2022年7月31日礼拝メッセージ
『あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました』
【ヨハネ2:1~11】
はじめに
今の悪い時代の中を正しく歩んで行くために、正しいお方であるイエス様の導きの声を今まで以上にはっきりと聴くことができるように私たちは心(或いは霊性)が整えられた者にならなければなりません。そのために、礼拝の説教では今月からヨハネの福音書を開いて、イエス様に心を整えていただいています。
先週はヨハネ1章のナタナエルの箇所を開いて、ここからは創世記のヤコブの時代が透けて見えることを話しました。イエス様に心を整えていただくと福音書が沼津の西浦の大瀬崎の海や沖縄の海のように透き通って見えて、イエス様が地上にいた時代以外の天にいるイエス様が透けて見えるようになります。
きょうはヨハネ2章から透けて見える天のイエス様を通して心を整えていただきたいと思います。きょうの中心聖句はヨハネ2章10節の宴会の世話役のことばです。
そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える
①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
もう何度も話していますが、今の2022年はとても悪い時代です。去年も一昨年も悪かったですが、今はもっと悪くなっています。この悪い時代に求められていることは、霊的に成長してイエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようになることです。正しいお方であるイエス様に導いていただければ悪い時代でも正しい方向に歩んで行けます。そのためにはヨハネの福音書がとても役に立ちます。なぜなら、ヨハネの福音書が書かれた時代も、霊的な成長が切実に求められていた時代だったからです。
ヨハネの福音書が書かれたのは1世紀の末の紀元90年代とされています。マタイ・マルコ・ルカの福音書が書かれたのが(諸説あるものの)大体紀元60年前後から70年前後に掛けてですから、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書よりも20年~30年後に書かれました。90年代、教会は深刻な問題に直面していたことでしょう。それは、地上のイエス様と実際に出会った生き証人の大半が天に召されてほとんどいなくなってしまったという問題です。イエス様が十字架に掛かったのは紀元30年か33年、その辺りです。ヨハネの福音書が書かれた90年代はイエス様の十字架からおよそ60年が経過していました。当時の寿命を考えれば、生き証人は少ししか残っていなかったことでしょう。
これは今の私たちの時代の、第二次世界大戦の生き証人が少なくなって来ている問題を考えれば、その深刻さが分かるでしょう。今年の夏で終戦後77年になります。77歳以下の人は先の大戦の時代を知りません。それで、ビデオなどで証言を残す作業が行われています。たとえば広島市の平和記念資料館には、被爆者による原爆被害の証言のビデオを視聴できる個別ブースが8つほどあって、1000人以上の証言をタッチパネルのボタン操作で簡単に視聴できるようになっています。また、広島まで行かなくてもインターネットのYoutubeでも約650人分の被爆者の証言が家庭から視聴できるようになっています。
古いビデオも多数含まれていますから、これらの証言者の多くが既に亡くなられています。でもビデオが残されたことで、後世に原爆の恐ろしさを伝えて行くことができます。一方で1世紀の昔には、福音書によってイエス様の目撃証言が残されました。先ずマタイ・マルコ・ルカの福音書によって、地上生涯のイエス様についての目撃証言の記録が文書によって残されました。
しかし、一つ大きな問題があります。限られた数の証言しか残らなかったら、それらは作り話に過ぎないということにされてしまうことでしょう。マタイの福音書の終わりのほうにも書いてありますが、十字架で死んだイエス様が墓から消えたのは、弟子たちがこっそり遺体を盗み出したからだという偽の話を祭司長たちは広めました。こうして、ユダヤ人たちの間ではイエス様の復活は弟子たちによる作り話であるとされてしまいました。話を作ったのは祭司長たちのほうなのですが、弟子たちが話を作ったことにされてしまいました。マタイの福音書28章の12節と13節です(週報p.2)。
マタイ・マルコ・ルカの福音書の証言がどんなに優れた証言であったとしても、証言の数が少ないと、信用しない人々によって作り話だということにされてしまいます。すると、キリスト教はやがて廃れてしまうでしょう。それゆえ、もっと圧倒的な数の目撃証言が必要です。そこでイエス様と霊的に出会えるヨハネの福音書が書かれることになったのだと思います。地上生涯のイエス様に出会った人の数は限られています。でも天のイエス様と霊的に出会った人の数なら、無限に増えて行きます。ヨハネの福音書の最後に書かれている通りです。ヨハネの福音書21章24節と25節です。
この、イエス様についての証しを書いた「弟子」とは、このヨハネの福音書を通してイエス様と霊的に出会った読者のことです。そうしてイエス様と霊的に出会った人の証言がどんどん増えて行けば、祭司長たちが言うような「イエス様の復活はただの作り話だ」などという話は打ち消すことができます。そしてさらには、ヨハネの福音書によってイエス様と霊的な出会いができるようになったことで、マタイ・マルコ・ルカの福音書の地上生涯のイエス様とも私たちは霊的に交わることができるようになりました。そうしてキリスト教は廃れることなく二千年間、継承され続けて来ました。
