インマヌエル沼津キリスト教会

Immanuel Numazu Christ Church
沼津市今沢34番地

神が共におられる心強さ、おられない恐怖(2015.1.28 祈り会)

2015-01-29 20:57:13 | 祈り会メッセージ
2015年1月28日祈り会メッセージ
『神が共におられる心強さ、おられない恐怖』
【出エジプト3:7~12】

はじめに
 祈り会の出エジプト記の学びは、きょうが2回目です。前回は3章の1節から6節まででした。神の山ホレブにやって来たモーセは、燃える柴の光景によって主のみもとに引き寄せられ、主から「モーセ、モーセ」と言葉を掛けられました。そして、5節と6節で、主はモーセに「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と仰せられました。

モーセへの主のことば
 きょうは、その続きです。
 主は、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民の叫びを聞きました。それで主は彼らをエジプトの手から救い出し、カナンの地に連れ上ると仰せられました。そして、モーセをそのリーダー役に任命したのでした。10節、

3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
 
 モーセは、この主のことばに驚き、そして言いました。11節、

 3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

 モーセは、そんな大役は自分にはとても無理だと思いました。しかし、主は仰せられました。12節、

3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 主は、「わたしはあなたとともにいる」と仰せられました。このことばに力を得たのでしょう、モーセは13節で、「今、私はイスラエル人のところに行きます」と言いました。主の、「わたしはあなたとともにいる」ということばは、他のどんなことばにも代えがたい、大きな力を与えてくれることばであると言えるでしょう。

ギデオンへの主のことば
 きょうは、このモーセの他にも似たような経験をしたギデオン、エリヤ、そしてイエス・キリストについても見てみたいと思います。まず、ギデオンです。士師記6章を開いて下さい(旧約聖書p.423)。時間の関係で詳しい説明は省きますが、このギデオンの時代、イスラエル人はミデヤン人に苦しめられていました。士師記6章の6節をお読みします。

6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は【主】に叫び求めた。

 この状況は、モーセの時代にエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が叫びの声を上げたのと少し似ていますね。主の使いがギデオンのもとに来たのは、そんな時でした。11節と12節、

6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」

 ギデオンは酒ぶねの中で小麦を打つほど臆病な者でしたが、主の使いはギデオンに「勇士よ」と呼びかけ、「主があなたといっしょにおられる」と言いました。そして、今度は主ご自身が、ギデオンに仰せられました。14節から16節までを、お読みします。

6:14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」
6:16 【主】はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

 14節で主はギデオンを遣わすと仰せられましたが、15節でギデオンは尻込みをします、そんなギデオンに対して主は16節で、「わたしはあなたといっしょにいる」と仰せられました。そして、この後ギデオンは主にしるしを求めて、このことばが主によるものであることが間違いないことを知りました。そうして、ギデオンは戦いに出て行きました。

エリヤへの主のことば
 次に見たいのは、列王記第一の19章のエリヤがすっかり弱りきってしまった箇所です(p.619)。ここは18日の礼拝でも開いた箇所ですから、簡単に見るだけにしますが、19章4節で、エリヤは「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と主に言いました。このように、すっかり弱ってしまっていたエリヤに主は御使いを使って食べ物を与え、またご自身もエリヤに声を掛けられました。ここで主は「わたしはあなたとともにいる」とは言っていませんが、主はエリヤとともにいることを、ご自身の言動を持って示されました。そうして、主はエリヤに新たな命令を与えました。15節ですね。

19:15 【主】は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
 
 エリヤは主がともにいて下さることで、また新たな力を得て、新たな使命を果たすために再び立ち上がりました。

神が共におられない恐怖
 これらのことを思い巡らしている時、私はふと、主イエスのゲッセマネの祈りと十字架の場面を思い出しました。まず、ルカの福音書からゲッセマネの祈りの場面を見ましょう。ルカの福音書22章の41節から43節までをお読みします。

22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

 43節に、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけたとあります。これは、先ほどの列王記第一19章で、御使いがエリヤを力づけたのと良く似ていると思います。この43節と44節は、下の脚注によれば、写本によっては欠くものもあるようです。ですから、原典においてこの43節と44節が存在したかどうかは、よくわかりませんが、イエス・キリストが何に苦しんでいたのかということを考える上では、とても良い助けになると思います。
 それは、こういうことです。モーセもギデオンもエリヤも、主が共にいて下さることを知ることで力を得ることができました。そして、十字架を目前にしたイエスさまも、御使いが現れて力づけたことで、力を得ることができました。それは裏返せば、主がともにいて下さらないことほど恐ろしいことはない、ということになるでしょう。
 イエスさまは十字架で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました(マタイ27:46)。それは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。イエスさまは私たちの罪を背負って十字架に付けられました。人間の場合、罪を背負ったままの者は神との関係が絶たれていますから、神と和解せずにそのまま死んでしまえば神との関係を永遠に回復できない可能性が極めて高いと言えます。イエスさまは、その恐怖を味わったのだと言えるでしょう。とげの付いたムチで打たれ、十字架に釘付けにされることも、もちろん大きな恐怖です。しかし、それにも増して、神さまとの関係を絶たれることのほうが、イエスさまは神を良くご存知であるがゆえに、もっと大きな恐怖であったことでしょう。私たちの罪を背負ったイエスさまは、その恐怖の中で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだのだということを、きょう私は教えられたように思います。モーセとギデオンとエリヤが、神が共におられることで力を得て恐怖を乗り越えたこと、そのことの裏返しの場面が、イエスさまの十字架であるということを教えられたと感じています。

おわりに
 幸いなことに、神と既に和解して神との関係を築いている私たちは、死に際してイエスさまのような恐怖を味わうことはありません。しかし、聖霊を汚して神との関係を築く機会を失った者は、永遠に赦されません。このことが、いかに大きな恐怖であるかを、イエスさまの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びは表しているように思います。
 きょうは、モーセに始まって、あちこち色々な箇所を見ましたが、最後に、もう一箇所、イエスさまが「聖霊を汚す者は永遠に赦されない」と、おっしゃっている箇所を見て、終わりたいと思います。マルコの福音書から見ましょう。マルコ3章の28節と29節を交替で読みましょう(新約聖書p.69)。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 お祈りいたしましょう。
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2月1日 聖餐式礼拝 プログラム

2015-01-29 13:45:00 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

2月1日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

2月第1聖日 聖餐式礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  詩篇63篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  ここにいます主は      375
 聖  書  ローマ1:1~7
 説  教  『キリスト・イエスのしもべ』 浜田牧師

 聖 餐 式  しみも咎も         261

 讃 美 ④  神の御子にますイエス    455
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝  祷
 後  奏
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信仰とは何か?が問われている(2015.1.25 礼拝)

2015-01-25 15:22:35 | 礼拝メッセージ
2015年1月25日礼拝メッセージ
『信仰とは何か?が問われている』
【マタイ25:14~23】

はじめに
 きょうは教会総会がありますから、その前に短く聖書を開いて心を整える時を持ちたいと思います。
 元旦礼拝以降、何度か言って来ていますが、私たちは2017年に新会堂を献堂したいという願いを持っていますから、もし本当に新会堂を実現するなら、今年はかなり具体的な動きをしなければなりません。昨年まではお祈り中心で良かったのですが、今年からはお祈りだけではなく、より具体的な動きを始める必要があります。
 しかし、当然のことながら新会堂を建設するには資金が必要です。資金も無いのに具体的に動き始めるのは無謀です。ですから今年の前半のうちに、私たちに本当に新会堂を建設する資金力があるのかどうかを検討し、このまま前進を続けるのか、或いは一旦立ち止まることにするのかを判断しなければなりません。

いま問われている信仰とは?
 そういう大事な時期にある私たちには、いま「信仰とは何か?」が問われているのだと私は感じています。「信仰」が問われているのではなく、「信仰とは何か?」が問われているのだと言いたいと思います。昔の考え方でしたら、資金の不安はあってもガンガン前進を続けるのが「信仰」であると考えたかもしれません。しかし私は、現代においては最早そういう考え方を「信仰」とは呼ばないと考えます。では、信仰とは何なのでしょうか。
 いったん会堂問題から離れて、別の事柄から「信仰とは何か?」を考えてみましょう。一番新しい教報1月号の最後のページの公報欄に、こんなことが書かれていました。

「本年3月の年会における牧師の転任が内定している教会に対して、その旨の内示がなされました。教会総会もそれを前提に実施されます。後任牧師は発表されていませんが、牧師の交替にあって霊的整えがなされ、教会が守られ、さらに成長していくことができますように、お祈りください。」
 
 1月の初めに発行された教報で、このように告知されたということは、年末には内示が出されたということですね。私のもとには内示はありませんでしたから、沼津教会は年会を越えても、また私が牧師を務めさせていただきます。きょうの総会も、そのことを前提にして開催することができますから、とても感謝なことです。代表の先生は、代表になる前から転任の内示はもっと早くに出すべきだというのが持論でした。そうして2年前に私が姫路教会からこの沼津教会に転任した時には、2月の初めに内示がありました。それでも大助かりでしたが、先生としては、すぐにでも年末に内示が出せる体制にしたかったことと思います。しかし、すぐにはできずに3年掛けてようやく年末に内示が出せるようになったのですね。なぜ、なかなか新しい体制に移行できなかったか、よくはわかりませんが、理由の一つに引退を間近に控えたご高齢の先生方からの評判があまりよくなかったことがあると思います。牧師の転任の内示を早く出すためには、ご高齢の先生方には次の年会で引退するかしないかを早くに決断していただかなければなりません。年末までに後任の人事を決めて内示するためには遅くても夏の終わり頃までには決断していただかなければなりません。しかし、ご高齢の先生方にしてみれば、昔は年会の間際まで考える期間があったのに、何故そんなに早く決断しなければならないかということになります。そんなこんなで、転任の内示の時期を早めることは、そんなに簡単なことではなかっただろうと思います。
 教団では、数年前までは転任に関しては事前の内示はなく、年会の任命式でいきなり新しい任命地を告げられて、そうして短期間で引継ぎと引越しをしたということです。この方式は、いろいろな点で問題があったと思いますが、問題はあっても、それを乗り越えるのが信仰であると考えられていたのではないでしょうか。牧師は年会で告げられた新しい任地を信仰を持って受け留め、新しい地に短期間のうちに移動して、礼拝を行う。そして、そのことを教会の信徒もまた信仰を持って受け入れる。それが信仰だと考えられていたことでしょう。昔はそれでも通ったでしょう。では、今の時代ではどうでしょうか。昔も今も同じでしょうか。私たちは考えるべきです。

会堂問題で問われている信仰とは何か?
 会堂問題においても同様です。昔、信仰と考えられていたことは、今も変わらないのでしょうか。私たちは考えるべきです。ですから、私たちの会堂問題においては、先ずは「信仰」が問われているのではなく、「信仰とは何か」が問われていると私は感じています。
 会堂の戦いでは、昔はパンの耳を安く買って食べていたとか、ロウソクを灯していたなどという話を聞きます。そうして食費や電気代を節約して、融資を受けた会堂資金の返済に充てたという話を聞きます。昔はそういう極限まで倹約することが信仰であると考えられていたようです。それは現代においても同様なのでしょうか。現代においても、パンの耳をかじって、ロウソクを灯す生活を覚悟の上でお金を借り入れて会堂を建設するのが信仰的であると考えるべきなのでしょうか。皆さんのお一人お一人で、ぜひ考えてみて下さい。
 私は申し訳ありませんが、牧師がそのような生活を覚悟しなければ会堂が建たないなら、会堂は建てるべきではないと考えます。それは、そのようなロウソクを灯すような生活の下では、新しい学びができないからです。新しい学びができなければ新しい発想は生まれず、伝道に関する工夫も生まれないでしょう。工夫をすれば伝道が上手く行くとは限りませんが、工夫をしなければ、伝道は決して上手くは行かないでしょう。守るべき伝統は守りながら、新しいことを取り入れて改善して行かなければ教勢・財勢の低迷から抜け出すことはできないでしょう。そのためには、牧師が常に学び続けることは欠かせないことです。
 しかし、残念ながら、いま私がいただいている給与では、食費や日常生活に必要な出費だけしか賄えません。それで私は私の貯金を取り崩しながら学びを続けています。本代や、東京での勉強会に参加するための交通費などは、貯金を減らしながら出費しています。そういう生活をしている私が、もしこれからはロウソクを灯す生活を覚悟しなければならなくなるとしたら、本を買ったり東京へ行ったりするお金があるなら借金の返済に回すべきではないかという話にもなって来るでしょう。そのように、お金の問題で牧師が新しい学びをすることに躊躇するとしたら、それは決して良い状態ではありません。これは私だけのことではなく、すべての牧師に当てはまることだと思いますし、一般の信徒の皆さんも同様でしょう。何か良い結果を得るには、私たちはそれなりの投資をする必要があります。お金を使って新しい学びをすることも投資の一つです。新しいことを学び、新しい工夫をするためには、お金が必要です。

