平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す(2022.10.30 礼拝)

2022-10-31 05:16:09 | 礼拝メッセージ
2022年10月30日礼拝メッセージ
『泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す』
【創世記26:17~25】

はじめに
 きょうは私たちが今使っている『聖書 新改訳2017』の名前の由来から話を始めたいと思います。

 新改訳聖書の2017年版は2017年に発行されましたから、2017という数字が付けられています。この2017年版は最初の計画ではもう少し早い年に発行される予定だったようです。では、もしこの新しい聖書が2015年に発行されていたら、『聖書 新改訳2015』という名前が付けられたのでしょうか?たぶん、そんなことは無かったでしょう。きっと別の名前が付けられたことと思います。

 きょうはその辺りから、話を始めます。きょうの中心聖句は創世記26章18節です。

創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
 ②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
 ③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ

①新改訳2017の発行日は2017年10月31日
 本を買うと、おしまいの方のページにその本の発行日などを記した奥付がありますね。私たちが使っている『聖書 新改訳2017』の奥付を見ると、「2017年10月31日 発行」と印刷されています。10月31日と言うと、ハロウィンを思い浮かべる人が多いかもしれませんね。でも、この10月31日は宗教改革記念日の10月31日でしょう。特に2017年の10月31日はルターが教会の扉に「95箇条の提題」をハンマーで打ち付けてから、ちょうど500年目の宗教改革記念日でした。宗教改革が始まってからちょうど500年目の記念すべき年に、この聖書が発行されたので『聖書 新改訳2017』という名前が付けられたと5年前の発行当時は言われていたように記憶しています。ですから、もし2015年や2016年に発行されていたとしても、新改訳2015とか新改訳2016という名前は付けられなかっただろうと思います。宗教改革から500年という記念すべき年だったからこそ、新改訳2017となったのだと思います。

 でも「あとがき」を見ると、宗教改革のことには一切触れられていません。これは私の個人的な憶測ですが、カトリックへの配慮があったのではないかなという気がします。宗教改革によって西方のキリスト教会はカトリックとプロテスタントとに分裂しました。プロテスタントの「プロテスト(protest)」という英語の動詞は日本語に訳すと「抗議する」ですから、プロテスタントとは「抗議する人」というような意味です。こうして、西方教会は二つに分裂してしまいました(後にはさらに分裂して行きます)。2017年の11月23日には長崎でカトリックとルーテルの合同記念礼拝が行われていますから、両者の歩み寄りの動きに水を差すようなことは控えたのかもしれませんね。

 ルーテルとはルターのことですから、ルーテル教会はルター派の教会です。おとといの金曜日の静岡朝祷会のメッセージの担当者は偶然だと思いますが、静岡ルーテル教会の先生でした。きょうの30日にはルーテル教会では宗教改革記念礼拝を行うということで、おとといの朝祷会ではルーテルの先生がルターの宗教改革について熱く語って下さいました。ルターについては私も神学校でそれなりに聞いて学んでいますが、やはりインマヌエルの先生がルターについて語るのと、ルーテルの先生がルターについて語るのとではぜんぜん違うなと思いました。ルーテルの先生は実に生き生きとルターについて熱く語って下さいました。

 ルターの宗教改革については、クリスチャンでなくても中学や高校の歴史の時間に学びますから、一般の中学生でも知っていますね。私も中高生の時に学んだ覚えがあります。この時、「免罪符」のことを学びましたが、「免罪符」は誤解を招きやすい誤った表現です。免罪符ではなく、贖宥状や免償符ということばがありますから、そちらを使うべきです(週報p.2)。ただ、贖宥状は難しいことばですから、免償符で説明します。

 免罪符という言い方が誤りなのは、お金を払ってこれを買えば罪を免れますよと当時の教会が言っていたわけではないからです。罪はイエス様の十字架によって赦されていますから、罪は既に免れています。でも、償いはしなければならないと教会は教えていました。たとえば善い行いをして償います。その善い行いをする代わりにお金で免償符を買えば、それ以上償いをしなくても良いですよ、というものです。

 もし償いが十分にできないなら煉獄で苦しまなければならないというのが教会の教えでした。でも善い行いの代わりに免償符を買えば煉獄で苦しまなくても良いということで、多くの人が免償符を買い求めました。しかも、これは自分の死後のことだけでなく、既に亡くなった自分の両親や祖父母や先祖が今煉獄で苦しんでいるかもしれない、そのご先祖様のことも煉獄から救い出せると言っていたそうです。そうして、教会は多大な収入を得ていました。この免償符で得た収入で教会は立派な会堂を建てたり、或いは、もしかしたら司教が使途不明の使い方をしていたかもしれません。このようにして、当時の教会では世俗化がどんどん進んでいました。

 それに対してルターは、人は善い行いによって救われるのではない、ましてやお金で救われるのではない、ただ信仰によってのみ救われるのだと抗議しました。この500年前の免償符がおかしいことは、500年後の私たちが外から冷静に眺めていればすぐに気付くことです。でも、その渦中にいるとなかなか気付きにくい性質のものかもしれません。それゆえ21世紀の現代においても未だに旧統一教会の問題や霊感商法などの問題があります。

②人の信仰の井戸は簡単に泥でふさがれる
 免償符をお金で買えば償いを免れて、自分もご先祖様も煉獄で苦しむことはないというような誤った教えは、私たちの信仰を濁らせる泥水のようなものです。神様が与えて下さる信仰の水は透き通っていて透明ですが、泥水が信仰を濁らせます。この泥水は時に恐ろしい勢いで私たちを飲み込もうとします。きょうの聖書交読でご一緒に読んだ詩篇69篇の1~3節でダビデは神様に向かって叫びました。

詩篇69:1 神よ、私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。
3 私は叫んで疲れ果て、喉は渇き、目も衰え果てました。私の神を待ちわびて。

 このところ毎週のように言っていますが、いま私たちはとても悪い時代の中を生きています。コロナ禍、戦争、温暖化による異常気象、そして最近の旧統一教会の問題も教会にとっては憂慮すべき深刻な問題です。これらの問題は大水のように私たちを襲い、詩篇69篇のダビデのように私たちを押し流そうとしています。この泥水は恐ろしいことに、たとえ溺れ死ぬことを免れたとしても、水が引いた後には大量の泥を残します。

 9月23日から24日に掛けて静岡の南方を通過した台風15号では1974年の七夕豪雨以来の記録的な大雨が降り、送電用の鉄塔2基が倒壊して私たちが住む地域の多くが約12時間もの長い間停電する被害がありました。そして、清水区の巴川の流域や葵区の安倍川の流域では多くのお宅が床上浸水の被害に遭いました。

 私は静岡市の災害ボランティアで、主に油山地区や松野地区などの安倍川流域の山間部に入って活動していますが、ここでは多くのお宅や畑などが1メートル前後の浸水の被害に遭って、水が引いた後に大量の泥が残されました。この安倍川流域の山間部の浸水は、安倍川の水が堤防を越水したことによるものではなくて、山に降った大量の雨水が谷や沢に集中して安倍川に流れ込む小さな川が氾濫して、地域一帯が水没したということのようです。最初にこの地域に入った時に、安倍川が越水したわけではないのに、どうしてこんなに広い地域が浸水の被害に遭ったのかが良く分からないでいました。

 でも何回目かに現地に入った時に、地元の農家の方が山の土砂崩れの跡を指さして、最近は山の木の間伐ができていないから、木が密集していて十分に根を張ることができなくて、土砂崩れが起きやすくなっていると教えてくれました。それで分かったのですが、間伐などの森林管理が十分にできていないと山は雨水をスポンジのように吸い込む機能が失われて、降った雨水の多くが山の表面を流れて谷や沢に集中し、その結果、安倍川に流れ込む小さな川が氾濫した、ということのようです。山からの雨水ですから、山の土もたっぷりと含んでいて、水が引いた後では家も畑も泥まみれになりました。排水溝や側溝も泥でふさがれて排水が悪くなっています。

 その泥を、スコップなどで出す作業をしていますが、ふと祈祷会で開いた創世記26章でアブラハムの息子のイサクが父の時代に掘られた井戸を掘り返した場面と重なりました。きょうのメッセージの後半では、このことを分かち合いたいと思います。

 創世記26章を開いて下さい(旧約p.43)。少し長い場面なので聖書朗読では司会者に17節から読んでいただきましたが、まず1節を見ておきたく思います。

創世記26:1 さて、アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。それでイサクは、ゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行った。

 この時、イサクたちが住んでいたカナンの地では飢饉が起きたために、カナンの南の方にあるペリシテ人の地のゲラルに行きました。途中は飛ばして、次のページの12節と13節、

12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。は彼を祝福された。
13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

 主はアブラハムと同じように息子のイサクも祝福されたので、彼は非常に裕福になりました。しかしそのことで、イサクはペリシテ人にねたまれることになりました。14節と15節、

14 彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

 この箇所を読んでいて、井戸から湧き出る水は信仰を象徴しているように感じました。ヨハネの福音書4章で井戸の水を汲みに来たサマリアの女性にイエス様はおっしゃいましたね(週報p.2)。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 神様であるイエス様が与えて下さる水は信仰の水です。アブラハムの時代に掘られた井戸からは、信仰の水が豊かに湧き出ていました。そして、イサクも神様に祝福されて信仰の水の恵みをいただいていました。しかし、そのことでペリシテ人のねたみを招いたために、井戸がふさがれてしまって、信仰の水を汲み出すことができなくなりました。神様に祝福されると、却ってそのことで信仰の危機を招くというようなことは、新約の時代の教会にもあることです。現代でも聞く話ですが、ルターの時代に免償符を買うことを勧めていた教会も、祝福されたゆえに悪魔の攻撃を受けて世俗化してしまいましたから、同じだと言えそうです。そうして信仰が濁り、遂には信仰の井戸がふさがれてしまいました。

 イサクの場合も信仰の危機に瀕したことでしょう。父アブラハムの井戸を失い、やけになって信仰も失うということだって有り得ないことではないでしょう。たとえばアブラハムの甥のロト、つまりイサクのいとこのロトであったら、少し軟弱な印象がありますから、信仰を失っていたかもしれません。でもイサクはそんなことはありませんでした。17節から19節、

17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。
18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。

 イサクは父アブラハムの時代に掘られて、その後ペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返しました。つまり、イサクは自分の信仰の井戸を掘り返しました。18節には、「それら」と複数形が使われていますから、井戸は1つではなかったのですね。父アブラハムの時代の井戸は複数あり、イサクはそれらを掘り返して、父が付けていたのと同じ名前を付けました。そんなイサクに神様は信仰の水を与えて下さいました。しかし、またしてもペリシテ人の妨害に2度も遭いました。それでもイサクは他の場所で粘り強く井戸をしもべたちと掘りました。22節、

22 イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

 イサクは、ここはが与えて下さった地だと言いました。イサクの信仰はペリシテ人の妨害を受けても、少しも失われていなかったのですね。そのような信仰を持つイサクに主が現れて下さいました。23節と24節、

23 彼はそこからベエル・シェバに上った。
24 はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

 は、イサクを「アブラハムのゆえに」祝福すると仰せられました。でも、この祝福はイサクがアブラハムの息子だからという理由で自動的に与えられたわけではありません。ふさがれた信仰の井戸をイサクが粘り強く掘り返したからこそ、祝福が与えられました。このイサクの信仰の姿勢は25節にも良く現れています。25節、

