平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

新会堂建設への心備え③(2014.1.29 祈り会)

2014-01-29 19:41:08 | 祈り会メッセージ
2014年1月29日祈り会メッセージ
『新会堂建設への心備え③』
【歴代誌第一29:1~9】

はじめに
 先日の聖日には教会総会を無事に執り行うことができて感謝でした。そして昨日、この今沢の教会の土地と建物の所有権を、廣瀬先生から宗教法人イムマヌエル綜合伝道団沼津基督教会に移転する登記が完了しました。これで、この教会の土地と建物は、名実ともに私たちの教会の物となりました。今までも、この教会の土地と建物は私たちの教会の物であったわけですが、実は登記簿上は前任の先生の物になっていました。しかし、これで晴れて登記簿上も、この今沢の土地と建物は、私たちの教会の物になりました。

立ちはだかっていた壁
 教会総会の折りに、今の1月の時点で、今年の年間計画がまだ立てられていないことについて、私は少し言い訳をしました。それは、私がこの教会に着任して1年目で、しかも牧師になってまだ2年目なので、目の前のことを一つ一つこなして行くことに精一杯で、向こう1年のことを考える余裕など無かったという言い訳をしました。それは、全くその通りなのですが、先のことを考える余裕が無かったもう一つの要因として、この土地と建物の所有権移転の手続きのことが私の前に壁として立ちはだかっていたのだなと、手続きが完了した今、つくづく思います。この山を越えるまでは、やっぱり先の方を見通すことは不可能であったなと、いま改めて思っています。
 土地と建物の所有権が牧師個人の名義で登記されているものを、法人に移転させる事務作業については、私は姫路教会で既に経験済みでした。しかし姫路教会の場合は法人格を持っていませんでしたから、移転先の法人は教団でした。その場合、申請書自体は私の方で作成しましたが、添付する様々な必要書類、例えば、なぜ所有権を移転する必要があるのかの理由書や、移転を決議した責任役員会議事録や、移転先の法人がしっかりとした組織であることを証明する教会規則、などなどは全て教団が整えてくれました。しかし、今回のケースは移転先がこの沼津教会でしたから、必要書類のすべてを沼津教会で整える必要がありました。まずは教会規則をしっかりと整備しなければなりませんでした。教会規則が設立当時の古いままの教会では、移転は認めてもらえないでしょう。また、この教会の土地が一つではなく、後付けで2つの小さな土地も付いていましたから、このことも姫路では経験していないことで、越えなければならない山の高さは、途方もなく高く見えました。幸いにして県庁と本部から指導を仰ぐことについては役員の方が良い働きをして下さり、一歩一歩着実に歩みを進めて行くことができましたから、本当に感謝でした。
 12月の後半に概ね必要書類を整えることができましたから、前任の先生の実印が必要な書類を先生にお送りして、年末に押印されたものが印鑑証明書と共に返送されて来ました。それを年が明けてから県庁に送り、数日後には県庁から、所有権移転に際して掛かる税金を免除する非課税証明書が届きました。そうして、遂に1月14日の午後に、その非課税証明書を添付して法務局に所有権移転登記の申請書を提出することができました。書類に不備が無ければ、それでめでたく登記完了となりますから、私はかなりの安堵感を覚えました。
 そして、その登記申請した1月14日の晩に、道路側のカーテンを開けて会堂のレイアウトを180度変えるアイデアが、ふと与えられて2週間前の15日の祈祷会で、まずこのレイアウトを試してみることにしました。所有権移転の登記申請書類を提出した当日の晩に、新たなレイアウトのアイデアが与えられたのですから、やっぱり私にとって、この所有権移転の手続きは相当に高い壁となって立ちはだかっていたのだなと、今になって、つくづく思うことです。
 さて、そういうわけでこれまでは年間計画だけでなく、新会堂についても、なかなか展望できないでいましたが、これで漸く本腰を入れて取り組むことができます。

この仕事は大きい
 では、歴代誌を見て行くことにしましょう。1月から祈祷会では、歴代誌第一を開いて、新会堂建設への心備えを始めています。きょうの聖書箇所は歴代誌第一29章の1節から9節までです。まず1節、
 
29:1 次に、ダビデ王は全集団に言った。「わが子ソロモンは、神が選ばれたただひとりの者であるが、まだ若く、力もなく、この仕事は大きい。この城は、人のためでなく、神である【主】のためだからである。

 この1節で目に留まるのは、「この仕事は大きい」です。主の宮の建設は大きな仕事です。そして私たちの教会の新しい会堂の建設もまた、大きな仕事です。とても不思議な感覚ですが、「この仕事は大きい」という箇所を読んで、私は何だかわくわくして来ました。大きな仕事であればあるほど、私たちの力では無理なことで、主の御助けが無ければ達成はできないことです。主は一体、どんな御助けと御業を私たちの目の前で見せて下さるのだろうか、何だかわくわくするような気がします。これも、所有権移転の登記が完了して心が軽くなったからでしょうか。今までは新会堂に関してわくわく感を感じることはありませんでしたが、今は何故か不思議なわくわく感を覚えるようになりました。
 しかし、主が御助けを与えて下さるための前提となるのは、当然のことながら私たちの信仰です。信仰の無い者を主は助けては下さらないでしょう。ダビデは捧げることで信仰を示しました。2節から5節、

29:2 私は全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした。すなわち、金製品のための金、銀製品のための銀、青銅製品のための青銅、鉄製品のための鉄、木製品のための木、しまめのう、色とりどりのモルタルの石の象眼細工、あらゆる宝石、大理石をおびただしく用意した。
29:3 そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。
29:4 家々の壁に着せるため、オフィルの金の中から金三千タラントと、精銀七千タラントを、
29:5 金は金製品のため、銀は銀製品のために、またすべて職人の手による仕事のために、ささげた。そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、【主】にささげる者はないだろうか。」

喜びを持って捧げた民
 ダビデは、自ら進んで捧げ物で信仰を表し、そして、イスラエルの民にも、それを求めました。6節から8節、

29:6 すると、一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊、百人隊の長たち、王の仕事の係長たちは、みずから進んで、
29:7 神の宮の奉仕のために、金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントをささげた。
29:8 宝石を持っている者は、これを【主】の宮の宝物倉にささげ、ゲルション人エヒエルの手に託した。

 このように、イスラエルの民もまた、多くの捧げ物をしました。9節、

29:9 こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで【主】にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。

 ダビデ王とイスラエルの民にとって、捧げ物をすること自体が大きな喜びだったのですね。それは、主への揺るぎない信仰があり、主とイスラエルの民との間に信頼関係が構築されていたからですね。主は、ダビデとその子ソロモンが信仰にとどまる限り、一族の繁栄を約束していましたから、ダビデは喜びをもって捧げることができました。イスラエルの民もまた、ダビデの家が繁栄している限りはイスラエルの国も繁栄を続けることができますから、喜びをもって捧げることができました。

主と信頼関係が構築されていた民
 このようにイスラエルの民が全き心を持ち、主との間にしっかりとした信頼関係があった時期というのは、イスラエルの歴史の全体から見れば、珍しい時期であったと言えると思います。旧約聖書全体を読むなら、ほとんどの時代は不信仰の時代で、主とイスラエルの民との間に信頼関係は存在しませんでした。しかし、このダビデがソロモンに王位を引き継いだ時期というのは、イスラエルの歴史全体から見ると、突出して良い時代で、主と民との間で信頼関係がしっかりと築かれていた時代でした。ヒゼキヤ王やヨシヤ王などの宗教改革の時代もありましたが、王様が良い信仰を持っていても、一般の民がどれほどの信仰を持っていたかというと、それほどではなかったと思います。しかし、この歴代誌第一29章の時期には王も民もイスラエル全体が主との間で信頼関係が構築できていました。

私たちも主と信頼関係を築くところから始める
 ですから、今日の聖書箇所から私たちが学び取らなければならないのは、私たちも先ず、主との信頼関係をしっかりと構築するところから始めなければならないだろう、ということです。このことを、私もまだ、しっかりとは認識できていませんでした。私たちは、一人一人については、主との信頼関係を築くことができている方が多いことでしょう。しかし、教会全体としてはどうでしょうか。このことを改めて考えてみると、まだまだという感じがしますね。 この今沢の会堂を取得した当時は教会全体が信仰に燃えていたことと思いますが、今はどうでしょうか。先ずは、会堂に特化した祈祷会を開くことから始めなければならないだろうと思います。そこから、ようやくこの教会が主との信頼関係を築くことを始めることができるのかな、という気がしていますが、皆さんは、どのように感じていますでしょうか。

おわりに
 役員の方から提案があり、まず私が司会をして新会堂取得の祈祷会を持ったらどうでしょうかということですので、そのようにしたいと思います。次の礼拝でアナウンスをして、その次、すなわち2月の第二聖日の礼拝の後で、15分から20分程度の新会堂のための祈祷会を私の司会で開くことにしたいと思います。このためにも、是非お祈りいただきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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あなたがたは、世界の光です(2014.1.26 礼拝)

2014-01-26 19:29:10 | 礼拝メッセージ
2014年1月26日礼拝メッセージ
『あなたがたは、世界の光です』
【マタイ5:14~16】

はじめに
 きょうの聖書箇所はマタイ5章の「あなたがたは、世界の光です」の箇所ですが、実は今日のメッセージで話したいことは、1月5日の新年礼拝で話したいことと、ほぼ同じです。新年礼拝の説教のタイトルは『起きよ、光を放て』で、イザヤ60章からのメッセージでした。新しい年の最初の聖日礼拝のメッセージでしたが、多くの方々がインフルエンザや体調不良で欠席されていました。きょう私たちは教会総会を行って、また新たな一年の歩みを開始しますから、まず、新年礼拝のメッセージで何を話したかを、簡単に振り返ることにします。

起きよ、光を放て
 今年の私たちの教会の聖句はヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」です。そして新年礼拝では、私たちの教会が、その永遠のいのちに至る食物のための働きによって光を放つことができることを願い、イザヤ書60章1節のみことばから『起きよ、光を放て』という説教題でメッセージを取次ぎました。
 光を放つとは、私たちの教会が中心となって、「ヨハネの永遠観」を世界に広めて行くということです。旧約聖書のイザヤ60章を開いて下さい(p.1224)。1節から3節までを、交代で読みましょう。