このように、ヨハネの福音書でイエス様と霊的に出会うなら、この福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく違う目的で書かれたことが分かります。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上生涯のイエス様のことを書いているのに対してヨハネの福音書は、天のイエス様のことを書いていて、天のイエス様とお会いできる書です。
②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
次の2番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所で天のイエス様にお会いすることにしましょう。まず1節から4節。
この4節は非常に重要です。イエス様の「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」は、イエス様が地上ではなくて天にいることを明確に伝えています。イエス様とマリアは地上では親子関係にありましたが、天のイエス様とマリアとの間にはもはや親子関係はありませんから、このような突き放したような言い方になっているのでしょう。
この時、イエス様は天の父と共に天にいて、まさにこれから地上に聖霊を遣わそうとしています。それを裏付けるみことばを二つ挙げておきます。ヨハネ4章1節から3節までと、ヨハネ15章26節です(週報p.2)。
ヨハネ4章のイエス様は天にいるイエス様です。イエス様は15章26節にあるように天から地上の弟子たちに聖霊を遣わしています。そうして聖霊を通して弟子たちに何をすべきかを伝えています。4章2節が「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いているのは、そのためです。地上に実際にいるのは弟子たちであり、イエス様は天にいます。ですから私たちはヨハネの福音書を通して、天のイエス様とお会いしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエス様がバプテスマを授けていたという記述は一言もありませんから、このマタイ・マルコ・ルカとの違いからもヨハネの福音書が天のイエス様を描いた書であることが分かります。
ヨハネ2章の1節から4節に戻ります。2章4節から透き通って見える光景は使徒の働き1章14節の祈りの場です(週報p.2)。
きょうの聖書交読で読んだように、ガリラヤ人たちは部屋に集まって祈っていました。この祈りの場には母のマリアもいました。そして彼らは、このすぐ後のペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受けます(使徒2章)。聖霊のバプテスマを受けて救われることは、まさに大きな祝福であり、それが婚礼の祝宴という形で表されています。ぶどう酒とは聖餐式のぶどう酒から分かるように、イエス様の血です。旧約の時代の儀式では動物の血が使われていましたが、新約の時代の儀式の聖餐式はイエス様の血が用いられます。ですから、母マリアが言った「ぶどう酒がありません」は、まさに旧約の時代の終わりを告げています。続いてヨハネ2章5節から7節、
かつてバプテスマのヨハネは言いましたね。マルコ1章8節(週報p.2)、
水では心の内まできよめることはできませんが、聖霊を受けるなら、私たちの心の内はきよめられます。この聖霊はイエス様の血でもあるということです。ヨハネの手紙第一1章7節でヨハネが書いた通りです(週報p.2)。
そうしてカナの婚礼ではきよめの水がぶどう酒、すなわちイエス様の血に変えられました。8節から10節、
この10節がきょうの中心聖句です。この婚礼の祝宴では、最初のぶどう酒がなくなった後、良いぶどう酒が出されました。最初のぶどう酒とは、旧約の時代の儀式に使われていた動物の血でしょう。ですから、このヨハネ2章のカナの婚礼の箇所から透けて見えているのは使徒の働き1章と次の2章のペンテコステの日の場面だけでなく、旧約の時代の祭りの日の儀式も透けて見えています。ヨハネ2章13節から16節の宮きよめの場面がそれを裏付けています。
15節にイエス様は「羊も牛もみな宮から追い出し」と書いてありますが、マタイ・マルコ・ルカの福音書の宮きよめの場面ではイエス様は羊や牛を追い出してはいません。例えばマルコ11章15節(週報p.2)、
このように、マタイ・マルコ・ルカのイエス様は羊や牛を追い出してはいません。ヨハネの福音書だけが羊や牛を追い出しています。ですから、ヨハネはここでイエス様の血が動物の血に取って代わったことを私たちに教えています。聖霊を受けることとはイエス様の血によって私たちの心の内をきよめていただくことでもあることを覚えたいと思います。そうして私たちには永遠の命が与えられます。11節、
イエス様を信じた者には永遠の命が与えられます。ですから、11節の「弟子たちはイエスを信じた」からは、弟子たちが聖霊を受けて永遠の命を得たことが透けて見えます。そうして、この福音書を読んでいる私たちもイエス様を信じるなら、聖霊を受けて、永遠の命が与えられます。聖霊を受けて永遠の命を得て心が整えられるなら、天のイエス様が薄っすらと見えるようになります。天のイエス様が薄っすらと見えるようになるなら、ますます心が整えられて、天のイエス様がますます見えるようになるという好循環が生まれます。