25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 イサクは祭壇を築いての御名を呼び求めました。別訳では「に祈った」と脚注にあります。イサクは祈りの人でもあったのですね。こうして信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰が、息子のイサクにしっかりと受け継がれて、ヤコブへと引き継がれて行きました。このように信仰がアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれて行った様子は、信仰を次の世代に引き継いで行かなければならない現代の私たちにとって、良い参考になるのではないでしょうか。

③掘り返して信仰を更新しつつ、次へ引き継ぐ
 明日の10月31日は宗教改革記念日です。ルターの宗教改革も、免償符の販売によって泥でふさがれてしまった信仰の井戸を掘り返すようなものだったと言えるのではないでしょうか。1517年という年は宗教改革の始まりに過ぎず、そこに多くの人々が加わって行き、粘り強く改革が続けられました。イサクがしもべたちと粘り強く井戸を掘り続けたことに似ています。そしてイサクがそうであったように、ルターも数々の困難な目に遭いました。そうして、プロテスタント教会が後に引き継がれて行きました。

 そして私たち自身もまた信仰の井戸を掘り返すことを続けて行かなければなりません。私たちの信仰は一度井戸を掘ればそれで良し、というわけではないでしょう。様々に困難な目に遭う中で活力を失い、ふさがれて行きます。その度に私たちは井戸を掘り返さなければなりません。そうして神様から濁っていない、きよい信仰の水が与えられ続けて初めて、次の世代へと引き継いで行くことができる、そのことを今日のイサクとルターは教えてくれていると思います。

おわりに
 聖書に基づく信仰は、掘り返す度に新しい発見があるものです。前の世代から受け継いだ信仰も大切にしつつ、新しい発見をするワクワク感も大切にしたいと思います。そういうワクワク感が無ければ若い人々に聖書の魅力を伝えることは困難だと思います。先月から今月に掛けてeラーニングで新たに学んだ『包括的信仰を求めて』の講座では、これまでのキリスト教信仰がひっくり返されるようなビックリすることを学びました。でも、それは決して奇抜なことではなくて、聖書にちゃんと書いてあることでした。こういう新しいことが学べるから、聖書の学びは本当に楽しいと感じます。そして、そのことのゆえに主の御名を崇めます。今回のeラーニングで学んだことを皆さんにいきなり話すとビックリすると思いますから、今は控えますが、少しずつ紹介して分かち合って行けたらと思っています。そうして、次の世代にイエス様の福音を伝える準備をして行きたいと思います。

 私たちの信仰の井戸は放っておくとすぐに泥でふさがれてしまうことを創世記26章のイサクと宗教改革のルターは教えてくれています。ですから、イサクやルターのように私たちも信仰の井戸を掘り返す営みを続けて行きたいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。

創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
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人は隣人を愛するように造られている(2022.10.23 教団創立記念礼拝)

2022-10-24 06:42:29 | 礼拝メッセージ
2022年10月23日教団創立記念礼拝メッセージ
『人は隣人を愛するように造られている』
【ルカ10:25~37(交読)、マタイ25:31~40(朗読)】

はじめに
 一昨日の10月21日は私たちの教団、イムマヌエル綜合伝道団の創立記念日でした。今日の礼拝は、このことを覚えて神様に感謝する教団創立記念礼拝です。

 創立の日の1945年10月21日という日は、教団の初代総理の蔦田二雄先生が同志の長谷川元子・正子の姉妹と三人で祈る中で同じビジョンが与えられた日です。まだ教団としての形は何も整っていませんでしたが、この日を境にして新しい教団の設立に向けて動き始めたことから、創立の日とされたということです。そうして年末に掛けて準備が進められて、翌1946年の1月に「御挨拶の辞」という文書が関係者に送付されました。『イムマヌエル廿年史』にある蔦田先生のことばによれば戦前の知人・友人に向けて発送されたということで、この挨拶状を読んで共に「新田の開拓」に歩みを進めようと同志が参集して、教団が発足しました。

 この1946年1月の時点では、私たちの教会の初代牧師の松村導男先生はまだ中国にいましたが、翌月の2月に帰国して3月には蔦田先生と会い、松村先生もまた新しく発足した教団に合流することを決めたということです。そうして6月には教団の第1次の年会が船橋で開かれました。この時、部局は医務部、伝道部、保育部、農耕部の4つがあり、総合伝道が目指されました。

 この敗戦直後の混乱期に教団が形成された歴史については、正直言って私の中ではこれまでは古い過去の出来事のように感じていました。しかし、今年の2月にロシアがウクライナに軍事侵攻して廃墟となった街並みの映像をほとんど毎日のように見るようになってからは、77年前の日本の敗戦時のことをとても身近に感じるようになりました。

 また、1ヶ月前の9月23日から24日に掛けての台風15号の通過時には大雨によって静岡県内の各地で大きな被害が出ました。大きく報道されたのは清水区の断水でしたが、私たちの多くも12時間の停電を経験しましたし、静岡市内の特に油山地区や松野地区など安倍川流域の山間部では今なお民家や畑や側溝に流入した土砂や泥が撤去されていない場所があります。温暖化による異常気象の問題が、遂に静岡の私たちの生活をも直接揺るがす事態となりました。

 さらに2年半前からの新型コロナウイルスによる感染症の問題もあって私たちの今の世は77年前の敗戦時以来の混乱の中にあります。この悪い時代の中にあって私たちはどうあるべきなのか、77年前の教団創立の時を覚えながら、共に思いを巡らす時としたいと思います。

 きょうの中心聖句はマタイ25章40節です。

マタイ25:40 「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①神・隣人・地域を愛するように造られた私たち
 ②御霊の実を結んで、造られたままの人に戻る
 ③造られたままの自分らしさで行う総合伝道

①神・隣人・地域を愛するように造られた私たち
 私たちは神を愛し、隣人を愛し、地域を愛して地域のために働きます。働く地域がどれくらいの広さかは、預けられたタラントの額によるのでしょう。例えばの話ですが、1タラントの人は町内会、2タラントの人は静岡市、3タラントの人は静岡県、4タラントの人は日本、5タラントの人は世界のために働く、そんなイメージでしょうか。自分や家族が救われるだけでなく、地域全体が救われるように地域のために働くことが期待されているのだと思います。静岡のため、日本のため、世界のためなどと言うと、大袈裟に感じる方もいるかもしれませんが、77年前の敗戦時においてはこのことが考えられていたのですから、決して大袈裟ではないでしょう。

 先月から今月に掛けて私はインマヌエルのeラーニングの「包括的福音を求めて」という講座を受講しました。「包括的」の「包」は「包む」という字ですから、「包括的福音」とは、全体を包むような広い意味での福音という意味でしょう。広い意味での福音である「包括的福音」を伝える働きを考えることは、私たちの教団の名称にもなっている「総合伝道」を行って行く上で、とても大切なことであると思います。広い意味の福音では、イエス・キリストの十字架の贖いは人々の魂の救いのためだけでなく、国土全体、地球全体(すなわち被造物全体)の回復のためであったと考えます。

 77年前の敗戦直後にあっては国土も人々の心も魂も、ほとんどすべてが荒れ果てて荒廃していました。これら国土と人々の心と魂の全体の回復を目指してイムマヌエル綜合伝道団が設立されました。しかし、国土の復興が進んで医務部、保育部、農耕部が役割を終えてこれらの部局がなくなるに連れて、人の魂を救うことに特化した福音へと移って行ったように思います。でも、77年前の敗戦時以来の混乱した今の2022年の世にあっては、広い意味での福音を伝える総合伝道の重要性が再び増していると思います。

 そして、この総合伝道が必要な時代にあっては、聖書も広い視野で読む必要があるでしょう。そのことを、マタイ25章を見ながら分かち合いたいと思います。まず31節から33節をお読みします。

マタイ25:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

 イエス様は終わりの時の、最後の審判の時のことを話し始めました。次に34節、

34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

 この者たちは御国に入れる者たちです。彼らは弱い人々を助けていました。35節と36節、

35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

 すると、37節から39節、

37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

 すると40節、

40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

 一方、弱い人々を助けなかった者たちは御国には入れません。45節と46節、

45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 この箇所だけを読むと、御国に入るには弱い人々を助けなければならないと思うかもしれません。しかし、もっと広く聖書を読むなら、弱い人々を助けることが大切というのとは、ちょっと違うことに気付かされます。そもそも神様は人を神様の似姿に造られました。創世記1章26節です(週報p.2)。聖書協会共同訳でお読みします。

創世記1:26 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」(聖書協会共同訳)

 私たちは神様の姿に造られました。簡単に言えば、私たちはイエス様のような心を持った者として造られました。イエス様は天の父を愛し、人を愛し、父が造られたすべての物を愛しておられました。このイエス様のような心を持って私たちは造られました。この心を持っていれば、ごく自然に弱い人々を助けるでしょう。つまり、御国に入るにふさわしい者とは、もともと造られたままの者だということです。弱い人々を助けるよう心掛けるのではなく、私たちはもともとそのように造られていました。

 しかし、罪が入ったために、私たちの多くはそのことができなくなりました。それゆえイエス・キリストを信じて回復されてそのような者に戻るなら、この地上を上手く治めることができるようになり、戦争がない平和な世になり、温暖化も止まり、以前のような穏やかな気候の中で暮らすことができるようになるでしょう。イエス様が再び戻って来るまでの間、タラントを預けられた私たちには、そのような働きが期待されています。イエス様を信じて救われたなら、あとは御国に入る時を待ち望んでいれば良いのではなく、タラントに応じて地上を治める働きを私たちは担っています。今の混乱した世にあって、私たちはこのことを覚えたいと思います。

②御霊の実を結んで、造られたままの人に戻る
 きょうの聖書交読では、ルカ10章の有名な「善きサマリア人のたとえ」の場面を読みました。もう一度ご一緒に見てみましょう(新約p.136)です。まず25節、

ルカ10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」

 「永遠のいのちを受け継ぐ」とは、きょうのマタイ25章の「御国を受け継ぐ」と同じ意味ですね。26節と27節、

26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」

 ルカの福音書ではこのようにイエス様が尋ねて律法の専門家が答える形になっています。一方、マタイとマルコの福音書では律法の専門家が尋ねてイエス様が答えています。例えばマタイの福音書22章の36節から39節には、このように書かれています(週報p.2)。

マタイ22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

 この主を愛し、隣人を愛することは、もともとの造られたままの人には備わっていたことです。ですから、もともとの神のかたちへと回復されるなら、主を愛し、隣人を愛することが自然にできます。隣人を愛する者とはどういう者かと言えば、このルカ10章に出て来る「善きサマリア人」のような者です。このサマリア人は、33節から35節に書かれているように、強盗に襲われて半殺しにされた人を見てかわいそうに思って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱しました。そして次の日、彼はデナリ2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

 このような隣人愛が、神様に造られたままの私たちには備わっていました。しかし、罪が入ったために、このように隣人を愛することができなくなり、争い事ばかりするようになりました。これほどまでに悪に染まってしまった私たち人間が主を愛し、隣人を愛することができるように回復されるためには、イエス様の十字架の死と復活が必要でした。そうして、このイエス様の十字架の死と復活を信じて聖霊を受けるなら御霊の実を結んで、次第にイエス様に似た者へと回復されて行きます。

