平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました(2022.7.31 礼拝)

2022-07-31 15:50:08 | 礼拝メッセージ
2022年7月31日礼拝メッセージ
『あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました』
【ヨハネ2:1~11】

はじめに
 今の悪い時代の中を正しく歩んで行くために、正しいお方であるイエス様の導きの声を今まで以上にはっきりと聴くことができるように私たちは心(或いは霊性)が整えられた者にならなければなりません。そのために、礼拝の説教では今月からヨハネの福音書を開いて、イエス様に心を整えていただいています。

 先週はヨハネ1章のナタナエルの箇所を開いて、ここからは創世記のヤコブの時代が透けて見えることを話しました。イエス様に心を整えていただくと福音書が沼津の西浦の大瀬崎の海や沖縄の海のように透き通って見えて、イエス様が地上にいた時代以外の天にいるイエス様が透けて見えるようになります。

 きょうはヨハネ2章から透けて見える天のイエス様を通して心を整えていただきたいと思います。きょうの中心聖句はヨハネ2章10節の宴会の世話役のことばです。

ヨハネ2:10 「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
 ②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
 ③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える

①霊的な成長が切実に求められている(いた)時代
 もう何度も話していますが、今の2022年はとても悪い時代です。去年も一昨年も悪かったですが、今はもっと悪くなっています。この悪い時代に求められていることは、霊的に成長してイエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようになることです。正しいお方であるイエス様に導いていただければ悪い時代でも正しい方向に歩んで行けます。そのためにはヨハネの福音書がとても役に立ちます。なぜなら、ヨハネの福音書が書かれた時代も、霊的な成長が切実に求められていた時代だったからです。

 ヨハネの福音書が書かれたのは1世紀の末の紀元90年代とされています。マタイ・マルコ・ルカの福音書が書かれたのが(諸説あるものの)大体紀元60年前後から70年前後に掛けてですから、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書よりも20年~30年後に書かれました。90年代、教会は深刻な問題に直面していたことでしょう。それは、地上のイエス様と実際に出会った生き証人の大半が天に召されてほとんどいなくなってしまったという問題です。イエス様が十字架に掛かったのは紀元30年か33年、その辺りです。ヨハネの福音書が書かれた90年代はイエス様の十字架からおよそ60年が経過していました。当時の寿命を考えれば、生き証人は少ししか残っていなかったことでしょう。

 これは今の私たちの時代の、第二次世界大戦の生き証人が少なくなって来ている問題を考えれば、その深刻さが分かるでしょう。今年の夏で終戦後77年になります。77歳以下の人は先の大戦の時代を知りません。それで、ビデオなどで証言を残す作業が行われています。たとえば広島市の平和記念資料館には、被爆者による原爆被害の証言のビデオを視聴できる個別ブースが8つほどあって、1000人以上の証言をタッチパネルのボタン操作で簡単に視聴できるようになっています。また、広島まで行かなくてもインターネットのYoutubeでも約650人分の被爆者の証言が家庭から視聴できるようになっています。

 古いビデオも多数含まれていますから、これらの証言者の多くが既に亡くなられています。でもビデオが残されたことで、後世に原爆の恐ろしさを伝えて行くことができます。一方で1世紀の昔には、福音書によってイエス様の目撃証言が残されました。先ずマタイ・マルコ・ルカの福音書によって、地上生涯のイエス様についての目撃証言の記録が文書によって残されました。

 しかし、一つ大きな問題があります。限られた数の証言しか残らなかったら、それらは作り話に過ぎないということにされてしまうことでしょう。マタイの福音書の終わりのほうにも書いてありますが、十字架で死んだイエス様が墓から消えたのは、弟子たちがこっそり遺体を盗み出したからだという偽の話を祭司長たちは広めました。こうして、ユダヤ人たちの間ではイエス様の復活は弟子たちによる作り話であるとされてしまいました。話を作ったのは祭司長たちのほうなのですが、弟子たちが話を作ったことにされてしまいました。マタイの福音書28章の12節と13節です(週報p.2)。

マタイ28:12 祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、13 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書の証言がどんなに優れた証言であったとしても、証言の数が少ないと、信用しない人々によって作り話だということにされてしまいます。すると、キリスト教はやがて廃れてしまうでしょう。それゆえ、もっと圧倒的な数の目撃証言が必要です。そこでイエス様と霊的に出会えるヨハネの福音書が書かれることになったのだと思います。地上生涯のイエス様に出会った人の数は限られています。でも天のイエス様と霊的に出会った人の数なら、無限に増えて行きます。ヨハネの福音書の最後に書かれている通りです。ヨハネの福音書21章24節と25節です。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 この、イエス様についての証しを書いた「弟子」とは、このヨハネの福音書を通してイエス様と霊的に出会った読者のことです。そうしてイエス様と霊的に出会った人の証言がどんどん増えて行けば、祭司長たちが言うような「イエス様の復活はただの作り話だ」などという話は打ち消すことができます。そしてさらには、ヨハネの福音書によってイエス様と霊的な出会いができるようになったことで、マタイ・マルコ・ルカの福音書の地上生涯のイエス様とも私たちは霊的に交わることができるようになりました。そうしてキリスト教は廃れることなく二千年間、継承され続けて来ました。

 このように、ヨハネの福音書でイエス様と霊的に出会うなら、この福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とはまったく違う目的で書かれたことが分かります。マタイ・マルコ・ルカの福音書は地上生涯のイエス様のことを書いているのに対してヨハネの福音書は、天のイエス様のことを書いていて、天のイエス様とお会いできる書です。

②イエス様の血が罪をきよめて永遠の命を与える
 次の2番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所で天のイエス様にお会いすることにしましょう。まず1節から4節。

ヨハネ2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。
3 ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

 この4節は非常に重要です。イエス様の「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」は、イエス様が地上ではなくて天にいることを明確に伝えています。イエス様とマリアは地上では親子関係にありましたが、天のイエス様とマリアとの間にはもはや親子関係はありませんから、このような突き放したような言い方になっているのでしょう。

 この時、イエス様は天の父と共に天にいて、まさにこれから地上に聖霊を遣わそうとしています。それを裏付けるみことばを二つ挙げておきます。ヨハネ4章1節から3節までと、ヨハネ15章26節です(週報p.2)。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って…

ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 ヨハネ4章のイエス様は天にいるイエス様です。イエス様は15章26節にあるように天から地上の弟子たちに聖霊を遣わしています。そうして聖霊を通して弟子たちに何をすべきかを伝えています。4章2節が「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いているのは、そのためです。地上に実際にいるのは弟子たちであり、イエス様は天にいます。ですから私たちはヨハネの福音書を通して、天のイエス様とお会いしています。マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエス様がバプテスマを授けていたという記述は一言もありませんから、このマタイ・マルコ・ルカとの違いからもヨハネの福音書が天のイエス様を描いた書であることが分かります。

 ヨハネ2章の1節から4節に戻ります。2章4節から透き通って見える光景は使徒の働き1章14節の祈りの場です(週報p.2)。

使徒1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

 きょうの聖書交読で読んだように、ガリラヤ人たちは部屋に集まって祈っていました。この祈りの場には母のマリアもいました。そして彼らは、このすぐ後のペンテコステの日に聖霊のバプテスマを受けます(使徒2章)。聖霊のバプテスマを受けて救われることは、まさに大きな祝福であり、それが婚礼の祝宴という形で表されています。ぶどう酒とは聖餐式のぶどう酒から分かるように、イエス様の血です。旧約の時代の儀式では動物の血が使われていましたが、新約の時代の儀式の聖餐式はイエス様の血が用いられます。ですから、母マリアが言った「ぶどう酒がありません」は、まさに旧約の時代の終わりを告げています。続いてヨハネ2章5節から7節、

2:5 母は給仕の者たちに言った。「あの方が言われることは、何でもしてください。」
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。
2:7 イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

 かつてバプテスマのヨハネは言いましたね。マルコ1章8節(週報p.2)、

マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 水では心の内まできよめることはできませんが、聖霊を受けるなら、私たちの心の内はきよめられます。この聖霊はイエス様の血でもあるということです。ヨハネの手紙第一1章7節でヨハネが書いた通りです(週報p.2)。

第一ヨハネ1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 そうしてカナの婚礼ではきよめの水がぶどう酒、すなわちイエス様の血に変えられました。8節から10節、

8 イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、
10 こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」

 この10節がきょうの中心聖句です。この婚礼の祝宴では、最初のぶどう酒がなくなった後、良いぶどう酒が出されました。最初のぶどう酒とは、旧約の時代の儀式に使われていた動物の血でしょう。ですから、このヨハネ2章のカナの婚礼の箇所から透けて見えているのは使徒の働き1章と次の2章のペンテコステの日の場面だけでなく、旧約の時代の祭りの日の儀式も透けて見えています。ヨハネ2章13節から16節の宮きよめの場面がそれを裏付けています。

13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

 15節にイエス様は「羊も牛もみな宮から追い出し」と書いてありますが、マタイ・マルコ・ルカの福音書の宮きよめの場面ではイエス様は羊や牛を追い出してはいません。例えばマルコ11章15節(週報p.2)、

マルコ11:15 イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 このように、マタイ・マルコ・ルカのイエス様は羊や牛を追い出してはいません。ヨハネの福音書だけが羊や牛を追い出しています。ですから、ヨハネはここでイエス様の血が動物の血に取って代わったことを私たちに教えています。聖霊を受けることとはイエス様の血によって私たちの心の内をきよめていただくことでもあることを覚えたいと思います。そうして私たちには永遠の命が与えられます。11節、

11 イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 イエス様を信じた者には永遠の命が与えられます。ですから、11節の「弟子たちはイエスを信じた」からは、弟子たちが聖霊を受けて永遠の命を得たことが透けて見えます。そうして、この福音書を読んでいる私たちもイエス様を信じるなら、聖霊を受けて、永遠の命が与えられます。聖霊を受けて永遠の命を得て心が整えられるなら、天のイエス様が薄っすらと見えるようになります。天のイエス様が薄っすらと見えるようになるなら、ますます心が整えられて、天のイエス様がますます見えるようになるという好循環が生まれます。

