2016年3月30日祈り会メッセージ
『神の時間の中に身を置く平安』
【ヨハネ4:23、7:6、12:23】
はじめに
イースターを越えて、これからの7週間、50日間は復活の日とペンテコステの日の間の期間の中を歩んで行くことになります。ペンテコステの日に向けて、聖霊の働きについて、また学び直してみたいと思っています。これまでも聖霊の働きについては再三に亘って学んで来ていますが、改めてまた学び直してみたいと思っています。
聖霊の働きには色々ありますが、私がいま最も必要であると感じている聖霊の働きについての学びは、私たちが聖霊の働きによって「神の時間」の中に身を置く恵みをいただいていることについてです。この働きについて語られることは、ほとんどありません。それだけに、私はこの時間についての聖霊の働き、すなわち私たちが聖霊を受けるなら私たちが神の時間の中に身を置くことができるということ、このことを広く発信して行く必要性をいま私は強く感じているところです。
海のように広大な神の時間
さて、私がこの沼津教会に着任してからも、ちょうど3年になりました。私がこの沼津教会に来て最も感謝に感じていることは、海がすぐ近くにあるということです。3分歩けば海辺に出られます。こんなに近くに海がありますが、海岸にはちゃんと海抜17メートルの防潮堤がありますから、それも感謝なことです。
3分歩けば海岸に出られますから、週に3日か4日は海岸の防潮堤の上を走るようにしています。防潮堤の上には私以外にも走っている人や散歩している人、サイクリングをしている人など色々な人がいます。何もしないで、ただ海を見つめている人もよく見かけます。海を見ると狭まった心が広くなるように感じて平安が得られますから、私もまた、ただボーっと海を見ることは大好きです。
このように私が海辺で過ごすことができていることは、聖書の中の「神の時間」を考える上でも随分と役立っているだろうと思います。聖書の中の「神の時間」は海のように広大です。この広大な「神の時間」の中に私たちも身を置くことで心の平安が得られます。しかしクリスチャンであっても、多くの人は紀元30年頃のイエス・キリストにしか注目していないように感じます。それでは、せっかく広い海が目の前にありながら、海の中の一点だけを見つめているようなもので、心が広くなる気持ちを味わうことは、なかなかできないのではないかと思います。
特別な「時」と日常の「時」
では「神の時間」の中に身を置くとはどういうことなのか、きょうはヨハネの福音書を3ヶ所見て、そこから学びたいと思います。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時(ホーラ)が来ます。今がその時(ホーラ)です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時(カイロス)はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時(カイロス)はいつでも来ているのです。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時(ホーラ)が来ました。
この三つの箇所には、日本語ではいずれも同じ「時」という言葉が使われています。しかし、ギリシャ語では同じではありません。4:23と12:23の「時」には「ホーラ」というギリシャ語が使われています。そして7章6節の「時」には「カイロス」というギリシャ語が使われています。この「カイロス」は特別な時という意味合いが含まれます。イエスさまにとっての特別な時とは、やはり十字架でしょう。では、「あなたがたの時」という特別な時は、どのような時でしょうか。ヨハネの福音書では、イエスが神の子キリストであることを信じることを非常に重要視していますから、「あなたがたの時」というのは、イエスが神の子キリストであることを信じる時と言えるでしょう。この「カイロス」については、もう一つの「ホーラ」と比べればわかりやすいのではないかと思います。
次に、12章23節の「時」の「ホーラ」はどうでしょうか。このヨハネ12章が終わり、13章に入ると最後の晩餐の場面になり、そうしてイエスさまは十字架に向かって行きますから、「人の子が栄光を受けるその時」とは、やはり十字架の時だと思います。では、この12:23の十字架の時は、なぜ7:6の十字架の時のように「カイロス」が使われずに「ホーラ」というギリシャ語が使われているのでしょうか。