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。」
 まず、私たちは目を覚まさなければなりません。そして、光を放たなければなりません。私たちの教会は、もちろん寝ていたわけではありません。やれることは一生懸命やっていたと思います。しかし、光を放っていたとまでは言えないと思います。そういう意味では、まだ完全には目を覚ましていないのだと思います。私たちは、完全に目を覚まして、光を放たなければなりません。「ヨハネの永遠観」を世界に発信する働きを通じて、光を放たなければならないと思います。なぜなら、既に私たちにの上には主の栄光が輝いているからです。主は私たちを用いようとして私たちの上で栄光を輝かせています。ですから、私たちは、起きて光を放たなければなりません。

しり込みせずに受け入れて働く
 主が私たちを用いようとしている時、私たちはそれを受け入れて、主のために働かなければなりません。もちろん、主が私たちに大きな働きを為させようとする時、私たちはひるみ、しり込みします。モーセもそうでしたし、ギデオンやエレミヤも、しり込みしました。しかし、主が共にいて下さるのですから、恐れずに主の期待に応えなければなりません。主の期待は、私たちには荷が重すぎると初めは思うかもしれません。しかし、主は私たちと共にいて下さり、私たちの上で栄光を輝かせていて下さいますから、恐れることはありません。私たちの周囲はまだまだ闇におおわれていますから、闇に向けて光を放たなければなりません。2節、

60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

 これまでの説教でも再三に亘って語っているように、私たちの世界には未だ平和がありません。延々と戦争を繰り返していて、平和を実現できないでいます。それは、私たちがまだ互いに赦し合い、互いに愛し合うことができていないからです。なぜ互いに赦し合い、愛し合うことができないのか。それは、人類が従来型の【過去→現在→未来】という直線的な時間観に束縛されているからです。それゆえ報復の連鎖が止まりません。しかし、ヨハネの永遠観に私たちが慣れ親しむようになるなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるようになるでしょう。ヨハネはイエス・キリストが【過去・現在・未来】が一体の永遠の中を生きていることを福音書で描き、私たちもイエスを信じるなら、この永遠の中に入れられることを教えてくれています。私たちの教会には、この「ヨハネの永遠観」を習得して世界に広めて行く役割が与えられています。3節、

60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

 「ヨハネの永遠観」が世界に広まるなら、世界の人々は互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになって平和が実現します。そして世界の人々は光のうちに歩み、輝きに照らされて歩むことができるようになります。

 新年礼拝では、この後、小さな者で大きな働きをした者の例としてイエスの母のマリヤについて、学びました。そして、もう一人、今度は逆の反面教師としてイスラエルの初代の王のサウル王についても学びました。サウル王は主から油が注がれたにも関わらず、最初から最後まで、自分に自信が持てず、大きな働きをすることができなかった人物です。
 私たちもまた、マリヤやサウルのように、小さな者たちです。神さまはこのように小さな者たちに目を留めて、大きな働きをさせようとします。ですから私たちは、マリヤのように信仰を持って受け入れて、主にお委ねして進んで行けば良いのです。サウル王のようになってはなりません。

あなたがたは、世界の光です
 以上が新年礼拝で話したことの要旨です。きょうは、あと残り5分ほどで、きょうの聖書箇所のマタイ5章14節から16節までを見ます。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 私たちの教会は、光を放つことを期待されていますから、イザヤ60:1の「起きよ、光を放て」と、マタイ5:14の「あなたがたは、世界の光です」を神様からの同じメッセージとして捉えたいと思います。16節で、イエスさまは、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言っておられます。

良い行いとは
 ここにある「良い行い」とは、どのようなものでしょうか。私は「良い行い」とは、「永遠について良く理解している者の行動」であると考えます。聖書が描く永遠は、遠い過去とか遠い未来のことではなく、【過去・現在・未来】が一体になったヨハネの永遠観のことです。ヨハネの永遠観では過去と未来は遠い所にあるのではなく、極めて近くにあります。二千年も前の出来事であるイエス・キリストの十字架を身近に感じ、イエスさまが十字架に掛かったのは自分の罪のゆえであると感じることができるのは、それゆえです。私たちは霊的にはこの永遠を感じることができていますが、頭では、まだまだ理解できていません。ですから私たちは、この永遠について良く理解して行動できるようにならなければなりません。この永遠を理解するなら、ヨハネの福音書に限らず、他の福音書も、パウロの手紙も、旧約聖書も、より一層良く理解することができるようになります。
 たとえば、マタイ5章の山上の説教の始めの部分では、「~の者は幸いです。~だから」という書き方がされています。これは、今は悲しかったり、苦しかったり、つらかったりして良くないことばかりだけど、未来には良いことがあるから幸いです、と言っているのではないのですね。イエスさまと共に永遠の中を生きているなら、今の時点で未来の中にも既に入れられていますから、天の御国の幸いを既に得ている、それゆえに幸いであると言っているのですね。そのように、弱い者でいることは幸いなことです。
 或いは逆に、私たちは時には我を忘れて人に暴力的な言動をしてしまうこともあるかもしれません。そういうことをしてしまった時、心が痛みます。それは、私たちはイエスさまと共に永遠の中を生きていますから、自分がイエス・キリストを十字架に付けてしまったことが思い起こされて心が痛むのです。私たちにとって十字架の出来事は二千年前の出来事ではなくて、今の出来事です。
 このようにしてイエス・キリストと共に永遠の中を生きるなら、自ずと何が良いことで何が悪いことであるかが、わかるようになって、行いが正されて行きます。それが、良い行いをするということでしょう。イエス・キリストと共に歩む中で喜びが湧くことが良い行いで、心が痛むことが悪い行いです。こうして私たちがいつも喜んでいるなら、人々はそれを見て、天におられる御父のことを崇めるようになるでしょう。

逆説も順接も無い永遠の中
 私たち自身が「永遠とは何か」を深く理解して、喜びを持って教会生活を送り、それが周囲の人々にも伝わるようになれば、幸いです。それが、今年の私たちの教会の聖句である、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」ということであると言えるでしょう。
 キリスト教はよく逆説の宗教であるというようなことが言われます。弱い者が強い者であるとか、悲しい者が幸いな者であるとか、敗北に見えた十字架が実は勝利であったとか、それが逆説的であるという言われ方をされたりします。しかし、【過去・現在・未来】が一体の永遠の中では、そもそも逆説も順接も無いのだと思います。強さも弱さも、喜びも悲しみも、全て一つの中に混然一体となってあります。その混然一体の中に身を置くことは、イエス・キリストと共にいるということですから、このこと自体が大きな喜びです。それが永遠の中を生きることと言えるでしょう。

おわりに
 私たちの教会は、この「ヨハネの永遠観」を発信する教会でありたいと思います。これから、教会総会を開催しますが、以上のことを念頭において昨年一年のことを振り返り、これからの一年を考えることにしたいと思います。神さまが良き導きを与えて下さるよう、お祈りいたしましょう。

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新会堂建設への心備え②(2014.1.22 祈り会)

2014-01-23 08:33:32 | 祈り会メッセージ
2014年1月22日祈り会メッセージ
『新会堂建設への心備え②』
【歴代誌第一28:9~21】

はじめに
 前回の祈り会から、私たちの教会が新会堂の建設へと向かって行くことができるための心備えとして、歴代誌のソロモンが主の宮の建設を行った箇所の学びを始めています。
 きょうは、その2回目です。このシリーズでは、この歴代誌の箇所を素直に淡々と読んで行けば良いのではないかと思っています。礼拝でのヨハネの永遠観のメッセージでは、聖書の表面上からは読み取れない背後のことにまで迫って解き明かしをして行きますが、この祈り会でのソロモンが主の宮の建設を行った箇所の学びでは、表面に書いてあることを単純に素直に淡々と読んで行くことを考えています。ソロモンの時代のことを現代に置き換える程度のことはしますが、それ以上に深く入り込むことはせずに、聖書に書いてあることを素直に読んで、新会堂建設への心備えができたらと願っています。

主の宮の仕様書を授けられたソロモン
 では、28章9節から順に読んで行きます。これはソロモンへの父ダビデのことばです。ここでは、「ソロモン」を頭の中で「沼津教会」と置き換えて読んでみていただけたらと思います。
 まず9節、

28:9 わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。【主】はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。

そして10節、

28:10 今、心に留めなさい。【主】は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」

 私たちの教会は、まだ「実行しなさい」というところまでは来ていませんが、そう遠くない将来に、このように神様に言っていただけるよう、備えて行きたいと思います。11節、

28:11 ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、その神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖いの間などの仕様書を授けた。

 「実行しなさい」の声を聞いたなら、土地を決めて、それから会堂の設計に取り掛かりますね。そのことにも備えて行きたいと思います。昨年の秋に私はeラーニングで礼拝学を学びました。その礼拝を行う場としての会堂についての学びも、ほんの少しですが、することができて感謝でした。その時に講師の矢木先生が、『教会と教会堂』という本を強く推薦していました。ですから、私も古書で、この本を買い求めました。まだパラパラと眺めるだけで、ほとんど読めていないのですが、少しずつ読むことができたらと思っています。そして、皆さんと分かち合うほうが良い箇所などあったら、ここで内容の紹介などもしてみたいと思っています。12節と13節、

28:12 御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書であった。すなわち、【主】の宮の庭のこと、回りにあるすべての脇部屋のこと、神の宮の宝物倉のこと、聖なるささげ物の宝物倉のこと、
28:13 祭司とレビ人の組分けのこと、【主】の宮の奉仕のすべての仕事のこと、【主】の宮の奉仕に用いるすべての器具のことである。

宮の中の器具にも心を配る
 そして14節以降には器具のことが書いてあります。14節から18節までをお読みします。

28:14 金については、各種の奉仕に用いるすべての器具に使う金の目方が、すべての銀の器具については、各種の奉仕に用いるすべての器具の目方が示され、
28:15 金の燭台とその上にある金のともしび皿の目方は、一つ一つの燭台とその上にあるともしび皿の目方が、銀の燭台については、一つ一つの燭台の用途別に燭台とその上にあるともしび皿の目方が示されていた。
28:16 また、並べ供えるパンの机、一つ一つの机に使う金の目方、銀の机に使うその銀、
28:17 純金の、肉刺し、鉢、びん、金の杯については、それぞれの杯の目方、銀の杯について、それぞれの杯の目方、
28:18 精金の香の壇についてはその目方、【主】の契約の箱の上で翼を伸べ、防ぎ守っているケルビムの車のひな型の金のことが示されていた。
28:19 「これらすべては、私に与えられた【主】の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行う。」