私があまり十字架を語らないのは、たぶん十字架が私たちの意識を地上のイエス様に釘付けにしてしまうからです。十字架はもちろん非常に重要です。でも十字架のイエス様に意識が釘付けになると、天のイエス様が見えづらくなります。ヨハネの福音書にも十字架の場面がありますが、それは母マリアとイエス様との親子関係の解消という意味合いが大きいように思います。十字架のイエス様はおっしゃいました。ヨハネの福音書19章25節と26節です(週報p.2)。
こうして、マリアとイエス様との親子関係が解消されました。だから2章のカナの婚礼でイエス様はマリアに、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と、おっしゃったのですね。
③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える
2章のカナの婚礼の手前の1章の終わりの50節と51節には、このように書かれています。
先週は、この箇所からは創世記のヤコブが見た夢の光景が透けて見えることを話しました。実はヤコブの箇所だけではなく、ここからは黙示録19章の光景も透けて見えています。黙示録19章11節です(週報p.2)
「それに乗っている方」とはもちろん、天のイエス様のことですね。天のイエス様は終わりの時に、再び地上に降りて来られます。今の悪い時代は、いよいよその時が近づいているのかもしれません。
前の世紀の20世紀まで、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じように地上生涯のイエス様についての書として読まれて来ました。21世紀に入って天のイエス様が透けて見えるようになってから私はヨハネの福音書の解説書を英語の本も含めて何十冊も買い集めました。多くは1970年頃から2010年頃までに書かれたものですが、アウグスティヌスやルターなどが書いた古いものの訳本もあります。それらのどれを読んでも天のイエス様が透けて見えていることを書いていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の末には天のイエス様についての書として読まれていた筈ですが、いつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上生涯のイエス様についての書として読まれるようになりました。
それがどうして21世紀になって急にヨハネの福音書が透き通って来て、天のイエス様が透けて見えるようになったのでしょうか?それは、いよいよ「終わりの時」が近づいているということではないでしょうか?その時が1年後なのか10年後なのか100年後なのかは誰にも分かりません。或いは、ある時に全員に対してイエス様が再臨されるのではなく、一人一人に対して少しずつ現れる形で再臨がゆっくりと進行して行くのかもしれません。それが天のイエス様が透けて見えるようになったことで始まったのかもしれません。いつ、どのような形で再臨が起きるのか私たちには分かりませんが、いずれにしても、イエス様が「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっていることを感じます。
1章51節に続く2章のカナの婚礼の場面からは、天のイエス様がペンテコステの日に聖霊を地上の弟子たちに遣わした様子が透けて見えます。このような形で天のイエス様は姿を見せて下さり、「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっているようです。
おわりに
「終わりの時」は必ず来ます。今の時代は本当にどんどん悪くなっています。今年は去年よりも、ずっと悪くなりました。ですから、終わりの時は近いのかもしれません。或いは、もっとどんどん悪くなりながら、当分の間は終わりの時は来ないのかもしれません。でも私たちは、その時に備えていたいと思います。今のこの悪い時代に、イエス様に心を整えていただき、イエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようにしていただき、やがて必ず来る終わりの時に備えていたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
『あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました』
【ヨハネ2:1~11】
はじめに
今の悪い時代の中を正しく歩んで行くために、正しいお方であるイエス様の導きの声を今まで以上にはっきりと聴くことができるように私たちは心(或いは霊性)が整えられた者にならなければなりません。そのために、礼拝の説教では今月からヨハネの福音書を開いて、イエス様に心を整えていただいています。
先週はヨハネ1章のナタナエルの箇所を開いて、ここからは創世記のヤコブの時代が透けて見えることを話しました。イエス様に心を整えていただくと福音書が沼津の西浦の大瀬崎の海や沖縄の海のように透き通って見えて、イエス様が地上にいた時代以外の天にいるイエス様が透けて見えるようになります。
きょうはヨハネ2章から透けて見える天のイエス様を通して心を整えていただきたいと思います。きょうの中心聖句はヨハネ2章10節の宴会の世話役のことばです。
ヨハネ2:10 「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える
①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
