2023年3月16日祈り会説教、3月17日静岡朝祷会奨励
『平和への道をあきらめない』
【ヨハネ8:24、44、9:5~7、10:1、40、11:6~7、32~35】
きょうはヨハネの福音書の8章から11章までを見渡すことにします。先週の祈り会でE.W.クラーク先生の『Katz Awa(勝安房)』を紹介する中で平和の大切さを改めて感じたからです。
勝海舟は幕末には軍艦奉行として、また明治の世になってからは海軍卿として、日本の海軍の基礎を築きました。この勝海舟が築いた基礎があったから日本の海軍、そして陸軍を含む日本の軍隊は短い期間の間に軍事力を高めて日清戦争に勝ち、日露戦争でも善戦するほどになったとクラーク先生は『Katz Awa』の中で勝海舟を絶賛しています。
先週はこのことを紹介した後で、次のような話をしました。
明治の世に日本が富国強兵で軍事力を高めて行ったのは、当時の世界情勢の中では仕方のないことだったのかもしれません。しかし、日本も世界もいつまで同じことを繰り返すのでしょうか。特に日本は第二次世界大戦で敗戦国となって軍事力を放棄し、且つ日本国憲法第九条に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記しました。それにも関わらず陸海空の軍事力を自衛隊によって着々と高めていて、ここ10年ではそれが加速しています。
そうして日本も世界も戦争を繰り返しては相手を滅ぼし、或いは相手に滅ぼされ、壊滅的な戦災を被っても、またしても軍事力を高めてはまた戦争することを繰り返しています。その時々の情勢、また昨今の世界情勢では、それも仕方がないという考える人も多いでしょう。しかし、私たちはこの戦争の繰り返しを一体いつまで続けるつもりでしょうか?
21世紀の今はこういう悲しい状況の中にありますが、私はまだ平和への道をあきらめていません。聖書を部分的に読むのではなく、聖書全体を理解しようと努めるなら、天の父とイエス様が戦争を繰り返す愚かな人間のことをどんなに悲しみ、涙を流しているかが、分かるからです。この天の父とイエス様の深い悲しみを共有するなら、世界は必ず平和な方向へと向かって行くはずです。
では何故、まだそれが出来ていないのか、それはキリスト教会の多くが「個人の救い」を重点に置いているからだと考えます。教会が「個人の救い」に重点を置くのは当然ですが、「世界の救い」にも少しは目を向けるべきだと思います。
聖書には「世界の救い」と「個人の救い」の両方のことが書かれています。旧約聖書は明らかに「世界の救い」の方に重点を置いて語っています。まずイスラエルの民が救われて、そうしてエルサレムに世界の国々から人々が集まって来て、終わりの日には新しい天と新しい地が創造されて(イザヤ書65~66章)、世界が救われます。
新約聖書は、この旧約聖書が土台になっています。新約聖書では「聖書」ということばが50回以上使われています。新約聖書が言う「聖書」とは旧約聖書のことです。新約聖書は、この旧約聖書を土台にして書かれています。そうして新約聖書の最後に収められているヨハネの黙示録は、イザヤ書で預言されている新しい天と新しい地は、天から新しいエルサレムが地上に降って来ることで完成することを明らかにしています(黙示録21~22章)。つまり、新約聖書も究極的には「世界の救い」が語られている書です。でも、その過程においてはもちろん、一人一人の個人の救いがあります。使徒たちも個人伝道を多くしていました。そうして、多くの個人が救われることで、「世界の救い」へと向かって行きます。ですから、教会が「個人の救い」を重点に置くことは当然であって、そうすべきです。
しかし、「個人の救い」にばかり目を向けていると、「世界の救い」が見えなくなってしまいます。新約聖書も究極的には「世界の救い」を語っているのですから、それが見えなくなるのは、とても残念です。そのために、いつまでも戦争がなくならないのだと思います。
