平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

天国は、もう来ているのに

2022-03-28 17:39:53 | 折々のつぶやき
天国は、もう来ているのに

 なぜ悲惨な戦争が未だに繰り返されるのだろうか?平和な天国が既に地上に来ていることを聖書は示唆しているのに。

 ヨハネの福音書は地上のイエスに天国のイエスを重ねている。それはつまり「御国が来ますように」(マタイ6:10)の「主の祈り」が霊的には既に実現していることを示しているのだろう。

 例えばヨハネ4章1~4節には次のように記されているが、これは五旬節の日に弟子たちに聖霊が降って以降の使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)の2~8章の状況だ。

1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 ここでは聖霊が降った弟子たちの中にいるイエスが描かれている。弟子たちはイエスを信じた者たちにバプテスマを授けていた(1~2節)。しかし、ステパノの迫害をきっかけに弟子たちの多くは散らされてユダヤを去り(3節)、ピリポはサマリアでサマリア人たちにキリストを宣べ伝えた(4節)。聖霊を弟子たちに与えたのは天のイエスだから、ここに描かれている地上のイエスは実は天のイエスだ。

 またヨハネ4章35節でイエスは弟子たちに「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言っているが、これはサマリア人たちがピリポの宣教によって聖霊を受けるばかりになっていた状況を示している(使徒8章4~13節)。それでペテロとヨハネがサマリアに遣わされてサマリア人たちの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた(使徒8章14~17節)。サマリアではピリポが種を蒔き、ペテロとヨハネが刈り入れた。イエスが「ですから『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです」(ヨハネ4:37)と言ったのは、このピリポのサマリア伝道のことを指している。

 このようにヨハネの福音書は一見すると地上のイエスを描いているようだが、実は天のイエスが描かれている。ヨハネは地上のイエスに天のイエスを重ねているのだ。従って、「御国が来ますように」は聖霊が注がれた者にとっては既に実現していることだと言えよう。



 この構造が分かると、イエスが涙を流したのは(ヨハネ11:35)、エルサレムが戦災によって廃墟になったことを悲しんでのことだと分かるであろう。イエスは「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です」(ヨハネ10:1)と言ったが、これはバビロン軍がエルサレムの城壁を乗り越えて財宝を奪い、滅亡させることを警告したエレミヤの預言だ。その後、イエスはヨルダン川の向こう側に行ったが(ヨハネ10:40)、これはエゼキエルらがバビロンへ捕囚として引かれて行ったことを示す。預言者のエレミヤとエゼキエルは聖霊を受けていたから、彼らの中には天のイエスがいたのだ。

 そうしてイエスは「もう一度ユダヤに行こう」(ヨハネ11:7)と弟子たちに言った。これはエルサレムの民が復興のために帰還したことを示す。つまり、ラザロの死と復活はエルサレムの滅亡と復興を示す。ユダヤ人たちがラザロの死を悲しんで泣いた時にイエスが霊に憤りを覚えのは(ヨハネ11:33)、彼らがエレミヤの警告を無視したからだ。エレミヤの警告を聞いて悔い改めていれば、エルサレムは滅亡せずに済んだのだ。

 既に来ている天国を感じて心の深い平安を得て、その中でイエスの憤りと悲しみを霊的に感じるなら、悲惨な戦争の多くは防げるはずだ。ぜひ多くの方々に、ヨハネの福音書に描かれている天のイエスを霊的に感じていただき、天国が既に地上に来ていることを実感していただきたい。そうでなければ、我々はこれからも戦争の悲劇を繰り返して行くことであろう。
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 なお、ヨハネの福音書が地上のイエスと天のイエスを重ね合わせていることの詳細については、拙著「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒」(ヨベル新書 2017)を参照していただきたい。
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なぜ敵を愛し、敵のために祈るべきか?(2022.3.27 礼拝)

2022-03-28 06:28:01 | 礼拝メッセージ
2022年3月27日礼拝メッセージ
『なぜ敵を愛し、敵のために祈るべきか?』
【マタイ5:43~48】

はじめに
 先週の礼拝ではマタイ5章39節に目を留めて、『右の頬を打たれたら、どうしますか?』という説教題で話をしました。5章39節でイエス様はこのようにおっしゃいました。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

 第二次世界大戦後にクリスチャンになった私たちにとって、ウクライナがロシア軍からの攻撃によって悲惨な状況になっている今ほど、このマタイ5:39と真剣に向き合うべき時はかつて無かったのではないか、先週はそんな話をしました。そして、これは私たちの一人一人が聖霊の助けを得ながら向き合わなければならない問題であると話しました。さらにまた、このマタイ5:39は平和の問題を考える上では中心の中の中心であり、弓矢の的(まと)で言えば、ど真ん中であるとも話しました。

 実は、先週の説教の準備をしていた時点では、きょうの43節以降の思い巡らしはまだ十分にできていませんでした。そして先週の説教の後できょうの説教の準備を始めてから、きょうの44節もまた平和を考える上では中心中の中心、弓矢の的のど真ん中であると感じています。39節も44節も、どちらも同じくらいに重要であるなと感じています。

 きょうの中心聖句はマタイ5:44です。

マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 そして、次の三つのパートで話を進めます。

 ①敵の「滅び/赦し」のどちらを祈るのか?
 ②神の子どもとなり、地上に平和をつくる
 ③「神の国は近づいた」と教えたイエス様

①敵の「滅び/赦し」のどちらを祈るのか?
 43節から見て行きます。

マタイ5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 あなたの隣人を愛しなさいという教えは旧約聖書のレビ記19:18にあります。

レビ 19:18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしはである。

 さてしかし、「あなたの敵を憎め」という教えそのものは旧約聖書には一切出て来ません。でも詩篇、特にダビデの詩篇を読むと、「憎め」と言っているかのような表現はあちこちに見られますね。例えば、きょうご一緒に交読した詩篇146篇の12節には、次のようにあります。

詩篇 143:12 あなたの恵みによって私の敵を滅ぼし 私のたましいに敵対するすべての者を消し去ってください。私はあなたのしもべですから。

 このように主が自分の敵を滅ぼすことを祈っているダビデの詩篇を読むと、私たちは敵を憎んでも良いのかなと、つい思ってしまいそうになります。ダビデの信仰は私たちのお手本でもあるからです。でもダビデの信仰は戦場、戦いの場で培われた信仰です。詩篇23篇も死の影がちらつく戦場の最前線での平安を歌ったものです。主はそんな戦いの人生を送ったダビデに神殿の建設をお許しになりませんでした。主は息子のソロモンの時代に平和を与えて神殿の建設をお許しになりました。私たちの心の中の神殿も、平和の中でこそ建て上げられます。

 ウクライナでの戦争の悲惨な光景を過去の歴史としてではなく、現在進行形として目の当たりにしている今、私たちはダビデの信仰から一歩前に進んで、イエス様に付き従って行くべきでしょう。イエス様はおっしゃいました。マタイ5章44節、

44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 では、自分を迫害する者のための祈りとは、どのような祈りでしょうか?詩篇143篇12節のような、敵の滅びを願う祈りなら、簡単にできそうです。でも、イエス様はもちろんそんな敵の滅びのための祈りなど勧めていませんね。イエス様は「自分の敵を愛しなさい」と先ずおっしゃっています。ですから、敵のための祈り、自分を迫害する者のための祈りとは、「愛の祈り」でなければなりません。それは、十字架のイエス様の「赦しの祈り」ではないでしょうか。イエス様は十字架で祈りました。ルカ 23章34節です。

ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 イエス様は十字架に付けられて激しい痛み、苦しみの中にありました。それなのに、ご自身を十字架に付けた者たちを赦すように天の父に祈りました。何というお方でしょうか。そしてこの祈りは、イエス様だけでなく石打ちで死んだステパノもまたささげました。使徒の働き7章59節です。

使徒7:59 彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

 ステパノもまた、自分が命を落とすほどのひどい仕打ちを受けて激しい苦痛の中にありました。しかし、それでもなお、自分を迫害した者たちの罪の赦しを祈りました。イエス様は神様だから特別に寛容なのだと、つい思ってしまいますが、イエス様だけではありませんでした。ステパノもまた、イエス様と同じくらいに寛容でした。そしてイエス様は、私たちに対しても「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっています。

 なぜ、ここまでしなければならないのでしょうか?次のパートに進んで、このことに思いを巡らしたいと思います。

②神の子どもとなり、地上に平和をつくる
 なぜ自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈らなければならないのでしょうか?イエス様は45節で、このようにおっしゃいました。

45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

 「天の父の子どもになるためです」とありますね。敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、私たちが天の父の子どもになるためだと、イエス様はおっしゃいました。きょうは、このことを、さらに深めて行きたいと願っています。

 天の父の子どもになるとは、神の子どもになるということです。このマタイ5章の山上の説教では、イエス様は既に9節で、

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

とおっしゃっていますね。平和をつくる者は神の子どもと呼ばれるのですから、44節と45節の父の子どもになるために敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るとは、地上に平和をつくるためなのだ、ということでしょう。天の御国はもともと平和ですから、平和をつくるべきは地上です。私たちは地上に平和をつくって神の子どもとされるために、敵を愛し、迫害する者のために祈るべきである、とイエス様はおっしゃっています。

 そこで思い至るのが、イエス様の「主の祈り」の「御国が来ますように」です。マタイ6章10節にあるように、イエス様は「御国が来ますように」と祈りなさいと教えました。御国が地上に来れば地上は平和になります。御国の到来は私たちがイエス様を信じれば、あとは何もせずにいても、御国が来るように主がして下さると私たちは思いがちでしょう。しかし、実は御国は私たちの一人一人が平和をつくる働きをすることによって、段々と近づいて来るものではないでしょうか?イエス様は5タラントのしもべ、2タラントのしもべ、1タラントのしもべのたとえ話で、主人が留守をしている間にしもべに預けた財産を増やした5タラントと2タラントのしもべを褒めました。一方、預かった1タラントを地面の穴に隠して何もせずにいたしもべを厳しく叱りました。このしもべたちの働きとは、御国が近づくように働くことではないでしょうか?天の御国は私たちが神様から与えられた聖霊の力を使って平和のために働くことで近づいて来る、そのように思わされます。

