も再来週も、ずっと話して行くことにしたいと思っています。「永遠」を語ることは、それぐらい大切なことだと思います。例えば、牧師が毎週のように「十字架」の話をしても、あの牧師は「十字架」の話ばかりしているなどと言う人はいませんね。私は「永遠」は「十字架」を語ることと同じくらい毎週のように語るべきことだと考えます。そうして私たちは永遠の時間観に慣れ親しんで行かなければならないと思っています。
 そのようにして「永遠」に慣れ親しんで平和を実現して行くのでなければ、私たちは、いずれはまた戦争をすることになるでしょう。いまの日本の政府は、現行の憲法のもとでも戦争ができるように、着々と準備を進めていますから、今のままなら、そんなに遠くない将来に、日本はまた戦争をするかもしれません。ヨハネの福音書が1900年も前に永遠の時間観を示しているのに、人類は未だにこの永遠の時間観を理解していないために、互いに赦し合い、互いに愛し合うことができずにいて延々と戦争を繰り返しています。

4.十字架を間近で見上げた愛弟子
 ヨハネは既に1900年も前に、福音書の読者の私たちのためにイエスの愛弟子の座という特等席を用意してくれました。そうして私たちがイエスを間近に感じることで私たちが神の愛を知り、互いに愛し合うことができるようにしてくれました。この「愛弟子」は、13章以降の何箇所かに登場しますが、中でも格別に重要なのが、この最後の晩餐の特等席でイエスからいろいろな教えを受けたことと、イエスが十字架に掛かった時にすぐそばにいて、イエスの十字架を見上げたことでしょう。
 今日のもう一つの聖書箇所のヨハネ19章の25節から27節までを交代で読みましょう。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 25節に、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパのマリヤとマグダラのマリヤが立っていた」とあり、26節に、その母のそばに愛する弟子、すなわち「愛弟子」がいたことが記されています。こうして「愛弟子」はイエスの十字架を、すぐそばから見上げていました。
 しかし、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書によれば、女たちは、十字架を離れた所から見ていましたし、ましてイエスの弟子はそこにはいませんでした。たとえば、ルカの福音書では、イエスが十字架で死んだ時のことを、次のように記しています(ルカ23:46-49)。

23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 このルカの福音書の記述が示すことは、群衆はイエスの十字架を間近で見ていたけれども、イエスの知人たちと女たちとは群衆よりも遠く離れた所からイエスの十字架を見ていたということです。なぜ近くから見なかったのか、近くにいれば自分たちも逮捕されるかもしれないという恐怖もあったでしょうし、十字架刑があまりに残酷なために、近くから見ることができなかったということもあったでしょう。いずれにしても、実際にあったことを伝えているのはヨハネではなく、ルカのほうでしょう。では、なぜ、ヨハネは女たちと愛弟子とがイエスの十字架のそばにいたと書いたのでしょうか。それは、私たち読者をイエスが生きる永遠の中に招き、その上で私たちがイエスの愛弟子としてイエスの十字架を間近で見ることができるようにするためでしょう。私たちはイエスの十字架を間近で見ることで初めて、神がいかに私たちを愛して下さっているのかを知ることができます。先ほどご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一に書いてある通りです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 神は、私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

5.不信仰な私たちを怒る神
 神は私たちを愛して下さっていましたが、同時にまた、不信仰な私たちを怒っていました。そのため、なだめの供え物として御子を遣わされました。この私たちの不信仰の罪については、私たち一人一人の個人の罪ももちろんありますが、国民、あるいは民族の不信仰も考える必要があるでしょう。旧約聖書の時代に北王国のイスラエルと南王国のユダが滅亡したのは、イスラエルの国民とユダの国民が不信仰であったからです。その国民の不信仰に神は怒っておられました。エレミヤ書にはエレミヤが預言した神の怒りが随所に記されています。

「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『わたしはなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。」(エレミヤ8:5,6)

「エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう…おまえがわたしを捨てたのだ ― 主の御告げ― おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。(エレミヤ15:5,6)