 私があまり十字架を語らないのは、たぶん十字架が私たちの意識を地上のイエス様に釘付けにしてしまうからです。十字架はもちろん非常に重要です。でも十字架のイエス様に意識が釘付けになると、天のイエス様が見えづらくなります。ヨハネの福音書にも十字架の場面がありますが、それは母マリアとイエス様との親子関係の解消という意味合いが大きいように思います。十字架のイエス様はおっしゃいました。ヨハネの福音書19章25節と26節です(週報p.2)。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母…が立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。

 こうして、マリアとイエス様との親子関係が解消されました。だから2章のカナの婚礼でイエス様はマリアに、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」と、おっしゃったのですね。

③天のイエス様にお会いして終わりの時に備える
 2章のカナの婚礼の手前の1章の終わりの50節と51節には、このように書かれています。

ヨハネ1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

 先週は、この箇所からは創世記のヤコブが見た夢の光景が透けて見えることを話しました。実はヤコブの箇所だけではなく、ここからは黙示録19章の光景も透けて見えています。黙示録19章11節です(週報p.2)

黙示録19:11 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。

 「それに乗っている方」とはもちろん、天のイエス様のことですね。天のイエス様は終わりの時に、再び地上に降りて来られます。今の悪い時代は、いよいよその時が近づいているのかもしれません。

 前の世紀の20世紀まで、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書と同じように地上生涯のイエス様についての書として読まれて来ました。21世紀に入って天のイエス様が透けて見えるようになってから私はヨハネの福音書の解説書を英語の本も含めて何十冊も買い集めました。多くは1970年頃から2010年頃までに書かれたものですが、アウグスティヌスやルターなどが書いた古いものの訳本もあります。それらのどれを読んでも天のイエス様が透けて見えていることを書いていません。ヨハネの福音書が書かれた1世紀の末には天のイエス様についての書として読まれていた筈ですが、いつの間にかマタイ・マルコ・ルカと同じ地上生涯のイエス様についての書として読まれるようになりました。

 それがどうして21世紀になって急にヨハネの福音書が透き通って来て、天のイエス様が透けて見えるようになったのでしょうか?それは、いよいよ「終わりの時」が近づいているということではないでしょうか?その時が1年後なのか10年後なのか100年後なのかは誰にも分かりません。或いは、ある時に全員に対してイエス様が再臨されるのではなく、一人一人に対して少しずつ現れる形で再臨がゆっくりと進行して行くのかもしれません。それが天のイエス様が透けて見えるようになったことで始まったのかもしれません。いつ、どのような形で再臨が起きるのか私たちには分かりませんが、いずれにしても、イエス様が「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっていることを感じます。

 1章51節に続く2章のカナの婚礼の場面からは、天のイエス様がペンテコステの日に聖霊を地上の弟子たちに遣わした様子が透けて見えます。このような形で天のイエス様は姿を見せて下さり、「終わりの時に備えていなさい」とおっしゃっているようです。

おわりに
 「終わりの時」は必ず来ます。今の時代は本当にどんどん悪くなっています。今年は去年よりも、ずっと悪くなりました。ですから、終わりの時は近いのかもしれません。或いは、もっとどんどん悪くなりながら、当分の間は終わりの時は来ないのかもしれません。でも私たちは、その時に備えていたいと思います。今のこの悪い時代に、イエス様に心を整えていただき、イエス様の導きの声がはっきりと聴こえるようにしていただき、やがて必ず来る終わりの時に備えていたいと思います。しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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古い自分から解き放って下さるキリスト(2022.7.24 礼拝)

2022-07-25 05:49:44 | 礼拝メッセージ
2022年7月24日礼拝メッセージ
『古い自分から解き放って下さるキリスト』
【ヨハネの福音書1章43~51節】

はじめに
 このところの礼拝説教の冒頭ではいつも、今の世がどんどん悪くなっているという話をしています。新型コロナウイルスによる疫病、異常気象、そして戦争、さらには元首相が銃撃されて亡くなるという事件が起きました。

 先週の火曜日にZoomで静岡聖会のための聖会準備会が開かれました。教区の会議では最初と最後に聖書を開く時が持たれます。最初のディボーションは教区の牧師の回り持ちで、そして会議の最後の締めくくりには司会の主事が聖書を開いてみことばが読まれます。先週の火曜日の会議ではその最初と最後の聖書の時の両方で、やはり疫病と異常気象、戦争、そして元首相の銃撃事件のことに触れられていました。やはり皆、同じことを感じているのだなと思いました。

 今のこの悪い時代の中を正しく歩むためには、私たちは正しいお方であるイエス様に導いていただかなければなりません。そのイエス様の導きの声をはっきりと聴くことができるよう、イエス様に私たちの心を整えていただきたいと思います。

 そのための箇所として、きょうはヨハネの福音書のナタナエルの記事を開きます。きょうの中心聖句は、ヨハネ1章47節です。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 そして、きょうは次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①私が教会に来る前から私を知っていたイエス様
 ②透明度の高い海の中を見るように福音書を読む
 ③「祝される」とは幸い運ぶ者に変えられること
  (まずは自分が造り変えられるように祈ろう)

①私が教会に来る前から私を知っていたイエス様
 きょうはナタナエルに注目しますから、私たちはナタナエルになったつもりで、イエス様のことばを聴きたいと思います。福音書を読む時、イエス様がペテロに話している時は自分がペテロになったつもりで読み、ザアカイに話している時にはザアカイになったつもりで読むとイエス様のことばが響いて来ることを私たちは知っていますね。ですから、きょうは自分がナタナエルになったつもりで、ナタナエルの箇所を読みたいと思います。ナタナエルに注目しますから、ピリポの箇所は朗読するだけにとどめます。

 まず43節から45節までをお読みします。

ヨハネ1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。
44 彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

 ナタナエルがイエス様と初めて出会ったのは47節ですから、この段階でナタナエルはまだイエス様を知りません。ナタナエルはピリポにイエス様のことを教えてもらいました。ピリポはイエス様のことを、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」だと言いました。このピリポのイエス様についての説明は、先週話したことと一致しますね。

 モーセが書いた律法の書、すなわちモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、天の父のことばが書かれています。そして預言者が書いた預言書にも天の父のことばが書かれています。イエス様はご自分のことを「わたしはある」(ヨハネ8:24, 28, 58)であるとおっしゃり、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃいました。ですから、天の父のことばはイエス様のことばです。イエス様は父のことばを聖霊を通して預言者たちに伝え、預言者たちはそのイエス様が伝えたことばを人々に語りました。

 さて、ピリポからイエス様のことを聞いたナタナエルは言いました。46節です。

46 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」

 このナタナエルのことばを読むと、これはまさに昔の自分だなと思います。まだ教会に行ったことがなかった頃、教会に誘われた私は、「教会に何か良いことがあるだろうか」と思いました。教会には何の魅力も感じませんでした。ですから、ナタナエルの「ナザレから何か良いものが出るだろうか」はまさに私自身のことばであるように感じます。

 そんなナタナエルにピリポは言いました。「来て、見なさい。」幸いなことにナタナエルはピリポの「来て、見なさい」に素直に従いました。すると、47節から49節、

47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
49 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 ナタナエルは、つい先程までは「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言っていたのに、49節では「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言いました。随分な変わりようですね。でも、これがイエス様です。イエス様は、きょうの説教のタイトルで示したように、古い自分から解き放って下さるお方です。そうして私たちを造り変えて下さるお方です。ナタナエルも、それまでの古い自分から解き放たれて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていた者から、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白できる者へと造り変えられました。

 このようにナタナエルが造り変えられたことも、私の経験と重なります。ナタナエルは、イエス様が「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と言われたことで変えられました。私も教会に行く前から神様が私を知っていてずっと守っていて下さったと分かって造り変えられました。教会に行く前の私は、いつも誰かに守られていることを感じていました。交通事故に遭ったり、アパートの廊下の向かい側の部屋でガス爆発があったりしたのに守られました。将来に関する悩みで勉学意欲を無くして大学に行けなくなったことも何度かありましたが、いつも勉学に復帰することができました。それらを通して、いつも誰かに守られていると感じていました。

 誰が守ってくれているのか。神社の神様?仏教の仏様?ご先祖様?、いろいろ想像しましたが、よく分かりませんでした。聖書の神様のことは全く想定していませんでした。今流の言い方で言えば1ミリも考えませんでした。でも、教会に導かれて聖書の神様がずっと見守って下さっていたんだと分かって、ナタナエルのように造り変えられました。

 でも、もちろん、こんなわずか数行で済まされるような短い時間で造り変えられたわけではありません。造り変えられるまでには、いろいろなことがありました。そして、ナタナエルもまた、このわずかの時間でガラッと変わったわけではありません。次の2番目のパートに進んで、そのことを見てみましょう。

②透明度の高い海の中を見るように福音書を読む
 子供の頃、夏休みになるとよく大浜にあるプールに泳ぎに行きました。私が住んでいた大岩安東地区は大浜麻機線のバス1本で乗り換えなしで大浜に行けるので、とても便利でした。静岡の大浜の海岸の海は、安倍川からの土砂が流れ込んでいるせいでしょうか、少し濁っていて透き通ってはいませんね。子供の頃はこの大浜の海や、静波や相良の海水浴場の海が私にとっての海でしたから、これが海の水だと思っていました。静波と相良も大井川の近くのせいでしょうか、やはり透き通ってはいませんね。でも大学で北海道の札幌に行って、小樽方面の日本海の透き通った海を見てとても感動しました。皆さんも日本海や沖縄、海外などで透き通った海を見て感動したことがある、という方も多いことでしょう。静岡県外まで行かなくても、沼津の西浦方面に周り、先端の大瀬崎まで行けば、ものすごく透明度の高い海が見られますね。この大瀬崎の海はテレビでもよく紹介されますから、ご存知の方も多いと思います。私は沼津教会にいた頃に大瀬崎の透き通った海を見て、本当に感動しました。透き通った海を見れば、誰でも感動すると思います。