 但し、平和のための働きとは私たちが何かを頑張るというよりはイエス様が言われた39節や44節を守る、ということではないでしょうか。先週目を留めた39節でイエス様はおっしゃいました。

39 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

そうして44節でおっしゃいました。

44 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 それは私たちが平和をつくり、父の子どもになって御国が来るようにするためです。さらにイエス様はおっしゃっています。

45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

 天の父は正しい者も正しくない者も等しく愛して恵みを注いでいます。それは正しくない者が悔い改めて、神様の愛を受け入れる者に変えられることを天の父が望んでおられるからでしょう。そのための働きを、主は私たちに期待しています。私たちにタラントを預けて、イエス様が再び戻って来る時まで、平和のために働くようにとおっしゃっているようです。

 平和は、私たちが当たり前のことをしていても実現しません。46節と47節、

46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

 誰でもできる当たり前のことをしていても、地上に天の御国のような平和をつくることはできません。ですから、イエス様はおっしゃいました。48節、

48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 もちろん私たちはすぐには完全になることはできません。でも聖霊によってきよめられていくことで、少しずつイエス様に似た者に変えられて行くことができます。右の頬を打つ者に左の頬を向けることは難しいことです。でも、十字架に付けられたイエス様は、そうなさいました。自分を迫害した者のために赦しを祈ることはとても難しいことです。でも、十字架のイエス様はそうなさいました。イエス様だけでなくステパノもまた、そうしました。私たちは今すぐにステパノのようになることは難しいでしょう。でも、聖霊によって少しずつきよめられて、そのような者へと変えられたいと願います。

 そうでなければ、何千年経っても戦争は無くならず、今のウクライナのような悲劇がこれからもずっと繰り返されて行くことになってしまうことでしょう。イエス様が十字架に掛かってから間もなく二千年になろうとしている今、私たちは平和をつくる者へと変えられなければなりません。

③「神の国は近づいた」と教えたイエス様
 イエス様はマルコ1:15でおっしゃいました。

マルコ1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 この「時が満ち、神の国が近づいた」がマルコの福音書におけるイエス様の第一声、イエス様の最初のことばです。そして、マルコの福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の中で一番最初に書かれた書であると考えられていますから、この「時が満ち、神の国が近づいた」は、福音書におけるイエス様の第一声だということになります。

 もちろん、イエス様はこれ以前にも、いろいろなことを話しているでしょう。しかし、福音書の中で一番始めに書かれたイエス様のことばが「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であることは、このことばが格別に重いことを意味するでしょう。

 1世紀の人々は、神の国がすぐにでも来るという緊張感を持って過ごしていました。神の国が来るとは、黙示録21章でヨハネが見たように、新しい天と地が創造されて、新しいエルサレムが天から地上に降って来ることでしょう。黙示録21章1節と2節、

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 でも、天の御国はなかなか来ませんでした。パウロやペテロの手紙を読むと、イエス様の再臨がなかなか無いことを人々がいぶかしがっている様子が伺えます。そんな中で使徒たちは、イエス様の再臨の時は近いのだから目を覚ましているようにと励ましています。マルコの福音書が「時が満ち、神の国が近づいた」で始まるのも、なかなか神の国の到来が無いと人々がいぶかしく思っている雰囲気の中で、それを戒めるためだったのかもしれません。マルコの福音書が書かれた時にはイエス様が天に昇ってから少なくとも20年以上、恐らくは30年前後が経っていたからです。

 しかし、結局1世紀の間に天の御国の地上への到来はなく、21世紀の今もありません。実は霊的には、ペンテコステの日に聖霊が降ったことで来ているのですが、肉の目で見える形ではまだ御国は来ていません。そういう中で、クリスチャンは段々と自分の地上生涯の間に天の御国が地上に来ることを待ち望むのではなく、自分が地上生涯を終えたら天の御国に入ることを期待するように変質して行ったように思います。しかし、イエス様は私たちに「時が満ち、神の国が近づいた」とおっしゃり、「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃいました。ですから私たちは自分が御国へ行けるようになることを祈り願うのでなく、御国のほうが来ることを祈るべきでしょう。そうして地上を少しでも平和にして御国が近づくようにすべきでしょう。

おわりに
 先週の23日(水)と24日(木)に教団の年会がオンラインでありました。2日目の24日の午後、任命式を前にした宣教会で教団代表の岩上祝仁先生を通して語られたみことばの中に、マタイ9章37節と38節のイエス様のことばがありました。

マタイ9:37「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 このみことばが読まれた時に私は、今のキリスト教会の収穫が少ない現状のことを思いました。イエス様、本当に収穫は多いのですか?と思いました。でも考えてみると、もし周囲の方々の全員が既にイエス様を信じていて、皆がイエス様に似た者にされていたら、もはや収穫すべき作物は残されていませんね。しかし私たちの周囲にいるのは、これから収穫される方々がほとんどです。ですから「収穫は多いが、働き手が少ない」のですね。

 きょうは、ギデオン協会の兄弟の方々がこの会堂に来て下さっています。ギデオンの方々は、収穫のための働き手として、主に用いられている器方です。本当に感謝なことです。私たちはギデオンの方々の働きがますます用いられ、祝されるように祈るとともに、私たちもまた収穫のために働かなければなりません。それは、ギデオンの働きに参加するということかもしれませんし、もちろん別の方法もあります。神学校に入って牧師になるという道もあります。或いはまた、ギデオンでも牧師でもなくても、イエス様がおっしゃる「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことができる者になることも、働き手の一人となることだと思います。マタイ5章48節でイエス様はおっしゃいました。

マタイ5:48 あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 このように完全な者に少しずつでも近づいて行き、イエス様に似た者にされていくことが、収穫のための働き手となることだと言えるでしょう。イエス様に似た者にされるなら、その人柄に魅力を感じて教会に導かれる方々がおこされるからです。

 そのようにして私たちは神の子どもとされて、平和をつくるために働き、天の御国が地上で実現するために働くことができる、お互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

44 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
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右の頬(ほお)を打たれたら、どうしますか?(2022.3.20 礼拝)

2022-03-21 05:21:53 | 礼拝メッセージ
2022年3月20日礼拝メッセージ
『右の頬(ほお)を打たれたら、どうしますか?』
【マタイ5:39】

はじめに
 先週の礼拝では、『平和のため、天の考え方を身に着ける』というタイトルで、ぶどう園の主人のたとえの箇所などを開きました。神様が平和を望んでおられることは、聖書を読むなら明らかです。それなのに、平和はなかなか実現しません。平和が実現しないのは、神様の考え方が私たち人間の考え方と大きく異なることが理由の一つとしてあるように思います。神様の考え方を理解できていないために、クリスチャンであっても御心に適う生き方ができていないようです。

 神様は最高にきよいお方です。そのきよい神様の考え方を少しでも理解できるように、私たちはきよくなる必要があります。きよくなるとは、きれいになるとは少し違い、神様の考え方に馴染み、身に着けて行くことだろう、そういう話を先週はしました。

 平和の問題を考える時、きょうの箇所のイエス様のことばは、中心中の中心(ちゅうしんちゅう の ちゅうしん)であると言えるのではないかと思います。弓矢の的(まと)で言えば、ど真ん中です。平和について神様がどのような考えをお持ちの方であるかを知るには、この的をはずすわけにはいかないでしょう。

 今日の聖句は、マタイ5章39節です。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①思考停止(拒否or盲従)せずに神様と向き合う
 ②黙って十字架に付いたイエス様(イザヤ53:7)
 ③完全に向けて少しずつ、つくり変えて下さる神様

①思考停止(拒否or盲従)せずに神様と向き合う
 第二次世界大戦後(1945年以降)の日本でクリスチャンになった私たちにとって、ウクライナがロシアからの攻撃を受けている真っ最中の今ほど、イエス様のマタイ5:39のみことばと真剣に向き合うことを求められている時は、かつて無かったのではないかと思います。

 いまウクライナの人々の多くが武器を持って侵攻して来たロシア軍と戦っています。この、今まさに戦っているウクライナの人々に向かってクリスチャンの私たちは、「イエス様が『悪い者に手向かってはいけません』とおっしゃっていますから、戦いをやめて下さい」と言えるでしょうか?

 戦いをやめるべきはロシアの側であって、ウクライナの人々に「抵抗しないで戦いをやめて下さい」とは、言えないだろうと思います。まして、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けて下さい」などとは決して言えないでしょう。

 ロシアは日本にとっても隣の国です。仮にロシアが北方のサハリン(樺太)、国後・択捉方面から北海道に侵攻して来たら、私たちクリスチャンは日本人に「悪い者に手向かってはいけません」と言えるでしょうか?言うことは難しいでしょう。まして、「北海道をロシアに与え、次は本州も与えましょう」とは決して言えないでしょう。でも、それが「右の頬を打つ者に左の頬を向ける」ということではないでしょうか?極端すぎる例えかもしれませんが、究極的には、それが天の考え方なのだと思います。でも、このことばに従うことは、とうてい無理のように思います。

 それでも、イエス様は「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と、おっしゃっています。私たちは、このイエス様のことばと、どう向き合えば良いのでしょうか?

