インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

4月29日礼拝プログラム

2018-04-26 09:29:05 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月29日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年4月第5聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                関 姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  ガリラヤの風かおる丘で   183
 交  読  詩篇121篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  若葉のもえるナザレの里   106
 讃 美 ③  鹿のように(2回)      192
 聖  書  ルカ15:11~24
 説  教  『人は皆すべて父の家の家出人』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  神なく望みなく       367
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
コメント

神殿で始まり、神殿で終わる(2018.4.22 礼拝)

2018-04-23 12:15:11 | 礼拝メッセージ
2018年4月22日礼拝メッセージ
『神殿で始まり、神殿で終わる』
【ルカ1:5~10、24:44~53】

はじめに
 先週からルカの福音書の学びを始めました。ルカは福音書を書いた後で使徒の働きも書きました。私たちは使徒の働きを2年近くに亘って学んで来ましたから、学んだことを良く覚えている間に、使徒の働きの観点から福音書を眺める、ということをしてみたいと思います。ルカの福音書のどこを開くかは、その時その時で示された箇所を開くことにします。
 先週私はルカの福音書の始めから終わりまでを、また改めて読んでみました。私はいつも木曜日に次の聖日の礼拝プログラムを決めてブログにアップすることにしていますが、木曜の朝になっても、今日の礼拝メッセージの聖書箇所をどこにするか、なかなか決められないでいました。それで改めてルカの福音書を通して読んでみることにしました。
 そうして最初から最後までを読んでみて、きょうはルカの福音書の最初と最後を取り上げることにしました。ルカはこの福音書を神殿の場面から始めて、神殿の場面で終わるようにして書いていることを強く感じたからです。この構造からルカは何を表現しようとしたのかについて、きょうはご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。

神殿の場面で始まるルカの福音書
 まずルカの福音書の始めの方を見ましょう。ご承知の通り、ルカの福音書はテオピロ殿への言葉から始まります。新しい聖書ではテオピロ殿がテオフィロ様になっています。1章3節にありますね。

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。

 そうして、このテオフィロへの言葉の後の5節から福音書の本編が始まります。5節、

1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

 このザカリヤとエリサベツの夫妻は、皆さんご承知の通り、バプテスマのヨハネの両親です。ザカリヤはレビ族の家系の祭司でした。少し飛ばして8節と9節。

1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

 祭司のザカリヤはくじ引きによって神殿に入って香をたくことになりました。そして10節、

1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。

 このようにルカの福音書は、バプテスマのヨハネの父親のザカリヤが、神殿の中で香をたいた場面から始まります。

聖霊を送る予告
 次に、ルカの福音書の最後の場面を見ましょう。24章の44節から53節までです。ここには復活したイエスさまが弟子たちの前に現れて、これから起きることを弟子たちに話している場面が描かれています。44節、

24:44 そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

 イエスさまについて書いてあることとは、例えば週報p.3に載せたルカ4章18節と19節に書いてあるようなことです。ここでイエスさまはイザヤ書の巻き物を手渡されたので、イザヤ書61章を読みました。

4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

 この貧しい人に良い知らせを伝えるなどの働きはイエスさまの地上生涯においてだけでなく、イエスさまが天に昇った後も、聖霊を受けた弟子たちによって引き継がれて行きました。
 続いて45節から48節まで、

24:45 それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、
24:48 あなたがたは、これらのことの証人となります。

 弟子たちはイエス・キリストの証人でした。そのための力は聖霊によって与えられました。49節、

24:49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 「わたしの父が約束されたもの」というのが聖霊のことですね。イエスさまは弟子たちに聖霊を送ると予告しました。そうしてイエスさまは天に昇って行きました。50節と51節、

24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。

神殿の場面で終わるルカの福音書
 そして次の弟子たちの様子を描写する場面でルカの福音書は閉じられます。52節と53節、

24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 弟子たちはいつも宮にいて神をほめたたえていました。「宮」というのは神殿のことです。ですからルカの福音書はザカリヤが神殿に入って香を焚いた場面から始まり、弟子たちが神殿で神をほめたたえていた場面で終わっています。
 神殿で始まり、神殿で終わる、つまり神殿という箱の中にイエスさまの言動が収められているという形になっています。ルカの福音書の全体が神殿という箱の中に収められているのです。このような構造を、使徒の働きの観点から眺めてみるなら、何が見えて来るでしょうか。続いて、そのことに思いを巡らして行くことにしましょう。

足の不自由な人を癒したペテロの中のイエス
 いま見たルカ24章でイエスさまが弟子たちに聖霊を送るとおっしゃった場面は、使徒の働きの1章でもう一度繰り返されます。有名な使徒の働き1章8節でイエスさまは、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とおっしゃいました。
 そうして弟子たちが祈っていると、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降ったことが使徒の働きの2章に記されていますね。こうして弟子たちの内に聖霊が入りました。そして、使徒3章でペテロは足の不自由な人を癒しました。先週の礼拝メッセージでは、この使徒3章のペテロが足の不自由な人が人を癒した場面と、ルカの福音書5章のイエスさまが寝たきりの中風の人を癒した場面とが並び立つ並行関係にあることを指摘しました。そして、この並行関係の構造からは、足の不自由な人を癒したペテロの中にはイエスさまがいて、イエスさまご自身が足の不自由な人を癒した様子が見えて来ると話しました。聖霊を受けた弟子たちの内にはイエスさまがいました。そして使徒たちの働きとは、実は弟子たちの内にいるイエスさまの働きのことなのです。

聖霊を受けた者の体は神殿
 自分の内に聖霊がいるクリスチャンの体は、体自身が神殿です。これはパウロが書いていることです。聖霊を受けた者は、その者自身の体が神殿になっているのだとパウロはコリント人への手紙第一の中で書いています。週報のp.3に第一コリント3章16節を載せておきましたので、ご一緒に読みましょう。

Ⅰコリ 3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 もう一箇節、第一コリント6章19節でも、パウロは同様のことを書いています。ご一緒に読みましょう。