もう何度も話していますが、今の2022年はとても悪い時代です。去年も一昨年も悪かったですが、今はもっと悪くなっています。この悪い時代に求められていることは、霊的に成長してイエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようになることです。正しいお方であるイエス様に導いていただければ悪い時代でも正しい方向に歩んで行けます。そのためにはヨハネの福音書がとても役に立ちます。なぜなら、ヨハネの福音書が書かれた時代も、霊的な成長が切実に求められていた時代だったからです。
ヨハネの福音書が書かれたのは1世紀の末の紀元90年代とされています。マタイ・マルコ・ルカの福音書が書かれたのが(諸説あるものの)大体紀元60年前後から70年前後に掛けてですから、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書よりも20年~30年後に書かれました。90年代、教会は深刻な問題に直面していたことでしょう。それは、地上のイエス様と実際に出会った生き証人の大半が天に召されてほとんどいなくなってしまったという問題です。イエス様が十字架に掛かったのは紀元30年か33年、その辺りです。ヨハネの福音書が書かれた90年代はイエス様の十字架からおよそ60年が経過していました。当時の寿命を考えれば、生き証人は少ししか残っていなかったことでしょう。
これは今の私たちの時代の、第二次世界大戦の生き証人が少なくなって来ている問題を考えれば、その深刻さが分かるでしょう。今年の夏で終戦後77年になります。77歳以下の人は先の大戦の時代を知りません。それで、ビデオなどで証言を残す作業が行われています。たとえば広島市の平和記念資料館には、被爆者による原爆被害の証言のビデオを視聴できる個別ブースが8つほどあって、1000人以上の証言をタッチパネルのボタン操作で簡単に視聴できるようになっています。また、広島まで行かなくてもインターネットのYoutubeでも約650人分の被爆者の証言が家庭から視聴できるようになっています。
古いビデオも多数含まれていますから、これらの証言者の多くが既に亡くなられています。でもビデオが残されたことで、後世に原爆の恐ろしさを伝えて行くことができます。一方で1世紀の昔には、福音書によってイエス様の目撃証言が残されました。先ずマタイ・マルコ・ルカの福音書によって、地上生涯のイエス様についての目撃証言の記録が文書によって残されました。
しかし、一つ大きな問題があります。限られた数の証言しか残らなかったら、それらは作り話に過ぎないということにされてしまうことでしょう。マタイの福音書の終わりのほうにも書いてありますが、十字架で死んだイエス様が墓から消えたのは、弟子たちがこっそり遺体を盗み出したからだという偽の話を祭司長たちは広めました。こうして、ユダヤ人たちの間ではイエス様の復活は弟子たちによる作り話であるとされてしまいました。話を作ったのは祭司長たちのほうなのですが、弟子たちが話を作ったことにされてしまいました。マタイの福音書28章の12節と13節です(週報p.2)。
マタイ28:12 祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、13 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。
マタイ・マルコ・ルカの福音書の証言がどんなに優れた証言であったとしても、証言の数が少ないと、信用しない人々によって作り話だということにされてしまいます。すると、キリスト教はやがて廃れてしまうでしょう。それゆえ、もっと圧倒的な数の目撃証言が必要です。そこでイエス様と霊的に出会えるヨハネの福音書が書かれることになったのだと思います。地上生涯のイエス様に出会った人の数は限られています。でも天のイエス様と霊的に出会った人の数なら、無限に増えて行きます。ヨハネの福音書の最後に書かれている通りです。ヨハネの福音書21章24節と25節です。
ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。
この、イエス様についての証しを書いた「弟子」とは、このヨハネの福音書を通してイエス様と霊的に出会った読者のことです。そうしてイエス様と霊的に出会った人の証言がどんどん増えて行けば、祭司長たちが言うような「イエス様の復活はただの作り話だ」などという話は打ち消すことができます。そしてさらには、ヨハネの福音書によってイエス様と霊的な出会いができるようになったことで、マタイ・マルコ・ルカの福音書の地上生涯のイエス様とも私たちは霊的に交わることができるようになりました。そうしてキリスト教は廃れることなく二千年間、継承され続けて来ました。
このように、ヨハネの福音書でイエス様と霊的に出会うなら、この福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく違う目的で書かれたことが分かります。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上生涯のイエス様のことを書いているのに対してヨハネの福音書は、天のイエス様のことを書いていて、天のイエス様とお会いできる書です。
②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
次の2番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所で天のイエス様にお会いすることにしましょう。まず1節から4節。
