インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

4月3日礼拝プログラム

2016-03-31 14:23:59 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月3日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第1聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  ガリラヤの風かおる丘で   183
 交  読  詩篇23篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  天において 主をたたえよ  204
 讃 美 ③  主は私を救うために     457
 聖  書  Ⅱサムエル7:1~3
 説  教  『主と共に歩み続けたダビデの信仰』 小島牧師
 讃 美 ④  恵みのひびきの(4節まで)  304
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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神の時間の中に身を置く平安(2016.3.30 祈り会)

2016-03-31 09:47:52 | 祈り会メッセージ
2016年3月30日祈り会メッセージ
『神の時間の中に身を置く平安』
【ヨハネ4:23、7:6、12:23】

はじめに
 イースターを越えて、これからの7週間、50日間は復活の日とペンテコステの日の間の期間の中を歩んで行くことになります。ペンテコステの日に向けて、聖霊の働きについて、また学び直してみたいと思っています。これまでも聖霊の働きについては再三に亘って学んで来ていますが、改めてまた学び直してみたいと思っています。
 聖霊の働きには色々ありますが、私がいま最も必要であると感じている聖霊の働きについての学びは、私たちが聖霊の働きによって「神の時間」の中に身を置く恵みをいただいていることについてです。この働きについて語られることは、ほとんどありません。それだけに、私はこの時間についての聖霊の働き、すなわち私たちが聖霊を受けるなら私たちが神の時間の中に身を置くことができるということ、このことを広く発信して行く必要性をいま私は強く感じているところです。

海のように広大な神の時間
 さて、私がこの沼津教会に着任してからも、ちょうど3年になりました。私がこの沼津教会に来て最も感謝に感じていることは、海がすぐ近くにあるということです。3分歩けば海辺に出られます。こんなに近くに海がありますが、海岸にはちゃんと海抜17メートルの防潮堤がありますから、それも感謝なことです。
 3分歩けば海岸に出られますから、週に3日か4日は海岸の防潮堤の上を走るようにしています。防潮堤の上には私以外にも走っている人や散歩している人、サイクリングをしている人など色々な人がいます。何もしないで、ただ海を見つめている人もよく見かけます。海を見ると狭まった心が広くなるように感じて平安が得られますから、私もまた、ただボーっと海を見ることは大好きです。
 このように私が海辺で過ごすことができていることは、聖書の中の「神の時間」を考える上でも随分と役立っているだろうと思います。聖書の中の「神の時間」は海のように広大です。この広大な「神の時間」の中に私たちも身を置くことで心の平安が得られます。しかしクリスチャンであっても、多くの人は紀元30年頃のイエス・キリストにしか注目していないように感じます。それでは、せっかく広い海が目の前にありながら、海の中の一点だけを見つめているようなもので、心が広くなる気持ちを味わうことは、なかなかできないのではないかと思います。

特別な「時」と日常の「時」
 では「神の時間」の中に身を置くとはどういうことなのか、きょうはヨハネの福音書を3ヶ所見て、そこから学びたいと思います。

4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時(ホーラ)が来ます。今がその時(ホーラ)です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時(カイロス)はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時(カイロス)はいつでも来ているのです。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時(ホーラ)が来ました。

 この三つの箇所には、日本語ではいずれも同じ「時」という言葉が使われています。しかし、ギリシャ語では同じではありません。4:23と12:23の「時」には「ホーラ」というギリシャ語が使われています。そして7章6節の「時」には「カイロス」というギリシャ語が使われています。この「カイロス」は特別な時という意味合いが含まれます。イエスさまにとっての特別な時とは、やはり十字架でしょう。では、「あなたがたの時」という特別な時は、どのような時でしょうか。ヨハネの福音書では、イエスが神の子キリストであることを信じることを非常に重要視していますから、「あなたがたの時」というのは、イエスが神の子キリストであることを信じる時と言えるでしょう。この「カイロス」については、もう一つの「ホーラ」と比べればわかりやすいのではないかと思います。
 次に、12章23節の「時」の「ホーラ」はどうでしょうか。このヨハネ12章が終わり、13章に入ると最後の晩餐の場面になり、そうしてイエスさまは十字架に向かって行きますから、「人の子が栄光を受けるその時」とは、やはり十字架の時だと思います。では、この12:23の十字架の時は、なぜ7:6の十字架の時のように「カイロス」が使われずに「ホーラ」というギリシャ語が使われているのでしょうか。
 「ホーラ」は日常的な時であり、ヨハネの福音書ではその他に「時は第十時ごろであった」(1:39)、「時は第六時ごろであった」(4:6)などでも使われています。12:23の時がそのような一般的な時であるとしたら、人の子が栄光を受ける十字架の時は、一般的な時だということになります。それは何を意味するでしょうか。私は次のように考えます。
 先ほど私は「神の時間」は海のように広大だと話しました。今度は「神の時間」を夜の星空に例えたいと思います。夜の星空には無数の星が光輝いています。その無数の星のうちの一つは、「私」がイエスを信じた時に光輝いた星です。私がイエスを信じた時、私には聖霊が注がれて、私はイエスが栄光を受けた十字架を見ることができるようになりました。そして、私のようにイエスを信じて聖霊を受けた人は、この二千年間には無数にいます。また旧約聖書の時代にも聖霊を受けた預言者たちがいました。そのように聖霊を受けた人は夜空の星のように無数にいます。

神にとってはすべてが「今」
 4:23の「ホーラ」も同じです。霊とまことによって父を礼拝するにはイエスを信じて聖霊が注がれる必要があります。そのように聖霊を注がれた人は、いろいろな時代に無数にいます。この教会に集っている私たちも、イエスを信じた時は一人一人で皆、違います。しかし、神にとっては、これらの時はすべて「今」なんですね。これが「神の時間」です。神にとっては、あらゆる時間が「今」です。
 この神の時間に身を置くことができるようになると、私たちは時間の縛りから解放されて心の平安を得ることができます。人間の時間の「今」に縛られていると心配事ばかりで不安になってしまいますが、すべての時間を見渡している神の「今」に身を置くなら、神様が必ず良い方向に導いて下さるという確信が持てますから、心は平安で満たされます。これが時間に関する聖霊の働きです。この時間に関する聖霊の働きの素晴らしさを是非、多くの方々と共有し、分かち合いたいと私は願っています。そして、その働きに沼津教会が用いられることを願っています。

おわりに
 イースターを越えた私たちは今、ペンテコステの日に向かって歩み始めています。聖霊の恵みの素晴らしさを私たちが深く理解できるよう、お祈りしたいと思います。
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全身全霊で主の復活を祝う(2016.3.27 イースター礼拝)

2016-03-29 23:00:33 | 礼拝メッセージ
2016年3月27日イースター礼拝メッセージ
『全身全霊で主の復活を祝う』
【Ⅰサムエル6:12~15】

はじめに
 主のご復活をお祝いするイースター礼拝で今年は第一サムエルを開くことにしました。イースター礼拝で旧約聖書のサムエル記を開くことは異例のことかもしれません。なぜ、この箇所を開くことにしたかというと・・・
 1月と2月に出エジプト記の幕屋の造り方の記事を共に学び、その後でヨシュア記を開いて神の箱をかついた祭司たちがヨルダン川に足を浸した時に主の御業が行われた箇所を共に見ました。それで、次に神の箱や幕屋に関係する箇所を開くとしたら、このサムエル記のダビデが神の箱をダビデの町に運び入れる箇所だと思っていました。当初はイースター礼拝で開くことは考えていませんでしたが、ずっと気になっていた箇所ですから、異例のことかもしれませんが、イースター礼拝で開くことにしました。
 そして、この記事で思い巡らしをしていて、主のご復活を心一杯祝うという点では、この箇所はなかなか良かったなと今では思っています。ダビデの町には、この時点まで神の箱はありませんでしたから、神の箱が戻ったことは一種の復活と言えるでしょう。そして新約の時代を生きる私たちは、主のご復活をこのダビデのように大胆に喜びたいとものだと思います。

帰って来た神の箱
 この時点でダビデの町に神の箱が無かったのは、サムエルの時代に神の箱を幕屋から出して戦場に運び入れた時に、イスラエルがペリシテ人に打ち負かされてしまい、神の箱が奪われてしまったからですね。この神の箱がペリシテ人に奪われたのはダビデより前のサウルが王になる前のことですから、その時から何十年もの時が経っていました。この神の箱がペリシテ人に奪われてから様々なことがあったことがサムエル記を読むとわかります。しかし、きょうはそれらを見ることは省略して、ダビデが神の箱をダビデの町に運び入れた時のことに先ずは注目したいと思います。
 第二サムエル6章の12節から15節までを交代で読みましょう。

