インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

時間のクッション(2014.7.30 祈り会)

2014-07-31 09:55:07 | 祈り会メッセージ
2014年7月30日祈り会メッセージ
『時間のクッション』
【マタイ11:28~30】

はじめに
 7月上旬に静岡聖会の準備会が持たれました。春と秋の定例の教区会と同様にこの準備会においても、議事に先立って約15分間のディボーションの時が持たれます。7月の準備会の時のディボーションを担当した先生が開いた聖書箇所が、このマタイ11:28~30でした。
 この教区の会合は伝道者の集まりですから、ディボーションの勧話も伝道者向けの話になります。先生は、現代の伝道者は昔の伝道者よりも少し容量(キャパシティ、器の大きさ)が小さくなっているように感じると話され、私たちには容量の大きさが求められているのではないかと話されました。そして容量を大きくする鍵がマタイ11:29にあるのではないかということでした。マタイ11:29にある人としてのイエス・キリストの特徴である「心優しく、へりくだっている」は新共同訳では「柔和で謙遜」であり、この「柔和」と「謙遜」が私たち伝道者の容量を大きくする鍵となるのではないかということでした。

「柔和」と「謙遜」をイエス・キリストから学ぶ
 容量が大きいとは先生によれば「すべてのことを受け留めて認めることができる」ということです。そして、他人の「すべてのことを受け留めて認めることができる」のが「柔和」で、自分の「すべてのことを受け留めて認めることができる」のが「謙遜」であろうということです。
 この「柔和」と「謙遜」を自分の中でどう育み養うか、それには同じ29節にあるように、イエス・キリストのくびきを負って、イエス・キリストから学ぶことだと先生はおっしゃいます。くびきというのは、二頭の牛を並べてすきを引かせて畑を耕す時などに、牛の首につける道具です。ご存知ない方のためにウィキペディアに載っていた写真をお見せします(写真)。


(出典:ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/くびき)

 このようにして、くびきでつながれた二頭の牛は、同じ歩調で並んで歩くことになります。マタイ11:29にあるイエス・キリストのくびきを負うとは、この写真で言えば、片方の牛がイエスさま、もう片方の牛が私で、つまりイエスさまと私が同じ歩調で同じ方向に向かって歩くということになります。こうしてイエスさまと共に歩むことでイエスさまの「柔和」と「謙遜」を学び、自分のものとして行くことができるであろうというお話でした。新改訳で言えばイエスさまの「心優しく、へりくだっている」様子を私たちが学び、私たちもイエスさまのようにならなければならないということですね。これは伝道者に限らず、すべてのクリスチャンに言えることだろうと思います。

永遠の時間の無限のクッション
 この先生の勧話は、とても示唆に富んだもので、良い学びになりましたから、感謝でした。そして今回私は、この勧話を、私が昨年来話している、過去・現在・未来の時間の観点から捉え直してみることにしたいと思います。
 はじめに概要を簡単に話して、後からもう少し詳しく説明することにします。これから話すことの概要は、まず私たちの容量(キャパシティ、器)が小さくなって来ていると感じるのは私たちが昔よりも忙しい時代を生きているからで、私たちは器自体が小さくなっているのではないだろうということ。そして、それは線的な細い時間では吸収し切れないこと、しかし、過去・現在・未来が一体の永遠の時間観に慣れ親しむなら、永遠の時間は無限のクッションで全てを吸収するであろうこと。そして29節にあるようにイエス・キリストの「柔和」と「謙遜」が私たちの魂に安らぎをもたらすのは、イエス・キリストが永遠の中を生きておられるからだ、ということです。

線的な時間の収容力には限界がある
 まず、私たちの容量(キャパシティ、器)が小さくなって来ていると感じるのは私たちが昔よりも忙しい時代を生きているからで、私たちは器自体が小さくなっているのではないだろうということについてです。
 会社や役所での仕事に関して言えば、私たちが忙しい時代の中を生きているということは、誰もが認めることであろうと思います。ファックスや電子メール、そして携帯電話が普通に使われるようになって、仕事の密度は以前とは比べられないぐらいに濃くなり、それに伴って働く人間にはそれらの仕事をこなす処理能力の速さが求められるようになりました。私は長い間、大学で働いていましたが、昔は大学の先生というと象牙の塔に籠ってゆったりとした時間の中で思索にふけっているというイメージがあったかもしれませんが、現代の大学の先生は全く異なります。特に仕事に電子メールが使われるようになってからは、一日に膨大な量のメールに目を通して仕事をこなさなければならないようになりました。
 同じ建物にいる同じ組織の先生方との間でも、たいていはメールでやり取りが行われますし、学内の委員会の委員にもたいていはいくつかなりますから、学内のたくさんの先生とのやり取りもメールで行われます。また、事務方からも、いついつまでに書類を提出して下さいというメールが頻繁に来ます。また、どの先生も学会などを通じて他の大学の先生方とのネットワークも広く持っていますから、学外の先生方とのメールのやり取りも一日の間に何度も行われます。これらのメールはあまりに量が多くて昼間の大学にいる間だけでは処理し切れませんから、自宅に戻ってからもメールをチェックして返事を書いたりします。こんなことを話していると、大学の先生の仕事はメールのやり取りをすることのように思われてしまうかもしれませんが、もちろん大学の先生の仕事は教育と研究ですから、授業をするための準備もきちんと行って授業をし、研究も行います。今の大学では、学生による授業評価も行われますから、準備ができていない質の悪い授業をすると学生から厳しい評価をされて落ち込むことになります。また、研究を行って論文を書かないと、同僚の先生からも評価されなくなります。このように学生と同僚から低い評価を受けないように、日々教育と研究に熱心に取り組むとともに、毎日大量のメールとも格闘しなければなりません。
 会社や役所で働いている方々も同様でしょう。寝ないで働いたとしても一日に使える時間は24時間しかありませんから、時間を一本の線として考えるなら、その一本の線の中に押し込めることができる仕事の量は、自ずと限られてきます。現代人は、その容量を越えた仕事を抱えているのだと思います。
 昔の、もっとのんびりしていた時代においては、時間が一本の線であったとしても、まだまだ余裕があったのではないかと思います。一時的に忙しい時があっても、忙しくない時もありますから、そちらの方で吸収できたのではないかと思います。それでも、のんびりしていた時代であっても、いろいろな事が重なって精神的なゆとりがなくなると、忙しくない時のクッションを上手く利用できなくなり、疲れ果ててしまうこともあったでしょう。そんな時、イエス・キリストと同じくびきにつながれると魂の安らぎが得られます。

イエスと共に歩むと得られる魂の安らぎ
 では、イエス・キリストと同じくびきにつながれるとは、どういうことでしょうか。
 それは、永遠の中を生きるイエス・キリストが一本の時間の中には収容し切れない重荷を、永遠の時間の中に吸収して下さるということだと言えるでしょう。細い一本の時間の中で物事を考えていると、行き詰ってしまうことでも、永遠の中を生きるイエス・キリストに心を寄せて同じ歩調で歩くなら、イエス・キリストが重荷を永遠の中に解き放って下さいます。
 このように、のんびりしていた昔であっても時に行き詰ることがあったなら、もっと忙しい現代においては、なおさらイエス・キリストの助けが必要になっているのではないでしょうか。
 ただし、イエス・キリストに助けを求めても、相変わらず今までと同じ量の仕事を自分が抱え込んでいるなら、魂に安らぎは来ないのではないかと思います。他人から良い評価を得るための仕事を抱え込み過ぎているなら、魂に安らぎは来ません。ですから、考え方を変えて、他人から良い評価を得るためでなく、神様から良い評価を得るために仕事をするなら、自ずと仕事の量も絞られて来るのではないかと思います。そうすれば、神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21,23)とおっしゃって下さるのだと思います。
 そのように、神様から良い評価をいただくためには、私たちはもっと永遠に目を向けなければならないのだと思います。今年の私たちの教会に与えられたみことばは、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)です。一本の細い線の時間の中に収容し切れないほどの仕事を抱え込んで身動きが取れなくなるのではなく、もっと無限に広い過去・現在・未来が一体の永遠に人々の目が向くような働きができるなら、きっと神様は、「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21,23)とおっしゃって下さるのではないかと思います。

おわりに
 そのためには、さらに具体的にどうすれば良いかは、次の礼拝で話すことにしたいと思いますが、予告編的にほんの少しだけ紹介すると、みことばには功罪があるということを意識する必要があるだろうということです。功罪があるとは、良い面と悪い面があるということです。みことばに悪い面があるなどということは、私自身も気づいていませんでしたが、みことばは、一本の時間という線の中で語られるものですから、あまりにみことばにこだわり過ぎると、私たちは一本の線の時間観からなかなか脱却できないことになってしまいます。このことを次聖日の礼拝ではお話させていただこうと思います。
 私たちが過去→現在→未来という一本の線の時間の中にとどまる限り、私たちの魂に本当の安らぎは来ません。永遠の中を生きるイエス・キリストと一つのくびきにつながれて、永遠の中を共に歩む必要があると思います。
 お祈りいたしましょう。
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8月3日礼拝プログラム

2014-07-31 08:13:54 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月3日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第1聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  神なく望みなく       367 
 交  読  ヨハネ1:1~18
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  聖霊よ 主のそばに     171
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ヨハネ3:1~16
 説  教  『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』 小島牧師
 讃 美 ④  神はひとり子を        26
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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「みことばの糸」の解き明かし

2014-07-29 06:29:00 | 牧師のつぶやき
 前回のつぶやきでみことばを蚕(カイコ)が吐き出す繭糸に例えたのは、みことばを聞く私たちが過去→現在→未来という線的な時間観に囚われているという含みがある。
 みことばの源泉の神の愛には時間が存在しないが、みことばの糸には人間の線的な時間が伴う。先に語られたみことばは旧く、後に語られたみことばは新しいと人間は判断するが、源泉においては過去・現在・未来が混然としている。それゆえ新約における旧約の預言の成就も不思議なことではない。
 イエス・キリストがみことばの糸を供給するのは霊的に十分に覚醒していない私たちでも神の愛のことがわかるようになるためであるから、神の愛のことが少しでもわかるようになったのなら、いつまでも線的な時間観の中にいるのでなく、過去も現在も未来も渾然一体となった神の愛の中にどっぷりと浸るべきである。
 神の愛に満たされ、線的な時間観の奴隷状態から解放されて自由になるなら、過去の恨みを未来の復讐で晴らす報復の連鎖からも脱却できるであろう。領土や領海を巡る争いも線的な狭い時間観と無縁ではない。人は狭い時間の中で相手よりも優位な位置に立とうと懸命になるが、神の愛の中では優劣は存在しない。
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みことばの源泉「神の愛」に浸ろう

2014-07-29 04:37:04 | 牧師のつぶやき
『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
~平和をつくる聖書の味わい方~

