2022年3月27日礼拝メッセージ
『なぜ敵を愛し、敵のために祈るべきか?』
【マタイ5:43~48】
はじめに
先週の礼拝ではマタイ5章39節に目を留めて、『右の頬を打たれたら、どうしますか?』という説教題で話をしました。5章39節でイエス様はこのようにおっしゃいました。
マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
第二次世界大戦後にクリスチャンになった私たちにとって、ウクライナがロシア軍からの攻撃によって悲惨な状況になっている今ほど、このマタイ5:39と真剣に向き合うべき時はかつて無かったのではないか、先週はそんな話をしました。そして、これは私たちの一人一人が聖霊の助けを得ながら向き合わなければならない問題であると話しました。さらにまた、このマタイ5:39は平和の問題を考える上では中心の中の中心であり、弓矢の的(まと)で言えば、ど真ん中であるとも話しました。
実は、先週の説教の準備をしていた時点では、きょうの43節以降の思い巡らしはまだ十分にできていませんでした。そして先週の説教の後できょうの説教の準備を始めてから、きょうの44節もまた平和を考える上では中心中の中心、弓矢の的のど真ん中であると感じています。39節も44節も、どちらも同じくらいに重要であるなと感じています。
きょうの中心聖句はマタイ5:44です。
マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
そして、次の三つのパートで話を進めます。
①敵の「滅び/赦し」のどちらを祈るのか?
②神の子どもとなり、地上に平和をつくる
③「神の国は近づいた」と教えたイエス様
①敵の「滅び/赦し」のどちらを祈るのか?
43節から見て行きます。
マタイ5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
あなたの隣人を愛しなさいという教えは旧約聖書のレビ記19:18にあります。
レビ 19:18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。
さてしかし、「あなたの敵を憎め」という教えそのものは旧約聖書には一切出て来ません。でも詩篇、特にダビデの詩篇を読むと、「憎め」と言っているかのような表現はあちこちに見られますね。例えば、きょうご一緒に交読した詩篇146篇の12節には、次のようにあります。
詩篇 143:12 あなたの恵みによって私の敵を滅ぼし 私のたましいに敵対するすべての者を消し去ってください。私はあなたのしもべですから。
このように主が自分の敵を滅ぼすことを祈っているダビデの詩篇を読むと、私たちは敵を憎んでも良いのかなと、つい思ってしまいそうになります。ダビデの信仰は私たちのお手本でもあるからです。でもダビデの信仰は戦場、戦いの場で培われた信仰です。詩篇23篇も死の影がちらつく戦場の最前線での平安を歌ったものです。主はそんな戦いの人生を送ったダビデに神殿の建設をお許しになりませんでした。主は息子のソロモンの時代に平和を与えて神殿の建設をお許しになりました。私たちの心の中の神殿も、平和の中でこそ建て上げられます。
ウクライナでの戦争の悲惨な光景を過去の歴史としてではなく、現在進行形として目の当たりにしている今、私たちはダビデの信仰から一歩前に進んで、イエス様に付き従って行くべきでしょう。イエス様はおっしゃいました。マタイ5章44節、
44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
では、自分を迫害する者のための祈りとは、どのような祈りでしょうか?詩篇143篇12節のような、敵の滅びを願う祈りなら、簡単にできそうです。でも、イエス様はもちろんそんな敵の滅びのための祈りなど勧めていませんね。イエス様は「自分の敵を愛しなさい」と先ずおっしゃっています。ですから、敵のための祈り、自分を迫害する者のための祈りとは、「愛の祈り」でなければなりません。それは、十字架のイエス様の「赦しの祈り」ではないでしょうか。イエス様は十字架で祈りました。ルカ 23章34節です。
ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
イエス様は十字架に付けられて激しい痛み、苦しみの中にありました。それなのに、ご自身を十字架に付けた者たちを赦すように天の父に祈りました。何というお方でしょうか。そしてこの祈りは、イエス様だけでなく石打ちで死んだステパノもまたささげました。使徒の働き7章59節です。
使徒7:59 彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
ステパノもまた、自分が命を落とすほどのひどい仕打ちを受けて激しい苦痛の中にありました。しかし、それでもなお、自分を迫害した者たちの罪の赦しを祈りました。イエス様は神様だから特別に寛容なのだと、つい思ってしまいますが、イエス様だけではありませんでした。ステパノもまた、イエス様と同じくらいに寛容でした。そしてイエス様は、私たちに対しても「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっています。
なぜ、ここまでしなければならないのでしょうか?次のパートに進んで、このことに思いを巡らしたいと思います。