ヨハネ2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」
この4節は非常に重要です。イエス様の「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」は、イエス様が地上ではなくて天にいることを明確に伝えています。イエス様とマリアは地上では親子関係にありましたが、天のイエス様とマリアとの間にはもはや親子関係はありませんから、このような突き放したような言い方になっているのでしょう。
この時、イエス様は天の父と共に天にいて、まさにこれから地上に聖霊を遣わそうとしています。それを裏付けるみことばを二つ挙げておきます。ヨハネ4章1節から3節までと、ヨハネ15章26節です(週報p.2)。
ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って…
ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って…
ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
ヨハネ4章のイエス様は天にいるイエス様です。イエス様は15章26節にあるように天から地上の弟子たちに聖霊を遣わしています。そうして聖霊を通して弟子たちに何をすべきかを伝えています。4章2節が「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いているのは、そのためです。地上に実際にいるのは弟子たちであり、イエス様は天にいます。ですから私たちはヨハネの福音書を通して、天のイエス様とお会いしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエス様がバプテスマを授けていたという記述は一言もありませんから、このマタイ・マルコ・ルカとの違いからもヨハネの福音書が天のイエス様を描いた書であることが分かります。
ヨハネ2章の1節から4節に戻ります。2章4節から透き通って見える光景は使徒の働き1章14節の祈りの場です(週報p.2)。
使徒1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
きょうの聖書交読で読んだように、ガリラヤ人たちは部屋に集まって祈っていました。この祈りの場には母のマリアもいました。そして彼らは、このすぐ後のペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受けます(使徒2章)。聖霊のバプテスマを受けて救われることは、まさに大きな祝福であり、それが婚礼の祝宴という形で表されています。ぶどう酒とは聖餐式のぶどう酒から分かるように、イエス様の血です。旧約の時代の儀式では動物の血が使われていましたが、新約の時代の儀式の聖餐式はイエス様の血が用いられます。ですから、母マリアが言った「ぶどう酒がありません」は、まさに旧約の時代の終わりを告げています。続いてヨハネ2章5節から7節、
2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
かつてバプテスマのヨハネは言いましたね。マルコ1章8節(週報p.2)、
マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
水では心の内まできよめることはできませんが、聖霊を受けるなら、私たちの心の内はきよめられます。この聖霊はイエス様の血でもあるということです。ヨハネの手紙第一1章7節でヨハネが書いた通りです(週報p.2)。
第一ヨハネ1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
そうしてカナの婚礼ではきよめの水がぶどう酒、すなわちイエス様の血に変えられました。8節から10節、
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」
この10節がきょうの中心聖句です。この婚礼の祝宴では、最初のぶどう酒がなくなった後、良いぶどう酒が出されました。最初のぶどう酒とは、旧約の時代の儀式に使われていた動物の血でしょう。ですから、このヨハネ2章のカナの婚礼の箇所から透けて見えているのは使徒の働き1章と次の2章のペンテコステの日の場面だけでなく、旧約の時代の祭りの日の儀式も透けて見えています。ヨハネ2章13節から16節の宮きよめの場面がそれを裏付けています。
13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
15節にイエス様は「羊も牛もみな宮から追い出し」と書いてありますが、マタイ・マルコ・ルカの福音書の宮きよめの場面ではイエス様は羊や牛を追い出してはいません。例えばマルコ11章15節(週報p.2)、
マルコ11:15 イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
このように、マタイ・マルコ・ルカのイエス様は羊や牛を追い出してはいません。ヨハネの福音書だけが羊や牛を追い出しています。ですから、ヨハネはここでイエス様の血が動物の血に取って代わったことを私たちに教えています。聖霊を受けることとはイエス様の血によって私たちの心の内をきよめていただくことでもあることを覚えたいと思います。そうして私たちには永遠の命が与えられます。11節、