 「ことば」であるイエス・キリストの働きを、繭糸を吐き出す蚕(カイコ)の働きに例えてみたい。
 蚕は繭糸の原液を糸にして吐き出す。人間はその糸を拠り、布を編み、衣服等を作る。
 イエス・キリストは「神の愛」という源泉からみことばの糸を人々に供給する。人はそのみことばの糸を拠り、聖書という布を編み、聖書を題材にした本という衣服などの布製品を作る。そして人は、この服はデザインが良いとか悪いとか、着心地が良いとか悪いとか様々に論評し合ったりする。
 しかし、そもそもイエス・キリストがみことばの糸を供給し、聖書の記者たちが糸を拠り、聖書の編者が聖書の布を編んだのは、人々を「神の愛」の源泉に導くためではないのか。生まれながらの人間は霊的に覚醒していないので源泉の存在に気付くことができない。聖書が必要なのはそのためだが、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたなら、源泉の「神の愛」を感じることができるようになる。
 それゆえ聖霊が注がれて「神の愛」に気付いた者たちがすべきことは衣服を着て布地や衣服について論評し合うことではなく、裸になって源泉の湯にどっぷりと浸かることではないか。裸になってすべてを神の愛に委ねる時、私たちの心は平和で満たされる。従って私たちが作るべき布製品は衣服ではなく、温泉の入口の「のれん」である(笑)
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両側からの力強い支え(2014.7.27 礼拝)

2014-07-28 00:32:14 | 礼拝メッセージ
2014年7月27日礼拝メッセージ
『両側からの力強い支え』
【出エジプト17:8~16】

はじめに
 先週の祈祷会で、報告があり、H先生が、少し奉仕がきつくなっていて、体調もあまり芳しくないということをお聞きしました。H先生を送り出した沼津教会としては、3月の任命以来、祈りをもって先生を支え続けていかなければならないと思い、これまで祈祷会での祈りの課題にも、また週報4ページの祈りの課題でも毎週挙げ続けて来ましたが、きょうはこの礼拝の場において、私たちが祈りによって先生を支え続けて行かなければならないことを、改めて確認し合いたいと思います。
 H先生の最初の1年の奉仕がきついものになるであろうことは、3月の年会で先生が主任牧師として任命されたことを聞いた時から予測できたことです。それは、新卒ではなかった私でも、昨年の沼津教会での最初の1年間は、けっこうきついものだったからです。どこの教会でも礼拝と祈祷会を行なうことにおいては同じですが、細かい内容は教会ごとにかなり違います。ですから最初の1年間は私にとってはすべてのことが初めてで、なかなか精神的なゆとりを持つことができませんでした。それでも私の場合は沼津に来る前には姫路で少しは経験を積んで来ましたし、神学院に入る前にそれなりの社会経験を積んでいて息抜きをする方法も知っていますから、適当にガス抜きをしながらご奉仕ができて、行き詰まることはありませんでした。また、私の場合は最初に主任牧師として任命された姫路教会は、インターン実習で既に1年間過ごした教会でしたから、やるべきことは大体わかっていました。それが、H先生の場合は、それほど社会経験もなく、また卒業していきなり知らない教会での主任牧師ですから、本当に様々な面で大変であろうと思います。
 そのH先生を私たちは、お祈りで支えて行かなければなりません。そのための聖書の学びとして今日示されている箇所は出エジプト記17章の12節です。

17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。

 ここには、祈りの手を挙げるモーセをアロンとフルが両側から支えたことが記されています。モーセは大変な役目を負って苦労していましたが、その苦労するモーセを支える人々もまた、モーセの周りにはいました。きょうは、そのモーセの大変さとモーセを支えた人々のことを学び、私たちがH先生を支えることへの参考としたいと思います。またそれらに加えて、今回私は出エジプト記の前半を改めて読み返してみて、主が私たちと共にいて下さり、私たちに細かい指示を与えて下さるとはどういうことかについて、新たな光が与えられましたから、そのことも是非、皆さんと分かち合うことにしたいと思います。

尻込みしたモーセ
 出エジプト記の始めの方に書いてある通り、神はモーセをリーダーに選んで、奴隷として労役に苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから脱出させることにしました。しかし、当のモーセは、そんな大役のリーダーは無理であると、始めのうちは尻込みをしていました。出エジプト記3章の、9節から11節までを見て下さい。私のほうで、お読みします。

3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

 イスラエル人の叫びを聞いた主は、10節でモーセに対して、私の民イスラエル人をエジプトから連れ出せと仰せられました。しかし、11節でモーセは、「私はいったい何者なのでしょう、・・・、イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」と言って尻込みましました。そして、しばらくの間、主とモーセとのやり取りが続きます。今度は4章の10節をご覧下さい。ここに至っても、モーセはなお尻込みしています。10節、

4:10 モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

 モーセは、自分が口下手だから無理だとリーダーの役を拒みます。しかし、主は12節で仰せられました。12節、

4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 モーセはさらに拒みます。13節、

4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

すると14節、

4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。

 こうしてモーセのお兄さんのアロンが加わってモーセはリーダーの役を務めることになりました。しかし、モーセがリーダーになった後もイスラエルの民はすんなりとエジプトを脱出できたわけではなく、エジプトの王のパロとの間で、様々なことがありました。並みのリーダーであったなら、途中でめげていたのではないかと思いますが、リーダーとなる覚悟を決めてからのモーセはめげることなく、パロと粘り強く交渉しました。主のために働けば働くほど、リーダーとしての自覚がモーセの中で育って行ったように見えます。

主との濃密な交わりを持ったモーセ
 今回私は出エジプト記の前半を読み直してみて、モーセほど主と濃密な関係にあった者はいないことを改めて確認できて感謝でした。主はまさにモーセと共におられました。先ほどは読みませんでしたが、3章12節で主はモーセにこのように仰せられました。

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 主はモーセに、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」と仰せられました。そうして様々な場面でモーセに細かい指示を与えました。
 今回、私は改めて出エジプト記を読んでみて、主が私たちと共にいて私たちに細かい指示を与えて下さるとはどういうことかについて、新たな光を与えられました。それは、主が私たちに指示を与えて下さる時は、普段私たちが慣れ親しんでいる【過去→現在→未来】という時間の流れで指示するのでなく、【過去・現在・未来】が一体の時間の中で指示を与えて下さっているのであろうということです。このことは、先週ご一緒に見た幕屋の作り方の指示を考えるとわかりやすいだろうと思います。
 先週、私たちは出エジプト記の後半に書かれている幕屋の作り方の細かい指示を見ました。主はモーセに幕屋と幕屋の中に置く物の細かい寸法とデザインを細かく指示しました。何々の長さは何キュビト半、幅は何キュビト半、高さは何キュビト半、などと書いてあります。これまで私は、モーセはよくこれらの細かい寸法を記憶して人々に伝えることができたな、などと思っていましたが、きっと主はモーセに幕屋の明確なイメージを与えたのであって、いちいち何キュビト半などの寸法を言葉で伝えたのでは多分ないのですね。イメージには非常に多くの情報量が含まれていて、しかも一瞬で伝えることができます。しかし、これを言葉で伝えようとするなら恐ろしく長くなってしまいます。
 例えば、この会堂の前方部分の様子を私たちは、イメージとしてなら2~3秒も眺めれば、大体は頭の中に入りますね。しかし、それを言葉にすると恐ろしく長くなります。この説教台の横幅は何センチ、奥行きは何センチ、高さは何センチ、説教台の前面の十字架の横の長さは何センチ、縦の長さは何センチ、マイクの長さは何センチ、マイクを支えるアームは何センチ、高さは何センチ、後ろのアコーディオンカーテンの幅は何センチ、高さは何センチ、窓の幅は何センチ、高さは何センチ、椅子の横幅は何センチ、奥行きは何センチ、背もたれの高さはセンチ、座る部分の高さは何センチ、座布団の幅は何センチ、奥行きは何センチ、厚さは何センチ、という具合に言葉で伝えようとすると大変な長さになります。けれどもイメージであれば、わずかな時間で伝えることができます。私たちは普段、【過去→現在→未来】という時間の流れの中で生活していますから、聖書の長い言葉を読むと、神からモーセへの指示も、聖書に書かれている通りの長い言葉で伝えられたのだろうと、つい思ってしまいがちですが、そうではなくてイメージで与えられたのだろうと考えたほうが良いと思います。神との交わりとは、そのように人間の時間感覚とは異なる中で行われるものなのだと思います。神との交わりを言葉にすると長くなってしまいますが、本当は言葉よりももっと密度の濃い交わりが時間を超越した中で行われるのだと思います。それが【過去・現在・未来】が一体の時間と言えるのではないでしょうか。
 神の愛についても、いま話したことをベースにして考えるとわかりやすいのではないかと思います。旧約の時代、神は人々に律法を通じて愛を伝えました。人々への神の愛の大きさは伝えきれないぐらいに大きなものですから、その愛を言葉にすると律法の言葉のようにうんざりするような長さになってしまうのですね。このような長たらしいものになってしまったので、神の愛は旧約の時代の人々に伝わりにくかったのではないかと思います。しかし、新約の時代の私たちは、イエス・キリストを信じる者には誰にでも聖霊が注がれていますから、神の愛を長い言葉ではなく、心で感じることができます。
 モーセもまた聖霊が注がれた預言者でしたから、神の愛を豊かに感じることができたのでしょうね。ですからモーセはエジプトの王のパロとの交渉も粘り強く続けることができたのだと思います。

不平不満をつぶやくイスラエルの民
 しかし、それにしてもモーセの役割は大変なものでした。まず、エジプトを脱出したイスラエル人の数が半端ではありませんでした。12章37節に、

12:37 イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。

とありますから、幼子と女性を含めれば、軽く100万人を越えていました。沼津市の人口が約20万人で、静岡市の人口が約70万人で浜松市が80万人ですから、エジプトを脱出したイスラエルの民は大変な数でした。モーセはこれだけの民のリーダー役を務めていました。そして、このイスラエルの民は何かあれば、すぐに不平不満を言い出す人々でした。
 イスラエルの民がつぶやいて不平を言ったのは、葦の海を渡って間もなくのことでした。15章22節から24節までをお読みします。

15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。

 こうして、まずイスラエルの民は水のことで不満を言い、次には食べ物のことで不満を言いました。16章の2節と3節、これはシンの荒野に入った時でした。

16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

 このようにイスラエルの民たちには、主への信仰心が全く育っていませんでした。主は約束の地のカナンへイスラエルの民を導きいれるために、数々の奇跡を行ってイスラエルの民をエジプトから脱出させました。イスラエルの民はそれらの奇跡を自分たちの目で見ていました。そして、ほんの少し前には水のことでつぶやいたら水を得ることができました。主に不可能なことはありません。その主に信頼していれば、約束の地へ導いて行ってもらえるのに、イスラエルの民は今読んだ3節のように、「エジプトの地で…死んでいたらよかったのに」などとつぶやいたのでした。
 このような信仰の幼いイスラエルの民を率いているモーセは本当に大変でした。そして、さらに大変なことに、モーセたちイスラエルは、アマレクとも戦わなければなりませんでした。それが、きょうの聖書箇所の17章8節以降なのですが、その直前でもまた民は水のことで不平不満を言っていました。17章の3節と4節をお読みします。

17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
17:4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」