6:12 【主】が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。
6:13 【主】の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。
6:14 ダビデは、【主】の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、【主】の箱を運び上った。

 12節にダビデは喜びをもって神の箱をダビデの町へ運び上ったとあり、14節にあるようにダビデは主の前で力の限り踊りました。そして15節にあるようにイスラエルの全家が歓声を上げ、角笛を鳴らして喜びました。そして18節と19節も交代で読みましょう。

6:18 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の【主】の御名によって民を祝福した。
6:19 そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。

 今回、私はこの礼拝メッセージのために、この記事、すなわちダビデが神の箱をダビデの町に大喜びしながら運び入れ、その後に民の全部に輪型のパンと菓子を分け与えた記事の思い巡らしをしていて、放蕩息子が帰郷した時に父親が祝宴を開いて皆で大喜びをしたルカの福音書の記事を思い出しました。そして、この神の箱が帰って来た記事と放蕩息子が帰って来た二つの記事はとても良く似ていると感じました。

帰って来たのは人間のほう
 どういうことかと言うと、サムエル記で帰って来たのは神の箱のほうですが、箱は小さくても神様は人間よりも遥かに大きな存在ですから、帰って来たのはむしろ人間のほうだろうということです。イスラエルの民は神の箱を幕屋から勝手に運び出す罪を犯しましたが、それは神が出て行ったのではなく、人間の方が神から離れて行ったということです。ですから神の箱が帰って来たということは、人間の方が神という父親の家に戻ったと言えるのではないでしょうか。そして、一人の罪人が悔い改めると天に喜びがわき起こるように、地でも喜びがわき起こります。
 すると、イースターで主のご復活をなぜ私たちが喜ぶかということも、もっと良くわかるようになった気が私はしました。
 教会では第三聖日の午後にずっとマルコの福音書の学びをして来ています。そして、先週の学びでは、ちょうどイエスさまが十字架で死ぬ場面を学びました。その場面をご一緒に見ましょう。マルコの福音書15章の33節と34節を交代で読みましょう(新約聖書 p.101)。

 15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 イエスさまは大声で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。イエスさまは私たち人間の罪を背負って父なる神に見捨てられました。それは、人間が神の箱を勝手に運び出した罪をイエスさまが背負ったと見えないでしょうか。私たちもまたイスラエル人が神の箱を運び出したのと同じように、心の外に神様を運び出して自分勝手に振る舞っていたような者たちです。それはイエスさまを追い出したということです。そうしてイエスさまは死の世界という異国に向かわせました。しかし、父なる神は三日目にイエスさまを死の世界から帰して下さいました。つまり復活しました。この主のご復活を私たちが信じるなら、私たちには永遠の命が与えられます。
 神様は神の箱に入るような小さな存在ではありません。しかし人となって生まれたイエスさまは神の箱に収まるような小さな存在であったと言えるのでしょう。そのイエスさまを罪深い私たちは追い出して見捨ててしまいました。しかし、イエスさまは十字架の死から三日目に、本来の大きな存在に戻って私たちのところに帰って来て下さいました。ですから私たちは、イエスさまが死の世界から帰って来て下さったことを全身全霊で喜び、お祝いしたいと思います。
 神の箱が外に出されて、また帰って来たということは、私たちが神から離れて再び帰って来たということでもあり、またイエスさまが見捨てられて、また復活して帰って来たということでもあります。この二重性は、私がよく引用する黙示録の「わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」という表現と通じているようにも感じます。

この良き日に
 私たちは、十字架で死んだイエスさまが三日目に帰って来て下さった喜びと、私たちが神のもとに帰ることができた喜びとを二重に重ねて、心一杯、主のご復活をお祝いしたいと思います。
(以下、省略)
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十字架後の安息日に思いを巡らす(2016.3.23 祈り会)

2016-03-24 18:50:17 | 祈り会メッセージ
2016年3月23日祈り会メッセージ
『十字架後の安息日に思いを巡らす』
【マルコ16:1】

はじめに
 今週は受難週の中を通っています。次のイースター礼拝では主のご復活を共に喜びたいと願っています。その前の今日の祈り会では、聖書のどこを開くべきか、少し迷いました。最後の晩餐の箇所を開いても良いと思いましたし、十字架の場面を開いても良いとも思いました。そのように色々と考えている中で示されたのが、十字架の日と復活の日の間の、安息日について思いを巡らすことでした。
 聖書には、イエスさまの弟子たちや女たちが、この安息日をどのような思いで過ごしていたかは書いてありません。ですから想像するしかありません。そして、想像することは人によって様々だろうと思います。人によって置かれている状況が様々ですから、置かれている状況が思い巡らしに影響するでしょう。
 いま、隣の土地には建物が建っていません。来年の今頃はもう建物が完成しているかもしれませんし、まだ建設中かもしれませんし、まだ着工していないかもしれません。今の時点では、まったくわからない状態です。何もわからない中にいるということは、本当に不安なことです。ですから十字架の日にイエスさまが死んだ後の安息日について思いを巡らすのに、今年ほどふさわしい年は無いであろうと思います。

どのような思いでいたのか
 では、マルコ16章1節をご一緒に読みましょう。

16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 この直前の15章47節には、次のように書いてあります。

15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

 ここには安息日に入る前のことが書かれていますから、この15章47節と16章1節の間の安息日に、彼女たち、そして弟子たちがどのような思いでいたかについては何も書かれていません。ですから私たちは想像するしかありません。
 この、聖書には何も書かれていない、いわゆる行間に思いを馳せることで、自分と聖書の世界との距離がより一層縮まるということに私が初めて目を開かれたのは、私が高津教会の信徒だった時に、藤本先生の説教で創世記のヨセフの箇所が開かれた時でした。ご一緒に見てみましょう。創世記40章23節と41章1節を交代で読みましょう(旧約聖書p.73)。

40:23 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。
41:1 それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。

 このように40章の終わりと41章の始めの間で2年の歳月が流れました。この2年をヨセフはどのような思いで過ごしたのか考えて見ましょうというお勧めを高津教会で受けました。状況を短く説明すると、ヤコブの子のヨセフは兄たちに売られてしまい、エジプトに連れて来られました。そしてヨセフは、このエジプトで無実の罪を着せられて監獄に監禁されていました。その同じ監獄に23節で見た献勺官長が入って来て、ヨセフの働きによって献勺官長は、監獄から出られることになりました。ヨセフは14節で献勺官長に言っていました。14節、

40:14 あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。

 しかし、先ほど23節で読んだように、献勺官長はヨセフのことを忘れてしまいました。そして聖書は41章1節までの2年間、ヨセフがどのような思いでいたかを書いていません。
 そして今日は、もう一箇所、使徒の働き9章をご一緒に読みたいと思います。使徒9章の8節と9節を交代で読みましょう。これはパウロが霊的なイエス・キリストに出会った場面です。

9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

 9節にパウロが三日の間、目も見えず飲み食いもしなかったとありますが、パウロがどのような思いでこの三日間を過ごしたのかを聖書は書いていません。

無力であることを意識する
 ここまで三つの箇所を見て来ました。イエスの弟子たちと女たちは、十字架の日の翌日の安息日をどのような思いで過ごしたのでしょうか。ヨセフは献勺官長に忘れられていた2年間を、どのような思いで過ごしたのでしょうか。霊的なイエスさまに出会って目が見えなくなったパウロは三日間をどのような思いで過ごしたのでしょうか。
 共通して言えることは、彼らは無力であったということではないでしょうか。それぞれ状況は違いますが、自分たちの力ではどうしようもない事の中に置かれて、先が見えない不安の中にいました。そして私たちもまた状況は違いますが、隣の建物のない土地がこれからどうなるのか、先が見えない不安の中にいます。でも主だけは、この先のことをご存知です。そして主は弟子たちの働き、ヨセフの働き、パウロの働きを祝されました。私たちの働きは、この先どうなるでしょうか。
 ここで大事なことは、私たちは単に不安がるだけではなくて、自分たちが無力な存在であるということを徹底的に意識するということではないでしょうか。自分たちの力ではどうしようもないということを徹底的に意識するなら自分たちの力に頼ることをやめますから、主の御声が聞こえやすくなって来ます。
 イエスさまの十二弟子の中で一番無力感に浸っていたのは、やはりペテロでしょう。ペテロはイエスさまが「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」と言った時、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました(マルコ14:31,32)。しかし、結局はイエスさまが言った通りのことになってしまい、ペテロは激しく落ち込むことになります。そしてイエスさまが十字架に掛けられて死んでしまうという、まったく思いもしないことが起きてしまいました。ペテロは自信満々でしたが結果は悲惨でした。
 ヨセフも自分の才能に自信を持っているような傲慢なところがありました。そんなヨセフを変えるにはエジプトでの長い年月が必要だったということでしょうか。パウロもまた自信満々でイエスさまを信じる者たちを迫害していました。そんなパウロの目をイエスさまは見えないようにしました。