Ⅰコリ 6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

 このように、聖霊を受けた者の体は、神殿で、その一人一人の神殿の内に聖霊がおられ、それはすなわち、イエスさまが住んでおられるということです。
 このことを理解した上で、ルカの福音書の神殿で始まり、神殿で終わる構造を意識しながら、ルカの福音書の全体を是非読んでみていただきたいと思います。ルカの福音書は神殿という箱の中にイエスさまの言動が収められています。その神殿という箱は聖霊を受けた私たちの体です。そうして私の体の中にルカの福音書のイエスさまがいて、イエスさまが私の体の中から語り掛けて下さっていると感じることと思います。
 同じく週報のp.3に載せましたが、ルカ17章20節でイエスさまはパリサイ人たちに対して言いました。ルカ17章20節、

ルカ17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 イエスさまは聖霊を受けた私たちの中にいますから、そこは神の国でもあるのだということを、イエスさまは教えて下さっています。
 ルカはこのように、ルカの福音書と使徒の働きの二つの書を使って、聖霊を受けた者の中にはイエスさまがいることを、私たちに伝えてくれています。聖霊を受けた私たちが、イエスさまのことをとても身近に感じるのは、そのためです。そして、ルカが二つの書を使ってそれを示したのに対して、ヨハネは一つの書でそれを示しました。きょう、このルカの二つの書について学びましたから、いつも開いているヨハネの福音書4章のことが、一層よくわかっていただけるのではないかと思います。

ヨハネ4章のサマリア人の中のイエス
 最後に、いつも開いているヨハネ4章の39節から42節までを交代で読みましょう。

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 いつも話していますが、この箇所は使徒の働き8章のピリポによるサマリア伝道の箇所と重ねられています。サマリア人たちは聖霊を受けましたから、サマリア人たちの中にはイエスさまが住み始めました。使徒の働きの時代のサマリア人たちは地上生涯のイエスさまと実際に出会ったことはありませんでしたが、聖霊を受けたことでイエスさまがサマリア人たちの中で住み始めました。そうして神としてのイエスさまと本当に出会うことができました。

おわりに
 イエスさまを信じて聖霊を受けた私たちの中にもイエスさまがおられます。それゆえ福音書を読む時、私たちはイエスさまをとても身近に感じることができます。
 この素晴らしい恵みを、もっともっと多くの方々と分かち合うことができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月22日礼拝プログラム

2018-04-19 16:27:49 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月22日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年4月第4聖日礼拝 順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  恵みの高き嶺        414
 交  読  詩篇119:161~176
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  かいぬしわが主よ      303
 讃 美 ③  聖霊よ 主のそばに     171
 聖  書  ルカ1:5~10、24:44~53
 説  教  『神殿で始まり、神殿で終わる』 小島 聡 牧師
 讃 美 ④  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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今の世に必要な正しさの絶対基準

2018-04-19 10:14:22 | 祈り会メッセージ
2018年4月18日祈り会メッセージ
『今の世に必要な正しさの絶対基準』
【Ⅱサムエル12:7~14、詩篇51:1~13】

12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、【主】はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。
12:8 さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
12:9 どうして、あなたは【主】のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。
12:10 今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』
12:11 【主】はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
12:12 あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う。』」
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は【主】の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「【主】も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。
12:14 しかし、あなたはこのことによって、【主】の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」

素直に悔い改めたダビデ
 最近、私はダビデの後半生のことがとても気に掛かっています。ウリヤの妻のバテ・シェバとの間で過ちを犯して子を宿してしまい、それを隠すための様々な工作に失敗したダビデは忠臣のウリヤを戦場の最前線に送って謀殺してしまいました。そしてバテ・シェバを自分の妻にしてしまいました。このことに主は怒り、これ以降、ダビデの人生は暗転して坂道を転げ落ち、泥沼にはまったようになって行きます。
 サムエル記第二に記されているこのダビデの後半生を読むと、ダビデが随分と欠点の多い人間であったことがわかります。しかし、ダビデの良いところは自分の過ちに気づいた時には、素直に悔い改めることだと思います。13節で、ダビデはナタンに言いました。「私は主の前に罪ある者です」。
 人は誰でも過ちを犯します。罪深い私たちが過ちを犯すことは避けられないことだと言えるでしょう。ですから大切なことは過ちを犯したと気づいた時には素直にそれを認めて悔い改めることです。

正しさの絶対基準である神のことば
 今の日本の政治家と官僚のトップを見ていると、そのように悔い改める様子が見られません。過ちを指摘されると過ちは犯していないと強弁します。日本には正しさの絶対基準がありませんから、聖書が教える正しさからはどんどん離れて行ってしまっていると感じます。そうして本来の正しさから離れた場所が新しい正しさの基準になり、さらにそこからも離れて行き、今度は本来の正しさからもっとずっと離れた場所が新しい正しさの基準になります。そうして、どんどんどんどん正しい場所から離れて行きます。
 私たちクリスチャンには、神のことばという正しさの絶対基準があります。聖書には、その神のことばが書いてあります。たとえば有名なモーセの十戒の中の一つに、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」という戒めがあります。私たち聖書信仰を持つ者たちは「偽りの証言をしてはならない」という正しさの絶対基準を持っています。しかし、この正しさの絶対基準を持たない者たちは平気で偽りの証言をします。たぶん何か別の基準を持っているのでしょう。そうして、地位を守るためには偽りの証言をすることが正しいことなのだという正しさの新しい基準が作られていっているように感じます。これは本当に恐ろしいことです。正しさの絶対基準を持たないことの危うさを、今ほど感じることはありません。今の日本を見ていると、私たちはもっと聖書の教えを広く伝える努力を怠ってはならないと感じます。

罪とは何か
 さて、このサムエル記第二にはダビデの悔い改めについては簡単に書いてあるだけですが、詩篇の51篇を読むとそれがわかります(旧約聖書p.985)。この詩篇51篇の表題には、「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」とありますから、先ほどのサムエル記第二の記事の箇所でダビデが悔い改めた時のことが書かれていることがわかります。1節から13節までを交代で読みましょう。