 御霊の実については、いつも引用しているように、パウロがガラテヤ人への手紙の5章に書いています(週報p.2)。

ガラテヤ5:24 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。

 ですから、御霊の実を結ぶとは、神様が造られたままの本来の人に戻ることだと言えるでしょう。そうして愛や親切や善意の心が回復するなら、ルカ10章のサマリア人やマタイ25章の弱い人々を助けた者たちのように、隣人を愛することができるようなるでしょう。
 
③造られたままの自分らしさで行う総合伝道
 ここで、マタイ25章の全体を簡単に振り返っておきたいと思います。マタイ25章の1節から13節までには、ともしびの油を持っていた賢い娘と、ともしびの油を持っていなかった愚かな娘のことが書かれています。ここで、ともしびの油とは聖霊のことでしょう。きょうの10/23の『岩から出た蜜』の蔦田二雄先生も、「油とは聖霊を象徴したもの」であると書いています(週報p.3)。そして、次のマタイ25章14節から30節には5タラント、2タラント、1タラントを預けられたしもべのたとえが記されています。一番少ない1タラントのしもべでも6千万円もの大金が預けられました(1デナリを1万円とした場合)。この金額の多さから、そして油(聖霊)の次にタラントの話をしていることから、タラントとは「御霊の賜物」であろうと先週は話しました。そして、きょうの聖書箇所にある弱い人々を助けた人とは御霊の実を結んで造られたままの本来の人に回復されて隣人を愛することができるようになった人であることを話しました。

 私たち人間は皆、違う賜物が与えられています。それぞれ得意分野があって、それを用いて互いが助け合ってイエス様のために働いて、総合伝道を行います。77年前の教団設立の時で言えば、医療ができる人は医務部で働き、保育ができる人は保育部で働き、農作業ができる人は農耕部で働きました。

 今の2022年の混乱した世にあっても医療ができる人は病気で苦しむ人々のために働きます。或いはウクライナから避難した人々など戦災で苦しむ人々のために働く人々もいます。温暖化による異常気象で被災した人々のために働く人々もいます。少し前のことになりますが、NHKの『ドキュメント72時間』という番組で、看護師を養成する看護学校での72時間を取材した回がありました。コロナ禍が始まった後のことで、医療従事者の負担の大きさが問題になっていました。でも、こういう時だからこそ看護師になりたいと、この道を志す若い人々がいる様子を見て、とても感動しました。聖霊は、まだイエス様の福音を知る前の人々にも働きかけて、弱い人々のために働くように促していることを感じます。

 と言うのは、私もかつてイエス様の福音を知る前の1995年のことでしたが、阪神淡路大震災があった時にボランティアが続々と神戸に入っているという報道を見て、自分も神戸に行くべきではないかと真剣に悩んだ経験があるからです。当時の私は東京の大学の留学生センターに採用されて東京に行くことが決まっていましたが、まだ着任前で仕事をしていなかったからです。無職の自分はボランティアに行くべきではないかと真剣に悩みました。結局その時は自分に何ができるか自信がなくて行きませんでしたから、行かなかったことに罪悪感を感じて負い目となりました。今から考えると、困っている人々のために働くべきと聖霊の促しを受けていたのかもしれません。聖霊は、まだイエス様を知らない人にも働き掛けるからです。聖霊の働き掛けがあるからこそ、私たちは罪人であるにも関わらず導かれてイエス様と出会うことが可能になります。

 今月に入ってから私は何回か静岡市の災害ボランティアに参加して、門屋地区、足久保地区、油山地区、松野地区で泥や土砂の撤去作業を行いました。だいたい6人前後のグループで活動していて、同じグループになった方たちと現場に向かう車の中や休憩の時に、いろいろ話をします。皆、気持ちの良い方々ばかりで、困っている人のために働きたいという純粋な気持ちを持って無償で働いています。イエス様のことを知らなくても、困っている人のために働きたいという方々と話していると、『人はもともと隣人を愛するように造られている』のだなということを実感します(きょうのタイトル)。

 温暖化による異常気象で大雨の災害が起きやすくなってしまったことは、とても残念なことであり、被災した方々が早く元の生活に戻ることができるように、行政にはお願いしたいと思います。このような深刻な状況がある一方で、こういう状況の中で本来の造られたままの隣人を愛する気持ちが多くの人々の心の表面に現れて来ることは、とても感謝なことだと思います。普段は罪に覆われていて現れにくくなっている造られたままの心が、混乱している今は表面に現れやすくなっています。

おわりに
 77年前の敗戦時がまさにそういう時代でした。混乱の中にあって多くの人々が教会に導かれ、イエス様と出会いました。その中で神様の召しの声を聴いて牧師になった先生方もたくさんおられました。21世紀になってからはその時に与えられた牧師と信徒がどんどん減っていますが、2022年の今はまた、人々の心がイエス様の方を向きやすい時になっていることを感じます。

 でも、そのためには、人の魂だけではなく荒廃した国土をも救うという敗戦直後のような総合伝道が必要とされているのではないかと思います。総合伝道ですから、働きの種類は無限にあるでしょう。それぞれが造られたままの自分らしさに回復していただき、イエス様のために働きたいと思います。私たちはもともと神様を愛し、隣人を愛し、地域を愛する者として造られましたから、御霊の実を結んで造られたままの人に回復していただいて、イエス様のために働きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
 
マタイ25:40 「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」
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井戸を掘るイサク、心を掘る私たち(2022.10.20 祈り会)

2022-10-20 23:29:56 | 祈り会メッセージ
2022年10月20日祈り会メッセージ
『井戸を掘るイサク、心の奥深くへ掘る私たち』
【創世記26:18~19】

18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。

 きょうはイサクの3回目です。先週はイサクが主役になっている聖書の記事が少ないと話しました。それゆえアブラハムとヤコブに比べてイサクはやや地味な感じがしますが、イサクがいたからこそ、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの信仰が、イサクを介してヤコブに伝えられ、21世紀の私たちにも伝えられたという話をしました。

 きょう開く26章はイサクが主役の章です。イサクは他の章にもたくさん登場していますが、大体の場合イサクは脇役でアブラハムやサラ、ヤコブが主役です。しかし、26章はまぎれもなくイサクが主役の章です。

 まず26章の始めの方には、イサクたちが住んでいたカナンの地で飢きんがあり、カナンの南方のペリシテ人の地のゲラルに住むようになったことが記されています。ゲラルの王はアビメレクでした。イサクは妻のリベカのことを「あれは私の妹です」と、ゲラルの土地の人々に伝えていました。イサクの父のアブラハムも妻のサラのことを「これは私の妹です」(20:2)とアビメレクに伝えていましたから、アブラハムとイサクはよく似た親子なのかもしれません。

 さて12節から16節までをお読みします。

創世記26:12 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。は彼を祝福された。
13 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。
14 彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。
15 それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。
16 アビメレクはイサクに言った。「さあ、われわれのところから出て行ってほしい。われわれより、はるかに強くなったから。」

 12節には、主がイサクを祝福されたことが書かれています。それでイサクは非常に裕福になりました。しかし、このことでペリシテ人たちに、ねたまれるようになりました。神様に祝福されると、かえって苦難に陥ることは新約のクリスチャンでも「あるある」ですね。たとえばパウロも神様に大変に祝福された使徒でしたが、それゆえに多くの苦難をも味わいました。でも、このことでパウロの品性が練られていきました。パウロはローマ人への手紙に書いています。

ローマ5:2 キリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

 同じように、イサクも苦難に陥ったことで彼の品性が練られていったのだと思います。17節から19節、

創世記26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。
18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。

 この18節と19節が、藤本先生の『祈る人びと』のイサクの回の冒頭に挙げられているみことばです。藤本先生はイサクが父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り返したことを、ご自身が2代目のクリスチャンであり、且つ牧師としても2代目であることと重ねています。そして、24節と25節を引用して次のように書いています。まず24節をお読みします。

24 はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

 主はイサクをアブラハムのゆえに祝福するとおっしゃいました。この箇所を引用して、藤本先生はクリスチャン・ホームの2代目も初代のゆえに祝福される、しかし、それは2代目が自動的・機械的に祝福されるのではないと書き、25節を引用しています。25節、

25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めました。新改訳第3版では主に祈ったとあります。祝福は自動的・機械的には与えられず、主に祈ることによって与えられます。祈ることで主との個人的な関係が築かれて、祝福されるようになります。現代のクリスチャン・ホームの2代目も同じだと藤本先生は書いておられます。

 さて、主と出会い、祈り、主と個人的な関係を築くことが必要であるということと、「井戸を掘る」という作業には共通点があると今回この説教の準備をしている中で示されています。主の御声を聴くこととは、心の奥深い所から聴こえる声に耳を傾けることだからです。表面的な願望ではなくて、奥深い自分は何を欲しているのか、心の奥深い部分からの声を聴くことは、とても大切なことです。神様は私たちをご自身の似姿に造られました。それゆえ私たちは元々良い心、良心が与えられています。その良心の声に聴き従うことで御心に適う生活を送ることができます。しかし、罪によって良心が覆い隠されていますから、奥深い声は非常に聴きづらくなっています。

 この奥深い声に耳を傾けることと、井戸を掘ることとはとても良く似ているように思います。地下に存在する豊かな水脈は普段は土に覆われていて気付きません。しかし、井戸を掘って表面にある土を取り除いていくことで、その水脈に辿り着くことができます。心の井戸の場合には、豊かな水脈とは聖霊であり、心の奥に向かって掘り下げることで水脈に至るなら聖霊の声を聴くことができます。これが心の奥深い所にある声です。

 どういう声が聴こえるかは、人それぞれでしょう。この声はイエス様を信じて聖霊を受けていれば聴きやすくなりますが、聖霊を受けていなくても聴こえないわけではないと思います。それは私たちには先行的な恵みが与えられているからです。罪人である私たちは先行的な恵みが無ければ、誰もイエス様と出会うことができません。それゆえ神様の愛によって与えられている先行的な恵みによって、私たちは聖霊の声を聴くことができます。

 私自身は名古屋にいる時に『自己愛とエゴイズム』という本と出合って奥深い声に耳を傾けるようになって高津教会に導かれました。でも考えてみると、本屋さんの本棚にあった『自己愛とエゴイズム』という本に目が留まって手に取り、開いてみたことも奥深い声に聴き従ってのことだったかもしれません。神様はこのように、本人が気付かない間に人を導くお方です。

 今週私は火曜日・水曜日の2日間、静岡市の災害ボランティアに参加しました。先週はカーペットの張替え工事の立ち会いがあって参加できませんでしたが、先々週の2日間に続いて今週また参加することができて、合計4日間になりました。この災害ボランティアは4人から7,8人ぐらいのグループで活動しますから、4日間で25人ぐらいの方と一緒に活動しました。25人とも全部違う方々です。

 実は災害ボランティアに参加することは私にとっては1995年の阪神・淡路大震災の時からの懸案でした。1995年の1月は、私は大学の留学生センターへの採用が決まっていて春からの着任に備えていた時期で、無職でした。ですから神戸にボランティアの人々が続々と入っているという報道を見て、無職の自分こそ神戸に行くべきだと思いました。でも、神戸に行っても自分が何の役に立てるか自信がなくて結局行きませんでした。1995年はまだ教会に導かれる前であり、いま考えると災害ボランティアに行くべきと感じたのも奥深い声ではなかったかなという気がしています。災害ボランティアに参加することはイエス様の御心に適うことだと思うからです。マタイ25章でイエス様はおっしゃいました。