11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
イエス様を信じた者には永遠の命が与えられます。ですから、11節の「弟子たちはイエスを信じた」からは、弟子たちが聖霊を受けて永遠の命を得たことが透けて見えます。そうして、この福音書を読んでいる私たちもイエス様を信じるなら、聖霊を受けて、永遠の命が与えられます。聖霊を受けて永遠の命を得て心が整えられるなら、天のイエス様が薄っすらと見えるようになります。天のイエス様が薄っすらと見えるようになるなら、ますます心が整えられて、天のイエス様がますます見えるようになるという好循環が生まれます。
私があまり十字架を語らないのは、たぶん十字架が私たちの意識を地上のイエス様に釘付けにしてしまうからです。十字架はもちろん非常に重要です。でも十字架のイエス様に意識が釘付けになると、天のイエス様が見えづらくなります。ヨハネの福音書にも十字架の場面がありますが、それは母マリアとイエス様との親子関係の解消という意味合いが大きいように思います。十字架のイエス様はおっしゃいました。ヨハネの福音書19章25節と26節です(週報p.2)。
ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母…が立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
こうして、マリアとイエス様との親子関係が解消されました。だから2章のカナの婚礼でイエス様はマリアに、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と、おっしゃったのですね。
③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える
2章のカナの婚礼の手前の1章の終わりの50節と51節には、このように書かれています。
ヨハネ1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」
先週は、この箇所からは創世記のヤコブが見た夢の光景が透けて見えることを話しました。実はヤコブの箇所だけではなく、ここからは黙示録19章の光景も透けて見えています。黙示録19章11節です(週報p.2)
黙示録19:11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。
「それに乗っている方」とはもちろん、天のイエス様のことですね。天のイエス様は終わりの時に、再び地上に降りて来られます。今の悪い時代は、いよいよその時が近づいているのかもしれません。
前の世紀の20世紀まで、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じように地上生涯のイエス様についての書として読まれて来ました。21世紀に入って天のイエス様が透けて見えるようになってから私はヨハネの福音書の解説書を英語の本も含めて何十冊も買い集めました。多くは1970年頃から2010年頃までに書かれたものですが、アウグスティヌスやルターなどが書いた古いものの訳本もあります。それらのどれを読んでも天のイエス様が透けて見えていることを書いていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の末には天のイエス様についての書として読まれていた筈ですが、いつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上生涯のイエス様についての書として読まれるようになりました。
それがどうして21世紀になって急にヨハネの福音書が透き通って来て、天のイエス様が透けて見えるようになったのでしょうか?それは、いよいよ「終わりの時」が近づいているということではないでしょうか?その時が1年後なのか10年後なのか100年後なのかは誰にも分かりません。或いは、ある時に全員に対してイエス様が再臨されるのではなく、一人一人に対して少しずつ現れる形で再臨がゆっくりと進行して行くのかもしれません。それが天のイエス様が透けて見えるようになったことで始まったのかもしれません。いつ、どのような形で再臨が起きるのか私たちには分かりませんが、いずれにしても、イエス様が「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっていることを感じます。
1章51節に続く2章のカナの婚礼の場面からは、天のイエス様がペンテコステの日に聖霊を地上の弟子たちに遣わした様子が透けて見えます。このような形で天のイエス様は姿を見せて下さり、「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっているようです。
おわりに
「終わりの時」は必ず来ます。今の時代は本当にどんどん悪くなっています。今年は去年よりも、ずっと悪くなりました。ですから、終わりの時は近いのかもしれません。或いは、もっとどんどん悪くなりながら、当分の間は終わりの時は来ないのかもしれません。でも私たちは、その時に備えていたいと思います。今のこの悪い時代に、イエス様に心を整えていただき、イエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようにしていただき、やがて必ず来る終わりの時に備えていたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。