2022年11月17日祈り会メッセージ
『ヤコブです』
【創世記32:22~28】
きょう注目したいのは27節です。その27節の中でも、特に「ヤコブです」の一言に注目したいと思います。
藤本満先生のこの箇所からの説教を聞いたのは、私が高津教会を初めて訪れてから2年ほど経った頃(2003年の夏頃?)、洗礼を受けてから1年半ほどの頃だったと思います。説教を聞いて、「ヤコブです」の一言には実に多くのことが詰まっていることが分かって驚くとともに感動したことをよく覚えています。
まずは、この箇所に至った経緯を簡単に見ておきましょう。先週は、ヤコブが両親と過ごしていたベエル・シェバを離れて伯父のラバンが住むハランの地に向かった場面を見ました。ヤコブが兄のエサウのふりをして、父イサクからの祝福を横取りしたためにエサウが激怒してヤコブを殺そうと考えていることが分かったためです。そのことを母のリベカが知って、彼女の兄のラバンの所に行くようヤコブに話したのでした。
きょうの箇所は、それから20年後のことです。ヤコブは神様から故郷に戻るようにということば(創世記31:3)を聞いてハランを出発しました。そうして、故郷のカナンに向かう途中で、兄のエサウが4百人を引き連れてヤコブを迎えに来るという知らせを受けました。ヤコブは兄が自分を殺しに来たのではないかと思い、恐ろしくて夜も眠れませんでした。そうして、その夜、神様と祈りの格闘をした場面が、きょうの箇所です。26節で神様はヤコブに言いました。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言いました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」ヤコブは貪欲に祝福を求めました。この貪欲さは、20年前に兄のエサウへの祝福を横取りした時のことを思い起こさせます。母リベカの指示とはいえ、ヤコブは兄のエサウのふりをすることを拒むこともできた筈ですが、ヤコブは母の指示通りに兄のふりをして「エサウです」と言いました。
しかし、20年後のヤコブは違いました。27節、
ヤコブは正直に自分がヤコブであると言いました。このことを神は義として、ヤコブに新しい名前を与えました。28節、
神様が「あなたの名は何というのか」と聞いて下さり、「ヤコブです」と答えた時、ヤコブは重荷を下ろすことができたのではないかなと思います。自分を偽りながら生きて行くことは、とても疲れることです。ヤコブは伯父のラバンのもとに逃れてからも、心が休まる時がほとんど無かったのではないかという気がします。親戚とはいえ、伯父のラバンとは初対面であり、伯父に認められるために気を張って頑張り、時には自分を実力以上の者に見せられるように偽り、生きて行かなければならない場面もあったでしょう。そういうことが、ハランに着いてからのヤコブの記事からは読み取れます。
そうやって気を張り、重荷を負って来たヤコブに神様は「あなたの名は何というのか」と聞き、「ヤコブです」と答えたヤコブはそれまでの重荷を下ろすことができたという気がします。
先日の子供祝福礼拝で教会学校賛美歌の「このままの姿で」(CS57)を歌いました。
私たちも、神様が造って下さったままの、このままの姿で日々を生きることが、最も望ましいことです。けれども、世の中を生きて行くためには、自分を実力以上の者に見せるように振る舞わなければならない場面も多々あります。そうして、それを続けて行く中ですっかり疲弊してしまいます。
もう14年前のことになってしまいましたが、私はそれまで勤めていた大学を辞めて、神学校に入りました。勤務の最終日にお世話になった方々に挨拶回りをして、すべてが終わって大学を離れた時に、ものすごく大きな解放感を味わったことを今でもよく覚えています。大学にいた時は、常に自分を実力以上に見せようとしなければならないことに疲れていました。自分にそれほどの実力がないことは、ちゃんと見透かされているのですが、そこに留まっていては競争社会から振り落とされてしまうので、とにかく必死でした。その競争から抜けることができて本当に安堵しました。
大学を離れて14年が経ちましたから内部事情はぜんぜん知りませんが、ネットの記事などを読んでいると、研究資金の獲得競争はますます激しさを増していて、疲弊している様子が感じられます。世界の中の日本の研究レベルが低下していることが報じられていますが、研究資金を獲得するための競争に追われて、肝心の研究が腰を据えてできていないのかもしれないという気がします。研究がいかに世の役に立つかを見せるのに苦労しているのではないでしょうか。ヤコブのように自分を偽っているとまでは言いませんが、毛皮を付けてエサウの振りをしているようなところが、あるかもしれません。外部資金の獲得競争ばかりをさせるのではなく、昔のように特に目的を定めないで自由に使える研究資金も提供する必要があるのだろうと思います。