マタイ25:40 「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」

 今月参加した静岡市の災害ボランティアには県内各地から多くの人が参加しています。一緒に活動した約25人の中には浜松市から来たという方や伊豆の国市、富士市、藤枝市、焼津市の方々がいました。コロナの関係で県内に限っていますが、県内限定としていなければ、きっと全国各地から集まったことでしょう。これらの人々は奥深い声に突き動かされて集まって来た方々のような気がしています。

 次の聖日は教団創立記念礼拝では、先ほど引用したマタイ25章の「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」を中心聖句にして、総合伝道について考える予定です。今のこのひどい世の中での伝道では、心の井戸を掘って奥深い所の声を聴けるようになることもまた大切ではないかなと感じています。ボランティアの人々との交わりを通じて示された総合伝道のことなどもみことばと共に分かち合いたいと願っています。

 イサクがアブラハムの井戸を掘り返した記事から、奥深い所からの声を聴くことの大切さへとイエス様が導いて下さったことを心から感謝したいと思います。一言、お祈りいたします。

18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。
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御霊の賜物のタラント(2022.10.16 礼拝)

2022-10-17 18:10:53 | 礼拝メッセージ
2022年10月16日礼拝メッセージ
『御霊の賜物のタラント』
【マタイ25:14~23】

はじめに
 今週の金曜日の10月21日は私たちの教団のイマヌエル綜合伝道団の創立記念日です。この教会ではその2日後の23日の日曜日に教団創立記念礼拝を行うことにしています。教団が創立された年は1945年の終戦直後です。戦争が終わったのが8月で、その2ヶ月後にインマヌエル教団の歩みが始まりました。戦争中はキリスト教会が日本基督教団の一つだけに統合されましたから、ホーリネス教会の牧師であった蔦田二雄先生もそして松村導男先生も肩書上は日本基督教団の牧師だったと思います。

 しかし、敗戦後に蔦田二雄先生は神様に示されて日本基督教団を離れて新しくイムマヌエル綜合伝道団を設立しました。そして中国での宣教に携わっていた松村導男先生も引き揚げて来た時に蔦田先生と合流して、戦前からあったこの教会をインマヌエル静岡教会として、この静岡の地での宣教を再開しました。

 この教団が設立されて暫くの間は伝道部の他に医療部、保育部、農耕部があって、この四つの部で総合伝道を行っていたという話を先週はしました。敗戦で国土は荒廃しており、食糧事情が悪く、戦災孤児が多くいて、また生きる希望を失っていた大人も多くいた当時は人の心も荒廃していて、医療や保育、また農作物を作る農耕の働きも行う中で総合伝道を展開することが、とても大切だったのですね。そして、今の2022年もコロナ禍や温暖化による異常気象、戦争の問題などによって、国土も人の心も荒廃して弱っていることを感じます。それゆえ、今のこの時代は再び総合伝道が必要とされているのではないかと感じているところです。このことは来週の教団創立記念礼拝でまたご一緒に分かち合いたいと思います。

 さて、きょうは英和の高校生の奨励日です。まったくの偶然ですが、今月に入って私は教会の2階の応接室の書庫に『静岡英和女学院八十年史』という本があることに気付きました。書庫の一番下の棚にあり、しかも箱の背が日に焼けて文字が読みづらくなっているので、ぜんぜん気付いていませんでした。ただ、箱は焼けて古びていますが、中の本はきれいです。表紙の裏に教会のゴム印が押してあって、最初の方のページには「創立前史」、英和女学院創立前のこととして、エドワード・クラーク先生のことも7ページに亘って書かれています。クラーク先生については私も昨年の12月から勉強していますから、この英和八十年史に書かれていることの多くが知っていることでしたが、クラーク先生の蒔いた種が英和女学院の設立とどのようにつながって行ったかは、あまり知りませんでした。とても興味深いので、きょうは2番目のパートで、このことを分かち合いたいと思います。

 きょうのメッセージのタイトルは『御霊の賜物のタラント』ですが、静岡のクラーク先生ことエドワード・クラーク先生も御霊の賜物がたくさん与えられた人であったと思います。きょうのメッセージの中心聖句はマタイ25章の14節と15節です。

マタイ25:14 「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」
 
 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①御霊の賜物(ギフト)のタラントを預けられた私たち
 ②多くの賜物が与えられていた静岡のクラーク先生
 ③各自に与えられた賜物で主の再臨の道を整える

①御霊の賜物(ギフト)のタラントを預けられた私たち
 賜物とは英語で言えばギフト、つまり贈り物のことです。まず聖書を見ておきましょう。きょうの中心聖句でもあるマタイ25章の14節と15節を、もう一度お読みします。

マタイ25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。

 このタラントとはタレント、すなわち才能と深い関係があるという話を皆さんの多くは聞いたことがあると思います。この才能は、さらに御霊とも深い関係があるようです。なぜなら、きょうの記事の一つ手前には油を十分に用意していた賢い娘たちと油を切らしてしまった愚かな娘たちのたとえ話が載っているからです。このたとえ話もまた「天の御国は」で話が始まります。マタイ25章の1~4節をお読みします。

マタイ25:1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。

 この夜、花婿の到着が遅くなってしまったために、愚かな娘たちはともしびの油を切らしてしまいました。そうして、天の御国に入ることができませんでした。一方、賢い娘たちは油を持っていましたから、天の御国に入ることができました。この油とは、御霊、すなわち聖霊のことでしょう。旧約の時代においては油が注がれた者には多くの場合、主の霊すなわち御霊が注がれていました。たとえばダビデです。第一サムエル16:13は次のように記しています(週報p.2)。ここで「彼」とはダビデのことです。

Ⅰサムエル16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼(ダビデ)に油を注いだ。の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。

 このように油と御霊は非常に近い関係にあります。それゆえ賢い娘たちが持っていた油とは御霊、すなわち聖霊のことでしょう。イエス様を信じて聖霊を受けた者は永遠の命を得て、天の御国に入ることが許されます。賢い娘たちは御国に入ることが許されました。そしてイエス様は13節でおっしゃいました。

マタイ25:13 ですから、目を覚ましていなさい。

 この「目を覚ましていなさい」も、霊的に目覚めていなさいということですね。寝ないでずっと起きていなさい、ということではありません。聖霊を受けて、霊的に目覚めていなさいということです。このように13節で霊的に目覚めていなさいと言った後で、イエス様は14節でおっしゃいました。

14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。

 ですから、この財産とは御霊と深い関係があります。財産は、一番少ない者でも1タラントが預けられました。タラントがどれくらいの金額かと言うと、ページの下にある15節の脚注に、「1タラントは6千デナリに相当」とあります。また「1デナリは当時の1日分の労賃に相当」とあります。分かりやすく今の1日分の労賃を1万円とすると、1タラントは6千万円です。小さな商売であれば、10分の1の600万円でもできると思います。それなのに神様は一番少ない者でも6000万円も預けて下さいます。この金額の多さからも、この預けられたタラントが御霊と関係あることが分かるでしょう。

 ですから、この預けられたタラントとは御霊の賜物のことではないでしょうか。パウロは第一コリント12章で次のように書いています(週報p.2)。

Ⅰコリント12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。
4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

 パウロは私たちに、御霊の賜物について知らずにいてほしくないと言っています。この御霊の賜物こそがタラントであろうと思います。御霊は私たちに教会を建て上げるために必要な力や才能を、贈り物のギフトとして私たちに与えて下さいます。次の2番目のパートに進んで、神様がクラーク先生に贈ったギフトについて分かち合いたいと思います。

②多くの賜物が与えられていた静岡のクラーク先生
 これまで何度か話しているように、静岡のクラーク先生は札幌のクラーク先生よりも5年早い明治4年、1871年に来日して約3年半、日本に滞在しました。約2年を静岡で過ごし、残りの1年半を東京で過ごしました。一方の札幌のクラーク先生は1876年に来日して日本に居たのは休暇を利用した関係で1年足らずでしたから、1877年にはアメリカに帰国しました。ちなみに英和女学院の前身の静岡女学校が設立されたのは明治20年、1887年のことでした。

 静岡のクラーク先生は多芸多才の人で、まさに多くの賜物が与えられていた人でした。静岡学問所では専門の化学だけでなく数学を含む、科学全般を教えていました。そして日曜日には宿舎の蓮永寺で聖書を教えていました。この蓮永寺にいたのは約1年です。千代田に近い沓谷の蓮永寺から城内の静岡学問所まで馬車で通っていましたが、当時はまだ外国人を襲う攘夷派の人々がいて、実際にクラーク先生も襲撃されて危険な目に遭ったことから、駿府城内の北西角の、現在の家庭裁判所がある場所を与えられて、ここに西洋風の石造りの洋館を建てることになって、クラークは設計を開始しました。西草深町の交差点の所で外堀が折れ曲がっていて、その城内側に家庭裁判所が建っていますが、その場所です。


クラーク邸(クラーク撮影・早稲田大学図書館蔵)

 そうして設計から半年後、来日してから1年後にこの洋館が完成しましたから、蓮永寺から引っ越しました。弱冠22歳で化学が専門だったクラーク先生が石造りの洋館の設計もしたのですから、いかに多くの賜物が与えられていた人であったかが、ここからも分かります。そして、この洋館を建てたのは静岡の職人たちでした。クラークは職人に図面と模型を見せて、細かい指示を出して、建て上げることができました。

 この洋館にクラークは多くの人を招いて西洋料理を振る舞い(アメリカ帰りでサム・パッチと呼ばれていた仙太郎という日本人の料理人がいました)、オルガンの演奏会や幻灯機の上映会なども催しました。幻灯機によるスライドの上映はこれが日本初であり、オルガンの演奏も東京でもほとんど無かったであろうぐらい珍しいものでした。そして、この洋館でも、もちろん聖書が教えられました。これぞ、まさに総合伝道の先駆けと言えるのではないでしょうか。

 英和女学院の前身の静岡女学校の設立に尽力した平岩愃保(よしやす)牧師が入信したきっかけもクラークのオルガンによる賛美歌の演奏を聞いたことだったそうです。平岩がクラークのオルガンを聞いたのはクラークが東京に移ってからのようです。平岩は聖書の説教には最初は心を動かされなかったものの、オルガンの演奏がとても心に響いて、聖書の勉強会に通うようになり、後にイエス様を信じるようになりました。そうして平岩は英和の隣にある日本基督教団静岡教会の前身であるメソヂスト教会の牧師となりました。そして『静岡英和女学院八十年史』によれは、平岩が女学校の設立に動き出す前年、妻の平岩銀子が天に召されたとのことです。銀子は生前、女学校を作りたいという志を持っていて、妻を亡くした平岩が妻の遺志を継ぐべく設立に動き出したということです。ですから、もしクラーク先生のオルガン演奏が無かったら平岩は牧師はおろかクリスチャンにもなっておらず、女学校の設立も、ずっと後のことになっていたことでしょうし、もしかしたら設立すらされなかったかもしれません。

 神様がクラーク先生に多くの賜物を与えて下さった故に、静岡の地に初めての教会であるメソヂスト教会ができ、静岡英和女学院ができましたから、御名を崇めたいと思います。きょうの聖書箇所で言えば、静岡のクラーク先生は五タラントの人であったと言えるでしょう。

 良い働きをした五タラントと二タラントの者に主人は同じことを言ってねぎらいました。21節と23節です。

21, 23「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 朗読の箇所には含めませんでしたが、ここで一タラントの者のことも見ておきたいと思います。24節と25節をお読みします。

24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。「ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。」