主に褒めていただける信仰
 では、そのような現代の私たちにとって、信仰とは何でしょうか。簡単に答えが出ることではありませんが、一つ言えることは、信仰とは「主に『よくやった。良い忠実なしもべだ』と褒めていただける行いをすること」だと言えるのではないでしょうか。きょうのマタイ25章の5タラント、2タラント、1タラントのしもべの例え話は皆さんの多くが良くご存知の箇所でしょう。
 主人の財産を預けられた5タラントと2タラントのしもべは商売をして、預かった財産を2倍に増やしました。商売をするには商品が必要ですから、商品を仕入れるのに、まず財産の一部を使わなければなりません。これは投資をするということですね。投資をしなければ、財産は増えないということです。牧師も、或いはまた一般の信徒も、教会のために投資をしなければ、教会の教勢・財勢を増やして行くことはできないでしょう。そうして財産を増やすなら、主人は、

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

と褒めてくれます。主人は5タラントのしもべにも、2タラントのしもべにも、全く同じことばで褒めてくれます。
 しかし、1タラントのしもべは地面に穴を掘って主人の財産を埋めて隠してしまいました。何の投資もせず、商売もせず、何の学びも工夫もしませんでした。1タラントのしもべは何かを考えて工夫することを怠り、何もせずにいました。このしもべは、主人に対して24節以降で、いろいろと言い訳していますが、主人から見れば何もしないしもべは、悪いなまけ者のしもべです。

おわりに
 これから教会総会の資料をお配りして、先ずこの1年間を振り返り、それから今年の大きな課題である会堂問題について考える時を持ちたいと思います。これは大変に難しい問題で、これまで通りの考え方で進めば良いというものではないと思います。ですから、私たちは、どうしたら主が「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言って下さるのかを、私たち自身で考えなければなりません。そのことを考えながら、これからの教会総会に臨むことができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神は私を助けて下さる(2015.1.21 祈り会)

2015-01-22 15:36:13 | 祈り会メッセージ
2015年1月21日祈り会メッセージ
『神は私を助けて下さる』
【詩篇54篇全/Ⅰサムエル23:19~29】

 きょうの祈り会は、予定を変更して詩篇54篇とサムエル記第一23:19~29を開き、「イスラム国」で人質になっているとされる方々のために祈ります。報道によれば、人質の一人の後藤健二さんは、取材ではいつも聖書を持ち歩き、詩篇54:6の「神はわたしを助けてくださる」(新共同訳)を心に刻み込んで仕事をしているとのことです。
 きょうはこの詩篇54篇と、この詩篇の表題にあるサムエル記の神がダビデを窮地から救った箇所を読んでから祈ることで、祈りを深めたいと思います。

詩篇54篇全(新共同訳)
1 指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。

3 神よ、御名によってわたしを救い
  力強い御業によって、わたしを裁いてください。
4 神よ、わたしの祈りを聞き
  この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
5 異邦の者がわたしに逆らって立ち
  暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。 セラ
6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
7 わたしを陥れようとする者に災いを報い
  あなたのまことに従って
  彼らを絶やしてください。
8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ
  恵み深いあなたの御名に感謝します。
9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

 この表題の2節にある「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」というのはサムエル記第一の23章の状況です。次にこの箇所を、交代で読みましょう。

サムエル記第一23:19~29(新改訳)
19 さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。
20 王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。」
21 サウルは言った。「【主】の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。
22 さあ、行って、もっと確かめてくれ。彼がよく足を運ぶ所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。
23 彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたといっしょに行こう。彼がこの地方にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出そう。」
24 こうして彼らはサウルに先立ってジフへ行った。ダビデとその部下はエシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。
25 サウルとその部下がダビデを捜しに出て来たとき、このことがダビデに知らされたので、彼はマオンの荒野の中で、岩のところに下り、そこにとどまった。サウルはこれを聞き、ダビデを追ってマオンの荒野に来た。
26 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来ていたからである。
27 そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」
28 それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。
29 ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。

 こうしてダビデはサウルに捕らわれるピンチから救われました。ペリシテ人が攻め込んで来たために、サウルがダビデを追うことをやめたからですが、主がペリシテ人を動かしてダビデを救って下さったのでしょう。
 今の、神さまがダビデを救って下さったことを思いながら祈るなら、私たちは三位一体の神様とのより深い交わりの中でお祈りできると思います。きょうのこのメッセージの最後にお祈りしますから、私たちは一つになり、霊の一致を保ってお祈りしたいと思います。
 そのお祈りに入る前に、もう一つ述べておきたいことがあります。それは、私たちが1世紀に閉じ込めているイエスの愛弟子を、1世紀から救出する働きを早めなければならないということです。そのための準備を私も急ぎたいと思いますから、そのためにも、是非お祈りいただきたいと思います。

イエスの愛弟子を救出しよう
 いま私は『イエスの愛弟子を救出しよう』という仮の題で原稿を執筆しています。その中で、私たちの何が愛弟子を1世紀に閉じ込めているのかについて考察しています。要因はいくつもあって、それらの要因は互いに絡み合っています。それゆえ何から論じ始めるかが悩ましいのですが、いま書いている原稿では、お配りしたプリントに書いてある(1)の

 旧約聖書 → 新約聖書  (1)

という図式から論じ始めることにしました。
 私たちの多くはこのような図式に囚われているのではないかと思います。この図式に囚われると、古いものはダメだったから新しいものに取り替えたという考え方になってしまいがちであると思います。すると、うっかりすると古い契約がダメな悪い契約だったから良い契約を新しく結び直したという考え方になってしまうかもしれません。
 しかし、ダメで悪かったのは人間の側であり、神が人間に与えた古い契約は悪いものでは全くありませんでした。それなのに、(1)の図式に囚われていると、ダメだったのは契約の方だと思ってしまい、自分たちの罪深さへの認識が深まりません。そればかりか、自分たちは正しい、正義の側に立っているのだという誤った思い込みまでしてしまいます。
 報道によれば、今回、「イスラム国」が日本の首相および日本人に向けて出した声明では、次のように言っているということです。

「日本の首相へ。あなたは『イスラム国』から8500キロ以上離れた場所にいるかもしれないが、あなたは自ら進んで(対『イスラム国』の)十字軍への参加を志願したのだ。あなたは我々の女性と子供たちを殺し、イスラム教徒の家々を破壊するために、1億ドルを得意げに提供したのだ。(後略)」(朝日新聞デジタルより)

 十字軍というのは、ご承知のようにキリスト教国が、中東で強大な勢力を持つに至ったイスラム勢力を攻撃するために編成して派遣した軍隊です。キリスト教国は、自分たちが正義の側にいると思い込んでいました。しかし、それは(1)の図式に基づく考え方です。ヨハネの福音書はそうではなくて(2)の図式を示しています。


旧約聖書 → 新約聖書
旧約聖書
  (2)

 ヨハネの福音書は、古い契約も恵みであり、神の愛がたっぷりと含まれており、新しい契約はその恵みの上にさらに恵みを積み増したものであることを示しています。つまり、古い契約はダメな契約ではなく、ダメであったのは人間のほうでした。(2)の図式は、そんなダメな人間でも、恵みに恵みを積み増す神の大きな愛によって救われることができるのだということを示しています。
 しかし、(1)の図式に囚われているとダメなのは契約で自分たちは正しいと思い込んでしまいます。このような自己中心的な考えに囚われている間は、私たちは互いに愛し合うことはできないでしょう。
 イエスの愛弟子は最後の晩餐でイエスの右隣の席にいて、イエスの「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という言葉を耳元で聞きましたが、私たちが(1)の図式に囚われている限り、愛弟子は1世紀に閉じ込められていますから、私たちは互いに愛し合うことができません。なぜなら(1)の図式ではイエスが永遠の中を生きていることを感じにくいからです。私たちが永遠を感じにくい状態にあるなら、愛弟子も1世紀に閉じ込められています。
 ですから、私たちは(1)の図式の考え方を改めて(2)の図式に移行しなければなりません。この(2)の図式の下では永遠の中にいるイエス・キリストを豊かに感じることができるようになり、そのことによって愛弟子も1世紀から解放されて、私たちは互いに愛し合うことができるようになるでしょう。
 そのための働きを私は早めたいと思いますから、そのためにもお祈りいただけたらと思います。
 それでは、「イスラム国」で人質になっている方々のお祈りしたいと思います。
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1月25日礼拝プログラム

2015-01-22 12:21:31 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

1月25日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

1月 第4聖日礼拝順序

 司  会                矢崎兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花         55
 交  読  詩篇54篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  神なく望みなく       367
 聖  書  マタイ25:14~23
 説  教  『信仰とは何か?が問われている』 小島牧師

 教会総会

 讃 美 ③  キリストにはかえられません 465
 献  金
 感謝祈祷                矢崎姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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心の復興のために(2015.1.18 礼拝)

2015-01-18 22:18:27 | 礼拝メッセージ
2015年1月18日礼拝メッセージ
『心の復興のために』
【Ⅰ列王19:1~8】

はじめに
 阪神淡路大震災が起きてから昨日の1月17日で20年になりました。テレビや新聞の様々な報道を、皆さんもご覧になったことと思います。
 20年前のことは私も鮮明に覚えています。当時、私は静岡市の実家にいました。この時の私は東京の大学への採用が決まったばかりの時期で、新しい勤務に備えて実家で勉強する日々を送っていました。
 地震が起きた時、私は既に布団の中で目を覚ましていて、考え事をしていました。すると、地震の初期微動の小さな揺れを感じました。これは学校の理科の授業で教わることですから皆さんもご存知のことと思いますが、始めの初期微動は縦波のP波によるもので、次に本震の揺れである横波のS波が来ます。P波の方がS波よりも速く進むので、離れた所で地震があった場合には、私たちは先ずP波による初期微動を感じて、次にS波による本震を感じます。そして震源が離れていれば離れているほど、P波とS波の到達時刻の差は大きくなります。
 さて、20年前の1月17日の朝、私は布団の中で先ず初期微動を感じましたので、その次に来るはずの本震の揺れを待ち構えました。しかし、なかなか次の揺れが来ませんでした。そのことを不審に思いながら警戒を解きかけた時に、大きな揺れを感じました。静岡の実家でも震度2から3ぐらいの揺れがありましたから、それなりに大きな揺れでした。それで私は遠く離れた場所で大きな地震があったなと、すぐにわかりました。P波とS波の間の間隔が長かったということは地震は遠くで起きたということです。そして遠くで起きた地震にも関わらず、かなり揺れたということは震源においては相当に強い揺れがあったことを意味します。
 それで私はすぐに布団を抜け出して、茶の間に行き、テレビを付けました。そして、関西方面で大きな地震があったことを知りましたが、最初のうちは被害の状況はほとんど報じられていませんでした。最初のうちは京都で震度5の揺れがあり、墓石が倒れたということが報じられており、神戸の状況は全く報じられていませんでした。しかし明るくなるに連れて神戸の様子が次第に明らかになり、7時台のニュースでは高速道路が横倒しになっている状況などがテレビの画面に映し出されて、大変なことが起きたことを知りました。そして、それ以降のことは皆さんも良くご存知の通りです。
 その大きな被害があった阪神淡路地区の街も、震災からわずか数年の間で概ね復興して、そこで大震災があったことなどわからないようになりました。しかし、テレビや新聞が報じられている通り、心の復興が進んでいない方々は、20年経った今もなお数多くおられるということです。歳月が流れれば悲しみや苦しみは薄れて行くなどということは全くなく、むしろ悲しみは増しているという方もおられるということです。
 牧師である私は、キリスト教の聖書の神様がこのような悲しみの中にある方々に力を与えて下さる方であることを良く知っていますから、キリスト教の聖書の神様への信仰がもっと広まるように、努力しなければならないと思わされています。ただし、このキリスト教の聖書の神様への深い信仰は、たとえ洗礼を受けたクリスチャンであったとしても、持つに至っていない人々が多いことも私はある程度知っていますから、聖書を知らない方々への伝道の働きをする一方で、既に洗礼を受けているクリスチャンへも、もっと頑張って訴えて行かなければならないと決意を新たにしているところです。