 大浜の透き通っていない海は、私たちの日常のようなものでしょう。普段の私たちは、こういう中で暮らしています。海とはこういうものだと思っています。でも、普段の大浜の海とは違う透き通った海もちゃんと存在します。その透き通った海を見ると、私たちはとても感動します。そして、心が洗われる思いがします。

 福音書に描かれている地上生涯のイエス様も、たとえるなら普段の大浜の海のような普段のイエス様です。イエス様は普段の私たちに寄り添って下さる尊いお方ですから感謝です。でも霊性が整えられて福音書のことばが澄んで来て、中が透き通って見えるようになると、地上生涯以外の天のイエス様も透けて見えるようになります。透き通っていない福音書ではなくて透き通った福音書を味わえるようになると、本当に大きな感動を覚えます。そして、心が洗われる思いがします。

 今月からのヨハネの福音書からの説教のシリーズでは、この透き通った福音書から透けて見える天のイエス様を味わう感動を皆さんと分かち合いたいと願っています。そのようにして、福音書から透けて見える天のイエス様と出会うなら、私たちは今まで以上に古い自分から解き放たれて造り変えられることでしょう。

 きょうの箇所では、まず50節と51節が良いヒントになると思います。50節と51節をお読みします。

50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

 これと似た描写が創世記のヤコブの箇所にあります(週報p.2)。「彼」というのはヤコブのことです。

創世記28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

 イエス様に心を整えていただくなら、この福音書が透き通って見えてヤコブの時代のイエス様が透けて見えて来ます。イエス様は創世記の初めからおられる方で、先週はモーセが顔と顔を合わせて語った主(出エジプト記33:11)とは、イエス様のことだと話しました。ですから、イエス様はヤコブの時代にももちろんいました。つまり、ヨハネ1章48節の「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」の「前に」とは、何日前とか何年前ではなくて何千年も前のヤコブの時代であることが透けて見えて来ます。そうして、ヤコブの時代のイエス様が透けて見えるなら、きょうの中心聖句のヨハネ1章47節もまた、透き通って見えるようになるでしょう。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 透き通った状態のヨハネの福音書のナタナエルの記事から透けて見えるヤコブの時代の箇所を先ず挙げておきます。まず創世記27章の18節と19節(週報p.2)、

創世記27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねた。19 ヤコブは父に、「長男のエサウです。…私を祝福してください」と答えた。

 そして、創世記32章の24節から、飛び飛びですが30節までです(週報p.2)。

創世記32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
26 その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」
30 ヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

 まず創世記27章のヤコブから説明します。この時、ヤコブは兄のエサウになりすまして、父イサクからの祝福を横取りしてしまいました。父イサクの祝福は、本来は兄のエサウに与えられるべきものでした。しかし、ヤコブは創世記27章の18節にあるように父のところに行き、「お父さん」と言いました。イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねました。イサクは年老いて目が見えなくなっていたからです。目が見えない父にヤコブは「長男のエサウです。…私を祝福してください」と答えたので、イサクはだまされてヤコブに祝福を与えてしまいました。

 しかし、このことを知って怒った兄のエサウがヤコブを殺そうと考えていることを知り、ヤコブは遠くにいる伯父のラバンの所に20年間身を寄せていました。先ほど読んだ創世記28章12節のヤコブが夢を見て、神の使いたちが、はしごを上り下りしているのを見たのは、ヤコブが伯父のラバンの所に逃れる途中のことです。

 さて、20年後にまたヤコブの夢の中に神の御使いが現れて故郷に帰るように促しました(創世記31:3,13)。それでヤコブは帰ることにしたのですが、兄のエサウがまだ自分を恨んで殺そうとしているのではないかと、恐くて恐くて仕方がありませんでした。そうしてヤコブは必死で祈りました。それは神様と格闘するほどの祈りでした。創世記32章24節でヤコブは祈りの中で神様と格闘をしていました。26節で神様は「わたしを去らせよ」と言いました。しかしヤコブは言いました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」。すると、神様はヤコブに聞きました。「あなたの名は何というのか。」ヤコブは答えました。「ヤコブです。」すると、神様は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」ヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼びました。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味です。

 先週、モーセと顔と顔を合わせて語った主とは、実はイエス様だと話しました。今見た箇所のヤコブと顔と顔を合わせて闘った神様もやはりイエス様でしょう。ですから、イエス様はきょうの中心聖句のヨハネ1章47節で言いました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 かつてヤコブは父をあざむいて「エサウです」と言いました。しかし、20年後に神様と格闘した時は偽ることなく「ヤコブです」と答えました。ヤコブには偽りがありませんでした。そうしてイスラエルという新しい名前を神様からいただきました。だからイエス様は、「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と言いました。

 このナタナエルの記事では、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ってから「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と信仰告白するまでわずかな時間しか経っていないように見えます。でも実はこの間に20年間の歳月が流れていました。私自身も20歳ぐらいの大学生の時に教会に誘われた時、「教会に何か良いことがあるだろうか」と思っていましたが、40歳を過ぎてイエス様を信じました。ですから、やはり20年掛かりました。そして、聖めの信仰に立つまでにはさらにまた10年を要しました。でも幸いなことに、聖めの信仰に立ってからは1年余りでヨハネの福音書の中が透けて見えるようになりました。そうして、透き通った海を見て感動するように、透き通ったヨハネの福音書に大きな感動を覚えました。このことで私はまたさらに古い自分から解き放たれて、造り変えられたと感じています。

 きょうの聖書交読では第二コリント5章を交代で読みました。第二コリント5章17節でパウロは書きました。

第二コリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 聖書から透けて見える天のイエス様を身近に感じるようになると、心が整えられてイエス様の導きの声が前よりも大きく聴こえるようになります。でも私自身もまだまだですから、もっともっとイエス様に心を整えていただいて、イエス様の導きの声をしっかりと聴けるようになりたいと思います。そうして今のこの悪い時代の中を、イエス様に正しい方向へと導いていただきたいと願っています。

③「祝される」とは幸い運ぶ者に変えられること
 ヤコブは神様に「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言って祝福を受け、ヤコブからイスラエルへと変えられました。それまでのヤコブは自分中心で生きて来ましたが、神様からの祝福を受けて、イスラエルに造り変えられてからは、神様中心の者となって一族を率いて行くようになりました。彼はイスラエルの民族に幸いを運ぶ者へと造り変えられました。

 きょう、この説教の後で歌う賛美歌は「私を祝して」(教会福音讃美歌463)です。この賛美歌では「私を祝して幸い運ぶ者に造り変えてください」と歌います。本当にそうだなと思います。神様に祝されるとは、幸いを運ぶ者に造り変えられることだと改めて教えられます。

 ヤコブが父イサクから祝福を受けた時、喜んだのはヤコブ本人と母親のリベカだけでした。その他の者たちには何の幸いももたらしませんでした。でもヤコブが神様との祈りの格闘を経て祝福された時、彼は幸いを運ぶ者に造り変えられました。私たちもイエス様によって周囲の人々に幸いを運ぶ者へと造り変えられます。パウロはコリントの教会の人々に向けて書きました。

第二コリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 パウロがこのように書いたのは、新しく造り変えられた本人の幸いのためだけでなく、一人が造り変えられることで周囲の者たちに幸いが運ばれるからです。そうして、教会が祝されます。教会が祝されるなら、教会がある地域全体に幸いが運ばれて祝されます。まず私一人が祝されることが、この静岡教会に幸いを運び、静岡教会が祝されます。静岡教会が祝されることで田町の地域全体に幸いが運ばれて祝されます。田町の地域が祝されるなら、ここに住む人々だけでなく、ここに集って来る人々にも幸いが運ばれます。昨晩の安倍川花火大会では、何十万人もの人々が、この田町の地域に集まって来ました。この何十万人もの人々に幸いを運ぶことができたら、本当に素晴らしいですね。

おわりに ~まずは自分が造り変えられるように祈ろう~
 そのように、多くの方々に幸いを運ぶことができる教会になるためには、まずは自分が造り変えられるように祈らなければならないでしょう。「私を祝して」の歌詞も、まずは自分が造り変えられるように祈っています。

「いま祈る 友のため 私を祝して 幸い運ぶ者に造り変えて下さい」

 友は今、弱り悲しんでいます。その弱り悲しむ友に光をかかげて、闇の中での悲しみを喜びに変えるために、まずは私自身が造り変えられるように、イエス様に祈らなければなりません。そうしてイエス様に、古い自分から解き放っていただきたいと思います。古い自分のままでは弱り悲しむ友に幸いを運ぶことができませんから、イエス様に解き放っていただきたいと思います。

 そのことを願って、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

第二コリント5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
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天地万物の創造者に立ち返る(2022.7.21 祈り会)

2022-07-25 04:18:37 | 祈り会メッセージ
2022年7月21日祈り会メッセージ
『天地万物の創造者に立ち返る』
【ヨブ記38:1~7】

 きょうの聖書箇所はヨブ記38章1~7節です。

ヨブ38:1 は嵐の中からヨブに答えられた。
2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
5 あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。

 前回はエレミヤ書の「腰に帯を締めて」(エレミヤ1:17)に注目しました。そして、きょうのヨブ記38章では3節に、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」とあります。エレミヤとヨブが置かれていた状況は全く異なりますが、エレミヤもヨブも弱気になっていました。その弱気の二人に対して主が「腰に帯を締めよ」と叱咤激励した点は共通していると思います。