「ホーラ」は日常的な時であり、ヨハネの福音書ではその他に「時は第十時ごろであった」(1:39)、「時は第六時ごろであった」(4:6)などでも使われています。12:23の時がそのような一般的な時であるとしたら、人の子が栄光を受ける十字架の時は、一般的な時だということになります。それは何を意味するでしょうか。私は次のように考えます。
先ほど私は「神の時間」は海のように広大だと話しました。今度は「神の時間」を夜の星空に例えたいと思います。夜の星空には無数の星が光輝いています。その無数の星のうちの一つは、「私」がイエスを信じた時に光輝いた星です。私がイエスを信じた時、私には聖霊が注がれて、私はイエスが栄光を受けた十字架を見ることができるようになりました。そして、私のようにイエスを信じて聖霊を受けた人は、この二千年間には無数にいます。また旧約聖書の時代にも聖霊を受けた預言者たちがいました。そのように聖霊を受けた人は夜空の星のように無数にいます。
神にとってはすべてが「今」
4:23の「ホーラ」も同じです。霊とまことによって父を礼拝するにはイエスを信じて聖霊が注がれる必要があります。そのように聖霊を注がれた人は、いろいろな時代に無数にいます。この教会に集っている私たちも、イエスを信じた時は一人一人で皆、違います。しかし、神にとっては、これらの時はすべて「今」なんですね。これが「神の時間」です。神にとっては、あらゆる時間が「今」です。
この神の時間に身を置くことができるようになると、私たちは時間の縛りから解放されて心の平安を得ることができます。人間の時間の「今」に縛られていると心配事ばかりで不安になってしまいますが、すべての時間を見渡している神の「今」に身を置くなら、神様が必ず良い方向に導いて下さるという確信が持てますから、心は平安で満たされます。これが時間に関する聖霊の働きです。この時間に関する聖霊の働きの素晴らしさを是非、多くの方々と共有し、分かち合いたいと私は願っています。そして、その働きに沼津教会が用いられることを願っています。
おわりに
イースターを越えた私たちは今、ペンテコステの日に向かって歩み始めています。聖霊の恵みの素晴らしさを私たちが深く理解できるよう、お祈りしたいと思います。
『神の時間の中に身を置く平安』
【ヨハネ4:23、7:6、12:23】
はじめに
イースターを越えて、これからの7週間、50日間は復活の日とペンテコステの日の間の期間の中を歩んで行くことになります。ペンテコステの日に向けて、聖霊の働きについて、また学び直してみたいと思っています。これまでも聖霊の働きについては再三に亘って学んで来ていますが、改めてまた学び直してみたいと思っています。
聖霊の働きには色々ありますが、私がいま最も必要であると感じている聖霊の働きについての学びは、私たちが聖霊の働きによって「神の時間」の中に身を置く恵みをいただいていることについてです。この働きについて語られることは、ほとんどありません。それだけに、私はこの時間についての聖霊の働き、すなわち私たちが聖霊を受けるなら私たちが神の時間の中に身を置くことができるということ、このことを広く発信して行く必要性をいま私は強く感じているところです。
海のように広大な神の時間
さて、私がこの沼津教会に着任してからも、ちょうど3年になりました。私がこの沼津教会に来て最も感謝に感じていることは、海がすぐ近くにあるということです。3分歩けば海辺に出られます。こんなに近くに海がありますが、海岸にはちゃんと海抜17メートルの防潮堤がありますから、それも感謝なことです。
3分歩けば海岸に出られますから、週に3日か4日は海岸の防潮堤の上を走るようにしています。防潮堤の上には私以外にも走っている人や散歩している人、サイクリングをしている人など色々な人がいます。何もしないで、ただ海を見つめている人もよく見かけます。海を見ると狭まった心が広くなるように感じて平安が得られますから、私もまた、ただボーっと海を見ることは大好きです。
このように私が海辺で過ごすことができていることは、聖書の中の「神の時間」を考える上でも随分と役立っているだろうと思います。聖書の中の「神の時間」は海のように広大です。この広大な「神の時間」の中に私たちも身を置くことで心の平安が得られます。しかしクリスチャンであっても、多くの人は紀元30年頃のイエス・キリストにしか注目していないように感じます。それでは、せっかく広い海が目の前にありながら、海の中の一点だけを見つめているようなもので、心が広くなる気持ちを味わうことは、なかなかできないのではないかと思います。