弱さのうちに現れるキリストの力
 こうしてペテロもヨセフもパウロも自分たちが無力で何もできない者であることを思い知ることになりました。パウロは第二コリント12章で書いていますね。第二コリント12章9節をご一緒に読みましょう(新約聖書p.360)。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 主イエスの力は、弱さのうちに完全に現れます。ですから、私たちも弱さを誇りたいと思います。とは言え、私たちは私たちが弱いことは十二分に承知していますから、これまでも弱さを十分に誇って来たと言えるでしょう。ですから私たちは次のイースター礼拝では、主のご復活を力一杯お祝いしたいと思います。主のご復活を心の底から喜び、力一杯お祝いする私たちを主は必ず祝福して下さいます。単に弱々しく弱さを誇っているだけでは、次の一歩への力は湧いて来ませんが、主は私たちに力一杯喜ぶ機会を与えて下さいます。この喜びのエネルギーが前進する力となって、会堂問題の中を力強く歩む力となって行くのだと思います。

おわりに
 主イエスもまた十字架の苦しみを受けて最も弱い者とされた後に、力強く復活されました。ですから私たちも、その時に備えたいと思います。
 この受難週、私たちは弱さを誇り、次の力強いステップに備えたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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3月27日イースター礼拝プログラム

2016-03-24 13:03:24 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月27日 イースター礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

3月 第4聖日 イースター礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉(2回)   253
 交  読  マタイ28:1~10
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  私をゆるすために       314
 讃 美 ③  神はひとり子を        26
 聖  書  Ⅰサムエル6:12~15
 説  教  『全身全霊で主の復活を祝う』 小島牧師
 讃 美 ④  つきぬ喜びを注がれる主よ   11
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント

霊的な世界の王を求めよ(2016.3.20 礼拝)

2016-03-22 08:54:06 | 礼拝メッセージ
2016年3月20日礼拝メッセージ
『霊的な世界の王を求めよ』
【ルカ19:41~44】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日礼拝です。1週間後にはイースター礼拝となります。受難週の今週、私たちはイースターに向けて心を整えて行きたいと思います。受難週では、この棕櫚の聖日の日曜日にイエス・キリストはエルサレムに入京し、木曜日の晩に弟子たちと最後の晩餐のテーブルに付き、金曜日に十字架に付けられて死に、三日後の日曜日に復活しました。そして復活から五十日後の五旬節の日、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれました。
 去年のことを思い返してみると、去年は会堂問題がこの棕櫚の聖日からイースター、そしてペンテコステの日に掛けて急速に進展しました。私たちが土地の購入を承認する決議を行ったのは9月6日の臨時教会総会においてでしたが、事態が大きく進展して行ったのは3月、4月、5月においてでした。今回、この礼拝メッセージの準備をしていて思ったのですが、昨年、この時期に事態が大きく動いたのは、この受難週からペンテコステに掛けての時期であったことも大きかったのだなと改めて思っています。これまで私は、昨年この時期に年会があったことで霊的に燃やされたからだと皆さんに説明して来ました。確かにそれも大きかったと思いますが、いまイースターに向けて思いを巡らしている中で、受難週からペンテコステに掛けての思い巡らしの期間であったことも大きかったのだなと思っています。そして、もう一つ、「春の喜び」もまた大きな要素のように思います。桜が咲くと本当にうれしくて心が喜びで満ちます。また厚着していたのが薄着でよくなりますから体も軽くなります。体が軽くなると心も軽くなり、物事を前向きに考えられるようになります。神様はこれらのことを考えて、今の時期に事態を進展させて下さっているように思います。
 今年、私たちは再び、会堂問題にとって非常に重要な時期の中を通っています。来年着工する新会堂の規模を夏までに決めなければなりません。そのために主の導きを仰がなければなりません。どのサイズの礼拝堂を主は私たちに与えて下さろうとしているのか、読み誤らないようにしなければなりません。このような大変に難しい時期にありますが、この時期が受難週からペンテコステに掛けての時期と重なり、また春の到来と重なっていることは本当に幸いなことだと私は感じています。春の喜びの中で受難週の出来事、復活の出来事、そしてペンテコステの日の出来事のことを思い巡らすことで、霊的に整えられ易くなっています。この幸いに感謝しながら聖書を見て行きたいと思います。

40年後の滅亡のために泣いたイエス
 まず、聖書交読でご一緒に読んだマルコ11章を、もう一度見たいと思います。イエスさまと弟子たちはエルサレムのすぐ近くまで来ていました。そして弟子たちは、ろばの子をイエスさまのところに引いて行きました。7節から10節までを交代で読みましょう。

11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

 このように、イエスさまがエルサレムに向かって行った時、民衆は熱狂的にイエスさまを歓迎しました。そして11節、

11:11 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。

とあります。マルコの福音書は、イエスさまが民衆に熱狂的に歓迎されて、そのままエルサレムに入って行ったような書き方がされています。マタイの福音書も同様です。
 さてしかし、ルカの福音書は違います。きょうの聖書箇所のルカ19章を見て下さい。19章の29節からには、マルコの福音書と同じことが書いてあります。しかし、その後のことがマルコと少し違います。イエスさまは民衆に熱狂的に歓迎されて、そのままエルサレムに入ったのではなく、イエスさまがエルサレムを見て泣いたことをルカの福音書は記しています。
 先ほど司会者にこの箇所を読んでいただきましたが、もう一度、今度は交代で読みましょう。

19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

 これは紀元70年にエルサレムがローマ軍の攻撃によって滅んでしまったことを指しています。イエスさまはこの出来事の40年前からこのことを知っていて悲しんで泣いておられます。エルサレムのユダヤ人たちはローマからの支配から脱して独立しようとして武装蜂起しましたが、結局は強力なローマ軍の攻撃によって鎮圧されて神殿は焼かれてしまい、ユダヤ人たちは散らされてしまいました。

ダビデのような王を望んだ民衆
 ダビデ・ソロモンの親子によって繁栄したイスラエルの王国の歴史を持つユダヤ人にとって、ローマに支配されていることは屈辱的なことでした。ですからローマからの独立を企てたのでした。そして、この40年前の棕櫚の聖日に、エルサレムの人々がイエスさまを熱狂的に歓迎したのも、同じ理由からでした。ユダヤ人たちはイエスさまがダビデ王のように先頭に立って自分たちをローマの支配から解放してくれるものと思い、歓迎しました。弟子たちでさえ、そのように思っていました。しかし、イエスさまはそのためにエルサレムに入ったのではありませんでした。イエスさまは十字架に掛かるためにエルサレムに入りました。ただイエス・キリストお一人だけが、そのことを知っていました。
 そのイエス・キリストを十字架に付けたのは、イエスさまを熱狂的に歓迎した民衆たちでした。民衆は律法学者や祭司長たちの企てによって利用され、扇動されてイエスさまを「十字架に付けろ」と騒ぎ、イエスさまを十字架に付けて殺してしまいました。
 民衆が望んでいたのはダビデのような地上の王でした。しかしイエスさまは霊的な世界の王でした。けれども民衆はそんなことはもちろん知りませんでしたから、イエスさまがダビデのような地上の王ではないことに失望してイエスさまを殺してしまいました。そして、その40年後にはローマ軍に神殿を焼かれて失い、エルサレムから散らされることになってしまいました。

神はなぜ不完全な人間を王に立てたのか
 きょうの、この棕櫚の聖日礼拝のメッセージのタイトルは「霊の世界の王を求めよ」です。なぜ、このようなタイトルを付けたのか、きょうはもう一箇所、示されている聖書箇所がありますから、そこをご一緒に見て、説明することにします。もう一つの聖書箇所はサムエル記第一の8章です(旧約聖書p.476)。この箇所は、そんなに難しいことは書いてありませんから、読めばわかっていただけると思います。ですから、この8章の約半分を交代で読みたいと思います。まず1節から5節までを交代で読みましょう。

