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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

ヨハネのバトンリレー

2023-05-25 08:57:13 | 平和への道
 2023年5月18~20日、G7や招待国の首脳たちが広島の平和公園を訪れ、また原爆資料館に入場して展示物を見て回るという画期的なことがありました。これを機に、ぜひ世界が平和な方向に向かって行って欲しいと心の底から願います。

 そして私もまた、これを機にヨハネの福音書を通じての平和の働きを、これまでとは違う新たな切り口で語ってみようと思います。それは、「ヨハネ」に注目することです。これまでの説明と重複する部分も多いと思いますが、説明の仕方を変えることで、ヨハネの福音書の理解がいかに平和の働きに資するかを、多くの方々と共有したいと願っています。

「ヨハネ」とは誰か? ~和音のたとえ~
 ヨハネの福音書に「ヨハネ」が登場するのは、1章6節からです。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。

 この1章6節の「ヨハネ」とは誰でしょうか?マタイ・マルコ・ルカの福音書を読み終えた後で引き続きヨハネの福音書に進む新約聖書の読者は、まずは洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)を思い浮かべるでしょう。もちろん、洗礼者ヨハネも含まれるでしょう。

 しかし、ヨハネの福音書では多くの場合、一人の登場人物に複数の役割が与えられています。音楽にたとえるなら和音です。ピアノでド・ミ・ソの三つの鍵盤を同時に押すなら、三つの音が重なった和音が耳に聞こえます。同様に、「ヨハネ」は洗礼者ヨハネ・使徒ヨハネ・読者(私)の三人が重なっています(実はもっと重なっていますが、当面は三人ということにしておきます)。

 しかし、ド・ミ・ソの和音が聞こえて来るまでには、しばらく時間が掛かるでしょう。まずは「ド→ミ→ソ」のバトンリレーが見える必要があります。すなわち、「洗礼者ヨハネ→使徒ヨハネ→読者(私)」のバトンリレーです。このバトンリレーが見えるなら、和音が聞こえて来ることでしょう。

「ヨハネ」から弟子Xへの信仰のバトンリレー
 「ヨハネ」の重要な役割は7節に書いてあるように、「イエスの証人」になることです。

ヨハネ1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

 そして、もう一つの重要な働きが「信仰の継承」です。それは、35~39節で明らかになります。

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。

 このように二人の弟子は「ヨハネ」が「見よ、神の子羊」と言ったことでイエスと出会うことができました。「ヨハネ」は既にイエスのことを知っていました。こうして、イエスを知る「ヨハネ」の信仰が二人の弟子たちへ継承されて行きました。

 この二人の弟子のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであったと40節に記されています。しかし、もう一人の名前は明かされていません。仮に、この弟子を「弟子X」としておきましょう。二人の弟子はイエスについて行ったと39節にありますから、弟子Xはイエスの旅に付き従って行きました。そうしてイエスの教えのことばを漏らさず聞いたことでしょう。弟子Xはイエスの旅に同行して、次第に成長して行きます。

弟子Xは「イエスが愛しておられた弟子(愛弟子)」
 さて、ヨハネの福音書では「イエスが愛しておられた弟子(愛弟子)」が13章から登場します。13~17章には最後の晩餐でのイエスの教えのことばが記されています。

ヨハネ13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 つまり愛弟子は、イエスのすぐ隣で最後の晩餐の重要なメッセージを聞いていました。そして、この愛弟子とは弟子Xのことであると考えるなら、「イエスの証人」と「信仰の継承」の二点でいろいろと辻褄(つじつま)が合います。このことを、さらに検証して行きましょう。

 この愛弟子はイエスの十字架のすぐ近くにもいました。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 こうして愛弟子はイエスの十字架の現場にいて、十字架の死をすぐ近くで見届けました。また、愛弟子はイエスが葬られた墓から遺体が消えて空になったことも目撃しています(ヨハネ20:1~10)。さらに愛弟子は復活したイエスにも出会っています。

ヨハネ21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。

 そうしてヨハネの福音書の最後では、愛弟子がこの書の執筆者であることが明らかにされます。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 この愛弟子、すなわちヨハネの福音者の執筆者とは、使徒ヨハネであると言い伝えられています。

弟子Xの愛弟子は私たち読者
 さてしかし、ヨハネの福音書は最後の最後に、とても興味深いことばを残して閉じられています。

ヨハネ21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 イエスが行われたことが、どんなにたくさんあったとしても、一人の愛弟子が見聞きした紀元30年頃のことだけでは、さすがに書物が世界に収められないほどの量にはならないでしょう。従って、ヨハネ21章の24節と25節は、この福音書の読者が新たな愛弟子になって「イエスの証人」となっていることを、表していると考えられます。

 ですから1章35~37節の「ヨハネ」とは、この福音書の記者の使徒ヨハネのことであり、二人のうちの一人の弟子Xは私たち読者であるという読み方がド・ミ・ソの和音で聞こえて来ます。

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 私たち読者は使徒ヨハネが書いた福音書を読むことでイエスと出会います。そして、イエスの旅に同行することで、次第に愛弟子へと成長して行き、最後の晩餐をすぐ隣で聞き、十字架を目撃し、復活したイエスとの明確な出会いを経験します。このようにして愛弟子に成長した読者の私たちが今度は「ヨハネ」となって、家族や知人を教会に誘ってヨハネの福音書を読むことを勧めます。すると、次には家族や知人が愛弟子に成長して新たな「ヨハネ」となって、さらにイエスと出会う人々が増えて行きます。それらの人々が「イエスの証人」になることで、世界に収め切れないほどの証言になります。これが「ヨハネのバトンリレー」です。

 以上のことから、ヨハネ1章6節と7節の「ヨハネ」とは、私たちのことでもあると言えるでしょう。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

 この「ヨハネ」とは私のことであるという、これほどまでの光栄な役割が私たちの一人一人に与えられているのだとしたら、もはや戦争をしている場合ではありません。戦争を早く終わらせて、平和な世界を実現しなければなりません。

ヨハネ20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(新共同訳)

(続く)
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避難所を出て、神様との協働の場へ

2023-05-21 07:15:21 | 平和への道
 2023年5月19日、G7首脳らが広島の平和公園を訪れて、原爆資料館の見学、慰霊碑への献花、記念植樹などを行いました。これらは素晴らしいことだったと素直に思います。しかし、この広島サミットを機に世界が平和に向かうだろうかと考えると、まったくそんな気がしません。むしろ、ウクライナへの支援を強化することによってロシアを刺激して、より危険な方向に向かって行く心配もあります。



 日本で、そして世界で、多くの人々が平和のための活動に携わっています。平和の祈りも日々捧げられています。それにも関わらず、世界は一向に平和な方向に向かいません。もはや平和な世界を望むことは、非現実的な夢でしかないのでしょうか?