 私たちは会堂という入れ物だけでなく、器具についても気を配っていく必要があるのですね。去年の12月の下半期感謝献金の使い道として、聖餐セットを挙げさせていただきました。今年に入って注文して、先週、新しい聖餐セットが届きました。会堂を新しくする前に、まず聖餐式の器具が新しくなりました。次の聖餐式の時には教会の皆さんが新しい聖餐器具を見て、会堂も新しくしようという気運が高まれば感謝かなと思います。20節、

28:20 それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である【主】、私の神が、あなたとともにおられるのだから──。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、【主】の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。

 私たちにも、このような時が来ることを、祈り願って心備えをして行きたく思います。21節、

28:21 見なさい。神の宮のあらゆる奉仕のために祭司とレビ人の各組がいる。あらゆる奉仕のために知恵のある、進んで事に当たるすべての人が、どんな仕事にも、あなたとともにいる。つかさたちとすべての民は、あなたのすべての命令に従う。」

 会堂の建設には教会員の全員が高い参加意識を持って臨んで行く必要があります。そして、設計や施工に関しては、教会外の方々とも一緒に働いて行くことになります。そのことの心備えもしっかりとして行きたく思います。

新しい風を期待する
 さて、私たちに新しい会堂が与えられるためには、これから先、私たちが予想もしていなかったような展開も、当然、起こり得るでしょう。むしろ、そのような予想外の展開が無ければ、新会堂の実現は無理なのではないかと思います。
 きょうは、残りの時間で、ひょっとしたら新しい風が吹いて来ているかもしれないということを感じさせてくれる、予期していなかったことについて、お証しさせていただきます。

(後略)
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気前の良い永遠の神(2014.1.19 礼拝)

2014-01-19 19:58:30 | 礼拝メッセージ
2014年1月19日礼拝メッセージ
『気前の良い永遠の神』
【マタイ20:1~16/ヨハネ6:35~40】

はじめに
 今年、私たちの教会はヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」のみことばを神さまにいただいて、「ヨハネの永遠観」を発信する教会の働きをしたいと願っています。これまで聖書の様々な箇所から「ヨハネの永遠観」を学んで来ていますが、これからもしばらく学びを続けて行きます。
 きょうはマタイとルカとヨハネの福音書を開き、最後にローマ人への手紙からも学びたいと願っています。「ヨハネの永遠観」はヨハネの福音書だけからではなく、聖書の他の書も開くことで、より一層深く理解できるようになると思いますから、この「ヨハネの永遠観」の学びでは聖書のあちこちを開くことになりますが、忍耐を持ってお付き合い願えたらと思います。

朝早くからも夕方からも神には同じ
 では、まずマタイの福音書を開きましょう。聖書交読でご一緒に読んだ箇所です。マタイの福音書20章1~16節です(新約聖書pp.39-40)。
 この20章のすぐ手前の19章の29節と30節を、まずお読みします。

19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

 29節の前半の、家や兄弟姉妹や両親や畑を捨てることについての説明は保留しておいて、後で説明します。今は、29節の最後にある「永遠のいのちを受け継ぎます」と30節に注目して下さい。30節の「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」は、20章の16節にも同じことが書かれていますね。ですから、この2つの「あとの者が先になる」ことに挟まれた20章1節から15節までのブドウ園の主人と労務者の例えも、やはり19章29節にある「永遠のいのちを受け継ぐ」ことについて書かれています。
 現代の私たちに置き換えてこの箇所を解釈するなら、1デナリの報酬の約束をしてブドウ園で働く者とはイエス・キリストを信じて教会で奉仕している私たちであり、1デナリを受け取るとは、私たちがこの世を去って天の御国に入れられることです。
 神様は、若い時にイエスを信じて長い期間に亘って教会で奉仕している者も、年を取ってからイエスを信じて教会に来るようになった者も、同じように天の御国に入れて下さいます。また天の御国に入ってからも差別をすることはないでしょう。長く教会でご奉仕した者が天の御国で良い待遇を受けるということはないでしょう。永遠の中にいる神様にとっては、人間の地上生涯など、ほんのわずかな期間でしかありませんから、50年も1年も同じことです。ブドウ園の主人は朝早くからブドウ園で働いた者も午後5時からしか働かなかった者にも、同じように1デナリの賃金が与えるのだという例え話を通してイエスさまは、信仰を早くに持った者も遅くに持った者も同じように救われるのだということを話しました。
 この遅くに信仰を持つとは、病床で臨終の間際に信仰を持っても良いわけです。何十年も好き勝手に暮らして来て死ぬ間際に信仰を告白すれば永遠の命が与えられるというのですから、ブドウ園で朝早くから一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱した労務者が文句を言うのも分かるような気がしますが、神様は、そのように、とても気前の良いお方です。

臨終間際でもイエスの方を向けば救われる
 この臨終の間際の信仰告白でも救われることを、もっとはっきりと書いているのが、ルカの福音書の十字架の場面ですね。ルカの福音書23章の39節から43節です(新約聖書p.168)。ここを交読しましょう。

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

42節で「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言った罪人にイエスさまは「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言いましたから、この罪人は救われました。この会話は、罪人とイエスさまとの二人だけの間で交わされたものです。ですから、たとえ臨終間際でほとんど意識が無くて牧師や近親者と話ができなくても、イエスさまと話ができるなら、救われるということです。臨終間際の人が周囲の者にわかるような形で信仰告白をしなくても、本人はちゃんとイエスさまと話をして救われることもあるということです。神様は、それほどに気前の良い方です。ですから、私たちは希望を持ってイエス・キリストの福音を宣べ伝え続けなければならないと思います。
 このようにマタイの福音書とルカの福音書は、神さまが非常に気前の良い方であることを私たちに教えています。永遠の中にいる神様にとって、私たちが早くに信仰を持とうが、臨終間際に信仰を持とうが関係ありません。ただし、明白にイエスさまの方向を向く必要があります。それまでの自分の犯して来た罪を悔いて明白にイエスさまのほうを向かなければなりません。ルカの福音書の十字架の罪人も、23章41節で、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言っていますから、自分がこれまでにして来たことの罪深さを自覚していました。その上でイエスさまのほうをしっかりと向いています。そのようにして心をイエス・キリストに向けるなら、人は救われます。
 ですから、さきほど説明を保留したマタイの福音書の19章29節の、

「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」

というのは、家や財産に心を向けていたのを悔い改めて心をイエス・キリストのほうに向けるのなら、永遠のいのちが与えられるということです。病床に就いてしまったら、もはや家や親兄弟や畑を捨ててイエス・キリストに付いて行くことはできません。ですから、ここでイエス・キリストが言っていることは実際に家や畑を捨てなさいということではなく、心をしっかりと、わたしのほうに向けなさいということです。そうすれば、たとえ夕方の5時過ぎからしか働かなくても、永遠のいのちという1デナリの賃金が与えられます。

教会に来た者を決して捨てないイエス
 さて、では、気前の良い神様は、教会から離れてしまった人々のことは、どのように考えておられるでしょうか。教会に来て洗礼を受けて、一時期は熱心に教会でご奉仕もしたけれども、何かにつまずいて教会から離れてしまう方というのは、どの教会にも必ずいるものです。そういう方々に対しても神さまは気前が良いのでしょうか。
 実は、このことは私自身が、ずっと引っ掛かっていたことでした。この沼津教会でお証ししたことがあったかどうか、忘れてしまいましたが、13年前に亡くなった私の父は、若い頃に教会に通っていて洗礼も受けました。しかし、結婚して子供が生まれてからは、教会から離れてしまっていました。ですから、私は父の死の間際まで、父がクリスチャンであったことを知りませんでした。そして、家族の誰も教会とつながりがありませんでしたから、葬式はお寺で挙げました。クリスチャンなのにお寺で葬式を挙げて良かったのか、私はその時とても疑問に思いましたから、葬式を終えた後で、前から教会に誘ってくれていた韓国人に、東京の韓国人教会に連れて行ってもらいました。そして、しばらく韓国人教会に通った後で日本人の教会に行くことを勧められましたから、自宅の近所にあったインマヌエルの高津教会を訪れました。そこで藤本満先生のガラテヤ書の講解説教を聞き、その説教の続きを聞きたくて毎週高津教会に通うようになり、洗礼に至りました。
 まだ洗礼を受ける前のことですが、高津教会に通うようになって、しばらく経った頃に私は藤本先生に聞いたことがありました。
「教会に行かなくなって、お寺で葬式を挙げた父はクリスチャンとして死ぬことができたのでしょうか。」
 すると、藤本先生は、こんな風に答えて下さいました。
「人は死ぬ間際には、それまでの人生が走馬灯のように思い返されるというから、お父さんもきっと自分の人生を振り返り、自分が教会に通って聖書を読み、洗礼を受けた時のことを思い出したでしょう。そのことをもってクリスチャンとして死んだと言えると思いますよ。」
 この時、私はまだまだ聖書のことが良くわかっていませんでしたから、そんなものかな、藤本先生が言うのだから、そうなのかなと半分くらいは納得しましたが、残りの半分は依然として、父は本当にクリスチャンとして死んだのだろうかという疑問が残っていました。しかし、聖書のことが段々わかるようになって、やはり父はクリスチャンとして死んだのだと思えるようになって来ました。そして「ヨハネの永遠観」について理解するようになってからは、それは確信に変わりました。その確信の根拠になっているのが、きょうの聖書箇所のヨハネの福音書6章の、37節です。

6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

 イエスさまは「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」とおっしゃいました。それは、教会から離れてしまった者も、決して捨てないということでしょう。人は死ねば永遠の中に入れられます。天国に行くか地獄に行くかはわかりませんが、いずれの場所に行くとしても、そこは永遠の世界です。死の間際に人は走馬灯のように自分の人生を振り返るということを聞きますが、それは非常に短い時間の間に長い一生のことを思い出すということですから、それはまさに永遠の世界への入口であるということです。それゆえ、もし人生のどこかでイエス・キリストに出会い、イエスさまに付き従っていた経験を持つなら、死に際して、その永遠の世界への入口で必ずイエスさまのことを思い出すでしょう。そしてルカの福音書の十字架の罪人と同じようにパラダイスに行くことができるでしょう。