クリスチャンの信仰の三分類
 キリスト教の聖書の神様への信仰とは、御父・御子・聖霊の三位一体の神様への信仰です。私たちは聖霊の働きによって御父と御子との交わりに入れられるなら、神様からの分厚い恵みをいただくことができ、決して倒れることのない重心の低い信仰を確立することができます。しかし、クリスチャンの多くは御子イエス・キリストへの信仰に偏っています。
 御父・御子・聖霊の三位一体の神に心を寄せるのではなく、単に紀元30年頃のイエス・キリストに心を寄せるだけであるなら、それは重心が高い倒れやすい信仰であると言えるでしょう。そしてクリスチャンの多くは、それは日本人のクリスチャンであっても、他の国のクリスチャンであっても同じだと思いますが、倒れた信仰を信仰だと思い込んで持ち続けているように感じています。
 ここで私は洗礼を受けたクリスチャンの信仰を①倒れた卵と②立っている卵と、③決して倒れないダルマの三種類に例えてみたいと思います。
 ①番の倒れた卵というのは、普通のクリスチャンの信仰で、それは紀元30年頃のイエス・キリストにのみ心を寄せるクリスチャンです。その場合、霊的にはまだまだ十分に覚醒しておらず、霊的にはまだまだ半分は眠った状態にあるクリスチャンです。私は、日本のクリスチャンであっても、他の国のクリスチャンであっても、霊的に十分に目覚めていない倒れた卵のような人がクリスチャンの大半を占めているのではないかという気がしています。
 一方、中には霊的にハッキリと目覚めているクリスチャンもいます。しかし、そのクリスチャンがもし紀元30年頃のイエス・キリストにのみ心を通わせているのであれば、それは立っている卵のようなものだと言えるでしょう。卵を立てるのは、非常に難しいことです。でも、立てようと努力すれば立たないことはありません。キリスト教の牧師には、案外このような立っている卵のタイプが多いのかもしれません。そして、信徒にも卵を立てるような信仰を求める牧師もいることでしょう。けれども卵を立てることは簡単なことではありませんし、立てた後にも倒れないようにするには、様々な努力が要ります。このことに疲れて倒れてしまうクリスチャンもいます。そうして倒れたクリスチャンの霊性は、再び半分眠った状態に戻ってしまうことでしょう。
 さてしかし、キリスト教の本当の信仰は御父・御子・聖霊の三位一体の神への信仰であって、この三位一体の神との霊的な交わりの中にしっかりと入れられているなら、それは決して倒れないダルマのような信仰です。きょうの聖書交読で読んだヨハネの手紙第一は、このような霊的な交わりの中に私たちを招いています。1章の3節と4節をお読みします。

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 このような聖霊の働きによって御父と御子との交わりを持つ三位一体の神への信仰を持つなら、それは霊的にいつでも覚醒している、ダルマのような決して倒れない信仰です。たとえ世的な思い悩みに激しく揺さぶれることがあっても霊性が保たれて、決して眠ることのない信仰です。

卵の立つ話
 この卵とダルマの例えを、今度は週報のp.3の図を使って、さらに詳しく説明したいと思います。この図は、私が中学1年生の時に使っていた国語の教科書に載っていた中谷宇吉郎の「卵の立つ話」という随筆に載っていたものです。この「卵の立つ話」は中谷宇吉郎の「立春の卵」という随筆を、中学生向けにもう少し簡単にしたものです。中谷宇吉郎は世界で初めて雪の結晶を実験装置の中で人工的に作ることに成功した有名な科学者ですから、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。中谷先生は、この実験装置で気温や湿度などの実験条件を変えると雪の結晶の形も様々に変わることを見出し、天然の雪の結晶を見れば上空の大気の状態がわかるようになりました。それで中谷先生は、「雪は天から送られた手紙である」という有名な言葉を残しました。



 さて、この「卵の立つ話」というのは、立春の日には卵が立つというような迷信のような話を科学的に検証した文章で、中谷先生は卵は立春の日でなくても、いつでも立つものなのだということを分かりやすく説明しています。週報のp.3の図は、この「卵の立つ話」の中で、そもそも物が立つとか倒れるとかいうのは、どういうことなのかを説明した図です。この図でGは重心の位置を表しています。物体に掛かる重力は単純化すると、重心のGから下りる垂線で表すことができます。一方、物体が置いてある机の板からは、物体が載っている地点に上向きの力が働いて物体を支えています。なぜ上向きの力かと言うと、机の板が例えばスポンジのような柔らかいものだったら、へこんでしまいますね。そのようにへこんでしまわないように、机の板には上向きの力が働いています。さて、これらのGからの下向きの力と机の板からの上向きの力との関係が第1図のbのような関係にあるなら、物体が傾いても復元する方向に力が働きます。しかし、物体の傾きの角度が大きくなってcのような関係になるなら、物体は倒れてしまいます。ですから、第2図のaのように物体の底の面の面積、すなわち底面積が狭い物体の場合は、少し傾けただけでも重心のGから下に下ろした垂線が底の面からはずれてしまいますから、簡単に倒れてしまいます。一方、bのように底面積が広ければ、かなり傾けなければ重心のGから下ろした垂線が底の面からはずれませんから、簡単には倒れません。
 さて卵の場合には、卵の殻の表面がザラザラしていて小さな突起がたくさんある構造になっています。この小さな突起の三つが三脚のような働きをしますから、一応立たせることは可能です。しかし、小さな三脚が作る三角形の面積は非常に狭いので、重心のGから下ろした垂線が小さな三脚の中を通るようにすることは、とても難しいことです。それで昔は卵は立たないものであると思い込まれていて、「コロンブスの卵」などという言葉もそこから生まれたわけですが、実は卵も重心のGから下ろした垂線が、卵の殻のザラザラの三つの突起の中を通るなら立たせることができるのです。

決して倒れない三位一体の神への信仰
 キリスト教の信仰で、もし紀元30年頃のイエス・キリストだけに心を寄せているなら、それは卵を立たせるようなものだと私は先ほど言いました。それは紀元30年頃のイエスというのは卵の殻のザラザラの突起が作る小さな三脚のようなものだという意味です。もし卵の重心から下ろした垂線がこの狭い三角形の中を通らないなら卵は倒れてしまい、その人は霊的には眠ったような状態にとどまってしまいます。クリスチャンの数は世界的に見れば、かなりの数がいます。それなのにクリスチャンの霊性の大半が眠ったような状態にあるのは、一般に広まっているキリスト教が、卵を立たせることを要求しているような形になっているからだと私は言いたいと思います。
 一般に広まっているキリスト教は紀元30年頃のイエス・キリストへの信仰に偏っているように思います。旧約聖書を学ぶとしても、それはイエス・キリストを理解する上での基礎知識のような扱いになっていると思います。しかし、イエス・キリストは御父と聖霊と共に三位一体の神として永遠の中を生きているお方です。この三位一体の神への信仰を持つなら第3図のダルマのように、どんなに傾いても決して倒れることはない、霊的に目覚めた信仰を持つことができます。ダルマというのは底のほうに重りが入っていて、重心が下にあるのですね。そしてなおかつ底面が丸くなっていますから、どんなに傾けても霊的に眠った状態にはならずに、立って起きている状態に戻ることができます。このような信仰を持つ人は、大きな災害に巻き込まれて一時的に心が激しく動揺することがあったとしても、やがて復興することができるでしょう。三位一体の神に心を寄せて霊的にいつも起きた状態でいられるなら、天の神様との霊的なつながりを保つことができて、決して倒れることはありません。

弱りきっていたエリヤ
 では、御父と御子と聖霊の三位一体の神との交わりを持つ信仰について、今度は列王記第一19章の預言者エリヤの記事を見ながら思いを巡らしてみたいと思います。
 この場面での預言者エリヤは弱りきっています。この直前の18章ではエリヤは派手な立ち回りを演じていました。全イスラエルの前でバアルの預言者450人との対決に勝利しました。しかし、アハブ王の妻のイゼベルは、このことに少しもひるまずに、却ってエリヤを殺すというメッセージを使者を使ってエリヤに伝えました。2節ですね。

「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

 このイゼベルの言葉にエリヤは震え上がりました。この直前のバアルの預言者との対決で力を出し尽くして燃え尽きたようになっていたのだろう、とも言われています。そこでエリヤは逃げることにしました。3節と4節、

19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
19:4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「【主】よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

 エリヤは、このように、すっかり弱りきっていました。その時、主の御使いが現れました。5節から8節まで、

19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
19:7 それから、【主】の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。
19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

 エリヤは御使いから与えられた食べ物で力を得ることができました。そうしてエリヤは、神の山ホレブに着きました。この神の山ホレブは、かつてモーセがまだ羊飼いをしていた時に柴が燃えている光景を見に近づいて行った時に、神から声を掛けられた場所ですね(出エジプト記3章)。このホレブ山で主はエリヤに声を掛けました。9節以降に主とエリヤがどのような会話を交わしたかが、書いてあります。きょうは簡単にしか見ませんから、是非皆さんのお一人お一人で、後でじっくりと味わってみていただきたいと思います。

泣き言には取り合わない主
 9節で主がエリヤに「ここで何をしている」と聞いたので、エリヤは主に泣き言を言いました。それに対する主の答えは11節の「外に出て、山の上で主の前に立て」という短いものでした。そして13節で、もう一度、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられましたから、エリヤはまたも14節で泣き言を言いました。すると、主は「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。・・・」と仰せられました。
 つまり、主はエリヤの泣き言をまともに取り合ってはいません。ただし、決してエリヤを見離しているわけではなくエリヤと共にいて下さっています。このような主の態度は、旧約聖書の他の箇所でも見ることができます。例えばヨブ記でも、泣き言を言うヨブに主はまともに答えることはせずに、もっと遥かに大きなことを仰せられました。そしてイエスさまもまた、そのような傾向がありますね。私たちはここに、御父と御子と聖霊の三位一体の神の姿を見ることができるのではないでしょうか。イエスさまもまた、弟子たちや人々が泣き言を言った時には、そばにいて聞いて下さってはいますが、その泣き言にまともに答えるというよりは、少しはぐらかすような答え方をします。それは、私たちのこの世における泣き言など、神さまから見れば、大したことではないからなのかもしれません。例えば、小さな子が泣きながら親に対して、いかに自分が困った状況にあるかを必死で訴える場合、親はその子が言うことを、一応聞いてはあげますが、あまりまともには取り合いませんね。それは、その子にとっては大変なことでも、親から見ればたいしたことではないことがわかっているからです。私たちの地上における生活では、様々に困難なことがありますが、神さまの目から見れば、実はたいしたことではないのかもしれません。まともに取り合って下さらない神さまは一見すると冷淡なように見えるかもしれませんが、実はそんなことはなく、私たちを決して見捨てることなく、いつも共にいて下さいます。