8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。
8:2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。
8:3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。
8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 この時代、イスラエルにはまだ王がいませんでした。それでイスラエルの長老たちは王を立ててくださいとサムエルに頼みました。しかし、このことはサムエルにも、また神である主にも気に入らないことでした。今度は6節から8節までを交代で読みましょう。

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは【主】に祈った。
8:7 【主】はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

 ここを読むと、主が相当に怒っておられることがわかります。モーセの時代に主は、不信仰なイスラエルの民に怒って蛇を送ったことがありました。この場面でも蛇を送るぐらいのことをしても良さそうなものです。しかし、主は、サムエルに仰せられました。9節、

8:9 今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」

 主は「彼らの声を聞け」とサムエルに仰せられました。そして、もし王が国を治めるようになれば、これこれこういう悪いことになるのだぞ、ということをサムエルに言わせました。たとえば15節のように、王は民の穀物とぶどうの十分の一を税として取りたてます。また17節のように、羊の群れの十分の一を取り、民は王の奴隷のようになります。そして18節、

8:18 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、【主】はあなたがたに答えてくださらない。」

 サムエルはこのように長老たちに告げました。しかし、それでも民は王を望みました。19節と20節を交代で読みましょう。

8:19 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。
8:20 私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

 民がここまで言ったので、主は22節にあるように、「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」と仰せられました。
 そうして皆さんご存知のように初代の王としてサウル王が立てられました。しかし、サウル王は、王でありながら部下のダビデの人気に嫉妬するような、王としての器が小さな人物でした。主はどうして、こんなサウルのような者を王として立てたのでしょうか。或いはまた、次のダビデ王は立派な王でしたが、王としての絶頂期に失敗を犯し、この罪によってダビデの家庭は崩壊してダビデは大変な目に遭いました。またダビデの子のソロモンも、最初は立派な王でしたが、やはり失敗を犯して王国は北王国と南王国とに分裂してしまいました。そうして出来た北王国の王たちは初代のヤロブアム王を始めとして不信仰な王たちばかりでしたから、やがてアッシリヤに滅ぼされてしまいました。南王国のほうはヒゼキヤやヨシヤなどのように良い信仰を持つ王たちもいましたが、マナセやエホヤキムのような悪王たちも大勢いましたから、結局はバビロニヤに滅ぼされてしまいました。
 結局、人間の王はダビデでさえ失敗を犯したことからもわかるように、不完全な王しかいないということです。では、なぜ神である主は、このように不完全な人間の王たちを立ててイスラエルの民を治めさせることにしたのでしょうか。

霊的な世界の王を求めよ
 神様がお考えになることは、もちろん私たちにはわかりません。しかし私は、神様はサウル王からイエス・キリストの十字架そして紀元70年のエルサレム滅亡に至るまでの実に千年以上もの長い時間を掛けて、肉的な人間の王ではなくて霊的な世界の王を求めるべきことを私たちに教えたのだと感じています。
 イスラエルの民は人間の王を求めて与えられましたが、結局イスラエルの王国は北王国も南王国も滅亡してしまいました。そしてバビロニヤ、ペルシア、ギリシャによる支配を経て、ローマ帝国に支配されるようになってしまい、エルサレムの滅亡の悲劇を、紀元前と紀元後に二度も経験することになってしまいました。これが、イスラエル人たちが人間の王を欲した結果でした。神は千年以上も掛けて、このことを人間に教えて霊的な世界の王を求めなければならないことを示したのだと私は感じています。
 イエス・キリストが十字架に掛かったのは、私たち一人一人の罪を赦すためでもありますが、この人間の、本当にどうしようもなく鈍感な霊性を何とかして目覚めさせなければならない、そのためとも言えます。

おわりに
 このような使命を帯びて十字架に向かったイエスさまに思いを向けながら、今週の受難週を過ごしたいと思います。最後にゲッセマネの箇所をご一緒に読んで終わりたいと思います。ルカの福音書22章39節から44節までを交代で読みましょう(新約聖書p.164)。

22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

 お祈りいたしましょう。
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群衆を深くあわれみ、教えたイエス(2016.3.16 祈り会)

2016-03-18 06:22:46 | 祈り会メッセージ
2016年3月16日祈り会メッセージ
『群衆を深くあわれみ、教えたイエス』
【マルコ6:34~42】

はじめに
 きょうの祈祷会の箇所として示されたのは、マルコの福音書の「五千人の給食」の記事です。いま私たちの教会は会堂建設のことで、まさにこの「五千人の給食」の記事のようなことを経験しています。少し前まで私たちの教会には五つのパンと二匹の魚しかありませんでしたが、わずか1年半の間に主はこのわずかなパンと魚を増やして下さり、隣の土地を購入することができるほどにして下さいました。そして、いま私たちは新しく建てる礼拝堂の予算をどの程度にすべきかを決めなければならない、とても難しい選択をしなければならない中にいます。先日の13日の聖日礼拝のメッセージの中で、そのことの説明をし、ご一緒にお祈りしました。そして最後の献金感謝のお祈りでは「イエスさまがどのように考えていらっしゃるのか」、それが最も大事であり、このイエスさまの御心に私たちは従って行きたいというお祈りをされていました。そのお祈りを聞いて私も、本当にそうだなあと思いました。

群衆を深くあわれんだイエス
 それでまず今日は、34節に目を留めたいと思います。6章34節をご一緒に読みましょう。

6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 イエスさまは群衆をご覧になって、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められました。この地域にも、この群衆のような人々がたくさんいます。ですからイエスさまは、この地域の方々のことも深くあわれんでおられます。そうして、この方々にいろいろと教えたいと願っておられます。そのためにイエスさまは隣の土地を私たちに与えて下さったのですから、それなりの建物は建てる必要があるのだと思います。もちろんそれは、五千人も収容できるものである必要はありません。40節を見ると、「人々は、百人、五十人と固まって席に着いた」とあります。最新の設計案では、だいたい50人規模です。普段は会衆席としては使わない両サイドのスペースも含めて詰めて座れば80人ぐらいは入るでしょう。しかし、去年の7月の段階の当初案ですと、もっと小さなサイズになります。ですから私は、できれば最新案の規模の礼拝堂が建てることができると素晴らしいなと思っています。
 私たちは先ずは、この地域の方々が救われるために熱心に働きたいと思います。それは、私たちの教会の会堂問題が動き始めたのが、2年前に近所の交差点で小学生が交通事故に遭い、それ以来、地域の方々のため、とりわけ地域の小学生の交通安全のために毎週欠かさず祈るようになってからだったからです。ですからイエスさまも私たちが地域の子供たちのために熱心に祈ることを望んでおられることが、このことからわかります。
 そして神様は、近所に小学生がたくさんいるご家庭を送って下さいました。そして幼稚園は保育園と一緒になった認定こども園に、この4月からなりますから、園児の数も増えるのかなと思います。このように、この地域には子供が比較的たくさんいますから、新しい礼拝堂ができたら子供たちが来るようになってくれると良いなと思っています。

ゴスペル・ファンタジー
 そして子供たち向けの話として、いま私が中高生向けに書いているヨハネが主人公のファンタジー小説が用いられると良いなと思っています。いま書いているのは中高生から大人向けで小学生には難しいですが、中高生向けのものが一旦できれば、それを小学生向けに作り直すことは難しいことではありません。いきなり小学生向けを作るとヨハネの福音書の深い味わいを十分に取り込むことができませんから、まずは中高生向けに作り、それを小学生向けに作り直せば、けっこう受けるのではないかなと何となく思っています。
 このヨハネのファンタジー小説では、ぶどう号という魂のタイムマシンが旧約聖書の時代や使徒の時代に行きます。このぶどう号のキャプテンが霊的なイエスさまで、ぶどう号の搭乗チケットは聖霊です。この搭乗チケットの聖霊を得るためには、イエスさまを信じる必要があります。
 このファンタジー小説の構想を、私は先週、若手の牧師の何人かに話したら、興味を示してくれました。ヨハネの福音書について、やや学術的に論じていた時よりも良い反応が返って来ました。ただ問題は、私が中高生向けのファンタジー小説と言っておきながら、話がやっぱり難しめになりがちだということです。これを何とか修正しながら中高生向けにして、その次には小学生向けのものも書けたら良いなと思っています。そのためには、まずは中高生向けのものがしっかりとできなければなりません。できれば、ひと月以内には完成させたいと思っています。

