平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

5:10-16(ヨハネの福音書注解)ユダヤ人たちから迫害されていたクリスチャン

2017-11-30 13:46:00 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:10-16 ユダヤ人たちから迫害されていたクリスチャン

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。(ヨハネ5:10-16)

 使徒の働きにはパウロがユダヤ人たちから迫害を受けた様子が多く記されている。エルサレムの神殿が焼失して以降も、ユダヤ人たちのクリスチャンに対する迫害はなお続いていたであろうから、この箇所は「使徒の時代」の迫害と重ねられていると考えて良いだろう。
 ただしイエスへの迫害があったことはマタイ・マルコ・ルカの福音書にも書かれているので、敢えて「人間イエスの時代」以外の時代と重ねる必要もないのかもしれない。この5章は「旧約の時代」との重なりを見出すことも難しく、ヨハネの福音書の中では解釈が最も困難な章である。
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悩む人々:ペテロ(2017.11.29 祈り会)

2017-11-30 08:18:31 | 祈り会メッセージ
2017年11月29日祈り会メッセージ
『悩む人々:ペテロ』
【ルカの福音書と使徒の働きより】

はじめに
 これから祈り会と礼拝では、しばらくの間、『悩む人々』のシリーズの説教をしたいと願っています。礼拝も次の聖日からはアドベントの礼拝に入りますから、使徒の働きを離れてイエスを巡る人々の悩みについて、ご一緒に考えてみたいと思います。祈祷会のほうではイエスを巡る人々に限らず、旧約聖書の登場人物たちの悩みにも触れたいと願っています。

悩む人々と聖霊
 この『悩む人々』という説教シリーズの題名は言うまでもなく、藤本満先生の説教シリーズの『祈る人びと』を模したものです。この『祈る人びと』のシリーズでは、旧約聖書の登場人物たちが取り上げられて、彼/彼女らの苦悩が語られ、彼/彼女らがその苦悩からの解放を願っていかにして神に祈ったかが語られました。最近、私もこのような聖書中の人物たちの思い悩みをもっと語らなければならないと思わされています。スケールの大きな神ばかりを語らないで、もっと一人一人の思い悩みに寄り添うメッセージを語る必要性を感じています。しかし同時に、やはりスケールの大きな神も語る必要を感じています。聖書中の人物の人間的な悩みにあまりにフォーカスし過ぎるとスケールの大きな神が見えなくなります。私たちは壮大なスケールの神様の大きな愛に包まれることによって心の平安が得られます。小さな一人の人間の悩みに焦点を当てすぎると神様の壮大さがわかりづらくなり、平安を得づらくなる恐れがあります。
 それでどうしたものかと考えていたところ、一つの解決策が与えられました。それは、旧約聖書中の人物たちであっても新約聖書中の人物たちであっても、彼らの悩みのほとんどは突き詰めれば「聖霊」と絡めることができるであろうということです。そうして「聖霊」と絡めたメッセージにすれば小さな人間の悩みにも焦点を当てることもできるし、同時にスケールの大きな神様にも焦点を当てることができそうだと思いました。聖霊は私たちが地球のどこにいても天からくだります。天の神様は宇宙スケールですから地球をすっぽり覆っています。ですから私たちがイスラエルに住んでいなくても、地球上のどこにいても聖霊は天からくだります。その宇宙スケールの神様の愛の中に私たちはいます。

聖霊を受けなければ理解できない神
 旧約の時代においては、聖霊を受けたのはごく限られた預言者たちだけでした。ですから、ほとんどの人々は聖霊を受けていませんでした。すると神様のことを霊的に深く理解することができませんから、神様との一体感がなかなか得られません。それゆえ様々な不安に陥って苦悩することになります。一方、モーセやエレミヤなど聖霊を受けた預言者たちにも大きな悩みがありました。それは、どんなに神様のことを語っても聖霊を受けていない人には理解してもらうことができず、神様と民衆との間の板ばさみになって苦しまなければなりませんでした。
 このような悩みは新約の時代になれば解消されるはずでした。イエスが神の子キリストと信じれば誰でも聖霊を受けられるようになりましたから、聖霊を受けた人々は神様を深く理解できるはずでした。しかし、ガラテヤ人やコリント人たちは聖霊を受けたにも関わらず、なかなか信仰が成長しませんでしたから、それがパウロの悩みになっていました。また、ユダヤ人たちが頑固なままでイエスを信じようとしませんでしたから、それもまたパウロの大きな悩みになっていました。そして、その状況は現代においてもまだまだ続いているように思います。私たちが宇宙スケールの神様の大きな愛に包まれているということの理解があまり広まっていないように感じます。20世紀の後半からは人類は宇宙に向かってロケットを飛ばすことができるようになり、宇宙飛行士が宇宙に出て行く時代になったのですから、もっと宇宙スケールの神様の大きな愛が伝わっても良いだろうと思います。そこで、これからしばらく語らせていただく予定の『悩む人々』のシリーズでは、どうしたらこのスケールの大きな神様のことを多くの方々に深く理解していただくことができるだろうか、ということも考えながら語らせていただきたく願っています。