 この一タラントの者に主人は言いました。

26 「悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。」

 そして、少し飛ばして30節、

30 「この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」

 外の暗闇に追い出せとは厳しいですね。この一タラントのしもべは天の御国には入れないということです。このしもべは主人の一タラントを減らしたわけではありません。それなのに、こんなに厳しいことを言われたのは、それはやはり、これが御霊に関わることだからでしょう。イエス様はマタイ12:31でおっしゃいました(週報p.2)。

マタイ 12:31 「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。」

 主人から預かった1タラントを地面に穴を掘って隠したことは、御霊を冒瀆することだったんでしょう。御霊は「世の光」として、多くの人が見える場所で輝かせなければなりません。マタイ5章の山上の説教でイエス様はおっしゃっていますね。

マタイ5:14 「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 それゆえ、世の光である御霊を地の中に隠すことは、御霊を冒瀆することになるのでしょう。一方、五タラントと二タラントのしもべは人々の前で世の光を輝かせましたから、そのことで多くの実を結ぶことができました。

③各自に与えられた賜物で主の再臨の道を整える
 このたとえ話の財産を預けた主人はいったん旅に出て、再び戻って来ました。つまり、戻ってきた主人とは再臨したイエス様です。イエス様は私たちに御霊の賜物を預けて、再び戻って来るまでの間、この地上で働くようにとおっしゃっています。つまり、この御霊の賜物を活かす働きとは、主の再臨に備えて道を整える働きでしょう。先週も引用したイザヤ書40章3節と4節を、今週も週報に残しておきました。

イザヤ40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」

 このイザヤの預言は、南王国のエルサレムがバビロン軍の攻撃によって滅亡して、国土も人の心も荒廃した中にイエス様が天から降って来てクリスマスの日にお生まれになる、その時に備えて主の道を用意せよ、荒れ地で私たちの神のために大路をまっすぐにせよ、と励ましたものです。そして、今またコロナ禍や温暖化による異常気象、ロシアとウクライナとの戦争などによって、やはり荒れ地になってしまったこの世と人々の心を整えるようにと、神様はイザヤを通して私たちを励ましています。この荒れ地のような世を整えるには、やはり総合伝道が必要なのでしょう。

 明治4年の静岡学問所にエドワード・クラーク先生が教師として来た時、この学問所で学ぶ若者たちの多くが徳川家の幕臣の子弟たちでした。徳川は薩長連合の新政府軍に敗れて江戸を離れ、静岡で新しい暮らしを始めたところでした。主君の徳川が敗れたことで幕臣の子弟たちは希望を失い、暗闇の中にいました。そんな彼らは学問に新たな希望を見出して、クラーク先生が教えた西洋の近代科学に心を躍らせ、また聖書のみことばの光が彼らの心を明るく照らしました。そうして、クラーク先生によって蒔かれた福音の種が実を結んで静岡で初めての教会のメソヂスト教会が建て上げられて、また平岩愃保(よしやす)牧師の尽力によって英和の前身の静岡女学校が設立されて、今日に至っています。

 これらは皆、イエス様によって預けられたタラントが尊く用いられて為されました。預けられたタラントの額は人それぞれで異なりますが、多くの者たちのタラントが地面の中に埋められてしまうことなく、用いられました。

 伝道とは総合伝道であって、静岡のクラーク先生がそうであったように単に聖書のみことばを伝えるだけでなく、科学を教えることも、家を設計して建てて料理を振る舞うことも伝道の一環です。それが総合伝道です。オルガンを弾くことも、幻灯機でスライドの上映をすることも伝道の一環です。最初はオルガンの演奏に魅せられた平岩牧師のように、明治の世では、これらが人々の心を捉えて、やがて聖書のみことばを学ぶことへとつながって行きました。

おわりに
 今のこの荒れ地のような世においても、総合伝道が必要とされています。一人一人が与えられたタラントを活かして、やがて再び戻って来られるイエス様のために働きたいと思います。そうすれば、イエス様はおっしゃって下さいます。

「よくやりましたね。あなたは良い忠実なしもべです。あなたはわずかな物に忠実でしたから、多くの物を任せましょう。わたしの喜びをともに喜んでください。」


 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

マタイ25:14 「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。」
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アブラハムの信仰をヤコブにつないだイサク(2022.10.13 祈り会)

2022-10-17 10:42:09 | 祈り会メッセージ
2022年10月13日祈り会メッセージ
『アブラハムの信仰をヤコブにつないだイサク』
【創世記35:28~29】

創世記35:28 イサクの生涯は百八十年であった。
29 イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。

 今月はイサクに注目しています。先週も話しましたが、藤本満先生の『祈る人々』ではイサクは1回しか触れられていません。アブラハムの回は4回、ヤコブの回は3回あるのに対してイサクの回は1回だけです。それで私も当初は、この祈り会ではイサクの回は1回だけにするつもりでいました。そうしてイサクについての思い巡らしを始めたところ、これまで私はイサクについてはほとんど思い巡らしをしたことがなかったことに気付かされました。それゆえ、少し思いを巡らしただけではなかなかイサクについての理解が深まりませんでした。そういうわけで、今月の3回分はすべてイサクに当てて、イサクへの理解を深めたいと願っています。

 最初に読んだ創世記35章28節に記されているように、イサクの生涯は百八十年でした。今の日本人の平均寿命の2倍以上を生きたことになります。ちなみにイサクの祖父のテラの生涯は205年(創11:32)、父のアブラハムの生涯は175年(創25:7)、子のヤコブは147年(創47:28)、孫のヨセフは110年(創50:26)でした。ですから205年生きた祖父のテラよりは短かったですが、アブラハム、ヤコブ、ヨセフよりもイサクは長く生きました。そうして満ち足りて亡くなりました。

 ご承知のように、イサクが生まれた時の父アブラハムの年齢は100歳(創21:5)、母サラはおよそ90歳(創17:17)でした。その前に女奴隷ハガルによってイシュマエルが生まれていましたが、アブラハムとサラの夫婦にとっては初めての子で、主によってこの子が跡取りになると言われていましたし、二人が年を取ってからの子ですから、イサクは本当に大切に育てられたことでしょう。

 あまりに大切に育てられすぎると我がままな子に育つことも少なくないと思いますが、イサクはそういう我がままな子には育ちませんでした。素直な良い子に育ち、父が彼を屠ろうと薪を置いた祭壇の上に縛り付けられた時も、特に抵抗はしなかったようです。しかし、抵抗はしなかったものの、この恐怖体験がイサクの心の傷になったのではないかということは容易に想像できます。聖書にはこの恐怖体験がイサクの心にどのような影響を与えたのか一切書かれていませんから、私たちには分かりませんが、ぐれて親に反抗する子になってしまっても少しもおかしくなかっただろうと思います。でもイサクは真面目で実直な成年に育ったようです。

 イサクがリベカを妻に迎えた時、彼は40歳でした。現代人の平均的な結婚年齢から言うとやや遅い気がしますが、彼は180歳まで生きましたから、特に遅いことはなかったのかもしれません。また、イサクが37歳の頃に母のサラが亡くなっていますから、それで良かったのだろうと思います。母のサラは90歳の頃にイサクを生んで、127歳で亡くなったと記されていますから(創23:1)、サラが亡くなった時、イサクはおよそ37歳でした。そうしてイサクは40歳の時にリベカを妻に迎えました(創25:10)。イサクの母のサラは、女奴隷のハガルを2度も追い出した女性ですから、恐らく嫁のリベカとも良い関係を築くことは難しかったのではないかなと想像します。そういう意味で母サラの死後にリベカを妻に迎えたことは良いことだったかもしれません。

 さて、イサクとリベカとの間には、エサウとヤコブの双子の兄弟が生まれました。ヤコブは頭が良くて知恵を働かせて、自分で自分の人生を切り開いて行くタイプの若者でした。一方のエサウは体力勝負の体育会系のようなタイプのようで、知恵を働かせるのはあまり得意ではなく、悪く言えば愚直とも言えるかもしれません。そして、イサクが愛したのは、そんなエサウの方でした。それは、イサクもどちらかと言えば、エサウのような愚直とも言えるような面があったからではないかという気がします。エサウとイサクは似た面があります。でもヤコブとイサクは全然似ていないように思います。ですから、イサクはヤコブよりもエサウを愛したのではないかなと思います。

 しかし、神様が選んだのはヤコブの方でした。若い頃のヤコブは、知恵は働きましたが、神様への信仰はそれほどでもなかったように思います。それにも関わらず、神様はヤコブの方を選びました。どうしてなのか、それはまたヤコブの回で思いを巡らすことにしたいと思いますが、アブラハムの信仰を継承して行くには、ヤコブのような粘っこさを必要としたのかもしれません。エサウはどちらかと言えば淡泊です。長子の権利にも執着しませんでしたし、祝福を横取りしたヤコブへの恨みも20年後にはほとんど消えていました。一方、ヤコブの方は20年後にエサウと再会することが恐ろしくて恐ろしくて夜も眠れず、祈りの中で神様と格闘するほどでした。でもエサウの方は、そこまでヤコブのことを恨み続けるということはなかったようです。神様がヤコブの方を選んだのは、そのあたりが関係しているのかもしれません。

 ここまでをまとめると、イサクは既に年老いた両親から生まれ、跡取りとして大切に育てられて、我がままになることもなく真っ直ぐに育ち、父のアブラハムに屠られて殺される寸前まで行きながらグレることもなく、父が進めた結婚話に素直に従い、愚直なエサウを愛しました。そんなイサクも愚直とも言える面がありました。ヤコブがエサウへの祝福を横取りした時、イサクはエサウに祝福のやり直しをすることはありませんでした。イサクが愛していたのはエサウのほうでしたが、そこは曲げずに祝福はヤコブのものであるとしました。そんな真面目さと誠実さがイサクにはありました。

 イサクはアブラハムやヤコブに比べると、派手さに欠けて地味な感じがします。創世記の記述も、イサクが主役の場面はあまり多くはありません。来週開く予定のイサクが父アブラハムの井戸を掘り返した場面は、数少ないイサクが主役の場面だと思います。イサクが父アブラハムに屠られそうになった場面も主役はアブラハムでしたし、イサクがエサウではなくヤコブの方を祝福してしまった場面も、主役はヤコブでした。そういうわけで、イサクは地味な印象があります。でも、地味な印象のイサクも信仰の継承という観点からは欠かせない人物でした。イサクがいたからこそ、信仰の父と言われるアブラハムの信仰がイサクを介してヤコブに継承されて、それがヤコブの12人の息子たちに継承されました。そして、エジプトに移住して奴隷の身分になることで信仰の火はいったん消えかかったかに見えましたが、モーセの時代にエジプトを脱出して十戒が与えられて、いろいろな問題を抱えてはいましたが、ダビデに継承されました。そして、王国の南北分裂、北王国の滅亡、南王国の滅亡という試練はありましたが、イエス様の時代にまで引き継がれて行き、さらに使徒たちにも引き継がれ、21世紀の現代にも引き継がれて来ました。ですから、私たちもまたアブラハムの信仰の子孫です。パウロがガラテヤ人への手紙に書いた通りです。パウロは書きました。

ガラテヤ3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 イサクは地味な人物のように見えますが、イサクがいたからこそ、アブラハムの信仰がヤコブに引き継がれ、21世紀の私たちにも引き継がれました。こういう、一見地味だけれども欠かせないという人物は私たちの周りにもたくさんいることを覚えます。このことを覚えて、神様に心一杯感謝しつつ、一言お祈りしたいと思います。