根強い人気の『ドラえもん』
 なんか自画自賛しているみたいで恐縮ですが、私はヨハネの福音書についての働きを、大人向けはあきらめて中高生向けや子供向けに目を転じたのは、良かったなと思っています。映画などでも子供向けは根強い人気があります。3月5日から今年の『ドラえもん』の映画が公開になっていますが、公開を始めてすぐの3月5日と6日の土日の二日間の興行成績がいきなりトップで、12日と13日の土日の興行成績も二週連続でトップになりました。そして5日から13日までの9日間で、早くも全国の映画館での動員数の合計が100万人を越えたとのことです。
 『ドラえもん』の映画と言えば、ドラえもんとのび太たちは大抵の場合タイムマシンに乗って別の時代に行き、冒険旅行をしますから、私もヨハネのタイムマシンの参考にしようと思って、おととい映画館に行って見て来ました。子供向けの映画ですが、けっこう面白かったです。平日ですからそんなにお客さんは入っていませんでしたが、小学校入学前の子供を連れた親子が何組か観に来ていました。これから春休みに入れば、もっと多くの子供たちが観に行くと思いますから、動員数は200万を越えて行くのかなと思います。ドラえもんの映画は、平均すると300万人ぐらいの動員数があり、多い時は400万人を越えました。今は少子化で一頃よりはお客さんの数も減っているみたいですが、それでも軽く200万人は越すのだろうと思いますから、すごいですね。200万人以上と言えば、日本の人口の2%近い数です。日本のクリスチャンの人口が1%未満と言われますから、その2倍の人数の人たちが、毎年『ドラえもん』の映画を観るわけです。
 この『ドラえもん』の良さは、いろいろ便利な道具も登場しますが、やっぱりタイムマシンでいろいろな時代に行くことに面白さがあると思います。ヨハネの福音書の良さも、人間イエスの言動を記したマタイ・マルコ・ルカとは異なって、霊的イエスが旧約の時代や使徒の時代に自由に行き来している点にあります。ですからタイムマシンのぶどう号がこれらの時代を自由に行き交う様子を上手く子供向けに表現できれば、けっこう子供たちに受けるんじゃないかなと期待しているところです。
 もちろん、従来通りの伝統的な聖書の教えもしっかりと説いて行く必要がありますが、新しい方法で聖書の魅力を伝え、子供たちに興味を持ってもらえると良いなと思っています。そして、その拠点としての沼津教会に、できることなら最新案の礼拝堂が与えられることを願っています。

おわりに
 感謝なことに、昨日、新たに二件の献金がありました。本当に主の御名を心から崇めました。神様が私たちの教会の働きに期待して、豊かに祝福して下さっているように感じますから、良い礼拝堂が与えられるよう、これからも熱心に祈って行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
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3月20日 棕櫚の聖日礼拝プログラム

2016-03-18 06:14:08 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月20日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

3月 第3聖日 棕櫚の聖日礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  うたいつつあゆまん     402
 交  読  マルコ11:1~11
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主から受ける安らぎは    440
 讃 美 ③  主イエスのみそばに     441
 聖  書  ルカ19:41~44
 説  教  『霊の世界の王を求めよ』 小島牧師
 讃 美 ④  川のような平安が      438
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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主との交わりの場を皆で造る(2016.3.13 礼拝)

2016-03-15 14:20:33 | 礼拝メッセージ
2016年3月13日礼拝メッセージ
『主との交わりの場を皆で造る』
【Ⅰヨハネ1:1~4】

はじめに
 年会で今年も沼津教会の牧師の任命を受けました。これからの1年もまた、主にあってどうぞよろしくお願いいたします。
 きょうは私から皆さんにお菓子の差し入れがあります。先週の月曜から木曜まで私は牧師研修会と年会に参加していて、その間の滞在費はすべて教団から出ていましたから、私が沼津にいれば掛かっていた筈の食費がまったく掛かりませんでした。お菓子はその私の食費を充てていますから、どうぞ遠慮なく受け取っていただけたらと思います。
 今回、このようなお菓子の差し入れをするのは、これからメッセージの中で話すこととも関係していますから、そのことにも注意を向けていただけたなら感謝に思います。

きょう話す三つのこと
 きょうのメッセージは三部構成になっていて、三つのことについて話します。そして、その三つのことを話し終わったら会堂祈祷会の時をメッセージの時間の中で持つことにします。
 まず、きょうお話しする三つのことについて予め短く説明しておきます。
 最初に私が交友を持っている映画ファンの人たちとの交わりのことと、その人たちと共にエキストラに参加した時に中に入った映画やテレビドラマの製作現場のことについて話します。
 そして次に、映画やドラマの製作現場と教会とはとても良く似ているという話をします。私たち教会の教会員は、作品を観客席で鑑賞する側の観客ではなく製作する側にいます。洗礼を受ける前であれば観客の側であっても良いですが、洗礼を受けたなら作品を製作する側にいなければなりません。その作品とはどんな作品かと言えば、先ほど読んだ第一ヨハネ1章3節にある、私たちと御父そして御子イエス・キリストとの交わりを表わすノンフィクション作品です。私たちが御父と御子との交わりを通してどんなに素晴らしい恵みを受けているかということをノンフィクション作品として表わし、近隣の方々に見ていただきます。ですから私たちは作品を製作するスタッフであると同時に出演するキャストでもあります。そして監督はイエスさまです。イエスさまもまた製作者であると同時に出演者でもあります。
 そして三番目に、この作品を近隣の方々に見ていただく劇場となるのが教会の建物だということです。私たちはこの劇場も造って運営しなければなりません。つまり私たちは作品を作る製作者であり、出演者でもあり、また劇場の興行主でもあります。教会の皆さんは劇場で作品を見る観客の側にいるのではなくて、作品を製作し、作品に出演し、劇場で作品を見せる興行する側にいます。そして私たちは今、劇場となる礼拝堂の設計に取り組んでいます。一昨日の金曜日に設計担当の兄弟が新たな設計案を持って来て下さいましたから、その説明を簡単にします。そして、この劇場を建てるための資金の現状について説明します。
 これらの説明の後で会堂祈祷会の時を持ちます。きょうはできるだけ多くの皆さんにお祈りいただきたいと願っています。私のほうから特に指名をしませんから、皆さんが自発的に一人一人次々に祈っていただけたなら、大変に感謝に思います。

私と映画『チルソクの夏』
 では前置きはこれぐらいにして、まず私の映画関係の皆さんとの交友のことから話を始めます。私が多くの映画ファンの皆さんと交友関係を持つきっかけになったのが、2003年に公開された『チルソクの夏』という映画でした。この映画は日本の下関と韓国の釜山の高校生の純愛物語です。この映画の上映会と監督の佐々部監督の講演会を私は前職の大学の日韓プログラム5周年記念事業として企画して実施しました。佐々部清監督は下関の出身で、良く知られた映画としては『半落ち』や『ツレがうつになりまして。』などの映画を撮った監督さんです。この佐々部監督の『チルソクの夏』という映画に私がどうして、これほどまでにほれ込んだかということについては少し説明が必要です。
 私が生まれ育った土地では韓国・朝鮮の人々に対する差別意識がありました。そういう地域が日本では少なくないと思いますが、私の出身地もそういう所でした。ですから、そのような環境で育つ中で私も自然と差別意識を持つようになりました。長くなるといけませんから途中を省きますが、私は1995年に大学の留学生センターの教員に採用されて留学生教育を行うようになりました。そして2000年から新しく始まった日韓プログラムの担当になりました。これは韓国の高校を卒業した韓国人を毎年100人以上、日本の国立大学の理工系の学部に留学生として迎え入れるプログラムです。約30の日本の大学がこのプログラムに参加して、各大学が数名ずつ受け入れました。
 この日韓プログラムの担当になった時、私は自分の中にまだ微かに韓国人への差別意識が残っていることを感じていました。それで、この感情を何とかする必要を感じました。それで当時の私はまだ一度も韓国に行ったことがなかったので、プライベートで行ってみようと思いました。ちょうどその頃、韓国バードウォッチング・ツアーという企画がありましたので私はそれに参加しました。当時の私はまだ教会に通っていませんでしたから、日曜日にはバードウォッチングの会にもよく参加していました。
 さて、この韓国バードウォッチング・ツアーは素晴らしいものでした。普通の観光ツアーとは異なり、韓国の田舎で鳥を見た後で田舎の料理店でおいしい食べ物をいただくという本当に楽しいツアーで、私はすっかり韓国が気に入り、それまで韓国人に対して差別意識を持っていたことを恥じ、差別意識は完全に無くなりました。そして韓国映画をたくさん観るようになり、韓国語の勉強も始めました。そんな経緯でやがて父が死んだ時には韓国人に教会に連れて行ってもらい、それでクリスチャンになれたのですから、本当に感謝に思っています。
 映画の『チルソクの夏』に戻ります。この映画では釜山で開かれた下関と釜山の高校生の親善陸上競技大会で知り合った高校生の男女二人が大会後に下関と釜山との間で文通を始めます。しかし、このことを知った下関の女子高生の親は怒り、「朝鮮人と付き合うことは許さんど」と言います。そして釜山の彼の親もまた日本人との文通は許さないと言います。そんな親たちに二人は反発しますが、結局文通は途切れてしまいます。しかし、次の年に今度は下関で開かれた陸上大会で二人は再会することができてお互いの思いを確認することができました。
 この映画を観て私は心を刺されました。私は親の世代の差別意識をそのまま受け入れて自分も差別する側になっていましたが、この映画の二人はそうではなくて親に反発しました。この純粋な二人に比べて、親の世代の差別意識をそのまま受け入れた私は、自分の罪深さを示されました。そうして、この映画にほれ込み、日韓プログラム5周年の年の2005年に上映会と監督さんの講演会を開くことにしました。そして私はこの5周年記念事業を成功させるためには何でもやろうと思って、映画のロケ地の下関を初めて訪れ、この映画のロケ地を巡り、そしてこの映画の応援をしている下関の皆さんとも知り合いになることができました。この時にお会いした一人が、きょう礼拝の後でお配りするお菓子の会社の社長さんです。この社長さんは佐々部監督の応援団の筆頭の方で、私が下関から戻った後で開催した大学での上映会ではこのお菓子を300個も差し入れして下さいました。また、この社長さんは佐々部監督が映画やテレビドラマを撮る時には、毎回必ず撮影現場に会社のお菓子を差し入れしています。佐々部監督の映画にこのお菓子は欠かせない存在です。そういう経緯があって、このお菓子のことが私も大好きですので、時々ネットで下関から取り寄せています。去年の春、地主さんとの話し合いの場でも、このお菓子をお出ししました。土地の値段の交渉では、最初は両者の希望の金額が大きく離れていましたから、少し難しい雰囲気になるところでしたが、このおいしいお菓子があったおかげで場が和みましたから、感謝でした。