特別な「時」と日常の「時」
では「神の時間」の中に身を置くとはどういうことなのか、きょうはヨハネの福音書を3ヶ所見て、そこから学びたいと思います。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時(ホーラ)が来ます。今がその時(ホーラ)です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時(カイロス)はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時(カイロス)はいつでも来ているのです。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時(ホーラ)が来ました。
この三つの箇所には、日本語ではいずれも同じ「時」という言葉が使われています。しかし、ギリシャ語では同じではありません。4:23と12:23の「時」には「ホーラ」というギリシャ語が使われています。そして7章6節の「時」には「カイロス」というギリシャ語が使われています。この「カイロス」は特別な時という意味合いが含まれます。イエスさまにとっての特別な時とは、やはり十字架でしょう。では、「あなたがたの時」という特別な時は、どのような時でしょうか。ヨハネの福音書では、イエスが神の子キリストであることを信じることを非常に重要視していますから、「あなたがたの時」というのは、イエスが神の子キリストであることを信じる時と言えるでしょう。この「カイロス」については、もう一つの「ホーラ」と比べればわかりやすいのではないかと思います。
次に、12章23節の「時」の「ホーラ」はどうでしょうか。このヨハネ12章が終わり、13章に入ると最後の晩餐の場面になり、そうしてイエスさまは十字架に向かって行きますから、「人の子が栄光を受けるその時」とは、やはり十字架の時だと思います。では、この12:23の十字架の時は、なぜ7:6の十字架の時のように「カイロス」が使われずに「ホーラ」というギリシャ語が使われているのでしょうか。
「ホーラ」は日常的な時であり、ヨハネの福音書ではその他に「時は第十時ごろであった」(1:39)、「時は第六時ごろであった」(4:6)などでも使われています。12:23の時がそのような一般的な時であるとしたら、人の子が栄光を受ける十字架の時は、一般的な時だということになります。それは何を意味するでしょうか。私は次のように考えます。
先ほど私は「神の時間」は海のように広大だと話しました。今度は「神の時間」を夜の星空に例えたいと思います。夜の星空には無数の星が光輝いています。その無数の星のうちの一つは、「私」がイエスを信じた時に光輝いた星です。私がイエスを信じた時、私には聖霊が注がれて、私はイエスが栄光を受けた十字架を見ることができるようになりました。そして、私のようにイエスを信じて聖霊を受けた人は、この二千年間には無数にいます。また旧約聖書の時代にも聖霊を受けた預言者たちがいました。そのように聖霊を受けた人は夜空の星のように無数にいます。
神にとってはすべてが「今」
4:23の「ホーラ」も同じです。霊とまことによって父を礼拝するにはイエスを信じて聖霊が注がれる必要があります。そのように聖霊を注がれた人は、いろいろな時代に無数にいます。この教会に集っている私たちも、イエスを信じた時は一人一人で皆、違います。しかし、神にとっては、これらの時はすべて「今」なんですね。これが「神の時間」です。神にとっては、あらゆる時間が「今」です。
この神の時間に身を置くことができるようになると、私たちは時間の縛りから解放されて心の平安を得ることができます。人間の時間の「今」に縛られていると心配事ばかりで不安になってしまいますが、すべての時間を見渡している神の「今」に身を置くなら、神様が必ず良い方向に導いて下さるという確信が持てますから、心は平安で満たされます。これが時間に関する聖霊の働きです。この時間に関する聖霊の働きの素晴らしさを是非、多くの方々と共有し、分かち合いたいと私は願っています。そして、その働きに沼津教会が用いられることを願っています。
おわりに
イースターを越えた私たちは今、ペンテコステの日に向かって歩み始めています。聖霊の恵みの素晴らしさを私たちが深く理解できるよう、お祈りしたいと思います。