2022年10月30日礼拝メッセージ
『泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す』
【創世記26:17~25】
はじめに
きょうは私たちが今使っている『聖書 新改訳2017』の名前の由来から話を始めたいと思います。
新改訳聖書の2017年版は2017年に発行されましたから、2017という数字が付けられています。この2017年版は最初の計画ではもう少し早い年に発行される予定だったようです。では、もしこの新しい聖書が2015年に発行されていたら、『聖書 新改訳2015』という名前が付けられたのでしょうか?たぶん、そんなことは無かったでしょう。きっと別の名前が付けられたことと思います。
きょうはその辺りから、話を始めます。きょうの中心聖句は創世記26章18節です。
そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ
①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
本を買うと、おしまいの方のページにその本の発行日などを記した奥付がありますね。私たちが使っている『聖書 新改訳2017』の奥付を見ると、「2017年10月31日 発行」と印刷されています。10月31日と言うと、ハロウィンを思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この10月31日は宗教改革記念日の10月31日でしょう。特に2017年の10月31日はルターが教会の扉に「95箇条の提題」をハンマーで打ち付けてから、ちょうど500年目の宗教改革記念日でした。宗教改革が始まってからちょうど500年目の記念すべき年に、この聖書が発行されたので『聖書 新改訳2017』という名前が付けられたと5年前の発行当時は言われていたように記憶しています。ですから、もし2015年や2016年に発行されていたとしても、新改訳2015とか新改訳2016という名前は付けられなかっただろうと思います。宗教改革から500年という記念すべき年だったからこそ、新改訳2017となったのだと思います。
でも「あとがき」を見ると、宗教改革のことには一切触れられていません。これは私の個人的な憶測ですが、カトリックへの配慮があったのではないかなという気がします。宗教改革によって西方のキリスト教会はカトリックとプロテスタントとに分裂しました。プロテスタントの「プロテスト(protest)」という英語の動詞は日本語に訳すと「抗議する」ですから、プロテスタントとは「抗議する人」というような意味です。こうして、西方教会は二つに分裂してしまいました(後にはさらに分裂して行きます)。2017年の11月23日には長崎でカトリックとルーテルの合同記念礼拝が行われていますから、両者の歩み寄りの動きに水を差すようなことは控えたのかもしれませんね。
ルーテルとはルターのことですから、ルーテル教会はルター派の教会です。おとといの金曜日の静岡朝祷会のメッセージの担当者は偶然だと思いますが、静岡ルーテル教会の先生でした。きょうの30日にはルーテル教会では宗教改革記念礼拝を行うということで、おとといの朝祷会ではルーテルの先生がルターの宗教改革について熱く語って下さいました。ルターについては私も神学校でそれなりに聞いて学んでいますが、やはりインマヌエルの先生がルターについて語るのと、ルーテルの先生がルターについて語るのとではぜんぜん違うなと思いました。ルーテルの先生は実に生き生きとルターについて熱く語って下さいました。
ルターの宗教改革については、クリスチャンでなくても中学や高校の歴史の時間に学びますから、一般の中学生でも知っていますね。私も中高生の時に学んだ覚えがあります。この時、「免罪符」のことを学びましたが、「免罪符」は誤解を招きやすい誤った表現です。免罪符ではなく、贖宥状や免償符ということばがありますから、そちらを使うべきです(週報p.2)。ただ、贖宥状は難しいことばですから、免償符で説明します。
免罪符という言い方が誤りなのは、お金を払ってこれを買えば罪を免れますよと当時の教会が言っていたわけではないからです。罪はイエス様の十字架によって赦されていますから、罪は既に免れています。でも、償いはしなければならないと教会は教えていました。たとえば善い行いをして償います。その善い行いをする代わりにお金で免償符を買えば、それ以上償いをしなくても良いですよ、というものです。