創世記35:28 イサクの生涯は百八十年であった。
29 イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。
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「ぶどう園で何をして働くか?」(2022.10.9 礼拝)

2022-10-10 15:20:20 | 礼拝メッセージ
2022年10月9日礼拝メッセージ
『ぶどう園で何をして働くか?』
【マタイ20:1~16】

はじめに
 10月は私たちの教団のイムマヌエル綜合伝道団が創立された月です。今年は10月23日に教団創立記念礼拝を行う予定です。その教団創立記念礼拝での説教のための備えを少しずつ始めているところですが、今年は教団名にある「綜合伝道」ということばがとても心に通っています。

 詳しくは23日の礼拝で話す予定ですが、教団が創立されて間もない1946年の1月には医務部、伝道部、教育部、農耕部の四つの部がありました。教育部は後に保育部という名前に変わっています。伝道部は分かるとして、それ以外に医務部、保育部と農作物を作る農耕部があったことは、とても興味深いですね。これらは敗戦により国土が荒廃し、食糧不足によって栄養状態も悪い中にあって必要なものでした。単に聖書のみことばを伝えるだけでなく、医療や農業や幼子の保育等を通じて総合的に伝道を行うことを目指しました。これらは現代においても途上国で宣教する時には行われていることでしょう。

 そうして、日本が戦後の混乱から復興して豊かになると医療と保育と農業は役割を終えて、伝道に特化されるようになりました。このように、現代の豊かになった日本においては「総合伝道」は役割を終えたかのように見えます。しかし、ご承知のように、今の日本、そして世界は地球規模の温暖化による大雨・台風・干ばつの問題、また世界規模のコロナ禍という感染症の問題、さらには半年以上におよぶウクライナでの戦争によるエネルギー危機や食糧危機などの深刻な問題によって混迷の度が深まっています。

 そういう中にあって私たちは「総合伝道」を再び見直すべき時期に来ているのではないかという気がしています。そこで今週と来週は「総合伝道」を頭の片隅に置きつつ、23日の教団創立記念礼拝に向けて、心を整えて行きたいと願っています。

 きょうの中心聖句はマタイ20章1節です。

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①個人の救いと人類の救いが共存する福音書
 ②主の道を用意することが、ぶどう園の仕事
 ③ぶどう園の働きは主の再臨後も、なお続く

①個人の救いと人類の救いが共存する福音書
 この表題の最後の「福音書」は「聖書」に置き換えることもできます。でも「聖書」とすると話が大きくなり過ぎるので、きょうのところは「福音書」とします。

 たとえば皆さんがよくご存知の「放蕩息子の帰郷」(ルカ15章)のたとえ話も、「個人の救い」と「人類の救い」とが共存しています。弟息子は父親の財産を分けてもらって遠い外国へ旅立ち、そこで放蕩して財産を使い果たし、食べる物も無くなってみじめな思いをしている時に我に返って父親のことを思い出します。そうして父の家に帰った弟息子を父親は大喜びで出迎えて祝宴を開きました。この弟息子とは自分のことだと私たちは考えます。神様から離れて好き勝手をし放題だった私たち一人一人でしたが、ある時ふと我に返って、自分が空っぽでみじめな人間であることに気付きます。そうして父の家である教会にたどり着いた時、神様は大喜びで迎えて下さり、豊かに祝福して下さいました。これが「個人の救い」です。

 しかし、この「放蕩息子の帰郷」のたとえ話には「人類の救い」という側面もあります。それは弟息子が異邦人であり、兄息子がユダヤ人であるとして、この物語を読むことです。兄息子のユダヤ人はずっと父の家にいましたが、弟息子の異邦人は遠い昔の創世記の時代に父の家を出て神様から離れた暮らしをしていました。それがペンテコステの日以降に使徒たちの働きが開始されて、特にパウロたちによって異邦人伝道が行われたことで、弟息子である異邦人が父の家に戻って来ることができました。2千年前の紀元1世紀には、まず地中海沿岸の異邦人たちが救われました。そうして1500年代にはフランシスコ・ザビエルたちによって私たち日本人にも福音が届けられました。ただし、徳川の時代にはキリスト教の布教は禁じられていました。その後、明治の世になって布教が再開されましたが、世界では今なお徳川時代の日本のようにキリスト教の布教が禁止されている国や地域があります。しかし、やがていつかはこれらの国や地域にも福音が広く届けられるようになることでしょう。そうして、最後に終わりの日が来ます。これが「人類の救い」です。

 そして、きょうの聖書箇所の「ぶどう園の主人」のたとえ話においても、「放蕩息子の帰郷」と同じように「個人の救い」と「人類の救い」とが共存しています。まず「個人の救い」について、聖書に沿って見て行きましょう。マタイ20章の1節と2節です。

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 この、朝早くに主人に雇われた労働者たちとは、「個人の救い」の観点から見るなら、幼い頃に洗礼を受けた方々でしょう。続いて3節と4節、

3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』

 この9時頃に雇われた人たちとは、小学生や中高生の時に洗礼を受けた人たちと言えるでしょうか。次に5節、

5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。

 12時頃雇われた人は20代か30代ぐらいに洗礼を受けた人でしょうか。また、3時頃に雇われた人は40代か50代ぐらいで洗礼を受けた人と言えるでしょうか。私自身は40代で洗礼を受けましたから、午後3時頃だと思います。そして6節と7節、

6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』

 この夕方の5時頃に雇われた人とは、60代以降に洗礼を受けた人と言えそうですね。これが「個人の救い」です。

 一方、「人類の救い」という観点からこのたとえ話を読むなら、朝早くに雇われた者たちとはユダヤ人たちでしょう。そして午前9時頃に雇われた人々はパウロたちの異邦人伝道によって救われた地中海沿岸の人々、12時頃に雇われた人々はヨーロッパ全体にキリスト教が広まって行った頃に救われた人々、午後3時頃はアメリカ大陸やアジア大陸、そして日本やアフリカ諸国と言えるのでしょう。そして午後5時頃に雇われる人々は、未だ福音が届いていない地域の方々で、これから福音が本格的に宣べ伝えられる国や地域の方々と言えるのではないでしょうか。そうして最後に終わりの時が来ます。

 私たちが福音書を読む時、「個人の救い」という観点から読むことが多いと思いますが、いま地球規模で世界が困窮している中にあっては、より視野の広い「人類の救い」という観点から福音書を読むこともまた大切であろうと思います。イエス様は私たち一人一人が聖められることを願っておられるのと同時に、今のひどい世界の全体がもっと聖くなることを願っておられるからです。

②主の道を用意することが、ぶどう園の仕事
 ぶどう園の主人に雇われたら、私たちはどんな仕事をするのでしょうか?人それぞれ与えられた才能、タラントが異なりますから、イエス様から任される仕事も人それぞれでしょう。しかし、一言で言うなら、ぶどう園の仕事とはズバリ「主の道を用意すること」と言えるのではないでしょうか。

 イザヤ書40章で預言者イザヤは預言しました。

イザヤ40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。

 このイザヤ書40章の3節は、マルコの福音書の冒頭でも引用されていて、その通りにバプテスマのヨハネが現れて、イエス様が来られる道が整えられたとマルコは書いていますね。また、冒頭ではありませんがマタイもルカもヨハネもバプテスマのヨハネが現れた場面で引用しています。でもイエス様が地上に来られるのは2千年前にヨセフとマリアの子としてお生まれになった時だけではありません。やがての時、終わりの日にはイエス様は再びこの地上に来られます。この再臨の時に備えて、私たちはこの地上を整えます。いつも言っているように、最終的には天から御国が降って来て、この地上で新しい天と新しい地が造られるからです。私たちがいつも献げている「主の祈り」の「御国を来たらせたまえ」、すなわち「御国が来ますように」という祈りは、この御国が天から地上に降って来ますように」という祈りです。そうして御心の天になるごとく、地にもなされます。

 ぶどう園の働きとは、この天の御国が地上に降って来る時に備えて、地上を整えることでしょう。やるべきことは様々にありますから、それぞれ与えられた才能、タラントに応じてできる範囲でやれば良いのだと思います。

 いま世界は本当にひどい事になっていますから、地上の管理を任された私たちは、少しでも良い状態になるように働くべきでしょう。神様が天と地を造られた時、それは非常に良かったと創世記1章の最後に書かれています。しかし、アダムとエバが蛇に誘惑されて人の心に罪が入ってからは、私たちはこの地上を適切に管理することができなくなりました。

 地球の温暖化への警告は20世紀の頃からされていました。「京都議定書」ということばを聞いたことがある方も多いことと思います。1997年に京都で地球温暖化防止のための第3回締約国会議が開かれました。いわゆるCOP3と呼ばれる会議です。京都で会議が行われ、しかも「京都議定書」によって、かなり具体的な目標が設定されたために、私たちの地球温暖化への関心も随分と高まりました。でも正直を言いますと、私自身の認識はまだまだで、南極の氷が溶けて海面の水位が上がって太平洋の小さな島国が消えてしまう危機があるという程度でした。その太平洋の島国にとっては深刻な問題であろうから、何とかしなければならないだろうとは思いましたが、身の回りに危険が迫っているという認識はありませんでしたから、どこか他人事のように思っていました。

 それが21世紀に入って、温暖化の問題は南極の氷が溶けることだけではなくて、北極やグリーンランドやシベリアの凍土も溶けて、さらには海水の温度が上がることで海の水の蒸発量が増えて豪雨をもたらし、台風やハリケーンも巨大化して猛威をふるって日本の各地も毎年何度も大きな被害に見舞われるようになりました。そうして、先月の9月23日から24日に掛けては私たちの住む静岡市でも台風15号の通過時に線状降水帯が発生して、大変な被害が出ましたから、私たちは地球温暖化の問題がいかに深刻であるか、身をもって体験することになりました。

 静岡市では48年前の1974年の7月7日にいわゆる七夕豪雨に襲われて大変な被害が出ました。私が安東中学の3年生の時で、大岩の私の家は大丈夫でしたが、同級生のお宅の多くが被害を受けました。浅間山のリフトがあった所に住んでいたお宅で土砂災害に遭ったお宅もありましたし、竜南小学校方面のお宅の多くが床上浸水の被害に遭いました。この七夕豪雨で大きな被害が発生したことで土砂災害対策や治水対策が為されましたが、それにも関わらず今回の台風15号でまた大きな被害が出たということは、今回の豪雨は七夕豪雨を上回るものであったということが分かります。送電用の鉄塔2本の基礎が崩れたのも豪雨の影響です。先週の月曜日と火曜日に私は静岡市の災害ボランティアに参加して、そのうちの1日は松野地区に派遣されました。ここは安倍川流域の油山よりさらにもう少し上流にある地区ですが、安倍川に流れ込んでいる川が氾濫して周辺のお宅は床上1メートル近くまで水位が上がった痕跡が残されていました。

 25年前の京都議定書の時は地球温暖化の問題がこんなに身近な問題であるとは夢にも思いませんでした。新型コロナウイルスの感染症の問題も同様です。3年前の2019年の秋の時点では、その半年後に緊急事態宣言が出されて教会の礼拝に人が集まることができなくなる事態になることなど予測した人は誰もいなかったでしょう。戦争の問題も、1年前の秋の時点でロシアが核兵器を使用することを本気で心配しなければならない事態になろうとは夢にも思いませんでした。核兵器使用の恐れがある国と言えば北朝鮮であり、まさかロシアのことを本気で心配しなければならないとは思いませんでした。