51:1 神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。
51:3 まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するときあなたは正しくさばくときあなたは清くあられます。
51:5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。
51:6 確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
51:8 楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。
51:9 御顔を私の罪から隠し私の咎をすべてぬぐい去ってください。
51:10 神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
51:13 私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。

 一節一節を細かく見る時間はありませんから、大切なポイントだけを拾って話すことにしたいと思います。
 まず3節を読みます。

51:3 まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。

 罪とは何か、それは神に背くことです。神に背くとは、神のことばに背くということです。神のことばは正しさの絶対基準ですから、神のことばに背けば、罪になります。モーセの十戒で神様は「殺してはならない」、「姦淫してはならない」と仰せられました。ダビデはこの戒めを破ってバテ・シェバとの間で姦淫の罪を犯し、またバテ・シェバの夫のウリヤを謀略によって殺すという殺人の罪を犯しました。
 正しさの絶対基準が無いと、何が正しいのかは、その時々の時代の空気で変わってしまいます。しかし、聖書は何が正しいのかの絶対基準である神のことばを私たちに伝えてくれます。だからこそ聖書は21世紀の現代にまで廃れることなく受け継がれて来ました。私たちはこの聖書のことばを、絶対基準を持たない日本の人々に伝えて行かなければなりません。そうでなければ滅びの道へと進んで行ってしまいます。

神によってのみ、きよめられる罪
 もう一箇節、10節を読みます。

 51:10 神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

 罪に汚れた私たちは、どうしたらこの罪から離れて、きよい心を持つことができるでしょうか。それは私たちではできないことです。私たちの心は神様によってしか、きよめられることはできません。
 なぜ神様によってしか、きよめられないのでしょうか。それは、きょう再三に亘って話して来たように、神様が正しさの絶対基準だからです。その神様の霊である聖霊に、私たちの心の内に入っていただかなければ、私たちがきよめられることは、決してありません。もう一度、10節をお読みします。

51:10 神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

 ダビデは、きよい心は神の霊によってしか造られないことを知っていましたから、「神よ」と神様に呼び掛けました。そして11節、

51:11 私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。

 ダビデは聖なる御霊、すなわち聖霊を自分から取り去らないでくださいと神様に祈りました。ダビデは選ばれた器でしたから、聖霊が注がれていました。旧約の時代には、聖霊は誰にでも注がれるものではなく、選ばれた器だけにしか注がれませんでした。
 しかし、新約の時代の今は、聖霊は誰にでも注がれます。ただし、罪深い私たちに聖霊が注がれるためにはイエス・キリストの十字架がどうしても必要でした。十字架によって私たちの罪が贖われる必要がありました。そうしてイエス・キリストは十字架で死にました。しかし、死では終わらずに三日目にイエス・キリストは復活しました。
 これ以降、自らの罪を自覚し、悔い改め、そのためにイエス・キリストが十字架で死んで復活したことを信じた者には誰でも聖霊が注がれるようになりました。その聖霊によって私たちはきよめられます。そして、私たちの内に入った聖霊は、何が正しいことで何が正しくないことなのかを教えて下さいます。

おわりに
 いまい一度、今の日本の現状に戻るなら、今の日本には正しさの絶対基準がありませんから、どんどん本来の正しさから離れて行ってしまっています。戦後の73年で、今ほど本来の正しさを知ることが求められている時代はないのではないでしょうか。このことを覚えて、私たちは正しさの絶対基準である聖書の神のことばを、日本の人々にしっかりとお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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使徒の働きを学び終えてルカを読む(2018.4.15 礼拝)

2018-04-18 07:54:36 | 礼拝メッセージ
2018年4月15日礼拝メッセージ
『使徒の働きを学び終えてルカを読む』
【ルカ5:17~26】

5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
5:18 すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
5:19 しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。
5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
5:21 ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。「神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
5:22 イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
5:23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
5:24 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
5:25 すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
5:26 人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った。「私たちは今日、驚くべきことを見た。」

はじめに
 礼拝では先月の年会の前まで2年近く、使徒の働きをずっと学んで来ました。新しい年度に入って今度はどんな学びをしようか思いを巡らしていましたが、これからしばらくの間、ルカの福音書を開くことにしたいと思います。1章から2章、3章と順次学んで行くと、また2年ぐらい掛かってしまいますから、そういう連講方式ではなくて、その時その時で示された箇所を開くことにします。ですから行ったり来たりもすることと思います。
 ルカの福音書を学ぶことにしたのは、私たちが使徒の働きの学びを終えた直後だからという理由からです。使徒の働きで学んだことを覚えている間に、ルカの福音書を学びたいと思いました。使徒の働きの観点からルカの福音書を眺めるということをしてみたいと思います。ルカの福音書も使徒の働きもどちらもルカが書いたものです。まず福音書が書かれて、次に使徒の働きが書かれましたが、ルカは福音書を書いていた時点から既に使徒の働きを書く構想を持っていたことでしょう。福音書を書き終わった後で、使徒の働きを書くことを思い付いたわけではないでしょう。なぜならルカはパウロの伝道旅行に同行していたからです。使徒の働きの後半には「私たちは」という表現が何度も出て来ることを私たちは学びました。ルカはパウロの身近にいてパウロの言動の細かいことまでを良く知っていました。ですから、ルカが福音書でイエス・キリストについて書いていた時に、次はパウロについて書こうと思っていたと考えるのが自然です。
 これからのルカの福音書の学びでは、そのようにルカが使徒の働きを書く構想を持ちながら福音書を書いたという視点から読んでみたいと思います。

ペテロの中のイエスが見える使徒3章との並行関係
 第1回目のきょうは、ルカ5章の17節から26節までです。この箇所はマタイの福音書とマルコの福音書にも同じ記事がありますから、使徒の働きの視点でこの箇所を読むということは普段はしないと思いますが、きょうはそれをしてみたいと思います。
 先ず、ルカの福音書と使徒の働きとの並行関係から見ると、この寝たきりだった中風の人が起きて歩き始めた出来事の並行記事は使徒3章でペテロが足の不自由な人を癒した記事です。ルカ5章と見比べやすいように、この使徒3章は週報のp.3に載せておきました。