もし償いが十分にできないなら煉獄で苦しまなければならないというのが教会の教えでした。でも善い行いの代わりに免償符を買えば煉獄で苦しまなくても良いということで、多くの人が免償符を買い求めました。しかも、これは自分の死後のことだけでなく、既に亡くなった自分の両親や祖父母や先祖が今煉獄で苦しんでいるかもしれない、そのご先祖様のことも煉獄から救い出せると言っていたそうです。そうして、教会は多大な収入を得ていました。この免償符で得た収入で教会は立派な会堂を建てたり、或いは、もしかしたら司教が使途不明の使い方をしていたかもしれません。このようにして、当時の教会では世俗化がどんどん進んでいました。
それに対してルターは、人は善い行いによって救われるのではない、ましてやお金で救われるのではない、ただ信仰によってのみ救われるのだと抗議しました。この500年前の免償符がおかしいことは、500年後の私たちが外から冷静に眺めていればすぐに気付くことです。でも、その渦中にいるとなかなか気付きにくい性質のものかもしれません。それゆえ21世紀の現代においても未だに旧統一教会の問題や霊感商法などの問題があります。
②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
免償符をお金で買えば償いを免れて、自分もご先祖様も煉獄で苦しむことはないというような誤った教えは、私たちの信仰を濁らせる泥水のようなものです。神様が与えて下さる信仰の水は透き通っていて透明ですが、泥水が信仰を濁らせます。この泥水は時に恐ろしい勢いで私たちを飲み込もうとします。きょうの聖書交読でご一緒に読んだ詩篇69篇の1~3節でダビデは神様に向かって叫びました。
このところ毎週のように言っていますが、いま私たちはとても悪い時代の中を生きています。コロナ禍、戦争、温暖化による異常気象、そして最近の旧統一教会の問題も教会にとっては憂慮すべき深刻な問題です。これらの問題は大水のように私たちを襲い、詩篇69篇のダビデのように私たちを押し流そうとしています。この泥水は恐ろしいことに、たとえ溺れ死ぬことを免れたとしても、水が引いた後には大量の泥を残します。
9月23日から24日に掛けて静岡の南方を通過した台風15号では1974年の七夕豪雨以来の記録的な大雨が降り、送電用の鉄塔2基が倒壊して私たちが住む地域の多くが約12時間もの長い間停電する被害がありました。そして、清水区の巴川の流域や葵区の安倍川の流域では多くのお宅が床上浸水の被害に遭いました。
私は静岡市の災害ボランティアで、主に油山地区や松野地区などの安倍川流域の山間部に入って活動していますが、ここでは多くのお宅や畑などが1メートル前後の浸水の被害に遭って、水が引いた後に大量の泥が残されました。この安倍川流域の山間部の浸水は、安倍川の水が堤防を越水したことによるものではなくて、山に降った大量の雨水が谷や沢に集中して安倍川に流れ込む小さな川が氾濫して、地域一帯が水没したということのようです。最初にこの地域に入った時に、安倍川が越水したわけではないのに、どうしてこんなに広い地域が浸水の被害に遭ったのかが良く分からないでいました。
でも何回目かに現地に入った時に、地元の農家の方が山の土砂崩れの跡を指さして、最近は山の木の間伐ができていないから、木が密集していて十分に根を張ることができなくて、土砂崩れが起きやすくなっていると教えてくれました。それで分かったのですが、間伐などの森林管理が十分にできていないと山は雨水をスポンジのように吸い込む機能が失われて、降った雨水の多くが山の表面を流れて谷や沢に集中し、その結果、安倍川に流れ込む小さな川が氾濫した、ということのようです。山からの雨水ですから、山の土もたっぷりと含んでいて、水が引いた後では家も畑も泥まみれになりました。排水溝や側溝も泥でふさがれて排水が悪くなっています。
その泥を、スコップなどで出す作業をしていますが、ふと祈祷会で開いた創世記26章でアブラハムの息子のイサクが父の時代に掘られた井戸を掘り返した場面と重なりました。きょうのメッセージの後半では、このことを分かち合いたいと思います。
創世記26章を開いて下さい(旧約p.43)。少し長い場面なので聖書朗読では司会者に17節から読んでいただきましたが、まず1節を見ておきたく思います。
この時、イサクたちが住んでいたカナンの地では飢饉が起きたために、カナンの南の方にあるペリシテ人の地のゲラルに行きました。途中は飛ばして、次のページの12節と13節、
主はアブラハムと同じように息子のイサクも祝福されたので、彼は非常に裕福になりました。しかしそのことで、イサクはペリシテ人にねたまれることになりました。14節と15節、
