平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

ヤコブです(2022.11.17 祈り会)

2022-11-21 08:52:18 | 祈り会メッセージ
2022年11月17日祈り会メッセージ
『ヤコブです』
【創世記32:22~28】

創世記32:22 その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。
23 彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。
24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 きょう注目したいのは27節です。その27節の中でも、特に「ヤコブです」の一言に注目したいと思います。

 藤本満先生のこの箇所からの説教を聞いたのは、私が高津教会を初めて訪れてから2年ほど経った頃(2003年の夏頃?)、洗礼を受けてから1年半ほどの頃だったと思います。説教を聞いて、「ヤコブです」の一言には実に多くのことが詰まっていることが分かって驚くとともに感動したことをよく覚えています。

 まずは、この箇所に至った経緯を簡単に見ておきましょう。先週は、ヤコブが両親と過ごしていたベエル・シェバを離れて伯父のラバンが住むハランの地に向かった場面を見ました。ヤコブが兄のエサウのふりをして、父イサクからの祝福を横取りしたためにエサウが激怒してヤコブを殺そうと考えていることが分かったためです。そのことを母のリベカが知って、彼女の兄のラバンの所に行くようヤコブに話したのでした。

 きょうの箇所は、それから20年後のことです。ヤコブは神様から故郷に戻るようにということば(創世記31:3)を聞いてハランを出発しました。そうして、故郷のカナンに向かう途中で、兄のエサウが4百人を引き連れてヤコブを迎えに来るという知らせを受けました。ヤコブは兄が自分を殺しに来たのではないかと思い、恐ろしくて夜も眠れませんでした。そうして、その夜、神様と祈りの格闘をした場面が、きょうの箇所です。26節で神様はヤコブに言いました。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言いました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」ヤコブは貪欲に祝福を求めました。この貪欲さは、20年前に兄のエサウへの祝福を横取りした時のことを思い起こさせます。母リベカの指示とはいえ、ヤコブは兄のエサウのふりをすることを拒むこともできた筈ですが、ヤコブは母の指示通りに兄のふりをして「エサウです」と言いました。

 しかし、20年後のヤコブは違いました。27節、

27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

 ヤコブは正直に自分がヤコブであると言いました。このことを神は義として、ヤコブに新しい名前を与えました。28節、

28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 神様が「あなたの名は何というのか」と聞いて下さり、「ヤコブです」と答えた時、ヤコブは重荷を下ろすことができたのではないかなと思います。自分を偽りながら生きて行くことは、とても疲れることです。ヤコブは伯父のラバンのもとに逃れてからも、心が休まる時がほとんど無かったのではないかという気がします。親戚とはいえ、伯父のラバンとは初対面であり、伯父に認められるために気を張って頑張り、時には自分を実力以上の者に見せられるように偽り、生きて行かなければならない場面もあったでしょう。そういうことが、ハランに着いてからのヤコブの記事からは読み取れます。

 そうやって気を張り、重荷を負って来たヤコブに神様は「あなたの名は何というのか」と聞き、「ヤコブです」と答えたヤコブはそれまでの重荷を下ろすことができたという気がします。

 先日の子供祝福礼拝で教会学校賛美歌の「このままの姿で」(CS57)を歌いました。

「♪ バラはバラのように、すみれはすみれのように。私もこのままの姿で付いて行きます。」


 私たちも、神様が造って下さったままの、このままの姿で日々を生きることが、最も望ましいことです。けれども、世の中を生きて行くためには、自分を実力以上の者に見せるように振る舞わなければならない場面も多々あります。そうして、それを続けて行く中ですっかり疲弊してしまいます。

 もう14年前のことになってしまいましたが、私はそれまで勤めていた大学を辞めて、神学校に入りました。勤務の最終日にお世話になった方々に挨拶回りをして、すべてが終わって大学を離れた時に、ものすごく大きな解放感を味わったことを今でもよく覚えています。大学にいた時は、常に自分を実力以上に見せようとしなければならないことに疲れていました。自分にそれほどの実力がないことは、ちゃんと見透かされているのですが、そこに留まっていては競争社会から振り落とされてしまうので、とにかく必死でした。その競争から抜けることができて本当に安堵しました。