ペテロの悩み
 きょうは最初のイントロダクション(導入)として、ペテロの悩みを早足で見てみたいと思います。先回りをして結論から先に言っておくと、ペテロは復活したイエスさまが天に昇って行く姿を見て、そしてその十日後のペンテコステの日に天の御父とイエスさまから聖霊を受けて、初めてイエスさまがどういうお方であるかを理解しました。それまではイエスさまのことがわからずに悩んでいました。それゆえ、イエスさまが天に昇ったところを目撃したことは、とても大きな出来事でした。
 使徒の働きの有名な場面をご一緒に見ましょう。使徒1章の8節と9節を交代で読みます。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 このようにイエスさまは弟子たちの見ている前で天に昇って行きました。使徒の働きはルカが書いたものですが、ルカは福音書の最後にも、このイエスさまの昇天の場面を描いています。このようにルカが両方の文書にイエスさまの昇天を書いているのは、それがよほど重要なことだからでしょう。ルカの福音書24章の48節から53節までを交代で読みましょう。

24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 51節の「彼らから離れて行かれた」というのが、天に昇ったということですね。そして注目すべきは52節です。彼らは、「非常な喜びを抱いて」とあります。人間的な感情で言えば、イエスさまが目の前から去って行ってしまったのですから、非常に寂しい気持ちになっても良いのではないでしょうか。しかし弟子たちは非常な喜びを抱きました。それは自分たちがこれまで共に過ごしたイエスさまが本当に神の子キリストであることがわかり、これからはそのイエスさまが天から見守っていて下さり、しかも聖霊の力を与えてもらえることが約束されたからなのでしょう。イエスさまが天に昇ったところを目撃できたことは、イエスさまが本当に神の子キリストであることの確信を得る上で欠かせないことでした。そうして確信があたえられた彼らはペンテコステの日に聖霊を受けることができました。
 イエスさまが地上にいた時、弟子たちはイエスさまがどのような方かがわからず戸惑っていました。次にイエスさまが山の上で変貌した場面を見てみましょう。同じくルカの福音書の9章の28節から36節の有名な箇所を交代で読みましょう。

9:28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。
9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。
9:33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。
9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。
9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。

 ここには、ペテロが非常に戸惑っている様子が描かれています。33節には「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである」とあります。ペテロは驚嘆していました。そして35節には天から「これは、わたしの愛する子」という声が聞こえて来ました。つまりイエスさまは神の御子であるということです。しかし高い山の上とは言え、ここはやはり地上ですから、地上にいるイエスさまが本当に神の御子なのか、しっかりと理解することは難しかったでしょう。そうして36節には「彼らは沈黙を守り」とあります。マタイとマルコの福音書にはイエスさまがこのことについては黙っているようにとペテロたちに言ったことが記されています。まだ聖霊を受けていない彼らにはこのことを理解することができていませんでしたから、中途半端な理解のままでこの話が広まると混乱を招くからという判断があったのかもしれません。

イエスを三度知らないと言ったペテロ
 そしてペテロは、鶏が鳴く前にイエスさまを三度知らないと言ってしまうみじめな失敗を犯しました。その少し前に勇ましいことばを言っていたにも関わらず、です。ルカ22章の33節と34節を交代で読みます。

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

 そして問題の場面を読みましょう。よくご存知の場面ですからペテロの三度目のことばのところから読みます。60節から62節までを読みます。

22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

 ペテロはまったくわけがわからなかっただろうと思います。山の上で天から「これは、わたしの愛する子」と言われていたイエスさまがどうして、捕らえられて大祭司の家に引いて行かれなければならなかったのか。まだイエスさまが天に昇るところを見ておらず、聖霊も受けていなかったペテロにはまったく理解不能だったことでしょう。
 きょうは『悩む人々』のシリーズのイントロダクション(導入)としてペテロの悩みを取り上げました。まだ聖霊を受けていなかったペテロはわからないことだらけで、悩んでいました。しかし聖霊を受けた後は悩みがなくなったかと言えば、それはそれで悩みがありました。聖霊を受けていない人たちは神のことがよくわかりませんから、その人たちから迫害を受けましたし、異邦人の救いを巡っては大論争にも発展しました。