この箇所を読んでいて、井戸から湧き出る水は信仰を象徴しているように感じました。ヨハネの福音書4章で井戸の水を汲みに来たサマリアの女性にイエス様はおっしゃいましたね(週報p.2)。
神様であるイエス様が与えて下さる水は信仰の水です。アブラハムの時代に掘られた井戸からは、信仰の水が豊かに湧き出ていました。そして、イサクも神様に祝福されて信仰の水の恵みをいただいていました。しかし、そのことでペリシテ人のねたみを招いたために、井戸がふさがれてしまって、信仰の水を汲み出すことができなくなりました。神様に祝福されると、却ってそのことで信仰の危機を招くというようなことは、新約の時代の教会にもあることです。現代でも聞く話ですが、ルターの時代に免償符を買うことを勧めていた教会も、祝福されたゆえに悪魔の攻撃を受けて世俗化してしまいましたから、同じだと言えそうです。そうして信仰が濁り、遂には信仰の井戸がふさがれてしまいました。
イサクの場合も信仰の危機に瀕したことでしょう。父アブラハムの井戸を失い、やけになって信仰も失うということだって有り得ないことではないでしょう。たとえばアブラハムの甥のロト、つまりイサクのいとこのロトであったら、少し軟弱な印象がありますから、信仰を失っていたかもしれません。でもイサクはそんなことはありませんでした。17節から19節、
イサクは父アブラハムの時代に掘られて、その後ペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返しました。つまり、イサクは自分の信仰の井戸を掘り返しました。18節には、「それら」と複数形が使われていますから、井戸は1つではなかったのですね。父アブラハムの時代の井戸は複数あり、イサクはそれらを掘り返して、父が付けていたのと同じ名前を付けました。そんなイサクに神様は信仰の水を与えて下さいました。しかし、またしてもペリシテ人の妨害に2度も遭いました。それでもイサクは他の場所で粘り強く井戸をしもべたちと掘りました。22節、
イサクは、ここは主が与えて下さった地だと言いました。イサクの信仰はペリシテ人の妨害を受けても、少しも失われていなかったのですね。そのような信仰を持つイサクに主が現れて下さいました。23節と24節、
主は、イサクを「アブラハムのゆえに」祝福すると仰せられました。でも、この祝福はイサクがアブラハムの息子だからという理由で自動的に与えられたわけではありません。ふさがれた信仰の井戸をイサクが粘り強く掘り返したからこそ、祝福が与えられました。このイサクの信仰の姿勢は25節にも良く現れています。25節、
イサクは祭壇を築いて主の御名を呼び求めました。別訳では「主に祈った」と脚注にあります。イサクは祈りの人でもあったのですね。こうして信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰が、息子のイサクにしっかりと受け継がれて、ヤコブへと引き継がれて行きました。このように信仰がアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれて行った様子は、信仰を次の世代に引き継いで行かなければならない現代の私たちにとって、良い参考になるのではないでしょうか。
③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ
明日の10月31日は宗教改革記念日です。ルターの宗教改革も、免償符の販売によって泥でふさがれてしまった信仰の井戸を掘り返すようなものだったと言えるのではないでしょうか。1517年という年は宗教改革の始まりに過ぎず、そこに多くの人々が加わって行き、粘り強く改革が続けられました。イサクがしもべたちと粘り強く井戸を掘り続けたことに似ています。そしてイサクがそうであったように、ルターも数々の困難な目に遭いました。そうして、プロテスタント教会が後に引き継がれて行きました。
そして私たち自身もまた信仰の井戸を掘り返すことを続けて行かなければなりません。私たちの信仰は一度井戸を掘ればそれで良し、というわけではないでしょう。様々に困難な目に遭う中で活力を失い、ふさがれて行きます。その度に私たちは井戸を掘り返さなければなりません。そうして神様から濁っていない、きよい信仰の水が与えられ続けて初めて、次の世代へと引き継いで行くことができる、そのことを今日のイサクとルターは教えてくれていると思います。
おわりに