 民の不満はモーセを石で打ち殺そうとうするまでに高まっていました。この時も主は6節にあるように岩から水が出るようにして下さり、民の不満は収まりました。そしてアマレクが攻めて来たのは、そのすぐ後のことですから、モーセの身になってみると、内からも外からも、どうしてこんなにも次々と困難が押し寄せて来るのだろうかと、いう感じでしょう。並みのリーダーであれば、「やってられないよ」と投げ出すところでしょう。

モーセを支えたアロンとフル
 では、この箇所を見て行きます。8節と9節、

17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

 モーセはヨシュアを闘いのリーダーに指名して、自分は神の杖を手に持って、丘の頂に立つことにしました。最初の頃、リーダーになることに尻込みをしていたモーセとは全く異なるモーセがここにはいます。モーセは本当に素晴らしいリーダーだと思います。続いて10節と11節、

17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

 モーセは丘の頂に立って両手を上げました。モーセが手を上げている時はイスラエルが優勢になりましたが、手をずっと上げていると疲れるので、手を降ろして腕を休ませる時間があったのですね。その時には、アマレクが優勢になりました。そして、腕を降ろす時間がだんだん長くなり、ついにモーセの手が重くなって、これ以上手を上げていられなくなりました。12節、

17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。

 モーセは石の上に腰掛けました。そして、腰掛けたモーセの両側にアロンとフルが立ってモーセの手を支えました。それでモーセは、日が沈みまで、ずっと上げていることができました。13節、

17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

 神が共にいて神との濃密な交わりを持つことができたモーセといえども一人の人間ですから、肉体的な疲れが出ます。その疲れたモーセをアロンとフルが支えました。
 実は、この箇所は、私が神学院への入学を目指すことにした時に、高津教会の礼拝説教で藤本満先生が語って下さった箇所です。牧師を目指す小島兄を高津教会の私たちはアロンとフルのように支えましょうと言って藤本先生は高津教会の皆さんに呼び掛けて下さいました。それ以降、私は高津教会の皆さんが祈りによって支えて下さっていることを本当に心強く思うようになりました。今でも祈って下さっている兄弟姉妹方がおられることと思い、とても感謝に思っています。自分のために祈っている方がいて下さるということは、本当に励みになります。

おわりに
 沼津教会の私たちも、H先生を祈りによって支えて行きたいと思います。もちろん、私たちはこれまでもお祈りして来ましたし、私たちだけではなく、H先生の教会はもちろん、十和田教会やその他、教団全体で新任のH先生のために、これまでも祈られて来たと思います。しかし、H先生にとっては、今がまさに手が重くなって来た正念場であると言えるでしょう。始めの二、三ヶ月は夢中でご奉仕をして来たと思います。今はその最初の頑張りの疲れが出る頃です。ですから、私たちはモーセを支えたアロンとフルのように、手が重くなったH先生を祈りによって支えたいと思います。
 出エジプト記17章の次の18章でモーセはさらに人々の助けを得ることになります。私たちは神様に支えられて生きています。それでもなお、やはり人同士の支え合いも必要です。直接的な支えだけでなく祈りによる支えも大きな力となります。私たちの教会から送り出したH先生のために、沼津教会は、いつも祈る教会でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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涙を流したイエス ―― 霊的鈍感さが招く悲劇(2014.7.23 祈り会)

2014-07-24 09:47:44 | 祈り会メッセージ
2014年7月23日祈り会メッセージ
『涙を流したイエス ―― 霊的鈍感さが招く悲劇』
【ヨハネ11:30~38】

はじめに
 先週の7月17日、ウクライナ東部ドネツク州でアムステルダム発クアラルンプール行きマレーシア航空の旅客機が撃墜されて乗客乗員298人全員が死亡するという事件がありました。また、パレスチナのガザ地区ではイスラエルによる攻撃で死者が600名を越えたと報じられています。
 イエス・キリストはこれらの悲劇に涙を流しておられます。
 ヨハネ11:35の「イエスは涙を流された」でイエスが何を悲しんで涙を流したのかについては、これまでに何度も説教をして来ましたが、きょうもまたすることにします。そして私はこれからも必要な時には何度でも、この箇所からのメッセージを語るように示されています。

イエスの悲しみと憤り
 ヨハネ11:35で涙を流したイエスはラザロの死を悲しむとともに、紀元前586年にバビロニアの攻撃によって滅亡したエルサレムを悲しみ、また同時に紀元70年にローマの攻撃によってまたしても滅亡したエルサレムを悲しみ、さらには現代の戦争の悲劇も悲しんでいます。
 ここにいるイエス・キリストは紀元30年頃のイエスですが、永遠の中を生きているイエスは「過去」も「現在」も「未来」も同時に生きていますから、旧約の時代の悲劇も、紀元70年の悲劇も、現代の悲劇も同時に悲しんでいます。人間であると同時に霊的な存在であるイエス・キリストは複数の時代を同時に生きています。私たち人類は、このことをわかっているようでいて、実はあまり良くわかっていません。わかっているならば、ヨハネ11:35のイエスがラザロの死と共に過去と未来のエルサレムの滅亡をも同時に悲しんでいるのだと注解書に明記されるはずです。しかし、私はそのような注解書を見たことがありません。すべての注解書を調べたわけではありませんから、或いはそのように書いている注解書もあるのかもしれませんが、少なくともメジャーな説になっているわけではないことだけは確かです。つまり、人類の大半はイエスが複数の時代を同時に生きていることに気付かないほどに霊的に鈍感であるということです。そして、その霊的な鈍感さのゆえに悲劇が繰り返されるのです。人々の霊的な鈍感さゆえに悲劇が繰り返されることにイエス・キリストは悲しみ、また憤っています。

霊的に鈍感なユダヤ人と私たち
 イエスが憤ったことは、涙を流した11:35の前後に二度にわたって書かれています。まず33節に、

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

とありますから、イエスはユダヤ人たちが泣いているのを見て霊の憤りを覚えたのですね。霊の憤りを覚えたとは、その場にいたユダヤ人たちに憤りを覚えたというよりは、エルサレムを滅亡させたユダヤ人たちの霊的な鈍感さに憤りを覚えたということでしょう。紀元前のエルサレムが滅亡寸前であった時、エレミヤを通して語られた神の警告をユダヤ人たちが素直に聞いていたなら、エルサレムは滅亡しなくても済んだのです。しかし、霊的に鈍感であったユダヤ人たちは、エレミヤの警告を神の警告として聞かなかったために、その結果、エルサレムは滅亡してしまいました。つまり、それはユダヤ人たち自身の霊的鈍感さが招いた自業自得の悲劇でした。それなのに、それは神が守ってくれなかった結果だと思う者たちもいたのでした。37節のような者たちでした。

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。

 自分たちの霊的な鈍感さを棚に上げて、神に力が無いかのように言う、この者たちに対して、イエスはまたも憤りを感じました。38節です。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。

 このようなイエスの憤りの矛先は、この場にいるユダヤ人たちに対してはもちろん、エルサレムを滅亡させてしまったユダヤ人たち、そして現代においても霊的に鈍感であるがゆえに戦争を繰り返す私たちにも向けられていると考えるべきでしょう。イエス・キリストが憤るお方であることは、私たちは先日の聖書を読む会でのマルコの福音書にあったイエスのことばの、

「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」(マルコ9:19)

からもわかります。イエス・キリストは霊的に鈍感な現代の私たちに対しても憤っておられると私は感じています。ヨハネの福音書の背後には「旧約の時代」と「使徒の時代」が「イエスの時代」と並行して整然と存在しているのに、この多重時間構造に気付いていない現代の私たちは明らかに霊的に鈍感な者たちだと言えるでしょう。

複数の時代を同時に生きるイエス
 ヨハネの福音書の「イエスの時代」の背後に「使徒の時代」があることは少々わかりにくいにしても、「旧約の時代」があることは明らかです。これまでに何度も話して来たことですが、ヨハネ11章の背後にある「旧約の時代」はエルサレムの滅亡と再建です。ヨハネ10章の背後にはエホヤキム王の時代のエレミヤの警告、9章の背後にはヨシヤ王の時代の律法の書の発見、8章の背後にはマナセ王の悪魔の時代、7章の背後にはヒゼキヤ王の時代のイザヤの荒野の叫び、6章の背後には北王国の滅亡があります。
 イエス・キリストはこれらの「旧約の時代」と「地上生涯の時代」を同時に生きており、現代もまた同時に生きておられます。このように神が複数の時代を同時に生きていることを霊的に十分に感じることができていない私たちには、何が欠けているのでしょうか。
 私たちの信仰の先輩たちが、立派な信仰を持っていたことは、まぎれもない事実です。先輩たちの信仰があったからこそ、私たちが生きている現代にまで信仰が受け継がれて来ました。それなのに、ヨハネの福音書のイエス・キリストが複数の時代を同時に生きていることには気付いていなかったのは、何故なのでしょうか。どうして私たち人類は、信仰を持っていながら霊的には鈍感であり続けて来たのでしょうか。私たちは、何としてでも、このことを解明しなければなりません。イエス・キリストは私たちの霊的鈍感さのゆえに戦争の悲劇が繰り返されることに悲しんで涙を流し、また憤っておられます。もし私たちがもっと霊的に敏感であるなら、イエス・キリストのメッセージをもっともっと豊かに汲み取ることができていたはずです。しかし、残念ながら私たちは未だ十分にイエス・キリストのメッセージを十分に汲み取っているとは言いがたい状態にあります。

理想に近付けない霊的に鈍感な私たち
 これから8月になり、日本では広島と長崎の原爆の日、そして終戦の日を迎えます。広島と長崎だけでなく、日本の多くの都市は空襲によって廃墟になりました。この沼津にも空襲があって大きな被害が出ました。それらの全ての都市の上にイエス・キリストはおられて、涙を流しておられます。
 日本国憲法の前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とありますから、日本国憲法は戦争の惨禍という土台の上に作られたものです。それはまた、イエスが流した涙の上に作られたものであるとも言えるのではないでしょうか。日本国憲法の前文には、また、このようにも書いてあります。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 このような「崇高な理想」は、しばしば現実を重視する人々によって踏みにじられます。現実は霊的な世界とは異なる位置にあります。現実の世界では、「過去」→「現在」→「未来」が時間順に流れて行きます。しかし、霊的な世界では、「過去」と「現在」と「未来」とが同時に存在しています。この霊的な世界は神の国であり、理想の世界であるとも言えるでしょう。それゆえ、霊的に鈍感な私たちはいつまでたっても理想の世界に近付くことができずにいて、いつまで経っても戦争を繰り返しているのではないでしょうか。
 イエス・キリストは戦争で廃墟となった全ての都市にいて涙を流し、また霊的に鈍感な人々に対して憤っておられます。

おわりに
 何度でも繰り返しますが、ヨハネ11:35の背後にエルサレムの滅亡を重ねて読むことができていなかった私たちは、明らかに霊的に鈍感な者たちです。人類共通の財産であるヨハネの福音書のメッセージを十分に汲み取ることができていない霊的に鈍感な私たちであるがゆえに、私たちは戦争の悲劇を繰り返しています。
 この夏、私たちは霊的に鈍感であったことを悔い改めて、今まで以上に神に心を向けていかなければならないのではないでしょうか。 お祈りいたしましょう。
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7月27日礼拝プログラム