きょうはこれから駆け足でヨハネの福音書が旧約聖書を土台にしていて、「個人の救い」だけではなく「世界の救い」についても語っている書であることを、分かち合いたいと思います。1章から見たいところですが、時間が限られていますから、8章から見て行きます。
まずヨハネ8章24節、
この『わたしはある』の所には星印(*)があって、下の注を見ると次のように書いてあります。
つまりイエス様は、自分と父とは一つの存在であると、この8章24節でおっしゃっています。そして、この「エゴー・エイミ」 ―― 英語で言えば「I am」 ―― を使って、イエス様は「わたしは~です」と何度もおっしゃっています。
これらの「わたしは~です」を通して、イエス様は繰り返し「エゴー・エイミ」と言って、ご自身が父と一つであることを示しています。すなわち、「わたしは門です」であれば、「わたしは『わたしはある』であり、且つ門です」とイエス様はおっしゃっており、「わたしはよみがえりです。いのちです」であれば、「わたしは『わたしはある』であり、且つよみがえりです。いのちです」とおっしゃっているのだと思います。このようにして、イエス様はご自身が「わたしはある」である、すなわち父と一つの存在であることを何度も示しています。次に8章44節、
ここでなぜ「悪魔」が出て来るかと言うと、8章のイエス様はマナセ王の悪魔の時代にいるからです。旧約の時代、イエス様は父と共に天にいて、天から聖霊を地上の預言者たちに遣わして父のことばを伝えていました。
ヨハネ1章は【アブラハム・イサク・ヤコブの時代】、ヨハネ2章は【モーセの時代】、ヨハネ3章は【モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデの時代】、ヨハネ4章は【エリヤの時代】、ヨハネ6章は【エリシャ、ホセア】の時代、ヨハネ7章は【イザヤの時代】です。
しかし、イザヤが預言していた【ウジヤ王からヒゼキヤ王までの時代】の「次」の【マナセ王とアモン王の時代】は預言者が不在です。マナセ王が預言者を殺してしまったからです。イザヤもマナセに殺されたという言い伝えがあります。ですから、マナセ王とアモン王の時代は悪魔の時代でした。続いて9章5節と6節、
ここでイエス様はヨシヤ王の時代に言及しています。悪魔のマナセ王の孫で、アモン王の子であるヨシヤ王は、とても善い王でした。そしてマナセ王とアモン王の時代に荒れてしまった神殿の修理をしたことが列王記と歴代誌(列王記第二22章、歴代誌第二34章)に書かれています。その神殿の修理中に律法の書が発見されました。ヨシヤ王たちは、そもそも「律法の書」があることすら知りませんでした。それで、ヨシヤ王は、この律法の書のことばを聞いた時に衣を引き裂きました。それほどのショックだったとうことですね。こうしてヨシヤ王の霊的な目が開かれました。この霊的な目の開眼が、ヨハネ9章5節の「わたしが世の光です」と盲人の開眼によって表されています。続いて10章1節では、ヨシヤ王の良い時代が過ぎて南王国は再び不信仰の時代になっていました。10章1節、
これはエレミヤの警告です。天のイエス様は地上のエレミヤに聖霊を遣わして、繰り返し、不信仰を改めるようにエルサレムのエホヤキム王や人々に警告しました。不信仰を改めないならバビロン軍などの外国軍を送って滅ぼすという警告です。しかし、エルサレムの人々が耳を傾けなかったために、遂に外国軍が城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して略奪しました(列王記第二24章)。これが10章1節の「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です」で表されています。
そして、エルサレムの人々はバビロンに捕囚として引かれて行きました。10章40節、