 いいえ。平和は必ず実現すると信じます。これまで本ブログで書いて来たように、聖書の読み方が変わるなら、特にヨハネの福音書の読み方が根本的に改まるなら、世界は必ず平和な方向に向かうはずです。なぜなら聖書は「世界のベストセラー」と呼ばれていて、世界で一番読まれている書物だからです。読者の数の多さのゆえに、聖書は多大な影響力を持っています。

神との協働者への脱皮
 私たち人間は、とても弱い存在です。日々、様々な困難に遭い、その中で苦闘し、嘆き悲しみ、時に絶望して生きる気力を失い、立ち上がれなくなることもあります。神様はそんな私たちと共にいて下さって守って下さり、慰め励まして下さり、平安を与えて下さり、生きる気力を与えて下さるお方であることを聖書は教えています。特に旧約聖書の詩篇には、そのような聖句がたくさんあります。例えば、詩篇18篇や23篇です。

詩篇18:1 彼は言った。わが力なるよ。私はあなたを慕います。
2 はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。
3 ほめたたえられる方。このを呼び求めると私は敵から救われる。

詩篇23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。

 このように神様は弱い私たちを力強く守って下さいます。或いはまた新約聖書の福音書では、イエス・キリストがしばしば神様を「主人」に、人間を「しもべ(僕)」にたとえています。ですから私たちは、神様と人間との関係を主従関係に捉えがちだと思います。たとえばマタイ25章では主人が5タラント(と2タラント)のしもべに次のように言います。

マタイ25:21 「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。」

 主人のことばがこれだけだったら、主従の隔たりは大きいままでしょう。しかし、主人のことばには続きがあります。

マタイ25:21(続き) 「主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 続きのことばからは、主人としもべは共に働き、共に喜び合う間柄であることが分かります。さらにヨハネの福音書のイエスは、弟子たちのことをしもべではなくて「友」であると言っています。

ヨハネ15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

 また、黙示録3章のラオディキアの教会へのことばには「わたしは…彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」という表現があります。

黙示録3:20 「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 この「わたしは…彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」が何を意味するのか、様々な解釈があると思いますが、イエス・キリストは私たちと【対等】な関係を築くことを望んでいると私は読み取りたいと思います。ヨハネの福音書のイエスが弟子たちに「あなたがたはわたしの友です」と言ったのと同様に、黙示録のイエスは「あなたがたはわたしと対等です」と言っていることを感じます。そうしてイエスは、私たちが神の協働者として働くことを望んでいるのではないでしょうか?

 平和がなかなか実現しないのは、私たちがいつまで経っても神様から庇護を受ける立場や下僕の立場にいて、神様の協働者になろうとしないからではないでしょうか?そのために十分な働きができないからではないでしょうか?

 神様は全知全能のお方ですから、私たちはもちろん神様と【対等】にはなれません。しかしながら、少しでも神様の立場に近づきたいと思います。そうして神様に近い視座から世界を眺めて平和のために働くのでなければ、いつまで経っても平和は実現しないのではないでしょうか?

 神様からの庇護を受けるだけの立場、神様の下僕の立場から脱するためには、視座を天に移す必要があります。すなわち、本ブログの「平和への道」のシリーズで説明して来た、【天動説→地動説】の移行が必要でしょう。【天動説】のように視座が地上に留まっているなら、神様との協働者になることは難しいでしょう。ですから、平和を実現するために聖書の読み方を【天動説】から【地動説】に移行して、視座を天に移して、神様と共に働くことができるようになりたいと思います。(続く)
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原爆資料館の「平和のキャラバン」に込められた願い

2023-05-20 06:47:23 | 平和への道
 G7サミットが広島で開かれて、首脳たちが広島の平和公園を訪れたことは、大変に良いことだったと素直に思います。しかし、G7首脳はウクライナ国民の側に立ち続けるとツイッターで決意表明したバイデン大統領が、「平和のキャラバン」の絵の前で署名している写真を用いたことは、この絵に込められた願いを理解していないという点で、とても残念に思います。





 広島原爆資料館の東館の入口横にある平山郁夫さんの「平和のキャラバン・東(太陽)」の絵は、東西冷戦の時代に西側と東側が歩み寄って一つになることを願って描かれたものであり、もう一つの絵と対になっています。もう一つの「平和のキャラバン・西(月)」は本館を挟んだ反対側の国際会議場の方にあります。東西の歩み寄りを願う絵の前でロシアとの対決姿勢を明確にするなど、全くおかしなことです。



 この絵は縦・横それぞれ21ブロックあり、それぞれのブロックには12×15=180個のタイルがはめ込まれていますから、全体では180×21×21=79,380個のタイルが使われています。このタイルは、つくば科学万博(1985年)の国連平和館で販売されて、購入者は自分の名前を刻印してもらい、その場でロボットアームによってはめ込まれました。そして、つくばから広島の原爆資料館に移設されました。



 この絵の中心にあるラクダの足には私が購入した「S.KOJIMA」のタイルが、はめ込まれています。私の名前を刻んだタイルがいつも原爆資料館の中にあることと、タイルの位置が左右の中心にあることに、私は特別な意味を感じていて、このことが「平和のために働きたい」という私の思いを支えています。

 世界のリーダーたちは、どちらか一方の側に立つのではなく、もっとウクライナとロシアが歩み寄ることができるように働くことは、できないものでしょうか?プーチン大統領のことを思うとそれが難しいことは分かります。しかし、二つで一つの平山郁夫さんの「平和のキャラバン」の対の絵は、歩み寄りを強く促していると、原爆資料館の中のタイルを自分の分身だと思っている私は感じています。
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【天動説→地動説】で父・子・聖霊を知って「平和」の恩恵を受ける

2023-05-01 09:09:25 | 平和への道
 この一ヶ月に「平和への道」で書いたことをまとめる(図も改良する)。



 天体の見方の【天動説】から【地動説】への移行でニュートン力学が誕生したことで、人類は「科学技術」の多大な恩恵を受けて来た。同様に、聖書の読み方も【天動説】から【地動説】への移行を果たすなら、「平和」の多大な恩恵を受けるようになるだろう。なぜなら【地動説】で聖書を読めば父・子・聖霊の三位一体の神のことが分かるようになり、神との関係が深まり、心の深い平安を得るようになるからだ。

 聖書は世界で一番多くの読者がいる書物だ。それゆえ読者の多くが聖書を【地動説】で読むようになり、心の深い平安を得るなら、世界は必ず平和になるだろう。戦争が絶えず繰り返されていて、世界がなかなか「平和」にならないのは、聖書の読み方が【天動説】に留まっているからではないか。

 【天動説】では、宇宙を見る「目」が「地上」にある。すると、天体の動きは非常に複雑であるので全体像を捉え損なう。それは「目」が「時計」の中にあるのと同じことだ。目が時計の中に留まっているなら、時計全体の動きが見えない。歯車がどのように噛み合って時計全体が動いているのかを知りたければ、「目」を時計の外に移す必要がある。天体も時計も、このように全体を俯瞰する位置に「目」があるのが【地動説】だ。

 聖書も、ことばの歯車がたくさん噛み合っている時計のようなものだ。一つ一つのことばに近づき過ぎると、全体が見えなくなる。

 たとえばイエスのことばは、一言一言が重い。それゆえ、つい近づき過ぎてしまう。イエスに近づくことは良いことだが、ことばに近づき過ぎると全体が見えなくなってしまう。その代表例が、ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカ的に読んでしまうことだろう。ヨハネの福音書の冒頭のことばの歯車

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

これは創世記の冒頭のことばの歯車と噛み合っている。

創世記1:1 はじめに神が天と地を創造された。
2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

 ヨハネの福音書全体、そして聖書全体を俯瞰するなら、「光、あれ」のことばは天の御子イエスのことばであることが分かる。また、旧約の預言者たちの時代には天の御子イエスが聖霊を通して父のことばを預言者たちに伝えていること、新約の使徒たちの時代には天の御子イエスが聖霊を通して父のことばを弟子たちに伝えていることが分かる。たとえばヨハネ4章の

