平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

みことばのお風呂

2024-04-15 06:12:41 | 折々のつぶやき
2024年4月14日城北教会説教

みことばのお風呂

 昨年の9月に続いて再び城北教会の礼拝でみことばの奉仕の機会をいただけたことを、とても感謝に思っています。きょうの説教のタイトルは資料にある通り「みことばのお風呂」で、きょうの聖句は

「神よ  私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。」

です。この聖句は新共同訳では詩篇51篇の12節ですが、新改訳では10節です。きょうは新改訳を引用しますので、詩篇51篇10節ということで、お願いします。

 さて先月の3月24日の日曜日、私は高津教会の礼拝に久し振りで出席しました。高津は神奈川県の川崎市にあります。23年前の2001年に私はこの高津教会に導かれて洗礼を受け、その7年後の2008年に教会の皆さんに送り出されてインマヌエルの神学校の神学生になりました。神学校というのは牧師を養成する学校のことです。そして翌年の2009年に教団の印刷物の教報7月号に寄せて「みことばのお風呂」というタイトルの文章を書きました。

 先月、出身教会の礼拝に出席したことで、私はこの「みことばのお風呂」のことを久し振りで思い出しました。そうして、神学生だった頃の初々しい気持ちも思い出すことができて感謝でした。そこで、きょうの礼拝では、まずこの文章を共有してから、話を進めたいと思います。ちなみに、この文章にある寮の風呂場は、けっこう広かったです。

教報2009年7月号原稿:
 私の神学生生活も二年目に入りました。私の好きな奉仕の一つに寮のお風呂掃除があります。洗い場の床のタイルをデッキブラシでゴシゴシとこすり、湯を抜いた後に浴槽の底に残る汚れをきれいに洗い流すと、清々しい気分になります。そして、きれいになった浴槽に湯を満たし、体を浸すと本当に幸せな気分になります。お湯で体が温められると同時に水の浮力により体が軽くなり、日々の様々な重荷から解放されるからです。

「彼女(マルタ)にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、 みことばに聞き入っていた。」(ルカ10・39)

 この時のマリヤはきっと深刻な顔ではなく、お風呂に入っているような幸せそうな顔をしていたのだと思います。私はこれを「みことばのお風呂」と呼びたく思います。そして、近頃思うことは、教会は「みことばの風呂屋」ではないか、ということです。風呂屋の亭主が客にきれいな湯をたっぷりと提供するように、牧師も神様の聖なるみことばを来会者にたっぷりと提供し、主の平安にどっぷりと浸ってもらいます。こんなことを考えるようになったのは、私自身が一年目の緊張から解放され、イエス様との距離も縮まり、神学校でのみことば漬けの生活の恩恵に浴しているからだと思います。
 私たちにこのような心の癒しと平安がもたらされるのはイエス様の打ち傷により(イザヤ53・5)、それは私たちの咎ゆえであることをしっかりと心に留めつつ、今の私の理想の牧師像である「みことば湯」の亭主への道を追求していけたらと思っています。
(後略)

 この文章にあるように、神学生の頃の私は教会とはお風呂屋さんのような場所だと思っていました。でも、牧師になってからはいつの間にかこのことを忘れて、教会の皆さんに対しては、あまり心地良くない説教もしていたかもしれません。私自身にとっては心地良くても、伝え方を誤ると、聞く側にとっては心地良くありません。いま私は牧師職から離れています。この職から離れている期間中に、神学生の頃の初心に返るようにと神様に促されているように感じます。

 そういうわけで、この城北教会の礼拝説教も「みことばのお風呂」というタイトルでお話をさせていただくことにしました。そうして、聖書箇所をどこにするか思いを巡らしていたところ、詩篇51篇10節が与えられました。

詩篇51:10 神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。

 神学生の時の文章にはありませんが、お風呂と教会が似ている点が他にもあります。この説教の前に讃美歌を歌いました。その時に思いましたが、お風呂でも歌を歌いたくなります。そして、お風呂で体を洗うと汚れが落ちてきれいになります。同じように、教会では心が洗われてきれいになりますね。きょうはこの、心がきれいになることの方に注目したいと願っています。10節にある「きよい心」とはどんな心なのか、そして「揺るがない霊を私のうちに新しくして下さい」とはどのようなことなのか、ご一緒に思いを巡らしたいと思います。

 では、まずは詩篇51篇の最初の部分を見ることにします。詩篇51篇の表題には、次のようにあります。
 
詩篇51篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。

 ダビデが人妻のバテ・シェバと通じたこと、そしてそのことを神様が預言者ナタンを通して厳しく咎(とが)めたことは、旧約聖書のサムエル記第二の11章と12章に詳しく書かれています。まず、その経緯を簡単に紹介します。