3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。

 使徒3章2節でこの人は「運ばれて来た」とありますから、ルカ5章で中風の人が運ばれて来たのと同じですね。そしてペテロは「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。これもルカ5章でイエスさまが「起きなさい」と言ったことと重なります。そして使徒3章9節と10節には「人々はみな・・・ものも言えないほど驚いた」とあります。これもルカ5章26節で、「人々はみな非常に驚き」とあるのと重なります。
 この二つの記事の重なりからは、使徒のペテロの中にはイエス・キリストがいることが見えて来ます。ペテロはペンテコステの日に聖霊を受けました。聖霊を受けた者の中にはイエス・キリストが住んでいます。そのペテロの中のイエス・キリストが足の不自由な人を癒して歩けるようにしました。

罪の奴隷からの解放
 もう一つ、この二つの並行記事から見えて来ることは、イエスさまによって救われた者は罪の縛りから解き放たれて自由になるということです。使徒3章8節(週報p.3)には、この人が「歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った」とあります。ここからは、この人がとても自由になったことがわかります。
 ここでヨハネの福音書8章の1節から4節までをご一緒に読みたいと思います。

8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

 イエスさまのことばにとどまる人はイエスさまの弟子になり、真理を知り、真理はその人を自由にします。そうでない者は「罪の奴隷」になっていて、不自由な状態にあります。中風の人や足の不自由な人は、罪に縛られて不自由になっている「罪の奴隷」を目に見える形にしたと読み取れるように感じます。
 そう考えると、ルカ5章20節でイエスさまが「友よ、あなたの罪は赦された」と言っていることも、とても分かりやすくなるように思います。
 罪の奴隷になっている者は、まるで歩けなくなっている者のように不自由です。心と肉体の違いはありますが、罪の奴隷になっている人の心はとても不自由です。

律法に縛られていたパリサイ人たち
 それはパリサイ人にも当てはまることです。このルカ5章の場にいたパリサイ人たちも律法に縛られた不自由な人たちであったと言えるでしょう。パリサイ人たちがいたことは17節に記されています。17節、

5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。

 このパリサイ人たちは後にイエスさまが安息日に病人を癒した時にイエスさまを批判しました。ルカ13章の10節から16節までを読みましょう。

13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。
13:12 イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。
13:13 そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。
13:14 すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。
13:16 この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

 イエスさまは、この会堂司を偽善者と呼びました。律法を守ることを優先すると、このような偽善者になってしまいます。もう一箇所ルカ14章の1節から5節までを読みましょう。

14:1 ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。そのとき人々はじっとイエスを見つめていた。
14:2 見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。
14:3 イエスは、律法の専門家たちやパリサイ人たちに対して、「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と言われた。
14:4 彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」

 少し前に京都府の舞鶴市で大相撲の巡業があった時に、市長が土俵の上で挨拶している時に倒れてしまい、救命の心臓マッサージをするために女性たちが土俵に上がりました。すると、その女性たちに対して「土俵から降りて下さい」というアナウンスがあったということが大きなニュースになりましたね。そのニュースで、ルカ14章5節のイエスさまの言葉を思い起こしたクリスチャンも多かったのではないでしょうか。「市長が倒れたのに、土俵だからといって、すぐに助けてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか」とイエスさまはおっしゃるでしょう。この件では相撲協会は批判の的になりました。しかし、気を付けないと、私たちクリスチャンもこのような律法主義的な者になってしまう恐れがあります。
 毎日聖書を読み、毎週欠かさず礼拝に出席していたとしても、もし神様と交わる喜びを感じていないとしたら、それはただ単にクリスチャンが守らなければならない規則として行っていることになってしまいます。神様と交わりを持つことは大きな喜びを伴います。使徒3章の足が不自由だった人は飛び跳ねたりしながら、神を賛美したとあります。私たちはいつも、そのような大きな喜びを持って、神様を賛美したいと思います。

おわりに
 ルカ5章の中風を患っていた人も、使徒3章の足が不自由だった人も、どちらもこの現場へは人々に運ばれて来ました。そうして罪の奴隷から解放されました。私たちもほとんどの者が他の人に連れられて教会に来たことと思います。中には長血の女のように自力でイエスさまの所に来た方もいらっしゃるかもしれませんが、ほとんどの人は誰かの導きによって教会に来たことでしょう。罪に縛られている者がイエスさまのみもとに行くことは難しいことです。そんな私たちを教会に導いてくれて、神様を賛美する大きな喜びを教えて下さった方々に心から感謝したいと思います。そして、私たちもその働きを担っていきたいと思います。
 教会が変われば、そのやり方も異なることもあるでしょうから、それは教えていただきながら、その働きも引き続き担って行きたいと思います。そうして、多くの方々と共に、神様を賛美する喜びを分かち合いたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月15日礼拝プログラム

2018-04-12 12:07:24 | 礼拝プログラム
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月15日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2018年4月第3聖日礼拝 順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  ガリラヤの風かおる丘で   183
 交  読  イザヤ40:1~8
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  いつくしみ深き       432
 讃 美 ③  日ごと主イエスを      393
 聖  書  ルカ5:17~26
 説  教  『使徒の働きを学び終えてルカを読む』小島 聡 牧師
 讃 美 ④  主とともに罪に死に     312
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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主の道を平らにする働き(2018.4.11 祈り会)

2018-04-12 09:39:50 | 祈り会メッセージ
2018年4月11日祈り会メッセージ
『主の道を平らにする働き』
【イザヤ40:1~5】

40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
40:2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」
40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
40:5 このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」