 イエス様のことばの多くは世の常識と異なっていますから、その通りにすることが難しいものが大半です。それでも、きょうのイエス様のことばを除けば、拒否しようとまでは思いません。例えば、先週引用したマタイ18章でイエス様はこのようにおっしゃいました。

マタイ18:3「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」

 大人が子どものようになることは難しいことです。でも、そのようになりたい、とは思うでしょう。難しいことだけれど、イエス様がそうおっしゃるのだから、子どものようでありたいと思います。しかし、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」に関しては、そうありたいとすら思わないのが、普通ではないでしょうか?そんなことは絶対にできない!と思い、深く考えずに拒否したいのが普通ではないかと思います。

 或いは逆に、イエス様がおっしゃることはすべて守るべきだと考え、「イエス様がおっしゃるから」という理由だけで、深く考えずに守ろうとする人も中にはいるかもしれません。でも、これは盲従・盲信の類と言わねばならないでしょう。自分の考えを持たずに盲従するだけであれば周囲から「狂信的」とか「カルト的」などと見られかねません。狂信的という印象を周囲に与えてしまえば伝道することは難しくなります。

 深く考えずに盲従することも、あるいは逆に深く考えずに拒否することも、どちらも思考停止であり、それは好ましいことではありません。私たちは思考停止することなく、イエス様のマタイ5章39節のことばに、しっかりと向き合わなければならないのだと思います。

 イエス様を信じる私たちクリスチャンに聖霊が注がれているのは、そのためです。「助け主」である聖霊は、イエス様がおっしゃったことばを深く理解できるように助けて下さいます(ヨハネ14:26参照)。イエス様はそのために私たちの一人一人に聖霊を注いで下さいました。深く考えずに拒否、或いは盲従するなら、聖霊は要りません。でも私たちには聖霊が注がれています。それはイエス様が私たちに、ご自身のことばをもっと深く理解してもらいたいと願っているからでしょう。

 イエス様のことばは頭で理解できるものでは決してありません。聖霊に助けていただくことで初めて理解できるものです。平和がいつまで経っても実現しないのは、クリスチャンがまだまだ聖霊の助けを十分に得ていないからだ、とも言えるのかもしれません。

②黙って十字架に付いたイエス様(イザヤ53:7)
 もう一度、マタイ5章39節のイエス様のことばをお読みします。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

 私たちがこのイエス様のことばを重く受け留めなければならないのは、イエス様ご自身が黙って十字架に付いたお方だからです。イエス様は39節のことばを言いっ放しにしていたわけではありません。この後で十字架に付いて死にました。

 きょうの聖書交読でご一緒に読んだように、イザヤ書53章7節には、このように書かれています。

イザヤ53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 この様子は、福音書にも見られます。きょうはマタイの福音書を開いていますから、マタイの受難の場面を見てみましょう。マタイ27章11~14節です(p.60)。まず11節と12節をお読みします。

マタイ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。

 イエス様は総督のピラトの質問には短く返事をしましたが、祭司長たちや長老たちが訴えている間はずっと黙っていました。この祭司長たちの訴えは、彼らがイエス様の右の頬を打っているようなものです。続いて、13節と14節、

13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

 祭司長たちはなおも不利な証言をしていました。しかし、イエス様は一切反論せずに黙っていました。それは右の頬だけでなく左の頬も向けたようなものでしょう。つまり、マタイ5章の39節の、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」は、イエス様ご自身が、その通りになさったことです。私たちは、このことを知った上で39節と向き合わなければならないでしょう。イエス様は口先だけで「悪い者に手向かってはいけません」とおっしゃったのではなくて、ご自身の身をもって、それをお示しになりました。

 でも、私たちの多くは右の頬を打つ者に左の頬も向けることはできません。日常生活においては、何か言われればすぐに反論したくなりますし、戦争においては相手から攻撃を受けたら反撃するのが当然と考えます。それが人間の常識的な態度です。でも、天の考え方は違います。イエス様は、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」とおっしゃいました。私たちは、このイエス様のことばにも馴染んで、身に着けて行かなければならないのでしょうか?

 きょうの説教のタイトルは「右の頬を打たれたら、どうしますか?」です。もし、イエス様のおっしゃることがことばだけのことなら、拒否して敵に反撃しても、構わないのでしょうか?そんなことはない筈です。神の御子イエス様がおっしゃることには従うのがクリスチャンでしょう。ましてイエス様はことばだけではなく、十字架でご自身の身をもって示して下さいました。それでもなお、敵に反撃することは仕方のないことなのでしょうか?

 イエス様は二千年前に「互いに愛し合いなさい」とおっしゃり、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。でも二千年が経った今でも世界に平安はなく、平和は実現していません。それは、私たちがイエス様の「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」ができていないからではないか、という気がします。

③完全に向けて少しずつ、つくり変えて下さる神様
 悪い者に手向かってはいけませんとイエス様はおっしゃいますが、その通りにしたら、悪い者がのさばるだけです。そうして悪い者に支配されてしまうから、手向かわないわけにはいかないでしょう、と私たちの多くは考えます。それはつまり、イエス様のおっしゃることを拒否するということです。それでも良いのでしょうか?家族を守り、国を守るためには、イエス様のことばを拒否することになっても敵に反撃することは仕方のないことなのでしょうか?これは、私たちの一人一人がイエス様と向き合って考えるべきことだと思います。イエス様を信じた者には聖霊が与えられますから、一人一人が聖霊の助けを得ながら、イエス様のこのことばと向き合わなければならないと思います。

 受け入れることが難しいイエス様のことばを何も考えずに拒否したり盲従したりするのでなく、聖霊の助けを得ながら深く思いを巡らすなら、聖霊が私たちを少しずつイエス様に似た者へとつくり変えて下さいます。反射的に拒否したり盲従したりするのでなく、聖霊の助けを得ながら思いを巡らすなら、聖霊の働きによって私たちは少しずつ、つくり変えられて行きます。

 マタイの福音書5章の終わりの48節で、イエス様は次のようにおっしゃっています。

マタイ5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 この48節の「ですから」は、この直前の段落だけを受けているのではないでしょう。きょうの39節のことばも受けていると思います。それだけでなく、5章の山上の説教の最初からのことばのすべてが、この48節に掛かっていると言っても良いでしょう。

 私たちはもちろん天の父のような完全な者にはなれません。でも、聖霊の働きによって少しずつですが、つくり変えられて行くことはできます。完全にはほど遠い者たちですが、1ミリ1ミリ、或いはもっと少ない歩みで、1ミクロン1ミクロンかもしれませんが、イエス様に近づくことができます。それほど遅い歩みですが、イエス様に似た者へとされて行くことができます。右の頬を打たれたら、左の頬を向けることができるようになるには、長い時間が掛かるかもしれませんが、それでも1ミリ1ミリ、或いは1ミクロン1ミクロン、ほんの少しずつでも良いから、近づいて行くべきだとイエス様はおっしゃっているように思います。

 このように思いを巡らす時、私たちが毎週礼拝でささげている「主の祈り」の、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」(マタイ6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように)、とは実は、「私たち自身が為すものなのであろう」ということに気付かされます。もちろん私たちは無力ですから、私たちが為そうと思っても決して為せるものではありません。しかし、私たちがほんの少しずつでも変えられて行くことによって、為されて行くものなのだろうということに気付かされます。

 すると、黙示録21章の冒頭の新天新地の光景も、私たち自身がつくるものではないか、ということにも気付かされます。もう一箇所、ヨハネの黙示録21章の1節から5節までを、ご一緒に読みたいと思います(p.516)。お読みします。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 新しい天と新しい地においては、4節にあるように、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。それは、私たちの一人一人がつくり変えられて行くことで実現するものなのかもしれません。5節で御座に座っておられる方は仰せられました「見よ、わたしはすべてを新しくする。」これは、私たちが新しくつくり変えられることで実現するということを示しているのではないでしょうか。

 これは、とても難しいことであり、長い時間が掛かることです。そして、この新天新地の実現にどうしても必要な一歩が、今日の聖句のマタイ5章39節の「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」ということなのかもしれません。これを「無理!」と決めつけて反射的に拒否してしまうなら、二千年経っても五千年経っても、何千年経っても、いつまで経っても「新しい天と新しい地」(黙示録21:1、イザヤ65:17、イザヤ66:22)は実現しないのかもしれません。

おわりに
 きょう、ご一緒に考えた問題は、とても難しい問題です。現実的には人から、或いは他の国から攻撃を受けたなら反撃しないではいられない、それが、現実の中を生きる私たちの姿であろうと思います。でも、イエス様は「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」とおっしゃいました。そうして、「十字架に付けろ」と叫んだ者たちに対して、イエス様は何の反論もせずに黙って十字架に付かれました。私たちはこのことを、しっかりと覚えていたいと思います。イエス様は悪い者に手向かわずにいて、右の頬を打つ者には左の頬を向けました。そのイエス様が、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」とおっしゃいました。その完全のお手本がイエス様です。ですから私たちは、イエス様に似た者へと聖霊によってほんの少しずつでも変えられて行きたいと思います。そうして、平和をつくる者へと変えられて行きたいと思います。

 変えられることを拒み、1ミリも変わろうとしないで、ただ単に祈るだけであるなら、平和の祈りが聞かれることはないのではないでしょうか?イエス様に似た者にはほど遠い者であっても、ほんの少しでも変えられたいと願いながら祈ることで、平和をつくる者へと変えられて行き、平和が実現して行きます。時間は掛かりますが、何千年経っても戦争の悲劇が繰り返され続けることのないように、私たちは変えられて行かなければなりません。

 お祈りしましょう。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

イザヤ53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


今春のチューリップ(2022年3月20日撮影)
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誓ってはいけません(2022.3.17 祈り会)

2022-03-18 15:06:31 | 祈り会メッセージ
2022年3月17日祈り会メッセージ
『誓ってはいけません』
【マタイ5:33~37】

マタイ5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 先週から、天の考え方に馴染むことを始めています。平和のために私たちはもっときよくなる必要があると思います。その場合、きよくなるとは、きれいになることだと考える人が少なくないかもしれません。しかし、きよくなるとはきれいになるとは少し違って、天の考え方に馴染んで身に着けて行くことではないか、そういう話を先週の祈り会と礼拝でしました。

 天の考え方はいろいろな点で私たちのこの世の常識とは異なります。この天の考え方を身に着けるなら、私たちは平和をつくる者へとつくり変えられていくのだと思います。

 さてしかし、平和のために天の考え方を身に着けるとしたら、避けて通れないのがマタイ5章の38節から48節に掛けてではないかと思います。イエス様は39節でおっしゃいました。

マタイ5:39 「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」

 或いはまた、イエス様は44節でおっしゃいました。

44 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

 平和をつくる者にされるためには、これらのイエス様のことばは避けて通れず、しっかりと向き合う必要があると思います。それで、次の20日の礼拝では39節と向き合いたいと願っています。そして27日の礼拝では44節と向き合うことを考えています。その前に、きょうの祈り会ではそれらの手前の33節から37節までをご一緒に見てみたいと思います。