おわりに
 聖霊を受けても受けなくても悩みの種はつきませんが、その悩みの多くは「聖霊」に絡んでいるということを、しばらく共に学んでいくことができたらと願っています。多くの人が聖霊を受けて聖霊について深く理解するようになるなら、悩みを抱える人は少なくなっていくことでしょう。
 最後にルカ24章の48節から53節までをもう一度交代で読んで、終わります。

24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 お祈りいたしましょう。
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パウロとエペソ教会(2017.11.26 礼拝)

2017-11-27 04:14:50 | ヨハネの福音書注解
2017年11月26日礼拝メッセージ
『パウロとエペソ教会』
【使徒19:8~10、20:17~21】

はじめに

 先週は、宣教聖日礼拝でビデオを観ましたから、使徒の働きの学びはごく短く、19章の1節から7節までを簡単に見て、教会の働きには聖霊が注がれることが不可欠であることを話しました。

教会員の信仰によって異なるパウロの手紙の深さ
 この19章の始めの箇所で、パウロはエペソに来ていました。パウロは、このエペソ教に約3年間、滞在しました。そうして、パウロとエペソの教会の人々との間には深いつながりができました。きょうは、そのことに焦点を当てたいと願っています。そして最後にパウロのエペソ人への手紙を短く見てみたいと思います。
 パウロが書いた手紙は、宛て先の教会によって内容も様々に異なります。それぞれに味わいがありますから、どれが一番好きかなどとは言うべきではないのかもしれませんが、もし私が、パウロの手紙の中でどの手紙が一番好きですかと問われるなら、私はエペソ人への手紙が一番好きですと答えたいと思います。エペソ人への手紙はパウロが囚われの身になっていたローマで書かれたものだと言われていますが、この手紙がスケールの大きさと深い味わいを持つのは、パウロがエペソに長く滞在したことで教会の人々との間に深い信頼関係が育まれ、且つ教会の人々の信仰が成長したからこそのものであると感じることです。きょうは、そこら辺りのことを見ることができたらと思います。

エペソに約三年間滞在したパウロ
 では、まず使徒の働き19章の8節から10節までを見たいと思います。これはエペソの町でのことです。8節、

19:8 それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。

 会堂というのはユダヤ人の会堂でしょう。パウロはここに集っている人々に大胆に語り、彼らを説得しようと努めました。しかし9節と10節、

19:9 しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。
19:10 これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

 ツラノとは地名ではなくて人名らしいのですが、確かなことはわかっていないそうです。アジヤに住む者は皆、主のことばを聞いたとありますから、このツラノの講堂は当時のアジヤの人々の多くが集っていた講堂のようです。パウロは二年間に亘って、この講堂で論じました。
 さて、続く11節以降は、また次の機会に読むことにして、きょうはその先のほうを読むことにします。次の機会と言っても来週からはアドベントに入りますから、少し先になります。

ミレトで長老たちに会ったパウロ
 きょう見ておきたいのは、20章の17節からのミレトにおけるパウロのことばです。この時、パウロは第三次伝道旅行を終えてエルサレムへ向かう途中でした。後ろの地図を見ておきましょう。
(地図で確認)

 パウロはエルサレムに向かう途中、エペソには寄らないでミレトにエペソの教会の長老たちを呼びました。17節です。

20:17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。

 それは16節にもあるように、もしエペソに寄ってしまうと、そこで様々な人に会って時間を取られてしまうかもしれませんし、パウロを迫害した人々にパウロが再び来たことが知られれば、また何か騒動が起きてエルサレム行きが遅くなってしまうことを恐れてのことのようです。
 続いて18節、

20:18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。

 エペソの教会の長老たちは、パウロがエペソに来た初期の頃から、パウロとのつながりができた人たちでした。次に19節、

20:19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。

 この使徒の働きはルカが書いた文書ですから、19節のようにパウロが本当に自分で「私は謙遜の限りを尽くし」と言ったかどうは、私はどうなのかなと少々疑問に思いますが、パウロが謙遜の限りを尽くしたというのは本当のことでしょう。そして様々な困難にも遭いました。続いて20節と21節、

20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

 そして、なおパウロは語りました。この話の内容は、後日また見ることにして、次に31節と32節を交代で読みましょう。

20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 そして、36節から38節までを交代で読みましょう。

20:36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。
20:37 みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、
20:38 彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。

コリント人への手紙とエペソ人への手紙の違い
 このようにパウロとエペソの教会の長老たちの間には強くて深い信頼関係がありました。そして教会の人々は霊的に成長していました。後で開くエペソ人への手紙の内容がとても深いものであるのは、それゆえだろうと私は思います。少し前にご一緒に見たコリント人への手紙第一とはだいぶ違います。
 それで、エペソ人への手紙を見る前にコリント人への手紙第一の3章の始めの部分をもう一度見てみたいと思います(新約聖書p.320)。第一コリント3章1節と2節を交代で読みましょう。