永遠を感じさせる人の死
 このように人は死に近付けば近付くほど、永遠に近付いて行きます。そしてそれは本人だけが感じることではなく、周囲の者に対しても永遠を感じさせる力を持っています。それは私自身が経験したことですから、間違いありません。もちろん当時の私はそのことが分かっていませんでしたが、私は父の死によって永遠を感じるようになって、教会へと導かれました。初めて韓国人教会に行って聖歌隊の讃美歌を聞いた時、不思議な慰めを感じました。父の死を悲しんでいた私に聖霊が働き掛けて下さったのだと思います。
 いま病床に就いておられるK兄も、教会に通うようになったきっかけは、義理の妹さんが山で遭難して急に亡くなったことがきっかけであったと伺っています。そのように人の死というものは、永遠の世界を周囲の者にも感じさせる力があります。この私の経験や、K兄の経験から言えることは、信仰にとって永遠を感じることが極めて大切であるということです。人は永遠を感じることで、信仰の深い世界へと導かれて行きます。これは頭では理解できないことです。それは永遠を求めているのは頭ではなく、魂であるからでしょう。
 私がよくマルタとマリヤの姉妹の話を引用するのも、永遠を感じることの大切さを知っていただきたいからです。ルカ10章で姉のマルタはバタバタと忙しく働いていましたが、妹のマリヤはイエスさまのみもとで、じっとみことばに聞き入っていました。妹のマリヤはイエスさまのみことばを聞くことによって、永遠を感じていたのですね。イエスさまは永遠の中を生きておられる方ですから、イエスさまのみことばを聞くなら、聞く者は永遠を感じることができます。イエスさまは姉のマルタに、マリヤはその良いほうを選んだのだから、彼女からそれを取り上げてはいけませんとおっしゃいました。
 このマルタとマリヤの例でもわかるように、永遠は一生懸命に信仰に励めば感じることができるようになるものではありません。信仰に励めば励むほど、かえって律法主義的になって永遠を感じることができなくなる場合もあります。気前の良いブドウ園の主人に文句を言った朝早くからの労務者は、そのような律法主義に陥ってしまった者であると言えるでしょう。朝早くから働くことは、もちろん良いことです。朝早くから働いて、1デナリをいただき、なお且つ夕方5時から働いた者と一緒に1デナリの報酬を喜ぶことができるのが、一番良いのではないでしょうか。
 ですから病床に就くまでは好き勝手に暮らして、いよいよこの世を去る時に信仰を持とうと考えることは決して勧められることではありません。まして途中から信仰を離れてしまうことは、あってはならないことでしょう。しかし、そんな者たちに対しても、永遠の中にいる神様は気前の良いお方ですから、決して見捨てることはありません。
 そのように神様は私たちを愛してくださっていますから、私たちも神様を愛して、神様のために働かなければなりません。それが、私たちの教会の今年の聖句である、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)ということです。ただし何度も言いますが、働くと言っても、マルタのように永遠が感じられないような働き方をするのではなく、マリヤのように永遠を感じることができなければなりません。

頑張るのではなく、委ねる信仰
 どうも私たち福音派、中でもきよめ派は、信仰生活をマルタのように頑張る、というイメージで頑張ってしまっているのではないかという気がします。弱い信仰ではダメだ、強い信仰を持たなければ、と頑張る傾向が私たちにはないでしょうか。しかし、神様は気前の良いお方ですから、私たちの側でそんなに一生懸命に頑張るのではなく、全面的に神様に委ねてしまえば良いのです。マリヤにはそれができていましたが、マルタにはできていませんでした。
 私は沼津に来てから月に2回のペースでお茶の水の本部に行って、ローマ人への手紙をギリシャ語で学ぶ会に参加しています。ここでは本当に良い学びをさせていただいています。そして最近、ローマ4:20の学びで非常に感銘を受けました。週報のp.3に新改訳と新共同訳と英語訳を比較したものを載せておきましたので、ご覧になって下さい。

(ローマ4:20)
【新改訳第3版】彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
【新共同訳】彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
【NKJV】He did not waver at the promise of God through unbelief, but was strengthened in faith, giving glory to God,

 最近の学びで私は、私たちが使っている新改訳聖書のローマ4:20は、原語のギリシャ語を忠実に訳した訳にはなっていないことを学びました。比較のために載せてある新共同訳と英訳はほぼ忠実に訳してあります。ここで「彼」というのはアブラハムのことです。まずギリシャ語にほぼ忠実な新共同訳のほうから見ていただくと、「彼(アブラハム)は…信仰によって強められ」とあります。つまり「アブラハムが強められた」というのがギリシャ語に忠実な訳です。ところが新改訳ではどうなっているかというと「信仰がますます強くなって」とありますから、アブラハムが強くなったのではなく、信仰が強くなったと訳されています。
 どうも新改訳のローマ4:20の訳は、マルタの頑張る信仰のようになってしまっているようです。マルタはイエスさまをもてなそうと頑張りました。ローマ4:20の新改訳は、そのように頑張って信仰に励もう、強い信仰が持てるようにますます頑張ろうという雰囲気が漂っています。
 しかし、ローマ4:20でパウロが言わんとしていることは、アブラハムが信仰によって強められたということです。私たちも信仰によって強められます。信仰を持つことによって私たちは強められます。信仰とは、そういうものなのですね。このことは、私たちが実感していることと良く合うのではないでしょうか。ですから、私たちはマルタのように一生懸命に頑張り過ぎて疲れてしまうよりも、マリヤのようにイエスさまに全てを委ねて強められるほうが遥かに良いことです。このローマ4:20の新共同訳のほうを、あとでご自身で良く味わってみて下さい。信仰とは自分が頑張ることではなく、神様が強さを与えて下さるものだということが分かるなら、神様の気前の良さが、より一層わかるようになると思います。

おわりに
 神様の気前の良さとは、神様の私たちへの愛のことです。神様の愛がわかるなら、この神様のために働かなければという気持ちになるでしょう。神様は気前が良いのだから、死ぬ間際までは教会から離れて好き勝手に暮らそうと思うのであれば、それは神様の愛が良く分かっていないことになります。神様の愛が分かるなら、一人でも多くの方に、この愛の素晴らしさを分かっていただきたいという気持ちになることと思います。私たちの教会はそのように神様の愛を人々に伝えて行くことができる教会でありたいと思います。
 気前の良い永遠の神は私たちに「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とおっしゃっておられますから、私たちはその永遠を感じつつ、神様のために働くことができる者たちでありたいと思います。一生懸命頑張って疲れるのではなく、喜びを持ってお仕えすることができる者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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会堂内配置の変更を検討しています

2014-01-19 18:41:41 | 折々のつぶやき


 先週の水曜日の祈り会から、このように講壇の向きを180度変えるレイアウトを試してみています。来週26日の教会総会で今後はこのレイアウトで集会を行うことの承認をいただけたらと願っています。
 このような配置にした第一の目的は道路(物置)側のカーテンを開けるためで、講壇の向きを変えることが目的ではありません。カーテンを開けることで中での集会の様子が外から見えるようにして、新しい方に入って来ていただきやすくすることが第一の目的です。今までも、もしかしたら配布されたチラシを携えて玄関先まで来た方がいらっしゃるかもしれません。でも中の様子がわからないので中に入る勇気が無くて引き返した方がいらっしゃるかもしれません。ですからカーテンを開けて中が見えるようにしたいのです。
 ただ、今までの向きのままでカーテンだけを開けると、皆さん全員が外の方を向いていますから、新しい方は気おされて余計に中に入りにくくなる心配があります。また、中にいる皆さんも外を人が通ると気が散るでしょうし、説教者の背後に古い物置があったのでは気持ち良く礼拝を捧げることができないでしょう。ですから、このように180度向きを変える必要があるだろうと思いました。
 そして実際に向きを変えてみると、ただ向きを変えただけなのに、新鮮な気分になることを感じます。私たちがこれから新会堂の実現に向けて前進して行かなければならない時、新しい気分になることは、とても大切なことだと思います。また、説教者の私の側からは外が見えますから、外に向かって伝道するという意識が私にこれまで以上に与えられて、霊的に燃やされる気がしています。説教者が霊的に燃やされ、それが会衆の皆さんの内にも届いて共に霊とまことによる礼拝を捧げることができるようになるなら、主は必ずや私たちの教会を祝福してくださるであろうと思います。
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主の宮の建設への着手(2014.1.15 祈り会)

2014-01-15 21:53:20 | 祈り会メッセージ
2014年1月15日祈り会説教
『主の宮の建設への着手』
【歴代誌第一28:1~8】

はじめに
 先週の礼拝と祈り会では多くの愛兄姉が、風邪やインフルエンザのために欠席でした。年が改まり、私たちが新会堂実現に向けて新しい気持ちで歩み始めようとしている時に、その気持ちをくじけさせようとする力が働いているような気がしましたから、先週はエペソ書の6章を開いて、神のすべて武具を身に着けて神に守っていただけるよう、お祈りしました。また、みことばを語る私のためにお祈りしていただきました。
 すると、会堂内の講壇の向きを180度変えるレイアウトにてみたらどうだろうかという新しいアイデアが与えられました。このレイアウトの一番の狙いは、この向きにすれば、道路側のカーテンを開けることができて、外から中が見えるようになるからです。外から中の様子が見えれば、新しい方も入って来やすくなるのではないか、そのような効果を期待しています。
 講壇の向きが従来のままでカーテンを開けますと、会衆側から道路の方が見えて皆さんがメッセージに集中できないと思いますし、説教者の背後が明るすぎると見づらいという難もあると思います。それで、講壇の向きを180度変える、このようなレイアウトを考えてみました。
 試しに変えてみて、新たなこともわかりました。この説教台から道路が見えるということです。すると、説教者から人が通るのが見えますから、外に向かって伝道しているという意識が生まれて霊的に燃やされる気がします。説教者が霊的に燃えていれば、会衆の皆さんの心もまた燃やされるという期待があります。また、レイアウトが180度変わりますと、教会の皆さんも新しい刺激を受けて、新会堂の実現に向けての伝道への新たな意欲も与えられるかもしれません。私は新しい会堂の実現には新しい仲間が増えることが、どうしても必要だと思っています。そうでなければ、新会堂を求める闘いは苦しいだけの闘いになってしまうと思います。レイアウトを180度変えることで、主が新しい風を吹かせて下さることを期待したいと思います。しかし、私の一存ではなく、皆さんと決めたいと思いますから、できれば19日の礼拝と26日の礼拝でも、このレイアウトで試してみて、26日の総会で承認を得ることができたらと思っています。

主の宮の建設を許されなかったダビデ
 さて祈祷会では今週からしばらくの間、歴代誌のソロモン王が主の宮を建設した箇所を開くことにします。それは言うまでもなく、私たちも主の宮を新しく建てたいと願っていることと関係しています。ソロモンが主の宮を建てた箇所を共に学んで、私たちの心もまた新会堂の実現に向けて整えられて行きたいと願っています。歴代誌第一28章を見て下さい。1節、