 エレミヤの場合は預言者として召し出されましたが、「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません」と弱気になっていました。ヨブの場合はサタンに打たれて子供たちと財産を失い、さらにヨブ自身もひどい病気になって病床でうめき苦しみ、すっかり弱気になって神様に泣き言を言っていました。例えば、ヨブ記30章19節から23節(旧約p.913)、

ヨブ記30:19 神は泥の中に私を投げ込まれ、私はちりや灰のようになった。
20 私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。
21 あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。
22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。
23 私は知っています。あなたが私を死に帰らせることを。すべての生き物が集まる家に。

 このように神様に対して泣き言を言うヨブに対して、主はきょうの箇所で仰せられました。ヨブ記38章2節から4節をお読みします。

ヨブ記38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。

 ヨブはぜんぜん悪くないのに1章と2章でのサタンと主とのやり取りによって、ヨブはひどい目に遭います。ヨブは本当に気の毒です。弱気になって泣き言を言って当然です。でも、そんなヨブに対して主は、「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と叱りつけます。一見すると可哀相なヨブに対しては厳し過ぎる言葉のようにも感じますが、この箇所を深く味わうなら、主のヨブへの深い愛もまた感じられます。愛しているからこそ、懇々と諭すように、主はヨブに多くのことばで語り続けます。

 ヨブ記1章と2章で主はヨブの信仰をほめていました。ヨブは正しい人でした。そんなヨブでも弱り切ってしまうと、泣き言を言ってしまいます。ましてヨブほどの信仰を持たない私たちはヨブほどの苦しみを受けていなくても、弱音を吐いてしまうことでしょう。
 本当に私たちは狭い知識の中で泣き言や不平不満を言いがちな者たちです。そんな私たちを、このヨブ記の主のことばは、万物の造り主、創造主である主に立ち返らせてくれますから、感謝です。38章で主はご自身が天地を創造された方であることを語り、39節以降と39章に掛けては動物たちの名前を挙げて主は天地だけでなく命をも造られた方であることを示します。

 そうして主は40章2節で仰せられました。

ヨブ記40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。

 何の力もなく、何もできない私たちが全知全能の神様を非難するなど勘違いも甚だしいということです。ヨブも、そのことを思い知らされました。4節、

4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

 そんなヨブに主はもう一度、言います。7節です。

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

 この主とヨブの会話からは、創造主という大きな存在である主に立ち返り、狭い場所から解き放たれることの大切さを教えられます。私たちは苦難の中で悩み、苦しむと、どうしても狭い袋小路に入って行ってしまい、そこに縛られて抜け出せなくなってしまいます。すると、大きな存在である神様を自分と同じくらいの小さな者にしてしまいます。そうして、ますます心の平安を失います。主は私たちとは比較にならないぐらい大きなお方だからこそ、私たちに心の平安を与えて下さいます。ですから、私たちは狭い所から解き放たれて、大きな主に目を向けなければなりません。

 イエス様が弟子たちに教えた「主の祈り」も、まず大きな天の父に目を向ける所から始めますね。

「天にまします我らの父よ ねがわくは御名を崇めさせたまえ」

 まず、大きな天の父に呼び掛けます。そうして次もまた大きな天の御国に目を向けます。

「御国をきたらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」

 地に目を転じて、小さな私たちのことについて祈るのは、その次のことです。

「我らの日用の糧を きょうも与えたまえ 我らに負債(おいめ)あるものを 我らがゆるすごとく 我らの 負債(おいめ)をもゆるしたまえ 我らをこころみに会わせず 悪より救いだしたまえ」

 このように、後半は小さな私たちのことについて祈りますが、最後はまた大きなお方に目を転じて、祈りを終わります。

「国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり アーメン」

 「国」とは神の国のことであり、「なんじ」は天の父のことですから、大きなお方に目を戻して祈りを終えます。このように、私たちはいつも大きな主を仰いでいたいと思います。苦難の中で小さな自分のことで精一杯になってしまうと、神様まで小さくしてしまいます。ヨブもそのことを思い知らされました。ヨブ記42章の1節と2節、

ヨブ記42:1 ヨブはに答えた。
2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

 主は、5つのパンと2匹の魚で五千人のお腹を満腹にすることができるお方です。ヨブが主に答えたように、主はすべてのことができるお方であり、どのような計画も不可能ではないお方です。でも、私たちはそのことを忘れて現実的なことばかりを考えがちです。

 神学生として、森に囲まれた神学院の広大なキャンパスの中で生活していた三年間は、こんな立派な神学校が作られるなんて、本当にすごいことだなといつも思っていました。それは教団の創設者の蔦田二雄先生たちが皆、大きなことを為さる主を信頼してお委ねしたからこそ、できたことです。そうして、多くの神学生が続々と入学して行きました。神学生が多く与えられていた時代は世の中全体が上向きの時で、人々の多くは希望を持って日々を生きていたことと思います。今は世の中全体が下り坂で、弱気になりがちです。でも今の弱気な私たちは、病床で苦しむヨブが心まで病んでしまったのと同じような状況だと思います。そんな私たちに主は、

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

とおっしゃって下さっているように感じます。

 蔦田二雄先生たちが教団を立ち上げて、神学校をも設立するという大きな働きをしたのと同じように、松村導男先生もまた、この静岡教会を拠点にして浜松、磐田、金谷、島田、藤枝、清水、沼津、下田の教会の開拓に携わるという大きな働きをされました。さらには県外の甲府教会や岐阜教会、名古屋教会などの開拓伝道にも関わりました。このような大きな働きをされたのも、やはり主が大きなことをして下さるお方だと信頼し切っていたからこそ、できたことでしょう。私たちの一人一人は小さな者ですが、主は五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にできるお方です。

 現代は本当に様々な悪いことが起きている難しい時代です。しかし苦難の中にあっても、病床でうめくヨブのように心まで病んでしまってはならないと思います。そのようにして神様が大きなお方であることを忘れるなら、心の平安まで失ってしまいます。もちろん、現実を見て、現実的な歩みをすることの大切さも忘れてはなりません。それもまた大切にしつつも、まず第一には、主が大きなお方であることを決して忘れずに大きな主を仰いで心の平安をいただきながら、日々を歩ませていただきたいと思います。お祈りいたします。

ヨブ記38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
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いまだかつて神を見た者はいないとは?(2022.7.17 礼拝)

2022-07-18 01:48:07 | 礼拝メッセージ
2022年7月17日礼拝メッセージ
『いまだかつて神を見た者はいないとは?』
【ヨハネ1:18】

はじめに
 このところ毎週繰り返していますが、いま私たちが住んでいる世は、少し前までと比べて確実に悪くなっています。2020年と2021年も悪かったですが、2022年はさらに悪くなりました。今年の上半期のコロナの第6波はそれまでの5つの波を大きく超えるものでした。そして今、第6波を上回る第7波が急速に立ち上がっています。2月に始まったロシアとウクライナの戦争も終わりが見えず、世界ではエネルギーと食料の危機が深刻になっています。温暖化による豪雨も年々激しさを増しているように見えます。そして少し前には安倍元首相が手製の銃で撃たれて亡くなるという恐ろしい事件が起こりました。

 この悪い世の中で私たちはどちらの方向に進めば良いのか、イエス様は正しい方向を示して下さるお方です。でも、私たちの霊性が整えられていないと、イエス様の導きの声を聴くことができません。ですから私たちはイエス様に霊性を整えていただく必要があります。そういう話を先週はしました。今週もイエス様に霊性を整えていただくための話をします。これから暫くの間は、イエス様に私たちの霊性を整えていただくのに適した聖書箇所をご一緒に分かち合って行きたいと思います。

 きょうの中心聖句は、ヨハネ1章18節です。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 そして、きょうは次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①主はモーセと顔と顔を合わせて…と聖書にある
 ②なぜ?と思って聖書を広く調べ、神様に近づく
 ③・・・(考えていただくために結論は伏せます)

①主はモーセと顔と顔を合わせて…と聖書にある
 きょうから暫くの間、私自身がイエス様にどのように霊性を整えていただいたかの実例を紹介して分かち合いたいと思います。そうして、イエス様が皆さんの霊性も整えて下さるようにと願っています。

 イエス様に霊性を整えていただくのに、ヨハネの福音書ほど適した書はないと思います。なぜなら、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書といろいろな点で異なるからです。すると、どうして、こんなに違うのだろうか?と福音書を通してイエス様について考えるようになります。そうして、いつもイエス様について考えるようになることで、イエス様とのつながりが強まって行きます。私がヨハネの福音書に強い興味を持つようになったのは神学生の時です。その前と後とで比べるとイエス様とのつながりが格段に強まりました。この恵みを是非皆さんとも分かち合いたいと願っています。

 では、きょうの中心聖句のヨハネ1:18を見ながら、イエス様に霊性を整えていただきましょう。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 「いまだかつて神を見た者はいない」とヨハネは書きました。でも、出エジプト記33章11節には、

出エジプト33:11 は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。

と書いてあります。出エジプト記の記者は「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いています。つまり、出エジプト記はモーセがを見たとしていますから、ヨハネ1:18と矛盾します。この矛盾をどう考えたら良いでしょうか。

 闇雲に考えても分かりませんから、聖書を調べます。聖書を読めば答が見つかる筈です。時には注解書を参考にしたり、最近ではネット上にもいろいろなことが書いてありますから、それらを参照するのも良いでしょう。でも、聖書以外のものを参照する時は注意が必要です。それらは聖霊による霊感を得ないで書かれているものが多いからです。

 聖書は旧約聖書であれ新約聖書であれ、そこに収められている書はすべて聖霊によって霊感が与えられた記者によって書かれました。しかし、聖書以外の文献の多くは霊感を得ないで書かれたものであると考えたほうが良いでしょう。中には霊感を得て書かれた優れた本もあると思いますが、全体から見ればそれほど多くはないだろうと思います。