おわりに
 この三位一体の神さまの愛は、週報p.3の第3図のダルマの重りのように、広くどっしりとしたものです。この広くどっしりとした愛を私たちは旧約聖書と新約聖書の両方から、たっぷりといただくことができます。しかし、クリスチャンの多くは例えばヨハネの福音書に登場するイエスが愛した弟子、すなわち愛弟子を紀元1世紀の人物と思い込んでいるように、イエス・キリストを紀元30年頃の極めて狭い範囲の中に押し込んでしまっています。これでは、なかなか広くどっしりとした三位一体の神の愛の恵みを受け取ることができないでしょう。ですから私は今年は、「イエスの愛弟子を1世紀から救出しよう」というキャンペーンを展開したいと思って、いまそのための準備をしています。
 クリスチャンの多くが広くどっしりとした三位一体の神の愛の恵みを受け取ることができるようになるなら、大震災で大きな悲しみを経験した方々の心の復興のお役に立てるであろうと私は確信しています。それは時間が掛かることかもしれませんが、何としてでも、やり遂げたいと思います。
 来週は教会総会、再来週は聖餐式礼拝になりますから、説教もそのためのメッセージになりますが、2月の8日の礼拝以降、何回かヨブ記の学びをすることを、いま私は示されています。ヨブ記の最後には神さまの大きな話が出て来ます。この大きな話を中心に学び、先ず私たちがダルマのような倒れない信仰を持つことができるようになって行きたいと思います。そのことと同時に地域の方々とも神さまの大きな愛を分かち合うことができるよう、様々に工夫しながら歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神への近づき方を考える(2015.1.14 祈り会)

2015-01-15 17:49:34 | 祈り会メッセージ
2015年1月14日祈り会メッセージ
『神への近づき方を考える』
【出エジプト3:1~6】

はじめに
 今年の祈祷会のメッセージをどのような方針で行っていくのか、一つの書を定めて、講解説教のように進めて行くのか、或いはまた書を定めずに、その都度示された聖書箇所からメッセージを取り次ぐのか、まだハッキリと決まってはいませんが、いま私の中では、モーセから学んでみたいという思いが増して来ています。
 皆さんがよくご存知のように、モーセは80歳の時に、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民を率いてエジプトを脱出させ、約束の地であるカナンまで導いて行く役割を主から仰せ付けられました。それはモーセにとっては、あまりに荷が重いことでしたからモーセは他の人を遣わすように主に訴えました。しかし、結局はその重荷を担うことになり、様々に悩み苦しみながらイスラエルの民を導いて行くことになります。

離陸する飛行機の例え
 いま私たちの教会も、会堂問題という大変に難しい問題を抱えています。これは「行け行けドンドン」で進んで行って良い問題ではないと思います。ある地点まで来たら、進むか引くかの難しい判断をしなければなりません。飛行機に例えるなら、いま私たちは滑走路で加速を始めたところであると言えるでしょう。飛行機が離陸して安全に飛行を続けるためには、十分に加速することが必要です。もしエンジンの調子が悪くて十分な加速が得られていないと判断されるなら、離陸を断念して格納庫に戻り、エンジンを整備し直して出直す必要があります。或いはエンジンを点検した結果、エンジンを良好な状態に回復させることが困難だと判断された場合には、そのまま引退させることになるかもしれません。一番やってはいけないことは、十分に加速できていないのに無理やり離陸させることです。そのような無謀な離陸をした飛行機は墜落する可能性があります。かと言って、判断が遅れて引き返せるポイントを越えてから減速するようでは、滑走路をオーバーランしてやはり、事故につながります。ですから、離陸するか断念するかの判断は、その限界点に達する前に行わなければなりません。
 このようにエンジンに不安がある飛行機を飛ばすことは危険を伴いますから、今までは滑走路に出ずにいました。しかし、会堂の屋根の腐食が思っていた以上に深刻なことがわかりましたから、今の不安な機体でも、もし飛べるようなら飛ぶことにしようというわけで、私たちは滑走路に出て、加速を開始したわけです。これからの数ヶ月間で私たちは、このまま加速を続けて離陸するのか、或いはいったん離陸を断念して格納庫に戻るかの判断をしなければなりません。この判断は大変に難しく、悩ましいものになると思いますから、今年の祈祷会では、悩めるモーセから学んでみようかという思いが今、私の中では増して来ています。

ロイドジョンズの説教
 それで、きょうは出エジプト記の1章と2章は飛ばして、神がモーセに対して語り掛けを始めた3章から見て行きたいと思います。そして私は、この出エジプト記の3章の始めの部分の思い巡らしを始めてから、マーティン・ロイドジョンズの説教集にこの箇所からの説教があったことを思い出しました。それで改めて読んでみて、また新たな思い巡らしの題材をもらったと感じています。それで、きょうのメッセージでは、このロイドジョンズの説教を紹介することを中心に据えたいと思います。私自身の思い巡らしはまだ十分ではありませんから、きょうのところは、私の見解は最後に少しだけ付け加えることにして、きょうはロイドジョンズの説教を紹介することを中心にしたいと思います。
 そのロイドジョンズの説教集とは、『旧約聖書から福音を語る』(中台孝雄訳、いのちのことば社)という本です。この本を読んだことがある方もいると思いますが、たとえ読んだことがあったとしても、改めて思いを巡らしてみることもまた有益ではないかと思います。私自身もこの本は既に過去に2度ほど読んだことがありますが、今回また読み直してみて、思い巡らしをさらに深める必要性を感じていますので、お付き合い願いたいと思います。
 さて今さっき、きょうはロイドジョンズの説教を紹介することを中心とすると宣言しましたから、ここからしばらくはロイドジョンズの説教をそのまま引用することにしたいと思います(p.111~114)。

(引用始め)
 きょうの聖書箇所には、モーセが登場している。彼は、義理の父でありミデヤンの祭司であるイテロの羊を牧していた。モーセはそこで羊飼いとしてのかなりの年月を、正確に言えば四十年間を、過ごしていたのである。その間、ただただ平々凡々たる日常を繰り返していた。羊の群れを連れて、あちらこちらへ、より良い牧草地を求めて行きつ戻りつする。そうした日々の連続であった。羊飼いの生活は、ロマンチックなことやエキサイティングなこととはほど遠い。そうして、まさにこの日も、羊を追ってこの場所までやって来たのである。群れと共に荒野の果て、神の山ホレブに到達したのであった。ここまでは特に驚くべきことはない。どこかの牧草地を食べ尽くし、おそらくはここならば充分な糧を羊に供給できる、と考えたのであろう。モーセはいつもとなんら変わらない気持ちで羊の群れをこの場所まで連れて来た。そこに突然、予想もしないことが起きた。

「主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。『なせ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう』。主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります』と答えた。神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』」(出エジプト3:2~5)

 物語としてはそういうことであるが、ここには、およそ人がクリスチャンになった時に、その人のうちでどんなことが起こるのか、ある側面が実に完璧なまでに示されている。私たちはみな、このモーセのようなものである。日々、世のわずらいごとにかかわっている。変哲もない人々と変哲もない日常を繰り返している。そうして、もし何事も起きなければ、日々の平坦な流れを妨げるような何かが生じなければ、ただただこのままの日々を続けていったことであろう。幾千もの人生の一つにしか過ぎなかったことであろうが、しかし何かが起こる。それにうながされるようにして、いわゆる「宗教」というものに、キリスト教信仰に、そして聖書に、関心を持ち始めるのである。予期せざるものは、病気であるかもしれない。ある意味で病気によってクリスチャンになった、という方は、今晩、ここにも多くおられることであろう。かつてはおよそ何も考えず、何の関心も示さず、生きてきた。どうやらこのまま最後まで行くであろうと思っていた。ところが、病気になる。突然、病の床に伏し、考え始め、こうした事どもに興味を示し始め、回心に導かれるのである。事故がそうした経験のきっかけとなる人もいるであろう。不注意にも突然事故に遭い、人生のすべてが変わってしまう。家族を失い、悲しみに包まれる。仕事に失敗し、不況を迎え、破産する。世界大戦すら経験することもあるだろう。人は幾千ものきっかけによって、こうした事どもを考えるようになるものである。まさにモーセが燃える柴にとらわれたようにして、何の変哲もない午後、あまりにも日常的な営みの真っ最中に、何かが起こるのである。予期しないことが、突然にか、徐々にか(それはどちらでもいいことだ)やって来る。それは、今晩のような集会であるかもしれない。なんだかんだでバタバタした思いで駆けつけて、突然に印象的な世界が語られ、関心が一気に福音に、神のことばに向かわされるのである。
 しかし、悲しいことだが、実際のところは、何かが起こりはするものの、それで回心まで導かれる人は多くはないのである。とらわれはする。考え始めはする。しばし立ち止まって、考慮する。関心を抱く。だが、このすべてが完全なる実りへと進むことはない。実際に救いの経験までは達しない。神を知るには至らない。だからこそ、この疑問が生じるのである。いったい、どこで間違ってしまったのか。
 私(ロイドジョンズ)が思うに、こうした人々のほとんどにとって問題は、生じた出来事に対する態度が間違っていることである。これが失敗の原因と言えるだろう。こうした人々は、自分たちがほんとうには何を必要としているのかがわかっていない。この欠けている部分を教えるのが、まさに今見ている有名な出来事が私たちに提供しようとしている学びである。モーセは当初、おおよそ人がしがちな行動をとった。突然に、予想もしていなかった燃える柴を見た時、モーセはこう思ったのである。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう」。しかし神は、モーセを戒め、ご自身からの指示をお与えになった。神からのメッセージをこうまとめてみることにしよう。もし私たちが、キリストの福音のみが与えることができる祝福をほんとうに知ろうとするならば、好奇に満ちた思いからではなく、服従の思いをもって近づかなければならない、と。モーセは、見てのとおり、好奇心を抱いた。もちろん、普通ではない。印象的な現象が目の前に展開しているのである。「行って、どうなっているのか見てみよう」。そうモーセが思うのは当然である。モーセも私たちとたいして違いはない。興味を引くものがあれば、好奇心は全開になる。そんな気持ちで近づいて行ったのである。その時に神からのメッセージがあった。
(引用終わり)

 説教集からのそのままの引用はここまでにしたいと思います。ロイドジョンズはここで、私たちの多く、そしてモーセも、そもそもの神の福音への近づき方が間違っているのだと説いています。好奇心を持って近づくのではなく、神に服従して聞き従う心を持って近づかなければならないと説いています。
 このロイドジョンズの指摘には、いろいろと考えさせられます。考えてみると、日本でも70年前に戦争が終わった時にキリスト教ブームが起こって多くの人々が教会に押し掛け、洗礼を受けたと聞きます。私の父のその一人です。しかし、それらの人々の多くは結局は教会に定着せずに教会から離れて行きました。それはキリスト教を単に好奇心から学ぼうと思っただけで、神のことばに聞き従おうという思いが無かったからでしょう。私の父などは正にそのような中の一人であったのだろうと思います。

おわりに
 しかし、モーセもまたそうであったように、初めから神のことばに聞き従おうと思って神に近づく人は稀であろうと思います。ほとんどの人が初めは好奇心から近づくのではないかという気がします。私もたまたま高津教会を訪れた最初の日がガラテヤ書の講解説教の初日で、続きを聞きたいという好奇心から通い続けるようになったに過ぎません。ですから、このロイドジョンズの指摘は少々厳しすぎるような気がします。しかし、とても重要なことを含んでいることは確かであり、私たちの伝道のあり方への大切なヒントも隠されていると思いますから、このことについてさらに思いを巡らして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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1月18日礼拝プログラム

2015-01-15 11:02:49 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

1月18日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

1月 第3聖日礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  Ⅰヨハネ1:1~5
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  ガリラヤの風かおる丘で   183
 讃 美 ③  あなたの平和の       485
 聖  書  Ⅰ列王19:1~8
 説  教  『心の復興のために』   小島牧師
 讃 美 ④  たとえば私が        395
 献  金
 感謝祈祷                荒川姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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あなたがたはわたしの友です(2015.1.11 礼拝)