2014-07-24 09:02:27 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月27日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第4聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  かいぬしわが主よ      303 
 交  読  詩篇42篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  鹿のように(2回)     192
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 聖  書  出エジプト17:8~16
 説  教  『両側からの力強い支え』 小島牧師
 讃 美 ④  いつも私を支え       418
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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聖所造りに向けての主の促し

2014-07-21 09:30:47 | 礼拝メッセージ
2014年7月20日礼拝メッセージ
『聖所造りに向けての主の促し』
【出エジプト25:1~9】

はじめに
 先週の13日の礼拝で私たちはヨシュア記を学び、主の不思議は私たちが新しい一歩を踏み出すことで行なわれるのだということを学びました。そして礼拝後の会堂祈祷会では私たちが一つになることができるように、ご一緒に祈り、その後で持たれた会堂建設委員会においては、私たちの教会が新しい会堂の建設に向けて新たな一歩を踏み出すことを決めました。即ち、今の会堂を修繕して使い続けるのではなく、新しい会堂を建設するということを決めました。その新しい会堂をどこに建てるのかは、これから皆でお祈りしながら主の導きを仰いで行きたいと思います。今の会堂を取り壊してこの土地に新しい会堂を建てるのか、或いは別の場所に新しい会堂を建てるのか、或いはまた別の土地に中古の建物を購入して会堂として使うのか、今の段階ではまだわかりません。しかし少なくとも、今の会堂を修繕して使い続ける道は選ばないことを会堂建設委員会において決定しました。
 このように決定した理由は、そもそも前任者の時から新会堂実現のために、今の会堂の修繕にはお金をあまり使って来なかった結果、老朽化がかなり進んだという経緯がありますから、今さら修繕にお金を使っている場合ではない、ということがあります。

聖別された空間の必要性
 そして私はもう一つの理由として、教会の会堂には聖別された空間が必要であるということを挙げたいと思います。今のこの礼拝の場は、普段は生活の場として利用していますが、そうではなくて、神聖な礼拝の場と普段の生活の場を区別して使うようにしたいということです。今の会堂を修繕して使い続けるなら、これまでと変わらず生活の場と礼拝の場が同じままであり続けることになります。生活の場と礼拝の場が同じですと私たちの心を聖なるお方に向けるのに少し困難を覚えます。きょうの第一の賛美歌で「聖なる聖なる聖なるかな」と歌った通り、神様は聖なるお方です。聖なる神様をほめ讃えるには聖別された場所でほめ讃えるのがふさわしいと思います。教会を設立してそれほど年数が経っていなかった頃ならともかく、私たちの教会は設立50周年を迎えようとしているのですから、ぜひとも聖別された空間を備えた会堂を、私たちは持ちたいと思います。
 きょうの聖書の学びは出エジプト記からの学びですが、幕屋の聖所の造り方を通して、聖別された空間とはどのような場所かについて学ぶことにしたいと思います。
 きょうの出エジプト記25章で主はイスラエルの民に、まず幕屋造りに必要な物資を捧げるように促し、次いで幕屋の造り方の細かい指示をモーセに与えました。私たちが新しく建てる会堂は、どのような会堂が良いのか、主の指示はまだ与えられていませんが、やがて、細かい指示が与えられるその時を待ち望みながら、きょうの出エジプト記25章の学びを進めて行きたいと思います。

奴隷状態から救い出されたイスラエルの民
 始めに、まず25章に至るまでに何があったかを、簡単に見ておくことにしたいと思います。出エジプト記の1章を開いて下さい(旧約聖書p.96)。先週は1節から7節までをご一緒に読みました。1節から7節までには、カナンの地からエジプトに移住して来たヤコブの一族が、エジプトでおびただしく増えて、この地が彼らで満ちたことが書かれています。ヤコブの時代に、この地域一帯で激しいききんがあったため、ヤコブの一族は食料が豊富に備蓄してあったエジプトにして来たのでした。
 さて、エジプトでおびただしく増えたヤコブの子孫たちが、どのようになって行ったかが、1章の8節以降に書かれています。8節から14節までを、交代で読みましょう。

1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

 8節のヨセフというのは、ヤコブの息子ですね。ヨセフはエジプトで総理大臣のような地位にあり、エジプトが7年間豊作だった間に大量の食糧を備蓄したために、その後の7年間の大ききんを乗り越えることができました。このようにヨセフはイスラエル人でありながらエジプトにとっては恩人でしたから、ヨセフのことを知っている王たちは、イスラエル人を苦しめることはありませんでした。しかし、8節にあるようにヨセフのことを知らない王が起こり、イスラエル人を苦しめ始めました。そしてエジプトがイスラエル人を苦しめれば苦しめるほど、ますます増え広がったので、エジプトはさらにイスラエル人に過酷な労働を課して苦しめるという悪循環になっていました。
 そうしてイスラエル人は労役にうめき、わめき、この彼らの叫びが神に届きました。彼らの叫びを聞かれた神のことが2章の24節と25節に書かれています。2章24節と25節、

2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

 こうして神はモーセを召し出して、モーセをリーダーにしてイスラエル人をエジプトから脱出させました。この脱出の場面も見たいところですが、あまりゆっくりしていると、きょうのメインの話である幕屋の造り方を学ぶことができなくなりますので、少し先を急ぎます。

聖所の造り方の細かい指示
 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は主と契約を結び、イスラエルの民が主の教えに聞き従うなら主はイスラエルを祝福することを約束しました。そして、出エジプト20章以降で主は有名な「十戒」を授け、その後に細かい律法のおきてを授けました。十戒とは憲法のようなものであり、律法とは法律のようなものであると考えれば、律法が随分と細かいことまで指示していることを納得できるだろうと思います。私たちの国の日本にも憲法があり、その下には細かい法律がたくさんあります。法律の専門家ではない私たちは、細かい法律のことまではあまり良く知りませんが、細かい法律があるゆえに私たちの生活が守られていることを知っていますから、法律を守ります。
 25章からの幕屋の造り方の指示も、非常に細かいものです。幕屋のパーツの寸法まで細かく指示されています。どうして、こんなにも細かいのか、それはイスラエルの民の信仰が、まだ幼いからではないかと私は考えます。主が聖なる存在であることを、まだ信仰が幼いイスラエルの民は十分に理解できていなかった故に、幕屋の造り方を細かく規定することで、主の神聖さを人間のいい加減さによって冒涜してはならないことを、きっちりと教えていると感じます。
 その細かい規定を先に見ておきたいと思います。25章の1節から8節までは後から見ることにして、9節以降を、先に見ておきましょう。9節、

25:9 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

 主はこのように仰せられて、まず幕屋の中に納める神の箱の作り方を指示します。10節と11節、

25:10 アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
25:11 これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁(ふち)を作る。

 1キュビトとは約44センチと下の脚注にありますが、この1キュビトは中指の先からひじまでの長さです。測ってみると確かに大体それぐらいです。人によって個人差があると思いますが、皆さんもご自身の中指の先からひじまでの長さを測ってみると、納得されることと思います。1キュビトが約44センチですから神の箱の長さは約110センチ、幅と高さは約66センチです。そして12節以降にも神の箱の作り方が続き、16節から22節には「贖いのふた」のことが書かれています。この「贖いのふた」は21節にあるように、神の箱の上に載せられます。
 そして25章の後半ではさらに、聖所に置く机や燭台の作り方も指示されて、その後に、26章からはいよいよ幕屋の作り方の指示に入ります。ここでは、幕屋の造り方が非常に細部にわたって説明されています。ですから私たちが聖書通読などでここを読む時には、いちいち細かく読むのが面倒になって、つい、いい加減に読み飛ばしてしまうかもしれません。しかし、この26章の最後のほうには読み飛ばしてはならない重要な記述があります。 

垂れ幕で仕切られた聖所と至聖所
 それは31節から33節に掛けての垂れ幕についての記述です。31節から33節までを私のほうでお読みしますから、皆さんは注意深く、この箇所を目で追っていただきたいと思います。

26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。
26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤(かぎ)が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。
26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

 31節に垂れ幕の作り方が書いてあり、33節に、この垂れ幕が聖所と至聖所との仕切りとなると書いてあります。そして、あかしの箱、すなわち神の箱が至聖所に置かれます。
 この至聖所には、ただ大祭司のみが1年に1日だけ、「贖罪の日」だけに入ることが許されていました。
 この「贖罪の日」の儀式については、レビ記の16章に書かれていますから、今度はそちらを見てみましょう。旧約聖書のレビ記16章です(旧約聖書p.199)。
 きょう、このような箇所を皆さんとご一緒に学ぶのは、私たちが礼拝する神様がいかに聖い存在であるかを改めて確認するためです。後でヘブル人への手紙もご一緒に開くことにしていますが、旧約の時代、垂れ幕の向こう側の至聖所には年に1日だけ、ただ大祭司一人だけが入ることが許されていました。神様とは、それほど聖く、簡単には近づくことができない存在でした。それが新約の時代の私たちはイエス・キリストの十字架により、神様に大胆に近づくことができるようになりました。しかし、どんなに大胆に近づけるようになったとは言え、元々は近づくことなど許されない聖いお方であったことは知っておくべきだと思います。それは神様が聖いお方だからこそ、私たちの罪がきよめられて私たちは罪の奴隷から自由になることができるからです。

勝手には入れない至聖所
 では、レビ記の16章を見ましょう(旧約聖書p.199)。まず1節と2節、

16:1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが【主】の前に近づいてそのために死んで後、【主】はモーセに告げられた。
16:2 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

 アロンはモーセの兄で、大祭司でした。アロンの二人の息子は、主が命じなかった方法で勝手に主の前に近づいたために主に打たれて死んでしまいました。それで、主はモーセを通じてアロンに、勝手な時に垂れ幕の内側の至聖所に入ってはならないと告げたのですね。2節の「贖いのふた」とは、先ほど幕屋の作り方の箇所で見たとおり、神の箱の上に載せるふたのことです。
 続いて3節と4節、

16:3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、
16:4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。

 3節で主は、アロンは次のようにして聖所に入らなければならないと言って、4節ではアロンは先ず体に水を浴びてから聖なる装束を着けなければならないことを告げました。これらを守らなければアロンも死にますから、垂れ幕の内側に入る大祭司の儀式は命懸けのものでした。そして5節以降には垂れ幕の内側で何をすべきかが細かく書かれています。きょうは、それらを一つ一つ細かく見ることはしませんが、14節と15節だけは見ておきたいと思います。14節と15節、

16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。

 こうしてイスラエルの民の罪はいけにえの動物の血を「贖いのふた」に振りかけることによって贖われました。このレビ記16章の残りの部分も、ぜひ皆さんのお一人お一人がご自分で読んで学んでいただけたらと思います。この旧約聖書のレビ記16章に書かれている垂れ幕の内側の至聖所での儀式についての理解を深めるなら、新約聖書のヘブル人への手紙が一層よく理解できると思いますし、イエス・キリストが十字架で死んだ時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことが何を意味するかも、よくわかるようになると思います。