 きょうの箇所でイエス様は「誓ってはいけません」とおっしゃっています。33節と34節、

33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

 この、「~と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」というフレーズは、前のページの21節から繰り返し使われているものです。そして、イエス様はきょうの箇所では「誓ってはいけません」とおっしゃっています。どうして誓ってはいけないのでしょうか。

 先ず思い浮かぶことは、誓う人は自力で何とかしようとするタイプの人たちであろう、ということです。そうして失敗を繰り返す傾向があるように思います。「もう二度と〇〇はしません。誓います。」と言っても、すぐにまたしてしまいます。人間は弱いですから、誓っても守れないものは守れません。モーセの時代のイスラエルの民も、「主の言われたことはすべて行います」(出エジプト24:3)と言いましたが、できませんでした。

 自力で何とかするのは無理です。ですから、誓ってでもやり通したいことがあるなら、それを誓うのではなく、それができる者へと変えられるように、神様に祈るべきでしょう。イエス様も言っておられますが、私たちは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないほど無力な者です。ですから自分で自分を変えることはできません。神様に祈って変えていただかなければなりません。そうして天の父が完全であるように、完全な者へと変えられて行かなければなりません。48節のイエス様のことばの、

48 「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」

は、この直前のことばだけを受けているのではなく、きょうの箇所を含めたもっと前の箇所からのことばを受けているのでしょう。それは21節からかもしれませんし、もしかしたら山上の説教の最初の5章3節からのことばがすべて48節に掛かっているのかもしれません。

 天の父のように完全になることは、自力であればもちろん無理です。でも天の父に不可能なことはありませんから、それを信じて天の父のような完全な者へと変えられますようにと祈るべきだと、イエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。

 次に、もう一つ、どうして誓ってはいけないのか、考えられることがあります。それは、私たちは明日にはどうなっているか分からない、ということがあるように思います。例えば、「私は明日から毎朝必ず1時間以上祈ります」と誓ったとします。でも明日の朝、自分がどうなっているのかは神様しかご存じないことです。「これからは教会の集会にはすべて出席します」と誓ったとしても、コロナで集会に出席できなくなるかもしれません。或いはまた、大きな地震が起きるかもしれません。あってはならないことですが、戦争が起きてしまうかもしれません。

 明日、自分がどうなっているのかが分からないということを示す恐ろしい箇所がルカの福音書にありますね。ご一緒に見てみたいと思います。ルカの福音書12章16~21節です(p.141)。お読みします。

ルカ12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

 この箇所を初めて読んだ時、ぞっとしたことをよく覚えています。このように、私たちには、自分の身が明日はどうなっているのかまったく分かりません。神様だけがご存じです。但し、これは恐ろしい例であって、反対に素晴らしいことだって有り得ます。自分では予期していなかった良いことが起きることもあるかもしれません。御霊の実が少し結ばれて、イエス様に似た者に少し近づくことも有り得ます。そうして、段々とイエス様に似た者へと変えられて行きます。自分の身に明日何が起きるか私たちには分かりませんが、それは悪いことばかりではなく、良いことが起きるかもしれません。それを知っているのは神様だけです。ですからすべてをご存じの神様にすべてをお委ねして、祈りつつ、一日一日を生きて行くべきではないでしょうか。

 39節の「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と44節の「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」も同じように、すべてを神様にお委ねしてそのような者に変えられるように祈りつつ日々を過ごすべきなのかもしれません。それは礼拝でまた改めて、ご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。お祈りいたしましょう。
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平和のため、天の考え方を身に着ける(2022.3.13 礼拝)

2022-03-14 09:50:37 | 礼拝メッセージ
2022年3月13日礼拝メッセージ
『平和のため、天の考え方を身に着ける』
【マタイ20:1~16】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは『平和のため、天の考え方を身に着ける』です。先日の木曜日の祈祷会でも話したことですが、平和をつくるためには「きよめ」とは何かについて改めて考え直してみる必要があると感じています。ロシア軍が攻撃しているウクライナの悲惨な状況をテレビやネットで見るにつけ、私たちは平和の大切さをヒシヒシと感じます。

 イエス様は最後の晩餐で「互いに愛し合いなさい」と何度もおっしゃり、また十字架で死なれて復活した後に「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃいました。この時から二千年も経つのに、未だに戦争が絶えません。戦うことをやめて、平和をつくる者へと変えられるために、私たちはもっときよめられる必要があります。

 イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」(マタイ5:8)とおっしゃり、その後で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)とおっしゃいました。心のきよい者は恵みの高嶺の変貌山に連れて行っていただくことができ、神の御姿のイエス様を見ることができます。そのように神の御姿のイエス様を見る者が平和をつくり、神の子どもと呼ばれて祝福されるのだと思います。二千年経っても平和がないのは神様が見えない者が多いからではないでしょうか。神様が見えないなら神様の声も聞こえません。それは、神様の「(戦いを)やめよ」(詩篇46:10)の声も聞こえないということです。

 ですから、平和のために私たちはもっときよくなる必要があると思います。しかし、「きよくなる」というと、「そんなの無理」と考える人もいるでしょう。以前の私がそうでした。それは「きよくなる」とは「きれいになる」ことと考えていたからです。自分のように汚れた者がきれいになることは有り得ないと思っていました。でも、「きよくなる」ことと「きれいになる」こととは少し違います。

 木曜日の祈祷会でも話しましたが、結論から先に言うと、「きよくなる」とは、神様の考え方に馴染んで、それを段々と身に着けて行くことではないかと思います。祈祷会では、マタイ18章3節のイエス様のことばに思いを巡らしました。イエス様は「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国には入れません」とおっしゃいました。これが天の考え方です。きょうはマタイ20章のぶどう園の主人の箇所と、その他の章も見ながら、天の考え方に馴染みたいと思います。

 きょう注目したい聖書の箇所は広くて実は中心聖句を絞り切れません。それでマタイ20章の冒頭部分の1節と2節にしておきたいと思います。

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①存在は高価だが働きは1デナリの小さい私たち
 ②イエス様に負わせた罪は1人当り1万タラント
 ③幼子のような者が恵みの高嶺に連れて行かれる

①存在は高価だが働きは1デナリの小さい私たち
 きょうの聖書箇所のぶどう園の主人のたとえの全体をまず見ておきましょう。マタイ20章の1節と2節、

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 このぶどう園の主人は天の父あるいはイエス様ですね。そして、1日1デナリの約束でぶどう園に送られた者は、天の御国に入ることが約束された者と考えて良いと思います。主人と最初に約束した者たちは朝早く、午前6時頃でしょうか、ぶどう園で働き始めました。そうして、主人は午前9時、12時、午後3時、午後5時にも何もしていない人をぶどう園に送りました。「何もしていない」とは、神様のために働いていないということでしょう。

 さて夕刻になった午後6時頃、主人は監督に言って賃金を払いました。まず午後5時頃にやとわれた者たちには1デナリを支払いました。1デナリは1日の労賃ですから、分かりやすく1万円と考えましょう。彼らは1時間しか働いていないのに1日分の労賃の1万円を受け取りました。そして3時間働いた者、6時間働いた者、9時間働いた者たちにも1万円が支払われて、最後に朝6時から12時間働いた者たちにも同じ1万円が支払われました。10節です。

10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。

 それで彼らは主人に不満をもらしました。12節、

12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』

 しかし、13節と14節、

13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。

 このたとえ話の、朝早くから12時間働いた者、夕方5時から1時間しか働かなかった者たちはいろいろな者たちに当てはまりますね。

 例えばペテロは最初にイエス様に付き従った一番弟子です。でも神様は一番弟子が一番偉いとは考えません。最後にイエス様に従った者も一番弟子のペテロと同じように扱います。また、朝早く雇われた者たちはイスラエルの民族と考えても良いでしょう。まずイスラエルの民が神様に選ばれて、次いで異邦人にイエス様の福音が伝えられました。異邦人の中でも日本に福音が伝わったのは遅い方です。日本の中でも早く伝わった地域と、なかなか伝わらなかった地域とがあります。しかし、神様はどの地域の者たちも同じように扱って下さいます。

 或いはまた、何歳の時にイエス様を信じたかでも、早い人と遅い人とがいます。クリスチャンホームなら小学生になるかならないかぐらいでイエス様を信じる子もいます。クリスチャンホームでなくても、教会学校でお話を聞いて、小学生の時にイエス様を信じる子供もいます。一方、私が信じて洗礼を受けたのは42歳の時ですから、小学生で洗礼を受けた方に比べればだいぶ遅いです。それでも、もっと高齢の70代、80代でイエス様を信じた人に比べれば早いほうでしょう。いずれにしても天の神様は小学生の時にイエス様を信じた者でも、天に召される直前に信じた者でも、同じように扱って下さいます。

 その他にも、このたとえ話から読み取れることがあります。それは、このパートの表題でも示したように、私たちの存在自体は高価で尊いものですが、私たちは1デナリ分の働きをするのがせいぜいの、小さな者たちであるということです。神様はイザヤ書43章4節でおっしゃいました。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 私たちは高価であると神様は仰せられます。私たち一人一人の存在そのものが高価なのですね。でも私たちが朝から12時間汗水たらして、どんなに一生懸命働いても、1デナリ分の仕事をするのが精一杯です。

 マタイ25章には5タラントもうけた者、2タラントもうけた者のたとえ話がありますが、それは神様があらかじめ5タラント、2タラントを預けて下さったからです。1タラントは6000デナリ、つまり6000万円ですから、5タラントもうけた者は3億円ももうけましたが、それは神様が3億円を預けて下さったから倍に増やすことができました。何も持たずに手ぶらでいた者がぶどう園で働いて得られる賃金は1万円がせいぜいです。それでも1万円もいただけるなら感謝なことです。

②イエス様に負わせた罪は1人当り1万タラント
 お金の話が出たところで、私たちの罪は一体いくらに相当するのかを見ておきたいと思います。あちこち見ることになってすみませんが、マタイ18章の1万タラントの負債のある者の話を見たいと思います。マタイ18章21節から27節を、お読みします。

マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

 1万タラントは6000万デナリですから、1万円×6000万で6000億円です。私たちの罪はそれほど重いということです。因みに働いて返すとしたら、1日に1デナリしか返せませんから、6000万日働かなければなりません。6000万日は約16万4千年です。もちろん一生働いても返せる金額ではありません。その私たちの重い罪をイエス様は背負って十字架に掛かり、赦して下さいました。これほどの罪を私たちは赦していただいたのですから、私たちも人を赦さなければなりません。ですからペテロがイエス様に「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」と聞いた時、イエス様は答えました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

 これが天の考え方です。私たちはこの天の考え方に先ず馴染んで、そうして少しずつ身に着けて行きたいと思います。それがきよめられるということではないでしょうか。きよくなるとは、きれいになることとは少し違います。このような天の考え方を身に着けて行くことでしょう。そうして平和をつくる者へと変えられたいと思います。

③幼子のような者が恵みの高嶺に連れて行かれる
 1万タラント、6000億円もの罪の大半は、私たちが幼子から大人へと成長する過程で身に着けてしまうものです。私たちは天の考え方を身に着けるべきなのに、世の中を生きて行く中で必要のない罪までも身に着けてしまいます。

 たとえば喧嘩。子供でも喧嘩をして、それも罪の一つかもしれませんが、子供の喧嘩は殺人までには発展しません。しかし、大人の喧嘩は人を殺すところまで発展する場合がありますから、罪に罪を重ねます。その行き着く先が戦争であり、最もおぞましいのが悪魔の兵器である核兵器の使用です。広島と長崎では実際に核兵器が使われました。そして、ウクライナの戦争では再び使用されることが心配されています。この核兵器の罪のおぞましさは1万タラントを70倍しても、まだ足りないぐらいです。核兵器は極端であるとしても、大人はこういう重い罪を成長する過程で身に着けてしまいます。

 いまちょうどマタイ18章を開いていますから、18章の1節から5節をお読みします。

マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

 これが天の考え方です。「きよくなる」ということは、この天の考え方に馴染み、身に着けて行くことでしょう。そのためには、大人になる過程で身に着けた余計なものを脱ぎ捨て、手放して行かなければなりません。これはとても難しいことですが、イエス様がすべてを手放し、衣服すらもはぎ取られて十字架に付けられたことを思うなら、少しずつでも手放して行くべきではないでしょうか。

 そうして段々と身軽になるなら、恵みの高嶺へとイエス様は連れて行って下さいます。恵みの高嶺は遠いですが、少なくとも山の裾の暗い樹海を抜けて森林限界の上の高い木が育たない場所までイエス様に連れて行っていただけば、恵みの高嶺を下から仰ぐことはできるようになります。

 先月の礼拝説教で「森林限界」の話をしました。ちょうど1ヶ月前の2月13日に将棋の藤井聡太棋士が五つめのタイトルを取って五冠になった記者会見で「森林限界」ということばを使ったことを受けてのことでした。藤井五冠は記者から、富士山で言うと、いま何合目ぐらいを登っているイメージかと聞かれました。その答が、将棋はとても奥が深いゲームでまだ頂上も見えていないので、今は森林限界の手前にいると思う、というものでした。

 この藤井五冠の森林限界のコメントを引用した説教は2月20日にしました。この時はまだロシアはウクライナに侵攻していませんでした。しかし、その4日後の2月24日に戦争が始まりました。戦争の原因の多くは不安です。ですから私たちはイエス様に恵みの高嶺に連れて行っていただき、心の深い平安を得ることができるようにならなければなりません。

 プーチン大統領は、旧ソ連が解体して東ヨーロッパの諸国が次々に西側のNATOの陣営に加わって、不安が増して行ったと言われています。もちろん、それだけが理由ではないでしょうが、プーチン氏が心の深い平安を得ていたなら、決して今のような事態にはなっていないでしょう。

 武力で不安を解消することは決してできません。軍備を増強すれば相手も軍備を増強しますから不安はますます大きくなります。不安を解消するためには万軍の主に守っていただくことが一番であることを私たちは知っています。そして万軍の主は不安を取り去って下さるだけでなく、不安を抱えていた時には想像すらできなかった心の深い平安を与えて下さいます。この平安の深さは無限ですから、私たちはもっと天の考え方を身に着けて、きよめられ、さらに深い心の平安を与えていただきたいと思います。それがイエス様に恵みの高嶺に連れて行っていただくということです。平安が深まれば深まるほど、私たちは恵みの高嶺の上の方へと連れて行っていただけます。

おわりに
 きよめられないなら、罪がまだ残ったままですから、平安は得られません。マタイ20章の15節と16節をまだ見ていませんでしたから、最後にこの2つの節を読んで終わりたいと思います。15節と16節、

15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

 ねたみもまた罪ですね。朝6時から12時間働いていた者たちは、天の御国に入ることが約束されていながら、まだ恵みの高嶺の遥か下の暗い樹海の中にいて、ねたみの罪をしっかりと抱えていました。せっかく早い時期からイエス様と一緒に歩むことが許されたのに、このようなねたみの罪に縛られているのは、とても残念なことです。

 神様はおっしゃいました。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 この神様の豊かな愛に包まれているなら、神様の考え方に馴染み、身に着けて行くことができるでしょう。そうして、自分が握っているものを少しずつ手放してきよめられ、深い平安をいただくことができる、お互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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神様の考え方に馴染んできよくなる(2022.3.10 祈り会)

2022-03-14 09:23:01 | 祈り会メッセージ
2022年3月10日祈り会メッセージ
『神様の考え方に馴染んできよくなる』
【マタイ18:1~5】

 今、ウクライナで起きていることを私たちは毎日テレビやネットで見て、平和の重要性を改めて感じているところです。そして同時に、「きよめ」という言葉についても改めて考え直してみる必要があるのではないかと思わされています。

 平和をつくるためには、きよくなる必要があります。この、「きよくなること」に関しては「心がきれいになること」と考える人が少なくないかもしれません。もちろん、「心がきれいになること」で大きな間違いはないと思いますが、誤解を招きやすい表現であるという気がします。きよくなることが、心がきれいになることだとすると、自分には無理だとあきらめてしまう人もいるかもしれません。それは、とても残念なことです。

 誤解を招きやすい他の呼び方の例を挙げると、キリスト教とは関係ありませんが、たとえば「認知症」のことを昔は「痴呆症」と呼んでいました。これは、かなり誤解を含んだことばだと思います。「痴呆になる」とは、あまり使いたくないことばですが「馬鹿になる」と言っているに等しいと思います。しかし、「認知症」は決して馬鹿になる病気ではないですね。

 或いはまた、「生活習慣病」のことを昔は「成人病」と呼んでいました。「成人病」を「生活習慣病」と呼ぶことにしようと提案したのは日野原重明さんだそうですね。高血圧や糖尿病などを「成人病」と呼んでいた頃は、大人になったら掛かっても仕方がない病気だという誤解がありましたが、食事や運動などの健康管理に気を配って良い生活習慣を身に着けているなら掛かりにくい病気であると認識が改められました。

 「きよめ」或いは「きよくなる」も誤解を招きやすいことばのように感じます。「きよめ」或いは「きよくなる」ということば自体を変える必要はありませんが、誤解を解く必要はあるのだろうと思います。

 ですから、これから少しの期間、祈り会と、そして礼拝でも分かち合って行こうかと思っています。それは私たちがきよくならなければ、平和をつくることができないからです。

 結論から先に言うと、「きよくなる」とは、神様の考え方に馴染んで、それを身に着けて行くことではないかと思います。まずは聖書によって神様の考え方に馴染んで行くことから始めるなら、きよめへのハードルもそんなに高くはならないだろうと思います。

 聖書を見て行きましょう。マタイ18章の1節、

マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」

 この箇所は、マルコとルカの福音書では、弟子たちの間で誰が一番偉いか論じ合っていたと書かれています。また、マタイはこの後の20章でゼベダイと息子のヤコブとヨハネの母親がイエス様に、「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」と頼んだことを書いていますから、18章1節の、弟子たちの質問の「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」は、「弟子たちの中で誰が一番偉いのですか」ということなのでしょう。

 しかし、そもそも神様の中には、誰が一番偉いのか、というような考え方はないのだろうと思います。4節でイエス様は「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」とおっしゃっていますが、これは弟子たちの質問に付き合っただけで、そもそも誰が一番偉いなどという考え方は神様はしないのだと思います。

 「誰が一番偉いか」は、とても人間的な考え方です。こういう考え方を私たちは幼子から大人へと成長するに連れて、だんだん身に着けていってしまいます。それゆえイエス様は一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて(2節)、3節でこう言われました。

3 「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」

 これが神様の考え方です。私たちが幼子から大人に成長する過程で身に着けてしまった人間的な考え方を、私たちは手放して幼子のようにならなければなりません。ただし、私たちが身に着けたものの全てが天の御国にふさわしくないということはないでしょう。全部手放して皆が全くの子どもになったら、社会は混乱するでしょう。大人として身に着けるべきことは当然あることと思います。そこら辺が、とても難しい点だと思います。何を手放し、何は手放さなくても良いのか、それが分かるようになって行き、身に着けて行くことが、きよめられて行くということではないでしょうか。人間的な考え方ではなく、神様の考え方に馴染んで少しずつ身に着けて行くこと、と同時に不必要な人間的な考え方は手放して行くこと、それがきよめられていく、ということではないでしょうか。

 神様の考え方がどのようなものかは、難しいですが、自分を低くすることが大切であることが4節から分かります。4節、

4 「ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」

この4節のことばからは、最後の晩餐でイエス様が弟子たちの足を洗った場面を思い起こしますね。ヨハネの福音書13章には、次のように書かれています。

ヨハネ13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 そうして、イエス様はこの最後の晩餐の後、十字架の受難へと向かって行きました。これも人間の常識では考えられないことです。ピリピ人への手紙でパウロは書きました。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 ここまで自らを低くするのが神様の考え方だということですね。きよくなることが、きれになることとは少し違うということが、この十字架からも分かることと思います。心がきれいであれば十字架に付くことができるかと言えば、それは難しいことではないでしょうか。

 最後にマタイ18章5節、

マタイ18:5 「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

 自分を低くしたイエス様を受け入れるには、大人の人間の常識にとらわれていては難しいことです。まして、イエス様と似た者にされることは、もっと難しいことです。でも、それができないから、この世はいつまで経っても平和が訪れないのでしょう。
 私たちは平和をつくる者とされたいと思います。ですから、私たちは大人の常識を少しずつでも手放して、自らを低くされたイエス様に似た者へときよめられて行きたいと思います。お祈りいたしましょう。