バビロンはヨルダン川の東側にあります。ここに預言者のエゼキエルが引かれて行きました。そしてダニエルもバビロンにいました。エゼキエルやダニエルなどの預言者たちの内には聖霊がいますから、それはイエス様が内にいるのと同じことです。イエス様もまたバビロンに引かれて行きました。そして、バビロン捕囚が始まってから、その後でエルサレムが滅亡しました。そしてバビロン捕囚から約70年後に人々はエルサレムの再建のために帰還を始めます。ヨハネ11章6節と7節、
ここで病んでいるラザロとは、滅亡寸前のエルサレムのことです。そしてラザロが死んで、エルサレムは滅亡しました。そうして預言者たちの中のイエス様は廃墟のまま放置されていたエルサレムに戻って来ました。ヨハネ11章32節から35節、
イエス様はエレミヤを通して何度も、エルサレムの人々に不信仰を改めて主に立ち返るように繰り返し警告しました。その警告を無視したからエルサレムは滅ぼされました。それなのにマリアが「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって霊に憤りを覚えました。イエス様は、ちゃんとエレミヤの中にいて、人々に警告していました。それを彼らが分かっていないことに憤りを覚えました。そして、イエス様は涙を流されました。
エルサレムが滅亡して廃墟になったことはイエス様と天の父にとって、涙を流すほど悲しいことでした。
最初の話に戻ると、「個人の救い」だけに目を向けていると、こういう旧約聖書の大きな流れが新約聖書の中に埋め込まれていることが読み取れなくなります。そうして、旧約聖書の土台の上に新約聖書があることも忘れてしまいます。世界が平和に向かうためには、新約聖書は旧約聖書の「世界の救い」の土台の上にあることを、もっと意識する必要があるでしょう。
とは言え、教会が「個人の救い」に重点を置くことは当然のことです。地域にいる方々のお一人お一人を教会は救いに導かなければなりません。私たちは教会の一員として「個人の救い」に重点を置いて伝道します。しかし、同時に「世界の救い」のことも心の片隅で意識していなければならないと思います。天の父とイエス様が、戦争によって都市が廃墟になることを、どんなに悲しんでおられるのか、このことが分からなければ、延々と戦争を繰り返すことになるでしょう。
「個人の救い」に重点を置きつつも、「世界の救い」のことも忘れずに、イエス様と共に歩む私たちでありたいと思います。お祈りいたします。
『平和への道をあきらめない』
【ヨハネ8:24、44、9:5~7、10:1、40、11:6~7、32~35】
きょうはヨハネの福音書の8章から11章までを見渡すことにします。先週の祈り会でE.W.クラーク先生の『Katz Awa(勝安房)』を紹介する中で平和の大切さを改めて感じたからです。
勝海舟は幕末には軍艦奉行として、また明治の世になってからは海軍卿として、日本の海軍の基礎を築きました。この勝海舟が築いた基礎があったから日本の海軍、そして陸軍を含む日本の軍隊は短い期間の間に軍事力を高めて日清戦争に勝ち、日露戦争でも善戦するほどになったとクラーク先生は『Katz Awa』の中で勝海舟を絶賛しています。
先週はこのことを紹介した後で、次のような話をしました。
明治の世に日本が富国強兵で軍事力を高めて行ったのは、当時の世界情勢の中では仕方のないことだったのかもしれません。しかし、日本も世界もいつまで同じことを繰り返すのでしょうか。特に日本は第二次世界大戦で敗戦国となって軍事力を放棄し、且つ日本国憲法第九条に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記しました。それにも関わらず陸海空の軍事力を自衛隊によって着々と高めていて、ここ10年ではそれが加速しています。
そうして日本も世界も戦争を繰り返しては相手を滅ぼし、或いは相手に滅ぼされ、壊滅的な戦災を被っても、またしても軍事力を高めてはまた戦争することを繰り返しています。その時々の情勢、また昨今の世界情勢では、それも仕方がないという考える人も多いでしょう。しかし、私たちはこの戦争の繰り返しを一体いつまで続けるつもりでしょうか?