聖書に基づく信仰は、掘り返す度に新しい発見があるものです。前の世代から受け継いだ信仰も大切にしつつ、新しい発見をするワクワク感も大切にしたいと思います。そういうワクワク感が無ければ若い人々に聖書の魅力を伝えることは困難だと思います。先月から今月に掛けてeラーニングで新たに学んだ『包括的信仰を求めて』の講座では、これまでのキリスト教信仰がひっくり返されるようなビックリすることを学びました。でも、それは決して奇抜なことではなくて、聖書にちゃんと書いてあることでした。こういう新しいことが学べるから、聖書の学びは本当に楽しいと感じます。そして、そのことのゆえに主の御名を崇めます。今回のeラーニングで学んだことを皆さんにいきなり話すとビックリすると思いますから、今は控えますが、少しずつ紹介して分かち合って行けたらと思っています。そうして、次の世代にイエス様の福音を伝える準備をして行きたいと思います。
私たちの信仰の井戸は放っておくとすぐに泥でふさがれてしまうことを創世記26章のイサクと宗教改革のルターは教えてくれています。ですから、イサクやルターのように私たちも信仰の井戸を掘り返す営みを続けて行きたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。
『泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す』
【創世記26:17~25】
はじめに
きょうは私たちが今使っている『聖書 新改訳2017』の名前の由来から話を始めたいと思います。
新改訳聖書の2017年版は2017年に発行されましたから、2017という数字が付けられています。この2017年版は最初の計画ではもう少し早い年に発行される予定だったようです。では、もしこの新しい聖書が2015年に発行されていたら、『聖書 新改訳2015』という名前が付けられたのでしょうか?たぶん、そんなことは無かったでしょう。きっと別の名前が付けられたことと思います。
きょうはその辺りから、話を始めます。きょうの中心聖句は創世記26章18節です。
創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ
①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
本を買うと、おしまいの方のページにその本の発行日などを記した奥付がありますね。私たちが使っている『聖書 新改訳2017』の奥付を見ると、「2017年10月31日 発行」と印刷されています。10月31日と言うと、ハロウィンを思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この10月31日は宗教改革記念日の10月31日でしょう。特に2017年の10月31日はルターが教会の扉に「95箇条の提題」をハンマーで打ち付けてから、ちょうど500年目の宗教改革記念日でした。宗教改革が始まってからちょうど500年目の記念すべき年に、この聖書が発行されたので『聖書 新改訳2017』という名前が付けられたと5年前の発行当時は言われていたように記憶しています。ですから、もし2015年や2016年に発行されていたとしても、新改訳2015とか新改訳2016という名前は付けられなかっただろうと思います。宗教改革から500年という記念すべき年だったからこそ、新改訳2017となったのだと思います。
でも「あとがき」を見ると、宗教改革のことには一切触れられていません。これは私の個人的な憶測ですが、カトリックへの配慮があったのではないかなという気がします。宗教改革によって西方のキリスト教会はカトリックとプロテスタントとに分裂しました。プロテスタントの「プロテスト(protest)」という英語の動詞は日本語に訳すと「抗議する」ですから、プロテスタントとは「抗議する人」というような意味です。こうして、西方教会は二つに分裂してしまいました(後にはさらに分裂して行きます)。2017年の11月23日には長崎でカトリックとルーテルの合同記念礼拝が行われていますから、両者の歩み寄りの動きに水を差すようなことは控えたのかもしれませんね。
ルーテルとはルターのことですから、ルーテル教会はルター派の教会です。おとといの金曜日の静岡朝祷会のメッセージの担当者は偶然だと思いますが、静岡ルーテル教会の先生でした。きょうの30日にはルーテル教会では宗教改革記念礼拝を行うということで、おとといの朝祷会ではルーテルの先生がルターの宗教改革について熱く語って下さいました。ルターについては私も神学校でそれなりに聞いて学んでいますが、やはりインマヌエルの先生がルターについて語るのと、ルーテルの先生がルターについて語るのとではぜんぜん違うなと思いました。ルーテルの先生は実に生き生きとルターについて熱く語って下さいました。