 新約聖書の編纂は2世紀に進められました。いま私たちが手にしている新約聖書には27の書が収められていますが、2世紀にはもっと多くの福音書や手紙が存在しました。福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ以外にも、ペテロの福音書やユダの福音書、トマスの福音書などたくさんありました。しかし、ペテロの福音書やトマスの福音書などは聖霊によって霊感を得て書かれた書ではないとされて、ふるい落とされて行ったそうです。教会で福音書や手紙が朗読された時、その教会が聖霊で満たされていれば、怪しい福音書や手紙が読まれた時に違和感を覚えて読まなくなる、そのようにして、淘汰されて行ったようです。聖霊で満たされた教会で読まれる中で異端の書などは排除されて行き、良い書だけが残り、それらを集めたのが新約聖書であるということです。

 ですから、いま私たちが手にしている新約聖書の27の書はすべて聖霊によって霊感を与えられた記者が書いたものであると認定されています。そして、旧約聖書の39の書も、すべて聖霊によって霊感を与えられた記者が書いたものです。この前提に立って、次の2番目のパートに進みましょう。

②なぜ?と思って聖書を広く調べ、神様に近づく
 出エジプト記は「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いているのに、なぜヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない」と書いたのでしょうか?この謎を解く時には決して聖書から離れてはなりません。例えば旧約には旧約の考え方があり、新約には新約の考え方があるなどと考えると、聖書から離れてしまいます。なぜなら、聖書は旧約と新約で一つの書だからです。一つである聖書をバラバラに分解したら聖書から離れてしまいます。聖書は旧約聖書39巻、新約聖書27巻の計66巻から成る書ですが、この66巻をバラバラにして考えてはなりません。それは聖書が、一つのお方である神様が記者に聖霊を通して霊感を与えて書かれた書だからです。

 聖書の記者はバラエティーに富んでいます。それぞれに個性があり、クセがあると言っても良い記者たちが書きました。でも、それを書かせた神様は一つのお方です。ですから、66巻の書を広く読むことで記者のクセが薄まって、神様の姿が浮かび上がって来ます。

 聖書を太陽の光に例えてみましょう。太陽の光は色のない無色透明の光です。でも雨上がりの時などは、水滴がプリズムの働きをして色が分かれ、虹が見えますね。虹の色は七色で表されることが多いですが、実際はもっとたくさんの色に分かれています。聖書の光も無色で色はありませんが、分解すると66の色に分かれています。聖書の66の書はそれぞれに個性がありますが、全部合わさると無色の聖書になります。ですから、聖書の神様を知るには、できるだけ聖書を広く読む必要があります。

 一つの書だけを徹底的に読み込むことも、もちろん大切ですが、それだけだと一つの色しか見ていないことになります。私はヨハネの福音書を引用することが多いですが、ヨハネだけを読んでいるわけではなく、マタイ・マルコ・ルカも読んでいるから、ヨハネがマタイ・マルコ・ルカとはぜんぜん違う書であることが分かります。

 私の説教では聖書のあちこちからの引用があるので、何を言いたいのか分からないとよく言われますが、あちこちから引用するのは無色透明の神様を皆さんと分かち合いたいからなのだと思います。無色透明の神様が見えるようになることが、霊性が整えられるということでしょう。一つの書の狭い箇所に注目することも大切ですが、そこには色のついた神様が書かれています。そこに、他の書から他の色をいくつも重ねて行くことで段々と無色の神様の姿が浮かび上がって来ます。一つの書から見た神様は色が付いた神様であり、いくつもの書を重ねることで無色の神様に近づいて行くことができます。これが聖書の奥義です。聖書の奥義は隠されていますが、色を重ねて無色に近づいて行くなら聖書の奥深い世界が見えて来ます。これが、霊性が整えられるということです。霊性が整えられるなら、イエス様の導きの声が聴こえるようになり、この悪い時代の中でも正しい方向に導いて行っていただくことができます。

③・・・・・(考えていただくため結論は伏せます)
 あとで結論を話しますが、もうしばらく結論は伏せておきます。皆さんにも、ご一緒に考えていただきたいからです。学校の授業でも一方的に教えるのではなく、先ずは自分で考えてもらうことをするでしょう。それは、先ず自分で考えてみることで、理解が一層深まるからです。

 もう一度、きょうの聖句のヨハネ1:18を読みます。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 出エジプト記には「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いてあるのに、なぜヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない」と書いたのでしょうか?ヒントとなる聖句がヨハネの福音書の中にたくさんありますから、それらの中からいくつかを挙げて書き出します。まずヨハネ1:1、

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 次にヨハネ8:58、

ヨハネ8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

 ここから、何か感じるでしょうか?次にヨハネ10:30、

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 だいぶ分かって来たのではないでしょうか?次にヨハネ14章8節から10節、

ヨハネ14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 特にアンダーラインを引いた「わたしを見た人は、父を見たのです」からは、きょうの問いへの答が見えて来るのではないでしょうか。最後にヨハネ15:26を挙げておきましょう。

ヨハネ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 いかがでしょうか?出エジプト記には「は…顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いてあるのに、なぜヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない」と書いたのか、分かったでしょうか?

 これらのことばから見えて来ることは、モーセが顔と顔を合わせていたとは、イエス様だったということです。いまだかつて天の父を見た者はいませんが、父のふところにおられるひとり子のイエス様なら、多くの者たちが見ました。モーセはその代表です。そして、モーセほどにははっきりとイエス様を見ていないものの、私たちもまたイエス様を見ています。パウロもイエス様に会っています。パウロの場合には、私たちよりももっとはっきりとイエス様を見ているでしょう。でも、私たちもイエス様と会ってイエス様を見ています。このことが分かるようになることが、イエス様によって霊性が整えられることであると言えるでしょう。

 そして、預言者のエリヤやエリシャ、先週開いたホセア書のホセアもイエス様を見ていました。イザヤやエレミヤ、エゼキエルもイエス様と会ってイエス様を見ていました。そうして、イエス様から父のことばを伝えられました。こうして、旧約の時代の預言者たちが皆、イエス様と会ってイエス様から天の父のことばを伝えられていたことが分かると、それぞれにクセのある預言者たちの個性が薄まって、無色透明な神様の姿が浮かび上がって来ます。

 さて、イエス様から天の父のことばを伝えられた預言者たちはそれを人々に語りました。つまり、旧約聖書に書かれている神様のことばは、全部イエス様のことばです。新約聖書に書かれているのはもちろんイエス様のことばですから、旧約聖書のことばも新約聖書のことばもすべてイエス様のことばです。聖書丸ごと一冊が全部イエス様のことばです。つまり、皆さんが持っている聖書はイエス様ご自身であると言っても良いかもしれません。

 ルカの福音書の最後には、エマオへ向かう二人の弟子にイエス様が現れる場面がありますね。ルカの福音書には、このように書かれています。

ルカ24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 イエス様は弟子たちに、「聖書全体がわたしについて書いているのですよ。聖書にある父のことばは、全部わたしが預言者たちに伝えたことばなんですよ」、と教えたのでしょう。それがヨハネの福音書の冒頭にある、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)ということでしょう。そうしてヨハネは1章14節で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)と書きました。今の私たちの時代には「ことばは聖書となって、私たちの間に住まわれた」ということになります。

 ですから、私たちも聖書を通してイエス様と出会うことができます。そうして、聖書のことばを通してイエス様にどんどん近づき、イエス様に霊性を整えていただくなら、やがてイエス様と顔と顔を合わせることができるようになるでしょう。

 イエス様はヨハネ1:38で「あなたがたは何を求めているのですか」と私たちに語り掛けて下さり、39節で「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃって下さっています。そうして付いて行くなら私たちは聖書のことばであるイエス様とつながり始めます。但し、注意しなければならないことがあります。39節の最後に「時はおよそ第十の時であった」とあります。こういう時間を表すことばをあまり気にしないように注意しなければなりません。それは、神様が聖書の奥義を隠そうとしているからです。イエス様はこのようにもおっしゃっていますね。

マタイ13:11 「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」

 イエス様は、奥義を知ることが許されていない人には奥義を隠しています。「時はおよそ第十の時であった」に引っ掛かってしまうと、イエス様が地上にいた時代の特定の時間に意識が集中してしまいます。すると、創世記の初めの時代からおられて、今も私たちと共におられるイエス様のことが見えなくなってしまいます。福音書は、奥義を知ることが許されていない人たちから奥義を隠すために、こういう仕掛けを所々に入れ込んでいます。私たちは真面目ですから、聖書に書かれていることばを全部丁寧に味わう必要があると考えがちです。しかし福音書には奥義を隠すための仕掛けが所々に仕込まれていますから、注意しなければなりません。「時はおよそ第十の時であった」というような特定の時間に引っ掛かってしまうと、永遠の中におられる無色透明の神様が見えなくなってしまいます。

おわりに
 最後に、ルカの福音書を引用します。

ルカ10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。

 この時、マリアはイエス様と顔と顔を合わせていました。モーセがイエス様と顔と顔を合わせていたように、マリアはイエス様と顔と顔を合わせていました。そして、21世紀の私たちも聖書を読むことでイエス様と顔と顔を合わせることができます。イエス様はことばですから、イエス様は聖書のことばです。ことばは聖書となって私たちの間に住まわれましたから、私たちの身近にはいつもイエス様がおられます。そうして聖書を開くなら、イエス様と顔と顔を合わせることができます。そうして、イエス様に祈ることができます。イエス様と顔と顔を合わせて祈るなら、イエス様は応えて下さることでしょう。イエス様と顔と顔を合わせるなら、そのように信じることができます。

 聖書はイエス様ご自身ですから、私たちは日々聖書を開いてイエス様と顔と顔を合わせる時間を持ち、そして祈り、そうしてイエス様に霊性を整えていただいてイエス様の御声に耳を澄まし、この悪い時代にどちらの方向に進んで行ったら良いのか、イエス様に導いていただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

出エジプト33:11 は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。
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わたしのことばは霊であり、いのちです(2022.7.10 礼拝)