教会と似ている映画の撮影現場
 映画の撮影現場の話に戻ると、私がBTCに在学中、毎年春には男女別で遠足のアウティングがありました。私が3年生だった2010年、男子のアウティングは当時撮影中だった佐々部監督の映画『日輪の遺産』の撮影現場の見学に行きました。この時、この撮影現場の情報も、このお菓子の社長さんから教えていただきました。そして撮影現場の差し入れには、このお菓子を持って行きました。私たちが見学に行った撮影現場は、マッカーサーの財宝を隠した洞窟です。資料の写真は、この洞窟の中の様子で、皆が覗き込んでいるのは録音用の機材だったと思います。背中を向けているのが、この映画のプロデューサーの一人で、『チルソクの夏』もそうでしたが、これまでにこのプロデューサーさんと佐々部監督とで多くの映画が製作されて来ました。
 映画の撮影現場に行くと、映画の製作には本当にたくさんの人々が関わっていることがわかります。この点で私は教会と映画の製作とはとても良く似ていると感じています。教会の建て上げには色々な役割の教会員が必要です。教会には牧師と教会員がいて、教会員には役員、奏楽者、CS教師、各集会の司会者、チラシ配布の担当者、庭の掃除、映像記録、防災担当、愛餐会の料理作りなど様々な役割を担って下さっている方々がおり、また献金で支えて教会を支えて下さっている方々がいます。
 映画の撮影現場にも俳優さんと監督さん、プロデューサーさんの他にも、美術監督さん、助監督さん、撮影のカメラさん、照明さん、音声さん、メイクさん、衣装さん、スクリプターさん、俳優のマネージャーさんなどがいます。そして助監督もカメラも照明も音声も美術もそれぞれ複数名いますから、映画の製作には本当に多くの人が関わっています。また地方ロケでは地元のフィルムコミッションやボランティアの方々がいて食事の差し入れなどをしています。さらに現場にはいない編集担当や音楽担当などの人々も作品作りには関わっています。こうして多くの人々の共同作業によって一つの作品が生み出されます。
 教会も私たち一人一人が異なる役割を持っていて、その私たちの共同作業によって教会が建て上げられます。パウロも私たちの一人一人がキリストのからだの各器官であると第一コリント12章に書いていますね。第一コリント12章の27節から31節までを交代で読みましょう。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。
12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 こうして私たちの一人一人が異なる役割を持って教会を建て上げて、地域の方々を会堂に招きます。そして、この会堂を訪れた方々に、御父と御子イエスと交わることの喜びをお伝えします。第一ヨハネ1章の1節から4節をもう一度、交代で読みましょう。ここでヨハネは手紙で私たちに語り掛けていますが、私たちは既にこの語り掛けに応答して聖霊を受け、御父と御子イエスとの霊的な交わりに入れていただいた者たちです。ですから、この手紙の文は、今度は私たちが沼津の方々に向かって語り掛けているのだと捉えたいと思います。1節から4節までを読みましょう。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 私たちは、この礼拝堂という劇場に多くの方々をお招きして、その方々に御父と御子イエスと交わることの喜びをお伝えしたいと思います。

礼拝堂の新たな設計案と資金の現状
 そして今、私たちは新たな礼拝堂の建設に取り組もうとしています。その新たな設計案ができてきましたから、短くその説明をさせていただきます。
(中略)
 奥行きが約90cm広がり、レイアウトが変更されたことで、前の設計案よりも格段に良くなったと思います。こんな礼拝堂を私たちの教会が持てたら、本当に素晴らしいなと思います。私は心の底から、この礼拝堂が欲しいと思います。さてしかし、今の私たちの力で、この礼拝堂をこの設計案の通りのフルスペックで建てることができるでしょうか。
 ここから先はまた、別添の資料を使って説明します。
(中略)
 消費税増税前の2017年3月完成を目指すなら、迷うことなく****万円の当初案の礼拝堂にすべきでしょう。もし消費税の2%アップを容認して、もう少し後の完成を目指すなら2%ですから1000万円当たり20万円の負担増になります。この負担増を容認して、****万円以上の礼拝堂を追求するとしても、2017年秋には完成させるべきでしょう。2017年を逃すとズルズル後退して礼拝堂は建たなくなります。それは設計で大変に苦労して下さっている兄弟のご労を無にすることでもあります。
 私の個人的な提案としては、私たちは製作者・出演者・興行主という立場からは、****円の当初案ではあまりに受身的だと思います。というのは、この当初案が出された去年の7月の段階では私たちはまだまだ受身的だったからです。私たちが積極的に礼拝堂の具体案について考え始めたのは昨年の年末にアンケートを実施して以降です。****万円の当初案では、受身であった去年の7月に戻ってしまうことになります。ですから皆で****万円以上を目指したいというのが私の提案ですが、それでも夏頃までには予算についての踏ん切りを付ける必要があるでしょう。

おわりに
 私たちは観客ではありません。地域の住民を御父と御子イエスとの交わりの場にできるだけ多く招きたいという熱意を私たちがどれだけ強く持つことができるかが、今後の鍵となると思います。しかし、無謀な計画を立てることは厳に慎まなければなりません。これから先の道を私たちが正しく力強く歩んで行くことができるよう、主の導きを祈りたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
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渡り終わるまで続く御守り(2016.3.6 礼拝)

2016-03-12 06:48:54 | 礼拝メッセージ
2016年3月6日礼拝メッセージ
『渡り終わるまで続く御守り』
【ヨシュア4:15~24】

はじめに
 礼拝メッセージでは先月まで、出エジプト記を開いて幕屋について学んで来ました。そして出エジプト記の学びは、先週までで終わりました。次の学びとしては、列王記と歴代誌からソロモンの神殿の学びをシリーズで行いたいと願っていますが、今月は年会や棕櫚の日聖日、イースターなどがありますから、ソロモンの神殿についての学びは来月からになるだろうと思っています。

2014年7月13日のメッセージ
 きょうはヨシュア記を開いています。ヨシュア記の学びについては、私たちの教会では、おととしの2014年の7月13日の礼拝でヨシュア記3章を開きました。この礼拝の後には会堂建設委員会が予定されていて、この委員会で会堂建設に向けての新たな一歩を踏み出す決議をすることにしていました。それは、今のこの建物の屋根を葺き替えて、ここを礼拝堂として使い続けるのではなく、この建物を建て替えるか或いは他の場所で新たな物件を購入して、そこを新たな会堂にするというものです。これから、このおととしの説教の始めのイントロダクションの部分を、そのまま引用して読ませていただきます。