 私は、今の日本が再び戦争ができるように着々と準備を整えていることを、神が怒って見ておられるのではないかと感じています。今の政権は、憲法9条を改正しなくても、現行の憲法のままでも集団的自衛権が行使できるように憲法解釈を変更しようとしています。そして、戦争準備を秘密裡に整えることができるように、特定秘密保護法も成立させました。原発ゼロに否定的なのも、核兵器を製造できる技術を保つためでしょう。このようにして戦争ができる準備を着々と整えている政権を選挙で選んだのは、日本の国民ですから、平和を愛していない日本の国民のことを神は怒りの目で見ておられるのではないかと私は感じています。それもこれも、既に1900年前にヨハネが提示した永遠の時間観を私たちが理解できずにいるために、互いに赦し合えず、互いに愛し合うことができていないからです。
 ですから私は、これからは、できる限り「永遠」について語り続けたいと思います。教会で「十字架」が語られるのが当たり前のように、教会で「永遠」が語られるのが当たり前のことになるまで「永遠」について語り続けなければならないと思っています。

6.平和を実現するために
 このヨハネの福音書の永遠の時間観を多くの人に知ってもらうことができるよう、いま私は本を書いています。年内には何とか書き上げたいと思っていましたが、年末年始はただでさえ忙しい時期ですから、微妙な情勢です。しかし、いずれにしても来年の中頃までには、この本を出版することができればと思っています。とは言え、実は今のところ出版できる当ては全くありません。とにかく先ずは原稿を書き上げて、その原稿を人に見せて、出版できそうかどうかを見てもらい、アドバイスをもらって修正し、出版できるレベルにまで引き上げたいと思っています。このために、是非とも皆さんにお祈りしていただきたいと思います。
 この本が出版できたなら、永遠の時間観について理解する人々が増えて行き、100年、200年は掛かるかもしれませんが、平和が実現されるという希望があります。そしてそれはもちろん、この沼津の地における伝道の働きにも貢献することになります。
 ヨハネの永遠の時間観は、1900年もの間、気付かれずにいました。それだけに、人々に理解してもらうのは難しいことだと思います。人は、これまでの【過去→現在→未来】の直線的な時間観に強く支配されていますから、そう簡単に【過去・現在・未来】が一体のヨハネの福音書の永遠の時間観に慣れ親しむことはできないでしょう。しかし、だからこそ大きな希望があります。これまで人類は直線的な時間観に強く支配されていたために平和を実現することができませんでした。だからこそ、もし私たちの多くが永遠の時間観を身に付けることができるなら平和を実現できるのだ、という大きな希望があります。

おわりに
 そのための第一歩として、先ずは私たちの教会がヨハネの永遠の時間観に慣れ親しむ必要があります。そのために私は、できる限り「永遠」について語り続けたいと思います。聖書のどこから語るにしても、できるだけ「永遠」の時間観について語るようにできたらと思います。それは、聖書のどこから語るにしても「十字架」について語らなければならないのと同じです。平和を実現するためには、「永遠」は「十字架」と同じぐらいに語り続けなければなりません。
 ヨハネは福音書の中に「愛弟子」の座という特等席を私たちのために用意して、私たちが永遠の中を生きるイエスのすぐそばにいることができるようにしてくれました。それは、私たちが、永遠の中を生きるイエスとの交わりを持ち、永遠に親しむことができるようになるためです。
 私たちもイエス・キリストとともに、永遠の中を生きることができるよう、お祈りいたしましょう。
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心に留めておいたマリヤ(2013.12.4 祈り会)

2013-12-05 03:02:34 | 祈り会メッセージ
2013年12月4日祈り会メッセージ
『心に留めておいたマリヤ』
【ルカ2:41~52】

はじめに
 アドベントの期間のこの機会に、きょうはルカの福音書に記されている、12歳になったイエスの記事から学びの時を持ちたいと思います。このルカの福音書の12歳のイエスの記事は、イエスの少年時代について知ることができる唯一の記事です。イエスが30歳になるまでの過程の記事が、もっともっとあれば良かったのになと思うことですが、一つでも福音書の中に記されていたことは大きな恵みと考えるべきなのでしょう。一つも無かった時のことを考えるなら、一つでもあったことは感謝なことです。
 私たちは、この箇所からイエスについて、いろいろと思い巡らすことができますが、今日のメッセージはイエスのことではなく、イエスの両親に注目して、そこから見えてくる私たちの信仰について思いを巡らしてみたいと思います。