2022-07-14 04:22:10 | 礼拝メッセージ
2022年7月10日礼拝メッセージ
『わたしのことばは霊であり、いのちです』
【ヨハネ6:60~69】

はじめに
 ここ2ヶ月は列王記の第二と第一を開いてイスラエルの北王国での出来事を見て来ました。きっかけは、5月第二聖日の母の日の礼拝で、シュネムの女の箇所を開いたことでした。

 5月の初め、母の日の礼拝では聖書のどこを開こうか、思いを巡らしました。聖書にはいろいろなお母さんが登場しますから、シュネムの女の箇所を選べたのは主の良き導きであったと感じます。この時の説教では、前半はシュネムの女に注目しましたが、後半は母の願いに全身全霊で応えたエリシャに注目しました。

 そして翌週の第三聖日は、聖宣神学院(BTC)の創立記念礼拝でした。いま神学校には次世代の教会を担う神学生が少ししかいません。そこで、今年のBTC創立記念礼拝では、エリシャがエリヤから外套を引き継いだ場面を開いて、主は後継者を備えていて下さることを話しました。エリヤからエリシャへの外套の継承の場面を開いたのは、母の日の礼拝でエリシャに注目したばかりで分かりやすいと思ったからです。

 エリシャからエリヤに視点を移したことで、今度はエリヤの時代の北王国の人々の不信仰にも注目しました。エリヤの時代に北王国を治めていた王はアハブ王で、アハブはバアルを礼拝していました。そして、このアハブ王の不信仰の原因を初代のヤロブアム王に遡って、分かち合いました。

 北王国の初代王のヤロブアムは金の子牛の像を造って北方のダンの町に置き、人々がそこへ金の子牛の像を礼拝しに行くようにしました。このことで北王国の人々は南のエルサレムの神殿に礼拝に行くことがなくなり、人々はどんどん神様から離れて行き、アハブ王の時代にはひどいことになっていました。そうして後に、この不信仰の罪によって北王国はアッシリアに滅ぼされて人々は捕囚として引かれて行きました。そして南王国の人々も偶像礼拝を行って神様から離れて行ってしまったためにバビロン軍によって滅ぼされて捕囚として引かれて行きました。

 人はどうしても目に見えるものに頼ります。人々は目に見える偶像を礼拝して、見に見えない神様から離れて行きました。そんな信仰が弱い人々のために、天の父はひとり子の御子イエス様を地上に遣わして下さり、目に見えない天の父がどのようなお方かを教えて下さいました。また、イエス様を十字架に付けて、神様に背を向けて離れて行った人の罪を赦して下さり、イエス様を信じる者には聖霊を注いで聖めて下さいました。

 信仰が弱い私たちのために、天の父がイエス様を地上に遣わして下さったことを、先々週はイザヤ書40章も開いて分かち合いました。イザヤ書40章11節(週報p.2)、

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 そして、先週はヨハネ6章37節を分かち合いました。

ヨハネ6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 イスラエルの民は不信仰の罪によって北王国から追い出され、南王国からも追い出されました。しかし、やがて主は南王国の民に慰めを与えて回復の機会を与え、エルサレムの神殿が再建されて、御子イエス様が遣わされて、「わたしは決して追い出したりはしません」とおっしゃって下さいました。

 こうして、母の日のシュネムの女とエリシャから始まって、この2ヶ月間、神様によってヨハネの福音書6章に導かれました。きょうもヨハネの福音書6章を開きます。これからしばらく、何週間になるかは分かりませんが、ヨハネの福音書を開きたいと思います。このヨハネの福音書のシリーズで皆さんと何を分かち合いたいかは、1番目のパートに入ってから話します。きょうの中心聖句はヨハネの福音書6章63節です。

ヨハネ6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

 そして次の3つのパートで話を進めて行きます。
 
 ①初めの時からすべてを見ていたイエス様
 ②イスラエルの離反を父と悲しむイエス様
 ③神の愛の衣を幾重も着て高められる霊性
 (神の愛の衣を重ね着するヨハネの福音書)

①初めの時からすべてを見ていたイエス様
 皆さんがよくご存知のように、ヨハネの福音書は次のことばで始まります(週報p.2)。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。

 イエス様は天地が創造された最初の時から天の父と一緒にいました。天の父とイエス様は一つのお方ですから、父が造ったものはイエス様が造ったものです。そうして、イエス様は初めの時から今に至るまですべての出来事を天の父と一緒に天から見て来ました。イエス様が地上に遣わされた約30年間だけは、地上からこの世をご覧になっていましたが、それ以外の時には、イエス様は天から父と共にこの世を見ていました。そうして地上の預言者や弟子たち、そして私たちにメッセージを送る時は、聖霊を通してことばを伝えて来ました。21世紀の今も同じ方法でイエス様は聖霊を通して私たちを導いています。

 天の父とイエス様は時には人々に厳しく臨むこともありましたが、大抵の場合は深い愛を人々に注いでいました。その神の愛は何重もの分厚い愛です。天の父とイエス様は旧約の時代も、新約の時代も人々を愛しつつ、天から見つめて来ました。21世紀の2022年の今もウクライナなどの世界各地の紛争・戦争の地を見ておられ、またコロナ禍や温暖化、自然災害に苦しむ私たちを見ておられ憐れんで下さっています。これらに加えて一昨日は安倍さんが銃で撃たれて亡くなり、今の日本は大きく混乱しています。この混乱している様子ももちろん見ておられて、悲しんでおられることでしょう。

 よく言われることに、「どうして神は黙って見ておられるのか?」というものがありますね。でも天の父とイエス様は黙って見ておられるわけではなく、聖霊を通してメッセージを天から地上に送っておられます。私たちの霊性が十分に高まっていないからメッセージを受け取り損なっている、というのが本当のところでしょう。霊性が十分ではないから、天の声が聴こえず、それゆえ神様が黙っておられると感じるのです。

 なぜ霊性が十分に高まっていないのか?それは多くの場合に新約聖書という愛の衣一枚しか着てないことが影響しているように思います。新約聖書の愛の衣は分厚い衣ですから、私たちは神様の愛に十分に包まれることができます。でも一枚だけだと、悪魔の策略に引っ掛かれば、簡単に引きはがされてしまいます。一方、旧約聖書の時代からの神様の愛の衣を何重にも着込んでいるなら、さらに分厚い神様の愛に包まれて、悪魔によって神様の愛から引き離されてしまうことはないでしょう。

②イスラエルの離反を父と悲しむイエス様
 繰り返しますが、イエス様は初めの時から父と共に天から人々を見ていて、聖霊を通して人々に神様の愛を伝え続けて来ました。ヤロブアム王から始まったイスラエルの北王国の不信仰もずっと天から見ていて、メッセージを伝え続けていました。きょう聖書交読でご一緒に読んだホセア書も、その一つです。ホセアはエリヤやエリシャと同じように、北王国の人々に神様のことばを伝えた預言者です(旧約p.1547)。

ホセア11:1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。

 これは主がモーセを用いてイスラエルをエジプトから脱出させた時のことを言っています。この時のイスラエルの民はまだ幼子でした。イスラエルの民族はヤコブの12人の息子たちの子孫です。旧約聖書の歴代誌第一の系図によると、モーセの父はアムラム、アムラムの父はケハテ、ケハテの父はレビです(歴代誌第一6:1~3)。レビはヤコブの12人の息子の一人ですね。レビの子はケハテ、ケハテの子はアムラム、アムラムの子はモーセですから、モーセはレビのひ孫に当たります。レビから見てモーセの時代は4代目ですから、まだまだイスラエルの民族としては幼いですね。当然、信仰も幼いままでした。そんな幼いイスラエルの民に主はモーセを通して十戒を始めとする律法を授けて、彼らに主と共に歩むように教えました。しかし、2節、

2 彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。

 イスラエルの民がバアルにいけにえを献げていたことは、エリヤの時代のアハブ王の箇所を開いた時にご一緒に見ました。この時代、イスラエルの民はもはや主とバアルのどちらが本当の神様なのかが分からないぐらいに神様から離れていました。3節、

3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。

 エフライムというのはイスラエルのことです。天の父はまさに父親であり、幼子だったイスラエルの民に、主と共に歩くことを教えました。しかし、彼らは父の深い愛情を知らずに離れて行きました。少し飛ばして7節、

7 わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。

 この不信仰ゆえに主はイスラエルを滅ぼしたわけですが、怒りにまかせてすぐに滅ぼしたわけではありません。エリヤやエリシャなどの預言者たちを通して、何度も何度も警告を与えました。主はあわれみ深いお方ですから、忍耐をもってイスラエルの民に警告を与え続けました。そして、滅ぼすことをためらい、苦悩していました。その深い苦悩が8節から読み取れます。

8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 アデマとツェボイムはソドムとゴモラの近くにあった町だそうです。創世記のアブラハムの時代、主はソドムとゴモラの町を滅ぼしましたが、アデマとツェボイムも一緒に滅ぼされたそうです。主はエフライム、すなわちイスラエルをそのようにはしたくないと苦悩していました。

 ここでもう一度繰り返しますが、イエス様はこれらのイスラエルの不信仰をすべて、天の父と共に見ていました。それゆえ天の父の苦悩はイエス様の苦悩でもあります。天の父とイエス様は一つのお方ですから、天の父の苦悩のことばはイエス様の苦悩のことばでもあります。

③神の愛の衣を幾重も着て高められる霊性(神の愛の衣を重ね着するヨハネの福音書)
 ヨハネの福音書の冒頭の1章1節でヨハネは

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と書きました。ですから、聖霊を通してホセアが語った父の苦悩のことばはイエス様の苦悩のことばです。ホセア11章8節の、