はじめに
 少し前にも祈り会で、このイザヤ書40章を開きました。その時には1節の「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」に注目しました。苦難に遭うと私たちは気落ちして前に進む気力が萎えてしまうことがあります。そのような時に主は私たちを慰め、励まして下さいます。
 この一年間の出来事の中で、私自身も気落ちしていた時期がありました。しかし、このイザヤ書40章1節の「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」のみことばに私は大きな慰めと励ましを受けて、再び前に進んで行く気力をいただくことができました。このイザヤ書40章から私が大きな慰めと励ましをいただいたのは初めての経験でしたから、そのことを話させていただきました。

主の道を平らにする働き
 さて、きょう注目したいのは3節と4節です。

40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。

 8日の合同礼拝の時まで私は、合流への道は、まだ先が見通せない中にあると思っていました。しかし、合流先の教会の皆さんが私たちを快く迎えて下さったことで、だいぶ見通しが良くなったと感じました。この何ヶ月かの間、合流先の教会の皆さんが曲がった道をまっすぐにして、山や谷のでこぼこを平らにすることをなさって下さっていたのだなと感じました。本当に感謝なことです。そうして8日の合同礼拝では5節にあるように、主の栄光が現されたと感じています。これから先、まだ多少の山や谷があるかもしれませんが、私たちの側でも、合流への道を平らにする努力をして行きたいと思います。
 以上で、きょうのメッセージで言いたいことは言い尽くしてしまいましたが、ここで終わったら短すぎますから、残りの時間では、今見たイザヤ書40章が新約聖書の福音書で引用されている箇所をご一緒に見ることにしたいと思います。

マタイとマルコの福音書のバプテスマのヨハネ
 皆さんがご承知の通り、このイザヤ書40章は福音書においてはバプテスマのヨハネが登場する箇所で引用されています。先ずマタイの福音書から見て行きましょう。マタイ3章の1節から6節までを交代で読みましょう。

3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 イザヤ書40章は今読んだ箇所の3節に引用されています。3節、

3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。

 「主の道を用意せよ」とは、イエス・キリストが来る道を用意せよということですね。この後で、イエスさまが宣教を始めました。バプテスマのヨハネはその道を備える大切な役目を負っていました。このことは四つの福音書のすべてに書かれています。次にマルコの福音書を見ましょう。マルコは冒頭でイザヤ書を引用しています。マルコ1章の1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 マルコが冒頭でイザヤ書を引用してバプテスマのヨハネを登場させていることは、バプテスマのヨハネの役割がいかに重要であったかを良く示していると思います。

ルカの福音書のバプテスマのヨハネ
 そしてルカの福音書では、皆さんご存知のようにルカはこのバプテスマのヨハネが誕生した経緯から物語を始めています。ルカ1章を開いて下さい。1節から4節まではテオフィロへのことばですので、5節と6節を交代で読みます。

1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。

 このザカリヤとエリサベツがバプテスマのヨハネの両親です。ルカがバプテスマのヨハネの両親の話から福音書を書き始めていることは、やはりバプテスマのヨハネの役割が重要であったことを良く物語っていると思います。そして、ルカは3章でイザヤ書40章を引用しています。ルカ3章の3節から6節までを交代で読みます。

3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 ルカは6節で、「すべての者が神の救いを見る」と書いています。これはルカの福音書の非常に重要なメッセージです。病人でも貧しい者でも罪人でも異邦人でも、すべての者が神の救いを見るというのがルカの福音書の重要なメッセージです。

ヨハネの福音書のバプテスマのヨハネ
 最後にヨハネの福音書を見ましょう。ヨハネ1章の19節から23節までを交代で読みましょう。

1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、
1:20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。
1:21 彼らはヨハネに尋ねた。「それでは、何者なのですか。あなたはエリヤですか。」ヨハネは「違います」と言った。「では、あの預言者ですか。」ヨハネは「違います」と答えた。
1:22 それで、彼らはヨハネに言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
1:23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

 23節でイザヤ書が引用されていますね。そうしてバプテスマのヨハネは二人の弟子をイエスさまのもとに連れて行って引き合わせました。35節から37節を交代で読みましょう。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 このようにバプテスマのヨハネは、まだイエスさまのことを知らなかった二人の弟子がイエスさまと出会うことができるようにしました。

おわりに
 私たちもまた、そのような者でありたいと思います。私たちの周囲には、まだイエスさまを知らない方々がたくさんいます。そのような方々がイエスさまと出会えるようにして差し上げたいと思います。
 しかし周囲の方々をどのようにイエスさまの所にお連れするかは、様々な方法があり、教会によっても方法は異なります。その点についてはシオン教会の先生方、教会員の皆さんに教えていただきながら、進んで行きたいと思います。そこは十分に気を付けながら、この道を歩んで行きましょう。
 お祈りいたしましょう。

40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
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主イエスに向かって信仰の手を伸ばす(2018.4.4 祈り会)

2018-04-07 10:45:00 | 祈り会メッセージ
2018年4月4日祈り会メッセージ
『主イエスに向かって信仰の手を伸ばす』
【マルコ5:25~34】

5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

はじめに
 きょう開くことにしたのは、皆さんが良くご存知の「長血の女」の記事です。
 昨日、不動産屋さんに来ていただき、教会の土地を売りに出すとしたら、どれぐらいの金額で売りに出すのが適当なのかの査定結果の説明を受けました。いろいろな評価項目があって、それらの一つ一つにプラスの評価やマイナスの評価(またはプラスマイナスゼロ)の評点が付けられ、それらの評点の積算地を近隣で最近売れた土地の評点と比較して、査定価格が算出されていました。
 それらの一つ一つは納得できるものでした。私たちは現実の人間社会の中を生きていますから、この評価を受け留めて、これから諸々の手続きを進めて行きたいと思います。
 しかし、やはり私たちは信仰者としての歩みを最も大切にしている者たちですから、現実の人間社会の中を歩みながらも、やはり信仰を優先順位の一番にして進んで行きたいと思います。不動産屋さんの評価は至極まっとうなものだと思いますが、それは人間社会の中における評価です。このことも尊重しつつも、私たちは信仰第一で歩んで行きたいと思います。それで、昨日から今朝に掛けて今日の祈り会では聖書のどこを開くべきか思いを巡らしていた時に示されたのが、きょうの箇所です。