②神の子どもとなり、地上に平和をつくる
なぜ自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈らなければならないのでしょうか?イエス様は45節で、このようにおっしゃいました。
45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
「天の父の子どもになるためです」とありますね。敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、私たちが天の父の子どもになるためだと、イエス様はおっしゃいました。きょうは、このことを、さらに深めて行きたいと願っています。
天の父の子どもになるとは、神の子どもになるということです。このマタイ5章の山上の説教では、イエス様は既に9節で、
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
とおっしゃっていますね。平和をつくる者は神の子どもと呼ばれるのですから、44節と45節の父の子どもになるために敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るとは、地上に平和をつくるためなのだ、ということでしょう。天の御国はもともと平和ですから、平和をつくるべきは地上です。私たちは地上に平和をつくって神の子どもとされるために、敵を愛し、迫害する者のために祈るべきである、とイエス様はおっしゃっています。
そこで思い至るのが、イエス様の「主の祈り」の「御国が来ますように」です。マタイ6章10節にあるように、イエス様は「御国が来ますように」と祈りなさいと教えました。御国が地上に来れば地上は平和になります。御国の到来は私たちがイエス様を信じれば、あとは何もせずにいても、御国が来るように主がして下さると私たちは思いがちでしょう。しかし、実は御国は私たちの一人一人が平和をつくる働きをすることによって、段々と近づいて来るものではないでしょうか?イエス様は5タラントのしもべ、2タラントのしもべ、1タラントのしもべのたとえ話で、主人が留守をしている間にしもべに預けた財産を増やした5タラントと2タラントのしもべを褒めました。一方、預かった1タラントを地面の穴に隠して何もせずにいたしもべを厳しく叱りました。このしもべたちの働きとは、御国が近づくように働くことではないでしょうか?天の御国は私たちが神様から与えられた聖霊の力を使って平和のために働くことで近づいて来る、そのように思わされます。
但し、平和のための働きとは私たちが何かを頑張るというよりはイエス様が言われた39節や44節を守る、ということではないでしょうか。先週目を留めた39節でイエス様はおっしゃいました。
39 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
そうして44節でおっしゃいました。
44 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
それは私たちが平和をつくり、父の子どもになって御国が来るようにするためです。さらにイエス様はおっしゃっています。
45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
天の父は正しい者も正しくない者も等しく愛して恵みを注いでいます。それは正しくない者が悔い改めて、神様の愛を受け入れる者に変えられることを天の父が望んでおられるからでしょう。そのための働きを、主は私たちに期待しています。私たちにタラントを預けて、イエス様が再び戻って来る時まで、平和のために働くようにとおっしゃっているようです。
平和は、私たちが当たり前のことをしていても実現しません。46節と47節、
46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
誰でもできる当たり前のことをしていても、地上に天の御国のような平和をつくることはできません。ですから、イエス様はおっしゃいました。48節、
48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
もちろん私たちはすぐには完全になることはできません。でも聖霊によってきよめられていくことで、少しずつイエス様に似た者に変えられて行くことができます。右の頬を打つ者に左の頬を向けることは難しいことです。でも、十字架に付けられたイエス様は、そうなさいました。自分を迫害した者のために赦しを祈ることはとても難しいことです。でも、十字架のイエス様はそうなさいました。イエス様だけでなくステパノもまた、そうしました。私たちは今すぐにステパノのようになることは難しいでしょう。でも、聖霊によって少しずつきよめられて、そのような者へと変えられたいと願います。
そうでなければ、何千年経っても戦争は無くならず、今のウクライナのような悲劇がこれからもずっと繰り返されて行くことになってしまうことでしょう。イエス様が十字架に掛かってから間もなく二千年になろうとしている今、私たちは平和をつくる者へと変えられなければなりません。
③「神の国は近づいた」と教えたイエス様
イエス様はマルコ1:15でおっしゃいました。