3 「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」
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戦いをやめよ。知れ。わたしこそ神(2022.3.6 礼拝)

2022-03-06 13:52:29 | 礼拝メッセージ
2022年3月6日礼拝メッセージ
『戦いをやめよ。知れ。わたしこそ神』
【詩篇46:1~11】

はじめに
 ある出来事が世界を大きく揺るがし、人々の世界を見る目が大きく変わることがあります。21世紀に入ってからも、そのようなことが何度もありました。2001年の同時多発テロでニューヨークのワールド・トレード・センターの2つの高層ビルに民間の旅客機が激突して崩壊したことにより、私たちは国と国との間の戦争だけでなく、テロ組織もまた世界の平和を乱すことを知りました。テロ組織が危険なことに気付いていた人も少なくなかったとは思いますが、私たちの大半はテロ組織の危険性を十分に理解しないでいました。

 11年前の東日本大震災で私たちは地震と津波の破壊力の大きさを目の当たりにしました。東北の太平洋沿岸に住んでいた方々は実際にご自分の目でそれを見て、私たちはテレビの映像を通して津波が建物を破壊する様子を見ました。そして多くの方々が犠牲になった様子を見ました。さらに地震と津波は福島第一原発をも襲いました。福島第一原発は外部電源を喪失して、さらに非常電源用のディーゼル発電機も水没して、原子炉を冷却できない状況になり、核燃料の炉心が溶融するメルトダウンの重大事故が発生しました。これも予期していた人も一部にはいましたが、大半の人はこれほど重大な事故が起きるとは考えておらず、対策は十分ではありませんでした。まさか、こんな事が起きるとは、というのが大多数の人の感想であったと思います。しかし、このことで原発の危険性が大きく認識されるようになりました。

 そして一昨日の3月4日の金曜日、ロシア軍がウクライナ南部のザポリージャ原発を攻撃して制圧するという前代未聞の暴挙が報道されました。6基あるうちの1基は稼働中であったということで、攻撃によって核分裂が制御できなくなったり電源を喪失したりすれば福島第一原発の事故を上回る甚大な被害が出る可能性がありました。ロシア軍によるウクライナへの侵攻自体がまさか、こんな事が起きるとはというショッキングな出来事でしたが、さらに稼働中の原発を攻撃するとは、本当に考えられない事態です。

 このロシアの暴走を止めなければなりません。ロシアの暴走は、制御できなくなった原子炉の暴走のように非常に危険です。神様は「戦いをやめよ。知れ。わたしこそ神」とおっしゃっています。しかし、この神様の声はロシアのプーチン大統領の耳には届いていません。プーチン大統領はキリスト教のロシア正教会の信徒だそうですが、神様の声に耳を傾けようとしません。原発を攻撃するほどの暴走ですから、この先いったいどこまで暴走するのか分かりません。原発を攻撃するほど歯止めが掛からなくなっていますから、核兵器を使用するという、まさかの事態も有り得るのかもしれません。予測不能な動きをするという点では国家とうよりテロ組織に近いとすら感じます。後になって振り返るなら、このウクライナの戦争も私たちの考え方が大きく変えられたターニングポイントになるのではないかと思います。

 このような事態の中で、私たちはどうしたら良いのでしょうか?詩篇46篇をご一緒に見て、神様の御声を、耳を澄ませて聞きたいと思います。きょうの中心聖句は詩篇46篇の9節と10節です。
 
詩篇46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。
10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」

 そして次の三つのパートで話を進めます。

 ①心に平安がない者たちがこの世の平和を乱す
 ②聖所からの水が豊かに流れる神の都の平安
 ③平安を知る者が多数になれば実現する平和

①心に平安がない者たちがこの世の平和を乱す
 心に平安がないと平和が乱れることは、個人レベルの小さなことでは日常的にあることです。マリアの姉のマルタはイエス様へのもてなしのことでイライラしていて平安がなく、妹のマリアに不満を持ちました。この程度で済めば良いですが、イスラエルの初代の王のサウルは部下のダビデを殺そうとしました。ユダヤの王のヘロデはイエス様が生まれた時、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいました。サウル王もヘロデ王も、自分の王位をおびやかす者が現れたことで平安を失っていました。いまNHKで放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、いずれ源頼朝が弟の義経を討伐することになると思います。義経が期待していた以上の働きをして人々の間で人気が高まったことが、頼朝を不安にさせたのでしょう。頼朝と義経の関係はサウル王とダビデの関係に似ている点があると思います。

 第二次世界大戦中にアメリカが原爆の研究開発を急ピッチで進めたのは、ドイツが先に原爆の開発に成功することを恐れた不安からだとされています。しかし、実際はドイツではほとんど進んでいませんでした。当時の技術では原爆を作ることは相当に難しかったのですね。日本も試みましたが、ほとんど進みませんでした。それほど難しいことを、アメリカは莫大な資金と大勢の人員を投入して成し遂げました。原爆の開発に携わったメンバーにはノーベル賞級の優秀な科学者も多数含まれていました。そうしてアメリカはドイツではなく日本の広島と長崎に原爆を投下しました。原爆となると、サウル王のような個人レベルではなく、世界レベルで平和が乱されます。

 ロシアのプーチン大統領も、旧ソ連が解体した後で東欧諸国が次々にNATOに加盟したことを不安に思っていたと言われています。プーチン氏はウクライナが西側の陣営に入ることを、どんな手段を使ってでも阻止したいようです。それがザポリージャ原発を攻撃して制圧するという暴挙として表れています。プーチン氏はまったく平静を失っているとしか言いようがありません。平静が失われるのは心に平安がないからです。平和のためには世界の指導者が心に深い平安を得る必要があります。そのためには、まず国民が深い平安を得る必要があるのだと思います。指導者が暴走して国民を戦争へと駆り立てても、動かされない平安を国民の側がしっかりと持つ必要があるでしょう。

②聖所からの水が豊かに流れる神の都の平安
 きょうの聖書箇所の詩篇46篇を読むと、この詩篇には先ず主が与えて下さる深い平安のことがしっかりと記されていることに気付きます。次いで国々が立ち騒ぐ様子が記されて、最後に主は「やめよ。知れ。わたしこそ神」と仰せられます。このように、詩篇46篇は三つに区分できるようです。1) 主が与える深い平安、2) 立ち騒ぐ国々、3) 「やめよ」と仰せられる主、の三つの区分です。詩篇46篇を1節から見て行きましょう。

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむとき そこにある強き助け。

 神様は私たちの避け所であり、また力ですから、神様に心を寄せるなら心の平安が得られます。苦しむ時にも神様に心を寄せるなら心の平安が得られますから、強い助けになります。2節と3節、

2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。

 神様に心を寄せて深い平安を得ているなら、山々が揺れ動くような恐ろしいことが起きても私たちの心は平安なままであり、恐れはありません。そして4節と5節、

4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでに これを助けられる。

 神様が与えて下さる平安は、豊かな水をたたえてゆったりと流れる川のようです。この川が流れている所では、すべてのものが生きます。聖書にはそのような川の記述がありますね。真っ先に思い起こすのはエゼキエル書47章と黙示録22章です。エゼキエル47章の9節と12節をお読みします。

エゼキエル47:9 「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 エゼキエルが御使いに見せられたのと同じような川の光景を、ヨハネもまた御使いに寄って見せられました。黙示録22章です。1節と2節、

黙示録22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 この水の源は聖所ですから、この川の水は神の霊の水、すなわち聖霊でしょう。私たちは神様に心を寄せるなら聖霊に満たされて深い平安を得ることができます。

 一方、この豊かな平安の恵みを知らない者たちは心を騒がせて、平和を乱します。詩篇46篇に戻ります。6節と7節、

6 国々は立ち騒ぎ 諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7 万軍のはわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。

 神様は立ち騒ぐ諸方の王国を鎮められます。8節と9節、

8 来て見よ。のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。

③平安を知る者が多数になれば実現する平和
 戦いをやめさせるお方の神様は、仰せられます。10節、

10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」

 世界で、そして日本でも、これまでに無数の戦争がありました。20世紀には第一次世界大戦と第二次世界大戦がありました。そして今また、ロシアがウクライナに侵攻して戦争が起きています。神様はロシア正教の信徒のプーチン大統領にも「やめよ。知れ。わたしこそ神」と仰せられています。しかし、この神様の声はプーチン大統領には届いていないようです。どうすれば届くのでしょうか?

 神様の声は聖霊を受けていない人には届きません。ですから、旧約の時代には聖霊を受けた預言者たち、モーセやエリヤ、イザヤやエレミヤ、エゼキエルなどが神様の声を人々に届けていました。しかし、預言者たちの数は限られていましたから、人々の間に十分に届かずにいて、旧約の民は不信仰を繰り返していました。

 その不信仰の罪をイエス・キリストはすべて背負って十字架に付き、不信仰の罪は赦されました。イエス様は旧約の時代の罪だけでなく、新約の時代の私たちの不信仰の罪もすべて背負って十字架に付きましたから、20世紀と21世紀を生きる私たちの罪も赦されています。そうしてイエス様を信じた私たちは聖霊を受けています。聖霊とは洗礼を受けてキリスト教徒になれば注がれるわけではありません。イエス様を信じなければ注がれません。たとえ洗礼を受けていても不信仰を悔い改めず、イエス様の復活も信じず、イエス様が神の子キリストであることを信じない名ばかりのキリスト教徒には注がれません。プーチン大統領も、きっとその一人なのでしょう。

 そのようにまだ聖霊を受けていない人に対しては、聖霊を受けた私たちが神様の「やめよ」の声を届けなければなりません。でも、私たちの声はまだまだ小さいようです。声が小さいゆえに届いていないのだと思います。これは霊的な声ですから、実際の話す声を大きくすることとは違います。街頭のデモやSNSで「やめよ」と大きな声で叫ぶことも大切ですが、私たちは聖霊を通してイエス様の名によって「やめよ」と叫びます。霊的な耳が閉じている人々の魂を揺さぶり、霊的な耳が覚醒するような大きな声で「やめよ」と叫びます。