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

の2節「──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──」は、ここで注目しているのは「地上のイエス」ではなく使徒の時代の「天の御子イエス」であることを伝えている。弟子たちは聖霊を受けていたので、彼らの内にはイエスがいたのだ。

 そして、ステパノが殺された後の激しい迫害で弟子たちがエルサレムから散らされた。

使徒8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
4 散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 ここではヨハネ4章のことばの歯車と使徒8章のことばの歯車が噛み合っていて、サマリアでキリストを宣べ伝えたピリポの内には天の御子イエスがいたことをヨハネ4章は伝えている。つまりヨハネ4:4でサマリアを通って行ったのはイエスご自身ではなく、ピリポであった。ヨハネの福音書を【地動説】で読むなら、時代は「紀元30年頃」ではなく、それ以外の「創世記~黙示録」であり、主役は「地上のイエス」ではなく、「天の父」と「天の御子」である。

 ヨハネの福音書で「地上のイエス」のすぐ近くに「目」を置く読み方は【天動説】だ。一方で【地動説】は、聖書全体を俯瞰する位置に「目」を置く。そこは天であり、天に「目」があるなら創世記~黙示録のすべての時代(イエスの地上時代を除く)にいる父・子・聖霊の三位一体の神がよく分かるようになる。神が分かることで心の深い平安が得られ、平安を得た読者が増えれば増えるほど世界は平和に向かって行くだろう。この「平和」こそが、聖書の読み方の【天動説】から【地動説】への移行によって受ける多大な恩恵だ。

 【地動説】に基づくニュートン力学が人類に「科学技術」の多大な恩恵をもたらしたように、聖書の読み方も【地動説】に移行するなら、人類は「平和」の多大な恩恵を受けるようになるであろう。(つづく)
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信仰のメカニズムが透けて見えるスケルトンの福音書

2023-04-29 11:17:43 | 平和への道
 前々回の記事に子供が分解した時計の写真を載せた(朝ドラの子供時代の主人公が分解したもの)。近年は内部が透けて見えるスケルトンモデルがあって、表からも裏からも時計の内部の構造が見えて、歯車が動く様子がよく分かるようになっている。


正美堂創業50周年記念ウォッチ/両面スケルトンモデル(https://www.syohbido.co.jp/item/00006s50hwss.html)

 ヨハネの福音書もスケルトンの時計に似ていて、下記のような「信仰のメカニズム」が透けて見えている書だ。

 1.御子は父と共に天にいて、全ての時代にいる(紀元1~30年頃は地上)
 2.信仰は他人から神のことを聞き、それを信じるのが最初のステップ
 3.信じて聖霊を受けると神と霊的に出会い、深い理解へと進んで行く

 上記三つの中では、2が特に重要だ。2の重要性はどれほど強調しても強調し足りない。それほどまでに2は重要だ。なぜなら他人が語る神を信じられず、次の深い理解へと進んで行けない人が多いからだ。

 神は霊だ(ヨハネ4:24)。霊のことは、聖霊を受けなければ分からない。ことばを尽くして説明しても、分かってもらうことは難しい。一方、説明を聞き、何かを感じて信じるなら、信じた人には神から聖霊が注がれる。すると、聖霊の助けによって霊的なことが分かるようになり、神の深い理解のステップへと進んで行く。そして神を深く理解するなら、心の深い平安が得られる。心の平安を得た人が増えれば、世界は平和に向かって行く。これが「信仰のメカニズム」であり、「平和への道」だ。

 人間が神のことを語る時、どこか嘘っぽい響きがあるかもしれない。人間が語ることばには限界があるから仕方がないことだが、それゆえ神を信じることができない人が多い。聖書には、このことへの嘆きのことばがあちこちに書かれている。

 一方で、神のことを人から聞いて信じ、次の深い理解のステップへと進む人々もいる。特にヨハネ4章には信じる人々が多くいて(サマリア人、ガリラヤ人、異邦人)、上記三つの「信仰のメカニズム」がスケルトンの時計のように透けて見えるようになっている。以下、4章を引用しながら説明して行くことにしよう。

1.御子は父と共に天にいて、全ての時代にいる(紀元1~30年頃は地上)
 本ブログで繰り返し説明しているように、ヨハネの福音書の主役は「天の御父と御子」だ。「地上のイエス」が主役のマタイ・マルコ・ルカの福音書とは根本的に異なる。

 ヨハネの4章のイエスは最初は使徒8章にいて、次いで列王記第一17章にいる。天の御子は創世記~黙示録の「永遠」の中にいる神なので、全ての時代にいる(紀元1~30年頃は「地上」に、それ以外は「天」にいる)。しかし、ヨハネをマタイ・マルコ・ルカ的に読むなら、使徒8章と列王記第一17章の御子は見えて来ないだろう。まずは頭を【天動説】から【地動説】に切り替えて(前回までの記事参照)、下記の1~8節を読む必要がある。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 この箇所では概ね1~5節が使徒8章、5~8節が列王記第一17章と言えるだろう。イエスは神なので両方の時代に居られるが、弟子たちは使徒の時代にしか居られないから、「町へ出かけていた」という形で退場している。ヨハネの福音書は「芸が細かい」のだ。

 1~5節までの状況は既に本ブログで説明しているように、五旬節の日以降の「使徒の働きの時代」の弟子たちが、人々にバプテスマを授けている様子が描かれている。聖霊を授けている弟子たちの内にはイエスがいたので、イエスがバプテスマを授けているのと同じことだ。それをヨハネは2節で「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と描写している。

 そして3節の「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた」は、2節のことばを借りるなら「ユダヤを去ってガリラヤに向かったのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」ということになる。弟子たちがユダヤを去った事情は、ステパノが石打ちで殺された(使徒7章)後の使徒8:1が説明している。

使徒8:1 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。

 そうしてピリポがサマリア人たちにキリストを宣べ伝えた。

使徒8:5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 聖霊を受けたピリポの中にはイエスがいたので、ヨハネは

ヨハネ4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。

と書いた。これも2節のことばを借りるなら、「サマリアの町に来たのはイエスご自身ではなく、ピリポであった」となる。

 そしてヨハネ4:7と列王記第一17:10が重ねられる。

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

列王記第一17:10 彼(エリヤ)はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 これもヨハネ4:2のことばを借りるなら、「彼女に『わたしに水を飲ませてください』と言ったのはイエスご自身ではなく、エリヤであった」となる。この時のサマリアの女は列王記第一17章のツァレファテのやもめだが、4章後半ではイエスと共に使徒8章に戻る。使徒8章に戻ったのは27節だ。

ヨハネ4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。

 弟子たちは、イエスが列王記第一のエリヤの時代にいた時は町へ買物に出るという形で退場していた。しかし、ここで弟子たちが町から戻ったことで、時代も使徒8章に戻った。

2.信仰は他人から神のことを聞き、それを信じるのが最初のステップ
 「信仰のメカニズム」においては、この2が特に重要であることは前述した通りだ。サマリア人たちは、女からイエスについて聞いた。

ヨハネ4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

 このようにサマリア人たちが町を出てイエスのもとに来たのは、女が話したことを信じたからだと39節は書いている。

39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。

 サマリア人たちは女のことばを信じたから、イエスのもとにやって来た。信じなければイエスのもとに来ることはなかった。ヨハネ4章は、このように先ずは神について話す人のことばを信じることが信仰の第一歩であることを伝えている。そしてイエスはサマリア人たちのところに滞在した。