2015-01-12 08:34:33 | 礼拝メッセージ
2015年1月11日礼拝メッセージ
『あなたがたはわたしの友です』
【ヨハネ15:9~14】

はじめに
 これまで年末感謝礼拝、元旦礼拝、新年礼拝と3回続けてヨハネの福音書の最後の晩餐の箇所を開きました。そして今、もうしばらくヨハネの福音書の最後の晩餐でのイエスさまのメッセージに耳を傾けるのも良いかなと感じていますので、きょうも、ヨハネの最後の晩餐の箇所からメッセージを取り次がせていただきます。
 きょうの箇所では、イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしの友です」とおっしゃいました。イエスさまは弟子たちの友である、すなわちイエスさまは私たちの友であるとは、どういうことなのか、このことに思いを巡らしてみたいと思います。

私たちはなぜ互いに愛し合わなければならないか
 先ず、15章の14節から見て行きます。

15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 イエスさまが弟子たちに命じたこととは、12節の戒めのことと考えて良いでしょう。12節でイエスさまは、このようにおっしゃっています。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 この戒めをイエスさまは、何度も繰り返していますね。先週の礼拝でも見た13章34節、

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 それから、きょうの箇所のもう少し後で、もう一度言っています。15章の17節です。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

 イエスさまが、「互いに愛し合いなさい」という戒めを、このように何度も繰り返すということは、この戒めがいかに大切であるかということを、よく物語っていると思います。なぜ、互いに愛し合うことがそれほどまでに大切なのか。それは、ヨハネの手紙第一を読むと、良くわかると思います。ヨハネの手紙第一4章の7節から10節まで、ここは交代で読みましょう(新約聖書p.469)。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 ここでヨハネは、私たちが互いに愛し合わなければならないのは、愛のある者は神を知っており、愛のない者には神はわからないからだ、と言っています。なぜなら神は愛だからです。そして、神さまは、その愛を十字架で示して下さいました。もし私たちが互いに愛し合わないなら、たとえ十字架の愛を知識として知っていたとしても、実際には知らないのと同じことだということになります。

御父と御子と交わる喜び
 ヨハネ15章に戻ります。15章13節、

15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 イエス・キリストはいのちを捨てて、私たちに大きな愛を示して下さいました。私たちは、このイエス・キリストの大きな愛を宣べ伝えて行きたいと思います。
 私たち自身は、イエスさまのような大きな愛を示すことは、なかなかできないでしょう。世の中には、それができる人もいます。駅のホームから線路に転落した人を助けたり、災害の時に自分の命よりも人の命を優先して救助にまわったりすることができる人もいます。そういうことは、なかなかできることではないと思います。しかし、そんな私たちでも、イエス・キリストの愛を宣べ伝えることはできます。それは人の魂を救うことですから、イエスさまも喜んで下さいます。人を教会に導き、もしその人がイエスさまを信じるに至るなら、私たちはイエスさまと共に大きな喜びを分かち合うことができます。
 イエスさまが、「あなたがたはわたしの友です」の中には、様々な意味が込められていると思いますが、きょうは、私たちがイエスさまの友だちとして、イエスさまと共に喜びを分かち合うことの幸いに思いを巡らしたいと思います。
 もう一度、ヨハネの手紙第一を見ましょう。今度は1章の1節から4節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.465)。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 御父と御子との交わりを持つようになることは、大きな喜びです。私たちはこの交わりによって得られる大きな喜びを、もっと多くの方々と分かち合いたいと願っています。そのために、私たちはこの会堂を拠点にして伝道の働きをしています。
 御父と御子との交わりの中に入れていただくことが大きな喜びであることは、きょうの聖書箇所のヨハネ15章にも少し違う表現ですが、書いてあります。行ったり来たりで申し訳ありませんが、9節から11節までを交代で読みましょう。11節はご一緒に読みます。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

友だちはイエスと共に喜ぶ
 御父と御子との交わりの中に入れていただくなら、私たちは喜びで満たされます。私たちは、この地域の方々にも、この交わりの中に入っていただきたいと願っています。そして、もし一人でも魂が救われるなら、私たちはイエスさまと共に喜び合いたいと思います。そのようにイエスさまと一緒に喜び合うことができることが、イエスさまと友だちである、ということです。新約聖書の中で、この「友」はギリシャ語では「φιλοs(フィロス)」です。「フィロス」は「親しい」という意味の形容詞です。「親しい」という形容詞が名詞的に使われていますので「親しい者」となり、それがつまり「友だち」ということになります。この「親しい者」、すなわち「友だち」の意味の「フィロス」は特にルカの福音書で多く使われています。
 最後に、ルカの福音書の15章を見て、きょうのメッセージを閉じたいと思います。ルカ15章の4節から7節までを交代で読みましょう(新約聖書p.146)。

15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

 ここは皆さんのほとんどが良くご存知の箇所だと思いますが、6節に出てくる「友だち」が「フィロス」です。友だちは、いなくなった羊が見つかったことを共に喜び合います。
 私たちも、この友だちのようにイエスさまと共に喜び合える機会がもっともっと増えると良いですね。今までイエスさまのことに全く関心が無かった人が教会に導かれ、そして悔い改めてイエスさまを信じるようになる、その様子を見ることは私たちにとっては大きな喜びです。私たちはもっともっと、その喜びを味わうことができるようになりたいと思います。

おわりに
 そのための拠点となる会堂が、今や老朽化していますから、私たちは新しい会堂を建てたいと願っています。そして私たちはイエスさまの友だちとして、イエスさまがいなくなった羊を救い出して下さった時には、イエスさまと共に盛大に祝いたいと思います。そのような機会がもっと増えることを期待しながら、私たちは伝道の働きを続けて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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神のみことばの分厚い恵み(2015.1.7 祈り会)

2015-01-08 23:00:38 | 祈り会メッセージ
2015年1月7日祈り会メッセージ
『神のみことばの分厚い恵み』
【マタイ25:18、伝道者1:2、詩篇119:81,82、イザヤ40:8、ヨハネ1:14、エペソ3:17~19】

はじめに
 きょうは始めに、きょう引用するみことばを挙げておきたいと思います。全部で6箇所あります。この6箇所以外にも挙げたい箇所がありますが、あまりに多くなり過ぎますから、6つだけにしておきます。前半は私の証しで、後半はみことばの学びですが、前半の証しは後半の学びとも関係していますから、始めにみことばを全部挙げておくことにします。あちこち開くと時間が掛かりますから、聞いていていただければ良いです。

マタイ25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
伝道者1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
詩篇119:81,82 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。
イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
エペソ3:17-19 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

証し
 まず前半は、私のお証しです。
 昨年の12月7日の交換講壇での藤本先生の説教は、ルカの福音書のザアカイの記事の、イエスさまがザアカイに「降りて来なさい」とおっしゃった箇所から学んだということを聞きました。ザアカイは大変に上昇志向の強い人物であったので出世を目指し、そうして取税人のかしらになり、金持ちにもなることができました。そのように上を目指してばかりいたザアカイは人目もはばからずに木の上にも登り、イエスさまがどんな方なのかを見ようとしました。そんなザアカイに対してイエスさまは「降りて来なさい」と言われたのですね。
 考えてみると、私も大変に上昇志向の強い人間です。上昇志向は強いけれども簡単には上に登ることができず、一方、周囲の人々は自分よりも早く上へ行くのであせったり悔しい思いをしたり、そんなことを繰り返していました。そんな風に上を向く必要はないのかもしれませんが、周りに優秀な人がたくさんいるので、刺激を受けて、自然に上を向いてしまうんですね。特に学生時代を過ごした北海道では、大きなことを考えている人たちがいましたから、私も大きなことを考えて、もっと上を目指したいと思っていました。
 また北海道の大学を離れてからは、1年間、アメリカの研究所で研究員をしましたが、そこもまた優秀な人たちがたくさんいましたし、帰国して助手として就職した名古屋の大学にも優秀な若手がたくさんいて、刺激を受けました。昨年のノーベル物理学賞を受賞した天野浩さんも、面識はありませんが、私も天野さんも、まったく同じ時期に名古屋の大学の工学部の助手をしていました。そういう人たちが多くいる環境では、やはり自然と上昇志向になって行きます。しかし、私は33歳の時に、そういう場所から降りることにしました。研究室の教授に付いて行けなくなったので、名古屋の大学を退職することにしました。当時、私は材料工学の研究をしていましたが、教授に付いて行けないという理由で研究の現場を離れるからには、もう材料の世界では生きては行けないだろうと思いました。それで、次の仕事は何をすべきか随分と悩みましたが、悩んだ末に辿り着いた結論が、外国人に日本語を教える日本語教師になることでした。それで、日本語教師になるための勉強を始めました。その時の私は、もう大学からは完全に離れて、町の日本語学校の先生になるつもりでいました。しかし、町の日本語学校にはもうベテランの先生方がたくさんいて、日本語教師になる勉強をしたからと言っても、そう簡単にプロの日本語教師になれるわけではないということを、日本語教師になるための勉強を始めてから、初めて知りました。プロとしてではなく、ボランティアの日本語教師の口ならたくさんありましたが、プロの日本語教師として、その給料だけで生活できる人は非常に少ないということを、日本語教育の勉強を始めてから、初めて知りました。そうこうしているうちに私の無職の期間も1年以上になり、もう日本語教師になるのは、あきらめようと思いました。
 それで前に研究員をしていたアメリカの研究所でまた雇ってもらうことになりました。前に1年間そこで研究をしていた時に、そこそこ良い働きをしましたから、また雇ってくれると言うのですね。それで私は日本語教師の道は断念して、またアメリカに行くことにしました。ところが、研究所の側では雇ってくれることになったのですが、そのための予算の承認がなかなか得られないということでビザの申請もできないでいました。それで何ヶ月間か待機している時に、東京の大学の留学生センターで日本語の教員の募集をしていることを知り、応募したら運良く採用されることになりました。
 そうして私は再び、大学で教員として働くことになりました。この東京の大学もまた優秀というか、頭の良さで言えば、かつて私が在籍していた北海道や名古屋の大学のさらに上を行く頭の良い人たちが集まっている所でした。そういう環境にいて刺激を受け、私はまた上を目指すようになって行きました。
 ところがそんな私に神様は降りて来るように言って下さったのだと思います。私は大学を辞めて牧師になることになりました。そうして今度こそ、私は下に降りたはずなんですが、そんな私に神様はヨハネの福音書の重大な秘密を教えて下さいました。
 これをどう解釈したら良いのか、私が思うに、神様は私の上昇志向の強いことを利用しようとして牧師として召し出したのではないかという気がします。どういうことかと言うと、ヨハネの福音書には2世紀以降に気付かれていない構造があるなどということは、普通の人では考えたことがないと思います。牧師の世界でも、ほとんどの先生がそうだと思います。アウグスティヌスやルターやウェスレーも気付いていなかったことだなどと言えば、何を傲慢なことを言っているのだという顔をされます。しかし、私はかつて大学で、世界の最先端の研究をしている人たちがたくさんいる環境にいましたから、アウグスティヌスやルターやウェスレーが気付いていないことがあったとしても、ぜんぜんおかしくないと思っています。神様は、そんな環境にいた私を用いようと考えて、私をいったん大学の競争社会から下に降ろして、そうしてヨハネの福音書の重大な秘密を教えて下さったのではないか、そんな気がしています。
 どうして私がこんな証しをすることにしたのか、それは一昨日、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で取り上げられていたウイルス学者が、私が所属していた北海道の大学の剣道部の後輩だったからです。彼は私より9つ年下で、ちょうど私が名古屋の大学の助手をしていた時に、現役の大学生でした。その頃、私は名古屋の大学の剣道部で稽古をしていて、学生とよく稽古をしていましたから、北海道の大学の剣道部の稽古にも夏合宿の時などに参加していました。それで、現役時代の彼とも稽古をしたことが何度かありました(彼のほうが私よりずっと強かったですが)。それで一昨日はテレビで彼がエボラ出血熱のウイルスの研究者として奮闘している姿を見て、私の頑張りは全然足りないなあと思い、刺激を大いに受けました。
 彼の頑張りを見て私が大いに刺激を受けたのは、今回に限って言えば、私がまた上を目指そうという思いになっているのではなく、私は神様から託されているタラントを土に埋めてしまっていると感じたからだと思います。いちおう私はヨハネの福音書についての本の第2弾(第1弾はボツ)を書くべく努力をしているつもりではいますが、疲れればすぐに寝てしまいます。それで、なかなかはかどりません。そういう中で、今回、テレビで後輩の奮闘を見ていて、これではいかんと思い、マタイの福音書の5タラントと2タラントと1タラントのしもべの箇所を示されたというわけです。マタイ25章18節、