真っ二つに裂けた垂れ幕
 では今度は、新約聖書を見ることにしたいと思います。まずイエス・キリストが十字架で死んだ時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた記事を見ておきましょう。この神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた記事はマタイ・マルコ・ルカのいずれの福音書にも書かれていますから、どれを見ても良いのですが、マルコの福音書を見ておくことにしましょう。マルコ15章の37節と38節を交代で読みましょう(新約聖書p.102)。

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 この、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、これ以降、新約の時代の私たちは、大胆に神様に近づくことが許されるようになったということです。旧約の時代には垂れ幕の向こう側の神様に近づくことは大祭司だけが年に1回だけ許されていたことでしたが、新約の時代の私たちはイエス・キリストを信じて神の子どもとされた者なら誰でも、そしていつでも大胆に神様に近づくことができるようになりました。そのことが、ヘブル人への手紙に書いてあります。
 ヘブル10章の19節から21節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.436)。

10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
10:21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 19節にあるように、新約の時代の私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができます。旧約の時代にはいけにえの動物の血によりましたが、新約の時代の私たちはイエス・キリストが十字架で流した血によって一人一人が大胆に神に近づくことができるようになりました。イエス・キリストの十字架での死によって神殿の垂れ幕は真っ二つに裂けましたから、これ以降、私たちは20節にあるようにイエスの肉体という垂れ幕を通して神に近づくことができるようになりました。ですから22節にあるように、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、また洗礼を受けて体をきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づきたいと思います。

神の臨在を圧倒的に感じる礼拝堂を
 私たちの教会が、今の会堂を修繕して使い続けるのではなく、新しい会堂を建てたいと願うのも、私たちが生活の場とは区別した聖別した空間に身を置き、頭(こうべ)を垂れてイエス・キリストが私たちのために十字架に掛かって下さった事実を厳粛に受け留めたいからです。私たちが聖別された礼拝堂に一歩足を踏み入れたなら、神の存在を圧倒的に感じて、私たちが神に大胆に近づけるようになったのはイエス・キリストの十字架のゆえであることを感謝してほめ讃えることができる、そのような会堂を私たちは持ちたいと思います。
 では、最後に出エジプト記の25章にもう一度戻りましょう。私たちが建てるのは会堂であって幕屋ではありませんが、聖別した空間を作ることにおいては変わりありません。25章の2節で主はモーセに、このように仰せられました。

25:2 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

 私たちもまた会堂献金を神様に捧げて新しい会堂を建てます。それは、神様が私たちと共にいて下さり、私たちに平安を与えて下さり、私たちを守っていて下さっていることへの感謝の気持ちから捧げるものですから、心から進んで捧げたいと思います。そうして、主は8節で仰せられました。

25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

 新約の時代の私たちは、イエス・キリストを信じれば誰にでも聖霊が注がれますから、神様は既に私たちの中に住んでいて下さいます。しかし、私たちはそのことを、どれだけ豊かに感じることができているでしょうか。私がそんなに心配しなくても、皆さんは十分に豊かに神様の臨在を感じていらっしゃるかもしれません。けれども、私たちが聖別した空間を備えた会堂を持つことができるなら、私たちはさらに豊かに主の臨在を感じることができるようになるでしょう。
 また、主の臨在を圧倒的に感じることができる礼拝堂を持つなら、まだ信仰を持っていない方が来て下さった時にも、神様の恵みを感じていただきやすいのではないかと思います。

おわりに
 そのために私たちはどのような会堂を建てるべきか、私たちは主の具体的な指示をまだ聞いていません。これから私たちが心を一つにして祈るなら、今沢のこの土地に新しい会堂を建てるべきか、或いは別の土地に新しい会堂を建てるべきか、或いはまた中古の建物を買って会堂にするべきか、主は私たちに語り掛けて下さることでしょう。そして新しい会堂の細かい寸法に至るまで、私たちに指示を与えて下さることでしょう。その時を待ち望みつつ、最後に9節をご一緒に読んで、きょうの礼拝を閉じたいと思います。出エジプト記25章の9節です。

25:9 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

 お祈りいたしましょう。
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神様は見えない?

2014-07-18 07:21:24 | 牧師のつぶやき


 ご存知の方も多いと思いますが、テレビやエアコンのリモコンの赤外線は私たちの目には見えませんが、デジカメや携帯電話のカメラで撮影するとリモコンが発光している様子を観察することができます。
 つまり人の目には見えない赤外線もカメラという機械の目には見えています。逆に嗅覚などは機械よりも人の鼻の方が感度が良いと言われています。においを発する物質が人の鼻には見えているのですね。
 さて神様も人の目には見えませんが、人の霊的な目には見えます。ただし霊的な目は人によって感度が違いますから、神様が見える人と見えない人とがいます。毎日を忙しく過ごしていると神様はなかなか見えて来ないかもしれません。
 できれば毎日、最低でも週に1回は忙しさから解放されて静まる時を持ち、霊性を研ぎ澄ますことで、神様がよく見えるようになりたいと思います。毎週日曜日、お近くのキリスト教会はそのような時と場所を与えてくれるでしょう。
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平和をつくる二次元の時間観(2014.7.16 祈り会)

2014-07-17 09:02:33 | 祈り会メッセージ
2014年7月16日祈り会メッセージ
『平和をつくる二次元の時間観』
【ヨハネ16:7】

はじめに
 先週も話しましたが、いま私は図を多く用いて信仰を説き明かす試みを始めています。この試みがどれほどの効果があるか、まだわかりませんが、聖書の話を聞いたり読んだりしただけでは信仰のことがわかるようにならない方々の助けになれば良いなと願っています。そして、このことが平和をつくることにつながって行くことを願っています。そのためには、きょうお配りする図解のプリントも、まだまだわかりにくいのかもしれませんが、これからも考察を続けることで、段々とわかりやすいものになって行くのではないかという希望を持っています。

信じない者には見えない神
 きょうお配りした図は、信仰者の時間が一次元から二次元に移行するプロセスについて、もう少し考察を進めてみたものです。



 まず表題を見ていただきますと、

『三位一体の神が第二の次元の「神の時間」を人の心に生成し、平和をつくる』

と入れてみました。
 これまで私がヨハネの福音書とヨハネの手紙第一から学んだことは、単純な唯一神ではなく三位一体の神が時間の厚みを作り出すということです。そして、この時間の厚みは神の愛の豊かさも感じさせてくれるものです。この時間の厚みのことを、私はこれまで「【過去・現在・未来】が一体の時間観」として説明して来ましたが、これを「二次元の時間観」として説明してみようかとういうのが、今の試みです。「【過去・現在・未来】が一体の時間観」も「二次元の時間観」も。どちらもわかりにくいとは思いますが、「二次元の時間観」のほうが、いろいろな説明を加えやすいように感じています。それで、今後しばらくは、「二次元の時間観」をわかりやすく説明することに時間を費やしてみようか、などと思っています。
 では、図を見て行くことにします。
 【図1】は、右向きの時間の流れに沿って信仰者の人生を単純に時間順に並べてみたものです。これらの信仰者は神と共に歩みましたが、彼らが神と共に歩んだことは神を信じる信仰者にしかわかりませんから、一般的には【図1】のようになります。
 聖書はいろいろな人々によって論じられています。神を信じる人々にはもちろんのこと、神を信じない人々によっても論じられます。そして神を信じない人々には神が見えませんから、聖書に登場する人物たちと聖書の読者である「わたし」には【図1】のように、神は共におられないように見えます。

信仰者と共におられる神
 それに対して神を信じる人々には神が見えますから、【図2】のように信仰者の人生に神が共におられるのが見えます。神はとても大きな存在ですから、大きめに描いてみました。そして神は永遠の中を生きておられますから、旧約の時代のモーセやダビデやイザヤにも同時に現れます。そして新約の時代のペテロやヨハネや現代の私たちにも同時に現れます。そのように時代を越えて様々な時代に同時に現れる様子を【図2】では横に広がった大きな四角で描いています。そして私たちは、この横方向の無限の広がりを「永遠」と理解しているだろうと思います。
 このような永遠観に対して私が昨年から言って来ていることは、「永遠」とは、このような直線的な時間の流れの方向の延長線上にあるものではなく、時間の厚みがある方向で【過去・現在・未来】が一体になったものが「永遠」ではないかということです。それはヨハネの福音書から導かれることなのですが、今回、私はこのような図を描いていて、このような時間の厚みは三位一体の神から生成されるものであるということが、ハッキリと認識できるようになったと感じています。

御子イエスは一人一人と共におられる
 【図3】を見て下さい。【図3】においては、【図2】では単に「神」としていたのを、「父・御子・聖霊」の三位一体の神で表現しています。ここで重要なのは、御子イエスと私たちの一人一人との関係は、一対一の非常にパーソナルな(個人的な)関係であるということです。そして、この個人的な関係は聖霊の働きによってもたらされるということです。イエスの地上生涯における弟子たちとの関係はかなり個人的なものでした。しかし地上生涯のイエスは一対一の関係を一度に一人としか持つことができませんでした。複数の弟子たちと同時に一対一の関係を持つことはできません。それでは一対多になってしまいます。しかしイエスが天に上り、聖霊が降った以降は、イエスは聖霊を通して一度に複数の人々と同時に一対一の関係を築くことができるようになりました。最初に読んだヨハネ16:7はそのことを言っているのですね。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

 こうして天から遣わされた助け主である聖霊は、私たちとの間にイエス・キリストとの個人的な関係を作って下さいます。個人的な関係ですから、信仰者の生涯に共に寄り添って下さっています。そのことを【図3】は表しています。
 さてしかし、イエス・キリストは永遠の中を生きておられますから、新約の時代だけではなく旧約の時代のモーセやダビデやイザヤの生涯にも伴っていたことがヨハネの福音書を読むとわかります。そして永遠の中を生きる御子イエスは信仰者の生涯に【図1】のような直線的な時間の中で順々に共にいるのではなく、同時に共にいて下さいます。モーセの生涯にもダビデの生涯にも同時に共にいて下さり、イザヤの生涯にもペテロの生涯にもヨハネの生涯にも、そして私たちの生涯にもすべて同時に伴って下さっています。するとそれは【図4】のような縦の並びの信仰者の生涯のそれぞれに御子イエスが伴っていて下さるのだということになります。