1.放蕩息子のような両親
 まず、この記事の、イエスを捜しまわった両親が最後に行き着いた場所が、御父の家である神殿だったことから、両親は放蕩息子に似ていることを感じます。ルカ15章の放蕩息子は自分の居場所を求めて遠い国に旅立ちましたが、自分が本来いるべき場所は父の家であることに気付いて、父の家に帰りました。ただし、放蕩息子は帰り着いた時点では、まだまだ父親のことがよくわかっていませんでした。放蕩息子は、雇い人のひとりにしてもらうつもりで父の家に戻りました(ルカ15:18)。しかし、父は「雇い人のひとりにしてください」という言葉を息子が言う前に大歓迎して、その言葉を息子に言わせませんでした。父にとって息子は我が子であり、決して雇い人ではないのです。息子は、まだまだそのことがわかっていませんでした。しかし、それでも父の愛を部分的には感じることができていましたから、遠い国から父の家まで導かれて辿り着くことができました。
 12歳のイエスを捜しまわって最後に御父の家である神殿に辿り着いたヨセフとマリヤも、似たようなところがあると思います。ヨセフとマリヤはイエスが神の子であることが良くわかっていませんでした。それでも、何か感じていることがあったから、導かれてイエスがいた神殿に辿り着くことができたのだと思います。
 このヨセフとマリヤの姿は、私たちにも似ているところがあると言えるでしょう。私たちも、イエスがどのような存在か、初めの頃は良くわかっていませんでした。しかし、何か導かれるものを感じていたと思います。教会に通うようになった経緯は人それぞれだと思いますが、イエスのことを良くわからない段階でも、何か導きを感じたという点では、共通するものがあるのではないでしょうか。

2.天の教えはなかなか理解できない
 次に、2つ目のポイントとして、天の教えは簡単には理解できないのだということを感じます。マリヤがイエスをみごもった時、ヨセフにもマリヤにもそれぞれに御使いが現れて、これから起きることを教えて行きました。また、イエスが生まれた時も、羊飼いたちや東方の博士たちが祝福に来ましたから、幼子が特別な存在であることを両親は学んでいたはずです。また、両親が幼子のイエスを主にささげるためにエルサレムに行った時も、幼子を抱いたシメオンから、この幼子が特別な子であることを聞いていました。このような、言わば天からの教えを受けていたにも関わらず、両親はイエスのことが理解できていませんでした。50節に、

「しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった」

とあります。
 これは、両親のヨセフとマリヤが鈍感であったというよりは、天の教えというのは、それだけ理解するのが難しいのだということだろうと思います。
 私自身も、教会に通い始めたばかりの頃は、いくら説教を聞いても、なかなか理解することができませんでした。しかし、通い続けるうちに、少しずつ少しずつわかるようになって来ました。皆さんも、初めの頃はそうであっただろうと思います。神に関する天の教えとは、それぐらい、なかなかわからないことです。
 ですから、私たちが伝道しても、なかなかわかってもらえないことは、ある程度は仕方がないとも言えると思います。しかし、仕方がないと言って放置していれば、状況は益々悪くなる一方です。一般の人々の霊性は今や絶滅が危惧されていると私は考えます。
 いまGoogleが開発中で、遠からず市販されるというメガネ型端末というのがありますね。どれぐらい普及するかわかりませんが、もし、このメガネ型端末が広く普及して誰もが使うようになったら、人々の霊性は絶滅するであろうと私は危惧しています。メガネを掛けることで、全く霊的でない情報が絶えず視野の中に入るようになるなら、人の霊性は死滅するしかないのではないかと私は思っています。
 そうなる前に、何とかしなければなりません。それにはヨハネの永遠の時間観を広く知ってもらうことが切り札になるだろうというのが私の考えです。