8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。

 この父の苦悩はイエス様の苦悩です。それゆえ、先週の中心聖句のヨハネ6:37(週報p.2)、

ヨハネ6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

というイエス様のことばの中には旧約の時代の父とイエス様の苦悩が重なっています。父とイエス様が苦悩するのは父とイエス様が世の人々を愛しているからです。ですからヨハネの福音書は父とイエス様の旧約の時代の愛と新約の時代の愛とが重なっています。有名なヨハネ3:16(週報p.2)、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神様は、世を愛されました。世とは旧約の時代と新約の時代の両方であり、神様は分け隔てなく愛しておられます。ヨハネの福音書とは、そういう書であり、旧約の時代と新約の時代の父とイエス様の愛を重ね着して分厚い愛に包まれることができる書です。

 なぜ、このヨハネの福音書の分厚い神様の愛のことを強調するかと言うと、今の悪い時代には神様の分厚い愛に包まれることで霊性を神様に高めていただき、神様からの導きの声を聖霊を通して聴くことが、どうしても必要だからです。私自身は、このことの重要性を今こそ伝えるべきであることを聖霊を通して語り掛けられています。いま私たちは悪い時代の中を生きていて、何が正しくて何が正しくないのかも分かりにくくなっています。そんな中、正しいお方であるイエス様の方を見て、イエス様に正しい方向に導いていただく必要があります。

 一昨日、安倍元首相が選挙演説中に銃撃を受けて亡くなるという恐ろしい事件が起きました。どうして、こんなことが起きるのでしょうか。本当に今の世は少し前の世とは明らかに違って来ています。その中で私たちは正しい方向に歩まなければなりません。そのためには、これまで以上に、父とイエス様の分厚い愛の衣を着けて霊性を高めていただき、神様からの導きの声がしっかりと聴けるようにならなければなりません。

 ヨハネの福音書6章の60節から見て行きます。

60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」

 この弟子たちの「これはひどい話だ」は、直接的にはもちろん、地上生涯のイエス様の時代の弟子たちのことばです。しかし、旧約の時代の人々もまた、聖霊を通して預言者たちが語る父とイエス様のことばを「ひどい話だ」と言っていました。預言者たちが伝えた「不信仰を改めないなら滅ぼす」という主のことばを信じないで「ひどい話だ」と言い、預言者たちを迫害しました。61節と62節、

61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。

 ここでイエス様は、「かつていたところ」、すなわち「天」の話をしています。イエス様は明らかに旧約の時代と新約の時代の両方の話をしています。イエス様のことばは霊であり、またいのちですから、イエス様のことばを霊的に捉えるなら、旧約も新約も一つです。きょうの中心聖句の63節、

63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

 肉の人間は一つの時代にしかいられませんが、霊は時代を超えて、時代をまたぎます。イエス様のことばは、霊であり、またいのちです。イエス様のことばを聖霊に満たされて聞くなら、天から聖霊を受けた預言者たちのことばもまたイエス様のことばであることを、霊的に感じることができます。しかし、イエス様を信じない者には、そのことが分かりません。64節と65節、

64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。
65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」

 そして、66節のイエス様から離れ去った弟子たちとは旧約の時代のイスラエルの民でもあることが分かります。66節、

66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 旧約の時代の民も、もはやイエス様と共に歩もうとはしませんでした。天の父とイエス様は、このことを深く悲しんでいました。67節、

67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。

 この67節は新改訳の第3版では、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と訳されていました。旧約の時代の人々が捕囚として引かれて行ったのは、彼らの不信仰が招いたことですから、それは彼らのほうから離れ去って行ったということです。ここにイエス様の深い悲しみがあります。68節と69節、

68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」

 この68節と69節は新約の時代のことですから、私たち読者はヨハネの福音書のイエス様はペテロたちと同じ時代にいたイエス様であると思いがちです。しかし、霊的にこの書を読むなら旧約の時代の天にいるイエス様も、ここにはいらっしゃいます。

おわりに
 この霊的な読み方には聖霊の助けが必要ですから、慣れないと難しいかもしれません。でも、この異常でおかしくなってしまった今の世の中、少し前までとは明らかに異なってしまった異常な世の中を私たちがイエス様の証人として生きるには、これまで以上に私たちの霊性が高められる必要があります。難しいと感じるかもしれませんが、神様の愛の衣を何重にも重ねて着るなら、それが可能です。そうして、イエス様の導きの声をしっかりと聴くことができるようになりたいと思います。

 こんな異常な世の中を正すことができるのは父・子・聖霊の聖書の神様だけです。私たちは霊性を高めていただいて、イエス様の声をしっかりと聴いて信仰の道を歩んで行けるお互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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腰に帯を締めて立ち上がる(2022.7.7 祈り会)

2022-07-13 10:00:49 | 祈り会メッセージ
2022年7月7日祈り会メッセージ
『腰に帯を締めて立ち上がる』
【エレミヤ1:17~19】

エレミヤ1:17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──のことば──あなたを救い出すからだ。」

 先月の6月の祈祷会では、ペテロのイエス様へのことばの「あなたは生ける神の子キリストです」を中心に据えて味わい、6月の最後の祈り会では、教会はこの「イエス様は生ける神の子キリストである」という固い信仰の岩盤の上に建て上げられて来た、ということを分かち合いました。

 今月は「腰に帯を締める」という表現について、深めて行くことができたらと願っています。「腰に帯を締める」は、神様が人を励ましたり、奮起を促したりする時に使う表現です。「腰に帯を締める」は分かりやすい表現ですね。オリンピックのウェイトリフティングを見ていると、腰のベルトをギュッと締めている選手が多くいます。これは腰を守るという実用的な意味もあると思いますが、腰のベルトをギュッと締めると一段と気合いが入ると思います。日本ではハチマキをギュッと締めたり、着物を着ている時にはタスキを掛けたりします。着物にタスキを掛けるのは、袖やたもとが邪魔にならないようにという実用的な意味もありますが、心のスイッチを切り替えるという意味合いも多分にあるでしょう。テレビドラマでタスキを掛けるシーンがあると、見ている視聴者の側にも、これから戦いが始まるのだとことが分かりやすく伝わり、視聴者もそれまでダラダラと見ていたのが切り替わって、前のめりになって見たりもします。

 今の2022年は、私たちが弱気になってしまいそうなことが、たくさん起きています。ウクライナの平和のために祈って来ましたが、なかなか戦争が終わりそうにありません。ロシアもウクライナもクリスチャンがたくさんいる国なのに、どうしてこんなことになっているのだろうと、つい信仰のことで弱気になってしまいそうになります。コロナ禍も、6月の半ばまでは順調に感染者数が下がっていましたが、ここへ来て再び増加に転じました。いつになったら、この波の繰り返しが終わるのだろうかと、つい弱気になってしまいそうになります。教会のことにおいてもそうですし、また個人的なことにおいても皆、それぞれに心配事を抱えていて、弱気になることもあるでしょう。そんな私たちに、神様は「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がれ」とおっしゃって励まして下さっているように感じます。

 このエレミヤ書の1章には、エレミヤが預言者として召し出される場面が描かれていますが、最初、エレミヤはとても弱気でした。

 1章の4節から見て行きましょう。4節と5節、

エレミヤ1:4 次のようなのことばが私にあった。
5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」

 5節で主はエレミヤを預言者に任命しました。しかし、エレミヤは弱気でした。6節、

6 私は言った。「ああ、、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」

 そんな弱気のエレミヤに主は言われました。7節、

7 は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。

 「まだ若い、と言うな」と主はエレミヤを叱りました。そして人々に主のことばを語るように言いました。それは人々にとっては厳しいことばですから、エレミヤは恨まれてひどい目に遭うかもしれません。しかし、主はおっしゃいました。

8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──のことば。」

 そうして主は御手を伸ばしてエレミヤの口に触れました。9節、

9 そのときは御手を伸ばし、私の口に触れられた。は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。

 これからエレミヤを通して語られる主のことばは、南王国を一旦滅ぼして、建て直すためのことばでした。10節、

10 見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

 これからエレミヤが南王国の人々に語る主のことばは彼らにとって厳しいことばであり、聞きたくないことばでした。少し飛ばして16節、

16 わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。

 しかし、主の厳しいことばを人々に伝えれば、エレミヤは当然恨まれることになり、ひどい目に遭うことにもなるでしょう。できれば引き受けたくない過酷な役割です。弱気にもなるでしょう。それゆえ主はエレミヤを励まします。17節、

17 さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。

 今月は、この「腰に帯を締める」に注目します。エレミヤが与えられた役割はとても過酷なものでした。人々に恨まれて、ひどい目に遭わされる可能性があります。おびえるのは当然です。でも主は、「腰に帯を締めて立ち上がれ」とおっしゃって、エレミヤを奮い立たせようとしています。18節と19節、

18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──のことば──あなたを救い出すからだ。」

 主はエレミヤを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とするとおっしゃいました。ここを読んでいて、私は仮面ライダーのような変身モノをちょっと思い出しました。主は、エレミヤを無敵のヒーローのように造り変えて下さるとおっしゃっています。腰の帯をギュッと締めて立ち上がるなら、エレミヤは無敵の者にされます。

 21世紀の今の悪い時代にも、こういう励ましが必要とされていることを感じます。主は苦しむ私たちを慰め、癒して下さるお方であると同時に、励まして強めて下さるお方でもあります。

 今の悪い時代を良い方向に変えることは主にしかできないことですが、主はそれを、人を用い行うお方です。主は旧約の時代にはモーセやエリヤやエレミヤらの預言者たちを用いて世を変えて来ました。新約の時代にはペテロやパウロらの使徒たちを用い、ルターやウェスレーたちも用いて世を変えて来ました。そうして、ひとり子のイエス様でさえも人として世に遣わして十字架に付けました。十字架に向かう前のイエス様はもだえ苦しみますが、主は御使いを送ってイエス様を力づけました。