40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 「イエスに会う」なら、イエスのことばを直接聞くことができるようになるので、神への理解が深まる。しかし繰り返すが、このヨハネ4章は使徒8章の時代について書かれている。従って、サマリア人たちは「地上のイエス」には会えない。彼らが会ったのは、「天の御子イエス」だ。サマリア人たちがイエスと会うことができたのは、彼らが女のことばを信じて聖霊を受けたからだ。聖霊を受けたから、天のイエスと霊的に会うことができた。この「信仰のメカニズム」が透けて見えている箇所を、さらに説明することにしよう。

3.信じて聖霊を受けると神と霊的に出会い、深い理解へと進んで行く
 使徒8章によれば、サマリア人たちはピリポのことばを聞いて、イエスを信じた。しかし、その時点では聖霊は注がれなかった。彼らに聖霊が注がれたのは、ペテロとヨハネがエルサレムからサマリアに下って来て、彼らの上に手を置いた時だった。この使徒8章の箇所を、少し長いが引用する。

使徒8:5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
6 群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。
7 汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒やされたからである。
8 その町には、大きな喜びがあった。
(中略)
12 人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。
13 シモン自身も信じてバプテスマを受けると、いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた。
14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 ヨハネ4章の後半で弟子たちが町から戻って以降の箇所では、この使徒8章の様子がスケルトンのように透けて見えている。イエスは弟子たちに言った。

ヨハネ4:35 「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

 サマリア人たちはピリポによってイエスを信じ、聖霊を受けるばかりになっていた。それが、この35節で「色づいて、刈り入れるばかりになっています」というイエスのことばによって表現されている。

36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 37節の「一人が種を蒔き」はピリポのこと、「ほかの者が刈り入れる」はペテロとヨハネのことだ。ペテロとヨハネがサマリア人たちの上に手を置くと彼らは聖霊を受けた(ヨハネ4:17)。つまりペテロとヨハネは刈り入れたのだ。

 サマリア人たちはこのようにして聖霊を受けたので、イエスと霊的に出会うことができた。ヨハネ4:42のイエスのことばは、このことを言っている。

42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 このように、ヨハネ4章からは使徒8章の様子がスケルトンのように透けて見えている。すなわち「信仰のメカニズム」の、

 1.御子は父と共に天にいて、全ての時代にいる(紀元1~30年頃は地上)
 2.信仰は他人から神のことを聞き、それを信じるのが最初のステップ
 3.信じて聖霊を受けると神と霊的に出会い、深い理解へと進んで行く

が透けて見えているのだ。(つづく)
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【地動説】で聖書を俯瞰すると父・子・聖霊の三位一体の神が分かる

2023-04-26 13:40:59 | 平和への道
【地動説】でスッキリ説明できるイエスの複雑な動き
 前回は「火星の逆行ループ」の写真を載せたが、検索サイトで「惑星 逆行」と入力すると、他にもいろいろと面白い画像を見ることができる。たとえば、Wikipediaの「順行・逆行」には下図のような動画がある。


2003年における地球から見た火星の逆行現象(Wikipedia「順行・逆行」より)

 このように地上から見る惑星の運動はとても複雑で、シンプルではない。この動きを【天動説】で説明しようとすると、周転円(説明省略。関心がある方は検索してみて下さい)を導入するなど、ややこしいことになる。しかし前回説明したように、視座を太陽系の外に移して俯瞰すると、地球を含めたすべての惑星が太陽の周りを楕円軌道で周回するシンプルな動きをしていることが分かる。【地動説】によって惑星の動きがシンプルに説明できることから、リンゴにも天体にも「万有引力」が働いているとニュートンはシンプルに考えて、数式によるニュートン力学が確立された。

 イエスの旅もマタイ・マルコ・ルカの福音書では「北→南」の一方通行であるのに対して、ヨハネの福音書のイエスは東西南北を縦横無尽に動いている。特にヨハネ4章~7章では北(4章)→南(5章)→北(6章)→南(7章)と南北間を行き来している。ブルトマンら一部の聖書学者は、このような動きは不自然だとして、伝承の過程で5章と6章が入れ替わってしまった(錯簡)と主張しているほどだ。


旧約聖書と共に東西南北に動くヨハネの福音書のイエス

 しかし、一見すると複雑に見えるヨハネの福音書のイエスの動きも、本ブログで繰り返し説明して来たように、イエスは上図のように旧約聖書の進行と同じ動きをしていると考えるならスッキリと説明できる。4章から7章に掛けての南北の動きも、旧約聖書の列王記の舞台が頻繁に南北間を移動していることで説明できる。惑星の動きを太陽系外から俯瞰する【地動説】によってニュートン力学が確立して、人類が「科学技術」という多大な恩恵を受けたように、聖書の読み方も早く【天動説】から【地動説】に移行して「平和」という多大な恩恵を受けるようになることを強く願う。

【地動説】で分かる父・子・聖霊の三位一体の神
 聖書を【地動説】で俯瞰すると難解と言われる父・子・聖霊の三位一体の神についてもまた、分かるようになる。三位一体の神が分かるなら心は多大な平安を得るから、「平和」に大きく貢献するだろう。

 前々回に示した通り、ヨハネの福音書は旧約聖書と使徒の働き(使徒言行録)が並進する下記のような構造を持つ。

 創世記       ヨハネ1章   使徒1章・復活したイエス
 出エジプト記    ヨハネ2章   使徒2章・聖霊を受ける
 出エジプト・レビ記 ヨハネ3章   使徒2章・教会の成長
 民数記・ヨシュア記    3章   使徒3~7章・ステパノ
 列王記第一     ヨハネ4章   使徒8~26章・異邦人
 列王記第一~第二  ヨハネ5章   神殿炎上・終末→福音書
 列王記第二     ヨハネ6章   福音書・最後の晩餐
 列王記第二     ヨハネ7章   十字架・復活・五旬節
 列王記第二     ヨハネ8章   使徒7~8章・教会の迫害
 列王記第二     ヨハネ9章   使徒9章・パウロの回心
 列王記第二     ヨハネ10章  エルサレム滅亡の前夜
 エズラ・ネヘミヤ記 ヨハネ11章  エルサレム滅亡・復興
 福音書       ヨハネ12章  新天新地の栄光に向けて
 福音書       ヨハネ13章  読者=イエスの愛弟子
 福音書       ヨハネ14章~ 三位一体の神を学ぶ読者
 福音書       ヨハネ18章  力を手放して捕縛される
 福音書       ヨハネ19章  読者が目撃する十字架
 福音書       ヨハネ20章  あなたがたを遣わします
 使徒1章      ヨハネ21章  次世代への信仰の継承

 さらに、この福音書の様々な聖句が大きなヒントになる。三つだけ挙げておく。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネ8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 これらから旧約の時代と新約の時代の両方において、天の御子が父のことばを地上の人々に聖霊を通して伝えている様子が見えて来る。旧約の時代は預言者たちが、新約の時代は弟子たちが聖霊を受けているので、御子イエスは彼らに対して聖霊を通して父のことばを伝えている。これらを前回の図の改良図で説明する。