28:1 さて、ダビデはイスラエルのすべてのつかさ、すなわち、各部族のつかさ、王に仕える各組のつかさ、千人隊の長、百人隊の長、王とその子らが所有している財産、家畜全体の係長たち、宦官たち、勇士たち、つまり、すべての勇士をエルサレムに召集した。

 ここにはダビデ王が登場しますが、この時、ダビデは既に王の座からは退いて、息子のソロモンが王になっていました。2節と3節、

28:2 ダビデ王は立ち上がって、こう言った。「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は【主】の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を建てる志を持っていた。私は建築の用意をした。
28:3 しかし、神は私に仰せられた。『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』

 主がダビデに主の宮の建設を許可しなかった理由は、ダビデが戦士であって血を流して来たからであると主はおっしゃっています。この、「あなたは戦士であって、血を流して来た」という所だけを見ると、ダビデが何か悪いことをしてように受け取る方もおられるかもしれませんが、そんなことはありません。サムエル記の同様の箇所は別の表現がしてあて、サムエル記では主は預言者ナタンを通してダビデに次のように言っています。

「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。」(Ⅱサムエル7:8,9)

 つまり、敵を滅ぼしたのはダビデではなく、主が行なったことであると主はおっしゃっています。実際に戦って血を流したのはダビデですが、これはダビデの戦いではなくて、主の戦いでした。だから、ダビデは別に悪いことをしたわけではありません。今回、私はこの箇所について思いを巡らしていて、モーセと似ているなと思いました。モーセはヨルダン川を渡ってカナンの地に入ることを主から許されませんでした。このカナンの地に入ることが許されなかったモーセと主の宮を建てることを許されなかったダビデとは、とても良く似ている気がします。

ダビデとモーセの類似点
 モーセがカナンの地に入ることを許されなかったのは、モーセがメリバの水を、主の御業ではなくて、まるで自分が水を出したかのように振舞ったからであることが表向きの理由になっています。しかし、モーセがヨルダンを渡ることを許されなかった理由は、もっと別のところにあると私は思っています。エジプトから脱出した当時のイスラエルの民の成人男子でカナンの地に入ることができたのはヨシュアとカレブだけでした。ヨシュアとカレブ以外は皆、荒野で一生を終えました。主は、モーセがそれらの者たちを後ろに置いてヨルダンを渡るのではなく、それらの荒野で死んで行った者たちと同じ側にいなさいと主はおっしゃったのだと思います。
 同様に、主がダビデに主の宮を建てることを許さなかったのは、戦地で血を流して死んで行った者たちと同じ側にいなさいと主はダビデにおっしゃったのではないかと私には思えます。モーセの時代に荒野で倒れた者たちも、ヨシュアやダビデの時代に聖絶された民族も皆、主が手を下して命を落とした者たちでした。これは私の個人的な考えですが、私はこのようにして命を落とした旧約の時代の民のうちの多くは、神の国に入ることが許されるであろうと思っています。私たちが住んでいるこの世は仮の住まいであって、私たちの究極の住まいは神の国です。旧約聖書と新約聖書は一つの書ですから、私は旧約の時代に主によってうなじをこわくされて主に反逆して死んで行った者たちの多くは、新約の時代の反面教師になるように役目を負わされて、そのようにうなじのこわい者にされたのではないかと思っています。そのような役目を負わされた者たちの地上生涯は短いものでしたが、主によってちゃんと神の国に入れられるのだと思います。

イエスを信じなければ滅びる新約の時代の私たち
 私たち新約の時代の者は、旧約の時代のうなじのこわい者たちがいたから、そのおかげで、主に逆らうことがいかに大きな罪であるかを知ることができています。その意味で、新約の時代の私たちは主に逆らえば、必ず滅びにつながるのだろうと思います。旧約の時代にはイエス・キリストが目に見える形でいませんでしたし、預言者たち以外には聖霊も与えられていませんでしたから、神のことが良くわかりませんでした。そのような者たちが神のことが良くわからなかったのは仕方がないことでした。ですから、私はその者たちのうちの多くは神の国に入れるのだろうと思っています。
 しかし、新約の時代の私たちは違います。イエス・キリストが、神とはどのようなお方であるかを、ご自身が示して下さいましたから、そのイエス・キリストを信じない者たちは、ほぼ確実に永遠の滅びに入れられるということになるのだろうと思います。私たちは、人々がそのように永遠の滅びに入れられることがないよう、伝道の働きをしっかりとしなければなりません。そのためには、新しい会堂が必要です。
 歴代誌に戻りましょう。4節と5節を飛ばして28章の6節、

28:6 そして、私にこう仰せられた。『あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を建てる。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。

 こうして、ソロモンが主の宮を建設することになりました。7節と8節、

28:7 もし彼が今日のようにわたしの命令と定めを行おうと堅く決心しているなら、わたしは彼の王位をとこしえまでも確立しよう。』
28:8 今、【主】の集会、全イスラエルの前で、私たちの神が聞いてくださるこの所で、あなたがたは、あなたがたの神、【主】の命令をことごとく守り、求めなさい。それは、あなたがたがこの良い地を所有し、あなたがたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるためである。

おわりに
 私たちも主の教えを守り、求めるなら、この地域において、主が私たちの教会を豊かに祝福して下さるでしょう。
 今年、私たちは、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」というみことばをいただいています。人々が永遠の滅びに入ることなく、永遠のいのちを持つことができるために、私たちの働きが豊かに用いられますよう、お祈りいたしましょう。
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赦されているという永遠観(2014.1.12 礼拝)

2014-01-13 04:25:39 | 礼拝メッセージ
2014年1月12日礼拝メッセージ
『赦されているという永遠観』
【マタイ18:21~35】

はじめに
 元旦礼拝、新年礼拝を越えて、きょうは第2聖日礼拝です。私たちは、今月の第4聖日に教会総会を控えていますから、教会に向けて心を整えて行きたいと思います。
 昨年から今年に掛けて私は、「ヨハネの永遠観」が、平和の実現への切り札であることを繰り返し語って来ました。ヨハネの福音書では、イエス・キリストは【過去・現在・未来】が一体の時間の中を生きています。これは、すなわちイエス・キリストは永遠の時間の中を生きていることになります。この永遠の中を生きるイエスさまに私たちが寄り添うなら、私たちもまた永遠の中を生きることができます。
 私たちが永遠の中を生きる時、私たちは誰もが加害者でもあり、被害者でもあります。この、私たちは誰でも加害者でもあり被害者でもあるという意識を皆で共有できるなら、私たちは互いに赦し合い、愛し合うことができて、平和を実現することができるでしょう。しかし、従来型の【過去→現在→未来】という一方通行の時間の流れの中に留まるなら、私たちは、ある瞬間においては一方的に被害者であったり、一方的に加害者であったりする時がありますから、そこから様々なドロドロした感情が湧き上がって私たちの心には平安がありませんし、世界の平和もありません。
 このようなことを、年末から新年に掛けて話して来ましたが、これらは人と人との関係や、国と国との関係のことでした。人と人との関係では、私たちは互いに赦し合わなければなりませんが、神と人との関係においては、私たちは既に神様から一方的に赦されています。きょうのマタイの福音書の箇所では、そのことが語られています。このマタイ18章でイエス・キリストがペテロに七度を七十倍するまで赦しなさいと教えた箇所は、ご存知の方も多いと思いますが、きょうは「永遠」の観点から、この箇所を見てみることにしたいと思います。ヨハネの永遠観が段々とわかって来ると、ヨハネの福音書ではない、マタイ・マルコ・ルカの福音書からも「永遠」が見えるようになって来ます。

兄弟を無限に赦すべき私たち
 では、マタイの福音書18章の21節から見て行きましょう。21節、

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 このペテロのイエスさまへの質問は唐突に発せられました。ペテロは何故イエスさまに、このようなことを聞いたのでしょうか。私はこんな風に考えます。
 この18章までにペテロたちはイエスさまから、随分と色々なことを教わりました。それで、ペテロは、だいぶイエスさまの教えがわかって来た気になっていたのだと思います。それで、自分がイエスさまの教えが良くわかるようになったことを示して、認めてもらいたいと思ったのではないか、そんな気がします。或いは、ペテロはイエスさまに褒めてもらいたかったのかもしれません。ペテロは16章ではイエスさまに、「下がれ、サタン」とまで言われてしまっています。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)などと、相当にきついことを言われてしまいましたから、挽回したいという気持ちもあったのかもしれませんね。
 何度まで赦すべきか、「仏の顔も三度まで」という諺があるぐらいですから、私たちだったら、せいぜい三度までではないでしょうか。三度赦すだけでも十分に寛大だと思います。ペテロにしても、三度ぐらいに思っていたのではないでしょうか。それを七度と言えば、イエスさまの教えが良くわかっていると認めてもらえて褒めてもらえるという思いがあったのではないかな、と私にはそんな風に思えます。しかし、ペテロの予想に反して、イエスさまはこう答えました。22節です。

18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 私たちにしても、恐らくペテロにしても、三度赦すなら十分に寛大であり、その二倍以上の七度であれば、素晴らしく寛大であると思いますが、イエスさまは、さらにその七十倍と言いました。七度を七十倍とは、つまり無限に赦しなさいということですね。

王に借金のあるしもべの例え
 なぜ私たちは無限に赦さなければならないのでしょうか、イエス・キリストは次のような例え話を始めました。23節と24節、

18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。

 一万タラントというのは、どれくらいの金額でしょうか。下の注に、1タラントは6000デナリに相当するとあります。また、1デナリは、28節の注に、当時の1日分の労賃分に相当すると書いてあります。今ですと1日分の労賃は、どれくらいでしょうか。1万円ですと少し多いかもしれませんが、計算しやすいように1デナリを1万円としましょう。すると、1タラントは6000万円ということになります。ですから、一万タラントは6000億円ということになります。このしもべは王様に6000億円の借金をしていました。続いて25節と26節、

18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。

 このしもべは6000億円の返済を猶予して欲しいと王様に頼みました。6000億円という金額は、いったい、どれくらいの金額でしょうか。いま、日本の国の予算は100兆円ぐらいありますから、6000億円は、そんなに多くないという気がしないでもありません。しかし、それは日本の話です。世界の中では、もっと少ない国もたくさんあります。インターネットで調べてみたら、ローマにあるバチカン市国の国家予算はだいたい300億円ぐらいのようです。ツバルという南太平洋にある島国の国家予算は20億円ぐらいのようです。ですから、1万タラントのしもべは、ツバルの国家予算の300倍、バチカン市国の国家予算の20倍もの借金を王様にしていました。