 このように、今の世界は本当にひどいことになっています。このような時代にあっては、終戦直後のような「総合伝道」を考える必要があるのではないかと考えます。イザヤが40章3節で「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」と預言したのも、エルサレムがバビロン軍の攻撃によって滅亡して荒廃してしまったからの復興についてです。私たちの教団が創立されて「総合伝道」が開始されたのも、敗戦によって荒廃した日本の国土と国民の魂を復興させるためです。今の2022年の現代も、それに近いひどい状態であると思います。

③ぶどう園の働きは主の再臨後も、なお続く
 聖書に戻って、マタイ20章の8節以降を読みます。8節から12節までを読みます。

マタイ20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』

 この、ぶどう園の主人のたとえ話を「人類の救い」という観点から読む時、朝早くから働いていた者たちとはユダヤ人だと話しました。放蕩息子の帰郷のたとえ話で言えば、兄息子です。12節で不平不満を言ったユダヤ人たちは、放蕩息子が家に戻った時に大喜びして宴会を開いた父親に不変不満を言った兄息子のとてもよく似ていますね。兄息子は父親に言いました(週報p.2)。

ルカ15:29 「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」

 神様は、ぶどう園で長く働いた者もそうでない者も、父の家に戻ったなら同じように扱って下さいます。そのように神様とは、とても気前の良いお方です。でも、考えてみれば、ぶどう園の仕事とはイエス様が再臨したら終わりというわけではないでしょう。新天新地では誰もが遊んで暮らせるというわけではないでしょう。

 たとえばエゼキエルは、47章12節で、このように書いています(週報p.2)。

エゼキエル47:12 「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 この植物から食物と薬を獲るためには、そのために働く人々が必要でしょう。この川では魚が獲れますから漁師も必要です。新天新地では人々が遊んで暮らすわけではなく、皆が喜びをもって王であるイエス様に仕えながら働きます。このように、ぶどう園での働きはイエス様の再臨後も続けられるのですから、その前に朝早くから働いたとか夕方から働いたとかは、あまり関係ないことだ、ということになるでしょう。

おわりに
 こうして私たちは、早くから救われた者も後から救われた者も、イエス様が再び来られる時に備えて主の道を整える働きをして、イエス様が再び来られた後も、なお働きます。王であるイエス様にお仕えすることは幸せなことですから、これは素晴らしい恵みです。

 今の時代、若い人々がなかなか教会とつながらなくなっていますが、今のこのひどい時代にイエス様が再び来られる時に備えて主の道を整える働きは、とてもやりがいのあることだと思います。この恵みをもっと上手く伝えられるようになりたいと思います。23日の教団創立記念礼拝に向けて、イエス様に整えていただき、良い導きが与えられるように、ご一緒に願い祈っていたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りする時を持ちましょう。
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誠実にヤコブを祝福したイサク(2022.10.6 祈り会)

2022-10-09 17:43:08 | 祈り会メッセージ
2022年10月6日祈り会メッセージ
『誠実にヤコブを祝福したイサク』
【創世記27:26~30】

 きょうからイサクに注目したいと思います。まず創世記27章26節から30節までを交代で読みます。ここは、イサクが自分の息子を祝福する場面です。イサクはエサウだと思って祝福しましたが、ここにいたのは実は弟のヤコブの方でした。ヤコブは、自分はエサウだと嘘をついて父から祝福を受けました。

創世記27:26 父イサクはヤコブに、「近寄って私に口づけしてくれ、わが子よ」と言ったので、
27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子の香り。が祝福された野の香りのようだ。
28 神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
30 イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た。

 きょう、この箇所を開くことにしたのは、イサクの信仰と誠実な人柄がよく現れていると感じたからです。実は藤本満先生の『祈る人びと』のイサクの回で取り上げている箇所は27章ではなくて26章の18節と19節です。お読みします。

創世記26:18 イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返した。イサクは、それらに父がつけていた名と同じ名をつけた。
19 イサクのしもべたちがその谷間を掘っているとき、そこに湧き水の井戸を見つけた。

 この箇所は来週か再来週のどちらかの祈り会で開くことにしたいと思います。この箇所は簡単には扱えない箇所で、ここを祈り会で扱うまでには、さらに1週間か2週間思い巡らしを重ねる必要を感じているからです。

 創世記26章の18節と19節のイサクの場面がどうして簡単には扱えない箇所かというと、ここにはイサクが父アブラハムの時代の井戸を掘り返したことが記されていて、藤本先生は『祈る人びと』の中で、この場面を、ご自身がクリスチャン2世であることと、さらに牧師職においても2世であることとを重ねているからです。私自身は父がクリスチャンであったものの、私が生まれた頃には父はもう教会から離れていましたから、私は2世ではなく、1.5世にも満たない1.2世ぐらいだと思っています。父がクリスチャンであったことで受洗時の心理的なハードルが少し低くなる効果があったと思いますから1.0世ではありませんが、せいぜい1.2世ぐらいだと思います。その1.2世の私には2世の気持ちは想像しづらい世界です。まして牧師2世の気持ちとなるとほとんど全く想像できません。

 それゆえ藤本先生がご自身が牧師2世であることを重ねている創世記26章18節と19節は簡単には扱えないなと思いました。でもスキップする訳にもいかないと思いましたから、来週か再来週に開くことにしたいと思います。

 なぜスキップする訳には行かないかと言うと、イサクが父アブラハムの時代の井戸を掘り返したこの箇所は、今の牧師不足の問題とも関わって来ると感じているからです。今の時代には牧師のお子さんたちも神学校に入らなくなりました。これはやはり、これまでのやり方では立ち行かなくなっているという気がします。

 私は以前から、個人の救いを中心に据えた福音伝道は限界に達しているのではないか、これからは人類全体の救い、世界の救いを視野に入れた、もっと大きな観点からの福音伝道にシフトして行かなければならないのではないか、ということを何となくモヤモヤと感じていました。それが、今年に入って戦争の問題と温暖化の問題が深刻になって、急速にハッキリして来たように感じています。今のひどい世界が何とかもっと良くなる方向にイエス様に導いていただいて働くことが、イエス様の御心にもかなっているのではないか、すなわち世界の救いを視野に入れた福音伝道をするべきではないのと感じています。

 今の若い人々は幼少の頃からネットを通じて世界とつながっていますから、そのほうが働き甲斐を感じるのではないかとも思います。これから献身する若い人たちも、人々をそういう方向に導くことが求められているのではないかと感じています。このことは、とても重い問題ですから、礼拝説教とも絡ませつつ、もう少し時間を掛けて思いを巡らしたいと思います。

 さて今夜、創世記27章を開くことにしたのは、もっとイサクについての理解を深める必要を感じたからです。そうして理解を深めた上で創世記26章と向き合いたいと思ったからです。最初に話したように、創世記27章のイサクがヤコブを祝福した場面には、イサクの信仰と誠実な人柄がよく現れていると感じます。もう一度、28節と29節をお読みします。

28 「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
29 諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」

 ここで、イサクがいかに心を込めてヤコブを祝福したかは、この後で兄のエサウが戻って来た時に分かります。先ほどの続きの31節から35節までをお読みします。

31 彼もまた、おいしい料理を作って、父のところに持って来た。そして父に言った。「お父さん。起きて、息子の獲物を召し上がってください。あなた自ら、私を祝福してくださるために。」
32 父イサクは彼に言った。「だれだね、おまえは。」彼は言った。「私はあなたの子、長男のエサウです。」
33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」
34 エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も。」
35 父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった。」

 このエサウへのイサクのことばを見ると、イサクが主と一つになって本当に心の底からヤコブを祝福していたことが伝わって来ます。もう一度エサウに同じ祝福を与えることなど決して出来ないほど、イサクは誠実にヤコブを祝福したということです。

 イサクもまた同様の祝福を父のアブラハムから受けていたでしょう。それがヤコブに引き継がれて、ヤコブもまた12人の息子たちとヨセフの二人の息子たちを祝福しました。それがイスラエル民族全体への祝福となり、途中いろいろあったもののダビデ王とソロモン王が立てられて、イスラエルの民族はさらに豊かに祝福されました。その後、またいろいろとあったもののイエス様へとつながって行き、イエス様の死後に使徒たちによって全世界に祝福が広がって行きました。そうして地の果てである日本の私たちにも福音がつたわって、祝福の恵みに与っています。

 つまり、イサクのヤコブ個人への祝福が、全人類の祝福へとつながって行きました。この祝福の継承が、いま現代においては急速に難しくなって来ていて、神学校に神学生が入学しない事態になっています。しかし私自身は、福音伝道の中心を個人の救いから世界の救い、人類の救いへとシフトさせて行くことで、きっと乗り越えて行くことができるだろうと思っています。もともと聖書の福音は地の果てに至る全人類の救いが視野に入っていました。もちろん世界の救いと言っても一人一人の個人の救いが集まって成り立つものですから、個人の救いをお伝えすることは大切なことです。しかし、それと同時に、世界の救いを視野に入れた福音伝道にシフトして行くなら、若い人々も、もっと魅力を感じてくれるのではないか、そのように感じています。

 アブラハムからイサク、イサクからヤコブへの信仰の継承、祝福の継承について、さらに思いを巡らしつつ、イサクについてもさらに理解を深めて行きたいと思います。お祈りいたします。
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契約の重さを思っていただくパンと杯(2022.10.2 礼拝)

2022-10-03 07:46:25 | 礼拝メッセージ
2022年10月2日聖餐式礼拝メッセージ
『契約の重さを思っていただくパンと杯』
【創世記17:1~14、ガラテヤ3:26~29】

はじめに
 きょうは聖餐式礼拝です。週報p.2の一番上にも載せたようにイエス様は最後の晩餐でおっしゃいました。ルカ22章19節と20節です。

ルカ 22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後(あと)これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」

 私たちは、この新しい契約によってキリストにあって一つとされ、神の子とされて永遠のいのちが与えられます。きょうは、この契約がとても重いものであることを分かち合って、その後に聖餐式に臨みたいと思います。きょうの中心聖句はガラテヤ人への手紙3章28節と29節です。

ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①旧約も新約も、契約を結んで守ることを重んじる
 ②忠実なアブラハム、守られたイシュマエルとイサク
 ③神が造られた地球環境を守る管理人の雇用契約

①旧約も新約も、契約を結んで守ることを重んじる
 最初に話したように、イエス様は最後の晩餐で、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」とおっしゃいました。イエス様が「新しい契約」とおっしゃったのは、その前に旧約の時代の古い契約があったからですね。旧約の時代の契約にはノアの時代の契約、アブラハムの時代の契約、モーセの時代の契約などがありました。一般に旧約の時代の契約と言えばモーセの時代の契約を指すことが多いと思います。しかし、アブラハムの時代の契約も非常に重要であったということを、きょうはご一緒に分かち合いたいと思います。

 契約を結ぶことは現代の私たちの生活にとっても欠かせないことですね。アパートを借りる時には賃貸契約を結びます。土地や家などを購入する時には売買契約を結びます。働く時には労働契約を結びます。契約書に細かい取り決めごとを書いておくことで、もめごとになることを防ぎます。例えばアパートの賃貸契約では、多くの場合、家賃は前の月の何日までに翌月分の家賃を支払うというようなことが書いてあると思います。この支払い期日を書いておかないと、面倒なことになります。