(引用始め)
 きょうは、この礼拝後に会堂祈祷会を持ち、その後で会堂建設委員会を開催する予定です。きょう、私たちは新しい会堂の建設に向けて、新たな一歩を踏み出したいと願っています。
 昨年の4月7日、私がこの教会に着任して最初の礼拝のメッセージの冒頭で、私は次のように言いました。この着任礼拝でのメッセージの冒頭部分から引用します。
((ここから引用))
 私が初めて、この沼津教会に来たのは私が神学院の2年生だった2009年の夏でした。この時、私は静岡教会で夏期実習をしていましたから、静岡教会の皆さんとこちらの伝道会に参加したのでした。この時の伝道会の説教は静岡教会の高桑先生がされましたが、沼津教会の広瀬先生も挨拶をされて、その時に広瀬先生が、新会堂を何とかして建てたいのだと言っておられたことが、非常に印象に残りました。それゆえ私の中では沼津教会と言えば、「新会堂実現のために闘っている教会」ということになっています。
 ですから、今回、沼津教会への転任の任命を受けて私が思ったことは、広瀬先生の熱い思いを受け継いで、私の在任中に何としてでも新会堂を実現しなければならない、ということでした。
 ご承知のように私はまだ牧師になって1年が過ぎたばかりですから経験も浅いですし、単身ですから、私にできることは限られています。この沼津教会で、これまではできたのに、これからはできないことも少なからずあって皆さんにはいろいろとご迷惑をお掛けすることになると思います。しかし新会堂を必ず実現するのだという思いだけは、今までと変わることなく教会の皆さん全員と共有して歩んで行きたいと思っていますから、どうか主にあって、よろしくお願いいたします。
((着任礼拝の引用ここまで))

 そして着任礼拝のすぐ後には、静岡教区の牧師の会合の教区会もありました。この静岡教区会でも私は新たなメンバーでしたから、会合の初めに挨拶をして、同じようなことを言いました。私にとっては、とにかく沼津教会と言えば、「新会堂実現のために闘っている教会」というイメージがありましたから、私は何が何でも新会堂を実現しなければならないという覚悟を持って、この沼津教会に着任しました。ただし、いくら新会堂への強い思いがあっても、そう簡単に踏み出すことが出来ない状況にこの教会があることは、皆さんもご承知の通りです。ですから、私も、新しい一歩を踏み出すことを皆さんにお勧めすることが、なかなかできないでいました。
 しかし、私たちが新しい一歩を踏み出すことをためらっている間にも、主は着々と準備を整えていて下さっていたようです。そして今やもう、私たちが踏み出すばかりになっているようです。主が、いくら状況を整えて下さっていても、私たちが一歩を踏み出すのでなければ、何事も始まりません。いくら主が気前のいいお方であっても、私たちがじっとしていれば、すべてのことを主のほうで行なって下さるわけではありません。第一歩は私たちの側で踏み出し始める必要があります。きょうはそのことを、ヨシュア記を見ながら、ご一緒に学びたいと思います。
(引用終わり)

 引用はここまでとします。おととしはこの後、ヨシュア記3章の学びをしました。きょうも簡単にヨシュア3章を復習しておきましょう。

踏み出すと行われる主の不思議
 モーセをリーダーとしてエジプトを脱出したイスラエルの民は、ここまで荒野を40年間放浪していました。そしてモーセが死んでヨシュアが新たなリーダーになり、これからいよいよヨルダン川を渡って約束の地のカナンに入ろうとしていました。ヨシュア記3章1節、

3:1 ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。

 そしてヨシュアは民に言いました。少し飛んで5節、

3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、【主】が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」

 ヨシュアはイスラエルの民に、あした主が不思議を行われると言いました。それはどんな不思議でしょうか。14節から17節までを交代で読みましょう。

3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

 15節にあるように、神の箱をかつぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に浸った時に、川の水がせきとめられて、川の中を人が通れるようになりました。このように、人の側で一歩を踏み出して初めて神の不思議が為されるのだということを、私たちはおととし、このヨシュア記3章から学びました。
 今度はおととしの7月のメッセージの最後の方を引用します。

(引用始め)
 私たちの教会の会堂の問題も、人間的な考えに立つなら、全く不可能なことのように思えます。新しい会堂を建てると言っても、資金のことを考えるなら、それは水量が豊かなヨルダン川を歩いて渡るようなものです。それでも私たちが主の祝福を信じて、主を信頼して新たな一歩を踏み出すなら、主は不思議を行って下さいます。会堂に取り組んだ経験のある先生方の話を聞いても、会堂が建つ時には必ず主の不思議が行なわれると聞きます。
 この新たな一歩を踏み出す決断は、個人の信仰の決断と同じであると言えるでしょう。私たちの一人一人がイエス・キリストを信じる決断をした時、私たちの一人一人は、主が私に対して、こんなにも豊かな祝福を下さることの不思議を感じたと思います。イエス・キリストを信じる決断をしたことが無い者には、この主の不思議はわかりません。主の不思議、主の祝福とはそういうものです。信じる側の私たちが新しい一歩を踏み出す決断をした時に、主は素晴らしい祝福を与えて下さいます。そして今度は個人単位ではなく、教会単位での決断の時が来ました。
 沼津教会が設立された時、主は祝福を約束して下さいました。そしてその祝福の約束は、この今沢の会堂が与えられ、廣瀬いずみ先生を献身者として送り出すという形で実現されて来ています。主の祝福は尽きません。ですから、私たちは、主が不思議を行って下さることを信じて、新しい会堂の建設に向けて、新しい一歩を踏み出したいと思います。私たちの側で新しい一歩を踏み出し始めない限りは、主の不思議は行われません。ですから私たちは今、新しい一歩を踏み出しましょう。
(引用終わり)

 以上がおととしのメッセージの最後の部分の引用です。

本当に行われた主の不思議
 当時の会堂献金の状況は、毎月の会堂献金額が約**万円、そしてこの時点での会堂積立金額が約**万円(2014年の6月末)でした。普通に考えたら、とても会堂建設に向けて一歩を踏み出せるような状況ではありませんでしたが、屋根の腐食が進んでいたことで主が背中を押して下さっていることを感じましたから、私たちは、ここから一歩を踏み出し始めました。
 そして本当に主の不思議が為されて、私たちは隣の土地を購入することができました。しかし、いま私たちはまだヨルダン川を渡り切ったわけではありません。これから建物を建てなければなりません。そのためには借金をして返済して行かなければなりません。その借金の返済が全部済んで初めてヨルダン川を渡り切ったと言えます。でも恐れることはありません。主は私たちが川を渡り切るまで守って下さるからです。きょうヨシュア記の4章を開いたのは、そのことを学ぶためです。
 4章の15節から18節までを交代で読みましょう。

4:15 【主】がヨシュアに、
4:16 「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ」と仰せられたとき、
4:17 ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい」と命じた。
4:18 【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真ん中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。

 ここには、祭司たちの足が岸に上がった時に水が元に戻ったことが記されています。主は祭司たちが岸に上がるまで、ちゃんと待って下さっていました。
 少し飛んで23節と24節を交代で読みましょう。
 
4:23 あなたがたの神、【主】は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、【主】が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。
4:24 それは、地のすべての民が、【主】の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、【主】を恐れるためである。」

 主は私たちが川を渡り終わってしまうまで、私たちを守って下さいます。主の御手は強いですから、あらゆる困難から私たちを守って下さることでしょう。

渡り終わるまで続く主の御守り
 会堂建設においても、借金の返済が終わるまで守って下さることを私たちは信じます。しかし、いくら川の水が枯れていても、歩くのは私たち自身です。黙って立っていれば主が向こう岸まで連れて行って下さるわけではありません。私たちは水の枯れた川の中を歩いて行かなければなりません。それは、舗装された道路のような歩きやすい道ではありません。そこは歩くための道だったわけではなく、単に水が枯れただけの川の底ですから、道は決して平坦ではなく、障害物も数多くあります。そんな道を私たちは進んで行かなければなりません。
 きょうの礼拝後に持たれる会堂問題勉強会では、西村兄が今の私たちが通過している場所の状況を説明して下さいます。そして来週は私が会堂祈祷会の司会を担当しますから、祈祷会で皆さんと一緒にお祈りする前に、どのような返済計画が考えられるのか、その案をいくつか提示しようと思います。今の私たちの力では、そんなに多くは借りられません。すると、どの程度の礼拝堂なら建設が可能なのか、おおよその見当は付くと思います。トイレぐらいなら何とか付けられると思いますが、それ以上となると、なかなか厳しい状況です。いま私たちは厳しい中を歩んでいることを分かち合いたいと願っています。