3.心に留め、思いを巡らすことでわかってくる神
 ここまで2つのポイントについて話して来ました。1つ目のポイントは、両親は放蕩息子のようであったということ、2つ目のポイントは、天の教えは簡単には理解できないということでした。
 最後の3つ目のポイントは、天の教えは理解するのが難しいけれども、それらを心に留め、思いを巡らすなら、後になってわかって来るのだということを挙げたいと思います。
 51節に、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」とあります。マリヤは、この時はイエスの言ったことの意味がよくわかりませんでしたが、心に留めておいたことで、イエスの十字架の死後にわかるようになりました。その場限りのことで忘れてしまったら、ずっとわからないままですが、心に留めておくなら、それがじわじわと心の中で発酵して、やがて豊かな恵みをもたらすようになります。
 母のマリヤはイエスが生まれて羊飼いたちが祝福に来た時も、その時のことを心に納めて思いを巡らしていました。ルカ2章の19節ですね。2章の15節から見ましょうか。ルカ2章の15節から19節までを交代で読みましょう。

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

 19節のように、マリヤというのは、こういう思いもよらない出来事が起こった時に、思いを巡らすことができる女性だったのですね。それは、御使いが来てマリヤに受胎告知をした時もそうでした。ルカの29節ですね。28節と29節を交代で読みましょう。

1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 マリヤはひどくとまどった、とありますが、それでも考え込むことができる女性でした。よく使われる「頭が真っ白になる」という表現がありますね。もしマリヤがとまどってパニックになり、頭が真っ白になってしまったなら、マリヤは考え込むことはできなかったでしょう。
 ルカが福音書にマリヤが考え込んだり思いを巡らしたりした状況を書き記したのは、これらの出来事が伝承を基にしたものや、人々の曖昧な記憶を基にしたものではないことを表していると言えるでしょう。ルカはこの福音書の冒頭で書いています。1章の3節と4節をお読みします。

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
1:4 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

 ルカはすべてのことを綿密に調べて福音書に書きました。マリヤに直接取材することができたのかどうかはわかりませんが、このマリヤのこともしっかりと調べて書きました。マリヤがこのような女性だったことは、弟子たちが後にイエスを理解する上で、随分と役に立ったのではないかと思います。イエスは神の子ではなく優秀な教師だったのだという説がありますが、教師ではなく神の子であったことはマリヤの証言によってわかります。
 そんなマリヤでも、はじめは、なかなかイエスのことを理解できていませんでした。天の教えというのは、それほどまでに理解するのが難しいのだと思います。しかし、それほど難しいことであっても、心に留め、思いを巡らすならわかって来ます。

おわりに
 このように理解が難しい天の教えを私たちが伝道して行くのは本当に困難なことだと思います。しかし、それでも私たちは粘り強く伝道して行かなければなりません。この天の教えが理解できるようになった私たちは素晴らしい恵みをいただいています。そして神様は、全ての人がこの教えを理解できるようになることを望んでおられます。
 今年のクリスマスに、一人でも多くの方々が私たちの交わりに入ることができるよう、共に伝道に励んで行きたく思います。
 お祈りいたしましょう。
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ひっそりと生まれた幼子(2013.12.1 礼拝)

2013-12-02 06:50:42 | 礼拝メッセージ
2013年12月1日アドベント第1礼拝メッセージ
『ひっそりと生まれた幼子』
【ヨハネ11:53~12:3】

はじめに
 先聖日は聖餐の恵みに与ることができて感謝でした。また、司式の先生の説教でヨハネの福音書4章のサマリヤの女の箇所から幸いなメッセージを聞くことができたことも、大きな恵みでした。今年の私のヨハネの福音書からのメッセージでは、専ら「イエスの時代」の背後に存在する「旧約の時代」と「使徒の時代」についてのみ語って来ましたから、「イエスの時代」についてじっくりと語る説教の必要性も、私は個人的には示されました。ただし、今の時点での私の使命は、ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いた書であることを多くの方々に知っていただくことであると確信していますから、当分の間は「イエスの時代」以外の「旧約の時代」と「使徒の時代」の領域について語って行くことになると思います。

1.「ルビンの壺」のたとえ
 しかし先週の説教は専ら「イエスの時代」に関するものでしたから、皆さんの中には、ヨハネの福音書における「イエスの時代」と、背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」とはどのような関係になっているのか、少し戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。それで、ここで少し説明をしておきたいと思います。