信仰が成長すると神の時間の厚みが増す
 このような時間の厚みを信仰者が霊的に感じることができるなら信仰者の心の中には第二の次元である「神の時間」が生成して、この神の時間に沿って歩んで行くなら、神の豊かな愛を感じることができるようになって心の平安が得られます。この縦の方向が【図5】にあるように光、平和、自由、永遠の命に向かって進んで行く方向です。
 しかし、霊的に深い眠りの中にあって三位一体の神の存在に気付かないでいるなら、【図5】の横の方向の闇、争い、奴隷、死の方向に進んで行くことになります。
 横の方向だけに進んでいる時は神の存在に気付きませんから心に平安はなく、ただ良くなったり悪くなったりを繰り返すだけです。そして人より多くのものを得ようとして争いを延々と繰り返すことになります。これでは互いに愛し合い、赦し合う方向には全く進んで行きません。私たちは神の存在を霊的に感じ、神と共に歩んで行きたいと思います。神と共に歩むなら、豊かな恵みに与ることができます。
 このような神が共にいて下さる素晴らしい恵みはイエス・キリストとの個人的な関係によってもたらされること、そしてそれは聖霊の働きによるものであることを、きょうは学びました。この縦方向の厚みの恵みは聖書の学び、特に旧約聖書の学びによって増し加わって行きます。また、教会員の証しを聞くことによっても増し加わって行くことが【図4】からも分かるでしょう。この厚みが増し加わって行くことが信仰の成長であるということができると思います。
 現代の教会の問題として、受洗者が与えられてもやがて教会に来なくなり、なかなか教勢が増えて行かないということを良く聞きます。それは洗礼を受けた方の信仰が成長しないために、やがて神と共に歩むことをやめてしまい、神から離れてしまうためです。つまり、一旦縦向きに歩み始めても、また横向きに歩き始めてしまうことがあるのですね。今回のような図を使って二次元の時間で表すことは信仰の成長を表現する手法としても使えそうであることに私は手ごたえを感じ始めています。このような図が用いられるようになるよう、さらに考察を続けて行きたいと思います。

おわりに
 私たちは、この分厚い神の恵みを豊かに感じることができるよう、ますます信仰が成長して行くことができる者たちでありたいと思います。そしてこの素晴らしい恵みを地域の方々にお伝えして共に分かち合うことができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月20日礼拝プログラム

2014-07-17 08:36:03 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月20日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第3聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なる 聖なる 聖なるかな   1 
 交  読  詩篇65篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  ここにいます主は      375
 讃 美 ③  やすかれ、わがこころよ   434
 聖  書  出エジプト25:1~9
 説  教  『聖所造りに向けての主の促し』 小島牧師
 讃 美 ④  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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踏み出すと行なわれる主の不思議(2014.7.13 礼拝)

2014-07-14 14:14:26 | 礼拝メッセージ
2014年7月13日礼拝メッセージ
『踏み出すと行われる主の不思議』
【ヨシュア3:11~17】

はじめに
 きょうは、この礼拝後に会堂祈祷会を持ち、その後で会堂建設委員会を開催する予定です。きょう、私たちは新しい会堂の建設に向けて、新たな一歩を踏み出したいと願っています。
 昨年の4月7日、私がこの教会に着任して最初の礼拝のメッセージの冒頭で、私は次のように言いました。この日の礼拝メッセージの冒頭部分から引用します。
(ここから引用)
 私が初めて、この沼津教会に来たのは私が神学院の2年生だった2009年の夏でした。この時、私は静岡教会で夏期実習をしていましたから、静岡教会の皆さんとこちらの伝道会に参加したのでした。この時の伝道会の説教は静岡教会の高桑先生がされましたが、沼津教会の広瀬先生も挨拶をされて、その時に広瀬先生が、新会堂を何とかして建てたいのだと言っておられたことが、非常に印象に残りました。それゆえ私の中では沼津教会と言えば、「新会堂実現のために闘っている教会」ということになっています。
 ですから、今回、沼津教会への転任の任命を受けて私が思ったことは、広瀬先生の熱い思いを受け継いで、私の在任中に何としてでも新会堂を実現しなければならない、ということでした。
 ご承知のように私はまだ牧師になって1年が過ぎたばかりですから経験も浅いですし、単身ですから、私にできることは限られています。この沼津教会で、これまではできたのに、これからはできないことも少なからずあって皆さんにはいろいろとご迷惑をお掛けすることになると思います。しかし新会堂を必ず実現するのだという思いだけは、今までと変わることなく教会の皆さん全員と共有して歩んで行きたいと思っていますから、どうか主にあって、よろしくお願いいたします。
(引用ここまで)

 そして去年の4月には、インマヌエルの静岡教区の牧師の会合もありました。静岡教区には、沼津の他に、下田、清水、静岡、藤枝、島田、金谷、磐田、浜松と全部で9つの教会があります。この静岡教区の牧師の集まりにおいても私は新たなメンバーでしたから、会合の初めに挨拶をして、同じようなことを言いました。私にとっては、とにかく沼津教会と言えば、「新会堂実現のために闘っている教会」であるというイメージがありましたから、私は何が何でも新会堂を実現しなければならないという覚悟を持って、この沼津教会に着任しました。ただし、いくら新会堂への強い思いがあっても、そう簡単に踏み出すことが出来ない状況にこの教会があることは、皆さんもご承知の通りです。ですから、私も、新しい一歩を踏み出すことを皆さんにお勧めすることが、なかなかできないでいました。
 しかし、私たちが新しい一歩を踏み出すことをためらっている間にも、主は着々と準備を整えていて下さっていたようです。そして今やもう、私たちが踏み出すばかりになっているようです。主が、いくら状況を整えて下さっていても、私たちが一歩を踏み出すのでなければ、何事も始まりません。いくら主が気前のいいお方であっても、私たちがじっとしていれば、すべてのことを主のほうで行なって下さるわけではありません。第一歩は私たちの側で踏み出し始める必要があります。きょうはそのことを、ヨシュア記を見ながら、ご一緒に学びたいと思います。

アブラハムの時代からの約束
 先ほど司会者にヨシュア記3章の11節から17節までの、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がヨルダン川を渡った場面を読んでいただきました。イスラエルの民はそれまで40年間、モーセと共に荒野を放浪していました。しかし、モーセからヨシュアへとリーダーが変わり、イスラエルの民はヨルダン川を渡るという新しい一歩を踏み出し始めました。
 始めに、ここまでに至った経緯を少し丁寧に見ておきたいと思います。私たちが聖書を学ぶ時、部分部分について詳しく学ぶこともとても大切ですが、聖書全体の流れを学ぶことも、それ以上に大切なことです。きょうの週報に挟んだ「聖書を読む会」の案内の、「前回の学び」の欄にも書きましたが、一つ一つのみことばに注目し過ぎると、木を見て森を見ないことになってしまいます。みことばには力がありますから、一つ一つのみことばからも、もちろん多くの恵みを私たちは受け取ることができますが、聖書という森全体から、私たちはさらに豊かな恵みを受け取ることができます。ですから、ぜひ聖書全体の流れについても私たちは大切にして、学んで行きたいと思います。
 さて、きょうの場面でイスラエルの民はヨシュアに率いられてカナンの地に入りましたが、このカナンの地は、元々はアブラハムが神の声に導かれて移住して来た土地でした。少し前の礼拝でも開いた創世記12章を、またご一緒に見てみることにしましょう。創世記12章の1節から5節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.16)。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

 1節と2節で主は、アブラハムが主の示す地へ行くならアブラハムを祝福すると約束しました。こうして5節にあるように、アブラハムはカナンの地に入りました。この時、アブラハムは75歳でした。
 そして、アブラハムが99歳の時、主は、こう仰せられました。今度は17章を見て下さい。創世記17章の1節から8節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.23)。

17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

 2節で主はアブラハムとの間に契約を結び、「わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」と仰せられました。「あなたをおびただしくふやそう」とは、6節にあるように、アブラハムの子孫をおびただしく増やすということです。そして、8節で、「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える」と仰せられました。

カナン入りを拒んだモーセの時代の民
 しかし、このアブラハムへの主の約束は、単純には実現しませんでした。細かいことを挙げれば色々ありますが、大きな出来事としては、アブラハムの孫のヤコブの一族が、エジプトに移住してしまったことでした。ヤコブの時代にこの地域一帯で激しいききんがあったために、ヤコブの一族は食料の備蓄が豊富にあったエジプトの地に移住したのでした。こうしてアブラハムの子孫がおびたただしく増えたのは、カナンの地においてではなく、エジプトの地においてでした。
 今度は出エジプト記の1章を見ましょう。出エジプト記1章の1節から7節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.96)。

1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。
1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。
1:3 イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。
1:4 ダンとナフタリ。ガドとアシェル。
1:5 ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。
1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。

 7節に、イスラエル人がおびただしく増え、エジプトの地が彼らで満ちたと書いてあります。こうしてアブラハム・イサク・ヤコブの子孫はエジプトでおびただしく増えました。そして、このおびただしい数のイスラエル人がモーセに率いられてエジプトを脱出して、カナンの地に入ることで、主のアブラハムへの約束が実現することになっていたのですね。ところが、モーセの時代においても、主の約束は実現せずに、イスラエルの民は荒野をモーセと共に40年間も放浪することになってしまいました。それは、イスラエルの民がカナンの地に住んでいる者たちが強いことを恐れたからでした。イスラエルの民がカナンに移住するためには、既にカナンに先に住んでいる民と闘って占領する必要がありました。しかし、カナン人たちは、とても強く見えたので、イスラエルの民たちは弱気になってしまったのでした。その経緯は民数記の13章と14章に書いてありますから、是非、ご自身で読んでみて下さい。
 カナンは約束の地ですから、その約束を下さった主を信頼しているなら、カナンの地は必ず与えられるはずです。しかし、イスラエルの民は主を信頼することができずに恐れをなしてしまい、カナンの地に入ることを拒みました。このことに主は怒り、イスラエルの民は40年間も荒野を放浪することになってしまいました。そうしてモーセでさえもカナンの地に入ることを許されず、モーセの後継者のヨシュアの代になって、ようやくカナンの地に入ることが許されたのでした。

約束実現への踏み出し
 ここまで少し長めに経緯を振り返りました。そろそろヨシュア記3章に入ることにしましょう。
 このヨシュア記において、これからヨシュアに率いられて入ろうとしているカナンの地が、イスラエルの民にとってはアブラハムの時代に約束された地であり、ここに至ってようやく約束の実現に向かっての新たな一歩を踏み出す時が来たのだということを知るなら、このヨシュア記3章の場面がいかに重要な場面であるかということが、よくお分かりになるだろうと思います。
 教会も同じだと思います。一つ一つの教会では、皆それぞれ事情は異なると思いますが、教会設立の時には主は必ずその教会の祝福を約束して下さっているはずです。しかし、色々な事情で足踏みする時期は、どの教会でも大抵は経験することでしょう。そして、その足踏みの時を乗り越えて、新たな一歩を踏み出す時が訪れます。
 私たちの沼津教会も、今まさに新たな一歩を踏み出す時であると言えるでしょう。そのことを思いながら、ヨシュア記3章を見て行きたいと思います。
 まず3章1節、

3:1 ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。

 ヨシュアとイスラエルの民はヨルダン川の川岸まで来ました。いよいよ約束実現の新たな一歩を踏み出す時が来ました。2節から4節までも私のほうでお読みします。

3:2 三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、
3:3 民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
3:4 あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」

 まずはレビ人の祭司たちがかつぐ神の箱が先頭を行き、イスラエルの民はその後ろを進んで行くべきことを説明しました。二千キュビトとは約900メートルです。そして5節でヨシュアは民に言いました。5節、

3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、【主】が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」