重大な罪を赦された私たち
 27節、

18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

 なんと、このしもべの主人の王様は、6000億円もの借金を免除してやりました。さて、しかし、このしもべは、仲間が彼から借りた百デナリの借金を免除してあげませんでした。28節から30節まで。

18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

 百デナリというのは、1万タラント、つまり6000万デナリのわずか60万分の1です。自分は王様に百デナリの60万倍の借金を免除してもらったのに、このしもべは自分が免除してもらった金額の60万分の1しか借りていない仲間の借金を免除しませんでした。31節から33節まで、

18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』

 そして、イエスはペテロたちに言いました。34節と35節、

18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 35節でイエス・キリストが言っていることは、この例え話の王様としもべの関係は、天の父と私たちとの関係と同じであるということです。
 罪人である私たちは、かつて天の父に背くという重大な罪を犯していました。しかし、イエス・キリストの十字架によって、その重大な罪は全部赦されました。いったい私たちがどれくらい神に反逆し続けたかは、旧約聖書を読めばよくわかります。旧約聖書で神に逆らっていた人々とは、全部私たちのことです。その重大な反逆行為を天の父はイエス・キリストの十字架によって、全て赦して下さいました。それほど多額の借金を私たちは免除してもらっているのですから、私たちも兄弟の借金を免除しなければなりません。つまり、七度を七十倍するまで、無限に、兄弟を赦さなければなりません。

永遠を感じている私たち
 イエス・キリストの十字架を信じる前の未信者が良く持つ疑問に、2000年前の十字架の事が、どうして2000年後の自分と関係があるのか、というのがありますね。理屈で言えば、確かにその通りです。しかし、その理屈を越えてイエス・キリストの十字架を信じるなら、聖霊が働くのでしょうね、イエス・キリストの十字架は確かに自分の罪を赦すためであったと感じるようになります。とても不思議なことですが、これが聖霊の働きというものでしょう。2000年前のことも現在のことのように感じます。つまり、イエス・キリストを信じる者は、十字架を信じた時点で永遠の中に入れられます。そして霊的に永遠を感じることができるようになります。しかし、理性面では、相変わらず【過去→現在→未来】という時間の流れに支配されてしまっています。それゆえ、未信者に2000年前の十字架が何故現代の私たちと関係があるのかを上手く説明できないでいましたし、「ヨハネの永遠観」にも気付くことができなかったのだと思います。
 「ヨハネの永遠観」を、多くの人が理解するようになるなら、永遠とは何かを私たちは多くの人々と共有することができるようになり、そのことでイエス・キリストが2000年前に十字架に掛かったことが自分たちと関係があることを、もっと説明しやすくなって行くことでしょう。そうすれば、イエス・キリストを信じる人も増え、平和の実現へ向かって歩んで行くこともできるでしょう。それゆえ、私たちは「ヨハネの永遠観」を、しっかりと発信していかなければならないと思います。

おわりに
 私たちイエス・キリストを信じる者が何故2000年前の十字架の出来事を身近な出来事として感じることができるのか、それは永遠の中を生きるイエスさまを信じ、イエスさまに寄り添って共に生きているからです。
 このことの恵みを、多くの方々にお伝えすることができる私たちでありたいと思います。そして、平和の器として用いられる者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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起きよ、光を放て(2014.1.5 新年礼拝)

2014-01-05 13:56:28 | 礼拝メッセージ
2014年1月5日新年礼拝メッセージ
『起きよ、光を放て』
【イザヤ60:1~5】

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
60:4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。
60:5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。

はじめに
 きょうは今年最初の聖日礼拝です。
 元日の元旦礼拝では、今年の私たちの教会の聖句はヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」であることを説明しました。
 そして、きょうは、私たちの教会が、その永遠のいのちに至る食物のための働きによって、光を放つことができることを願って、イザヤ書60章1節のみことばから、『起きよ、光を放て』という説教題にしました。
 光を放つとは、私たちの教会が中心となって、「ヨハネの永遠観」を世界に広めて行くということです。そのための一つの手段として、試しに週報の1ページ目のインマヌエル沼津キリスト教会の前に、『「ヨハネの永遠観」の発信教会』というキャッチフレーズのようなものを、付けてみました。こうやって、あらゆる機会を使って、私たちの教会が「ヨハネの永遠観」を発信しているのだということをアピールして行くことは、いろいろな点でプラスに働くのではないかと思っています。
 私たちの教会が発信することが、「ヨハネの永遠の時間観」ではなくて「ヨハネの永遠観」にしてみたのは、「時間観」の「ジカンカン」という音の響きが今ひとつだからです。「ジカン」という言葉にもう一つ「カン」という接尾辞が付くと、どうも音の響きが今ひとつな気がしますから、短くして「ヨハネの永遠観」にしてみました。

「ヨハネの永遠観」という光を放つ教会でありたい
 私たちは、この「ヨハネの永遠観」を世界に向けて発信するという光を放つ教会でありたいと思います。そのイメージを膨らませるために、きょうの聖書箇所のイザヤ書60章を見てみましょう。

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。

 まず、私たちは目を覚まさなければなりません。そして、光を放たなければなりません。私たちの教会は、もちろん寝ていたわけではありません。やれることは一生懸命やっていたと思います。しかし、光を放っていたとは言えないと思います。そういう意味では、まだ完全には目を覚ましていないのだと思います。私たちは、完全に目を覚まして、光を放たなければなりません。「ヨハネの永遠観」を世界に発信する働きを通じて、光を放たなければならないと思います。なぜなら、既に私たちにの上には主の栄光が輝いているからです。主は私たちを用いようとして私たちの上で栄光を輝かせています。ですから、私たちは、起きて光を放たなければなりません。

「ヨハネの永遠観」は平和実現の切り札
 主が私たちを用いようとしている時、私たちはそれを受け入れて、主のために働かなければなりません。もちろん、主が私たちに大きな働きを為させようとする時、私たちはひるみ、しり込みします。モーセもそうでしたし、ギデオンもそうでしたし、エレミヤもそうでした。しかし、主が共にいて下さるのですから、恐れずに主の期待に応えなければなりません。主が私たちに期待していることは、私たちには荷が重すぎると初めは思うかもしれません。しかし、主は私たちと共にいて下さり、私たちの上で栄光を輝かせていて下さいますから、恐れることはありません。私たちの周囲はまだまだ闇におおわれていますから、闇に向けて光を放たなければなりません。2節、

60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

 これまでの説教でも再三に亘って語っているように、私たちの世界には未だ平和がありません。延々と戦争を繰り返していて、平和を実現できないでいます。それは、私たちがまだ互いに赦し合い、互いに愛し合うことができていないからです。ですから、私たちの世界はまだ暗闇に覆われています。しかし、私たちの教会の上には主が輝いています。私たちに、「ヨハネの永遠観」という平和を実現するための切り札を与えて下さっています。「切り札」というのは、強い手でなければなりませんが、この「ヨハネの永遠観」は事実として非常に強力な手です。なぜなら、世界はこの「ヨハネの永遠観」に未だに気付いていないからです。だからこそ、強力な切り札であると言えます。そして3節、

60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

 「ヨハネの永遠観」が世界に広まるなら、世界の人々は互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになって平和が実現します。そして世界の人々は光のうちに歩み、輝きに照らされて歩むことができるようになります。

大きな仕事をした小さなマリヤ
 私たちはこのように、とても大きなことに用いられようとしています。しかし、このことにひるんではなりません。主は、私たちが格別に何かに優れているから、用いようとしているのではありません。主が必ずしも何かに秀でた者を用いるわけではないことは聖書の至る所に書いてありますから、皆さんもよくご存知のことと思います。ですから、小さな教会の私たちがそんなに大きな仕事を任されるはずがない、などと考えてはならないと思います。
 先ほど、主が与えた自分の役割の大きさにひるんだ者としてモーセ、ギデオン、エレミヤの例を挙げましたが、主が大きな仕事を任せた小さな者たちには、女性たちもいます。遊女のラハブはヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、かくまうという大きな仕事をしました(ヨシュア2章)。またマタイの福音書の系図によれば、ラハブはボアズを生みました(マタイ1:5)。これも大きな仕事です。そして、ボアズと結婚したモアブの女のルツも、小さな者が大きな働きをした好例ですね。ルツはイスラエルの女性ではありませんでしたが、義母のナオミに付いてベツレヘムに行き、ボアズと結婚してオベデを生み、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれました。そして何と言ってもイエスの母のマリヤは、小さな者で最も大きな働きをした女性であると言えるでしょう。
 以前にも、クリスマスではない時期にマリヤについて学んだことがあったと思いますが、きょうもまた、クリスマスは過ぎていますが、マリヤについて学んでみたいと思います。クリスマスの時期ですと、どうしてもイエス・キリストの誕生の方に注意が向いてしまいますから、きょうのように、小さな者が大きな仕事を任された事例を学びたい時には、むしろクリスマスの時期ではないほうが良いのだと思います。ルカの福音書の1章の46節から55節までのマリヤの賛歌を交代で読みましょう。このマリヤの賛歌は、彼女が天使ガブリエルから受胎告知を受けた後、エリサベツの所に行った時にマリヤが歌ったものです。46節から55節までを交代で読みます。

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

 このマリヤの賛歌を、私たちの沼津教会に当てはめて読んでみたいと思います。
私たちは神を頭で理解しているのでなく、たましいで神を霊的に感じて、あがめているのですね。それゆえ46節と47節のように、私たちのたましいは主をあがめ、私たちの霊は、私たちの救い主である神を喜びたたえます。
 主は、私たちの沼津教会という小さな教会を大きな働きのために用いようとして下さっています。それゆえ、48節のように、主はこの卑しいはしために目を留めてくださいました。
 そして49節と50節のように力ある方が、私たちに大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
 「ヨハネの永遠観」は、皆さんと私とで練り上げられたものです。主は先ずは私に語り掛けて下さいましたが、それを私は祈祷会と礼拝の説教の場で話すことで練り上げて来ました。「ヨハネの永遠観」をわかりやすいものにして行く作業は、私一人の頭の中では、とうてい出来ないことでした。説教の場が与えられたことで初めて出来たことです。それを皆さんが忍耐強く聞いて下さり、そして私は皆さんの反応を見て、修正を加えながら練り上げて来ました。それらは既にブログに載せてありますが、そんなに積極的に発信して来たわけではありません。しかし、今年はもっともっと発信する働きを強化したいと思います。
 この「ヨハネの永遠観」は、平和を実現するための強力な切り札です。強力ですから、51節と52節のように主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。この「心の思いの高ぶっている者」で先ず私が思い浮かべるのは、聖書は神のことばであることを信じないで聖書を批評して来た人々です。これらの不信仰な批評が世界の人々の信仰に与えたダメージは、はかり知れないぐらい大きなものがあると思います。これらの批評は「ヨハネの永遠観」に気付かずに為されたものですから、まず真っ先に追い散らされなければなりません。そして「ヨハネの永遠観」によって平和が実現して戦争が無くなるなら、戦争を目論む権力者は王位から引き降ろされるでしょう。そして、戦争によって苦しむのは、いつでも弱い立場の人々ですから、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせます。