 図1(左)ルビンの壺(描画 John smithson 2007)  図2(右)ヨハネの福音書

 週報の3ページ目の図1と図2を見て下さい。図1の絵は「ルビンの壺」と呼ばれるものです。心理学の関係の本には良く載っている有名な絵ですから、見たことがあるという方も多いと思います。図1の白黒の絵を見ていただきますと、内側の白い部分は壺の形に見えますが、外側の黒い部分では、人の顔が向き合っているように見えます。この白黒の絵は観方によって壺に見えたり人の顔に見えたりします。
 ヨハネの福音書は、この「ルビンの壺」の絵に少し似ているように私は感じています。図2がそれです。ヨハネの福音書では内側の白い部分が「イエスの時代」に当たると言えそうです。そして外側の黒い、人の顔の部分が「旧約の時代」と「使徒の時代」です。図2では黒い領域を元の図1の黒い領域よりも、かなり大きくしてあります。それは、「イエスの時代」がせいぜい30年程度であるのに対して、「旧約の時代」と「使徒の時代」は永遠の中にあるからです。週報という限られた紙のサイズの中では、この程度の広さでしか印刷できませんが、本当は、この黒い部分は宇宙サイズのものであると言えます。先週、私たちが聞いた説教は、図1の左にある壺の絵に当たる部分です。これはこれで、もちろん極めて大切な部分です。イエスの地上生涯があったからこそ、私たちは大きな恵みをいただくことができています。しかし私たちは、この壺の部分を囲っている永遠という広大な領域があることもまた、しっかりと認識する必要があります。この部分を感じることができて初めて、神の愛の宇宙規模の大きさを感じることができます。この外側の宇宙規模の領域を感じることができない間は、私たちは地球規模の神の愛しか感じることができていないと言えるでしょう。地球は私たち人間にとっては大きな星ですから、地球規模の愛でも十分に大きいとも言うことができます。しかし、地球は宇宙サイズから観れば、小さな星に過ぎません。神様の愛が宇宙サイズなのに、地球サイズの愛しか感じられないのは、実にもったいないことです。

2.「ひっそり」で霊性を研ぎ澄ます
 神様は宇宙サイズの大きな愛で私たちを包んで下さっています。私たちは、この大きな愛をできる限りたくさん感じることができる者でありたいと思います。それには霊性を研ぎ澄ますことが必要です。そして、この霊性を研ぎ澄ますための訓練として、クリスマスの日の主イエス・キリストの誕生について思いを巡らすことは、とても有効なことと言えるでしょう。なぜなら、きょうの説教のタイトルにもあるように、幼子のイエスはひっそりと生まれたからです。私たちはクリスマスの時期には、いろいろな飾り付けをして、にぎやかに過ごします。これが、幼子がひっそりと生まれたことを思い巡らすことにも有効に働きます。なぜなら、にぎやかであることと、ひっそりと静かであることとの対照がコントラストとなって、その違いが際立って来るからです。普段のような地味な雰囲気の中では、幼子が地味にひっそりと生まれたことはコントラストになりませんから今ひとつピンと来ませんが、このように、にぎやかに飾った雰囲気の中に身を置くと、実はイエスはひっそりと地味に生まれたんですよ、ということが良~くわかっていただけるのではないかと思います。そして、イエスがひっそりと生まれた状況に思いを巡らすことで、私たちの霊性は研ぎ澄まされて行くことができます。
 きょうは、まずルカの福音書とマタイの福音書のイエスの降誕の場面を見て、実はイエスはひっそりと誕生したのだということをこの二つの福音書から確認して、そして後半において、今日の聖書箇所のヨハネの福音書から、イエスがひっそりと誕生した状況についての、極めてヨハネらしい描き方を見ることにしたいと思います。

3.ルカのイエス降誕の記事の「ひっそり」
 まず、ルカの福音書から見ます。ルカの福音書のイエスの誕生の記事はルカ2章の1節から20節までに書かれています。毎年のクリスマスの時期にはたいてい開かれる箇所で、皆さんも良くご存知だと思いますから、あまり詳しく見ることはしませんが、イエスがひっそりと生まれたのだというポイントだけは押さえておきたいと思います。
 まず、2章の始めの方には、ヨセフとマリヤがナザレの町からベツレヘムに移動したことが書かれています。4節に、