おわりに
 しかし、私たちが歩む道がどんなにデコボコで険しくとも、主は私たちが川を渡り切るまで守っていて下さいますから、そのことを信じて私たちは前を向いて、恐れることなく進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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3月13日礼拝プログラム

2016-03-10 18:00:37 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月13日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

3月 第2聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  詩篇46篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  主を待ち望む者は(2回)   210
 讃 美 ③  目を上げて主のみ顔を    415
 聖  書  Ⅰヨハネ1:1~4
 説  教  『主との交わりの場を皆で造る』 小島牧師
 讃 美 ④  私を祝して         463
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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3月6日礼拝プログラム

2016-03-03 19:45:32 | 礼拝プログラム
霊的イエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

3月6日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

3月 第1聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉      253
 交  読  詩篇145篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  恵みにあふれる祈りのひと時 373
 讃 美 ③  約束の地に         460
 聖  書  ヨシュア4:15~24
 説  教  『渡り終わるまで続く御守り』 小島牧師
 讃 美 ④  主よ、終わりまで      459
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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かめの粉が尽きないために(2016.3.2 祈り会)

2016-03-02 19:30:42 | 祈り会メッセージ
2016年3月2日祈り会メッセージ
『かめの粉が尽きないために』
【Ⅰ列王17:8~16】

はじめに
 来週は年会がありますから、祈り会はお休みです。きょうは年会前の最後の祈り会です。今年の年会は3月の第2週にあります。ですから、だいたいいつも通りですね。何年か前から年会の最終日の合同礼拝が無くなり、年会はだいたい3月の第2週の平日に行われるようになりました。
 しかし、昨年の年会は教団創立70周年ということで昨年だけ合同礼拝が復活しました。そして会場の都合だと思いますが、合同礼拝は3月の終わりの29日にありました。29日ですから第5聖日です。このように、去年の年会は第4聖日を越えた週に行われました。この、昨年だけは違う日程で年会が行われたことが、隣の土地の取得と大きく関わることになりました。
 というのは、この町内の組の懇親会はだいたい3月の第3土曜日か日曜日に行われるからです。一昨年と去年は第3日曜日にありました。今年は第3土曜日の19日に行われることになっています。ですから、年会の後です。おととしも年会の後に組の懇親会がありました。

特別な年だった去年
 ところが、去年だけは違う順番になりました。去年の懇親会は第3日曜日の15日にあり、そこで私は組長さんにAさんと話をしたいと思っていたということを話しました。すると、すぐに組長さんからAさんに話が伝わってAさんが教会を訪ねて来ました。その時は玄関先での立場話だけでしたが、では19日の木曜日に改めて教会で話をしましょうということになり、B兄にも来ていただくことにしました。
 そして、その19日の話し合いの場で、Aさんからは土地の切り売りはできないけれど、全部なら売りたいという話がありました。その話を聞いて私は、教会の会堂積立金額は全部の土地を買うには少し足りないと思いましたが、値段を下げてもらえば買えないこともないなと思いました。ただし、土地を買ったら自己資金は尽きて、建物を建てる資金は無くなります。ですから、隣の土地の全部を買うのは、ちょっと無理かなと思いました。
 ただし、その時点で既に29日の礼拝用のDVDが既に届いていて、私は代表のビデオ説教を聞いていました。それが、きょうの聖書箇所からの説教でした。まず全部捧げてしまうなら、その後に尽きない神の恵みが注がれるという記事です。それで、隣の土地を全部買って自己資金を使い果たしても、その後で神が祝福して下さるのではないかとも思いました。ただ、そういう、やや無謀なことを教会の皆さんがどう思うかは、よくわかりませんでした。皆さんが反対するようだったら無理だろうと思っていました。それが19日の木曜日のことで、3日後の22日は第4聖日でしたから、会堂問題勉強会と幹事会とがありました。それで、皆さんにこのことを報告して、土地の購入で自己資金を使い果たして、後は信仰で会堂を建てるという道も有り得ることを話をしました。すると、その場では特に反対意見は出ずに、良いんじゃないですかという雰囲気でした。これは私にとってはやや意外でしたが、私は少なからず勇気を得て、教団の会堂委員会と代表に、こういう話があるというメールを出し、できれば年会中にアドバイスをいただきたいということも書きました。そして、その中の一人の先生からは年会中に、良いんじゃないですかと言っていただきました。また、彦根教会の先生からも新会堂の建設についていろいろと話を聞くことができて、励ましていただくこともできました。
 また、これは何度か話したことですが、そもそも年会のプログラム自体が牧師が霊的な活力を得た上で新たに任命を受けて教会に赴くというプログラムになっていますから、私は隣の土地の取得に向けてチャレンジしたいという意欲を持って沼津に戻って来ました。
 さて、今年の年会はまた、ここ数年の例年の通り、合同礼拝はありませんから3月の第2週の平日にあります。そしてDVD説教の配布もありません。ですから昨年は本当に特別な年でした。8組の懇親会が年会前にあり、懇親会と会堂問題勉強会の間の木曜日に早速Aさんと話し合いの時が持てて、そうして会堂問題勉強会と幹事会を経て年会に臨むことができました。このようにあまりに絶妙のタイミングで隣の土地を購入する話が始まったことは、とても偶然とは思えませんから、背後に主の働きがあったのだと思います。ですから私は、私たちの教会の会堂問題は必ず祝福されるであろうと信じています。
 とは言え、その途中の過程においては、不安な中を通らなければなりません。主が必ず祝福して下さると信じていても、主はすぐには結果を出して下さいませんから、その途中ではいろいろと不安になります。イギリスで孤児院を運営したジョージ・ミュラーの本を読んでも、何度もピンチの中を通っていました。

尽きないかめの粉
 さて、私たちの教会の会堂問題は、今現在どういう所を通っているでしょうか。土地の購入までは、大変に祝されたと思います。当初は二段階に分けての購入を考えていましたが、その必要がないほどに祝されました。しかし、自己資金のほとんどを土地の購入で使い果たしたことに変わりはありませんから、ここからが正念場です。
 みことばを見ましょう。列王記第一の17章です。エリヤはやもめの女に、残りわずかになったかめの粉とつぼの油を全部使ってパン菓子を作り、自分のところに持って来るように言いました。そうすれば、かめの粉は尽きず、つぼの油もなくならないと彼女に言いました。続いて15節と16節を、交代で読みましょう。

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 これから私たちは、購入した土地に建物を建てますが、自己資金はわずかしかありませんから、融資を受けなければ建物は建ちません。そして融資を受ける額は、返済できる額でなければなりません。さてしかし、問題は、今の月々の会堂献金の大半が既に現役を引退された会員の方々によって支えられているということです。現役の世代からの献金はそれほど多くはありません。ということは、返済の途中で、それらの方々が天の御国に凱旋して行くことを考慮しなければなりません。
 すると、現行の会員だけでは、いずれ行き詰まる時が来ます。現行の会員だけからの献金では、かめの粉は尽きてしまいます。ですから、かめの粉が尽きず、つぼの油がなくならない状態が維持されるためには、新たな資金源が必要です。主はきっと、その新たな資金源を与えて下さると信じますが、今のところ、その新たな資金源が何なのかはハッキリとは見えません。恐らく新しい教会員が与えられるであろうことは大いに期待して良いのだと思います。或いはまた、私は私自身のヨハネの福音書の働きが必ず祝福されると信じています。その祝福によって私自身も今よりももっと多く捧げることができるようになることでしょう。しかし、それらの祝福が、いつから始まるのかが、今の段階では見通せません。そのように先を見通せない中ではお金を借りるわけには、なかなか行かないでしょう。ですから、いま私たちはピンチの中にあると言えます。先ほども言いましたが、ピンチの中を通らずに祝されることは有り得ませんから、それはそれで良いのですが、何とか新たな資金源が見えるようにならないと、ゴーサインはなかなか出せないということになります。

おわりに
 今回、この祈り会のメッセージの原稿を作っていて、この問題は祈り会のメンバーだけでなく、礼拝のメンバーの間でも共有する必要があるだろうと思いました。次の聖日にするか、年会を越えた聖日にするのか、どの聖書箇所を開くか、まだ示されていませんが、礼拝でも分かち合いたいと思いますから、このためにも皆さんにお祈りいただけたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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