3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

 このように、パウロがこの第一の手紙を書いた時のコリント人たちの信仰はまだ幼いものでした。そうすると手紙の内容も必然的にそんなに深いものにはなり得ません。一方、エペソ人への手紙の内容は非常に深いと思います。それはエペソの教会の人々の信仰がとても深まっていたからだと思います。

スケールが大きくて深いエペソ人への手紙

 エペソ人への手紙の1章10節をご一緒に読みましょう(新約聖書p.373)。

1:10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

 このように、エペソ人への手紙は内容が深いだけでなくスケールが壮大であるという特徴があります。そのスケールの大きさが最もよく表われているのが、私がよく引用する、エペソ3章の16節から19節までを交代で読みましょう(新約聖書p.376)。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 このようにエペソ人への手紙のスケールの大きさは人知を遥かに越えるものです。そして、このエペソ人への手紙でパウロは御霊の一致も説いています。4章の3章から6節を交代で読みましょう。

4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 この御霊の一致は、神様のスケールの大きさを感じることができて初めて為されるものだと思います。スケールの大きな神様は私たちのすべてを包み込んで下さっています。だからこそ私たちは御霊の一致が可能になります。神様がちっぽけな存在であったなら、私たちが包まれることはありませんから、私たちが一致することは難しいでしょう。神様が人知を越える大きな存在であり、人知を越える大きな愛を持つ方だからこそ、私たちはその愛の中で一つになることができます。
 エペソの教会の人々の信仰は、これらのことを理解できるほどに十分に成長できていたのだと思います。一方、もしコリント人のように信仰が幼ければ、御霊の一致を理解することはできないでしょう。それゆえパウロはコリント人への手紙第一では御霊の一致について書いていません。

おわりに
 私たちの教会はどうでしょうか。人知を遥かに越えたキリストの愛の大きさをどの程度まで知ることができているでしょうか。人知を越えているのですから、もちろん全てを知り尽くすことは不可能です。それでも、せめてその一部でも私たちはキリストの愛の大きさを知ることができる者たちになりたいと思います。エペソの教会の人々のように信仰が成長し、御霊の一致を保つことができる私たちでありたいと思います。そして、この素晴らしい恵みをもっと多くの方々と分かち合えるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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5:2-9(ヨハネの福音書注解)十字架の年は「紀元33年」

2017-11-25 22:08:36 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:2-9 十字架の年は「紀元33年」

2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(ヨハネ5:2-9)


 このベテスダの池の病人が癒された記事が、旧約聖書または使徒の働きとどのように重なるのかを見出すことは他の箇所に比べると難しい。ここで鍵となるのは「三十八年」という数字であろう。これがもし「四十年」という丸めた数字であったなら鍵にはなりにくいだろう。しかし「三十八年」という半端な数字であることから、ここには重要な意味が秘められている匂いがする。
 そうして私がたどり着いた結論は、この箇所の背後の時代は「使徒の時代」であり、この病人はモーセの律法に縛られていた人々に重ねられているということだ。イエスの十字架の年からは、「イエスは神の子キリスト」と信じる者は誰でも聖霊を受けて救われるようになった。しかし、古い考えに縛られていたユダヤ人クリスチャンの中には、異邦人クリスチャンもモーセの律法を守らなければ救われないと考える者が少なくなかった。そして、特にガラテヤ人などはそのような考えに惑わされていた。同様にベテスダの池の病人も、池に入らなければ病気が癒されないと思い込んでいた。それゆえイエスが「よくなりたいか」と聞いた時も単純に「よくなりたいです」と答えないで、見当外れの受け答えをしていた。
 さてクリスチャンであってもモーセの律法を守らなければならないと考えていた人々は当然のことながらエルサレムの神殿での礼拝も欠かせないと考えていただろう。しかしエルサレムの神殿は紀元70年にローマ軍の攻撃によって焼失してしまい、もはやここで礼拝を捧げることができなくなった。この時にモーセの律法の縛りから解き放たれたクリスチャンも多かったのではないだろうか。イエスが十字架に掛かったのが紀元33年だとすると、彼らは38年間、モーセの律法に縛られていたことになる。
 イエスの十字架の年は紀元30年または33年というのが有力であるが、ヨハネ5章のベデスダの池の病人の記事は十字架の年が紀元33年であったことを示していると言えよう。
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5:1(ヨハネの福音書注解)イエスの南北の移動は「旧約の時代」の南王国と北王国の間の移動