21世紀の今はこういう悲しい状況の中にありますが、私はまだ平和への道をあきらめていません。聖書を部分的に読むのではなく、聖書全体を理解しようと努めるなら、天の父とイエス様が戦争を繰り返す愚かな人間のことをどんなに悲しみ、涙を流しているかが、分かるからです。この天の父とイエス様の深い悲しみを共有するなら、世界は必ず平和な方向へと向かって行くはずです。
では何故、まだそれが出来ていないのか、それはキリスト教会の多くが「個人の救い」を重点に置いているからだと考えます。教会が「個人の救い」に重点を置くのは当然ですが、「世界の救い」にも少しは目を向けるべきだと思います。
聖書には「世界の救い」と「個人の救い」の両方のことが書かれています。旧約聖書は明らかに「世界の救い」の方に重点を置いて語っています。まずイスラエルの民が救われて、そうしてエルサレムに世界の国々から人々が集まって来て、終わりの日には新しい天と新しい地が創造されて(イザヤ書65~66章)、世界が救われます。
新約聖書は、この旧約聖書が土台になっています。新約聖書では「聖書」ということばが50回以上使われています。新約聖書が言う「聖書」とは旧約聖書のことです。新約聖書は、この旧約聖書を土台にして書かれています。そうして新約聖書の最後に収められているヨハネの黙示録は、イザヤ書で預言されている新しい天と新しい地は、天から新しいエルサレムが地上に降って来ることで完成することを明らかにしています(黙示録21~22章)。つまり、新約聖書も究極的には「世界の救い」が語られている書です。でも、その過程においてはもちろん、一人一人の個人の救いがあります。使徒たちも個人伝道を多くしていました。そうして、多くの個人が救われることで、「世界の救い」へと向かって行きます。ですから、教会が「個人の救い」を重点に置くことは当然であって、そうすべきです。
しかし、「個人の救い」にばかり目を向けていると、「世界の救い」が見えなくなってしまいます。新約聖書も究極的には「世界の救い」を語っているのですから、それが見えなくなるのは、とても残念です。そのために、いつまでも戦争がなくならないのだと思います。
きょうはこれから駆け足でヨハネの福音書が旧約聖書を土台にしていて、「個人の救い」だけではなく「世界の救い」についても語っている書であることを、分かち合いたいと思います。1章から見たいところですが、時間が限られていますから、8章から見て行きます。
まずヨハネ8章24節、
ヨハネ8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」
この『わたしはある』の所には星印(*)があって、下の注を見ると次のように書いてあります。
*「エゴー・エイミ」。出エジプト記3:14の「わたしは『わたしはある』という者である」という神の自己顕現の表現に由来。
つまりイエス様は、自分と父とは一つの存在であると、この8章24節でおっしゃっています。そして、この「エゴー・エイミ」 ―― 英語で言えば「I am」 ―― を使って、イエス様は「わたしは~です」と何度もおっしゃっています。
「わたしはいのちのパンです」(6:48)、「わたしは世の光です」(8:12)、「わたしは門です」(10:9)、「わたしは良い牧者です」(10:11)、「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(15:5)。
これらの「わたしは~です」を通して、イエス様は繰り返し「エゴー・エイミ」と言って、ご自身が父と一つであることを示しています。すなわち、「わたしは門です」であれば、「わたしは『わたしはある』であり、且つ門です」とイエス様はおっしゃっており、「わたしはよみがえりです。いのちです」であれば、「わたしは『わたしはある』であり、且つよみがえりです。いのちです」とおっしゃっているのだと思います。このようにして、イエス様はご自身が「わたしはある」である、すなわち父と一つの存在であることを何度も示しています。次に8章44節、
【マナセ王・アモン王の時代】ヨハネ8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
ここでなぜ「悪魔」が出て来るかと言うと、8章のイエス様はマナセ王の悪魔の時代にいるからです。旧約の時代、イエス様は父と共に天にいて、天から聖霊を地上の預言者たちに遣わして父のことばを伝えていました。
ヨハネ1章は【アブラハム・イサク・ヤコブの時代】、ヨハネ2章は【モーセの時代】、ヨハネ3章は【モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデの時代】、ヨハネ4章は【エリヤの時代】、ヨハネ6章は【エリシャ、ホセア】の時代、ヨハネ7章は【イザヤの時代】です。
しかし、イザヤが預言していた【ウジヤ王からヒゼキヤ王までの時代】の「次」の【マナセ王とアモン王の時代】は預言者が不在です。マナセ王が預言者を殺してしまったからです。イザヤもマナセに殺されたという言い伝えがあります。ですから、マナセ王とアモン王の時代は悪魔の時代でした。続いて9章5節と6節、
【ヨシヤ王の時代】ヨハネ9:5 「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