 今の悪い時代、主は私たちのこともまた励まし、力づけて下さり、用いようとして下さっていることを感じます。これまで主に慰めをいただき、癒しをいただいて来たなら、その次には腰に帯を締めて立ち上がり、主から励ましと力をいただいて主に用いられる者として、日々を歩んで行きたいと思います。お祈りいたします。
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わたしは決して追い出しません(2022.7.3 礼拝)

2022-07-05 09:56:05 | 礼拝メッセージ
2022年7月3日聖餐式礼拝メッセージ
『わたしは決して追い出しません』
【ヨハネ6:27~32】

はじめに
 今年1年の歩みも半分を過ぎて後半に入りました。この半年間での大きな出来事と言えば、やはりロシアがウクライナに侵攻して大きな戦争が始まったことでしょう。半年前のお正月の時点で、今の悲惨な状況を予測できた人は日本ではほとんどいなかったのではないでしょうか。本当に衝撃的な出来事でした。しかし、この戦争が長引くに連れて、あんなに衝撃を受けた心が段々と麻痺して感情が薄れて行っているような気がします。そんなことではいけないのですが、異常な事態に心が慣れてしまって行くことを感じています。

 また、今年は梅雨の期間が異常に短くて、6月の間に梅雨が明けてしまいました。温暖化によって気候の異常の度合いが年々増していることを感じます。そうして、異常であることが、むしろ普通のことのようにも感じます。

 コロナ禍も2年を過ぎて、未だ終息の時を見通すことができない中にあります。5月から6月に掛けて減っていた感染者数も今また増え始めています。そうして、マスクをすることがすっかり当たり前のことになってしまいました。このことからも、異常であることが日常のことになってしまっていることを感じます。

 このように私たちは戦争、温暖化、感染症という異常な中に置かれ続ける中で、何が正常で何が異常なのかの感覚を失いつつあるように感じます。でも、私たちには正しさの基準であるイエス・キリストがいつも共にいて下さいます。何が正しくて何が正しくないのかが分からなくなった時でも、私たちにはイエス様がいて下さいますから、イエス様の方を向いていれば、正しさの基準を見失うことはありません。このことに心一杯感謝したいと思います。

 とはいえ、弱い私たちですから、ついイエス様から目を離してしまうこともあります。そうして、中にはそれが長い期間に亘ってしまう方々もいます。そんな人に対してもイエス様は、きょうのタイトルで示したように「わたしは決して外に追い出したりはしません」とおっしゃって下さっています。きょうはこのことを分かち合って、その後で聖餐式の恵みに与りたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネ6章37節です。

ヨハネ6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めます。

 ①主に外へ追い出された北王国と南王国の民
 ②わたしは追い出さないと言われる十字架の主
 ③異常な世の中でイエス様から目を離さない

①主に外へ追い出された北王国と南王国の民
 今年の上半期の最初の元旦礼拝では、歴代誌第二5章を開きました。ダビデの息子のソロモン王の時代に、エルサレムの神殿が完成しました。歴代誌第二5章にはその神殿が完成したことを主に感謝する礼拝のことが記されています。

Ⅱ歴代5:13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 今年の私たちの教会の標語聖句は、ここから取って、

歌い手たちが、まるで一人のように一致して 「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。

としました。そして元旦礼拝では、賛美歌には聖霊に似た力があるという話をしました。賛美歌には人々の心を一つにして一致させる力があります。また、賛美歌には人の心を開いて主の方を向かせる力もあります。旧約の時代には、一部の限られた預言者たちだけにしか聖霊は注がれませんでしたから、イスラエルの民の大多数は聖霊を受けていませんでした。しかし、人々は賛美によって一致して一つになることができました。私たちの教会も聖霊を受けている方々と受けていない方々の両方が集っています。でも、賛美歌には私たちを一つにする力がありますから、共に主を賛美し、礼拝をささげて一つになりたいと思います。

 さて、ソロモンの神殿の建設については歴代誌だけでなく、もちろん列王記にも書かれています。きょう聖書交読でご一緒に読んだ列王記第一9章には、主の宮、すなわち神殿が完成した時に主からソロモンにあったことばが記されています。もう一度開いていただけますか(旧約p.612)。4節と5節、

列王記第一9:4 もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、
5 わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。

 また主は、このようにも言われました。6節から8節、

6 もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、
7 わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。イスラエルは、すべての民の間で物笑いの種となり、嘲りの的となる。
8 この宮は廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな驚き恐れてささやき、『何のために、はこの地とこの宮に、このような仕打ちをされたのだろう』と言う。
 
 これが列王記第一の9章での出来事でした。そうして、先週開いた12章で見たように、イスラエルの人々の心は主から離れて行きました。ソロモンの息子のレハブアム王の時代にイスラエルの王国は南北に分裂して、北王国の初代王のヤロブアムは北の国民が南のエルサレムの神殿に行かないようにする政策を取りました。北王国の北方にあるダンの町に金の子牛の像を置き、祭りの時にはダンに行って礼拝するようにしました。このことで、人々は南のエルサレムの神殿に行くことがなくなり、神様から心がどんどん離れて行きました。そうして、北王国はアッシリアによって滅ぼされ、人々はアッシリアに捕囚として引かれて行きました。先週引用した列王記第二17章の21節から23節までを、そのまま週報p.2に残しておきました。

列王記第二17:21 主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムはイスラエルを主に従わないように仕向け、そうして彼らに大きな罪を犯させた。
22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので、
23 主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

 23節にあるように、主はイスラエルを御前から除かれました。つまり、主は北王国の人々を外へ追い出しました。そして、主は南王国の人々もまた、外へ追い出しました。列王記第二25章の8節から11節に書いてある通りです。この箇所も週報p.2にそのまま残しておきました。

列王記第二25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9 主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。11 親衛隊の長ネブザルアダンは、都に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した投降者たちと、残りの群衆を捕らえ移した。

 北王国の人々も南王国の人々も心が主から離れてしまったために、主はソロモンに告げた通りに国を滅ぼし、人々を外に追い出しました。

②わたしは追い出さないと言われる十字架の主
 先週の礼拝メッセージでは、さらにイザヤ書40章も開きました。列王記の人々の不信仰の記事だけでは、ぜんぜん恵まれないからです。

 憐み深い主は、国も神殿も城壁も失って打ちひしがれている人々を慰めるように、イザヤに仰せられました。イザヤ書40章の1節と2節です。

イザヤ40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。

 そうして南王国の人々はエルサレムへの帰還が赦されて神殿を再建し、城壁も修復しました。そして、主は地上にイエス様を遣わして下さいました。イザヤ書40章11節です。

イザヤ40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 そのイエス様が、「わたしは決して外に追い出すことはありません」とおっしゃって下さっています。きょうの聖書箇所のヨハネの福音書6章です。32節から見て行きましょう。32節と33節、

ヨハネ6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

 天の父は地上にひとり子のイエス様を私たちのために遣わして下さいました。人は弱いので、どうしても目に見えるものに頼ってしまいます。天の父は目に見えないお方ですから、旧約の時代の人々は結局、目に見える偶像に頼ってしまって偶像礼拝を続けました。そうして、北王国も南王国も滅びてしまいました。それゆえ、天の父は御子を目に見える形で地上に遣わして下さいました。34節と35節、

34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 地上に遣わされたイエス様が神の子キリストであると信じるなら、私たちは聖霊を受けて永遠のいのちが与えられますから、決して飢えることがなく、渇くこともありません。旧約の時代には聖霊は一部の預言者たちだけにしか注がれませんでしたが、新約の時代はイエス様を信じる者には誰にでも聖霊が注がれるようになりました。これは素晴らしい恵みです。

 でも、聖霊を受けるには、先ずは私たちの背きの罪が赦される必要があります。罪で汚れたままの私たちの内に聖霊は決して入っては下さいません。神様に背いていた私たちの罪はあまりに重いので、動物をいけにえに献げるぐらいで赦されるものではありません。それゆえ天の父は私たちの罪を赦すためにイエス様を十字架に送り、私たちへの愛を示して下さいました。ヨハネの手紙第一に次のように書いてある通りです。

ヨハネの手紙第一4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 この愛によって、私たちは決して外に追い出されることはなくなりました。37節です。

37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。

 旧約の時代の北王国と南王国の悲惨な末路を思う時、今の私たちの時代がいかに恵みに満ちているかが分かります。しかし、こんなに恵まれた時代に私たちはいる筈なのに、今なお世界は悲惨な状態にあります。36節のイエス様は、まるで今の状況そのものを言っているように感じます。

36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。

 旧約の時代の人々は神様が目に見えないので信じられないでいました。それゆえ目に見えるイエス様が遣わされました。そうしてイエス様を見たのに、信じない人々がいました。とても残念なことです。

 その後、イエス様は天に帰られましたから、今の私たちもイエス様を直接的には見ることができません。でも、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書が書かれたことで、私たちはイエス様が地上にいた時のことを知ることができます。そして、そのイエス様を信じることで聖霊が与えられて、聖霊を通してイエス様に直接お会いできる恵みをいただいています。このことに心一杯、感謝したいと思います。

③異常な世の中でイエス様から目を離さない
 最後のパートに進み、聖餐式に移りたいと思います。最初に話したように、今は本当に異常な時代です。悲惨な戦争が止まらずに世界中で多くの人が悲しみ、心を痛めているのに、終わる気配が見えません。

 気候も異常です。梅雨が7月になる前に明けて猛暑が始まってしまいました。コロナウイルスの感染症も、終わりが見えない異常事態が続いています。

 そうして私たちはいつの間にかこの異常な事態に慣らされてしまって、何が正常で何が異常なのかの感覚を失いつつあります。でも、私たちには正しさの基準となっていて下さるイエス様がいつも共にいて下さいます。ですから、イエス様だけを見ていれば、何が正しいことなのかが分かります。このことに心一杯感謝して、イエス様から決して目を離さないようにしていたいと思います。そうして、異常な世の中にあっても歩く方向を誤らないようにしたいと思います。

 このイエス様との太いつながりを、聖餐によって改めて確かなものとしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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