3年前に新型コロナウイルスの問題が出始めた時に、日本の研究者が迅速に研究を開始できなかったのも、研究目的を明記して獲得した研究資金ばかりで自由に使える資金が乏しかったために対応が遅れたと聞いたことがあります。自由に研究ができる資金が無いと、このような残念なことになってしまいます。研究者が研究者らしく、自由にのびのびと研究できる環境が必要なのだろうと思います。
そうして、私たちもまた背伸びすることなく、自分らしくあることが大切なのだろうと思わされます。先月、沼津の単立教会の会堂移転感謝会に出席しました。それまで写真では見ていましたが、実際に自分の目で見ると本当に立派な会堂が与えられたことが分かって主の御名をほめたたえました。でも、前のビルから退去しなければならなくなった時には本当に資金が無くて途方に暮れるような状況だったことを伺いました。しかし、外部のあちこちからの献金が奇跡的に与えられて、新しい物件を取得できたとのことです。それは、教会が資金が無いというありのままの姿をさらして神様にすべてをお委ねした結果なのだろうと思います。
自分は無力であっても、神様に不可能なことはありませんから、ありのままの姿を神様に見せるなら、神様が最善へと導いて下さることを、沼津の単立教会の奇跡は教えてくれていると思います。そして、きょうの創世記のヤコブも、神様にありのままの自分で「ヤコブです」と言うことが神様に評価されて、イスラエルという新しい名前が与えられました。
私たちもまた、ありのままの自分でいることができるお互いでありたいと思います。お祈りいたしましょう。
『ヤコブです』
【創世記32:22~28】
創世記32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
きょう注目したいのは27節です。その27節の中でも、特に「ヤコブです」の一言に注目したいと思います。
藤本満先生のこの箇所からの説教を聞いたのは、私が高津教会を初めて訪れてから2年ほど経った頃(2003年の夏頃?)、洗礼を受けてから1年半ほどの頃だったと思います。説教を聞いて、「ヤコブです」の一言には実に多くのことが詰まっていることが分かって驚くとともに感動したことをよく覚えています。
まずは、この箇所に至った経緯を簡単に見ておきましょう。先週は、ヤコブが両親と過ごしていたベエル・シェバを離れて伯父のラバンが住むハランの地に向かった場面を見ました。ヤコブが兄のエサウのふりをして、父イサクからの祝福を横取りしたためにエサウが激怒してヤコブを殺そうと考えていることが分かったためです。そのことを母のリベカが知って、彼女の兄のラバンの所に行くようヤコブに話したのでした。
きょうの箇所は、それから20年後のことです。ヤコブは神様から故郷に戻るようにということば(創世記31:3)を聞いてハランを出発しました。そうして、故郷のカナンに向かう途中で、兄のエサウが4百人を引き連れてヤコブを迎えに来るという知らせを受けました。ヤコブは兄が自分を殺しに来たのではないかと思い、恐ろしくて夜も眠れませんでした。そうして、その夜、神様と祈りの格闘をした場面が、きょうの箇所です。26節で神様はヤコブに言いました。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言いました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」ヤコブは貪欲に祝福を求めました。この貪欲さは、20年前に兄のエサウへの祝福を横取りした時のことを思い起こさせます。母リベカの指示とはいえ、ヤコブは兄のエサウのふりをすることを拒むこともできた筈ですが、ヤコブは母の指示通りに兄のふりをして「エサウです」と言いました。
しかし、20年後のヤコブは違いました。27節、
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
ヤコブは正直に自分がヤコブであると言いました。このことを神は義として、ヤコブに新しい名前を与えました。28節、
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」