ここでイエス様はヨシヤ王の時代に言及しています。悪魔のマナセ王の孫で、アモン王の子であるヨシヤ王は、とても善い王でした。そしてマナセ王とアモン王の時代に荒れてしまった神殿の修理をしたことが列王記と歴代誌(列王記第二22章、歴代誌第二34章)に書かれています。その神殿の修理中に律法の書が発見されました。ヨシヤ王たちは、そもそも「律法の書」があることすら知りませんでした。それで、ヨシヤ王は、この律法の書のことばを聞いた時に衣を引き裂きました。それほどのショックだったとうことですね。こうしてヨシヤ王の霊的な目が開かれました。この霊的な目の開眼が、ヨハネ9章5節の「わたしが世の光です」と盲人の開眼によって表されています。続いて10章1節では、ヨシヤ王の良い時代が過ぎて南王国は再び不信仰の時代になっていました。10章1節、
【エホヤキム王たちの時代】ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」
これはエレミヤの警告です。天のイエス様は地上のエレミヤに聖霊を遣わして、繰り返し、不信仰を改めるようにエルサレムのエホヤキム王や人々に警告しました。不信仰を改めないならバビロン軍などの外国軍を送って滅ぼすという警告です。しかし、エルサレムの人々が耳を傾けなかったために、遂に外国軍が城壁を乗り越えてエルサレムに侵入して略奪しました(列王記第二24章)。これが10章1節の「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です」で表されています。
そして、エルサレムの人々はバビロンに捕囚として引かれて行きました。10章40節、
【バビロン捕囚の時代】ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。
バビロンはヨルダン川の東側にあります。ここに預言者のエゼキエルが引かれて行きました。そしてダニエルもバビロンにいました。エゼキエルやダニエルなどの預言者たちの内には聖霊がいますから、それはイエス様が内にいるのと同じことです。イエス様もまたバビロンに引かれて行きました。そして、バビロン捕囚が始まってから、その後でエルサレムが滅亡しました。そしてバビロン捕囚から約70年後に人々はエルサレムの再建のために帰還を始めます。ヨハネ11章6節と7節、
【エルサレム滅亡・エルサレム帰還の時代】ヨハネ11:6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
11:7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
ここで病んでいるラザロとは、滅亡寸前のエルサレムのことです。そしてラザロが死んで、エルサレムは滅亡しました。そうして預言者たちの中のイエス様は廃墟のまま放置されていたエルサレムに戻って来ました。ヨハネ11章32節から35節、
【戦災で廃墟になったエルサレムを見て涙を流すイエス】ヨハネ11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
11:34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
11:34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
イエス様はエレミヤを通して何度も、エルサレムの人々に不信仰を改めて主に立ち返るように繰り返し警告しました。その警告を無視したからエルサレムは滅ぼされました。それなのにマリアが「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって霊に憤りを覚えました。イエス様は、ちゃんとエレミヤの中にいて、人々に警告していました。それを彼らが分かっていないことに憤りを覚えました。そして、イエス様は涙を流されました。
エルサレムが滅亡して廃墟になったことはイエス様と天の父にとって、涙を流すほど悲しいことでした。
最初の話に戻ると、「個人の救い」だけに目を向けていると、こういう旧約聖書の大きな流れが新約聖書の中に埋め込まれていることが読み取れなくなります。そうして、旧約聖書の土台の上に新約聖書があることも忘れてしまいます。世界が平和に向かうためには、新約聖書は旧約聖書の「世界の救い」の土台の上にあることを、もっと意識する必要があるでしょう。
とは言え、教会が「個人の救い」に重点を置くことは当然のことです。地域にいる方々のお一人お一人を教会は救いに導かなければなりません。私たちは教会の一員として「個人の救い」に重点を置いて伝道します。しかし、同時に「世界の救い」のことも心の片隅で意識していなければならないと思います。天の父とイエス様が、戦争によって都市が廃墟になることを、どんなに悲しんでおられるのか、このことが分からなければ、延々と戦争を繰り返すことになるでしょう。
「個人の救い」に重点を置きつつも、「世界の救い」のことも忘れずに、イエス様と共に歩む私たちでありたいと思います。お祈りいたします。
ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。