2017-11-24 11:04:43 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:1 イエスの南北の移動は「旧約の時代」の南王国と北王国の間の移動

1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。(ヨハネ5:1)

 5章の冒頭でイエスは北のサマリヤから南のエルサレムに移動する。ヨハネの福音書のイエスは、南(3章)→北(4章)→南(5章)→北(6章)→南(7章)というように南北間の移動を繰り返している。聖書学者の中にはこの南北の動きを不自然として、写本が伝わる過程で誤ってページが入れ替わってしまったのではないかと考える者たちもいる。
 人間イエスだけを見れば、確かにこのように南北間の移動を繰り返すことは不自然かもしれない。しかし、この南北間の移動は「旧約の時代」に南王国と北王国が並存していた時代があったことを示すものだ。旧約聖書の列王記も南王国と北王国のことを併記している。イエスが7章からは専ら南にいるのは、6章の最後に北王国が滅亡してしまったからだ。6章終盤の次の記述は北王国の滅亡を示すものだ。

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。(ヨハネ6:66)

 北王国を滅ぼしたのはアッシリヤ帝国だ。そして北王国イスラエルの民はアッシリヤに捕囚として引かれて行った。このことを列王記第二は次のように記している。

アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。(Ⅱ列王18:11)

 アッシリヤに引かれて行った北王国の民は二度と故郷のイスラエルに戻ることはなかった。ヨハネ6:66の「多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」とは、この状況を描いたものだ。
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4:46-54(ヨハネの福音書注解)異邦人に聖霊が注がれた「第二のしるし」

2017-11-23 14:51:21 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:46-54 異邦人に聖霊が注がれた「第二のしるし」

46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 王室の役人とは異邦人であろうから、これは「使徒の時代」に異邦人に聖霊が注がれた出来事(使徒10章)と重ねられている。53節の「信じた」とは「聖霊が注がれた」ということだ。ヨハネはガリラヤ人が聖霊を受けたことを「最初のしるし」(ヨハネ2:11)と呼び、異邦人が聖霊を受けたことを「第二のしるし」と呼んだ。ユダヤ人だけでなく異邦人もまた救われるということは、それほど画期的なことなのだ。
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4:43-45(ヨハネの福音書注解)時間に縛られることの「罪」

2017-11-22 09:02:38 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:43-45 時間に縛られることの「罪」

43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。(ヨハネ4:43-45)

 44節の「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言したイエスは「イエスの時代」の「人間イエス」だ(マタイ13:57、マルコ6:4、ルカ4:24)。一方、43節のガリラヤへ行ったイエスとは「使徒の時代」のクリスチャンの内にいる「霊的イエス」だ。この読み分けができるようになると、読者はヨハネの福音書への理解を格段に深めることができるであろう。
 しかし、ヨハネの福音書の読者の多くは時間に縛られていて「過去→現在→未来」の一方通行の時間の流れから自由になれていない。それゆえヨハネの福音書の主役が時間に縛られていない「霊的イエス」であることに気付けないでいる。43~45節のイエスもすべて「人間イエス」であると思い込んで読んでしまう。すると、故郷で尊ばれないイエスがどうしてガリラヤ人に歓迎されたのか、理解できなくて悩むことになる。
 人の心を神の方に向けることを妨げるものを「罪」という。例えばプライドの高い人や自己中心的な人は自分を第一とするので神を第一にすることができない。それゆえプライドや自己中心は「罪」だ。だとすれば、「過去→現在→未来」の時間に縛られることもまた「罪」と言えるだろう。時間に縛られている人は、時間から自由になっている神を理解することが難しいからだ。
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4:39-42(ヨハネの福音書注解)ヨハネの法則第一および第二

2017-11-21 10:18:20 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:39-42 ヨハネの法則第一および第二

39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 ここに書かれている二つの重要なことを「ヨハネの法則第一」および「ヨハネの法則第二」と呼ぶことにしたい。

【ヨハネの法則第一】イエスについての他人の証言を聞いて信じると、霊的イエスに出会える。

【ヨハネの法則第二】霊的イエスと出会った者は今度は自分が証人になり、他人に向けてイエスについての証言をする。

 十字架で死んだイエスは復活して弟子たちの前に現れた後に天に昇った。このイエスの昇天以降は、私たちは人としてのイエスに会うことはできなくなった。しかし、イエスに出会ったことがある者の証言を聞いて信じると、信じた者は聖霊を受けて霊的イエスに出会えるようになる。これが「ヨハネの法則第一」だ。サマリヤ人たちは女の証言を信じたので、霊的イエスに出会うことができた。このヨハネ4:39-42に書かれているのは使徒8章に描かれている「使徒の時代」の状況だ。
 そして霊的イエスに出会ったサマリヤ人たちは「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」と証言した。今度はサマリヤ人たちが新たな証人になった。このように聖霊を受けて霊的イエスと出会った者は、今度は自分が証人になって他人に向けて自分が出会ったイエスについての証言をする。これが「ヨハネの法則第二」だ。
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4:35-38(ヨハネの福音書注解)ピリポのサマリヤ伝道(使徒8章)と重ねたヨハネ