ルターの宗教改革については、クリスチャンでなくても中学や高校の歴史の時間に学びますから、一般の中学生でも知っていますね。私も中高生の時に学んだ覚えがあります。この時、「免罪符」のことを学びましたが、「免罪符」は誤解を招きやすい誤った表現です。免罪符ではなく、贖宥状や免償符ということばがありますから、そちらを使うべきです(週報p.2)。ただ、贖宥状は難しいことばですから、免償符で説明します。
免罪符という言い方が誤りなのは、お金を払ってこれを買えば罪を免れますよと当時の教会が言っていたわけではないからです。罪はイエス様の十字架によって赦されていますから、罪は既に免れています。でも、償いはしなければならないと教会は教えていました。たとえば善い行いをして償います。その善い行いをする代わりにお金で免償符を買えば、それ以上償いをしなくても良いですよ、というものです。
もし償いが十分にできないなら煉獄で苦しまなければならないというのが教会の教えでした。でも善い行いの代わりに免償符を買えば煉獄で苦しまなくても良いということで、多くの人が免償符を買い求めました。しかも、これは自分の死後のことだけでなく、既に亡くなった自分の両親や祖父母や先祖が今煉獄で苦しんでいるかもしれない、そのご先祖様のことも煉獄から救い出せると言っていたそうです。そうして、教会は多大な収入を得ていました。この免償符で得た収入で教会は立派な会堂を建てたり、或いは、もしかしたら司教が使途不明の使い方をしていたかもしれません。このようにして、当時の教会では世俗化がどんどん進んでいました。
それに対してルターは、人は善い行いによって救われるのではない、ましてやお金で救われるのではない、ただ信仰によってのみ救われるのだと抗議しました。この500年前の免償符がおかしいことは、500年後の私たちが外から冷静に眺めていればすぐに気付くことです。でも、その渦中にいるとなかなか気付きにくい性質のものかもしれません。それゆえ21世紀の現代においても未だに旧統一教会の問題や霊感商法などの問題があります。
②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
免償符をお金で買えば償いを免れて、自分もご先祖様も煉獄で苦しむことはないというような誤った教えは、私たちの信仰を濁らせる泥水のようなものです。神様が与えて下さる信仰の水は透き通っていて透明ですが、泥水が信仰を濁らせます。この泥水は時に恐ろしい勢いで私たちを飲み込もうとします。きょうの聖書交読でご一緒に読んだ詩篇69篇の1~3節でダビデは神様に向かって叫びました。
詩篇69:1 神よ、私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。
3 私は叫んで疲れ果て、喉は渇き、目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。
2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。
3 私は叫んで疲れ果て、喉は渇き、目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。
このところ毎週のように言っていますが、いま私たちはとても悪い時代の中を生きています。コロナ禍、戦争、温暖化による異常気象、そして最近の旧統一教会の問題も教会にとっては憂慮すべき深刻な問題です。これらの問題は大水のように私たちを襲い、詩篇69篇のダビデのように私たちを押し流そうとしています。この泥水は恐ろしいことに、たとえ溺れ死ぬことを免れたとしても、水が引いた後には大量の泥を残します。
9月23日から24日に掛けて静岡の南方を通過した台風15号では1974年の七夕豪雨以来の記録的な大雨が降り、送電用の鉄塔2基が倒壊して私たちが住む地域の多くが約12時間もの長い間停電する被害がありました。そして、清水区の巴川の流域や葵区の安倍川の流域では多くのお宅が床上浸水の被害に遭いました。
私は静岡市の災害ボランティアで、主に油山地区や松野地区などの安倍川流域の山間部に入って活動していますが、ここでは多くのお宅や畑などが1メートル前後の浸水の被害に遭って、水が引いた後に大量の泥が残されました。この安倍川流域の山間部の浸水は、安倍川の水が堤防を越水したことによるものではなくて、山に降った大量の雨水が谷や沢に集中して安倍川に流れ込む小さな川が氾濫して、地域一帯が水没したということのようです。最初にこの地域に入った時に、安倍川が越水したわけではないのに、どうしてこんなに広い地域が浸水の被害に遭ったのかが良く分からないでいました。