「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」

とあります。そしてマリヤは、このベツレヘムでイエスを産みました。もしマリヤがナザレでイエスを産んだのなら、周囲に親族や知人が大勢住んでいたと思いますから、イエスがひっそりと生まれることはなかったでしょう。ベツレヘムはヨセフの祖先の町ですが、祖先が住んでいたのは、ずっと昔のことでした。もしヨセフの親戚がベツレヘムにいたのなら、ヨセフとマリヤは宿屋を探す必要は無かったでしょう。親戚の家に泊めてもらうことができたはずです。そんなわけで、ベツレヘムにはヨセフとマリヤの親戚も無く、宿屋にも泊まることができない状況でイエスが生まれました。6節と7節ですね。

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 このようにして、幼子のイエスは家畜小屋でひっそりと生まれました。その後で御使いたちや羊飼いたちが登場しますから、一見するとにぎやかなように見えますが、実はそうではありません。13節に、

「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った」

と書いてありますから、何だか、にぎやかそうな感じがします。教会学校のイエスの聖誕劇などでは、子供達が御使いの恰好をしてたくさん出て来たりしますから、にぎやかに感じますが、実は御使いや天の軍勢というのは霊的な存在です。霊的にはにぎやかかもしれませんが、これは目に見えない世界のことです。御使いたちは羊飼いたちに現れましたから、羊飼いたちには見えていました。しかし他の人たちには見えていませんでした。ですから、教会学校の聖誕劇のようなにぎやかな世界は、霊的な世界のことであって、目に見える世界では、ひっそりとしていたのでした。
 そして、羊飼いたちは生まれたばかりの幼子のイエスを見に行きましたが、これも必ずしもにぎやかな出来事ではなかったと思います。15節と、16節、

「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」

 当時の羊飼いたちの社会的身分は低かったと言われています。羊飼いたちは人間中心ではなく羊中心の生活をしていました。羊の生活に自分たちの生活を合わせていましたから、一般のユダヤ人のような生活はできませんでした。羊の世話をするために安息日にも働かなければなりませんでしたし、律法の細かい決まり事もなかなか守ることができなかったでしょう。それゆえ羊飼いたちは軽蔑されていたと言われています。そんな彼らはベツレヘムの町の中で夜中に大騒ぎをすることは無かったでしょう。周囲をはばかって静かにキリストの誕生を祝ったことと思います。20節に、「羊飼いたちは、…神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とありますが、決して大声で讃美歌を歌ったわけではないでしょう。イエスは目立たずに生まれ、羊飼いたちにも静かに祝福されたのでした。もし目立つ形で生まれていたなら、ヘロデ王も、イエスの誕生のことを知ったはずです。しかし、ヘロデ王は、イエスの誕生を知りませんでした。

4.マタイのイエス降誕の記事の「ひっそり」
 今度はマタイの福音書を見ましょう。先ほど聖書交読で読んだ箇所です。マタイ2章の1節と2節をお読みします。
 
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」

 そして、3節に、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」とありますから、ヘロデ王は東方の博士たちから聞くまではイエスが生まれたことを知りませんでした。ですから、イエスはひっそりと生まれたのでした。
 3節で、ヘロデ王が恐れ惑ったのは、自分の王としての地位をおびやかす者が生まれたからでしょう。ユダヤ人の王は自分なのに、東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と言ったので、ヘロデは自分の王位が奪われるのではないかと恐れました。それで、ヘロデは、この幼子を殺そうと思いました。8節ですね。8節でヘロデは博士たちに言いました。

「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

 ヘロデは「私も行って拝むから」と言っていますが、実は拝むつもりなど無く、殺すつもりでした。それは13節からわかります。13節、

「彼ら(博士たち)が帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』」

 こうしてヨセフとマリヤはイエスを連れてベツレヘムを離れたので、幼子のイエスはヘロデに殺されることから免れることができました。このようにマタイの福音書とルカの福音書には、イエスがひっそりと生まれた時の状況が書かれています。