 大学を離れて14年が経ちましたから内部事情はぜんぜん知りませんが、ネットの記事などを読んでいると、研究資金の獲得競争はますます激しさを増していて、疲弊している様子が感じられます。世界の中の日本の研究レベルが低下していることが報じられていますが、研究資金を獲得するための競争に追われて、肝心の研究が腰を据えてできていないのかもしれないという気がします。研究がいかに世の役に立つかを見せるのに苦労しているのではないでしょうか。ヤコブのように自分を偽っているとまでは言いませんが、毛皮を付けてエサウの振りをしているようなところが、あるかもしれません。外部資金の獲得競争ばかりをさせるのではなく、昔のように特に目的を定めないで自由に使える研究資金も提供する必要があるのだろうと思います。

 3年前に新型コロナウイルスの問題が出始めた時に、日本の研究者が迅速に研究を開始できなかったのも、研究目的を明記して獲得した研究資金ばかりで自由に使える資金が乏しかったために対応が遅れたと聞いたことがあります。自由に研究ができる資金が無いと、このような残念なことになってしまいます。研究者が研究者らしく、自由にのびのびと研究できる環境が必要なのだろうと思います。

 そうして、私たちもまた背伸びすることなく、自分らしくあることが大切なのだろうと思わされます。先月、沼津の単立教会の会堂移転感謝会に出席しました。それまで写真では見ていましたが、実際に自分の目で見ると本当に立派な会堂が与えられたことが分かって主の御名をほめたたえました。でも、前のビルから退去しなければならなくなった時には本当に資金が無くて途方に暮れるような状況だったことを伺いました。しかし、外部のあちこちからの献金が奇跡的に与えられて、新しい物件を取得できたとのことです。それは、教会が資金が無いというありのままの姿をさらして神様にすべてをお委ねした結果なのだろうと思います。

 自分は無力であっても、神様に不可能なことはありませんから、ありのままの姿を神様に見せるなら、神様が最善へと導いて下さることを、沼津の単立教会の奇跡は教えてくれていると思います。そして、きょうの創世記のヤコブも、神様にありのままの自分で「ヤコブです」と言うことが神様に評価されて、イスラエルという新しい名前が与えられました。

 私たちもまた、ありのままの自分でいることができるお互いでありたいと思います。お祈りいたしましょう。

創世記32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
コメント

人生のピンチの時に聴こえる神の声(2022.11.10 祈り会)

2022-11-14 06:29:47 | 祈り会メッセージ
2022年11月10日祈り会メッセージ
『人生のピンチの時に聴こえる神の声』
【創世記28:10~13】

 先週の木曜日は静岡聖会があった関係で、今月の祈祷会は今週と来週の2回だけです。2回ともヤコブに注目する予定です。

 きょうの箇所にはヤコブが母の故郷のハランの地に向かう途中での出来事が書かれています。それはヤコブが父イサクの祝福を受けたことで兄のエサウが激怒してヤコブを殺そうと考えていたからです。父のイサクの祝福は本来は兄のエサウが受けるはずでしたが、弟のヤコブが兄のふりをして横取りしてしまったために、エサウは非常に怒っていました。

 この事件に関しては、ここにいる皆さんはよくご存知のことと思いますが、まずは簡単に振り返っておきたいと思います。創世記27章を見て下さい。1節にはイサクが年を取って目がかすんでよく見えなくなった時のことであると書かれています。イサクはエサウを呼んで、獲物を取って料理を作り、食べさせてほしいと言いました。エサウを祝福するためです。

 そして5節以降に、イサクの妻のリベカがこのことをヤコブに教えて、彼に兄のふりをするように言いました。リベカはヤコブを愛していたからです。25章28節にそのことが書いてあります。25章28節、