 では、私たちの「やめよ」の声が大きくなるようにするには、どうすれば良いのでしょうか?それは私たちがもっと深い平安を得ることではないでしょうか。それは詩篇46篇前半の深い平安を得ることなのだと思います。

4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。

 この深い平安と、戦争で混乱する世の中とのギャップが大きくなれば大きくなるほど、「やめよ」を伝える霊的な声が強く大きくなるのではないでしょうか。この詩篇46篇の平安を得ることは、変貌山の神の御姿のイエス様に大胆に近づくことと言い換えても良いかもしれません。

 聖書はいろいろな書き方で、私たちがもっと神様に大胆に近づくようにと招いています。ヘブル人への手紙の記者は次のように書いていますね。

ヘブル 4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 私たちはイエス様を信じて聖霊を受け、イエス様の血によってきよめられているがゆえに聖所の恵みの御座に大胆に近づくことが許されています。罪で汚れた私たちはそのままでは聖所に入ることなど絶対にできません。でもイエス様が十字架に掛かって血を流し、その十字架の血によって私たちはきよめられましたから、大胆に聖所に入ることができます。ヘブル人への手紙10章19節に書いてある通りです。

ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

 このことはイエス様が山上の説教でもおっしゃっていることです。マタイ5章8節です。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 こうして神様に大胆に近づき、御姿を見ることで私たちは心の深い平安を得ます。詩篇46篇1節にあるように、

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむとき そこにある強き助け。

です。この神様の御姿を見るなら、この詩篇46篇1節は単に信じていることではなく、実際のことになっていますから、心の深い平安が得られます。

 そうして深い平安を得た私たちの仲間が増えて共に祈るなら、神様の「やめよ」を大きな声でプーチン大統領とロシアの軍隊に届けることができます。

おわりに
 最後に詩篇46篇11節をお読みします。

11 万軍のはわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。

 万軍の主は、軍は軍でも弓や槍、鉄砲や爆弾で制圧して国を治める方ではありません。深い平安を人々に与えて国を治めるお方です。万軍の主が治める国は天国であり、深い平和に満ちた国です。聖霊を受けた私たちは既にこの深い平安をいただいています。しかし、この平安の深さは無限ですから、私たちはもっともっと深い平安を得ることができます。

 ですからイエス様の血によってきよめられた私たちは、さらに大胆に恵みの御座に近づいて、もっと深い平安を得たいと思います。そうして神様の「やめよ」をもっともっと大きな声でプーチン大統領とロシアの軍隊に届けたいと思います。そしてさらに、この戦争に関わっている人々のすべてに心の平安を得てほしいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
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主の山に登って得られる深い平安(2022.3.3 祈り会)

2022-03-04 10:22:41 | 祈り会メッセージ
2022年3月3日祈り会メッセージ
『主の山に登って得られる深い平安』
【詩篇24:1~6】

 2週間前のこの祈り会では、その少し前に開かれた静岡市の牧師会でのヨーロッパの宣教師の話を紹介しました。その先生は、ウクライナの危機は第3次世界大戦の引き金にも成りかねない大きな危険をはらんでいる。日本人はもっとウクライナの問題を深刻に受け留めるべきだと話していました。そして、1週間前の24日の木曜日にロシアは本当にウクライナへの侵攻を始めました。正直のところ2週間前の私はこの問題の深刻さが、まだよく分かっていませんでした。しかし、戦争になってウクライナの人々が苦しむ様子が報道されるようになって、この事態の深刻さがようやく分かりました。

 私たちが直ちにすべきことは、まずは祈ることです。きょうの夕方、メールで日本福音同盟(JEA)からの祈りの要請の文書を教会の皆さんに送り、会堂の掲示板にも掲示しました。また、祈るだけでなく、人道支援のための募金に協力することも良いことでしょう。或いはまた、現地からのSNSの発信に応答して精神的に支援することも、日本にいながらできることだと思います。その他にも緊急にできることがいろいろあることでしょう。

 以上のことは緊急に必要なことです。そして、これらに加えて私たちには時間が掛かってでも、どうしてもしなければならないことがあります。それは、互いに愛し合うことができるようになることです。イエス様は最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34他)とおっしゃり、十字架に掛かって神様の愛を示して下さいました。

 そうして十字架の死から復活した後で、「平安があなたがたにあるように」と三度もおっしゃいました。平安がなければ互いに愛し合うことはできません。不安があると相手を信用できませんから、互いに愛し合うことができません。サウル王がそうでしたね。サウル王はダビデが人々の人気を得たことで、ダビデが自分の王位を奪うのではないかと不安になり、ダビデが信用できなくなりました。そうしてダビデを殺そうとしました。

 イエス様は、最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言った後、次のようにおっしゃいました。

ヨハネ14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。

 イエス様が与えて下さる平安に満たされるなら不安からは解放されますから、互いに愛し合うことができるようになる筈です。それなのに十字架から二千年が経った今もまだ、依然として私たちの住む世界では人々が互いに愛し合うことができずにいて、戦争が繰り返されています。イエス様はこのことを、どれほど悲しまれていることでしょうか。ですから私たちは互いに愛し合えるようになり、戦いのない平和な世界が実現できるようにならなければならないと思います。

 それを実現するためのヒントが、きょうの詩篇24篇には示されているように思います。特に3節です。3節、

詩篇24:3 だれがの山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。

 2月20日の礼拝説教では、「キリストは森林限界の上の天へ私を導く」という説教題で福音書の変貌山の箇所から話をしました。イエス様に出会う前の私たちは、富士山のふもとの暗い樹海の中をさまよっていたようなものです。光が届かない暗い森林で自分がどこから来たのかも分からなくなり、どちらへ向かったら良いのかも分からず、不安の中でさまよっていました。そんな私たちにイエス様は声を掛けて下さり、共に歩いて下さるようになり、やがて森林を抜けて見晴らしの良い場所に連れて行って下さいます。そうして、さらに高い所に連れて行って下さり、イエス様は神としての御姿を私たちに見せて下さいます。この変貌山の上にはペテロとヤコブとヨハネだけではなく、私たちの皆が招かれています。

 そして、きょうの聖書箇所の詩篇24篇3節でも、私たちは主の山の上に招かれていますから、これは変貌山への招きと同じです。この山の上に立つこととは、主の御前に立つことです。それは天国にとても近い場所ですから、心の深い平安が得られます。

 きょうは、この主の山に登るとは、どういうことかに、さらに思いを巡らしたいと思います。皆さんご承知のように、信仰とは自分で頑張ればその高みに行けるというものではありません。信仰の道とは自分で頑張って進むものではなく、自分が握っているものを少しずつ手放して、段々と神様にお委ねできるようになって行くことです。自分中心から神様中心になって行くことです。そうして身軽になって行くなら、イエス様が主の山の上の方へ連れて行って下さいます。

 そう言うと、それは随分と難しいことのように思えるかもしれませんが、教会に集う私たちは、ある程度の所までは来ている方々が大半でしょう。このことを詩篇24篇の1節から6節までを見ながら、確認したいと思います。まず1節、

詩篇24:1 地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それはのもの。

 主は万物を創造して、私たちの命も主によって造られました。このことは、イエス様を信じて洗礼を受けた教会員であれば、私たちのほとんどが共有できていることでしょう。私たちは主のものであり、主によって生かされています。そして2節、

24:2 主が海に地の基を据え 川の上にそれを堅く立てられたからだ。

 主が天と地を創造されたことも教会の私たちは皆信じていますから、主が海に地の基を据えられたことも知っています。そして主は、私たちが住む場所を与えて下さいました。人が住む場所の多くは豊かな川の流域です。山や荒野の中に住む人もいますが、人口の多くは川の流域に集中します。人が住むには水が必要であり、また川は上流の山から豊かな養分を運び、土地を肥沃にしますから、作物を育てることができます。こうして、人は川のある所に住みます。それは主が堅く立てられた場所であり、主が与えて下さった場所です。

 ここまでは教会である程度の期間を過ごした教会員の間では共有できていることでしょう。ここまでの所まででも神様を信じる人と信じない人との間では随分と大きな違いがあります。神様を信じない人は、天と地と命を神様が造ったとは考えません。一方、私たちは神様が万物を創造して神様が私たちの命をお造りになったと信じますから、すべてのものは神様によって与えられたものであることが教会生活を送る間に、分かるようになります。

 教会に通うようになったばかりの頃、私は教会の人たちのことば使いに私はとても違和感を覚えていました。受身が多くて変な言葉遣いだなと思いました。「与えられる」とか「守られる」とか「用いられる」とか、とにかく受身が多いという印象がありました。それは神様中心の考え方をするから、そういう言葉遣いになるのですが、最初のうちはそれが分かりませんから、変な言葉遣いだなと思っていました。それが教会生活を送るうちに、いつの間にか自分でも受身の言葉を多く使うようになりました。

 私たちはお天気が良ければ、「良い天気が与えられた」と言い、ストーブを設置すれば「ストーブが与えられた」と言います。神様を信じない人は決してこういう言葉遣いはしませんから、この言葉遣いをしているだけでも私たちは既に森林限界の上の高い所まで上がって来ていて、山の頂上が見渡せる所まで来ていると言って良いのだろうと思います。

 但し、そこから先が難しいのかもしれません。3節と4節、

3 だれがの山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
4 手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず偽りの誓いをしない人。

 ここから先が、インマヌエルの言葉で言えば、聖潔(きよめ)の信仰に立って、全き聖潔への道を歩み始めるということなのでしょう。イエス様は山上の説教でおっしゃいました。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 心がきよめられていくなら、神様の御姿が見えるようになります。ペテロたちは変貌山の上で神の御姿のイエス様を見ました。でも、それは一時だけのことでした。それは、この変貌山の出来事がまだイエス様の十字架の前のことだったからなんでしょう。ペテロたちが本当にきよめられるためには、イエス様の十字架が必要でした。イエス様が十字架で流した血によってペテロたち、そして私たちはきよめられます。この場合のきよめられるとは、きれいになるというよりは、この世の常識から解放されて神様の常識に従う者にされるということです。そうして山の上に連れて行っていただき、神の御姿を見ることができるようになるなら、それは天国に近い場所まで来たということですから、素晴らしい平安が得られます。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 このイエス様のことばはマタイ5章8節のみことばです。続いてイエス様はおっしゃいました。マタイ5章9節です。