 ヨハネの福音書を「地上の視座」からマタイ・マルコ・ルカ的に読むなら、それは【天動説】的だ。天体の【天動説】では地球が固定されていて動かないように、地上のイエスは紀元30年頃に固定されていて、時代は動かない。そして読者の視座は地上にあるので天の御父は見えない。見えたとしても淡く見えるだけだ。同様に聖霊も見えず、見えたとしても淡く見えるだけだ。

 一方でヨハネの福音書を「天の視座」から霊的に読むなら、それは【地動説】的だ。天体の【地動説】では地球が一つの場所に留まっていないように、御子イエスは創世記~黙示録の「永遠」の中にいて、一つの時代に留まっていない。この「永遠」の中で御子イエスは父の「ことば」を地上の預言者たちと弟子たちに聖霊を通して伝えている。視座が「天」にあるので天の父・御子・聖霊が「地上」からよりも霊的にハッキリと見えて、父・子・聖霊が「ことば」によって一つになっている様子が見える。

 このように父・子・聖霊の三位一体の神を理解するには、「ことば」(ヨハネ1:1)が大きなヒントになる。父・子・聖霊の三位一体の神は「ことば」によって一つになり、僕たちと共にいる。(つづく)
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聖書理解の【天動説】から【地動説】への移行が平和をつくる

2023-04-25 09:05:26 | 平和への道
~【天動説】で読むと複雑でも、【地動説】で読めばシンプルな聖書~

ことばの歯車が噛み合っている聖書
 いま放送中の朝ドラの『らんまん』に、子供時代の主人公が時計を分解する場面があった。こんな風に身近にある機械を分解して遊んだ子供時代を持つ人は多いだろう。時計を分解するには精密ドライバーが必要だが、どの家庭にも普通サイズのドライバーならある。中の仕組みがどんな風になっているのか、子供は興味津々でワクワクしながら身近にある機械を分解する。僕もそんな子供時代を過ごした一人だ。


『らんまん』の子供時代の主人公が分解した時計(ツイッター@asadora_nhkより)

 聖書は66の書(創世記~マラキ書の旧約が39書、マタイの福音書~ヨハネの黙示録の新約が27書)のことばが複雑に絡み合っているので、精巧な機械にたとえることができそうだ。ことばの歯車がたくさん噛み合っていて、僕たちの生活の役に立っている。日本人にとっては、聖書が生活の役に立っているという実感は少ないかもしれない。しかし西洋では聖書の規範があったことで古代~現代の秩序が保たれて来た。アメリカの大統領就任式で聖書の上に手を置くことは、その象徴と言えよう。そのキリスト教の伝統を持つ西洋で近代科学が生まれ育ち、現代科学へと発展し、21世紀の僕たちは科学技術の恩恵をたっぷりと受けている。だから聖書は日本の僕たちにとっても、決して無関係ではないのだ。

 ただ残念なことに、聖書を尊ぶ国においても秩序は万全ではなかった。これまで多くの戦争が民族間や国家間で繰り返されて来た。また、近現代の西洋では科学の発展に伴って信仰から離れて行った人々も少なくない。特に21世紀においてはキリスト教離れが加速しているとのことだ。なぜ人々は聖書から離れて行くのだろうか?

【天動説】にとどまる聖書理解
 それは聖書が複雑で精巧であるために、十分に理解されて来なかったからではないか。聖書の理解は未だ【天動説】に留まっていると言ったら、言い過ぎであろうか。北半球に住む僕たちは太陽が東から昇って南の空を西に向かって移動する様子を日常的に見ている。星も北極星を中心に回転することを知っている。天体の見え方が季節によって変動することも知っている。見た目がそうなのだから、天が動いていると考えるのは当然のことだ。現代の僕たちは【地動説】を学校で習ったから知っているが、教わっていなかったら確実に【天動説】を信じていただろう。学校などで教わらない限り、僕たちの視座は地上に固定されたままだ。地上を離れて宇宙からの視座を獲得することは、とても難しい。


【天動説】と【地動説】(ac-illust.comのフリー画像使用 作者:まりん)

 難しいが故に、【天動説】から【地動説】への移行が始まったのは、わずか500年前のことだ。しかも16世紀前半のコペルニクスから17世紀後半のニュートンに至るまで約150年の移行期間を要した。僕の愛読書の『物理学とは何だろうか』(朝永振一郎・著、岩波新書 1979)によれば、コペルニクスが地動説を提唱してからニュートンの力学が確立するまでの間には、ティコ・ブラーエによる精密な天体観測、ケプラーによる観測結果の精密な解析、ガリレオ・ガリレイによる精密な地上実験が必要であった。これらの精密な観測・解析・実験があったことで、数式を用いたニュートン力学が確立された。

 ヨハネの福音書が霊的に読まれずにマタイ・マルコ・ルカ的に読まれている現状は、【天動説】と【地動説】との関係に良く似ていると思う。マタイ・マルコ・ルカ的にヨハネの福音書を読む者の視座は地上に固定されていて、専ら紀元30年頃の「地上のイエス」に注目している。しかし、ヨハネの福音書の視座は「天」にあり、創世記~黙示録の【永遠】の中にある。この【永遠】の中で読者は心の平安を得て、平和の働きに貢献するようになる。

 【天動説】から【地動説】への移行によってニュートン力学が確立されたことで人類は計り知れないほど大きな恩恵を受けた。ニュートン力学が無ければ飛行機は飛ばず、ロケットも飛ばない。ニュートン力学が無ければ熱力学も電磁気学も量子力学も無い。ニュートン力学が無ければ、僕たちの生活は産業革命前の中世のスタイルのままであっただろう。

 だから今度は、聖書の読み方が【天動説】から【地動説】に移行されなければならない。そのことで「平和」という大きな恩恵を僕たちは得ることができる。【地動説】の視座は「天」の「永遠」の中にあるので、心が「平和」になるからだ。

地上から見れば複雑でも、天から見ればシンプルな聖書
 惑星の軌道は地上から見ると下の写真のように非常に複雑で、時に逆行したりする。しかし、惑星の軌道はすべて楕円状であることをケプラーが明らかにした。惑星の軌道は宇宙の視座から見ればシンプルなのだ。


2011年10月~2012年7月の火星の逆行ループ(日経ナショナル・ジオグラフィックのサイトより 撮影者:Tunc Tezel)

 聖書も、「地上」の視座で読むと複雑であっても、視座を「天」に移すなら単純だ。



 たとえば前回も引用したヨハネ4章の最初の部分をもう一度見てみよう。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

 この箇所をマタイ・マルコ・ルカ的に読むと、非常に戸惑う。マタイ・マルコ・ルカの福音書でバプテスマを授けているのはバプテスマのヨハネだけだ。イエスも弟子たちもバプテスマを授けていない。しかし、ヨハネの福音書は「イエスが…バプテスマを授けている」と書いているので、整合性の面において戸惑う。しかも3節に「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」とあるから、ますます戸惑う。まるで上図の複雑な軌道を描く惑星のようだ。

 しかし、視座を「天」に移して霊的に読むなら、この場面はペンテコステの日以降に聖霊を受けた弟子たちのことであることが分かる。聖霊を受けた弟子たちの内には天の御子がいたので、「弟子たちがバプテスマを授けていた」ことは「イエスがバプテスマを授けていた」のと同じことだ。ペンテコステの日以降の使徒の働き(使徒言行録)の時代のことであるから、マタイ・マルコ・ルカの福音書の記述と矛盾することもない。