大きな役割を担うなら自ずと与えられる新会堂
 この高い者を低くし、低い者を高くすることは、きょうの礼拝の始めの聖書交読で読んだイザヤ40章とも通じますね。
 イザヤ書40章の3節から5節までを交代で読みましょう。

40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
40:5 このようにして、【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたからだ。」

 イエスの母のマリヤのように小さい者である私たちの教会は、このように主の道を整えるという大きな役割が与えられています。この大きな役割にひるむことなく取り組むなら、新しい会堂は自ずと私たちに与えられることでしょう。
 きょうの聖書箇所のイザヤ書60章の4節と5節は、私たちに新しい会堂が与えられて献堂式を行う時のことを想像して読んだら良いのではないかと思います。イザヤ60章の4節と5節を交代で読みましょう。

60:4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。
60:5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。

 主から与えられた大きな役割をひるむことなく担うなら、やがて私たちは、このような喜びの時を迎えることができるのではないでしょうか。

大きな役割を担う覚悟ができなかったサウル王
 さて、きょうは、まだ少し時間が残っています。礼拝の説教の原稿を準備する時、私はだいたいA4で6枚ちょっとを目安にしています。A4一枚でだいたい5分ぐらいですから、6枚ちょっとで、30分から35分ぐらいの説教になります。だいたい、いつも、それぐらいの長さを目安にして、説教を準備しています。
 きょうの説教では、ここまでで私の頭の中にあったことは、だいたい語ってしまったのですが、まだA4でちょうど4枚が終わったところです。ここで終わっても良いのですが、神様は、もう少し語りなさいとおっしゃっておられるようです。
 そこで、先ほど小さい者が大きな役割を与えられた者の例としてマリヤを挙げてマリヤの賛歌をご一緒に読みましたが、もう一人の例を学ぶことにしたいと思います。もう一人の例として私が示されたのは、大きな役割を十分に担うことができなかったサウル王です。ですから、マリヤとは逆の例です。新年に取り上げる人物としては、あまりおめでたくない人物ですが、主が大きな役割を与えて下さっているのに、十分な覚悟を持ってそれを受け入れることができなかった者もいたのだということも、聖書を通じて見ておきたいと思います。

 サムエル記第一10章の1節を見て下さい。ここで、サムエルはサウルに油を注ぎました。1節、

10:1 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「【主】が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。

 そして、サムエルはサウルに、6節と7節のように言いました。6節と7節、

10:6 【主】の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。
10:7 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

 そして、実際に主の霊がサウルに下りました。9節と10節、

10:9 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。
10:10 彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。

 さきほど7節で、サムエルはサウルに「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」と言いました。しかし、サウルは神の霊が激しく下って預言をした後、結局は何もしませんでした。15節と16節を見て下さい。

10:15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」
10:16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。

 サウルに王の役割を担う覚悟ができていれば、彼は、王位のことについて、おじに話したはずです。しかし、サウルは王の役割を担う覚悟ができていませんでした。それだけでなく、サウルがイスラエルの全部族の中からくじで取り分けられた時、何と彼は皆の前に出ないで隠れていました。20節から22節までをお読みします。

10:20 こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。
10:21 それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。
10:22 それで人々がまた、【主】に、「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。【主】は、「見よ。彼は荷物の間に隠れている」と言われた。

 主は何でもお見通しですから、サウルが荷物の間に隠れていることもわかっていました。それで、人々は走って行って、そこからサウルを連れて来ました。
 これがサウルでした。主から大きな役割を与えられれば、誰でも最初はひるみ、戸惑います。モーセも、ギデオンも、エレミヤも、マリヤもそうでした。しかし、戸惑いながらも彼らは覚悟を決めて受け入れ、やがて大きな働きをしました。サウルも後には王となることを受け入れましたが、結局、大きな働きはできませんでした。それは、主の霊が下っても、なお荷物の間に隠れるほど、自分に自信が持てずにいて、覚悟を決めることができなかったからです。それは、15章17節のサムエルの言葉に凝縮されています。これは、サムエルがサウルに言ったことばです。15章17節、

15:17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。【主】があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

 小さな教会の私たちもまた、自分では小さい者にすぎないと思っています。しかし、主は私たちに、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とおっしゃり、「ヨハネの永遠観」を発信するという大きな役割を与えて下さっています。これは私たちが共同作業で進めて行かなければなりません。私たちは小さい者ですが、覚悟を決めて主から与えられた役割を担って行ける者たちでありたいと思います。

おわりに
 最後にもう一度、イザヤ書60章に戻りましょう。1節から3節までを交代で読みましょう。

60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

 2014年の今年、私たちが主に与えられた役割をひるむことなく覚悟を決めて担い、共に前進して行くことができますよう、お祈りいたしましょう。
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永遠に至る食物のために働く(2014.1.1 元旦礼拝)

2014-01-02 16:23:26 | 礼拝メッセージ
2014年1月1日元旦礼拝メッセージ
『永遠のいのちに至る食物のために働く』
【ヨハネ6:22~27】

「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)

はじめに
 2014年の沼津教会のみことばは、ヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」です。
 「永遠のいのち」については、後ほどじっくりと話すことにして、まずは「食物」について見ることにします。

イエスの「食物」
 ヨハネの福音書では、この「食物」ということばを、6章の他に4章でも使っています。まず、4章8節にありますが、4章7節から、お読みします。

4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた

 ここには、イエスがサマリヤの女と話している間、弟子たちは食物を買いに町へ出掛けていたことが書かれています。そして、27節に「弟子たちが帰って来て」とありますから、弟子たちは食物を買って27節で戻って来ました。そして31節で弟子たちはイエスに「先生。召し上がってください」と言いました。するとイエスは32節で答えて言いました。

「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」

そして、34節、

「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

とイエス・キリストは言いました。「わたしを遣わした方」というのは、天の父のことですから、父のみこころを行い、みわざを成し遂げることが御子イエス・キリストの食物です。その食物のために働きなさいと、イエスは言いました。6章27節で「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とイエスは言いました。
 この永遠のいのちを私たちが持つことは、父のみこころなのですね。有名なヨハネ3:16でヨハネが書いている通りです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 このように、私たちが永遠のいのちを持つことは天の父のみこころです。イエス・キリストはそのみこころを行うために働いておられ、私たちもまたその働きに加わるように説いておられます。ですから私たちが、永遠のいのちに至る食物のために働くことができる者となれるよう、今年のみことばを、このヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とすることにします。

なぜ永遠のいのちに至る食物のために働く必要があるか
 私たちは、なぜ永遠のいのちに至る食物のために働かなければならないのでしょうか。それは、私たちが永遠について深く理解するようになることで互いに愛し合うことができるようになり、そして世界の平和を実現するためです。最後の晩餐の席でイエスは弟子たちに、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めを与えました。しかし、私たちは未だに互いに愛し合うことができていません。それは私たちが「永遠とは何か」が、まだ十分に理解できていないからでしょう。そして、互いに愛し合うことができていないので、私たちには、まだ平和がありません。
 ヨハネの福音書の20章で、イエスは3回も、「平安があなたがたにあるように」と弟子たちに言いました。ご一緒に見てみましょう。ヨハネの20章です。まず19節で、イエスは弟子たちに「平安があなたがたにあるように」と言いました。この「平安」に当たるギリシャ語は「エイレーネー」で、英語訳では「peace」と訳され、日本語訳でも新共同訳では「平和」と訳しています。イエスは私たちに平和があるように、と言っています。
 そしてイエスは19節に次いで21節でも「平安があなたがたにあるように。」と言い、26節でもまた、「平安があなたがたにあるように。」と言いました。
 21節では、イエスは「平安があなたがたにあるように」に次いで、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言いました。これは牧師のような伝道者だけでなく、一般の信徒の皆さんにも向けられたことばであると、受けとめていただけたらと思います。牧師だけでできることには限界がありますから、皆さんも一般信徒の立場で世に遣わされて、平和の実現のために共に働いていただけたらと思います。その平和の実現のためには、世の人々が互いに愛し合うようになることが必要であり、そのためには、まず「永遠とは何か」を深く理解できるようになることが必要です。

どうしたら「永遠」を深く理解できるか
 では、「永遠とは何か」を深く理解できるようになるには、どうしたら良いでしょうか。それは、永遠の中を生きるイエス・キリストに寄り添うことであると言えるでしょう。永遠の中を生きるイエスに寄り添うことで、私たちはイエスの「永遠」を感じることができます。そのイエスの「永遠」を感じることができるようになることが、「永遠のいのち」を持つことであると言えるだろうと私は考えます。「永遠のいのち」を持つとは、天に召された後も生き続けるというよりは、今の時点で、イエスに寄り添うことであると言いたいと思います。永遠の中を生きるイエスに今の時点で寄り添うことができているのなら、天に召された後のことは、全く心配ありません。
 天に召された後のことばかりを考えるのは、従来型の【過去→現在→未来】という一方通行の流れの時間観に支配された者の考え方であると私は思います。この従来型の時間観は悪魔の時間観であると、先日の年末感謝礼拝で私は言いました。この悪魔の時間観に支配されているから、私たちに平和がなく、この先も、悪魔の時間観に支配され続ける限り、私たちに平和は決して訪れないでしょう。ですから私たちは、「永遠のいのち」についても、天に召された後のことを考えるのでなく、今の時点でイエスに寄り添うことをしっかりと考えるべきだと思います。今の時点でイエスに寄り添うことができていれば、天に召された後のことは、全く心配する必要はありません。クリスチャンはこのことを既に霊的には感じることができていると思いますが、理性が従来型の時間観に支配されていますから、混乱があるのだと思います。それゆえ、私たちの世はまだまだ悪魔に支配されていると言えます。年末感謝礼拝で語ったように、今こそ、この世を支配している悪魔を追い出さなければなりません。