創世記25:28 イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた。

 そうして、ヤコブは母のリベカの言う通りにして、エサウのふりをして父イサクの所に行きました。27章の18節と19節、

創世記27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねた。
19 ヤコブは父に、「長男のエサウです。私はお父さんが言われたとおりにしました。どうぞ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。そうして、自ら私を祝福してください」と答えた。

 ヤコブは父に「長男のエサウです」と偽りの言葉を言って父を欺きました。この後、ヤコブはもう一度偽りの言葉を言って父を欺きました。24節です。

24 「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」

 こうして、ヤコブは父イサクから祝福を受けました。しかし、このことで兄のエサウが激怒して、ヤコブを殺そうと考えました。このことを聞いた母のリベカはヤコブに言いました。43節です。

43 さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。

 それでヤコブは28章10節にあるようにベエル・シェバを出て、伯父のラバンがいるハランへ向かいました。そして11節、

創世記28:11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。

 ここでヤコブは石を枕にして眠りに就きました。ヤコブにとってはこれまでの彼の人生で一番のピンチの時でした。このような時には、神の声が聴こえやすくなっています。そうしてヤコブは夢の中で主の声を聴きました。12節と13節、

12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
13 そして、見よ、がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。

 ヤコブの祖父のアブラハムが最初に主の声を聴いたのは、ハランの地で父のテラが死んだ時でした。アブラハムは父のテラと共に故郷のウルの地を出て、カナンに向かっていましたが、その途中のハランに留まり、住んでいました。その時に、父のテラが亡くなりました。この時のアブラハムもピンチの時でした。このままハランにとどまるべきか、故郷のウルに引き返すべきか、それとも当初の予定通りにカナンを目指すべきか。選択を誤ると、大変なことになります。それまでは父のテラが行く先を決め、アブラハムは父の決定に従うだけで良かったと思いますが、今度はこの重い決定をアブラハム自身がしなければなりません。この時にアブラハムは主の声を聴きました。

 ヤコブの父のイサクも人生のピンチの時に神様の声を聴きました。カナンの地で飢きんがあったためにイサクはペリシテ人が住むゲラルのアビメレク王の所に住んでいましたが、彼が主に祝福されて豊かになったことでペリシテ人にねたまれて、井戸をふさがれてしまいました。そうしてアビメレク王からそこを出て行くように言われました。出て行けと言われた当初は、どこへ行けば良いのか途方に暮れたことでしょう。さらには、行った先で父アブラハムの時代の井戸を掘り返して水を得ましたが、ペリシテ人との間で水を巡って争いになりました。その次に掘った井戸でも争いが起き、ようやく次の井戸、レホボテの井戸で安息を得ました。26章の22節です。

創世記26:22 イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」

 ピンチの中にあったイサクには主の導きの声が聴こるようになったのではないかと思います。そうして次に向かったベエル・シェバでイサクは主の声をはっきりと聴きました。26章24節です。

24 「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

 恐らく神様はいつでも人に語り掛けているのだろうと思います。でも人生が順風満帆の時には神様の声にはなかなか気付きません。しかし、ピンチに陥ると神様の声が聴こえやすくなります。アブラハム、イサク、ヤコブは皆それぞれピンチの時に神様の声を聴くことができました。そして、私たちも神様の声を聴くことができましたから、教会に導かれました。教会を訪れた当初は、それが神様による導きであったことに気付いていませんでしたが、後になって、導かれて教会に辿り着いたと気付きます。このことに感謝したいと思います。

 今の悪い時代には多くの方々がピンチの中にいますから、その方々が主の導きに気付くことができるよう祈り、そのためのお手伝いができるよう用いられたいと思います。
 お祈りいたします。

創世記28:13 見よ、がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
コメント

祈りのための祭壇を築く(2022.11.6 礼拝)

2022-11-08 06:50:44 | 礼拝メッセージ
2022年11月6日礼拝メッセージ
『祈りのための祭壇を築く』
【創世記12:4~8】

はじめに
 先週の礼拝説教では「泥がふさいだ信仰の井戸を掘り返す」というタイトルで、アブラハムの時代に掘られた井戸を息子のイサクが掘り返した記事をご一緒に読みました。説教では、きれいな水が湧き出る井戸を「信仰の井戸」と呼んで、イサクが父アブラハムの信仰を受け継ぎ、そしてさらに息子のヤコブへと引き継いで行ったことを話しました。