 もう1箇所、例を挙げよう。

ヨハネ4:43 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」(マタイ13:57、マルコ6:4、ルカ4:24)と証言なさっていた。
45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書は、ガリラヤの人々がエルサレムでイエスを見た後で歓迎したことなど書いていない。マタイ・マルコ・ルカのイエスはガリラヤで宣教を開始してから北方でしばらく宣教した後、南のエルサレムへ行って十字架に掛かって死んだ。それゆえマタイ・マルコ・ルカのイエスは「北→南」の一方通行だ。それゆえマタイ・マルコ・ルカ的にこのヨハネ4:43-45を読むなら、非常に戸惑う。マタイ・マルコ・ルカの地上のイエスは「故郷では尊ばれない」まま死んだのだ。

 しかし、この箇所も使徒の働き(使徒言行録)の時代であると読むなら、すっきりと理解できる。使徒の働きは、8章でサマリア人たちがイエスを信じたことを記した後、9章で次のように記している。

使徒9:31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

 つまり、ガリラヤの人たちがイエスを信じたのは十字架の後の使徒たちの時代だ。そうしてガリラヤに教会が築き上げられた。ヨハネ4:45は、この使徒9:31の状況を描いたものだ。

 このように視座を「天」に移して聖書全体を俯瞰できる位置から見渡すなら、複雑に見える聖書も意外とシンプルであることが分かる。(つづく)
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ヨハネの福音書は使徒の働き(使徒言行録)とも重なる

2023-04-22 11:49:33 | 平和への道
 前回まで、ヨハネの福音書の1~11章は旧約聖書と共に進行することを説明した。このことだけでもヨハネの福音書は十分に凄い書だが、実はまだ凄さの半分しか紹介していない。

 驚くことにヨハネの福音書は、使徒の働き(使徒言行録、使徒行伝)とも重なっている。つまりヨハネの福音書は旧約聖書と使徒の働きの両方と共に進行している。ヨハネの福音書とは、まさに人知を遥かに超えた書であると言えよう。

 その章進行の概略を下に示す。但し、使徒の働きとの重なりは僕自身にもまだ良く分かっていない点が多々ある。下記は現時点での考察であり、新たな気付きがあれば随時変えることにしたい。

 創世記       ヨハネ1章   使徒1章・復活したイエス
 出エジプト記    ヨハネ2章   使徒2章・聖霊を受ける
 出エジプト・レビ記 ヨハネ3章   使徒2章・教会の成長
 民数記・ヨシュア記    3章   使徒3~7章・ステパノ
 列王記第一     ヨハネ4章   使徒8~26章・異邦人
 列王記第一~第二  ヨハネ5章   神殿炎上・終末→福音書
 列王記第二     ヨハネ6章   福音書・最後の晩餐
 列王記第二     ヨハネ7章   十字架・復活・五旬節
 列王記第二     ヨハネ8章   使徒7~8章・教会の迫害
 列王記第二     ヨハネ9章   使徒9章・パウロの回心
 列王記第二     ヨハネ10章  エルサレム滅亡の前夜
 エズラ・ネヘミヤ記 ヨハネ11章  エルサレム滅亡・復興
 福音書       ヨハネ12章  新天新地の栄光に向けて
 福音書       ヨハネ13章  読者=イエスの愛弟子
 福音書       ヨハネ14章~ 三位一体の神を学ぶ読者
 福音書       ヨハネ18章  力を手放して捕縛される
 福音書       ヨハネ19章  読者が目撃する十字架
 福音書       ヨハネ20章  あなたがたを遣わします
 使徒1章      ヨハネ21章  次世代への信仰の継承

 使徒の働きとの重なりが最も濃厚に見られるのは恐らくヨハネ4章だろう。

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。

 1節には「イエスが…バプテスマを授けている」と書いてある。しかし、2節には「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」と書いてある。ここにはヨハネの福音書を読み解くためのヒントが明白に示されている。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書にはイエスがバプテスマを授けていたとは一言も書いていない。一方、ヨハネの福音書はイエスがバプテスマを授けていると書いた直後に実際にバプテスマを授けていたのは弟子たちであったと書いている。それはつまり、これまで本ブログで示して来たように、ここにいるイエスは「地上のイエス」ではなく「天の御子」だからだ。

 ペンテコステの日以降、弟子たちの内には聖霊がいる。すなわち弟子たちの内には「天の御子」がいる。それゆえ弟子たちがバプテスマを授けていることは「天の御子」がバプテスマを授けているのと同じことだ。

 そして、5節でイエスはサマリアに来た。つまり弟子がサマリアに来たのだ。使徒の働き8章には次の記述がある。

使徒8:5 ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 使徒7章でステパノが石に打たれて死んだことをきっかけに、教会は激しい迫害を受けるようになって、イエスの弟子たちはエルサレムから散らされた。散らされた弟子の一人がサマリアに来て、キリストを宣べ伝えたのだ。ヨハネ4章と使徒8章の重なりは極めて興味深い。それは次回ゆっくりと説明することにしたい。(つづく)
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モーセの中のイエス

2023-04-21 07:36:08 | 平和への道
 ヨハネ2~3章は「モーセの中のイエス」を描いている。

 モーセの時代、御子のイエスは御父と共に天にいて、聖霊を通して御父のことばを預言者のモーセに伝えていた。モーセが人々に伝えていた神のことばは、イエスのことばだ。つまり聖霊を受けたモーセの中にはイエスがいた。エリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤやエゼキエルの中にも、イエスがいた。

 そして新約の時代には聖霊を受けた使徒たち、そして21世紀の僕たちの中にもイエスはいて、天の御父のことばを伝えている。このメカニズムをヨハネは福音書の全体で読者に伝え、特に13~17章の「最後の晩餐」では詳しく伝えている。

 ヨハネ2章で水をぶどう酒に変えたイエス(ヨハネ2:1-11)は、ナイル川の水を血に変えたモーセ(出エジプト7:14~25)であろう。そして過越(ヨハネ2:13、出エジプト12章)があり、脱出時にエジプト軍が海に飲み込まれて出来事(ヨハネ2:17、出エジプト14章)があり、荒野で不平不満を言うイスラエルの民(ヨハネ2:24-25、出エジプト15~17章)の姿がある。

 次いでヨハネ3章で登場するニコデモは律法の専門家なので、彼と会話するイエスは律法をイスラエルの民に授与するモーセだ。そして、この「平和への道」のシリーズの序盤で指摘したように、「モーセが荒野で蛇を上げた」(ヨハネ3:14)は荒野で蛇を上げたモーセ(民数記21:9)だ。

 このヨハネ3章の「荒野で蛇を上げたモーセ」の重なりは誰の目にも明らかであり、ヨハネ4章のエリヤとの重なり、ヨハネ6章のエリシャとの重なりもかなり分かりやすい。そしてヨハネ1章のヤコブとの重なり、ヨハネ9章とのヨシヤ王との重なり、ヨハネ10章のバビロン捕囚との重なり、ヨハネ11章のエルサレムの滅亡・復興との重なりも分かりやすいので、ヨハネ1~11章の進行が旧約聖書の進行と重なっていることは明らかだ。

 今回も「ルビンの壺」を使ってヨハネ2~3章を表わそう。



 ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカ的に読むなら、「壺」の部分の地上のイエスしか見えない。しかし、ヨハネの霊的な読み方をするなら「壺」を囲う「天の父」と「天の御子」が見える。すると、聖霊を通して天の御父のことばを地上のモーセに伝えている御子イエスの姿が見えるであろう。(つづく)
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ナタナエルは、神と格闘するヤコブ