2017-11-20 11:09:44 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:35-38 ピリポのサマリヤ伝道(使徒8章)と重ねたヨハネ

35 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ4:35)

 ヨハネの福音書の重層構造に気付いていなかった時の私にとって、ここは不思議で不可解な箇所だった。何のために『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』や『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取り』が挿入されているのか、さっぱりわからなかった。しかし、ここにはピリポのサマリヤ伝道(使徒8章4~17節)が重ねられていることに気付いた時、すべてが氷解した。
 先にサマリヤに来て人々に伝道したピリポが種を蒔き、後から来たペテロとヨハネが刈り取ったのだ。ペテロとヨハネがサマリヤに到着した時、サマリヤ人たちはピリポの伝道によって聖霊を受けるばかりになっていた。それが「色づいて、刈り入れるばかりになっています」ということだ。ペテロとヨハネがしたことはサマリヤ人たちの上に手を置くことだけだったから何の労苦もなかったのだ。
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4:31-34(ヨハネの福音書注解)イエスの証人に供給される霊的な食物エネルギー

2017-11-18 10:28:59 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:31-34 イエスの証人に供給される霊的な食物エネルギー

31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:31-34)

 降誕する前のイエスは天の神殿にいた。そして地上生涯を終えて昇天したイエスは天の神殿に帰った。イエスが言っている弟子たちの知らない食物とは、この天の神殿におけるイエスの食物のことだ。人々がイエスを信じて永遠の命を得ると、それが天の神殿にいるイエスの食物となる。
 そして、この霊的な食物エネルギーは弟子たちに聖霊を通して供給される。イエスについての証言をするには多くのエネルギーが必要だ。耳を傾けない人も大勢いるし、迫害を受けることもある。イエスの証人になるには聖霊からエネルギーを受けることが不可欠なのだ。ヨハネの福音書が書かれた紀元1世紀にはまだ物理学の「エネルギー」は知られていなかったので、エネルギーの源である「食物」という言葉が用いられたのだろう。
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『世界ネコ歩き』の劇場版を観て

2017-11-17 23:35:35 | 折々のつぶやき
 少し時間ができたので、前から観たいと思っていた『岩合光昭の世界ネコ歩き』の劇場版を観て来ました。
 内容に興味があったと言うよりは、製作者たちの熱量を感じたので、それを受けとめに行きたいと思ったのです。テレビで放映している番組をわざわざ劇場で上映するということは、劇場でしか伝わらない何かがあり、それをどうしても伝えたいのだろうと思いました。牧師の私にも、どうしても伝えたいことがありますから、観に行けば必ず得られるものがあるだろうと思いました。結果、やはり観に行って良かったです。
 まず感じたのは、スクリーンが大きいですから大自然や世界の歴史的な町並みをバックにしてもネコの存在感がしっかりと確保できているということです。テレビの場合はカメラが引けばネコは小さな点になってしまいます。また、テレビの小さな画面では大自然や歴史的な町並みの美しさから受ける感動も劇場ほどではありません。ですから、テレビではどうしてもカメラがネコに寄った映像が中心になりがちだと思います。背景の魅力を十分に伝えることは、テレビにはなかなかできないことです。
 そこで思ったのは教会での説教のことです。聖書中の人物の背後には時空を越えた永遠の中にいる神がいます。このスケールの大きな神の存在をしっかりと伝えずに人物のことばかりを伝えたとしたら、それはテレビ的な説教ということになるでしょう。人物と神の両方を劇場映画のようにしっかりと伝えることができる説教者になりたいと思いました。
 その他にも家族愛のことなど、いろいろと思ったことがありますが、上記のことを一番強く感じました。
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4:28-30(ヨハネの福音書注解)信仰の第一歩

2017-11-17 10:41:39 | ヨハネの福音書注解
●ヨハネ4:28-30 信仰の第一歩

28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 サマリヤの女は自分がキリストに出会ったことを町の人々に証言した。この証言を信じた町の人々はイエスのほうへ向かって行った。ここには「信仰の第一歩」が描かれている。信仰は、まずは他者の証言を信じるところから始まる。すると聖霊を受けて霊的な目が開かれ、神と出会うことができる。
 信仰は信じなければ始まらない。ここに難しさがあるとも言えるし、追究のし甲斐がある奥深いテーマだとも言えるだろう。どうすれば人を信仰の第一歩に導くことができるか、現代の教会に携わる人々は皆、悩んでいる。1世紀のヨハネもまた悩んでいたのだと思う。ヨハネの福音書を読んでいると、そのことがヒシヒシと伝わって来る。
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4:25-27(ヨハネの福音書注解)キリストとの出会いは魂の領域の個人的なこと