長血の女と教会
 強引に結び付けているように感じる方もおられるかもしれませんが、私には今のこの会堂が建っている、引っ込んだ土地が、長血の女と重なって来ました。長血の女は、十二年前までは、比較的健康な女性だったのだろうと思います。しかし病気になってからは色々と不幸が重なって、どんどん悪くなるばかりでした。
 私たちの教会も、35年前に、この今沢の地に移って来たばかりの頃は、まだこの会堂も新しくて、建物の健康状態も良好でした。しかし、次第に屋根の状態が悪くなりました。また、南側に大きなアパートがあって日当たりもあまり良くなく、目立たないために、ここに教会があることをなかなか知ってもらえないという問題もありました。それゆえ新しい会堂を取得して別の土地に移ることも祈られるようになりました。その中にあって2011年に東日本大震災で津波の被害の恐ろしさを国民全体が知って後は、海岸地域の土地の人気が急激に低くなりました。ですから仮に他の土地に教会が移ったとしても、この土地が売れずに残って重荷になってしまう可能性がかなり高くなりました。では、この土地で新しく会堂を建て替えれば良いかというと、それも採用しがたいものでした。なぜなら、南隣のアパートの陰に隠れた引っ込んだ土地ではぜんぜん目立たないので、教会の将来に明るい展望を見出すことができなかったからです。
 そんな時、私がこちらに着任してから一年半ほどが経った時ですが、ふと新しいアイデアを示されました。それは、南隣の土地を通路分ぐらいの細さに切り売りしてもらって県道に看板を掲げ、それと共に可愛いゲートを作って設置するというものでした。南隣の土地の全体を購入するのは資金的に無理であると思いましたが、通路分を切り売りしてもらえるなら購入できるだろうと思いました。そうして県道に大きくて目立つ看板と可愛いゲートを設置して、今のこの会堂を新しく建て直すなら、教会の将来に明るい展望を見出すことができるだろうと思いました。
 聖書に戻ります。長血の女は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と信じて、イエスさまの後ろから必死に手を伸ばしました。大勢の人々がイエスさまを囲んでいましたから、手を伸ばしてもなかなかイエスさまに届かなかったことでしょう。それでも懸命に手を伸ばして、ようやくイエスさまの衣に触れることができました。その途端に長血の女の病気は癒されました。まさか、衣に触れただけで、そんなにすぐに癒されるとは長血の女も思っていなかったでしょう。衣に触れることができればイエスさまが振り返って下さり、そうしてイエスさまが手を置いて下さり、癒されることを期待していたことでしょう。ところがイエスさまの衣に触れただけで病気が癒されてしまったのですから、これには長血の女自身もビックリしたことでしょう。
 私たちの場合も、隣の土地の内のせめて細い通路分でも買えればと、県道に向かって私たちは信仰の手を伸ばしました。すると、隣の土地の全部が与えられたのですから、これには私たちもビックリ仰天しました。隣の土地の全体を買う資金など到底無いと思っていたのに不思議に必要が満たされて、自己資金だけで土地を購入することができ、しかもなお建物の建設費の約半分の資金も残りました。これには本当にビックリしました。神様は私たちが信仰を持って手を伸ばす時、私たちが期待した以上のものを与えて下さることを、現実のこととして知ることができました。何もしないでいると、神様はなかなか結果を与えて下さいませんが、私たちが行動を起こすとき、期待した以上のものを与えて下さいます。

聖霊を受ける恵みの素晴らしさ
 さて、土地を購入してから二年が経ちました。この二年の間には様々なことがありましたが、今回、不動産屋さんに土地の売出価格の査定を依頼するという新たな行動を起こしました。その査定結果は、先ほどお伝えした通りです。不動産屋さんにはキッチリとした評価を行っていただき感謝しています。しかし、これは人間社会の中での評価です。神様はきっと期待以上の結果を与えて下さるという信仰を、私たちは持っていたいと思います。
 この先、実際にどうなるかは、まさに「神のみぞ知る」の世界ですから、私たちにはわかりません。そんな中でもイエスさまに信頼を置いて神様と共に歩み続けるという信仰が何よりも大切だと思います。世の中はいろいろなことが複雑に絡み合っていますから、そんなにいつも私たちの期待通りの結果が得られるわけではありません。そんな時、イエスさまから離れやすくなってしまいがちです。しかし、それではサタンの思うつぼです。何があってもイエスさまと共に歩み続けたいと思います。
 長血の女の時代は、まだ誰にでも聖霊が注がれる時代ではありませんでした。ですから、長血の女は実際にイエスさまがおられる現場まで出掛けて行って、懸命に手を伸ばす必要がありました。しかし、イエス・キリストを信じる者には誰にでも聖霊が注がれるようになってからは、私たちはどこにいても、信仰の手を伸ばしさえすれば、救いの恵みに与ることができます。
 今週の日曜日はイースターでした。それから50日目がペンテコステの聖日になります。このペンテコステの日以降、私たちが聖霊の恵みに与ることができるようになりましたから、これは本当に素晴らしい恵みです。クリスマスとイースターそしてペンテコステの聖日の三つを比べるなら、私は個人的にはペンテコステが最も重要であると感じています。もちろん、どれも重要ですから比較するのは間違いかもしれませんが、ペンテコステの日の重要性は何回でも繰り返して言いたいと思います。

おわりに
 イエス・キリストのご降誕、そして十字架と復活の恵みを覚えつつ、これからペンテコステの聖日へと向かって行きます。私たちがますます整えられて、イエスさまと共に歩む者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
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6:22-66(ヨハネの福音書注解)最後の晩餐と北王国の滅亡

2018-04-07 09:10:01 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:22-66 最後の晩餐と北王国の滅亡

22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
 34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
 41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。42 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。46 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。48 わたしはいのちのパンです。49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
 52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」
 66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。