 簡単に振り返っておくと、かつてアブラハムが掘った井戸をイサクは利用していましたが、イサクが祝福されたことをねたんだ者たちによってふさがれてしまいました。それでイサクは別の場所に移動して、そこにあったアブラハムの井戸を掘り返して水を得ました。しかし、それらもねたんだ者たちに奪われました。それでイサクは新たな井戸を掘り、そこでもなお妨害を受けますが、粘り強く新しい井戸を掘り続けて、主の祝福を得ました。

 これらのことから、信仰とは単に前の世代からの信仰の井戸を受け継ぐだけでは、ふさがれてしまうものであり、私たちはそれを粘り強く何度も掘り返し、さらには新しい井戸を掘って行く営みであることを学びました。信仰生活とは、そのような粘り強い営みです。そして、そのことで主は新たな信仰の水を与えて下さいます。

 イサクは新たな水が与えられたことに感謝して、祭壇を築き、主の御名を呼び求めました。

創世記26:25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 この祭壇を築いて主の御名を呼び求める信仰はアブラハムから引き継いだものでした。アブラハムは行く先々で、主のために祭壇を築いて主の御名を呼び求めました。きょうは、このアブラハムの箇所を開きながら、現代の私たちにとって祭壇を築くとは、どういうことかについて、ご一緒に思いを巡らしたいとと思います。きょうの中心聖句は創世記12章の7節と8節です。

創世記12:7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①行く先々で祭壇を築いて祈ったアブラハム
 ②非日常の中で神様を近くに感じながら祈る
 ③祭壇を自ら新たに築いて一人前の弟子になる

①行く先々で祭壇を築いて祈ったアブラハム
 まずは聖書を見て、アブラハムが行き先々で祭壇を築いた様子を見ておきたいと思います。創世記12章の1節から見ていきます(旧約p.17)。この時、アブラハムはまだアブラムで、これから行くカナンの地と故郷のウルとの中間ぐらいのハランの地にいました。ここでアブラムは主の御声を聞きました。1節から3節、

創世記12:1 はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 そうして、アブラムはハランの地を出発してカナンの地に向かいました。4節から6節、

4 アブラムは、が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
5 アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
6 アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。

 このように、アブラムが主の声を聞いて、その声に聞き従ってカナンの地に入ったところから、イスラエルの信仰の歴史が始まりましたから、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。

 そして7節と8節にはアブラムが主のために祭壇を築いたことが繰り返し書かれています。

7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。

 アブラムは行く先々で主のために祭壇を築きました。そして、8節の終わりに「主の御名を呼び求めた」とあります。ページの下の脚注を見ると、別訳として「主に祈った」とあります。つまりアブラムは主に祈るために、祭壇を築きました。では、現代の私たちにとって「祭壇を築く」とは、どういうことでしょうか?次の2番目のパートに進んで、このことを考えてみたいと思います。

②非日常の中で神様を近くに感じながら祈る
 旧約の時代、アブラハムやイサクは祭壇にささげ物をささげて、お祈りしました。では、新約の時代の現代の私たちは祈る時に何をささげるでしょうか?

 お手本はイエス様でしょう。イエス様はご自身をささげて十字架に付きました。すると、私たちも、私自身を神様にささげて祈る、ということになるのではないでしょうか?