マタイ25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 これがたぶん、今年の私のみことばになると思います。当初私は、私個人のみことばは昨年と同じみことばにするつもりでいました。昨年のみことばは、ヨハネ8:32の「真理はあなたがたを自由にします」でした。先日の礼拝メッセージでも話しましたが、私たちは直線的な時間観にあまりに支配されていますから、まだまだ全然自由になれていません。ですから、このための働きを引き続きしなければならないと思い、今年も昨年と同じ、「真理はあなたがたを自由にします」にする予定でいました。
 しかし、一昨日、NHKの番組で剣道部の後輩の頑張りを見て、私はまだまだ頑張りが足りなくて神様に託されたタラントを土の中に埋めているような申し訳ない思いになりました。それゆえ私は、もっと頑張らなければならないと思っています。この頑張りたいという思いは、ザアカイが上を目指すのとは、今回に限って言えば違うのではないかという気がしています。以上が私の個人的な証しです。ここで一曲、賛美歌を挟みます。

<賛美歌>

みことばの恵み
 きょうの前半では、始めに6つのみことばを読みました。一つめは、マタイの福音書からの、「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」(マタイ25:18)で、これは先ほど話した通り、私の頑張りがまだまだ足りないことを示されて、このみことばを今年の私のみことばとしたいという話をしました。
 そして、どう頑張りたいかということを、これからの後半でお伝えできたらと思います。それは、神様のみことばの分厚い恵みを、もっと皆が感じることができるようになるための働きをしなければならないということです。
 神様のみことばの恵みは、信仰を持つ者なら受けることができますが、信仰を持つ者であっても、あまり受けていないと思われる者がいます。その、みことばの恵みを受けていない信仰者の代表のような存在が、私は伝道者の書の伝道者ではないかという気がしています。伝道者は、「空の空。すべては空。」と言いました。このようにすべてが空しいのは、伝道者がみことばへの飢え渇きがほとんど無い(ように見える)ためではないかと思います。伝道者は、この書の中で人間のことばには何度か言及していますが、神のみことばには、一切言及していません。それが空しさの原因ではないかと私には思えます。
 この伝道者と好対照なのが詩篇119篇の詩人です。詩篇119篇は、詩人によるみことばへの愛の告白のような詩です。
 詩篇119篇は、8節ずつが一つのグループになっていて、全部で22のグループがあります。この22という数はヘブル語のアルファベットの数です。そうして、詩篇119篇の最初のグループの1節から8節までは、すべてへブル語の最初の文字のアレフで始まり、2番目のグループの9節から16節まではすべて2番目の文字のベートで始まるという構造になっています。この構造を知っただけで、詩人のみことばへの愛がたっぷりと感じられますが、詩の内容も、みことばへの飢え渇きを強烈に詩ったものです。176ある節の大半からみことばへの愛が感じられますが、きょう引用したのは、81節と82節です。

詩篇119:81,82 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。

 この強烈なみことばへの愛が、伝道者の書の伝道者には、どうも感じられないような気がします。それゆえ伝道者は空しいのではないでしょうか。
 さて、このみことばの恵みで幸いなことは、「神のことばは永遠に立つ」ということです。イザヤ書40章8節をお読みします。

イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

 神のことばは永遠に立ちますから、私たち人間はどの時代を生きる者であっても、神様からみことばの恵みを受けることができます。

神の側から見た信仰者との歩み
 そして、ヨハネの福音書は、このことばが神であったと言っています。ヨハネ1章1節でヨハネは、

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と書き、そしてヨハネ1章14節では、

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と書きました。ことばはイエス・キリストという人となって私たちの間に住んで下さいました。そして、それは単に福音書の時代のことだけではありません。そのことは、ヨハネの福音書の構造が教えてくれています。例えば、1章47節にあるイエス・キリストのナタナエルへのことばを見ると、このように書いてあります。1章47節、

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

 この教会では、もう何度も話して来た通り、ここにいるナタナエルとは創世記の時代にいるヤコブのことです。つまりイエスさまは創世記の時代のヤコブと福音書の時代のナタナエルの両方と、同時に共にいることになります。私たち人間の側から見ると、遥か昔の創世記の時代にイエスさまがヤコブと共にいて、それからまた、ずっと後の時代になって、今度は福音書の時代においてナタナエルと共にいる、というように見えます。しかし、イエスさまの側から見れば、イエスさまは、ヤコブともナタナエルとも同時にいることになります。つまりヤコブとナタナエルは縦につながっているのではなくて、横並びになっています。もし私たちが御父と御子との親しい交わりの中に入れていただくことができるようになるなら、そのようなイエスさまの側からの時代の見方ができるようになります。それがヨハネの永遠観を身に付けるということです。
 人間の側の直線的な時間観で神が共におられるということを見ると、アブラハムの時代があって、その次にイサク、その次にヤコブ、その次にヨセフというふうに縦にしか、つながって行きません。それら全ての信仰者と神様は共におられるとい言っても、縦につながっているのであれば神様の恵みは細い線でしかありません。これではあまりに細い恵みしか私たちは受け取ることができません。
 しかし、それでも私たちは豊かな恵みを神様からいただいているように感じています。それは恐らく、私たちと同じ時代を生きる教会の兄弟姉妹方がいるからでしょう。私たちは教会でみことばの分かち合いをします。すると、恵みが何重にも重なって素晴らしい恵みをいただくことができます。
 しかし、私たちは同じ時代を生きるクリスチャンからだけではなく、すべての時代を生きる信仰者と共に神の恵みの分かち合いをすることができる、というのがヨハネの福音書の永遠観が示していることです。

人知をはるかに越えたキリストの愛
 神はアブラハムと共に歩みました。そしてモーセとも共に歩みました。ダビデとも共に歩み、ペテロとも、アウグスティヌスとも、ルターとも、ウェスレーとも共に歩み、そして現代の私たちとも共に、すべての者と同時に横並びで歩んで下さっています。そして、そこから注ぎ出される神の愛は、正に人知を遥かに越えた膨大なものです。時間を一本の直線で考えてしまうと神様からの恵みは細いものになってしまいますが、神様からの恵みとは、もっと立体的なものです。エペソ3章の17節から19節までをお読みします。

エペソ3:17-19 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 パウロは、人知を遥かに越えたキリストの愛には広さ・長さ・高さ・深さがあるということを示唆しています。神様の愛とは、そのようにボリュームがあるものです。しかし、私たちが時間を直線で考えてしまっているなら、神様の恵みは、もっとずっとやせ細ったものになってしまいます。

おわりに
 先日の礼拝では「愛弟子を1世紀から救出しよう」という話をしましたが、愛弟子もまた神様の側から見ればアブラハムやモーセやダビデと共に歩んでいる者です。そのようにして愛弟子は神様からの分厚いみことばの恵みを受けているのですから、私たちは、この愛弟子を1世紀から救出しなければなりません。
 この素晴らしく分厚いみことばの恵みを多くの方々と分かち合えるように、皆さんと共に進んで行きたいと願っています。
 一言お祈りさせていただきます。
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1月11日礼拝プログラム

2015-01-08 12:30:32 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

1月11日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

1月 第2聖日礼拝順序

 司  会                矢崎兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  詩篇119:97~112
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  主とともに罪に死に     312
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 聖  書  ヨハネ15:9~15
 説  教  『あなたがたはわたしの友です』小島牧師
 讃 美 ④  いつくしみ深き   432
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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愛弟子を1世紀から救出しよう(2015.1.4 新年礼拝)

2015-01-05 09:00:09 | 礼拝メッセージ
2015年1月4日新年礼拝メッセージ
『愛弟子を1世紀から救出しよう』
【ヨハネ13:1、23、34】

はじめに
 今年の私たちの教会は、マルコ9:7の「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」を今年の聖句として1年間の歩みを始めることにするという話を木曜日の元旦礼拝のメッセージでしました。新会堂を2017年に実現するためには、この2015年、私たちは、かなり具体的な動きをする必要があります。その時に大切なことは、イエスさまの言うことを聞くことです。私たちは何がイエスさまの御心なのかが、さやかに聞こえるように霊性を整えて、御心に聞きしたがって進んで行く必要があります。私たちがイエスさまの言うことを聞いて進んで行くなら、新会堂は必ず与えられるでしょう。
 さてしかし、新会堂の建設は私たちが信仰生活を送って行く上で必要なことではありますが、私たちは新会堂を建設するために信仰生活を送っているわけではありません。私たちが新会堂を必要とするのは、会堂の老朽化で信仰生活を維持できなくなるからです。
 私たちは毎週教会に通うという1週間のリズムの中で、教会とそれぞれの生活の場所において神様との交わりを深め、多くの恵みを神様からいただいています。
 この信仰生活において大きな比率を占めるのが伝道です。私たちは信仰生活の中で素晴らしい恵みを神様からいただいていますから、その恵みを周囲の方々にお伝えしたいと願っています。そして私たちは伝道することによって、さらに、信仰を深めて行くことができます。
 この伝道の仕方にはいろいろな方法があります。牧師に関して言えば、ある牧師は音楽による伝道に力を入れ、ある牧師は若い世代への伝道に力を入れ、ある牧師は地域の外国人への伝道に力を入れ、ある牧師はホームレスの人々への伝道に力を入れ、ある牧師はスポーツによる伝道に力を入れ、ある牧師は学問を深めてそれをわかりやすく人々に伝えることに力を入れ、ある牧師は被災地とのつながりを強化して、その中で信徒を育て、伝道して行くことに力を入れています。このように牧師によって担っている重荷は様々です。
 そして私自身について言えば、私の使命は平和を広く告げ知らせることです。そして私は、この平和の働きを教会の皆さんと共に進めて行きたいと願っています。
 この平和のために働くことも、その働き方にはいろいろとあります。核兵器廃絶のための働きや、憲法9条を守る働きなどもあります。そのような中で私が示されていることはヨハネの福音書を用いて平和のために働くことです。私はヨハネの福音書の永遠観を多くの人々が身に付けるなら、世界は平和に向かって行くだろうと信じています。そして、このヨハネの福音書を用いた平和の働きが、イエス・キリストの教えを広く宣べ伝えることにもつながると信じています。
 そして、そう信じて、ここ何年間か奮闘努力する中で段々とわかって来たことは、私が感じているヨハネの福音書の永遠観は、そう簡単に人にわかってもらえるものではないということでした。私がヨハネの福音書の永遠観を身に付けることができたのは、私がこれまでに読んで来た書物や経験して来た職業、生活して来た地域で思い巡らして来たことなどの様々な蓄積があってできたことです。ですから違う環境で暮らしてきた人々にヨハネの福音書の永遠観を伝えるには相当な工夫が必要です。
 この教会の皆さんには、しつこいぐらい話していますから、ある程度はわかっていただけるようになったと思います。しかし、それでも、まだまだモヤモヤしている方も多いだろうと思います。それで私は、この平和の働きを、もっとわかりやすいものにするには、どうしたら良いだろうかと、常に考えて続けて来ました。そうして今温めているアイデアが、「愛弟子を1世紀から救出しよう」というキャンペーンを展開することです。きょうは、この「愛弟子を1世紀から救出する」とはどういうことかについて説明させていただき、この働きのために皆さんにお祈りに覚えていただきたいと願っています。