「旧約の時代」の中をも同時に生きるイエス
 では、永遠の中を生きるイエスは、どのように永遠の中にいるのか、きょうはヨハネの6章で、見ることにしたいと思います。既に話したことも含まれますが、何度も味わうことで、イエスが永遠の中にいることを、一層豊かに感じることができるようになるのではないかと思います。
 ヨハネ6章には、まず「五千人の給食」の記事があります。6章の9節から11節までを、交代で読みましょう。11節はご一緒に読みましょう。

6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

 ここで、永遠の中を生きるイエスは、「旧約の時代」の北王国の預言者のエリシャと共にいました。ヨハネ4章でサマリヤの女と話をしていたイエスは、エリヤと共にいましたが、6章では時代が少し進んで、イエスはエリヤの後継者のエリシャと共にいました。それは、このヨハネ6章9節に「大麦のパン」と書いてあることでわかります。「旧約の時代」に預言者エリシャは、大麦のパン二十個を百人の人々に分け与えて、なおあり余ったという記事が列王記にありますから(列王記第二4:42-44)、ヨハネ6章で「五千人の給食」の奇跡を行ったイエスは、「イエスの時代」にいると同時に、「旧約の時代」のエリシャの時代にもいました。
 「旧約の時代」の預言者たちには聖霊が注がれていて、聖霊が預言者を通して天の父のことばを人々に語っていました。イエスは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言っていますから、聖霊が預言者を通して語った父のことばは、イエスのことばでもありました。従って、イエスは「旧約の時代」の預言者たちと共にいました。
 ヨハネ6章の「旧約の時代」の北王国は、やがてアッシリヤによって滅ぼされ、北王国の民の多くはアッシリヤに捕囚として連行されて行きます。その箇所を、ご一緒に、交代で読んでみましょう。列王記第二の18章9節~12節です(旧約聖書p.667)。

18:9 ヒゼキヤ王の第四年、すなわち、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリヤの王シャルマヌエセルがサマリヤに攻め上って、包囲し、
18:10 三年の後、これを攻め取った。つまり、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリヤは攻め取られた。
18:11 アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。
18:12 これは、彼らが彼らの神、【主】の御声に聞き従わず、その契約を破り、【主】のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。

 10節に、「サマリヤは攻め取られた」とありますから、北王国のサマリヤは滅亡しました。そして11節に、アッシリヤの王がイスラエルの人をアッシリヤに捕らえ移したとありますから、人々は捕囚として連行されてイスラエルの国から離れて行きました。そして、なぜ、そのようになってしまったのかが、12節に書かれています。

18:12 これは、彼らが彼らの神、【主】の御声に聞き従わず、その契約を破り、【主】のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである。

 この、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、というのは彼らがイエスのことばに聞き従わなかったのと同じことです。この状況をヨハネ6章では、終わりのほうで、イエスの弟子たちのうちの多くの者がイエスの言うことに聞き従わずに、イエスのもとを去って行ったという形で記しています。ヨハネ6章に戻ります。まず、人々がイエスの言うことに聞き従わなかったことは、ヨハネ6章の60節に書かれています。

6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

 このように、弟子たちの多くはイエスの言うことに聞き従いませんでした。そうしてイエスのもとを去って行きました。それは66節にあります。

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 この66節が、「旧約の時代」の北王国のイスラエルの人々がアッシリヤに連行されたことを指します。アッシリヤに連行された人々は、イスラエルの神から完全に離れてしまいましたから、本当にイエスとともに歩くことができなくなってしまいました。これは、後に南王国のユダが滅ぼされて、人々がバビロンに連行されて行った時とは、だいぶ状況が違います。バビロンに連行されたユダの人々の所にはエゼキエルやダニエルらの預言者も共に引かれて行きましたから、バビロン捕囚後もイエスはユダの人々と共にいました。そうして70年後にエルサレムへの帰還が許されてエルサレムを再建することができました。しかし、北王国の10の部族に関しては、イスラエルの歴史から永久に消えてしまい、「失われた十部族」と言われるようになってしまいました。北王国のサマリヤの滅亡は神のことばに聞き従わなかった人々の不信仰が招いたことですから、ヨハネ6:66の「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」は、そのように不信仰であった人々がアッシリヤに連行されてイスラエルの神から永久に離れてしまったことが、このような形で記されています。
 以上のようにヨハネ6章の背後にある「旧約の時代」には、北王国のエリシャの時代から北王国が滅亡するまでが描かれています。永遠の中を生きるイエスは、「イエスの時代」を生きると同時に、「旧約の時代」をも生きています。

「使徒の時代」をも同時に生きるイエス
 次に、「使徒の時代」について、話すことにします。イエスは「旧約の時代」に加えて、さらに「使徒の時代」をも同時に生きています。ただし、「使徒の時代」については、「旧約の時代」ほど単純ではありません。「旧約の時代」は、ヨハネ1章が創世記の時代で、今見たようにヨハネ6章が北王国の滅亡で、ヨハネ10章が南王国の滅亡、そしてヨハネ11章のラザロのよみがえりがエルサレムの再建というように、アブラハムの時代からエズラ・ネヘミヤの時代まで、イスラエルの歴史順に一つの流れになっています。しかし、「使徒の時代」の場合は、「ペテロ編」と「パウロ編」の二部構成になっています。使徒の働きも、前半はペテロの働きが書かれており、後半はパウロの働きが書かれていますね。たぶん、その使徒の働きに合わせてあると思うのですが、ヨハネの福音書の背後の「使徒の時代」は、「ペテロ編」と「パウロ編」の二部構成になっています。
 ペテロとパウロの最大の違いは、ペテロはイエスの地上生涯を知っていて、パウロはイエスの地上生涯を知らないという点です。ペテロがイエスに付き従っていた時、パウロはイエスのことを知りませんでした。噂は聞いていたかもしれませんが、行動を共にしていたわけではありませんから、パウロはイエスの地上生涯を知りませんでした。ヨハネの福音書の中で、パウロはヨハネ9章の盲人として登場します。ヨハネ9章6節を見て下さい。6節と7節をお読みします。

9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 盲人の目に塗られた泥は、乾くとパサパサになり、ウロコのようになります。見えなくなったパウロの目が見えるようになった時、目からウロコのような物が落ちたと使徒の働きに書いてありますから(使徒9:18)、このヨハネ9章の盲人とはパウロのことです。こうしてパウロはイエスのことが見えるようになりましたが、目が見えるようになる以前のパウロにとって、イエスはまだ知らない存在でした。パウロはイエスの行った奇跡を直接には知りませんでしたし、イエスの十字架やイエスの遺体が墓から消えたこと、イエスが復活したことやペンテコステの日の出来事のことも、噂では聞いていたかもしれませんが、それらは皆、パウロが復活したイエスと出会う前の出来事ですから、直接見たものではありませんでした。
 ヨハネの福音書の背後にある「使徒の時代」のパウロ編には、これらのパウロが復活したイエスと出会う前のイエスのことが書かれています。ヨハネ6章の「五千人の給食」は、パウロがイエスと出会う前のイエスが行った奇跡として、書かれています。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書の記事とヨハネの福音書の記事とは、棕櫚の日曜日にイエスがエルサレムに入京して以降のことを除けば、重なる部分は少ないですね。しかし、「五千人の給食」に関しては、共観福音書とヨハネの福音書とは重なります。それは、ヨハネの福音書では「五千人の給食」を、パウロがイエスと出会う前のイエスの地上生涯の出来事として描いているからです。
 こうして、パウロが出会う前のイエスは、「五千人の給食」の奇跡を行い、そして最後の晩餐で弟子たちに、パンはイエスの体であり、ぶどう酒はイエスの血であると教えました。6章51節を見て下さい。51節、

6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

 そして、53節と54節、

6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 そして、この最後の晩餐でイスカリオテのユダがイエスを裏切りました。そのことも、ヨハネ6章の終わりに書いてあります。70節と71節です。

6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
6:71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。

 そうしてイスカリオテのユダの裏切りによって逮捕されたイエスは十字架に掛かって死にます。そのイエスの十字架のことは7章の10節に書かれています。7章10節、

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

 きょうはもう時間がありませんから、詳しい説明はしませんが、ここにはイエスの十字架が隠されています。この十字架をパウロは直接見たわけではありませんから、「内密に」ということばが使われています。次の11節の、

7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。

この、ユダヤ人たちがイエスを捜した記事は、十字架で死んだはずのイエスの遺体が墓から消えたことと重ねられています。そして14節で、イエスは再び現れました。つまり、復活しました。14節、

7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

 そして、イエスが復活した後に、ペンテコステの日の出来事がありました。それが、7章37節から39節に書かれています。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 これが、ヨハネの福音書の背後にある「使徒の時代」のパウロ編の大まかな概要です。 

悪魔を追い出して永遠の中を生きるイエスを感じる
 以上、きょう見て来たように、ヨハネの6章の背後には、「イエスの時代」の出来事だけでなく、「旧約の時代」のエリシャの時代と北王国の滅亡のことが重ねられており、且つ、「使徒の時代」のパウロ編の「五千人の給食」と最後の晩餐、そしてイスカリオテのユダの裏切りのことが書かれています。
 永遠の中を生きるイエスは、これらの複数の時代を同時に生きています。この永遠の中を生きるイエスを信じて、イエスに寄り添うなら、私たちはイエスが生きる永遠を感じることができます。永遠の中を生きるイエスを感じることができるなら、既に永遠のいのちが与えられていますから、私たちは天に召された後のことは、何の心配もすることはないでしょう。
 この永遠を生きるイエスを感じる上で大切なことは、従来型の悪魔の時間観を、頭の中から追い出すことです。悪魔の時間観に支配されていると、イエスが生きる永遠を、なかなか感じることができないでしょう。私たちはイエスが生きる永遠を豊かに感じることができるようになり、そして、永遠のいのちに至る食物のために働くことができる者になりたいと思います。

おわりに
 今年の沼津教会のみことばは、ヨハネ6:27の、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」です。この働きが為されるようになるなら、教会の新会堂の問題は、自ずと解決するであろうと私は考えます。それは、多くの人々が永遠のいのちを持つようになることが、神のみこころですから、そのために働くのであれば、新会堂が与えられないはずはありません。2017年の教会設立50周年の年に新しい会堂を献堂するためには、この2014年は本当に重要な年です。この2014年が、今までとあまり変わらないようであれば、2017年に献堂式を行うことは難しいでしょう。
 きょう、私たちは、永遠のいのちに至る食物のために働くことの第一歩を踏み出し始めます。これからの私たちの2014年の歩みが豊かに祝されますように、お祈りいたしましょう。
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