 この時、ダビデは既にイスラエルの王様になっていましたが、隣の国との戦いはまだ続いていました。それで兵士たちは戦場にいました。しかし、ダビデはエルサレムの王宮にいました。そして、ある夕暮れ時に、王宮の屋上から外を見ると美しい女性が体を洗っている様子が見えました。それがバテ・シェバでした。ダビデは人を送って、この女性について調べさせて彼女が人妻であることを知りましたが、かまわず王宮に呼んで彼女と寝室を共にしました。その後、バテ・シェバが身ごもったことを知ると、ダビデはこのことをもみ消すために、彼女の夫のウリヤを戦場からエルサレムに呼び戻します。そして、彼に家に帰るよう命じました。しかし、ウリヤは家に帰りませんでした。彼の上司の将軍ヨアブや仲間の兵士たちが皆、戦場で野営しているのに、自分だけ家に帰るわけにはいかないと言いました。ウリヤはとても真面目で軍に忠実な兵士だったんですね。それでダビデは次の手を打って、ウリヤに飲み食いさせて彼を酔わせました。酔えば家に帰るだろうというわけです。しかし、それでもやっぱりウリヤは家に帰りませんでした。困ったダビデは将軍のヨアブに命じてウリヤを戦場の最前線に送って殺すことにしました。今度はダビデの思い通りになり、ウリヤは戦場で死にました。そしてダビデはバテ・シェバを自分の妻にしてしまいました。神様はこのことに怒り、預言者ナタンを通してダビデを厳しく咎(とが)めました。ダビデは自分が罪を犯したことを知りました。そうして詠まれた悔い改めの詩が詩篇51篇です。1節と2節、

1 神よ 私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
2 私の咎を 私からすっかり洗い去り 私の罪から 私をきよめてください。

 お風呂に入って体を洗えば、体の汚れはきれいになります。でも、心の汚れ、すなわち「罪」は簡単にはきれいになりません。体の汚れは自分で落とすことができますが、心の汚れは自分ではきれいにできず、神様にきよめていただく必要があるからです。それゆえダビデは、神様に自分の罪をきよめてくださいと願い、祈りました。

 人妻のバテ・シェバと寝て、その罪をもみ消すために夫のウリヤを殺し、さらにその人妻を自分の妻にしてしまうという、何重にも罪を重ねたダビデの罪深さは、非常に分かりやすいと思います。でも、こんなに分かりやすい罪にも関わらず、自分では意外と気付きにくいものなんですね。マタイの福音書のイエス様もおっしゃっていますね。

マタイ7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
マタイ7:3(新共同訳) あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

 イエス様がおっしゃる通り、私たちは他人の小さな欠点はよく見えるのに、自分の大きな罪にはなかなか気付かないものですね。ダビデも預言者ナタンを通じて神様から厳しく咎(とが)められたことで、初めて気付きました。そして、私自身の内にも、自分では気付いていない罪があります。

 昨年9月にここで話した通り、いま私は防災関係の職場で働いています。そして上司や同僚から自分の至らない点をほとんど毎日のように指摘されています。牧師をしていた頃は、教会の皆さんは遠慮して牧師の私に対して、よほどのことがない限り寛容に接して下さり、欠点を指摘されることはあまりありませんでした。でも今の職場では、かなりいろいろなことを指摘されます。けっこう落ち込みますが、いろいろ注意されることは感謝なことでもあります。自分には至らない点がこんなにもたくさんあるのだと日々、教えられています。

 中でも、これは大きな罪だなと思わされているのが、私の心の中には上司や同僚のアドバイスに逆らいたくなる性質が根強くあるということです。私の主な職務は来館者に展示物の説明することです。自然災害について説明し、それらにどう備えたら良いかを説明しますが、そのためのマニュアルがあります。マニュアルに沿って説明することが求められていますが、一言一句違わずに話すことまでは求められていないので、話しやすいように少し自分流に言い換えたりします。また、見学者が小学生であれば簡単な表現に換えたりします。このように少し換えることは許されているのですが、私の場合かなり逸脱してしまっていました。少しのつもりがいつの間にか、大きく入れ換わってしまっていました。自分では、そんなに大きく換えているつもりはなかったのですが、マニュアルをチェックすることを怠っている間に、いつの間にか大きくそれてしまっていたのですね。ある時、そのことを厳しく咎められました。それで改めてマニュアルを読み返してみたら、本当に大きく逸脱していました。