マルコ1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
この「時が満ち、神の国が近づいた」がマルコの福音書におけるイエス様の第一声、イエス様の最初のことばです。そして、マルコの福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の中で一番最初に書かれた書であると考えられていますから、この「時が満ち、神の国が近づいた」は、福音書におけるイエス様の第一声だということになります。
もちろん、イエス様はこれ以前にも、いろいろなことを話しているでしょう。しかし、福音書の中で一番始めに書かれたイエス様のことばが「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であることは、このことばが格別に重いことを意味するでしょう。
1世紀の人々は、神の国がすぐにでも来るという緊張感を持って過ごしていました。神の国が来るとは、黙示録21章でヨハネが見たように、新しい天と地が創造されて、新しいエルサレムが天から地上に降って来ることでしょう。黙示録21章1節と2節、
黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
でも、天の御国はなかなか来ませんでした。パウロやペテロの手紙を読むと、イエス様の再臨がなかなか無いことを人々がいぶかしがっている様子が伺えます。そんな中で使徒たちは、イエス様の再臨の時は近いのだから目を覚ましているようにと励ましています。マルコの福音書が「時が満ち、神の国が近づいた」で始まるのも、なかなか神の国の到来が無いと人々がいぶかしく思っている雰囲気の中で、それを戒めるためだったのかもしれません。マルコの福音書が書かれた時にはイエス様が天に昇ってから少なくとも20年以上、恐らくは30年前後が経っていたからです。
しかし、結局1世紀の間に天の御国の地上への到来はなく、21世紀の今もありません。実は霊的には、ペンテコステの日に聖霊が降ったことで来ているのですが、肉の目で見える形ではまだ御国は来ていません。そういう中で、クリスチャンは段々と自分の地上生涯の間に天の御国が地上に来ることを待ち望むのではなく、自分が地上生涯を終えたら天の御国に入ることを期待するように変質して行ったように思います。しかし、イエス様は私たちに「時が満ち、神の国が近づいた」とおっしゃり、「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃいました。ですから私たちは自分が御国へ行けるようになることを祈り願うのでなく、御国のほうが来ることを祈るべきでしょう。そうして地上を少しでも平和にして御国が近づくようにすべきでしょう。
おわりに
先週の23日(水)と24日(木)に教団の年会がオンラインでありました。2日目の24日の午後、任命式を前にした宣教会で教団代表の岩上祝仁先生を通して語られたみことばの中に、マタイ9章37節と38節のイエス様のことばがありました。
マタイ9:37「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
このみことばが読まれた時に私は、今のキリスト教会の収穫が少ない現状のことを思いました。イエス様、本当に収穫は多いのですか?と思いました。でも考えてみると、もし周囲の方々の全員が既にイエス様を信じていて、皆がイエス様に似た者にされていたら、もはや収穫すべき作物は残されていませんね。しかし私たちの周囲にいるのは、これから収穫される方々がほとんどです。ですから「収穫は多いが、働き手が少ない」のですね。
きょうは、ギデオン協会の兄弟の方々がこの会堂に来て下さっています。ギデオンの方々は、収穫のための働き手として、主に用いられている器方です。本当に感謝なことです。私たちはギデオンの方々の働きがますます用いられ、祝されるように祈るとともに、私たちもまた収穫のために働かなければなりません。それは、ギデオンの働きに参加するということかもしれませんし、もちろん別の方法もあります。神学校に入って牧師になるという道もあります。或いはまた、ギデオンでも牧師でもなくても、イエス様がおっしゃる「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことができる者になることも、働き手の一人となることだと思います。マタイ5章48節でイエス様はおっしゃいました。
マタイ5:48 あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
このように完全な者に少しずつでも近づいて行き、イエス様に似た者にされていくことが、収穫のための働き手となることだと言えるでしょう。イエス様に似た者にされるなら、その人柄に魅力を感じて教会に導かれる方々がおこされるからです。
そのようにして私たちは神の子どもとされて、平和をつくるために働き、天の御国が地上で実現するために働くことができる、お互いでありたいと思います。
しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
44 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。