でも何回目かに現地に入った時に、地元の農家の方が山の土砂崩れの跡を指さして、最近は山の木の間伐ができていないから、木が密集していて十分に根を張ることができなくて、土砂崩れが起きやすくなっていると教えてくれました。それで分かったのですが、間伐などの森林管理が十分にできていないと山は雨水をスポンジのように吸い込む機能が失われて、降った雨水の多くが山の表面を流れて谷や沢に集中し、その結果、安倍川に流れ込む小さな川が氾濫した、ということのようです。山からの雨水ですから、山の土もたっぷりと含んでいて、水が引いた後では家も畑も泥まみれになりました。排水溝や側溝も泥でふさがれて排水が悪くなっています。
その泥を、スコップなどで出す作業をしていますが、ふと祈祷会で開いた創世記26章でアブラハムの息子のイサクが父の時代に掘られた井戸を掘り返した場面と重なりました。きょうのメッセージの後半では、このことを分かち合いたいと思います。
創世記26章を開いて下さい(旧約p.43)。少し長い場面なので聖書朗読では司会者に17節から読んでいただきましたが、まず1節を見ておきたく思います。
創世記26:1 さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。
この時、イサクたちが住んでいたカナンの地では飢饉が起きたために、カナンの南の方にあるペリシテ人の地のゲラルに行きました。途中は飛ばして、次のページの12節と13節、
12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。
13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
主はアブラハムと同じように息子のイサクも祝福されたので、彼は非常に裕福になりました。しかしそのことで、イサクはペリシテ人にねたまれることになりました。14節と15節、
14 彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。
15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。
この箇所を読んでいて、井戸から湧き出る水は信仰を象徴しているように感じました。ヨハネの福音書4章で井戸の水を汲みに来たサマリアの女性にイエス様はおっしゃいましたね(週報p.2)。
ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
神様であるイエス様が与えて下さる水は信仰の水です。アブラハムの時代に掘られた井戸からは、信仰の水が豊かに湧き出ていました。そして、イサクも神様に祝福されて信仰の水の恵みをいただいていました。しかし、そのことでペリシテ人のねたみを招いたために、井戸がふさがれてしまって、信仰の水を汲み出すことができなくなりました。神様に祝福されると、却ってそのことで信仰の危機を招くというようなことは、新約の時代の教会にもあることです。現代でも聞く話ですが、ルターの時代に免償符を買うことを勧めていた教会も、祝福されたゆえに悪魔の攻撃を受けて世俗化してしまいましたから、同じだと言えそうです。そうして信仰が濁り、遂には信仰の井戸がふさがれてしまいました。
イサクの場合も信仰の危機に瀕したことでしょう。父アブラハムの井戸を失い、やけになって信仰も失うということだって有り得ないことではないでしょう。たとえばアブラハムの甥のロト、つまりイサクのいとこのロトであったら、少し軟弱な印象がありますから、信仰を失っていたかもしれません。でもイサクはそんなことはありませんでした。17節から19節、
17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。
18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。
18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。
イサクは父アブラハムの時代に掘られて、その後ペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返しました。つまり、イサクは自分の信仰の井戸を掘り返しました。18節には、「それら」と複数形が使われていますから、井戸は1つではなかったのですね。父アブラハムの時代の井戸は複数あり、イサクはそれらを掘り返して、父が付けていたのと同じ名前を付けました。そんなイサクに神様は信仰の水を与えて下さいました。しかし、またしてもペリシテ人の妨害に2度も遭いました。それでもイサクは他の場所で粘り強く井戸をしもべたちと掘りました。22節、