神様が「あなたの名は何というのか」と聞いて下さり、「ヤコブです」と答えた時、ヤコブは重荷を下ろすことができたのではないかなと思います。自分を偽りながら生きて行くことは、とても疲れることです。ヤコブは伯父のラバンのもとに逃れてからも、心が休まる時がほとんど無かったのではないかという気がします。親戚とはいえ、伯父のラバンとは初対面であり、伯父に認められるために気を張って頑張り、時には自分を実力以上の者に見せられるように偽り、生きて行かなければならない場面もあったでしょう。そういうことが、ハランに着いてからのヤコブの記事からは読み取れます。
そうやって気を張り、重荷を負って来たヤコブに神様は「あなたの名は何というのか」と聞き、「ヤコブです」と答えたヤコブはそれまでの重荷を下ろすことができたという気がします。
先日の子供祝福礼拝で教会学校賛美歌の「このままの姿で」(CS57)を歌いました。
「♪ バラはバラのように、すみれはすみれのように。私もこのままの姿で付いて行きます。」
私たちも、神様が造って下さったままの、このままの姿で日々を生きることが、最も望ましいことです。けれども、世の中を生きて行くためには、自分を実力以上の者に見せるように振る舞わなければならない場面も多々あります。そうして、それを続けて行く中ですっかり疲弊してしまいます。
もう14年前のことになってしまいましたが、私はそれまで勤めていた大学を辞めて、神学校に入りました。勤務の最終日にお世話になった方々に挨拶回りをして、すべてが終わって大学を離れた時に、ものすごく大きな解放感を味わったことを今でもよく覚えています。大学にいた時は、常に自分を実力以上に見せようとしなければならないことに疲れていました。自分にそれほどの実力がないことは、ちゃんと見透かされているのですが、そこに留まっていては競争社会から振り落とされてしまうので、とにかく必死でした。その競争から抜けることができて本当に安堵しました。
大学を離れて14年が経ちましたから内部事情はぜんぜん知りませんが、ネットの記事などを読んでいると、研究資金の獲得競争はますます激しさを増していて、疲弊している様子が感じられます。世界の中の日本の研究レベルが低下していることが報じられていますが、研究資金を獲得するための競争に追われて、肝心の研究が腰を据えてできていないのかもしれないという気がします。研究がいかに世の役に立つかを見せるのに苦労しているのではないでしょうか。ヤコブのように自分を偽っているとまでは言いませんが、毛皮を付けてエサウの振りをしているようなところが、あるかもしれません。外部資金の獲得競争ばかりをさせるのではなく、昔のように特に目的を定めないで自由に使える研究資金も提供する必要があるのだろうと思います。
3年前に新型コロナウイルスの問題が出始めた時に、日本の研究者が迅速に研究を開始できなかったのも、研究目的を明記して獲得した研究資金ばかりで自由に使える資金が乏しかったために対応が遅れたと聞いたことがあります。自由に研究ができる資金が無いと、このような残念なことになってしまいます。研究者が研究者らしく、自由にのびのびと研究できる環境が必要なのだろうと思います。
そうして、私たちもまた背伸びすることなく、自分らしくあることが大切なのだろうと思わされます。先月、沼津の単立教会の会堂移転感謝会に出席しました。それまで写真では見ていましたが、実際に自分の目で見ると本当に立派な会堂が与えられたことが分かって主の御名をほめたたえました。でも、前のビルから退去しなければならなくなった時には本当に資金が無くて途方に暮れるような状況だったことを伺いました。しかし、外部のあちこちからの献金が奇跡的に与えられて、新しい物件を取得できたとのことです。それは、教会が資金が無いというありのままの姿をさらして神様にすべてをお委ねした結果なのだろうと思います。
自分は無力であっても、神様に不可能なことはありませんから、ありのままの姿を神様に見せるなら、神様が最善へと導いて下さることを、沼津の単立教会の奇跡は教えてくれていると思います。そして、きょうの創世記のヤコブも、神様にありのままの自分で「ヤコブです」と言うことが神様に評価されて、イスラエルという新しい名前が与えられました。
私たちもまた、ありのままの自分でいることができるお互いでありたいと思います。お祈りいたしましょう。
創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」