2017-11-16 08:27:08 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:25-27 キリストとの出会いは魂の領域の個人的なこと

25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネ4:25-27)

 女はキリスト(メシヤ・救い主)に出会った。はじめはイエスをキリストと認識していなかったが、イエス自身が自らをキリストと明かしたことで目が開かれたのだった。
 そこへ弟子たちが帰って来た。弟子たちがイエスと女の会話に割り込まなかったのは、人とキリストとの出会いは魂の領域における極めて個人的なことだからだ。また、イエスと女は永遠の中にいるが弟子たちは「使徒の時代」にいるからということもあるだろう。或いはまた、弟子たちは後の節に出て来る「種蒔き」(ヨハネ4:37)の現場にいなかったということもあるだろう。
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聖書の読み方も天動説から地動説へ・2(2017.11.15 祈り会)

2017-11-16 06:38:35 | 祈り会メッセージ
2017年11月15日祈り会メッセージ
『聖書の読み方も天動説から地動説へ・2』
【ヨハネ4:16-24】

4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
4:20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

はじめに

 先週の祈り会では私の近況報告の証をし、先々週の祈り会ではヨハネ4章を開きました。きょうもまたヨハネ4章を開きますが、後でルカの福音書と第一コリントも見ることにしたいと思います。

天動説では説明できないヨハネの福音書
 先々週の祈り会のメッセージは、『聖書の読み方も天動説から地動説へ』というタイトルで話をしました。きょうはその続編です。
 天動説では私たちの側は動かずに天の方が動きますが、地動説では私たちは宇宙空間の中を動きます。聖書を読む時も私たちは永遠の中を動く必要があります。21世紀から動かないで聖書の時代の動きを眺めるのは天動説的な聖書の読み方です。そうではなく、私たちの側が永遠の中を動いて聖書を読むべきです。これが地動説的な聖書の読み方です。イエスを信じて聖霊を受けるなら、それが可能となります。私たちの側が永遠の中を動くことで、神様との交わりを一層豊かに感じることができるようになります。
 特にヨハネの福音書は、地動説的な読み方が必要です。天動説的な読み方では、この福音書の不思議な動きを読み解くことはできません。火星や木星などの惑星の、人を惑わす不思議な動きを天動説では上手く説明できないのと同じです。惑星の動きは地動説でなければ正確に説明することはできません。
 今日開いているヨハネ4章の箇所も、そのような箇所です。16~18節では時代の舞台は「旧約の時代」の時代にありますが、19~22節ぐらいまで(境い目は曖昧です)は「イエスの時代」、23~24節は「使徒の時代」にあると言えるでしょう。天動説で読んでいると、そのことがなかなか見えて来ないと思いますが、永遠の中を動く地動説で読むなら、それが見えて来ます。

様々な時代の中を動いているイエス

 まず16~18節では、イエスさまは北王国の預言者のエリヤの中にいて、ツァレファテやもめの女と話しています(列王記第一17章)。エリヤの時代は王で言えばアハブ王の時代で、アハブの前には5人の王たち(ヤロブアム、ナダブ、バシャ、エラ、オムリ)がいました(北王国の民が王と認めなかったジムリを除く)。18節の「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」とはそういう意味です。女はやもめですから、今いっしょにいるアハブ王は夫ではありません。
 19節の「あなたは預言者だと思います」はエリヤを指すのかもしれません。そして、ここからは「イエスの時代」に入ります。20節で女が言った「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます」は「イエスの時代」の状況です。
 そしてイエスさまは女に、「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない」は「使徒の時代」の状況を言っていますが、「そういう時が来ます」と言っていますから、まだ「イエスの時代」にいるとも言えるでしょう。しかし、すぐに「使徒の時代」に移ります。23節で、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」 とイエスさまは言っています。「今がその時です」ということは、聖霊が注がれるようになった「使徒の時代」になったということです。この「今がその時」とは21世紀の現代のことでもあります。イエスさまは、現代の私たちに向けても、今、イエスさまを信じて聖霊を受けて、霊とまことによって父を礼拝できるようになりなさいと、私たち読者を招いています。