 イエスによる「いのちのパン」の話が長く続くこの箇所は、「使徒の時代」のパウロ編がまだ続いている。ここにはパウロがまだイエスに会っていない時代の「最後の晩餐」のことが重ねられていて、イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」を何度も繰り返す。
 このイエスのことばを「ひどい話だ」(60節)と言って、「弟子たちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」(66節)。記者ヨハネは、この弟子たちがイエスから離れ去ったことを、「旧約の時代」に北王国が滅亡してイスラエルの民がアッシリアに捕囚として引かれて行ったことと重ねている。列王記第二には次のように書かれている。

主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。(Ⅱ列王17:23)

  南王国が滅亡する時にバビロンに捕囚として引かれて行ったエルサレムの民は約70年後に帰還して神殿と城壁を再建した。しかし、アッシリアに引かれて行った北王国の民は戻ることがなかったので「失われた十部族」などと呼ばれている。それゆえ列王記の記者は「今日もそのままである」と書き、ヨハネの福音書の記者も「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」(ヨハネ6:66)と書いたのである。
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6:16-21(ヨハネの福音書注解)湖の上を歩いたイエス

2018-04-07 09:00:23 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:16-21 湖の上を歩いたイエス

16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。

 イエスが湖の上を歩いた記事はマタイ14:22-32とマルコ6:45-51にも並行記事がある。ここは依然として「使徒の時代」のパウロ編で、パウロがイエスに出会う前の「人間イエスの時代」のことが描かれていると考えられる。
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6:5-15(ヨハネの福音書注解)エリシャとパウロの時代にも同時にいる永遠の中のイエス

2018-04-07 08:30:18 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:5-15 エリシャとパウロの時代にも同時にいる永遠の中のイエス

5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。


 有名な「五千人の給食」の場面だが、永遠の中のイエスは「使徒の時代」のパウロ編と「旧約の時代」のエリシャの時代にも同時にいる。
 6節でイエスが「ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた」のは、イエスがパウロの時代にもいるからだ。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」とイエスが言ったのは、ヨハネの福音書独特のユーモアだ。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」(ヨハネ2:4)など、ヨハネの福音書には随所にユーモアが見られる。7節でピリポが「二百デナリ」に言及したのは、記者のヨハネがマルコ6:37の記述を知っていたからであると考えて良いであろう。
 このヨハネの福音書の「五千人の給食」の記事においては共観福音書では使われていない「大麦のパン」という表現が用いられている。これは、「旧約の時代」の預言者エリシャの次の記事と重ねているからだ。

42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。【主】のことばのとおりであった。(Ⅱ列王4:42-44)

 Ⅱ列王4:42の「神の人」とはエリシャのことだ。ここでは二十個の「大麦のパン」と新穀一袋で百人の空腹が満たされた。預言者のエリシャには聖霊が注がれていたので、エリシャの中には「霊のイエス」がいたのだ。そしてイエスが「再びただ一人で山に退かれた」記述によって、エリシャの時代が終わったことが告げられている。
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6:1-4(ヨハネの福音書注解)再び北方に移動したイエス

2018-04-06 11:20:53 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ6:1-4 再び北方に移動したイエス

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。


 5章では南方のユダヤ地方にいたイエスは、6章で再び北方に移動した。この移動は「旧約の時代」で北王国に舞台が移ったことを示す。
 また4節では「過越」の祭りに言及しているが、この背後には「使徒の時代」のパウロ編で、パウロがまだイエスと出会う前の「最後の晩餐」の場面がある。この6章の後半でイエスは「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6:51)と言い、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:54)と言った。これは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの福音書)の最後の晩餐の場面と重ねられているのだ。
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5:40-47(ヨハネの福音書注解)イエスについて書いたモーセ

2018-04-05 11:16:23 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ5:40-47 イエスについて書いたモーセ

40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。41 わたしは人からの栄誉は受けません。42 しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。44 互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えると思ってはなりません。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが望みを置いているモーセです。46 もしも、あなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことなのですから。47 しかし、モーセが書いたものをあなたがたが信じていないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」
(5章40節より『新改訳2017』に移行しました)

 モーセは「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を書いたとされ、創世記1章には神が天と地とを創造したことが書かれている。そしてヨハネの福音書1章にも「すべてのものは、この方によって造られた」(1:3)とあり、御子イエスが天地創造の初めから神と共にいて万物を創造したことが記されている。イエスが「モーセが書いたのはわたしのことなのです」と46節で言ったことは、この万物の創造を含めたすべての神の働きは、神と共にいたイエスの働きでもあったことを示している。
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私たちは復活したイエスに出会った証人(2018.4.1 礼拝)

2018-04-03 11:20:23 | 礼拝メッセージ
2018年4月1日イースター・聖餐式礼拝メッセージ
『私たちは復活したイエスに出会った証人』 
【ヨハネ1:35~40、21:24~25】

はじめに
 イースターおめでとうございます。
 イエス・キリストのよみがえりを皆さんと共に心一杯喜びたいと思います。
 聖書交読で開いた使徒の働きの1章3節にあるように、イエス・キリストは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られました。
 そして天に昇る前に8節で、こう言われました。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 聖霊を授かった者は力を受けて、イエス・キリストの証人になります。この時のイエスさまは、まだ復活したばかりでしたから、弟子たちは人間のイエスさまのことをよく知っていました。ですから、ペテロやヨハネなどの弟子たちは彼らが知っている人間のイエスさまについて証言をしました。そしてまた、復活したイエスさまのことも証言をしました。これらの証言が新約聖書の福音書には書かれています。

パウロの証言
 或いはまた、パウロのように人間のイエスさまには会ったことが無かった者たちも「復活したイエス・キリスト」との出会いの証人となって、証言をしました。使徒の働き9章にはパウロがダマスコへ行く途中で復活したイエスさまと出会ったことが書かれています。そして、パウロ自身もまたこのことを証言したことが使徒の働きの22章と26章に書かれています。
 22章の6節から11節までを交代で読みましょう。