マタイ5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

 心がきよめられて山の上に行き、神の御姿を見ることで心の深い平安を得るなら、平和をつくることができる者となれるのでしょう。その人たちは神の子どもと呼ばれます。神の子どもと呼ばれることは、素晴らしい祝福です。詩篇24篇5節と6節、

詩篇24:5 その人はから祝福を受け自分の救いの神から義を受ける。
6 これこそヤコブの一族。神を求める者たち あなたの御顔を慕い求める人々である。

 私たちは神様の御顔を慕い求めます。でも、神様の御顔を近くで見るには、主の山の上までイエス様に連れて行っていただかなければなりません。森林を抜けたばかりの場所では、まだまだ主の山の上からは離れています。森林を抜けることができただけでも感謝ですが、私たちはなお上を目指したいと思います。そうでなければ平和をつくることができないからです。神の御姿のイエス様が見える所まで連れて行っていただき、平和をつくる者とされたいと思います。お祈りいたしましょう。
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『平和を目指して変貌山の高嶺に立つ』(2022.3.4 静岡朝祷会・奨励)

2022-03-03 07:58:08 | 折々のつぶやき
2022年3月4日 静岡朝祷会・奨励
『平和を目指して変貌山の高嶺に立つ』
【マルコ9:2~4、ヨハネ4:1~4】

 2月24日にロシア軍が国境を越えてウクライナに侵攻し、激しい戦闘がウクライナ国内で続いているとのことです。ヨーロッパは新約聖書の使徒言行録(使徒の働き、使徒行伝)が記す通り、1世紀の半ばにはキリスト教が伝わっていました。そして4世紀にキリスト教はローマ帝国の国教になり、ヨーロッパに深く根付きました。近年は教会離れや移民等によって信徒の割合が減っているとはいえ、ヨーロッパがキリスト教の基盤の上に成り立っていることに変わりはないでしょう。

 イエス・キリストは二千年前に「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34他)と弟子たちに教えました。それなのに、ヨーロッパでは無数の戦争が繰り返されて来ました。宗教改革があった16世紀以降も多くの戦争がありましたし、20世紀には第一次世界大戦と第二次世界大戦があり、紛争もたくさんありました。そして今また、東ヨーロッパのウクライナで戦争が起きました。もしNATO加盟国の軍隊がここに介入すれば第三次世界大戦に発展するとまで言われています。どうして、キリスト教徒の多いヨーロッパで戦争が繰り返されるのでしょうか?

 理由はいろいろあるのでしょうが、「恵みの高き嶺(ね)」に立ったことがないクリスチャンが多いからだと、私は考えます。賛美歌の歌詞にある通り、恵みの高嶺は平和に満ちた場所です。

恵みの高き嶺(聖歌589番、新聖歌339番、教会福音讃美歌414番)

1. 恵みの高き嶺(ね) 日々わが目当てに
  祈りつ歌いつ われは登り行(ゆ)かん

  光と聖(きよ)きと 平和に満ちたる
  恵みの高き嶺(ね) われに踏ましめよ

 恵みの高嶺は平和に満ちています。なぜなら天国にとても近い場所だからです。恵みの高嶺は、この世にいながら天国の平安が得られる素晴らしい場所です。もちろん私は本物の天国を知りませんから、「天国の平安」という表現はおかしいです。それでも、恵みの高嶺の平安は本当に素晴らしいので、このような表現を使いたくなります。この恵みの高嶺に立ったことがある人がどれくらいいるのかは分かりません。でも、そんなに多くはないのでしょう。多ければ、世界はもっと平和になっている筈です。

 恵みの高嶺は平安に満ちていますから、不安から解放されます。殺人や戦争のような心が痛む悲惨なことの多くは不安によって引き起こされます。サウル王やヘロデ王が良い例でしょう。イスラエルの初代王のサウルは部下のダビデがペリシテとの戦いで戦果を挙げて人々に賞賛されるようになると、自分の王位が危ういという不安からダビデを殺そうとしました。いま放送中のNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、いずれ源頼朝が弟の義経を討伐することになるでしょう。頼朝と義経の関係はサウルとダビデの関係に似ているように思います。

 また、ヘロデ王はイエスがベツレヘムで生まれた時、東方から来た博士たちから「ユダヤ人の王」が生まれたことを聞いて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。これもまた、王位への不安によるものです。

 第二次世界大戦中にアメリカが原爆の開発を急ピッチで進めたのはドイツが先に原爆を作ることを恐れたからだとされています。国の指導者がこのような恐れや不安にとらわれると本当に危険なことになります。ロシアのプーチン大統領は旧ソ連が解体された後、東欧諸国が次々とNATOに加盟して行ったことに不安に感じていたとも言われています。

 ですから私は、多くの人々に恵みの高嶺に立っていただきたいと思います。そうして深い平安を得て、恐れや不安から解放されて欲しいと願っています。但し、これには少し時間が掛かるでしょう。それゆえ、今できることも併行して行わなければなりません。ウクライナの平和のために祈ること、人道支援のための募金に協力すること、SNSを通じて支えること等々、これらは緊急に必要なことです。そしてこれらと併せて、多くの人々に恵みの高嶺に立っていただくことも是非とも必要です。少し時間が掛かるかもしれませんが、何としてでも多くの方々に恵みの高嶺に立っていただきたいと思います。

 恵みの高嶺は、神様としてのイエス・キリストにお会いできる場所です。神様にお会いできたなら、それは天国のような経験ができたということですから、素晴らしい平安が得られます。人としてのイエス・キリストにお会いできることも、もちろん素晴らしい恵みです。でも、人のイエスに加えて神様としてのイエス・キリストにもお会いできるなら、二重の恵みがいただけます。一重の恵みだけでも素晴らしいのですから、二重の恵みは本当に素晴らしい恵みです。

 この恵みの高嶺が最も分かりやすい形で書かれている聖書箇所は、福音書の変貌山の記事でしょう。マタイ・マルコ・ルカの三つの福音書に書かれていますが、マルコを見ましょう。イエス・キリストはペトロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登りました。この山の上でイエスの姿が変貌したことから、この山は「変貌山」と呼ばれています。マルコの福音書9章2節から見て行きましょう。2節と3節(新共同訳)、

マルコ9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

 イエスは神としての御姿を変貌山の恵みの高嶺で現わされました。神様は最高に聖(きよ)いお方です。ですから、イエスの服も、人間の職人では成し得ないほどの聖い白さで輝いていました。そして4節、

4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

 エリヤとモーセは違う時代を生きた預言者たちです。人としてのイエスもまた、エリヤとモーセとは違う時代を生きています。そのイエスが神の御姿で異なる時代を生きたエリヤとモーセと語り合っているということは、この変貌山の恵みの高嶺は時間を超えた永遠の中にあるということであり、それはつまり天国に非常に近い場所だということです。ペトロとヤコブとヨハネはそのような場所にイエスに連れて来ていただきました。

 そしてイエスはペトロとヤコブとヨハネだけでなく、このマタイ・マルコ・ルカの福音書の読者の私たちのことも、この記事を通して変貌山の高嶺に招いています。一方、ヨハネの福音書には変貌山の記事がありません。代わりにヨハネの福音書では、この書全体で読者が天のイエスに出会えるようにしてくれています。

 天のイエスは「旧約の時代」には聖霊を通して父のことばを預言者たちに伝えていました。また、「使徒の時代」にはイエスを信じた者に天から聖霊のバプテスマを授けていました。ヨハネの福音書はこのような「天のイエス」に出会える書です。

 詳しくは拙著(文末の注1)を参照いただければ幸いですが、たとえばヨハネ4章では1節から4節に、次のように書かれています(新共同訳)。

1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書には、イエスが洗礼を授けていたという記述は一言もありません。でもヨハネはイエスが洗礼を授けていたと書いています。どういうことでしょうか?それは2節が明らかにしています。洗礼を授けていたのは実は弟子たちでした。つまり、ここでヨハネの福音書はペンテコステの日以降の「使徒の時代」の状況を書いています。

 弟子たちはペンテコステの日に聖霊を受けましたから、弟子たちが語る神のことばは天のイエスが聖霊を通して弟子たちに伝えていました。それゆえ弟子たちが洗礼を授けていたことは、イエスが洗礼を授けていたのと同じことでした。そうしてエルサレムの初代教会は急成長しました。しかし、ステファノ(ステパノ)の迫害をきっかけに多くの弟子たちが散らされてユダヤを去り、散らされた弟子たちは行く先々でイエス・キリストを宣べ伝えました。

 たとえばフィリポ(ピリポ)は使徒8章に書かれているようにサマリアで伝道しました。フィリポもまたイエスを信じて聖霊を受けていましたから、フィリポが語る神のことばは天のイエスが聖霊を通して伝えたものです。このヨハネ4章には、フィリポを通してサマリア伝道を行ったイエスのことが書かれています。こうして私たち読者は天のイエスと出会うことができます。

 ヨハネの福音書に書かれているイエスは地上のイエスであると同時に天のイエスでもあると分かった時、読者は変貌山の高嶺に立ち、天のイエスと出会っています。変貌山に登るのは大変そうに見えますが、私たちはヨハネの福音書を読むだけでイエスが変貌山の上まで連れて行って下さり、神の御姿の天のイエスにお会いできます。

 ヨハネの福音書には「地上のイエス」と「天のイエス」の両方が描かれていますから、ややこしく感じるかもしれませんが、「変貌山の『下』のイエス」と「変貌山の『上』のイエス」の両方が描かれていると考えれば、分かりやすいかもしれませんね。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、まさに変貌山の「下」と「上」の両方のイエスが描かれているのですから。

 平和を実現するために、ぜひ多くの方々にヨハネの福音書を読んでいただき、変貌山の恵みの高嶺に立ち、「天のイエス」に出会っていただきたいと思います。そうして、心の深い平安を得ていただきたいと思います。

注1:小島 聡 「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』 ~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~」(ヨベル新書 2017)

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