愛弟子を1世紀に閉じ込めている私たち
 ヨハネの福音書に登場する愛弟子が、私たち読者のことであるということは、この教会では何度も話して来たことです。この愛弟子、すなわちイエスが愛された弟子は、13章から始まる最後の晩餐の場面ではイエスの隣という特等席に座ってイエスの話を耳元で聞き、19章の十字架の場面ではイエス・キリストの十字架のすぐそばにおり、またヨハネ21章の最後の24節、25節においては、この福音書は愛弟子が書いたものであることが明かされます。
 ヨハネの福音書の1章から12章の構造を理解するなら、イエス・キリストが時代を越えて時間の中を自由に移動していることがわかりますから、イエスが愛された愛弟子もまた時間を越えた存在であることは自然と感じることができるようになります。ですから、ヨハネの福音書の永遠観を身に付けているなら、愛弟子が私たち読者のことであるということは、当然の帰結となります。
 しかし、ヨハネの永遠観に気付いていない人々にとっての愛弟子は、1世紀を生きる弟子であって、まさか21世紀の現代の私たちもまた愛弟子であるとは思っていません。これは愛弟子を1世紀に閉じ込めていることになります。そこで私は、先ずは私たちが愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっている現状を人々に理解してもらい、その愛弟子を1世紀から救出しようというキャンペーンを展開して、その働きによってヨハネの福音書の永遠観を人々に理解してもらう方法を、いま考えています。つまり今までとは逆の順番でヨハネの福音書を宣べ伝えるということです。今までの私は、ヨハネの福音書の永遠観を人々に理解してもらえるなら愛弟子が私たちのことでもあることは自然とわかってもらえると思っていましたから、愛弟子のことをそんなに強調する必要はないと思っていました。しかし、ヨハネの福音書の永遠観を理解してもらうことが容易ではないことがわかりましたから、先ずは愛弟子が1世紀に閉じ込められていることを説明して、そこを入口にしてヨハネの福音書の永遠観を理解してもらおうという作戦です。
 さて、愛弟子とは21世紀の私たちのことでもあるという場合に、一つハッキリさせておかなければならないことがあります。それはヨハネの福音書の場合は意図して未来の読者も視野に入れているということです。このことは、聖書の他の書との大きな違いとして認識しておく必要があると思います。
 例えばパウロの手紙を読む時、私たちはパウロがまるで私たちに宛てて手紙を書いてくれたように感じることがあります。それは正しい読み方であって、聖書とはそのように読むべきものでしょう。しかし、パウロが想定した読者はあくまでも当時の人々です。ローマ人への手紙であれば、当時のローマ教会の信徒に宛てた手紙です。そのローマ人に宛てた手紙を私たちに宛てた手紙として読んでも、もちろん良いのですが、パウロの頭の中にあったのは、当時のローマ教会の人々のことだけです。しかし、ヨハネの福音書の場合は違います。ヨハネはイエス・キリストのことを時間を越えた存在として描いていますから、イエスの愛弟子のこともまた時間を越えた存在として描いています。ヨハネはこの福音書の読者がイエス・キリストの十字架を霊的に目撃することができるように、敢えて十字架の日をマタイ・マルコ・ルカとは別の日に設定しています。ですからもし愛弟子のことを使徒ヨハネであるとか長老ヨハネであるとかラザロであるとか、1世紀中の人物の範囲内だけで考えようとするなら、それは愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっていることになります。

時間を越えた存在のイエス・キリスト
 イエス・キリストが時間を越えた存在であることは、ヨハネが、この福音書の冒頭においてハッキリと宣言していますね。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 イエス・キリストは初めからおられたと、ヨハネは冒頭で宣言しているのですから、この福音書のイエス・キリストを1世紀の人物として限定して読む必要は全くありません。そのことをヨハネは2章においてもハッキリと示しています。
 2章1節にはガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいたことが書かれています。その母に向かってイエスは4節で、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言っています。これは随分と冷たい言い方のように聞こえますが、実はこれもイエス・キリストが時間を越えた存在であることを示しています。イエスの母マリヤは福音書の時代ではイエスの母ですが、旧約聖書の時代や使徒の働きの時代においては、もはやイエスの母ではありません。イエスさまが2章4節で「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言ったのは、この場面ではイエスさまは福音書の時代にはいないのだ、ということを示していると言えるでしょう。
 イエス・キリストが時間を越えた存在であることは、イエスさまご自身も言っていることです。8章56節から59節までをお読みします。

8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

 58節でイエスさまは、アブラハムが生まれる前から自分はいるのだと言いました。イエス・キリストは時間を越えて永遠の中を生きる存在ですから、アブラハムの時代よりも前からいて、なおかつ福音書の時代も生きています。しかし常識的に考えるなら、そんなことは有り得ないわけですから、ユダヤ人たちはイエスさまに石を投げつけようとしました。
 では私たちは、このユダヤ人たちを、どう見るべきでしょうか。もし私たちがヨハネの福音書のイエス・キリストが時間を越えて様々な時代の間を自由に行き来していることを感じ取れていないとしたら、私たちはこのユダヤ人たちと変わらないことになるでしょう。それはイエス・キリストを1世紀に閉じ込めているということです。

イエスの言葉を隣で聴いていた愛弟子
 そして、もしイエス・キリストを1世紀に閉じ込めているとしたら、それは愛弟子をも1世紀に閉じ込めていることになります。私は世界が平和にならないのは、ヨハネの福音書の読者である私たちがイエスの愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっているからだと考えます。それは、イエスさまが弟子たちに対して「互いに愛し合いなさい」と言い、愛弟子はその言葉を自分の耳元で聞いているのに、私たち読者が愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっているから私たちには平和が無いのです。
 その場面を確認しておきたいと思います。木曜日の元旦礼拝でも開きましたが、先ずヨハネ13章の23節、

13:23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。

 愛弟子は最後の晩餐で、イエスさまのすぐ右側の席に着いていました。そうしてイエスさまの言葉を耳元で聞いていました。そしてイエスさまは34節で、弟子たちにこのように言いました。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 最後の晩餐で、この「互いに愛し合いなさい」という言葉をイエスさまの隣の席で聞いた愛弟子とは私たちのことであるという自覚が私たちにあるなら、私たちの世界はもっと平和になるだろうと私は期待しています。それは、愛弟子の自覚を持つということは、ヨハネの福音書の永遠観を身に付けるということだからです。しかし、ヨハネの永遠観が身に付かないなら、愛弟子が私たちのことであると感じるのは難しいかもしれません。それは愛弟子を1世紀に閉じ込めていることです。
 私たちは、この1世紀に閉じ込められている愛弟子を救出する必要があります。そのためには、私たちの何が愛弟子を1世紀に閉じ込めているのかを、しっかりと考える必要があるでしょう。

愛弟子を閉じ込めている直線的な時間観
 では、何が愛弟子を1世紀に閉じ込めてしまっているのでしょうか。イエス・キリストと愛弟子が時間を越えて永遠の中を自由に移動することを阻んでいるのは何なのでしょうか。それは、やはり直線的な時間観だろうと私は考えます。時間を一本の線のようなものであると考えてしまうと、関所を1箇所設けるだけで、もう自由な行き来ができなくなってしまいます。1箇所だけでもつらいのに、私たちは紀元1世紀の両端の2箇所に関所を設けてしまっています。
 まず、紀元前の時代と紀元1世紀の間には大きな関所があって、旧約聖書の時代と新約聖書の時代の間の自由の行き来ができなくなっています。その関所は私たちが設けてしまっているわけです。ヨハネの福音書でイエスさまは「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と言っているのに、私たちの多くはイエスさまは紀元1世紀頃の人だと思い込んでいます。
 そして、もう1箇所の関所は、紀元1世紀の新約聖書の時代と、もはや聖書の時代ではない2世紀以降との間にあります。それゆえイエスの愛弟子は1世紀に閉じ込められてしまっていて、2世紀以降に出て来ることができません。
 時間が直線で表すことができるなどということは、人間の頭脳が考え出したことに過ぎません。その直線的な時間観の典型が新年のカウントダウンと言えるでしょう。日時の経過を直線の上に載せ、日付の変わり目が秒単位で設定されているのは人間が精密な時計を造り出した上で人間が標準時間を定めたからであって、もし人間がそのような標準時を定めていなければ、あと10秒で新年などと言ってカウントダウンをして道頓堀川に飛び込んだりすることはないわけです。日本の標準時は兵庫県の明石市を基準にしていますから、もし純粋に太陽の位置で時刻を定めるなら、大阪は兵庫県よりも少しだけ早く新年を迎えているはずです。それでも、日本中どこでも全く同じ時間に新年を迎えるのは、人間が決まり事として、そのように運用しているからです。人間は、このように人間が決めたことに支配されています。
 時間を直線で考えると時間は随分ときっちりしているように見えますが、時間とは、もっと曖昧なものだと言えるでしょう。人間は時間に縛られていますから、時間が経てば確かに変化は現われます。草は枯れ、花はしぼみ、人間も段々老いて行きます。しかし、人間の場合はせいぜい年単位で老いがわかる程度であって、1日単位でわかるようなものではないでしょう。例えば先月の私と今月の私はどちらが老いているかと言えば、先月の私のほうが疲れていたから、先月のほうがより老いて見えたということもあるわけです。そして、年の取り方は人によって異なります。最近のスポーツ選手では大相撲の旭天鵬やスキー・ジャンプの葛西紀明選手のように40歳を過ぎても現役の第一線で活躍している人々がいます。このような旭天鵬や葛西選手のような人々の時間の経過のし方は、普通の人とは随分と違うようです。私の学生時代の友人でも、学生時代とあまり変わらないうらやましい友人もいます。このように、時間に縛られている人間でさえも、時間の流れ方は一様ではありません。
 まして神様は時間の中を自由に移動できるのですから、時間を直線で表して、聖書の時代もその直線の上に並べるという考え方は、間違った考え方だと思います。聖書の時代を直線に並べる表現というのは、右向きに矢印がある直線の上の、一番左に創世記を置いて、その右側に出エジプト記、そのまた右側にレビ記を書いて、旧約の時代の一番右側にマラキ書があり、さらにその右側には福音書、そして使徒の働きが来る、という並べ方のことです。このように聖書の各書を直線上に並べてしまったら、聖書から受ける恵みは著しく減ってしまいます。

満天の星の光のように受けるべき聖書の恵み
 では、聖書の各書をどのように並べたら、その恵みを存分に受けることができるでしょうか。私は聖書の恵みとは、夜の空の星の光を浴びる恵みのようなものだと考えるようになっています。この教会は海岸の堤防のすぐ近くにありますから、私は星のきれいな夜には、気が向けばすぐに海岸の堤防の上に行って夜空の星を眺めることができます。海岸の堤防の高さは、この地区でだいたい海抜17メートルということですから、松林が邪魔をして夜空の視界をさえぎるということはありません。さらに良いことに、この辺りには高いビルが全くありませんから、ほぼ360度、富士山と愛鷹山の方角を除けば全天にわたって星空を眺めることができます。つまり、全天からの星の光を全身で浴びることができます。これは素晴らしい恵みです。このように全天からの星の光を浴びることができる時に、個々の星座や星にあまりに注目してしまうと、全天からの恵みを受け損なってしまいます。
 聖書の恵みも、全天からの星の光を浴びるようにして、すべての書からの恵みを同時に浴びるなら、素晴らしい恵みを受け取ることができます。そしてヨハネの福音書は、一冊で聖書のほとんどの書からの恵みを受けることができるようになっています。特に13章からの最後の晩餐の場面では、12章までの神の愛の恵みが弟子たちに対して注ぎ出されます。なぜなら1章から11章までは「旧約聖書の時代」と「福音書の時代」と「使徒の働きの時代」が三段に重なる構造になっていますから、そこには神の重厚な愛が存在します。それが12章で一つに合流して凝縮され、13章に流れ込むようになっているからです。
 ヨハネ13章の1節をお読みします。

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

 このイエスが残るところなく示された愛というのは、聖書全体に示されている神の愛です。それが、この最後の晩餐で注ぎ出されます。この膨大な愛は、全天から降り注ぐ星の光に例えることができると私は感じています。ですから、私たちは聖書から注ぎ出される愛の下に身を置いて、ただただ単純に、その恵みを浴びれば良いのです。
 しかし、直線的な時間観に支配されている私たちは聖書の時代を一本の直線上に並べて、なおかつ1世紀の両端に関所を設けてしまって、時代の間の自由な行き来を出来なくしてしまっています。それゆえイエス・キリストも愛弟子も1世紀に閉じ込めてしまっています。ただしイエス・キリストは神の御子ですから、いくら私たちが閉じ込めようとしても、閉じ込められているわけではありません。一方、愛弟子は人間ですから、私たちが閉じ込めてしまえば、そこから抜け出すことはできません。それゆえ、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」と弟子たちに言った言葉には、どれほど膨大な量の神の愛が注ぎ出されていたかを十分に理解できず、私たちはいまだに互いに愛し合うことが十分にできていないのだと思います。