22:6 私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました。
22:7 私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか。』
22:8 私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』
22:9 一緒にいた人たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした。
22:10 私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことが、そこであなたに告げられる』と。
22:11 私はその光の輝きのために目が見えなくなっていたので、一緒にいた人たちに手を引いてもらって、ダマスコに入りました。

 ここでは使徒の働き9章に書かれていることとほぼ同じことがパウロ自身の口によって語られています。そして26章も交代で読みましょう。少し長いですが26章の9節から18節までを交代で読みましょう。ここもパウロ自身の口による証言です。

26:9 実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。
26:11 そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。
26:12 このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、
26:13 その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』
26:15 私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

 このように使徒の働きには9章も含めて3回も、パウロが復活したイエスさまに出会ったことの証言が記されています。そして、16節にはイエスさまご自身がパウロにこう言ったことが書かれています。「わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」。イエスさまはパウロを「証人」に任命したのでした。
 これは、イエス・キリストの証人となることを使徒の働きがいかに重要視しているかということを良く表していると思います。そして使徒の働きは、私たち読者もまたイエス・キリストの証人になるようにと励ましていると読み取るべきでしょう。

気付きにくいイエスとの出会い
 私の場合のイエス・キリストとの出会いは、既に何度か話したことがありますが、この使徒の働きに記されている「パウロがイエスさまと出会った記事」を単純に信じたことから始まったのだろうと思っています。
 人間のイエスさまのことであれ、復活したイエスさまのことであれ、「イエスは神の子キリストである」と信じた者は聖霊を受けます。そうして聖霊を受けた者は復活したイエスさまと霊的に出会うことができます。私の場合はパウロが復活したイエスさまの記事を単純に信じたことが「イエスは神の子キリスト」であると信じたことになり、それゆえ聖霊を受けて復活したイエスさまと出会うことができたのだと考えています。ただし、これは後になって分かったことです。イエスさまと会った時にすぐにイエスさまと気付く人は少ないのだろうと思います。靴屋のマルチンなども、イエスさまと会った時には気付いていませんでしたね。
 福音書にも弟子たちが復活したイエスさまと出会った時、すぐにそれと分からなかったことが書かれていますね。エマオという村に向かっていた二人の弟子たちもそうでしたね。週報p.3に載せておきましたから、このルカの福音書24章の13節から16節までを交代で読みましょう。

24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 このように、復活したイエスさまをすぐにイエスさまと認識するのは難しいことです。ヨハネ21章にも、そのような場面があります。21章の1節から4節までを交代で読みましょう。

21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。

 4節にあるように、イエスさまがそこにいたのに、弟子たちはその方がイエスさまであることがわかりませんでした。そして最初に気づいたのはイエスさまに愛されていた「愛弟子」でした。7節、

21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。

 新改訳の第3版では「主だ」が「主です」になっていましたが、いずれにしても、ここでは愛弟子がペテロに、そこにいる人物が復活したイエスさまであることを教えました。この愛弟子は、イエスさまがいることを他の人に気づかせる役割も担っていることが分かります。イエスさまの証人になるとは、このように他の人に復活したイエスさまのことを教えてあげることだとも言えるでしょう。

はじめからいた愛弟子
 この愛弟子がヨハネの福音書にはっきりとした形で登場するのは13章からです。12章までは、この愛弟子のことが書かれていないのに、13章の最後の晩餐から突然のように現れます。
 13章をご一緒に見ましょう。この13章から最後の晩餐が始まります。1節をお読みします。

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

 そしてイエスさまは最後の晩餐の場で、弟子たちの足を洗いました。4節と5節、

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 この最後の晩餐の席で愛弟子は、イエスさまの胸のところで横になっていました。23節、

13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 このように、愛弟子は13章に突然のように登場します。しかし、この愛弟子は実は目立たない形でさりげなく、最初のほうから、このヨハネの福音書に登場しています。
 私はは1章35節に登場するヨハネの二人の弟子のうちの一人が、この愛弟子であろうと私は考えています。1章35節から40節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
1:36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
1:37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
1:40 ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 二人の弟子はヨハネに導かれてイエスさまに出会い、そうしてイエスさまが「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」と語り掛けた言葉に応答してイエスさまに付き従って行きました。その二人の弟子のうちの一人はアンデレであったと40節にありますが、もう一人の弟子の名前は明かされていません。この名前がわからない、もう一人の弟子こそが愛弟子だと考えるべきでしょう。この弟子は最初のうちはただの一人の弟子に過ぎませんが、イエスさまと一緒に12章まで旅を続けるうちに段々と成長し、13章に入る頃には愛弟子に成長していたというわけです。
 そうして、この愛弟子は十字架のすぐそばにいて十字架のイエスさまに向き合い、罪について深く理解するに至り、そうして先ほど見たように、復活したイエスさまが現れた時にはペテロに「主だ」と言って教えてあげました。

私たちもイエスの証人の愛弟子
 そして、この愛弟子はこの福音書の最後にも登場します。21章の24節と25節を交代で読みましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 このように、愛弟子はイエスさまとの出会いの証言をした証人です。そして、この愛弟子とは私たちのことでもあります。私たちもまた、復活したイエスさまとの出会いの証人となることが期待されています。この復活したイエスさまの証人になるためには、私たちは霊的に整えられていく必要があります。霊的に整えられていなければイエスさまがすぐそばにいて下さることに気付くことはできません。
 しかし、霊的に整えられるなら、イエスさまがヨハネの二人の弟子に「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃったことが、まるで自分に向かって声を掛けられたように感じることでしょう。このイエスさまの招きに応答して付き従って行くなら、やがて愛弟子として最後の晩餐のテーブルでイエスさまと聖餐を共にします。
 これから聖餐式を行います。私たちはここでイエスさまの愛弟子としてイエスさまと共に最後の晩餐の食事をします。イエスさまは私たちのことを愛して下さっていますから、遠慮なく愛弟子になりきりたいと思います。私たちが霊的に整えられるなら、この場が本当に福音書に記されている最後の晩餐の場となります。
 一言お祈りして、聖餐式へと移ります。

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
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