5.ヨハネの背後の旧約から新約への流れ
 では、いよいよ今日の本題の、ヨハネの福音書を見ることにしましょう。聖書朗読では、ヨハネの福音書の11章53節から12章3節までを司会者に読んでいただきました。実は、ここにイエスの誕生の記事が密かに置かれています。ヨハネの福音書は、こうしてイエスがひっそりと生まれた状況をヨハネらしい独特の描き方で表現しています。
 このヨハネ11章53節から12章3節までの間にイエスの誕生が隠されているのですが、どこにあるかわかりますか。霊性を研ぎ澄まして感じ取ってみて下さい。ここが学校でしたら、来週の日曜日までの宿題、ということにすると思いますが、この礼拝の場は学校ではありませんから、答をお話しすることにします。
 答を話す前に、この箇所の前後の状況を確認しておきましょう。まず、後ろの状況ですが、12章の13節でイエスはエルサレムに入京しました。そうして13章から17章まで最後の晩餐があり、18章でイエスは逮捕され、19章で十字架に付けられて死に、20章で復活しました。
 次に、きょうの聖書箇所の前の、11章までの状況ですが、ここでは背後の「旧約の時代」に注目しなければなりません。これまでにこの礼拝説教で話して来た、背後の「旧約の時代」のことを、もう一度、ごく簡単におさらいしておきます(一部、まだ話していないことが含まれるかもしれませんが)。ヨハネの福音書は「初めに、ことばがあった」(ヨハネ1:1)で始まりますから、まず1章の背後には創世記の神が万物を創造した時代があります。そしてさらにアブラハムとヤコブの時代があります。次の2章の背後には出エジプト記の時代があります。そして3章の背後にはエジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を放浪していた時代があります。また、4章の背後にはイスラエルが南北に分裂した後のエリヤの時代、6章の背後にはエリシャの時代があり、6章の終わりで北王国が滅亡しました。そして7章はヒゼキヤ王の時代、8章はマナセ王とアモン王の悪魔の時代、9章の背後にはヨシヤ王の時代に律法の書が発見された出来事があります。続いて10章の背後にはエレミヤの預言が書かれた巻き物をエホヤキム王が燃やしてしまったことやユダの民がヨルダンの向こう側のバビロンに捕囚として引かれて行ったことが重ねられています。そうして11章の始めにユダの民はエルサレム帰還を許されて再びヨルダンのこちら側のユダヤの地に戻り、エルサレムの町を再建しました。11章のラザロのよみがえりの背後には、エルサレムの町がエズラ・ネヘミヤの時代に復興した様子が重ねられています。
 ですから、11章の背後にはエルサレムの再建の出来事があり、12章にはイエスがエルサレムに入京したことが書かれているのですから、イエスが生まれた箇所は、この11章のラザロのよみがえりの後から12章のエルサレム入京の前までの、どこかであることになります。その範囲を狭めて行くために、もう一つ、興味深い箇所を紹介しておきます。11章の54節を見て下さい。この54節に、

「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで」

と書いてあります。ということは、それまではイエスはユダヤ人たちの間を公然と歩いて来たということです。公然と歩いて来たとは、イエスの歩みが聖書に記されている、ということです。ヨハネの福音書は、「旧約の時代」と「使徒の時代」を「イエスの時代」に重ねることで、永遠の中を生きるイエスが「旧約の時代」にも「使徒の時代」にも生きていることを示しています。そのイエスの「旧約の時代」における歩みとは、旧約聖書に書かれている事柄です。さてしかし、旧約聖書の最後にあるマラキ書から新約聖書の時代までの約400年間のことは、聖書には表立っては記されていません。聖書に公然と記されていない時代があるということです。それゆえこの空白の400年間におけるイエスの歩みは聖書には記されていません。その時代は旧約聖書の時代と新約聖書の時代の間にあることから、中間時代と呼ばれます。ですから、ヨハネの福音書11章54節の「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで」は、この中間時代のことを言っているということになります。

6.ヨハネがひっそりと置いたイエス降誕
 これで、イエスの誕生について書かれた箇所がどこであるかの範囲が、だいぶ狭められたことになりますね。イエスの誕生は中間時代を経た後のことですから、ヨハネ11章の54節よりも後でなければなりません。
 そうして注意深く読んで行くと、11章57節に目がとまります。

「さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」

 これは、53節から続いていることです。即ち、53節に、「彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた」とありますから、57節で祭司長とパリサイ人がイエスを捕えようとしたのは、イエスを殺すためであることがわかります。
 ここから、このヨハネ11:57は、ヘロデ王が幼子のイエスを殺すために捜したことと重ねられていることがわかります。
 このヨハネ11:57がイエスの誕生と重ねられていることは、なかなか気付かないことですから、ヨハネの福音書におけるイエスの誕生の記事は、本当にひっそりと置かれていることになります。

 さて、この「ひっそり感」を深く味わうために、もう一度、旧約聖書の創世記の時代からの流れを思い起こしていただきたいと思います。永遠の中を生きるイエス・キリストは創世記の初めの時からおられ、アブラハムの時代、モーセの時代、エリヤの時代、エレミヤの時代と、すべての時代にイスラエルの民と共におられました。そして、マラキの時代の後の中間時代においても、公然とではありませんが、やはり人々と共におられました。この旧約の時代においてイスラエルの民は神に反逆し続けました。神を信じることがあっても、すぐにまた神から離れてしまいました。信じてはすぐに神から離れてしまうということを何度も何度も繰り返しました。
 それは、私たちも同じです。私たちは神から離れやすい罪の性質を持っているからです。その罪人である私たちを救うために、救い主イエス・キリストは、ひっそりと、この世に遣わされて生まれました。なぜ「ひっそり」なのか、それは、神は霊だからです。霊は目に見えませんから、ひっそりとしか存在することができません。だから、私たちは、この「ひっそり感」を深く味わって霊性を研ぎ澄ますことが必要です。霊性が研ぎ澄まされて、この「ひっそり感」を深く味わうことができるようになるなら、この世の人々が霊的なことに、いかに鈍感であるかが、良くわかるようになります。私たちも、かつては霊的なことに全く鈍感でしたが、イエス・キリストが私たちの前にはっきりとした形で現われて下さいましたから、鈍感な私たちでも信じることができるようになりました。

7.霊的に鈍感なら結局はわからない神
 このようにイエス・キリストは生まれた時はひっそりとこの世に遣わされて来ましたが、成長して約30歳になったときに、人々の前にはっきりと現われて、公的な宣教活動を始めました。それは、鈍感な私たちでもイエスの姿を通じて神を見て、神を信じることができるようになるためでした。神は霊ですから見えませんが、イエスの姿は見ることができます。しかし、結局は人々の多くは目に見えるイエスが神の子であることを信じないで、イエスを十字架に付けて殺してしまいました。
 ここからわかることは、霊的に鈍感な者は、たとえ神が目に見える形で存在しても、結局は信じることができないということです。神が目に見えようが見えまいが、霊的に感じることができないのであれば信じることができないということです。公的な宣教活動をしていたイエスはひっそりと存在したのではなく、バッチリと現われて自分は神の子だと言ったのに、人々は信じませんでした。霊的に鈍感な者は、たとえ神がバッチリと目の前に現われても、信じることができません。だからこそ、私たちは霊性を研ぎ澄ますことが必要になって来ます。この霊性は、絶えず研ぎ澄ましていなければ、すぐに鈍感になってしまうものです。霊性が冴えている時にイエスを感じることができ、信仰を持つことができるようになったとしても、霊性が鈍るならイエスを感じることができなくなり、やがて信仰から離れてしまうことになります。礼拝には欠かさず毎週出席したほうが良いのは、そのためです。神は霊ですから、霊とまことによって礼拝を捧げることで、私たちの霊性は研ぎ澄まされて行きます。しかし、単に習慣として礼拝に出席するだけなら、霊性は鈍って行ってしまうでしょう。霊性が鈍ってしまうなら、イエス・キリストがどんなにバッチリと私たちの前に現われて下さったとしても、私たちは神を感じることができなくなってしまいます。

おわりに
 イエス・キリストは私たちを救うために、この世にひっそりと生まれて下さいました。ひっそりと生まれたのは、私たちがこの「ひっそり感」をしっかりと味わうことができるようになるためであるとも言えるでしょう。私たちは、この「ひっそり感」をしっかりと感じることができる者でありたいと思います。そして、この素晴らしい霊的な恵みの世界を、地域の人々に伝えて行くことができる者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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