2023-04-20 08:27:35 | 平和への道
 ヨハネの福音書の主役は天の御父と御子だ。しかし、読者の多くが「ヨハネはマタイ・マルコ・ルカと同様にイエスの地上生涯を描いた」という強固な思い込みに縛られているために、この書の奥義が伝わっていない。この強固な殻を打ち破るためには、マタイ・マルコ・ルカとは異なる点の証拠を地道に示して行くしかないのだろう。

 まだ説明していない中で比較的分かりやすいのは、ヨハネ1章のナタナエルの記事であろう(本ブログでは何度も説明しているが、「平和への道」のシリーズではまだ説明していない)。

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 マタイ・マルコ・ルカ的な思い込みから自由になるなら、この場面からは創世記32章のヤコブが神と格闘している姿が見えて来るだろう。

創世記32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。
26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 かつてヤコブは、自分の名を偽って「エサウです」と父のイサクに言った(創世記27:32)。しかし、神と格闘したヤコブは名前を偽らずに「ヤコブです」と答えた。このことでヤコブはイスラエルという新しい名前が与えられた。ヨハネ1:47は、この場面を表している。



 ヨハネもマタイ・マルコ・ルカと同様に「地上生涯のイエス」を描いたという思い込みに縛られているなら、「ルビンの壺」の「壺」の部分しか見えず、そこにいるのはナタナエルと会話をする紀元30年頃の地上のイエスだろう。しかし、この思い込みから解放されるなら、「壺」を囲む永遠の中の「天の御父と御子」が見えて来て、ヤコブと格闘する神が見えて来るであろう。(つづく)
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殻を破ると得られる大きな恵み

2023-04-19 11:36:00 | 平和への道
ヨハネとは誰か?
 ヨハネの福音書1章では、6節の早い段階で「ヨハネ」の名前が出て来る。この福音書をマタイ・マルコ・ルカ的に読むなら、このヨハネとは「バプテスマのヨハネ」だということになる。マタイ・マルコ・ルカの福音書でも早い段階でバプテスマのヨハネが登場するからだ。

ヨハネ1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

 しかし上記の7節を読むなら、この「ヨハネ」とは「バプテスマのヨハネ」に限らないことが分かる。「光について証しする者」、すなわち「イエスの証人」であれば、誰でも良いだろう。それゆえヨハネは、この福音書の「記者ヨハネ」でもあり、或いはまた「読者」の僕たちのことでもある。なぜなら、記者ヨハネはこの福音書の最後で、自分がイエスの証人であり、且つ記者であることを明かした後で、次の25節のことを書いているからだ。

ヨハネ21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 証しを書いた書物が世界も収められないほど膨大であるということは、僕たち読者も証人の一人に含まれているということだ。実際、僕たちは周囲の人々に御子イエスについて証しをしているから、まさに「ヨハネ」なのだ。



 読者の自分もまたヨハネ1:6の「ヨハネ」であると気付くか気付かないか、その違いは甚だ大きい。ヨハネ1:6の「ヨハネ」が自分であれば、ヨハネ13:23の「イエスが愛しておられた弟子」もまた、自分だと分かるだろう。

ヨハネ13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 このように、僕たち読者はイエスのすぐ近くで最後の晩餐の教えを聞いている。それゆえに前回も引用したヨハネ14:26が心深くに響いて来る。これは素晴らしい恵みだ。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカ的に読んで、ヨハネ1:6の「ヨハネ」を「バプテスマのヨハネ」に限定している間は、この素晴らしい恵みは得られない。ヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカと同様の福音書として閉じ込めている「」を破ることで真の「読者」となって、この素晴らしい恵みの世界に入って来ていただきたい。(つづく)
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旧約聖書と共に進行するヨハネの福音書

2023-04-18 10:39:43 | 平和への道
 これまでの説明で明らかにしたように、ヨハネの福音書の3~11章の進行は旧約聖書の進行と良く一致している。1~3章の説明は次回以降にすることにして、今回は1~21章の全体像の半分を明らかにしておくことにする(残りの半分は、1章の説明の時にする)。

 ヨハネ1章  創世記(天地創造、アブラハム、イサク、ヤコブ)
 ヨハネ2章  出エジプト記(血のナイル川、過越、エジプト脱出)
 ヨハネ3章  出エジプト記~サムエル記(律法授与、ヨルダン渡河)
 ヨハネ4章  列王記第一(北王国の預言者エリヤ)
 ヨハネ5章  列王記第一~第二(南王国)
 ヨハネ6章  列王記第二(北王国のエリシャ、北王国の滅亡)
 ヨハネ7章  列王記第二(預言者の北から南への移動、南王国のイザヤ)
 ヨハネ8章  列王記第二(南の善王ヒゼキヤ、悪魔のマナセ・アモン王)
 ヨハネ9章  列王記第二(南王国の善王ヨシヤ、律法の書の発見)
 ヨハネ10章 列王記第二(滅亡寸前の南王国、バビロン捕囚)
 ヨハネ11章 列王記第二、エズラ・ネヘミヤ記(エルサレム滅亡、復興)
 ヨハネ12~21章 福音書(最後の晩餐、イエスの捕縛、十字架、復活)



 ヨハネの福音書のイエスは、

ヨハネ14:26 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ど弟子たちに教えた。

 読者は、この助け主の聖霊から教えを受けながらヨハネの福音書を読む。すると御子が御父と共に天にいて、地上の預言者たちへ聖霊を通して神のことばを伝えている様子が見えて来る。このことで、例えば前回と前々回の記事で説明したように、

ヨハネ11:35 イエスは涙を流された。

においては、イエスが単にラザロの死を悲しんでいるのではなく、戦災で廃墟になったエルサレムを見て、御父と共に悲しんでいる様子もまた、見えて来るであろう。(つづく)
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読者を御父と御子の交わりに招くヨハネ

2023-04-17 06:25:20 | 平和への道
 ヨハネの福音書の記者であり、ヨハネの手紙第一の記者でもあるヨハネは、手紙の1章1~3節で読者を御父と御子との交わりに招いている。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 ヨハネたちが聞いたもの、見たもの、さわったものについて、手紙は多くを伝えていない。多く伝えているのは福音書のほうだ。ヨハネたちは読者を福音書において御父と御子との交わりに招いて、読者が豊かな霊性を育むことができるようにしてくれている。

 ヨハネが読者を霊的な場に招いていることを最も強く感じるのが、ヨハネ1章の38節と39節のイエスのことばだ。イエスは自分について来た二人の弟子たちに言った。

ヨハネ1:38「あなたがたは何を求めているのですか。」
39 「来なさい。そうすれば分かります。」

 イエスのこの招きに応答する読者は御父と御子との交わりの中に入れられる。そうして、イエスと共に旅を続ける中で豊かな霊性が育まれて行く。

 このヨハネ1:38-39を下図のようにマタイ・マルコ・ルカ的に読むなら、読者は1世紀の地上のイエスと弟子たちとの会話を外から眺めているだけだ。しかし、ヨハネの霊的な読み方をするなら、読者は御父と御子との交わりの中に入れられて、天の御子が読者に「あなたがたは何を求めているのですか。来なさい。そうすれば分かります。」と語り掛けていることを感じる。