 ヨシュアは民に、「明日、主が不思議を行われる」と言いました。この、主が行われる不思議とは何でしょうか。少し飛ばして、14節から16節までを交代で読みましょう。

3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

 これが、主が行われた不思議でした。

踏み出すと行なわれる主の不思議
 16節にあるように、ヨルダン川の水がせき止められたために、イスラエルの民は川底の乾いた地を歩いて通ることができました。ここで、注目すべきは15節です。この奇跡は、15節にあるように、箱をかつぐ祭司たちの足が水に浸った時に起きました。まず水がせき止められて、その後で祭司たちが乾いた川に入ったのではなく、まだ水が流れている川に入って初めて、主の不思議が行われたのでした。この時期、ヨルダン川は岸一杯に溢れると書いてありますから、かなりの深さになるでしょう。通常なら歩いて渡ることは不可能です。40年前にカナン人の強さを恐れてカナンに入ることを拒んだ民たちであったら、この水のことも恐れて前進しなかったかもしれません。
 しかし、この時のイスラエルの祭司たちは主を信頼して水を恐れずに川に入って行きました。こうしてイスラエルの民の側から新しい一歩を踏み出したことで、主の不思議が行われたのでした。17節、

3:17 【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

 ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わりました。カナンの地でのカナン人たちとの本格的な闘いはこれから始まるのですが、イスラエルの民は、ここで新しい一歩を踏み出すことができたのでした。主は川をせきとめるような不思議を行う方ですから、主に常に信頼しているなら、これから先の闘いも主が必ず勝利を与えて下さいます。

教会単位の決断
 私たちの教会の会堂の問題も、人間的な考えに立つなら、全く不可能なことのように思えます。新しい会堂を建てると言っても、資金のことを考えるなら、それは水量が豊かなヨルダン川を歩いて渡るようなものです。それでも私たちが主の祝福を信じて、主を信頼して新たな一歩を踏み出すなら、主は不思議を行って下さいます。会堂に取り組んだ経験のある先生方の話を聞いても、会堂が建つ時には必ず主の不思議が行なわれると聞きます。
 この新たな一歩を踏み出す決断は、私たちの信仰の決断と全く同じであると言えるでしょう。私たちの一人一人がイエス・キリストを信じる決断をした時、私たちの一人一人は、主が私に対して、こんなにも豊かな祝福を下さることの不思議を感じたことと思います。イエス・キリストを信じる決断をしたことが無い者には、この主の不思議はわかりません。主の不思議、主の祝福とはそのようなものです。信じる側の私たちが新しい一歩を踏み出す決断をした時に、主は素晴らしい祝福を与えて下さいます。そして今度は私たち個人単位ではなく、教会単位での決断の時が来ました。

おわりに
 沼津教会が設立された時、主は祝福を約束して下さいました。そしてその祝福の約束は、この今沢の会堂が与えられ、廣瀬いずみ先生を送り出すという形で実現されて来ています。主の祝福は尽きません。ですから、私たちは、主が不思議を行って下さることを信じて、新しい会堂の建設に向けて、新しい一歩を踏み出したいと思います。私たちの側で新しい一歩を踏み出し始めない限りは、主の不思議は行われません。ですから私たちは今、新しい一歩を踏み出しましょう。
 最後にもう一度、ヨシュア記3章の14節から16節までを、交代で読みましょう。

3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。

 お祈りいたしましょう。
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信仰の二次元の時間(2014.7.9 祈り会)

2014-07-10 11:11:20 | 祈り会メッセージ
2014年7月9日祈り会メッセージ
『信仰の二次元の時間』
【ローマ8:16】

はじめに
 祈祷会での使徒の働きの学びは3章で足踏みをして、なかなか先に進みませんが、きょうも使徒の働きからは離れます。いま私たちが置かれている状況が刻々と変わって来ていますので、この祈祷会のメッセージは、その時々に示されたことを語らせていただきたいと思います。そして、また使徒の働きに戻るかもしれませんし、戻らないかもしれません。戻るとしたら、もう少し飛び飛びに扱って行くことも考えたいと思います。

平和の福音を宣べ伝える
 さて、いま私が示されているのは、平和の問題を意識しながら、福音を宣べ伝えるということです。私は平和の実現という希望を持って平和の働きをしたいと願っていますが、それに対しては、次のような考え方もあります。すなわち、主イエスの再臨があるまでは、紛争は決して地上からなくならないことがマタイ・マルコ・ルカで預言されているということです。先日の礼拝で交読したイザヤ2章のような平和な状況は、終わりの日が来て初めて実現するのだということです。しかし、そうであれば猶更、その日が来る前に、できるだけ多くの方々を救いに導かなければならないと思います。それには、平和が危うい今の状況では平和のメッセージを通じて福音を語るのが、最も耳を傾けてもらいやすいであろうというのが、私が今、示されていることです。
 これまで私たちが使徒の働きから学んで来たように、私たちには聖霊が注がれています。そして、聖霊が注がれた者の働きは、人間の働きではなく、聖霊の働きであるということです。ですから人間的な思いではなく聖霊に導かれた働きをしているなら、平和のための働きは人間的な努力ではないと思います。

二次元の時間で信仰を表現する
 そういうわけですから、平和が危うい状況にある今、私たちは福音を宣べ伝える働きをしっかりとしなければなりません。そこで私が今示されていることは、信仰においてわかりにくいことを、図解を多用して説明してみたらどうかということです。そして今私は、時間観を一次元から二次元に拡張すれば、わかりやすいのではないかということです。この二次元の時間観は、決して思い付きのことではなくて、それはヨハネの福音書の永遠観から導かれることです。ただしヨハネの福音書が「時間とは二次元である」と言っているわけではなく、時間が二次元であると考えると上手く説明できるということです。
 私たちの身の回りの空間が三次元であると言われるのも、三次元と考えればいろいろなことが上手く説明できるからです。現代物理学では、もっと多くの隠れた次元があるという説もありますから、実際のところは良くわかりません。それでも、いちおう目に見える世界では空間が三次元であると考えれば、いろいろなことが上手く説明できますから一般人の私たちは、空間は三次元と考えれば良いのです。
 時間を二次元と考えれば、信仰のことを上手く説明できるというのも、そういう類の話であると思っていただければ良いと思います。神との交わりの中にある時間を、もう一つの時間軸で表すなら、信仰を上手く説明できるのです。ですから信仰を持たない人にとっては、時間は相変わらず一次元のままです。

霊的な目覚めで気付く「神の時間軸」の存在
 図1から説明します。



 この二次元の時間観はヨハネの福音書から導かれるものですから(後で説明します)、図1にはヨハネの福音書のみことばの、

 「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
 「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)

を入れてみました。
 普段、私たちは横軸の一次元の時間の中で生活をしていますが、神の存在に気付き、神と共に歩み始めるなら、もう一つの時間軸があることに気付きます。ヨハネの福音書に則して説明するなら、イエス・キリストが私たちに対して「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすればわかります。」という語り掛けに応答して、イエスに付き従って行くことにした時、縦軸の「神の時間軸」の存在に気付き、神と共に歩み始めます。そうして、この縦軸に沿って歩み始めるなら、「平和」、「自由」、「救い」、「弱さを誇る」、「神」、「永遠の命」、「希望」、「光」、「信仰」の方向へと進んで行くことができます。一方、イエス・キリストの語り掛けに気付かないか無視をして応答しないのであれば、それまで通りの横軸の時間に沿って進み続けます。それは「戦争」、「奴隷」、「滅び」、「強さを誇る」、「悪魔」、「死」、「絶望」、「闇」、「不信仰」へと向かう道です。
 この神の縦軸の存在はヨハネの福音書から導かれます。



 図2の左側の図を使って説明すると、「モーセ」、「預言者」、「イエス」、「使徒」、「愛弟子A」、「愛弟子B」、・・・、「わたし」の一人一人にはそれぞれの人としての人生があります。それら個々の人としての人生は、横軸の「人の時間」に沿って進み、いずれはこの世の人生を終えて死にます。しかし、一人一人の人生に沿って「イエス」もまた共に歩んでいます。イエスは永遠の中を生きていますから、全ての時代の者と共に歩んでいます。このことに気付く時、人は「御父と御子との交わり」(Ⅰヨハネ1:3)の中に入れられます。そして、この「御父と御子との交わり」が「神の時間軸」であると言うことができます。
 この縦軸の存在は聖霊の働きによって気付くものです。なぜなら「御父と御子との交わり」は聖霊の働きによって感じることができるものだからです。ですから霊的な熟睡状態にある者は、決して気付くことができません。霊的に覚醒して回心して初めて気付くことができ、聖霊に満たされるなら「御霊の実」が与えられる方向へと進んで行きます。ウェスレーは「御霊の証し」という説教でローマ8:16の「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」を引用し、この御霊の証しの一つとして「御霊の実」、すなわち、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が信仰者に与えられることを挙げています。

おわりに
 このように、信仰を二次元の時間で表現することは、「信仰とは何か」のイメージをほとんど全く持ち合わせていない人々に対して、何がしかのイメージを持っていただく効果があるのではないかと考えているところです。ここに挙げた図がわかりにくいのであれば、さらに図を増やして、図解を多用することで、福音を宣べ伝える助けにすることができればと思います。そして、それが平和の働きへとつながって行けば感謝に思います。
 お祈りいたしましょう。
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7月13日礼拝プログラム

2014-07-10 08:40:47 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

7月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

7月 第2聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             関姉

 前  奏
 讃 美 ①  全地よ よみがえりの主を  249  
 交  読  詩篇84篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  御手の中で         405
 聖  書  ヨシュア3:11~17
 説  教  『踏み出すと行われる主の不思議』 小島牧師
 讃 美 ④  約束の地に         460
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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剣を取る者は剣で滅びる(2014.7.6 礼拝)

2014-07-06 13:32:16 | 礼拝メッセージ
2014年7月6日礼拝メッセージ
『剣を取る者は剣で滅びる』
【マタイ26:47~54】

はじめに
 今日の聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書2章4節には、

「彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」

とありましたね。戦争で人を殺す道具である剣や槍を、畑を耕す道具である鋤やかまに打ち直して、二度と戦いのことを習わないこと、このような平和を目指して私たちは今、この世における旅を続けています。
 平和の君(イザヤ9:6)であるイエス・キリストはマタイの福音書では

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)

と言い、ヨハネの福音書では、

「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)

と三度も言っています。この「平安があなたがたにあるように」は、新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳されています。
 主イエスは、これほどまでに、私たちが平和を実現することを願っています。
 そして私たちの国の日本は平和憲法を持っていますから、私たちは平和に非常に近い所にいるはずです。
 しかし先週の火曜日の7月1日に、安倍内閣はこの平和憲法の解釈の変更を行いました。この新たな解釈に基づいて自衛隊等に関係する新たな法律が作られるなら、私たちの憲法は、もはや平和憲法とは呼べないものになってしまいます。
 いま私たちの教会は新しい会堂の建設に向けての第一歩を踏み出そうとしている時であり、先月からそのために心を整えるための説教をして来ました。きょうの平和についての説教はこれまでの一連の流れとは少々異なると感じる方もおられるかもしれませんが、主イエスが願っておられる平和の実現のために教会が働くのは当然ですから、今日の説教もまた、新会堂の建設に向けて心を整えるための説教の一つであると、お考えいただきたいと思います。
 私たちが新しい会堂を建てることができずに教会を存続することができないなら、平和のための働きも出来なくなります。しかし、主イエスが願っておられる平和をつくる働きに私たちが携わるなら、主は私たちの教会の働きを祝して下さり、主は新しい会堂を私たちに与えて下さるであろうと私は信じています。今のように日本の平和が極めて危うい状況においては、なおさらそうであろうと思います。
 ですから、きょうの説教では、まず今の日本の平和がいかに危うい状況にあるかについて聖書を開きつつ、ご一緒に学び、そして私たちがこの平和をつくるための働きにどのように関わって行くことができるかについて考えてみたいと思います。