22 イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」
イサクは、ここは主が与えて下さった地だと言いました。イサクの信仰はペリシテ人の妨害を受けても、少しも失われていなかったのですね。そのような信仰を持つイサクに主が現れて下さいました。23節と24節、
23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
24 主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
24 主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
主は、イサクを「アブラハムのゆえに」祝福すると仰せられました。でも、この祝福はイサクがアブラハムの息子だからという理由で自動的に与えられたわけではありません。ふさがれた信仰の井戸をイサクが粘り強く掘り返したからこそ、祝福が与えられました。このイサクの信仰の姿勢は25節にも良く現れています。25節、
25 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。
イサクは祭壇を築いて主の御名を呼び求めました。別訳では「主に祈った」と脚注にあります。イサクは祈りの人でもあったのですね。こうして信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰が、息子のイサクにしっかりと受け継がれて、ヤコブへと引き継がれて行きました。このように信仰がアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれて行った様子は、信仰を次の世代に引き継いで行かなければならない現代の私たちにとって、良い参考になるのではないでしょうか。
③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ
明日の10月31日は宗教改革記念日です。ルターの宗教改革も、免償符の販売によって泥でふさがれてしまった信仰の井戸を掘り返すようなものだったと言えるのではないでしょうか。1517年という年は宗教改革の始まりに過ぎず、そこに多くの人々が加わって行き、粘り強く改革が続けられました。イサクがしもべたちと粘り強く井戸を掘り続けたことに似ています。そしてイサクがそうであったように、ルターも数々の困難な目に遭いました。そうして、プロテスタント教会が後に引き継がれて行きました。
そして私たち自身もまた信仰の井戸を掘り返すことを続けて行かなければなりません。私たちの信仰は一度井戸を掘ればそれで良し、というわけではないでしょう。様々に困難な目に遭う中で活力を失い、ふさがれて行きます。その度に私たちは井戸を掘り返さなければなりません。そうして神様から濁っていない、きよい信仰の水が与えられ続けて初めて、次の世代へと引き継いで行くことができる、そのことを今日のイサクとルターは教えてくれていると思います。
おわりに
聖書に基づく信仰は、掘り返す度に新しい発見があるものです。前の世代から受け継いだ信仰も大切にしつつ、新しい発見をするワクワク感も大切にしたいと思います。そういうワクワク感が無ければ若い人々に聖書の魅力を伝えることは困難だと思います。先月から今月に掛けてeラーニングで新たに学んだ『包括的信仰を求めて』の講座では、これまでのキリスト教信仰がひっくり返されるようなビックリすることを学びました。でも、それは決して奇抜なことではなくて、聖書にちゃんと書いてあることでした。こういう新しいことが学べるから、聖書の学びは本当に楽しいと感じます。そして、そのことのゆえに主の御名を崇めます。今回のeラーニングで学んだことを皆さんにいきなり話すとビックリすると思いますから、今は控えますが、少しずつ紹介して分かち合って行けたらと思っています。そうして、次の世代にイエス様の福音を伝える準備をして行きたいと思います。
私たちの信仰の井戸は放っておくとすぐに泥でふさがれてしまうことを創世記26章のイサクと宗教改革のルターは教えてくれています。ですから、イサクやルターのように私たちも信仰の井戸を掘り返す営みを続けて行きたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。
創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。