 たとえば家族の健康を祈るとします。「神様、どうか私の家族の健康を守って下さい」と祈る時には、「私自身をささげます」という気持ちで祈る、それが現代における祭壇を築いて祈る、ということではないでしょうか?私自身をささげる、とは言い換えれば「私を用いて下さい」とも言えるでしょう。そうして私たちは会堂の清掃をしたり、お花の御用をしたり、礼拝の司会や奏楽、受付や感謝祈祷の御用をします。

 もっと大きなことを神様にお願いする時には、もっと多くささげる気持ちで祈るということになるのかもしれません。そう考えると、祈るという行為はとても重い行為なのだということを、アブラハムとイサクが祭壇を築いて祈った記事は教えてくれています。

 私自身も今回の説教の準備をするまでは、祈るという行為の重さに気付いていませんでした。でも、ご自身をささげたイエス様の十字架のことを思うなら、私たちもまた私自身をささげなければならないでしょう。そして、それは神様にすべてをお委ねするということでもありますから、委ねることで自分中心の罪から解放されて、心の平安を得ることにつながります。そうして自分中心の罪から解放されるなら神様中心となって、神様を愛し、隣人を愛することが自然にできるようになる、それがイエス様の十字架を信じる私たちの信仰でしょう。

 この、私自身をささげる祈りの場は、神様へ意識をしっかりと向けることができる、静かな場でなければなりません。福音書にはイエス様が寂しい所に出掛けて行って祈ったことが、いくつかの箇所に書かれていますね。例えばマルコ1:35です。

マルコ 1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

 寂しい所とは他に人がいない静かな場所というような意味でしょう。イエス様はこのような場所で天の父に祈られました。

 静かな環境で神様に意識をしっかりと向けて祈るとは、非日常の中で祈ること、という言い方もできるかもしれません。私たちの日常生活は大体の場合は騒音に囲まれていて、いろいろと気が散ることが多いと思います。その日常から離れるなら神様に意識を向けやすくなります。聖宣神学院ではテレビが無い生活をしていましたから、神様に意識を向けやすい環境であったと思います。そうして神様を近くに感じながら生活することができましたから、感謝でした。

 コロナ禍で緊急事態宣言が発令されて対面式の礼拝を自粛した時も、私たちはある意味、非日常を経験したことになると思います。2020年の4/19から5/17までの5回の礼拝を原則としてライブ配信のみの礼拝とした時は、戸惑いの方が大きかったですが、翌年の2021年の8/15から9/26までの7回の礼拝をライブ配信のみにした時は、このような非常事態に慣れていたこともあって、非日常の中で神様を近くに感じていたように思います。この間の礼拝説教の聖書箇所はずっとヨハネの福音書の最後の晩餐の場面からでした。イエス様は最後の晩餐で弟子たちに大切なことを説き明かしました。この最後の晩餐の学びを緊急事態宣言が発令中という非日常の中でできたことで、それまでよりも、神様を近くに感じるようになったという気がしています。

 というのは、この緊急事態宣言が明けた後の去年の10月から私は、その枝教会で毎週金曜日の朝6時半から持たれている静岡朝祷会に参加するようになったからです。朝祷会に参加すべきことを緊急事態宣言中に神様から示されました。そうして、この1年間はほぼ毎回出席して現在に至ります。私にとってはこの教会にいることは日常のことになっていますから、週1回、その枝教会で非日常の時が与えられて神様を近くに感じることができることをとても感謝に思っています。

 そして最近また別の形で、非日常の中で神様を近くに感じる経験をしました。それは、9月24日の12時間の停電中でした。午前2時に停電した瞬間、たまたま私は起きていました。そして、しばらくすれば復帰するだろうと思っていましたが、10分経っても20分経っても電気は付きませんでした。テレビはもちろん見られませんから、乾電池式のラジオを付けて聞いていました。外に出て交差点を見てみると、信号機が点いていませんでした。テレビが見られず信号機も点いていないことは日常生活では有り得ないことですから、この時の私は非日常の中にいました。そうして後から考えると、この時の私は神様をとても近くに感じていたように思います。

③祭壇を自ら新たに築いて一人前の弟子になる
 このような非日常を経験することは、祭壇を新たに築くということでもあるでしょう。創世記12章の7節と8節でアブラムは行った先々で祭壇を築いて主に祈りました。新たな祭壇を築いた時は、新たな気持ちで主に向き合い、祈ったことでしょう。私たちも、日常では経験しない非日常を新たに経験すると、主を近くに感じる経験を新たにできます。それは祭壇を新たに築くことだと言えるでしょう。そうして私自身をささげる気持ちを新たにしながら神様に祈ります。