 聖書、特に旧約聖書を読むと、神様の教えである律法に背いている人々がたくさん出て来ます。ダビデもその一人ですが、きっと皆、自分ではそんなに大きく背いているつもりはなかったんだろうと思います。これが罪の恐ろしい点です。人はいつの間にか神様の教えに背くようになってしまうんですね。そうして、指摘されて初めて気付きます。ダビデの場合は預言者ナタンを通して、自分の罪深さを知りました。続いて詩篇51篇の3節と4節、

3 まことに 私は自分の背きを知っています。私の罪は いつも私の目の前にあります。
4 私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に 悪であることを行いました。

 これはダビデの罪の告白ですが、私自身の罪の告白でもあります。私の中には上の人の命令や助言に逆らいたくなる性質が根強くあり、それは神様に対しても同じです。この背きの罪は、神様によってしか、きよめられません。もっと言えば、イエス様の十字架の血によってしか、きよめられません。少し飛ばして7節をお読みします。

7 ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば 私は雪よりも白くなります。

 7節に、ヒソプという植物の名前が出て来ます。このヒソプは、モーセの時代にイスラエルの民がエジプトから脱出した時に用いられました。

出エジプト12:21 それから、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び、彼らに言った。「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。22 ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。

 この夜、エジプト全土の長子、すなわち後継ぎの長男たちが主によって打たれて死にました。エジプトの王のファラオの長子も打たれました。しかし、鴨居と門柱にヒソプで羊の血を塗り付けたイスラエル人の家は主が過ぎ越して行ったので守られました。そうして、長子を打たれたファラオがイスラエルの民にエジプトから出ることを許したので、イスラエルの民は奴隷の苦しみから救い出されました。この過越の羊の血は、イエス様が十字架で流した血の予表、予め表れたものであると言われていますね。イスラエルの民は羊の血によって救い出され、私たちはイエス様が十字架で流した血によって、罪から救い出されました。

 このヒソプは、イエス様の十字架の場面でも用いられています。

ヨハネ19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

 つまり、詩篇51篇7節の、

詩篇51:7 ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。

のみことばは、人の罪はイエス様の十字架によってしかきよめられないことを、ダビデが預言したことばと言っても良いと思います。そうして、きょうの聖句の10節を見ましょう。

10 神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。

 「きよい心」とは、どんな心でしょうか?

 いろいろな言い方があると思いますが、今日ご一緒に見て来たことを振り返るなら、「きよい心」とは神様に真正面から向き合う態度であると言えるのではないでしょうか。罪の中にある時、私たちは自分のことしか考えていません。或いは人間しか見ていません。神様のことがぜんぜん見えなくなります。そのようにではなく、「きよい心」とは神様しか見ておらず、御心にすべてを委ねて全面的に従おうとする態度のことではないでしょうか。

 御心に従うことの一番のお手本は十字架のイエス様ですね。十字架に掛かる前、イエス様はゲッセマネの園で悩み苦しみました。マルコの福音書から引用します。イエス様は祈りました。

マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 そうしてイエス様は天の父がお望みになった通りに十字架に掛かり、血を流しました。このイエス様に私たちも倣い、天の父の御心にすべてをお委ねして従いたいと思います。とはいえ、それは容易なことではありませんね。ですから、私たちは「揺るがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ります。聖霊によって、しっかりと神様とつながることで、私たちは何があっても神様から離れず、揺るがずに神様と真正面から向き合い、御心にすべてを委ねて従うことができるようになるのではないでしょうか。そうして私たちはきよくされ、新しくされます。

 きょうのメッセージを閉じるにあたり、改めて詩篇51篇10節を味わいたいと思います。

10 神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。

 お風呂屋さんに行くと、体が温まり、硬くなっていた筋肉がほぐれ、そして体に付いた汚れを洗い流すことで、とても清々しい気分になります。そうして、また新しい一歩を踏み出すことができます。教会も同じですね。教会の礼拝に出席すると心が温まり、硬くなっていた心がほぐれ、そして心に付いた汚れを神様に洗い流していただき、きよめていただくことができます。そうして清々しい気分になれたことを神様に感謝し、神様との関係が揺るぎないものになるなら、聖霊に満たされて新しくされ、また新しい一歩を踏み出すことができます。教会って、本当に素晴らしい所だなと思います。

詩篇51:10 神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

 このような気持ちを持って教会に集い、神様によって日々新しくされ続ける私たちでありたいと思います。お祈りいたします。
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