おわりに
 私たちが直線的な時間観に支配されている典型的な例として、新年のカウントダウンを挙げましたが、その他にも、世の中には横軸が時間軸になっているグラフで溢れています。株価の変動のグラフや円安・円高の為替相場の変動のグラフ、気温の変化のグラフ、などなどです。このように、時間の経過を直線に置き換えて考えることに、私たちはあまりに慣れ過ぎているために、愛弟子を1世紀から救出することは容易ではないと思います。
 しかし、私たちが互いに愛し合うことができるようになるために、愛弟子の1世紀からの救出は何としてでもやり遂げなければなりません。この働きを私は、新会堂の実現のための働きと並行して皆さんと行っていきたいと思っていますから、お祈りに覚えていただけたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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彼の言うことを聞きなさい(2015.1.1 元旦礼拝)

2015-01-01 17:08:58 | 礼拝メッセージ
2015年1月1日元旦礼拝メッセージ
『彼の言うことを聞きなさい』
【マルコ9:2~8】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 私たちの教会の今年のみことばは、司会者に読んでいただいた箇所の中から、週報の表紙にも掲げたマルコ9:7の『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい』とします。
 この記事ではイエスさまの御姿が山で変貌したことから、この山は変貌山と呼ばれています。そして、同様の変貌山の記事はマタイの福音書(17:1~8)とルカの福音書(9:28~36)の中にもあります。マルコの変貌山の記事から2015年の聖句を選んだ理由は二つあって、マルコは私たちの教会の聖書を読む会で学んでいる書であるということが一つと、もう一つは、マルコの変貌山の記事にある天の父の言葉が標語として掲げるのにちょうど良い長さだったということがあります。そのような都合から選んだだけのことですので、この場面の解釈にはマルコだけでなくマタイとルカの変貌山の記事も含めて解釈して行くことにします。
 実は、変貌山の箇所は11月30日の幹事会のショートディボーションの時に、マタイの福音書の記事からでしたが、幹事の皆さんと短くご一緒に開いた箇所でした。私は2015年の教会のみことばを昨年の11月から祈り求め始めていました。そして、それとは別に11月30日の幹事会の時のショートディボーションの聖書箇所を祈り求めて変貌山の箇所が与えられた時に、この変貌山での天の父のことばが2015年の教会の聖句にふさわしいと感じました。そして、その後、それ以上の聖句は与えられませんでしたから、この変貌山における天の父のことばを今年の教会の聖句とさせていただくことにしました。
 この聖句から私たちが学びたいことは、文字通り、私たちは「イエス・キリストの言うことを聞かなければならない」ということです。イエスさまの言う通りにして行くなら、私たちは正しい方向に進んで行くことができます。しかし、イエスさまの言うことに聞き従わないで自分勝手な道を行くなら、私たちは誤った方向に進んで行くことになるでしょう。

祈るために山に登ったイエスと弟子たち
 では、マルコの福音書9章の2節から順番に見て行きましょう。まず2節、

9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。

 この時、イエスさまが何のために山に行ったのか、ルカの福音書には、「祈るために山に登られた」(ルカ9:28)と書いてあります。イエスさまは、しばしば人気のない寂しい所に退いて祈っておられたことが福音書には書かれています。祈る場所として、静かな場所を確保することは、とても大切なことですね。
 反対に、祈りに適さない騒がしい場所は、いたるところにありますね。祈りに最も適さない騒がしい場所で私がすぐに思い付くのは、沼津駅の北口にあるBiviの3階のゲームセンターです。私は4階のシネマサンシャインには良く行きます。エスカレーターで4階の映画館に行く時、いつもはただ通り過ぎるだけですが、ある時、早く着き過ぎて映画が始まるまで待ち時間がだいぶあったので、このゲームセンターの中に入ってみました。ここの騒々しさは凄いレベルですね。中に入るとあらゆる方向からゲームの電子音が聞こえて来て、あまりの騒々しさに圧倒されました。でも、恐らくはいつも、ああいう電子音の中にいると、やがてその環境に慣れて行き、騒々しさの中にいることに鈍感になって行くのだろうなと思います。
 神様との親しい交わりを持つには、まずは静寂に慣れ親しむべきです。イエスさまもまた天の父との親しい交わりを持つときには寂しい所に退いておられました。この日ペテロたちを連れて登った山も、そのような寂しい所でした。

御姿が変わったイエス
 そして、そこでイエスさまの御姿が変わったのでした。続いて3節、

9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

 これは面白い表現ですね。2千年前の技術では布地を白くすることは難しかったのでしょうね。現代では漂白する技術が進んでいますから、布をかなり白くすることができます。でもきっと、この時のイエスさまの御衣の白さは、現代の技術でもできないほどの白さであったことでしょう。それは人間の業ではできないことですから、これは神の御業であったということです。4節、

9:4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。

 イエスさまは、なぜこのような姿をペテロたちに見せたのでしょうか。御衣が白くなり、エリヤとモーセと語り合う姿をペテロとヨハネとヤコブとに見せたのは何のためだったのでしょうか。
 この少し前の8章の29節で、イエスさまは弟子たちに尋ねました。

 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 するとペテロが答えて言いました。

 「あなたはキリストです。」

 これは正解ですね。マタイの福音書ではペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えています。恐らくイエスさまは、ペテロの答えが正に正解であることを、この山において目に見える形で示そうとしたのではないかと思います。モーセはエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を救い出しました。またエリヤは、マラキ書に出て来る預言者です。旧約聖書の最後の書のマラキ書の一番おしまいでマラキは、次のように預言しています。

4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

 ですから、この変貌山の上で、モーセとエリヤと語り合っていたイエスさまは正に人々を救うために神に遣わされたキリストでした。ただし、イエスさまは神の御子ですから、モーセとエリヤと同格の預言者ではありません。しかし、ペテロは予期せぬ出来事にあわてていました。5節、

9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

 ペテロは混乱していたのですね。6節、

9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。

 神が現れる時に恐怖を感じるのは、すべての人に共通する反応です。アドベントのメッセージでも見た通り、ザカリヤもそうでしたし、マリヤや羊飼いたちも恐怖を感じました。

弟子たちに対する天の父の声
 そして、きょうのメッセージの中心の聖句の7節、

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

 これは、天の父の声です。この天の父の声はペテロたちに向けられた声なのですね。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、この他にも、もう一箇所だけ天の父の声が聞こえる箇所があります。それは、イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時です。その箇所もご一緒に見ておきましょう。マルコの福音書ですと、1章の9節から11節までです。交代で読みましょう。

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 この場面では天の父は「あなたは、わたしの愛する子」と仰せられました。「あなたは、わたしの愛する子」ですから、この天の父のことばはイエスさまに向けたことばですね。
 もう一度9章に戻ります。この9章7節では、「これは、わたしの愛する子」と仰せられたのですから、ここでは天の父はペテロたちに向かって語り掛けたのですね。これは凄いことだと思います。ザカリヤやマリヤや羊飼いたちには御使いを通して神のことばが伝えられましたが、この場面では天の父はペテロとヨハネとヤコブに直接、話し掛けているようです。そして、天の父は「彼の言うことを聞きなさい」と仰せられました。
 「イエス・キリストの言うことを聞く」、このことの重要性を、私たちの多くは普段から良く認識していると思います。しかし、このことを天の父がペテロたちに直接仰せられていることを知るなら、このことの重みは一層増します。
 そして、私たちは、この天の父のことばである「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」を2015年の私たちの教会の聖句としたいと思います。

イエスの言うことを聞く
 きょうのメッセージの冒頭部分でも言いましたが、イエスさまの言う通りにして行くなら、私たちは正しい方向に進んで行くことができます。しかし、イエスさまの言うことに聞き従わないで自分勝手な道を行くなら、私たちは誤った方向に進んで行くことになるでしょう。
 特に今年の2015年、私たちは会堂問題に向かって進んで行かなければなりません。多額のお金を必要とする大きな取り組みですから、間違った方向に進むわけには行きません。ですから私たちは霊性を整えてイエスさまがおっしゃることに、しっかりと耳を傾けて進んで行かなければなりません。
 先日の年末感謝礼拝では、ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面を開きました。きょうもまた、このヨハネの福音書の最後の晩餐の場面を開いて、イエスさまのおっしゃることに耳を傾けたいと思います。まず、13章の23節を見ましょう。13章23節、

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。」

 イエスさまの右隣には、愛弟子が座っていました。このイエスの愛弟子とは、私たちのことです。この福音書の記者のヨハネは、読者である私たちのためにイエスさまのすぐ隣という特等席を用意してくれました。そして、私たちがイエスさまの話を耳元で聞くことができるようにしてくれました。
 この最後の晩餐でイエスさまはイスカリオテのユダに言いました。27節の後半、

「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」

 そして28節には、このように書いてあります。

「席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。」

 私たちがイエスさまの隣に座る時、私たちは予備知識や先入観をすべて無くして、まっさらな心でイエスさまの言うことを聞くべきでしょう。自分の思い込みを廃して、素直な心でイエスさまの言葉に耳を傾けるべきです。すると、イエスさまのおっしゃることが心に響いて来ます。34節と35節、

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 私たちは世界中の人々と愛し合うべきです。しかし、まずは私たち教会の者同士が互いに愛し合って一つにならなければなりません。そして、私たちが一つになって信仰の道を歩んで行くなら神様は私たちに新しい会堂を与えて下さり、もっと多くの人々が一つになるための働きを私たちが担うことができるよう、用いて下さることでしょう。

イエスにとどまろう
 最後に、15章の1節から5節までを短く見て、きょうのメッセージを閉じたいと思います。1節、

15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

 農夫であるイエスさまの父は、変貌山で弟子たちに「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」と仰せられた父です。この天の父は愛に満ち溢れたお方ですが、厳しいお方でもあります。2節、

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

 イエスさまは、天の父は実を結ばない枝は取り除くとおっしゃいました。私は普段の説教では、厳しい裁きのことについてはあまり語りませんが、イエスさまが十字架に掛かって下さったのは、この厳しい裁きから私たちを救い、命を与えて下さるためです。ですから、この厳しい裁きの話を避けるわけには行きませんね。私たちが伝道の働きをするのも、人々がこの厳しい裁きから救われて命を得るためです。3節、

15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

 イエスさまのことばを信じる者は罪からきよめられます。4節、

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 私たちはイエスさまにとどまっていなければなりません。イエスさまにとどまっていなければ私たちはイエスさまの言うことを聞くことができず、実を結ぶことができません。5節、

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 イエスさまを離れては、私たちは何もすることができません。新会堂の実現ももちろんできません。
 イエスさまがペテロたちを連れて山に登った時、天の父はペテロたちに「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」と仰せられました。もちろんペテロたちだけでなく、私たちもイエスさまの言うことを聞かなければなりません。

おわりに
 イエスさまはぶどうの木で、私たちは枝です。イエスさまの言うことを聞くために私たちは、イエスさまにとどまっていなければなりません。そうして、この地域でイエスさまの教えを宣べ伝えて、多くの実を結ぶことができる私たちでありたいと思います。
 今年の私たちの教会の聖句はマルコ9:7の「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」です。このみことばと共に、2015年をご一緒に歩んで行きましょう。
 お祈りいたしましょう。
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1月4日新年礼拝プログラム

2015-01-01 14:43:35 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

1月4日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

1月 新年礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  とうとき主のみ救いよ      14
 交  読  詩篇98篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  父の神の真実         40
 讃 美 ③  御前につどい        251
 聖  書  ヨハネ13:1、23、34
 説  教  『愛弟子を1世紀から救出しよう』 小島牧師
 讃 美 ④  神はひとり子を        26
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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