 この、新しく祭壇を築くことは皆さんのお一人お一人がご自身で行うことですから、一人前の弟子になる良い機会が与えられるということでもあると思います。きょう最初に話したように、創世記26章25節で、アブラハムの息子のイサクは、自分で祭壇を築きました。もう一度お読みします。26章25節(週報p.2)。

創世記26:25 イサクはそこに祭壇を築き、の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。

 ここでイサクはアブラハムの信仰を引き継ぎ、独り立ちしました。つまり、イサクは信仰者として一人前になったと言えるでしょう。私たちも非日常を経験することで神様を近くに感じて、それをきっかけに新たな歩みを始めるなら、それが祭壇を新たに築くことであり、イエス様の弟子として一人前になるということでしょう。

 2番目のパートで私は神学生の時のことを話し、とても感謝していると話しました。テレビが見られない神学院という非日常の中で神様を近くに感じる経験を積むことができたからです。但し、当時の神学院は、神学生を一人前の大人とは見なさない雰囲気がまだ残っていましたから、早く卒業したいと私はいつも思っていました。

 子供扱いに違和感を覚えていたのは多分、私が研究者の社会で育ったからだろうと思います。研究の世界では大学院に進学した大学院生に対しては、対等の研究者として育てる雰囲気があります。もちろん大学院に進学したばかりではまだまだですが、早く一人前の研究者になれるようにと私は恩師の先生に育てていただきました。そのことに、とても感謝していましたから、私も自分で研究室を持つようになってからは、所属する大学院生が早く一人前になれるように、できるだけ対等の研究者として向き合うようにしました。

 そういう育ち方をしていますから、イエス様も早く私たちが一人前の弟子になるようにと励まして下さっていることを感じます。一人一人が聖霊を受けて、イエス様との個人的な関係を築いて、そうして祈りのための祭壇を築いて、イエス様のように自分自身をささげることができる一人前の弟子になりたいと思います。

おわりに
 このところ何度か話していますが、この9月から10月に掛けてeラーニングの「包括的福音を求めて」を受講して、これまでの考え方を根本的に改められるような経験をしました。かなり衝撃的でしたが、こういうことがあるから聖書の学びは楽しいのだと思います。
 インマヌエルのeラーニングが始まったのは私が神学生だった2010年頃でした。このeラーニングの学びはインターネットへの接続が都会だけでなく地方でも容易になったことで実現しました。当初は動画ではなくて、テキストを見ながらの学びでしたが、それでも画期的なことだったと思います。そうしてインターネットを利用して、牧師や信徒が新しい学びができるようになりました。特に牧師の場合、神学校で学んだことが更新されずにいる場合が多いためにeラーニングが立ち上げられて、学びを更新できるようにして下さいました。そうして、様々な講座が企画されて、時には、にわかには受け入れがたいような新しいことも語られます。でも、そうやって私たちは、祭壇を新たに築き直して行くのだと思います。

 アブラハムが行く先々で祈りのための祭壇を築いたように、またイサクが一度ふさがれた井戸を掘り返し、そうしてまた新たな井戸を掘り、新たな祭壇を築いたように、私たちも非日常の中でイエス様との新たな出会いを経験しながら、新たな祭壇を築いて、祈ります。そうして、いつも新しい信仰の井戸の水を与えていただくことで、イサクがアブラハムから受け継いだ信仰をヤコブに引き継いで行ったように、私たちも次の世代に引き継いで行きたいと思います。

 来週は子供祝福礼拝を行います。私たちは若い世代に信仰を引き継いで行ってもらいたいと願っています。それは若い世代の人たちが自らの手で祭壇を築くことができるようになる、ということです。そのためには、私たち自身も、新たな祭壇を築く営みを続けていなければならないと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

創世記12:7 はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこにのための祭壇を築き、の御名を呼び求めた。
コメント