剣を取る者は剣で滅びる
 先週の水曜日の祈祷会の説教で私は、日本国憲法の前文の一部と憲法第9条を、祈祷会に集った方々とご一緒に読んでみることをしました。そしてまた、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を決めた閣議決定の文章の冒頭の部分も見てみました。しかし、きょうはそのような憲法や閣議決定の文言には立ち入らずに、閣議決定後の記者会見で安倍首相が何度か口にしていた「抑止力」について、まずは考えてみたいと思います。
 今回のことに限らず、ここ1年ほどの間のこれまでの安倍首相の発言から見て取れるのは、安倍首相は日本は戦争ができる国になることによって却って平和になると考えているようであるということです。憲法9条を廃止して日本が戦争ができる国になれば敵も簡単には攻めて来ることができないだろうから抑止力が高まり、日本はもっと平和になると考えているようです。
 そういう考え方があることは、分からないでもありません。北朝鮮が核兵器の開発と、核兵器を搭載して遠くに飛ばすことができるミサイルの開発を急ぐのも、それゆえでしょう。北朝鮮がそれだけの軍備を持つなら、どこの国も簡単には北朝鮮を攻めることはできないでしょう。
 しかし、それは人間的な考え方であり、聖書信仰を持つ私たちは平和の問題については、聖書に基づいて考えるべきです。そして聖書のイエス・キリストは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言っています。ここで、今日の聖書箇所のマタイの福音書26章を見ることにしましょう。26章47節をお読みします。

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。

 この26節の47章以降は、イエス・キリストが逮捕される場面です。この夜、逮捕されたイエス・キリストは夜が明けたその日のうちに十字架に付けられて死にました。この、イエスを捕らえるために差し向けられた大勢の群衆を案内して来たのはイエスの十二弟子の一人のユダでした。48節の「イエスの裏切る者」とはユダのことです。48節と49節、

26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。

 ユダはイエスに近づき、口づけすることで、群集たちに、この人がイエスであることを教えました。そして50節と51節、

26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。

 このマタイの福音書では、大祭司のしもべに撃って掛かったのが誰であったかを明らかにしていませんが、ヨハネの福音書によれば、これはペテロでした。その時、イエスはペテロに言いました。52節です。

「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」

 ですから聖書が教えていることは、軍備を整えて軍事力を増し、戦争ができるようにするなら、やがては相手の軍事力によって滅ぼされてしまうということです。剣を取る者はみな剣で滅びます。

弱いイエスに平和を感じる
 さて、ここでイエス・キリストは注目すべきことを言っておられます。53節と54節です。

26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

 53節でイエス・キリストが言っていることは、イエスを捕らえるためにやって来た大勢の群集など、イエスがその気になりさえすれば、御使いたちによって簡単に撃退できるということです。群衆たちは大勢であり、しかも剣や棒を手にしていましたが、天の軍勢であれば彼らを簡単に撃退することができます。イエスはいつでも天の軍勢で敵を倒すことが可能でした。しかし、イエスはそうはしませんでした。それは、聖書が成就されるためでした。
 54節の、「こうならなければならないと書いてある聖書」というのが、聖書のどの箇所のことなのか、具体的には書いてありませんから、それは各自が示されたところを思い浮かべれば良いのでしょう。たとえば私の場合にはイザヤ書53章が思い浮かびます。
 イザヤ書53章の4節から7節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1214)。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
 
 5節に、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。私たちは十字架で弱い姿をさらされたイエス・キリストを見上げることで心に平安と癒しが得られます。私たちは、軍隊を持つ国が軍事パレードで力を誇示する姿からは、決して平安と癒しは感じることができません。自衛隊の観閲式を見ても、そこに平和を感じることは決してありません。殺人の道具である兵器の行列を見て、平和を感じることができるわけがありませんね。
 私たちが無力なイエス・キリストの姿を見て平和を感じることができるのは、強さを誇る軍事パレードや自衛隊の観閲式の対極にあるからではないでしょうか。

弱さを誇ることの大切さ
 こんどはピリピ人への手紙をご一緒に見ましょう。ピリピ2章の6節から8節までを交代で読みましょう(新約聖書p.384)。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 神であるイエス・キリストは神であることを捨てて、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして、自分を卑しくして、十字架の死にまでも従われました。私たちが心打たれるのは、このためですね。このピリピ人への手紙を書いたのはパウロですが、パウロはコリント人への手紙においては、弱さを誇るということを言っています。十字架で弱い姿をさらしたイエス・キリストは、私たちに「弱さを誇る」ことの大切さを、ご自身をお手本にして教えて下さっているように思います。
 あちこち行ってすみませんが、今度はコリント人への手紙第二の12章を見ましょう。12章の9節と10節を、交代で読みましょう。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 この時、パウロは7節にあるように肉体に一つのとげを与えられていました。この「とげ」とは何かは、いろいろな説があってハッキリとしたことはわかりませんが、このことでパウロがすっかり弱ってしまっていたことは確かです。弱ってしまっていたから、パウロは「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」とか「私が弱いときにこそ、私は強いからです」と言っているのですね。このようにすっかり弱っていたパウロに対して主は、9節のように、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのですね。
 私たちが自分の力に頼り、自分の力を誇示しようとしている間は、私たちは神様が与えて下さる力を決して受け取ることができません。しかし、私たちが自分の弱さ・無力さを認めるなら、私たちは神様が与えて下さる大きな力を受け取ることができます。

強さを誇ろうとしている日本
 さて、では、ここで、もう一度、国家レベルの抑止力や軍事力の話に戻りたいと思います。抑止力とは、軍事力の強さを誇り、相手に対して、「もし攻めて来たら、痛い目に遭うのはそっちの方だぞ」と言っていることでしょう。これは強さを誇ることですから、聖書的には正しくないことになります。
 ただし現実的には、軍事面において弱さを誇るなんて出来ないではないか、弱さを誇るなんて言っていられるのは、せいぜい個人レベルの話で国家レベルでは無理ではないかと思う方も多いでしょう。日本だって憲法第9条があると言いながら、実質的には軍隊である自衛隊を持っているではないか、という話にもなるでしょう。しかし、軍隊を放棄している国が現実に存在するんですね。それは今大会のワールドカップでも活躍した、中米のコスタリカという国です。私もコスタリカが軍隊を持っていないということを、つい最近知ったばかりなので、まだ十分なことはわかっていませんが、コスタリカについての本を読むと、いろいろと考えさせられます。いずれまた、コスタリカについての勉強が進んだら、まとめてお話しできたらと思っていますが、今の段階で私が感じていることは、コスタリカには大国になろうという野望は決して持っていないということです。弱小国であることを自覚して、弱小国として生き残って行くために、「永世非武装中立宣言」をしたということです。
 一方、私たちの国の日本はどうでしょうか。日本は大国でありたいという野望を持っているように見えます。明治維新後は、「富国強兵」の掛け声の下に欧米諸国と肩を並べて対等の関係になろうと懸命になり、その挙句に始めた日中戦争、そして太平洋戦争で敗戦して手痛い目に遭いました。全国の都市の大部分が空襲により焦土と化し、沖縄戦では多くの人々が集団自決をし、そして広島・長崎には原爆が投下されて一瞬にして多くの命が奪われました。
 これほどの惨禍に遭っていながら、戦後70年近くを経て、再び日本は大国になりたいという野望を持っているように思われます。相変わらず欧米を意識して欧米と対等な関係になろうと必死になっているようにも見えます。私の目から見ると、対等な関係になろうと努力していることが何だか卑屈に見えます。日本は平和憲法という世界に誇ることができる先進的な憲法を持っていて、既に世界の上に立っているのですから、何故この平和憲法を捨てて欧米並みの低い位置に下がろうと努力するのか、私には理解できません。平和を築くことにおいて平和憲法を持つ日本は世界をリードできる立場にあるのに、いまや日本はそれを台無しにして、普通の国になろうとしています。
 日本は平和憲法という弱さを誇る憲法を持っているのに、それを改めて強さを誇る普通の国になろうとしています。日本が弱さを誇る平和憲法を持つことができたのは、この憲法が戦争で壊滅的な被害を受けて焦土と化した国土の上に立てられた憲法だからです。日本が小さくて弱い国であることを認めたことで、私たちはこの弱さを誇る憲法を手に入れることができました。ですから日本は、いつでも、この敗戦で焦土と化した国土に立ち返り、へりくだるべきです。
 それは私たちキリスト者がいつでも、十字架のイエス・キリストに立ち返らなければならないのと同じです。十字架のイエス・キリストは神でありながら、人として弱くみじめな姿を人々にさらしました。それは私たちに弱さを誇ることの大切さを教えて下さるためでした。強さを誇る者は相手を裁きますが、弱さを誇る者は相手を赦すことができます。このように弱さを誇るゆえに相手を赦すことができる、このことが心に平安をもたらすのだと思います。私たちが強さを誇ろうとしている間は、私たちは心の平安を得ることができません。しかし十字架の主イエスの弱い姿に心を寄せ、主イエスのように弱さを誇ることができるようになるなら、私たちは心の平安を得ることができます。

弱さを誇るべきことを宣べ伝えよう
 日本が強さを誇る国に再びなろうとしている今、教会は人々に対して弱さを誇ることの大切さを宣べ伝える働きをする必要があると私は考えます。私たちインマヌエル沼津教会のメンバーを見渡して見ても、私たちは本当に弱さ以外に誇れるものは何も持っていないという気がしますから、私たちは、この働きのためにはとてもふさわしいのではないかと思います。
 9月15日には千本プラザで特別伝道会を開催しますね。私は、この特伝は「平和と聖書」というようなタイトルにして、弱さを誇ることの大切さを説くようにと、いま主から示され始めています。私たちはこれまで、十字架の意味を人々になかなか上手く伝えられなくて苦労して来ましたが、今のような危険な時代には、むしろ伝えやすくなったのかもしれません。今、日本人の多くはこれまで以上に平和の大切さを意識している時にあると思いますから、私たちは平和とは強さを誇る抑止力によってではなく、弱さを誇ることでもたらされることを人々にお伝えして行けば良いのだと思います。そしてその中で、十字架は弱さを誇る象徴であることをお伝えして行くことができればと思います。

おわりに
 このような平和のための働きを私たちが、この沼津の地において出来るなら、主はきっと私たちの教会を祝して下さり、会堂問題においても驚くような御業を為して下さるのではないかと、いま私は感じています。
 剣を取る者は剣で滅ぼされます。それは、剣を取る者が強さを誇る者であるからです。私たちは弱さを誇る者として、イエス・キリストの十字架の平和を、この沼津の地で宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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