ルカ文書の学びと絡めて
 さて、きょうはこの後、24節の

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

を、もう少し掘り下げてみたいと願っています。
 いまeラーニングではルカの福音書と使徒の働きの二つの書の並行関係を学んでいるということを、少し前に話しました。eラーニングでは講師の先生が動画で講義をして下さいます。ルカ文書の学びは山崎先生が講師です。
 今週はルカの福音書を学んでいて、この福音書は1~4節までのテオピロへの挨拶文を除けば、神殿から始まって神殿で終わります。ルカ1章9節にザカリヤが神殿に入って香をたくことになったとあり、10節からザカリヤは神殿に入ります。そして、この福音書の一番おしまいの24章の52節と53節に、「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」とあります。宮というのは神殿のことですから、確かにルカの福音書は神殿で始まって神殿で終わります。
 そうして今週のディスカッションの設問は、「ルカはなぜイエスの公生涯を昇天まで含めて描く必要を覚えたのだと思いますか?あなたの考えを理由とともに簡潔に述べてください」というものです。
 このことを考えている時に、きょうヨハネ4章の「霊とまことによる礼拝」に思い至り、次のように考えました。

ルカはなぜイエスの昇天までを福音書に含めたのか
 ルカが福音書の最後にイエスの昇天までを含めたのは、福音書のストーリーが、神殿で始まり神殿で終わることと強い関係があると思いました。
 神の子キリストは母マリヤの胎に入る前は天の神殿にいて、最後に昇天してまた天の神殿に帰りました。そして人(ザカリヤ、弟子たち他)は地上の神殿に行って神を礼拝します。天の神殿と地上の神殿とはつながっています。これは使徒の働きの伏線になっているように見えます。
 使徒の働きの時代には聖霊を受けることで人の体が地上の神殿になりました。そうして聖霊を介して天の神殿とつながっていますから、神殿に行かなくても霊とまことによって父を礼拝することができるようになりました。異邦人は神殿に入ることが許されていませんでしたから、この変化は画期的でした。
 人の体が神殿になることは、パウロが手紙に書いています(Ⅰコリ3:16、6:19)。第一コリント3章の16節をご一緒に読みましょう。

3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 
 このように、イエスは神の子キリストであることを信じて聖霊を受けると、私たちの体は神殿になります。もう一箇所、第一コリント6章19節を見ましょう。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 宮というのは神殿のことですから、聖霊を受けた私たちの体は神殿になります。そして、私たちの体の地上の神殿は聖霊を介して天の神殿とつながっています。ですから、私たちはエルサレムに行かなくても、霊とまことによる礼拝を捧げることができます。

おわりに
 もう一度、ヨハネ4章の23節と24節を、交代で読みましょう。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 私たちは新しい会堂を建設することを願って励んで来ました。それは止まってしまっていますが、一番大切なことは、聖霊を受けるなら私たちの体自体が神殿であるということでしょう。会堂があっても無くても聖霊を受けた私たちは霊とまことによる礼拝を捧げることができます。ただ、見栄えのよい会堂があったほうが、まだ聖霊を受けていない新しい方々には来ていただきやすいだろうと思って、そのような会堂を望んでいたわけです。神様の御心がどこにあるのか、まだわからない部分がありますが、すでに聖霊を受けた私たちは、霊性を整えて、霊とまことによる礼拝を捧げていきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖書の読み方も天動説から地動説へ移行しよう

2017-11-16 06:05:08 | 折々のつぶやき
【聖書の読み方も天動説から地動説へ移行しよう】(ツイッターでのつぶやきより)

天動説では私たちの側は動かずに天の方が動きますが、地動説では私たちは宇宙空間の中を動きます。聖書を読む時も私たちの側が永遠の中を動く必要があります。21世紀から動かないで聖書の時代の動きを眺めるのは天動説的な聖書の読み方です。

そうではなくて、私たちの側が永遠の中を動いて聖書を読むべきです。これが地動説的な聖書の読み方です。イエスを信じて聖霊を受けるなら、それが可能となります。私たちの側が永遠の中を動くことで、神様との交わりを一層豊かに感じることができ、神様の愛の大きさもわかるようになります。

聖霊はドラえもんのタイムマシンのようなものです。イエスを信じて聖霊を受けると魂が21世紀を離れて聖書の時代を自由に行き巡ることができるようになります。聖霊を受けない間は21世紀から聖書の時代を眺めるだけです。これでは聖書を単に歴史資料みたいなものとして読むだけですから、本当の恵みは得られません。

聖霊のタイムマシンを得ると魂が永遠の中を動けるようになって、地動説的な聖書の読み方ができるようになります。それゆえ聖書の時代をよりリアルに実感できるようになります。人類は地動説に移行したからロケットを飛ばして宇宙を旅することが可能になりました。聖書の読み方も地動説に移行しなければなりません。
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