 前回までの「ルビンの壺」の図では示さなかったが、ヨハネの霊的な読み方をしている読者は常に、御父と御子との交わりの中に入れられている。従って、ヨハネ3章のモーセが荒野で蛇を上げた場面においても、ヨハネ4章のイエスが女に「水を飲ませてください」と言った場面においても、21世紀の読者はその中にいて、聖書の場面を間近に感じることで豊かな霊性を育むことができるようになっている。ヨハネの福音書とは「霊性育成プログラム」の教科書とも言えるだろう。



 それゆえ前回のヨハネ11:35「イエスは涙を流された」の場面の中にも読者は入れられていて、戦災を悲しむ御父と御子と共にいる。



 「世界のベストセラー」と呼ばれて、世界で一番読まれていると言われる聖書の読者の多くが、ヨハネの福音書を霊的に読むことができるようになり、御父と御子が戦災を悲しんでいる様子を間近に感じながら悲しみを共にするなら、世界は必ず平和になるだろう。それが「平和への道」だ。(つづく)
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エルサレムの戦禍を悲しむ天の父と御子

2023-04-16 07:58:58 | 平和への道
 エルサレムから見てヨルダンの川向こう(ヨハネ10:44)にいるヨハネの福音書のイエスは、11章で「ラザロが病んでいると聞いてからも」(11:6)、川向こうにとどまっていた。イエスがエルサレム近郊のベタニアに来たのはラザロが死んで葬られた後だった。

 これはヨハネの福音書10~11章が南王国の末期の状況を描いているからだ。列王記第二24~25章によれば、エルサレムが滅亡したのは人々の大半がバビロンに引かれて行った後だった。つまり、人々がバビロンにいた時、エルサレムは瀕死の状態にあったが、まだかろうじて生きていた。ラザロが病んでいるとヨルダンの川向こうのイエスが聞いたことは、この状況を描いている。

 バビロン軍が神殿と王宮、すべての家を焼き、城壁を打ち壊してエルサレムが滅亡した時の状況を列王記第二は次のように描いている。

列王記25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
9 の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。
10 親衛隊の長と一緒にいたカルデアの全軍勢は、エルサレムを取り巻く城壁を打ち壊した。

 この状況に、ヨハネ11章のイエスは激しく動揺している。

ヨハネ11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。

 天の父と御子はエレミヤらの預言者たちを通して不信仰を改めて主に立ち返るように、何度も繰り返し警告していた(前回の記事)。それに聞き従わなかったが故の滅亡であったのに、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とマリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは霊に憤りを覚え、心を騒がせ、涙を流したのだ。天の父と御子は一つであるから、御子イエスの悲しみは父の悲しみだ。

 天の父と御子はいつも人々と共にいる。そうして聖霊を通して神のことばを人々に伝えている。それなのに「主よ。もしここにいてくださったなら」と言って泣く人々。このように人々がなかなか霊的に覚醒しないために、21世紀の現代に至ってもなお戦災が絶えない悲惨な状況が続いているのだと思う。

 きょうの「ルビンの壺」の絵は、ヨハネ11:35をマタイ・マルコ・ルカ的に読んだ場合とヨハネ的に霊的に読んだ場合の違いを示すことにしたい。



(つづく)
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南王国の末路・バビロン捕囚

2023-04-15 12:37:32 | 平和への道
 前々回はヨシヤ王の時代に律法の書が神殿から発見されて、王の目が開かれたことを説明した。そして、前回はこれまでの「平和への道」のシリーズで説明して来たヨハネ3~9章の旧約聖書との重なりを、「ルビンの壺」を用いて示した。この「ルビンの壺」はヨハネの福音書がマタイ・マルコ・ルカの福音書とは全く異なることを理解していただくのに役に立つと思うので、今回の記事でも終わりの方で示すことにしたい。

 さて、ヨシヤ王は律法を守る善い王であった。列王記第二23章はヨシヤ王のことを次のように記している。

列王記第二23:25 ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもってに立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。

南王国の背信とバビロン捕囚
 しかし、ヨシヤ王の後を継いだエホアハズ王、エホヤキム王、エホヤキン王、ゼデキヤ王は皆、の目に悪を行い、律法を守らなかった。それゆえ、南王国は滅びることになってしまった(列王記第二23~24章)。

 滅亡に至る前、はエレミヤらの預言者たちを通して、何度も何度も不信仰を改めるように警告していた。

エレミヤ3:12 「背信の女イスラエルよ、帰れ。」

エレミヤ3:14 「背信の子らよ、立ち返れ。」

エレミヤ3:22 「背信の子らよ、立ち返れ。」

エレミヤ4:1 「イスラエルよ、もし帰るのなら、──のことば──わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、
2 また、あなたが真実と公正と義によって『は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」

 しかし、南王国の王たちと民たちがに立ち返ることはなかった。それゆえ、主は南王国を滅ぼすことにした。

エレミヤ20:4 まことにはこう言われる。見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者にとって恐怖とする。彼らは、あなたが見ている前で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人すべてをバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。
5 また、わたしはこの都のすべての富と、すべての労苦の実と、すべての宝を渡し、ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪してバビロンへ運ぶ。

列王記第二24:2 そこでは、カルデア人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アンモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて滅ぼすために彼らを遣わされたのである。がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。

 略奪隊は城壁を乗り越えて、エルサレムの王宮の財宝を奪って行った。この状況をヨハネ10章のイエスは次のように言っている。

ヨハネ10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。」

 またイエスは、

ヨハネ10:11 「わたしは良い牧者です。」

ヨハネ10:14 「わたしは良い牧者です。」

と、二度言った。それは、北王国も南王国も王たちの大半が悪い牧者であったからだ。

エレミヤ 23:1 「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──のことば。」

 そうして財宝が奪われた後で、エルサレムの人々はバビロンへ捕囚として引かれて行った。

ヨハネ24:13 バビロンの王は、の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、の神殿の中にあるイスラエルの王ソロモンが作ったすべての金の用具を切り裂いた。が告げられたとおりであった。
14 彼はエルサレムのすべて、すなわち、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や鍛冶もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ行かせた。
16 バビロンの王は、すべての勇士たち七千人と、職人、鍛冶千人からなる勇敢な戦士たちすべてを、捕囚としてバビロンへ連れて行った。

 このバビロン捕囚の出来事を、ヨハネ10章はイエスが「ヨルダンの川向こう」に行ったことで表している。バビロンはエルサレムから見ればヨルダンの川向こうにあるからだ。

ヨハネ10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

 バビロンへ捕囚として引かれて行った者たちの中にはエゼキエルのような預言者たちもいた。

エゼキエル1:1 第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。
2 それはエホヤキン王が捕囚となってから五年目の時であった。その月の五日に、
3 カルデア人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにのことばが確かに臨んだ。その場所での御手が彼の上にあった。

 エゼキエルは聖霊を受けた預言者であったから、彼の中には御子イエスがいたのだ。

「ルビンの壺」による説明
 マタイ・マルコ・ルカの福音書で「壺」の部分にいるのは、紀元30年頃の「地上のイエス」だ。一方、ヨハネの福音書で「壺」の部分にいるのは預言者たちなどの「地上の人々」だ。御子イエスは父と共に天にいて、聖霊を通して地上の預言者たちに神のことばを伝えている。



 今回は、ヨハネ10章の「壺」の部分にいるエレミヤとエゼキエルを例として挙げることにしよう。



(つづく)
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