 このように現代の私たちの生活の基盤は、契約の上に成り立っています。しかし、その割には聖書に記されている神様と人との間の「契約」については、そんなに重く捉えていないのではないか、そんな気がします。軽視しているわけではありませんが、すごく重視しているというほどではない気がします。神様を信じること、信じる信仰についてはとても重要視しますが、神様との契約については、信じることと比べると少し軽いような気がします。でも、それではいけないのだ、ということを分かち合いたいと思います。

 きょうの聖書交読ではアブラハムとイシュマエル、そしてアブラハムの家の男子が割礼を受けて契約を結んだ場面を読みました。交読した箇所の創世記17章1節から14節の間には、アブラハムへの主のことばが記されています。ここで主は「契約」ということばを何度も使っています。その数は数えると実に10回です。まず2節、

創世記17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

9 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。

10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後(のち)の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。

11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。

13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」


 この1節から14節の間の短い箇所に10回も「契約」ということばが使われています。このことだけでも、「契約」がいかに重要であるかが分かると思います。そして、この時の「契約」のしるしは「割礼」でした。それゆえ、アブラハムと息子のイシュマエル、そしてアブラハムの家の者たちは割礼を受けました。23節です。

23 そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。

 さてしかし、創世記はこの後のページでは神様と人との間の契約のことは書いていません。人と人との契約については出て来ますが、神様と人との間の契約が次に出てくるのは出エジプト記のモーセの時代になってからです。それゆえ、見落としがちだと思いますが、実はこの「契約」が、アブラハムとイシュマエルとイサクのその後に、深く関わっているようです。それを、次のパートで見てみましょう。

②忠実なアブラハム、守られたイシュマエルとイサク
 いま祈祷会では藤本満先生の著書の『祈る人びと』をベースにして、旧約の時代の人物の信仰について分かち合っています。これまでアブラハムと女奴隷のハガルについて見て来ました。その中で、これまで分からないでいたことが「契約」ということばを手掛かりにすることで、分かるようになったと感じています。

 その一つが、アブラハムが息子のイサクを屠って全焼のささげ物として献げる一歩手前まで行った創世記22章の記事です(週報p.2)。

創世記22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、…一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

 アブラハムはイサクを献げなさいと神様から命じられた後、3節にあるように次の朝早くには出発しました。ここにはアブラハムが悩んだ様子が書かれていません。アブラハムも悩む時は悩みます。22章の手前の21章11節には、アブラハムが妻のサラから女奴隷のハガルと息子のイシュマエルを追い出すように言われて、非常に苦しんだことが書かれています。21章11節です(週報p.2)。

創世記21:11アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

 このように、21章のアブラハムは非常に悩み苦しんでいます。しかし22章はアブラハムが苦しんだとは書いていません。新約聖書のヘブル人への手紙は、この時のアブラハムのことを、こう書いています(週報p.3)。

ヘブル11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

 たとえアブラハムがそのように考えたとしても、悩む時は悩むでしょう。しかし、聖書は22章のアブラハムが悩んだとは書いていません。これは一体どういうことでしょうか。

 それはやはりアブラハムが神様と契約を結んでいたからではないでしょうか。21章のアブラハムが悩んだのは、妻のサラから言われたからでした。人間のサラの言うことであれば、断ることもできましたから悩んだということではないでしょうか。しかし、神様からの命令、しかも契約を結んだ神様からの命令は決して断ることはできず、悩む余地は無かったということではないでしょうか。命令を守らないとすれば、それは契約を破棄することを意味します。契約とは、それほど重いものであるということでしょう。

 契約のしるしは割礼でした。割礼で包皮を切り落とす時には血が流れ、痛みを伴います。この血と痛みを伴う契約は簡単に破棄することはできないでしょう。

 そして、創世記22章では息子のイサクは屠られることなく、守られました。それはイサクも割礼を受けていたからでしょう。或いはまた、イシュマエルも守られました。アブラハムはサラの言う通りに女奴隷のハガルと息子のイシュマエルに出て行ってもらいました。それはサラのことばに悩み苦しんでいたアブラハムに、主がサラの言う通りにするように言われたからです。アブラハムは妻に言われたからではなく、主に言われてそうしました。アブラハムにとっては、主の命令が第一でした。それは契約があったからでしょう。そうしてハガルとイシュマエルはアブラハムの家を出て行き、荒野をさまよいます。そして飲む水がなくなった時にイシュマエルは死にそうになりました。そんなイシュマエルを主は守って下さり、ハガルを通して水を与えて下さり、イシュマエルは元気を取り戻しました。このようにイシュマエルが守られたのも、やはり契約のしるしである割礼をイシュマエルが受けていたからでしょう。

③神が造られた地球環境を守る管理人の雇用契約
 3番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所を見ましょう。ガラテヤ人への手紙3章26節から29節です。

ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 私たちはイエス様を信じるとバプテスマ、すなわち洗礼を受けて契約を結びます。そうして契約のしるしであるイエス様の血であるぶどう液を共に飲み、キリスト・イエスにあって一つにされます。この手紙の28節でパウロは「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」と書きました。

 旧約の時代には契約のしるしである割礼を受けたのは男性だけでした。しかし、イエス様が十字架で血を流した新約の時代においては、男性も女性も分け隔てなく契約の恵みに与ることができます。ユダヤ人も異邦人もありません。身分の違いも関係なく、皆が等しく神様と契約を結ぶことができます。

 しかも、旧約の時代の割礼においては人間の側に血を流す痛みがありましたが、新約の時代には神様であるイエス様が十字架で血を流し、大変な痛みと苦しみを受けました。イエス様が引き受けた苦痛は肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛もすべて引き受けました。一方、人間の側の私たちは契約を結ぶ洗礼式と契約のしるしをいただく聖餐式においては苦痛の代わりに豊かな恵みをいただきます。

 このように私たちの側では苦痛を受けないから、というわけではないかもしれませんが、新約の時代の私たちは少々契約を軽く見ているかもしれません。信じる信仰は重要視しますが、契約に関してはそんなに重要視していない気がします。労働契約や賃貸契約、売買契約は大切にするのに、神様との契約をそんなに重要視していないような気がします。少なくとも私自身は、これまで「契約」ということばを、それほど意識していなかったように思います。ですから、そのことを悔い改めて神様に赦していただきたいと思います。

 労働契約においては、どんな仕事をするのか、雇う側と雇われる側とで合意した上で契約を結ぶでしょう。仕事の内容は人それぞれでしょう。

 神様との契約も、神様のためにどんな働きをするかは人それぞれでしょう。いま私の心に通っているのは、マタイの福音書20章に出て来る、ぶどう園で働く人を雇うために朝早く出掛けた主人の話です。ぶどう園の主人は朝早くと午前9時頃、昼頃、午後3時頃、そして午後5時頃に働き人を雇いました。私が主人であるイエス様に雇っていただいて洗礼を受けたのは42歳の時ですから、もう昼を過ぎた頃だと思います。そうしてイエス様はぶどう園で働くようにとおっしゃいました。

 これまで私は平和のために働くことが、このぶどう園での働きであると思っていましたが、このところ急速に温暖化の問題を中心にした環境問題に関する働きのことを示されています。それは言うまでもなく、1週間前の台風15号の通過で私たちが住むこの静岡市が停電・断水の被害に遭ったことです。特に清水区では断水が長く続くという大きな被害がありました。人的被害が少なかったことは幸いでしたが、もし停電がもう少し長引いていたら、冷房や扇風機が使えない中で熱中症で命を落とす人が出てもおかしくない状況だったと思います。私たちが住む地上をもっと良くすることが、ぶどう園で働く私の務めであることを強く思います。そうして思ったのが、3年前にアフガニスタンで命を落としたお医者さんの中村哲さんです。中村さんはクリスチャンです。

 中村さんはアフガニスタンで最初はお医者さんとして病人の診察と治療に当っていました。でも医者としての仕事をしている間に、病人を診るよりも病気の原因となっている食糧事情の悪さを改善する必要を感じるようになったということです。アフガニスタンでは砂漠化が進んで作物が獲れなくなり、栄養失調による病人がたくさんいました。そこで中村さんは井戸をたくさん掘り、その次には用水路を作って水を引き、砂漠化していた土地に潤いを取り戻し、作物が育つようにしました。そうして現地の人々の食糧事情が良くなり、病人も以前に比べれば少なくなりました。

 こういう働き方もあるのですね。大雨の被害で被災した方々を直接支援する働きが重要であることは言うまでもありませんが、大雨の原因となる二酸化炭素などの温室効果ガスの排出を少なくする働きも、とても大切だと思います。その方法は様々です。エコな生活をすることもそうですし、理工系であれば技術によって克服しようとするアプローチもあるでしょう。或いは山に植林したり植物をたくさん育てるなどして、植物に二酸化炭素を吸収してもらう方法もあり、やり方はいろいろです。

 或いは温暖化の問題だけでなく、貧困の問題、コロナなどの感染症の問題、紛争・戦争の問題もあります。これらの問題に取り組むことは皆、地上を良くする働きであり、地上が良くなれば苦しむ人々も少なくなりますから、それはイエス様が喜ばれることです。

 何年か前から若い人たちを中心にSDGsへの関心が高まっています。週報p.2の下にSDGsの説明を載せました。これは国連のユニセフのホームページからのコピーですが、それによれば、「貧困、紛争、気候変動、感染症。人類は、これまでになかったような数多くの課題に直面しています。このままでは、人類が安定してこの世界で暮らし続けることができなくなると心配されています。そんな危機感から、世界中のさまざまな立場の人々が話し合い、課題を整理し、解決方法を考え、2030年までに達成すべき具体的な目標を立てました。それが「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」です。

 イエス様はマタイ25章で、ご自身が空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた人たちを祝福して言いました。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」この祝福された人々には、中村哲さんのように、用水路を作って作物を作る手助けをした人も当然含まれます。直接病人を診るのではなく病人が出ないようにする働きもイエス様は喜んで下さいます。

 ですから私たちも、直接的な働きが出来なかったとしても、たとえばSDGsに高い関心を持つ若者たちに、天地を造ったのは神様であること、また造られた当初は非常に良かったことを伝えて、この地上を良くする働きを励ますことも、御心に適うことでしょう。神様は天地と空の星、植物と動物を造り、人を造った後で人を祝福して仰せられました。創世記1章28節です。

創世記1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ(治めよ=聖書協会共同訳)。」

 この「支配せよ」は聖書協会共同訳では「治めよ」となっていることを先週話しました。神様はこの地上を正しく管理することを望まれています。創世記3章で人の心に罪が入ったために、今の地球環境はひどいことになっていますが、これを少しでも良くする働きは御心に適ったことです。

 最近、私自身が示されていることはSDGsに関心が高い若い人たちに、この地球は神様が造られたこと、そして造られた当初は非常に良かったことを伝えて、彼ら・彼女らが環境問題、貧困の問題、平和の問題、感染症の問題に取り組む働きを励ますことが私の重要な働きの一つではないかということです。若い人たちが元気なら私たち高齢の者も励まされます。若い人たちが元気でなければ私たちも元気になれません。

おわりに
 神様が人と結ぶ契約の細かいことは、一人一人でそれぞれだと思います。皆さんは、どんな契約を神様と結んだでしょうか?或いはこれから結ぶでしょうか?いずれにしても、この契約は決して軽いものではなく、重いものであることを覚えたいと思います。この契約の重さを思いながら、聖餐式のパンと杯をいただきましょう。一言、お祈りいたします。

ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
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